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論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

[童蒙訓]―巻上Ⅰ

2018-09-01 08:05:28 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻上Ⅰ
1.学問は当に孝経・論語・中庸・大学・孟子を以て本と為すべく、熟味詳究して然る後に通して之れ詩・書・易・春秋を求めれば、必ず得るところ有り。既に自らの主張と做(な)り得れば、則ち諸子百家も長所として皆吾が用と為らん。
  (訳文)学問は、「孝経」・「論語」・「中庸」・「大学」・「孟子」を中心に熟読詳究し、その後に「詩経」・「書経」・「易経」「春秋」を学び通せば、必ず得るところがある。こうしてこれらを持説の本とすることが出来れば、諸子百家にとってもこれが長所となり、自身の能力として用いることが出来るようになる。
  (注釈)朱子は四書の中で先ず徳学の入門書として「大学」を挙げ、そして「論語」・「孟子」が之に次ぐと説いている。最も理屈っぽい中庸は最後ということになる。ここでは「孝経」が入り、五経の中の「礼記」が抜けているのはどう言うわけだろうか。
.孔子以前は異端未だ起こらず。政ごとに汚隆有りといえども、教えに他説なし。故に詩・書に載るところは、ただ治乱大概を説く。孔子に至りてのち、邪説並び起こる。故の聖人は弟子と共に講学し、皆深切に顕明す。論語・大学・中庸皆究めるべし。その後に孟子も又よく之を推廣し発明すべし。
  (訳文)孔子以前は異端の説は現れず、政治上の盛衰はあったとしても教えの上では他説が入り込むことはなかった。だから「詩経」・「書経」の内容も、治乱興亡の歴史のあらすじを記載するのみである。孔子後は邪説が続々と現れた。故の聖人は弟子と共に勉学に励み、皆誠心誠意を以てその究明に努めた。「論語」・「大学」・「中庸」みな究めるべし。その後に「孟子」もまたよく推考して解明すべし。
  (注釈)孔子が活躍した春秋時代までは堯・舜の聖賢の教え一本だったが、その後春秋末期から戦国時代に掛けて諸子百家が現れ、乱世を乗り切るためのさまざまな思想が各地で一斉に花開く。無為自然を理想とする道家・兼愛説を唱える墨家・法刑を重視する法家など。
3.大程先生の名は顥、字は伯淳、進士を以て官を得る。正献公が中丞となり、これを朝に薦め用いて禦史と為すも新法を論じて合わず罷り去る。泰陵位に即き、宋正丞を以て召すも未だ命を受けず。家にて卒す。その門人共に諡して明道先生と為す。先生は嘗て董仲舒を、「その義を正して、その利を謀らず、その道を明らかにしてその功を計らず」として、聖人に並ぶと為す。仲舒の学の諸子を度越するものはこれを以てす。故に門人らは先生の学の基づくところを以て明道として、その誌(しるし)を表せり。
  (訳文)大程先生、名は顥、字は伯淳、進士に及第して官職に就く。正献公が中丞となり、程顥を朝廷に推薦して禦史とした。しかし時の政府の改革論の新法に反対して、官職を去る。七代哲宗が即位して宋正丞の位を以て召すも、その命を無視。家にて死去。門人達は明道先生と諡した。先生は嘗て董仲舒を称して、「その義を正しくして、その利を謀らず。その道を明らかにして、その功を計らず」と云い、聖人に並ぶ人だと評し、仲舒の学問が諸人に勝る所以はここにあるとした。このことを以て門人達は、これが大程先生の学問の拠り所だとして明道と名付け、その思いを表した。
  (注釈)程顥は北宋の理学の大家。周敦頤を師とし、その性格は温厚で実務にも優れた才能を発揮して、人は「通儒全才」と称賛した。その思想は「誠」を重んじ、「不仁」を憎むと云うものであった。正献公は本中の曾祖父、公著のこと。中丞は御史中丞(監察部署の次官)のこと。禦史は監察官。新法反対とは、王安石の施策に反対したこと。董仲舒は前漢(紀元前の王朝の名)時代の儒学者で、清廉潔白、高徳の人で、学問の窮理に一生を捧げた。泰陵は哲宗の本名、永泰陵のことで、宋人は常に彼を泰陵と称した・
4.小程先生の名は頤、字は正叔、進士に挙がるも殿試に中(あた)らず。再試しするも報われず。元佑の初めに、正献公は司馬温公と共に同薦し、遂に召されて用いられ、禁中に侍講す。旋(めぐ)りて又罷り去る。遂に再び用いられず。紹聖の中ごろ涪州に貶けらる。元符に洛に還える。大観の間に家にて卒す。学者はこれを廣平先生と謂う。後に伊陽に止まり、又これを伊川先生と謂う。二程先生は小(おさな)き頃より刻勵し、明道は要(もと)を推り聖学を以て己の任を為(はた)す。学者は蘼然としてこれに従う。当時これを「二程」と謂えり。
