ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

快挙!

2010-05-24 | ママ
昨日の夜、ついに10時から朝8時に起こすまで一度も起きずに寝てくれました!!
夢にまでみたこのリズム!!
産まれてはじめての快挙!!
そしてお昼寝もちょっとは泣くものの、添い寝で寝られるまでに!!

いやはやおっぱいの力ってすごいなぁとつくづく関心。
この子は寝ない子だと思っていたが、ちゃんと寝られるんだ。
毎晩10回近く起こされていた日々が嘘のよう。
このリズムを崩さないよう、お昼はいっぱい遊んで、早寝早起き。
またちょっと成長した渉くんです。

そして今日はお友達と家遊び。
いつもばらばらで遊んでいたのに、はじめて仲間遊びをした二人。
あっちの部屋いけば、待って~とばかりに追いかけて二人でキャッキャッ。
滑り台の穴からのぞき合いっこしたり、二人でお布団にごろ~んしたり。
大興奮子供たちの姿にママたちもまた興奮。
あ~成長しているなぁ~。



男の子

2010-05-18 | ママ
実家に帰って以来車の大ファンになった渉くん。
朝から鍵を指差して、道路向かいの車庫まで(無理やり!?)導いていく。
運転席に座っては、ハンドルまわしてご満悦。
ここに座ってとばかりに助手席をばんばん。
車の鍵であっちゃこっちゃの鍵穴に差し込んでは拍手。
なぜ鍵穴のある場所がわかるんだろう・・・その鍵で家は開かないよ・・・

はてさて、帰ってきたら車がないので、どうなるかなぁと思ったが、ないならないで周りの車に。
実家の車と同じ車を見つけたら、にこ~!!!
嬉しそうに駆け足で近寄っていく。
お喜びのところ申し訳ないけど、それうちの車じゃないんだ・・・

おもちゃもミニカーが大好き。
絵本もノンタンから車の絵本に。
あ~男の子だなぁと感じる日々。

どうやら楽しすぎて寝たくない様子。
お昼寝が夕方になったり、しなかったり。
夜はママより寝るのが遅かったり。
またまたリズムがくるっちゃった。。。。
引き続き大人のブレイクタイムはなさそうかな!?
くすん。。




パン生活

2010-05-13 | 料理


自分でパンを焼き出すとパン屋さんに足が遠のく。
一回に少ししか焼けないけれど、焼きたてのパンを食べれる幸せはこの上ない。
まだアツアツのパンを右手に左手に渡しながら半分に割る。
ふぁ~と酵母の香りとドライフルーツのあまずっぱさが湯気と共にひろがってくる。
あ~美味しい。
今日はドライいちじくとクリームチーズのパン。
渉くんにはバナナとカレンツのしっとりクッキーをどうぞ。

<バナナとカレンツのしっとりクッキー>
バナナ 100グラム
はちみつ20グラム
天然酵母生種 20グラム
紅花油 35グラム
国産薄力粉 200グラム
カレンツ 50グラム
塩 少々 

バナナをつぶして粉と塩以外をよくまぜる。
薄力粉と塩、カレンツをいれてさっくりまぜる。
ひとまとめにして、冷蔵庫で一晩発酵させる。
200度予熱で200度12分。

砂糖を使わず、バナナの甘みだけなので子供のおやつにぴったり。



そして今日は母の友達から、カモミールの花とミントを頂いた。
生のお花をそのままハーブティーに。
少し紅茶いれても美味しいとか。
ゆっくり焼きたてパンと共にハーブティーを、と思っていたのに。。。
寝かしつけに失敗。。。
結局お昼寝なしの一日。
渉くん、本当に元気だね。。。


大人と若者

2010-05-13 | パパ
ロシア革命を導いたウラジーミル・レーニンは書いている。
「大衆が黒パンに窮しているときに、わずか少数の人間に甘い美味なビスケットを持ってゆくべきだろうか」と。






今日、新聞をひろげると、定年を迎える教頭先生の言葉に素直に喜べない女子高校生の記事が眼にとまった。教頭先生はあいさつの中で次のように述べる。

「定年後は近くの公共施設で働きますから、また皆さんに会えるかもしれません」

女子高校生は釈然としない。なぜなら、世の中が不況で若者が働く環境を見出せないでいることを身近で感じている立場の人が、自分は軽い作業で高い収入を得られるこれからの近況を、自嘲もせず先行き不安な彼女らに語る無神経さが目に付くからだ。

以前見た番組をふと思い出した。大人を信じれず就職に踏み切れない高校生の男の子が、周りの先生や友達の気配りで、就職を決意しある一つの会社を見つけ、履歴書を送付するのである。でも、いつまでたっても連絡がこない。
そして、その会社に電話をするのだが、書類選考の結果、不採用にしたとのそっけない返事が返ってくるだけだった。
彼は悔しさを隠しながらインタビューに答える。

「それならそれで早く言ってくれればいいのにって言う気持ちですかね。向こうが来てもいいと言ってそれでこっちから送っているのに電話してこなかったから腹が立ちましたね。大体なんかやるのは大人だしその大人のありかた一つで子供にすごい影響がすぐでちゃうんでなんか好きじゃないです。だから自分が成長したときは、そういうことがないようにしていきたい。」