  (訳文)小程先生、名は頤、字は正叔。進士を受験したが殿試の過程で失敗。再度受験するも又失敗。元佑元年に正献公や司馬光の推挙により、天子の侍講となる。やがて朝廷を逐われて去り、ついには再び用いられることはなかった。紹聖年間の中頃に涪州に左遷された。元符年間に洛陽に還る。大観年間に家で死去。学者は彼を廣平先生と呼んだ。後に伊陽に住まいしていたことから、伊川先生とも云う。明道・伊川兄弟の二程先生は、幼少の時から刻苦勉励した。明道先生は基本を重視し、聖学に従うことを己の務めとした。学者はみな彼の学風になびき従った。当時、程兄弟を「二程」と称していた。
  (注釈)程頤は程顥の弟で、兄と同じく北宋の理学の大家。始め兄と共に周敦頤を師としたが、後胡安定(後述)の教えを受ける。その性格は兄とは反対に謹厳すぎ、非妥協的で同僚らとよく軋轢を生じた。朝廷を逐われたのもそこに一因があったようだ。その思想は、兄の素朴な学風とは異なり理詰めで、形而上学的発想の本体の「理」と作用の「気」を関連づけた「理気二元論」や「性即理」などの発想は宋理学の基礎を築くことになる。殿試とは、進士に合格した者を天子が自ら殿中で行う科挙の最終試験のこと。元佑は哲宗朝の元号(1086~1093)。司馬温光は北宋の儒学者で、宰相となり、旧法を復活した。司馬光のほうが有名か。侍講は、天子の君徳養成・啓発のために講義する官職。紹聖も哲宗朝の元号(1094~1098)。涪州は四川省の中の州。大観は北宋八代徽宗朝の元号(1107~1109)。伊陽は河南省の一地方。後半で兄程顥のことが語られているが、ここのところは前章節にまとめた方がすっきりする。ちょっとちぐはぐ。
5.二程は始めに周茂叔先生に仕えて窮理の学を為し、後に更に自ら光(ひろめ)て大と為す。茂叔の名は敦頤、太極図説有りて世に伝う。その辞は約なりと雖も、然るに印を用いた高遠なるところを見るべし。正献公が侍従で在りし時、その名を聞き、努めてこれを薦め、常調により転運判官に除す。茂叔は啓を以て正献公に謝して云う、「薄官に在りて四方の遊有り、高賢にして一日の雅も無し」と。
  (訳文)二程は始め周茂叔先生に師事して窮理の学を修め、後にこれを更に発展させた。周茂祝の名は敦頤、「太極図説」を著してこれを世に伝えた。その説くところは簡約で、図式化したものだが、高遠にして見るべきものがある。正献公が侍従であった時、その名を聞いて彼を強く推挙して、常調に従って転運判官に任官させた。茂叔は上申書を以て正献公に次のように謝意を示した。「私は薄官ではありますが、雅遊に親しむことができます。あなたは高賢の身でありながら、雅遊に親しむ暇もありません。誠に申し訳なく、感謝いたします。」と。
  (注釈)周茂叔は「太極図説」を著し、儒学道統の先駆者として位置づけられている。「太極図説」とは、太極、則ち宇宙の根本を図解し、万物の発展過程を明らかにしたもの。窮理の学とは、物事の道理・法則を明らかにする学問。常調とは、昇進法の一つ。転運とは地方の民政を掌る役職で、判官はそこの属官。雅遊は詩文・書画・音楽などを嗜むこと。
6.張戩天棋と弟載子厚は関中の人にして、関中ではこれを二張と謂う。徳行を苟(なおざり)にせず、一時師表となる。二程の表叔なり。子厚は聖学を推明し、亦た二程により資するもの多し。呂大臨は叔兄弟と興に後来す。蘇昞ら皆この学に従う。学者は子厚を称して横渠先生と為す。天棋は之れ禦史と為るに、正献公の薦めを用(もち)いた。二程と横渠、従学の者既に盛ん。当時亦その学を名付けて張程と為す。
  (訳文)張戩天棋と弟載子厚は陝西省関中の出身。関中では彼らを二張という。徳行を等閑にせず、一時世人の手本となっていた。二程子の叔父である。子厚は儒学を推考究明したが、二程子に教えられる処多大なものがあった。呂大臨と二張は遅れてきたが、蘇昞ら皆程門に学んだ。学者は子厚を称して、横渠先生と呼んだ。天棋は禦史となり、正献公の推薦を受けた。二程と横渠共に従学する者多く、当時その学問を名付けて”張程”と呼んだ。
  (注釈)張戩天棋は、宋史では張載の弟になっている。その性格は老人に尽くし困窮者を助けるなど、誠心誠意人を愛すると云ったものであった。呂公著を助けて王安石の意向に反対し、監察御史から左遷され、地方の県知事となって、現職のまま47歳で没した。その学識については詳らかではないが、二程らとの存養などにに関する論議の記録が散見される。張載子厚は張横渠のこと。その性格は豪快で兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが范仲庵と出会うことにより儒者に転じた。その後甥の二程子の思想に感銘を受け、門人達を二程子に預けたという。地方官を歴任後朝廷に召されたが張戩と同様に王安石の政策に反対して辞職し、晩年は読書と思索に没頭し、78才で没した。その思想は、「易経」・「中庸」を拠り所として、「気」一元論を展開した。また人間性を「気質」と「本然」の両面から観察し、道・仏の二教を排斥して儒教の独立性に努めた。聖学は文字通り聖人の説く学問で、ここでは儒学のこと。呂大臨は呂氏一族の出で、夷簡と同世代で傍系八十八代目に当たる人物。程門の四先生(謝良佐・游酢・楊時と大臨)の一人で、また大忠・大防・大鈞兄弟と共に藍田呂氏四賢とも云われた賢才。蘇昞とは蘇季明のこと。始め横渠に従って学び、後に伊川の処へ来た人。横渠の門人としては、呂大臨に後れを取っていた。
7.榮陽公年二十一(一説では十九)、時に正献公太学に入らしむ。胡先生の席下にありて、伊川先生と斎(へや)を隣る。伊川は榮陽公に長じること才(わずか)に数歳なるも、公は其の議論の大異なるところを察し、首(はい)して師の礼を以てこれに事う。その後楊応之国賣、邢和叔恕左司公待制ら皆師として之を尊ぶ。自後学者は遂(みち)て衆(おお)し。実に榮陽公より之を発す。
  (訳文)榮陽公が二十一歳(一説では十九歳)の時に、正献公が彼を太学に入学させた。胡先生の下で、伊川先生と部屋が隣同士であった。伊川は榮陽公に長じること僅かに数歳であったが、榮陽公は伊川の議論の非凡なことを察し、跪いて師の礼を以て彼に仕えた。その後、楊応之国賣、邢和叔恕左司公待制ら皆、伊川を師として尊んだ。それからは学ぶ者が伊川の本に充ち満ちた。実に之は榮陽公より始まったことである。
  (注釈)太学は紀元前漢朝時代に、官僚養成学校として作られたもので、隋代以後国子監と呼ばれた。胡先生とは胡瑗のことで、安定先生とも呼ばれ、儒学者でその教育方法の特異さで有名。(後述)7歳で文章を書き、13歳で五経に通じ、太学で教鞭を執ると共に明体達用の学や性命説などを唱えて、朱子学の先駆となった。楊応之国賣については後に出てくる。邢和叔恕は、字が和叔。若い頃二程に師事し、進士合格後官人として活躍するが、王安石の新法改革に反対して左遷されたり、また復職したりして過ごす。幼少より多くの書籍に親しみ、また多くに典籍に精通し、古今の事績に詳しく、しばしば立て板に水の如く流ちょうに弁舌を振ったという。戦国時代の縦横家のような気概の持ち主でもあった。また目的のためには手段を選ばぬと云った一面も有り、その為か宋史には姦臣として名を連ねている。近思録存養の中にもその名が見られる。
8.関中に始め申顔なる者あり。特立独行して人皆之を敬う。出行して市を肆(ほしいまま)にし、人皆之が為に起ち、従いて之に化する者衆(おお)し。その後二張が更に大いに学問の淵源を発明す。伊川先生嘗て関中に至り、関中の学者は皆之に従って遊び、恭を致し礼を尽くす。伊川、洛中の学者の及ばざる事を嘆けり。
  (訳文)関中に始め申顔という人が居て、人より抜きん出ていたので人々は彼を敬い、彼は街に出て行き町中を取り仕切っていた。人々は皆彼に奮い立たされて同化する者が多かった。その後二張が更に努力して学問の根源を明らかにした。伊川先生が或る時関中を訪れる事があって、関中の学者は皆彼に従って交遊し、恭意を示し礼儀を尽くして応対した。伊川は、関中の学者に比べて洛陽の学者の愚かさを嘆いたという。
  (注釈)申顔なる人物は後にも出てくるが、詳しいことは解らない。そういう人物から二張も影響を受けたという話であろう。関中は函谷関の西側の地域。洛中は洛陽のこと。
9.伊川先生、嘗(かね)てより楊学士応之の江南に在るを知り、常に称するには「其の偉度高識の人に絶(まさ)ること、遠く甚だし」と。楊学士は是の時猶未だ伊川を師とせず。
  (訳文)伊川先生は、以前から学士の楊応之が江南に住まいしていることを知り、常に彼の偉大な高識ぶりが人にかけ離れた素晴らしいものだと称していた。楊学士はこの時まだ伊川の弟子ではなかった。
  (注釈)江南は長江南岸一帯の地方のこと。
                                        つづく