この番組に取り上げられている高校では、家庭が貧しくアルバイトの収入で家計を助け、学校に通いながら就職を見つけていかなければならない環境にある生徒ばかりだ。でも、大人たちは厳しい現実を容赦なく彼女たちに突きつけていく。
甘い考えかもしれないが僕は思う。今すぐに彼女たちを働かせなければならないのかと。そして、彼女らの鼻先に、にんじんをぶら下げて、一方的に評価していけるだけの大人社会に反省する余地はないのかと。学ぶ喜び、そしてどのような立場に置かれても、耐え考え抜く力、現実を想像力によって乗り越えられる視野が彼女らには、面接の練習よりも有意義ではないのかと思う。意識は生活によって決定されるのだから。

今の若者は夢がない、忍耐がないと大人たちは言う。でも僕から言わせると、高度成長時代を経験した大人たちには、本質がないと。そして、自分を見つめる力がないと。彼らと現代の若者との違いは、ものがないかあるかの違いだけだ。そして始末が悪いのは、彼らが学生時代のロマン的な学生闘争と日本を豊かな社会に築き上げたという英雄伝を、家族、共同体を崩壊へと導いた自覚なしに喧伝する節操のなさにおいてである。彼らは食べ過ぎたのである。自分たちが生きていけるに足る以上の未来の若者たちの分まで。現代の若者たちは、親たちにパラサイトしているのではない。先に食べつくされたものを返してもらっているだけなのかもしれない。賞味期限はいささか切れつつあるが・・・。

会社は考えなければならない。自社の社員は何を考えて働いているのかと。そして、それを前提に、これから会社に入ってくる若者たちに理想ではなく現実をぶつけるべきではないか?でなければ、どんな優秀な人間が入ってきても、実態を知って失望するしかない。そういう意味で、僕は働くこと、生きていくことの意味を、個人、夫婦、家族、社会といった多元的なレベルで考え、組織を超えた単独者として新しく社会に入ってくるものに節操をもって接していきたいと願う。それが、大人の礼儀である。








母と子

2010-05-12 | パパ
特別養子縁組によって生まれる家族のドキュメンタリー番組を見た。親が異なる3人の子供を育てた夫婦と養子縁組を結びこれから家族を築いていこうとする夫婦を重ね合わせることで、時間の蓄積が築き上げる家族の深みを見せられた思いがした。
特別養子縁組を仲介するこのNPOは、受け入れを望む夫婦に対して、本当の親の存在を包み隠さず子供に告白することを求める。
NPOの代表は言う。
「隠し通せるならして欲しい。でも隠し通せないでしょう。それは、子供に誠意を尽くすことであって、本人のルーツだから伝えてあげてほしい」と。
しかし、誠意によって築き上げられた家族は、その誠意によって生産的な苦しみを経験していくことになる。
3人の兄弟の長男長女は思春期を向かえ、自分の生い立ちについて考えるようになり、本当の母親に会いたいと思うようになる。
涙を浮かべながら語る少女の姿には、あどけなさと苦悩が複雑に絡み合っているように思えた。

「やっぱり自分のお母さんにあってみたい。なんだろうな。不安なのかな。そばにいてほしいのかな。自分の親がここにいないのに、なぜ他の家はそこにいるのかなって。でも逆に考えると、一人しかいない母親が二人いるのは幸せなのかな。いろいろだね。」

でも長女の思いは一本のNPOの電話によって無残にも引き裂かれる。生みの母親(一般に生みの親には複雑な状況を背負っている者が多く、会うことは難しいようだ。)から会うことを拒否されたのだ。長女は、母親に抱かれながらストレートに悲しみを訴える。母親の複雑な心境を思うと胸が痛くなる。でも、誠意はすべてを洗い流してくれる。そこには母親の姿がある。


一方で、長男のほうも生みの親に会いたいとNPOに申し出る。彼は、生みの親の母子手帳を手に持って、恥ずかしそうに眺めながら悲しそうに答える。

「なんであってみたいのかって聞かれると困っちゃうんだよね。だけど会って見たいんだよね一回。どういう人なのかなって?生んでくれたおっかあだから、おしゃべりなんかしなくても一回だけでも会ってみたい。」

しかし、長男も生みの母親からの返事がこない。でも、長女の気持ちを察してなのか、家族に笑顔を振りまきながら、強くたくましく生きている。

養子縁組を求める夫婦のほうは、NPOの面接を繰り返し受けながら、子供を受け入れるに適正であるかを審査される。
そして、ある日、NPOからある保育施設に赤ちゃんを迎えに言って欲しいとの電話が入る。
「ミルク瓶・・・大き目の・・・」とメモを書き留める夫婦の姿には、子供を授けられた喜びがしみじみと伝わってきた。
しかし、この後、複雑な場をNPOは夫婦に強いる。それは、生みの親と対面し、直接生みの親から赤ちゃんを手渡されるという状況である。まだ幼く見える生みの親はなかなか子を託せない、そしてそれは夫婦にとって忍びない。なぜこんな残酷な試練を与えなければならないのか?
数日後、夫婦と赤ちゃんの3人家族はNPOを訪れる。そして、母親は涙ながらに語る。

「生みの母親は、子供の将来のことを心配して、そしてぜんぶそれだった。それは、ちゃんとやらないとね。・・・ほんとつらいと思うんですよ。私は生んだことはないですけど、こんな可愛い子を手放すのはね。・・・」

僕は甘かった。他人の子を育てるのは並大抵のことではないのだ。この悲しい状況を受け止め、赤ちゃんの中に生みの母親の思いを刻み込む行為、それによって、ほんとうの母親になるのだ。だから、名前も生みの親が付けてくれたものでいい。
ちっぽけなささいな事は、もうどうでもいいように思えた。