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「童蒙訓」ー序⑤

2013-03-13 10:34:50 | 童蒙訓

 

[童蒙訓]―序⑤

 作者紹介②

 

  〇92代呂本中(1084~1145、62歳没)、まず本中に直接接触して影響を及ぼした親族との関連を見るために、呂氏家学の系譜と云ったものを作っておこう。

                     呂氏家学系譜

 本中が誕生した神宗朝元豊七年の時、曾祖父公著は67歳で、病気という理由で朝政には参画していなかったが、2年後には宰相となって司馬光と共に旧法復活に努力していた。学者肌の祖父希哲は働き盛りの50歳前後で、後に朱子に影響を与えたと云われる高名な学者楊時と並び称される存在であった。また父は21歳という若さであった。共に直系なので、一つ屋根の下に暮らしていただろうから、互いに色々と影響し合ったに違いない。本中は公著と五年ほど共に暮らしていて非常に可愛がられたようで、大事な幼児の時代に多くの良い刺激を得て育ったと思われる。本中は幼くして俊敏・聡悟の性格であったらしい。誰からも可愛がられたようで、公著の葬儀の席に臨御した摂政宣仁太后が、児童らが集まっているところに歩み寄って本中の頭をなでながら、“孝於親、忠於君、児勉焉。”と声を掛けたという話が伝わっている。祖父希哲は本中のために程頤(伊川)を師に選び、勉学させた。秋霜烈日の気性を持った伊川のことだから、その教えは厳しいものであっただろうし、本中はその薫陶を受けたわけである。少し長じてからは父好問と並び称された道南学者楊時・太学博士や監察御史を歴任した游酢・伊川の弟子で儒学者の尹焞の教えを受けさせた。本中は三師の教えに少しでも疑義があれば、積極的に質問して鵜呑みにするようなことはなかったという。自立心の強い性格だったのだろう。教育の場に父好問の登場がないのだが、曾祖父・祖父共に学識高いものがあってその指導を受けざるを得なかっただろうし、自身まだ若く学識研鑽や官人としての仕事も忙しく、子の教育は祖父や父に委ねざるを得なかったのかもしれない。こんな処から、「童蒙訓」の内容が祖父希哲から聞いた種々の見聞が中心になっていると云うことも頷ける。次に官人としての経歴を見てみよう。

        ・恒例のことだが、まず朝廷に申請して蔭官し、承務郎(従九位)の官位を授かる。呂氏家恒例
          のことだが、公著が亡くなった時
の致仕恩蔭だとすれば、本中は六歳前後にもう官人だった
          こと
になる。
       
・哲宗朝元符年間(1098~1100年、本中15~17歳)には、主済陰簿、秦州士曹掾、辟大名
         府帥司幹官など地方官(?)として
仕事をしていたらしい。
       
・徽宗朝崇寧元年(1102年、本中19歳)、元佑姦党禍で職位を剥奪される。
       
・その後の二十年ほどの消息は不明。
       
・徽宗朝宣和六年(1124年、本中41歳)、枢密院編修官(軍政担当部署の国史編集担当)に
         徐せられる。
       
・欽宗朝靖康元年(1126年、本中43歳)、職方員外郎(地図・貢物などの管理部署の次官)、
         祠部員外郎(祭祀担当部署の次官)
、直秘閣(太宗が集めた貴重書類。書画管理)、崇道觀
         (道家寺
院の主管)などを歴任。
       
・南宋・高宗朝紹興六年(1136年、本中53歳)、進士出身の特賜を受け、起居舎人(天子の
         言動を記録する侍者)、兼權中書舎人
(詔勅を作成する臨時の侍者)など南宋朝で文官として
         活躍。
       
・高宗朝紹興八年(1138年、本中55歳)、中書舎人(正五品上の官位)まで登りつめる。天子
         の侍講、兼權直学士院(天子の顧問
に備えたり、答申したりする役職)など天子の側近くに仕
         えた。
       
・その後、同期の出世頭の宰相秦桧(後世、姦臣と呼ばれた)と意見が合わず、1140年(本中
         57歳)頃職を追われて太平觀(道家寺
院)の管理者となり、余生の五年余りを過ごすことになる。

    さて、元佑党禍に会って祖父希哲は十余年間、父好問と本中は約二十年間政治活動が抑えられて、その間の消息が不明である。もし共に過ごしたとすれば、本中は祖父からじっくりとその知識を吸収しただろうし、呂氏家学の確立にも一役買っただろう。また父の理学家としての識見の吸収にもやぶさかではなかったろうから、後の著作にも大いに役立つ期間であったと思われる。余談になるが呂氏家学については朱子が、"呂氏家は聖賢の家柄でその家法はよしとするが、固執し過ぎているのは良くない。年長者を見れば誰彼となく尊敬して教えを請い、年少者と見ればすぐに己の家学を教えようとする。これでは自分の家学が一番正しいものだと押しつけていることになる“と批判している。

    呂本中の学識の高さを示す話題にも触れておこう。一つは「春秋集解」の撰者のことである。これを呂祖謙の撰とする向きもあるが間違いで、世に東莱先生著という話が通っているので、東莱と云えば祖謙と思うのが一般で、本当のところは本中が大東莱先生、祖謙が小東莱先生と云い、学問の世界では祖謙の方が名を成しているので間違えたらしい。本中は当時学者の間で東莱先生と呼ばれていたが時と共に呼ばれなくなり、詩壇の方でその名が知られ、呂紫微と呼ばれることが多くなったという経緯がある。また本中の「大学」の「解」を朱子が批判したという話も伝わっており、本中の儒学に対する造詣には深いものがあったことは間違いない。

    次に仏教の影響にも触れておかなければならない。祖父の希哲も仏法の知識を吸収していたとの記録があるが、本中も大慧派(禅宗五家の一つ、臨済宗の中の主流派)と密接な関係を持っていたという。朱子は本中の「大学」の「解」は仏教の「看話禅」(公案重視の坐禅流儀)の翻訳だと批評している。本中には後にも触れるが、「戒殺」とか「蔬食」といった詩があり、これらは明らかに仏教の影響を受けていることを示しており、これが本中の学問上の特色の一つだという人もいる。また曹洞宗の真如禅寺の居士(仏の信仰に入った在家)の中に、呂居仁の名が残されたりしている。
    さて今も触れたが、本中は詩人としても名を成し、黄庭堅(文豪蘇軾の弟子で、書家としても有名な江西詩派の創始者)や陳師道(蘇軾の弟子で詩人、江西詩派に属す)に詩を学び、李白・蘇軾を重んじた。その詩は婉麗さが特徴で、しかも南宋朝初期の社会現象を悲憤慷慨するところも有り、中原郷土を詠んだ詩作りに熱中したという。因みに、江西詩派の名付け親は本中自身であるという。次に東莱詩集巻一の出だしの一首を記しておこう。
    題名:暮歩至江上
        客事終輸鸚鵡盃、春愁如接鳳凰臺、
        樹陰不礙帆影過、雨気却随潮信来、
        山似故人堪對飲、花如遺恨不重開、
        雪籬風榭年年事、辜負風光取次回
  僅かだが、宋詞(宋代に流行した楽曲に合わせた韻や平仄などの規格が詩よりも厳しい詞)にも長けていたようで、その中の一首を抜き出しておこう。
      詞牌:採桑子
        恨君不似江樓月、南北東西、南北東西、只有相随無別離。
        恨君卻似江樓月、暫満還虧、暫満還虧、待得團圓又幾時。
    この詞の描写は多くの女性の深い相思の情について、同じ“西江の月”の見方を変えて表現し、恋人を恨むにも“不似”と“卻似”の言葉を使い分け、その比喩は巧妙で斬新であり、又民歌的風味は興味深く、すぐれた作品であるとの評が下されている。
    以上、呂本中は道学家であると共に詩人・詞人であり、また文章家でもあった。その著作には「童蒙訓」を始めとして「春秋集解」・「大学解」・「官箴」・「紫微詩話」・江西詩杜宗派図」・「東莱先生詩集」・「師友淵源録」など多数ある。
    最後に「童蒙訓」自体にも触れておこう。「童蒙訓」は上・中・下三巻からなり、約百七十小節で構成されている。その記するところは正論・格言が多く、ほとんど皆根本的経訓である。政治の道に身を置くものにとっては特に益するところがある。中に登場する人物(申顔・李潜・田腴・張・侯無可など)でその事績史が失われている者も多いので、この「童蒙訓」が参考になる。今は無い朱子の<呂祖謙の書に答える>なる本の中に、“呂本中の「童蒙訓」なる著作は、極論すればかの黄庭堅の仏法語に準拠した詩文に過ぎない”とある。またその他の書にも「童蒙訓」の論詩を引用した諸説が見られるが、これらもその内容自体を見てのことでは無いらしい。故に何らかの作為が働いて取捨選択されて要語のみが残り、旧文は削られて精華のみとなり、どう言うわけか語録に近いものは残り、詩話に類するものは全て削られて、今日の「童蒙訓」の形態になったのではないかという記述もある。作為的に考えると、洛蜀の党人が詞章を軽くして道学を重くし、版を重ねるに従って詞章は無くなり、道学関連のみの今日の形態になったと言えなくもない。南宋の寧宗朝の嘉定乙亥(1215年)、婺州の長官邱壽雋が重ねて校正し、樓が跋を記したのが今回の対象となる「童蒙訓」である。
                                        

                                          序おわり  

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「童蒙訓」ー巻上Ⅰ

2013-03-13 09:32:15 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻上Ⅰ
http://homepage2.nifty.com/tokugitannka-ronngo/

1.学問は当に孝経・論語・中庸・大学・孟子を以て本と為すべく、熟味詳究して然る後に通して之れ詩・書・易・春秋を求めれば、必ず得るところ有り。既に自做の主張を得れば、則ち諸子百家の長所も、皆吾が用と為らん。
  

    (訳文)学問は、「孝経」・「論語」・「中庸」・「大学」・「孟子」を中心に熟読詳究し、その後に「詩経」・「書経」・「易経」「春秋」を学び通せば、必ず得るところがある。こうして持論を展開出来るようになれば、諸子百家の説く長所も皆自分のものにすることが出来る。

    (注釈)朱子は四書の中で先ず徳学の入門書として「大学」を挙げ、そして「論語」・「孟子」が之に次ぐと説いている。最も理屈っぽい中庸は最後ということになる。ここでは「孝経」が入り、五経の中の「礼記」が抜けているのはどう言うわけだろうか。

2.孔子以前は異端未だ起こらず。政ごとに汚隆有りといえども、教えに他説なし。故に詩・書に載るところは、ただ治乱大概を説く。孔子に至りてのち、邪説並び起こる。古えの聖人は弟子と共に講学し、皆深切に顕明す。論語大学中庸皆究めるべし。その後に孟子も又よく之を推廣し発明すべし。

  (訳文)孔子以前は異端の説は現れず、政治上の盛衰はあったとしても教えの上では他説が入り込むことはなかった。だから「詩経」・「書経」の内容も、治乱興亡の歴史のあらすじを記載するのみである。孔子後は邪説が続々と現れた。故の聖人は弟子と共に勉学に励み、皆誠心誠意を以てその究明に努めた。「論語」・「大学」・「中庸」みな究めるべし。その後に「孟子」もまたよく推考して解明すべし。

  (注釈)孔子が活躍した春秋時代までは堯・舜の聖賢の教え一本だったが、その後春秋末期から戦国時代に掛けて諸子百家が現れ、乱世を乗り切るためのさまざまな思想が各地で一斉に花開く。無為自然を理想とする道家・兼愛説を唱える墨家・法刑を重視する法家など。

3.大程先生の名は、字は伯淳、進士を以て官を得る。正献公が中丞となり、これを朝に薦め用いて禦史と為すも新法を論じて合わず罷り去る。泰陵位に即き、宋正丞を以て召すも未だ命を受けず。家にて卒す。その門人共に諡して明道先生と為す。先生は嘗て董仲舒を、「その義を正して、その利を謀らず、その道を明らかにしてその功を計らず」として、聖人に並ぶと為す。仲舒の学の諸子を度越するものはこれを以てす。故に門人らは先生の学の基づくところを以て明道として、その誌(しるし)を表せり。

  (訳文)大程先生、名は、字は伯淳、進士に及第して官職に就く。正献公が中丞となり、程を朝廷に推薦して禦史とした。しかし時の政府の改革論の新法に反対して、官職を去る。七代哲宗が即位して宋正丞の位を以て召すも、その命を無視。家にて死去。門人達は明道先生と諡した。先生は嘗て董仲舒を称して、「その義を正しくして、その利を謀らず。その道を明らかにして、その功を計らず」と云い、聖人に並ぶ人だと評し、仲舒の学問が諸人に勝る所以はここにあるとした。このことを以て門人達は、これが大程先生の学問の拠り所だとして明道と名付け、その思いを表した。

  (注釈)程は北宋の理学の大家。周敦頤を師とし、その性格は温厚で実務にも優れた才能を発揮して、人は「通儒全才」と称賛した。その思想は「誠」を重んじ、「不仁」を憎むと云うものであった。正献公は本中の曾祖父、公著のこと。中丞は御史中丞(監察部署の次官)のこと。禦史は監察官。新法反対とは、王安石の施策に反対したこと。董仲舒は前漢(紀元前の王朝の名)時代の儒学者で、清廉潔白、高徳の人で、学問の窮理に一生を捧げた。泰陵は哲宗の本名、永泰陵のことで、宋人は常に彼を泰陵と称した・

4.小程先生の名は頤、字は正叔、進士に挙がるも殿試に中(あた)らず。再試しするも報われず。元佑の初めに、正献公は司馬温公と共に同薦し、遂に召されて用いられ、禁中に侍講す。旋(めぐ)りて又罷り去る。遂に再び用いられず。紹聖の中ごろ涪州に貶けらる。元符に洛に還える。大観の間に家にて卒す。学者はこれを廣平先生と謂う。後に伊陽に止まり、又これを伊川先生と謂う。二程先生は小(おさな)き頃より刻勵し、明道は要(もと)を推り聖学を以て己の任を為(はた)す。学者は蘼然としてこれに従う。当時これを「二程」と謂えり。

  (訳文)小程先生、名は頤、字は正叔。進士を受験したが殿試の過程で失敗。再度受験するも又失敗。元佑元年に正献公や司馬光の推挙により、天子の侍講となる。やがて朝廷を逐われて去り、ついには再び用いられることはなかった。紹聖年間の中頃に涪州に左遷された。元符年間に洛陽に還る。大観年間に家で死去。学者は彼を廣平先生と呼んだ。後に伊陽に住まいしていたことから、伊川先生とも云う。明道・伊川兄弟の二程先生は、幼少の時から刻苦勉励した。明道先生は基本を重視し、聖学に従うことを己の務めとした。学者はみな彼の学風になびき従った。当時、程兄弟を「二程」と称していた。

  (注釈)程頤は程の弟で、兄と同じく北宋の理学の大家。始め兄と共に周敦頤を師としたが、後胡安定(後述)の教えを受ける。その性格は兄明道とは反対に謹厳すぎ、非妥協的で同僚らとよく軋轢を生じた。朝廷を逐われたのもそこに一因があったようだ。その思想は、兄程の素朴な学風とは異なり理詰めで、形而上学的発想の本体の「理」と作用の「気」を関連づけた「理気二元論」や「性即理」などの発想は宋理学の基礎を築くことになる。殿試とは、進士に合格した者を天子が自ら殿中で行う科挙の最終試験のこと。元佑は哲宗朝の元号(1086~1093)。司馬温光は北宋の儒学者で、宰相となり、旧法を復活した。司馬光のほうが有名か。侍講は、天子の君徳養成・啓発のために講義する官職。紹聖も哲宗朝の元号(1094~1098)。涪州は四川省の中の州。大観は北宋八代徽宗朝の元号(1107~1109)。伊陽は河南省の一地方。後半で兄程のことが語られているが、ここのところは前章節にまとめた方がすっきりする。ちょっとちぐはぐ。

5.二程は始めに周茂叔先生に仕えて窮理の学を為し、後に更に自ら光(ひろめ)て大と為す。茂叔の名は敦頤、太極図説有りて世に伝う。その辞は約なりと雖も、然るに印を用いた高遠なるところを見るべし。正献公が侍従で在りし時、その名を聞き、努めてこれを薦め、常調により転運判官に除す。茂叔は啓を以て正献公に謝して云う、「薄官に在りて四方の遊有り、高賢にして一日の雅も無し」と。

  (訳文)二程は始め周茂叔先生に師事して窮理の学を修め、後にこれを更に発展させた。周茂祝の名は敦頤、「太極図説」を著してこれを世に伝えた。その説くところは簡約で、図式化したものだが、高遠にして見るべきものがある。正献公が侍従であった時、その名を聞いて彼を強く推挙して、常調に従って転運判官へと任官させた。茂叔は上申書を以て正献公に次のように謝意を示した。「私は薄官ではありますが、雅遊に親しむことができます。あなたは高賢の身でありながら、雅遊に親しむ暇もありません。誠に申し訳なく、感謝いたします。」と。

  (注釈)周茂叔は周敦頤のことで、「太極図説」を著し、儒学道統の先駆者として位置づけられている。「太極図説」とは、太極、則ち宇宙の根本を図解し、万物の発展過程を明らかにしたもの。窮理の学とは、物事の道理・法則を明らかにする学問。常調とは、昇進法の一つ。雅遊は詩文・書画・音楽などを嗜むこと。転運とは地方の民政を掌る転運史のことで、判官はそこの属官。

6.張戩天棋と弟載子厚は関中の人にして、関中ではこれを二張と謂う。徳行を苟(なおざり)にせず、一時師表となる。二程の表叔なり。子厚は聖学を推明し、亦た二程により資するもの多し。呂大臨は叔兄弟と興に後来す。蘇ら皆この学に従う。学者は子厚を称して横渠先生と為す。天棋は之れ禦史と為るに、正献公の薦めを用(もち)いた。二程と横渠、従学の者既に盛ん。当時亦その学を名付けて張程と為す。

  (訳文)張戩天棋と弟載子厚は陝西省関中の出身。関中では彼らを二張という。徳行を等閑にせず、一時世人の手本となっていた。二程子の叔父である。子厚は儒学を推考究明したが、二程子に教えられる処多大なものがあった。呂大臨と二張は遅れてきたが、蘇ら皆程門に学んだ。学者は子厚を称して、横渠先生と呼んだ。天棋は禦史となり、正献公の推薦を受けた。二程と横渠共に従学する者多く、当時その学問を名付けて”張程”と呼んだ。

  (注釈)張戩天棋は、宋史では張載の弟になっている。その性格は老人に尽くし困窮者を助けるなど、誠心誠意人を愛すると云ったものであった。呂公著を助けて王安石の意向に反対し、監察御史から左遷され、地方の県知事となって、現職のまま47歳で没した。その学識については詳らかではないが、二程らとの存養などにに関する論議の記録が散見される。張載子厚は張横渠のこと。その性格は豪快で兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが范仲庵と出会うことにより儒者に転じた。その後甥の二程子の思想に感銘を受け、門人達を二程子に預けたという。地方官を歴任後朝廷に召されたが張戩と同様に王安石の政策に反対して辞職し、晩年は読書と思索に没頭し、78才で没した。その思想は、「易経」・「中庸」を拠り所として、「気」一元論を展開した。また人間性を「気質」と「本然」の両面から観察し、道・仏の二教を排斥して儒教の独立性に努めた。聖学は文字通り聖人の説く学問で、ここでは儒学のこと。呂大臨は呂氏一族の出で、夷簡と同世代で傍系八十八代目に当たる人物。程門の四先生(謝良佐・游酢・楊時と大臨)の一人で、また大忠・大防・大鈞兄弟と共に藍田呂氏四賢とも云われた賢才。蘇とは蘇季明のこと。始め横渠に従って学び、後に伊川の処へ来た人。横渠の門人としては、呂大臨に後れを取っていた。

7.榮陽公年二十一(一説では十九)、時に正献公太学に入らしむ。胡先生の席下にありて、伊川先生と斎(へや)を隣る。伊川は榮陽公に長じること才(わずか)に数歳なるも、公は其の議論の大異なるところを察し、首(はい)して師の礼を以てこれに事う。その後楊応之国賣、邢和叔恕左司公待制ら皆師として之を尊ぶ。自後学者は遂(みち)て衆(おお)し。実に榮陽公より之を発す。

  (訳文)榮陽公が二十一歳(一説では十九歳)の時に、正献公が彼を太学に入学させた。胡先生の下で、伊川先生と部屋が隣同士であった。伊川は榮陽公に長じること僅かに数歳であったが、榮陽公は伊川の議論の非凡なことを察し、跪いて師の礼を以て彼に仕えた。その後、楊応之国賣、邢和叔恕左司公待制ら皆、伊川を師として尊んだ。それからは学ぶ者が伊川の本に充ち満ちた。実に之は榮陽公より始まったことである。

  (注釈)太学は紀元前漢朝時代に、官僚養成学校として作られたもので、隋代以後国子監と呼ばれた。胡先生とは胡瑗のことで、安定先生とも呼ばれ、儒学者でその教育方法の特異さで有名。(後述)七歳で文章を書き、十三歳で五経に通じ、太学で教鞭を執ると共に”明体達用の学”や”性命説”などを唱えて、朱子学の先駆となった。楊応之国賣については後に出てくる。邢和叔恕は、字が和叔。若い頃二程に師事し、進士合格後官人として活躍するが、王安石の新法改革に逆らって左遷されたり、また復職したりして過ごす。幼少より多くの書籍に親しみ、また多くの典籍に精通し、古今の事績に詳しく、しばしば立て板に水の如く流ちょうな弁舌を振るったという。戦国時代の縦横家のような気概の持ち主でもあった。また目的のためには手段を選ばぬと云った一面もあったという。「宋史」には姦臣として記録されていたり、近思録存養の中にも触れられている。

8.関中に始め申顔なる者あり。特立独行して人皆之を敬う。出行して市を肆(ほしいまま)にし、人皆之が為に起ち、従いて之に化する者衆(おお)し。その後二張が更に大いに学問の淵源を発明す。伊川先生嘗て関中に至り、関中の学者は皆之に従って遊び、恭を致し礼を尽くす。伊川、洛中の学者の及ばざる事を嘆けり。

  (訳文)関中に始め、申顔という人が居て、人より抜きん出ていたので人々は彼を敬い、彼は街に出て行き町中を取り仕切っていた。人々は皆彼に奮い立たされて同化する者が多かった。その後二張が更に努力して学問の根源を明らかにした。伊川先生が或る時関中を訪れる事があって、関中の学者は皆彼に従って交遊し、恭意を示し礼儀を尽くして応対した。伊川は、関中の学者に比べて洛陽の学者の愚かさを嘆いたという。

  (注釈)申顔なる人物は後にも出てくるが、詳しいことは解らない。そういう人物から二張も影響を受けたという話であろう。関中は函谷関の西側の地域。洛中は洛陽のこと。

9.伊川先生、嘗(かね)てより楊学士応之の江南に在るを知り、常に称するには「其の偉度高識の人に絶(まさ)ること、遠く甚だし」と。楊学士は是の時猶未だ伊川を師とせず。

  (訳文)伊川先生は、以前から学士の楊応之が江南に住まいしていることを知り、常に彼の偉大な高識ぶりが人にかけ離れた素晴らしいものだと称していた。楊学士はこの時まだ伊川の弟子ではなかった。

  (注釈)江南は長江南岸一帯の地方のこと。

                                         つづく

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「童蒙訓」ー巻Ⅸ

2012-11-28 09:26:22 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅸ

74陳瑩中が説くに、「学ぶ者は独り己の為のみに非ず。将に以て人の為にせんとす。王介甫が経を解して自り、止(ただ)高諭を尚(たっと)び、故に学ぶ者に民を棄て物を絶(へだた)らしむ。管仲・晏嬰らは覇者の佐(たすけ)にして一(おなじ)なり。桓公が公子糾を殺すも、管仲は死すること能わず。三歸反坫有りて、官の事は攝(か)ねざること、違禮の極みと謂うべし。崔杼は君を殺し、晏子はその間に従容として、礼を成して後去れば、節有りと謂うべし。然して孔子は之れ晏子を称して則ち曰わく、”善く人と交わる。久しくして之れを敬すのみ”と。管仲を称するに及びて則ち曰わく、”其の仁に如(し)かんや、その仁に如かんや”と。豈に管仲の功は天下に及び、濟(なしと)げし所のものは廣く、而して晏子は独り其の身を善(ただ)すのみを以てせざるや!」と。

  (訳文)陳瑩中が語るには、「学ぶ者はただ自分の為だけに勉学するのではなく、当然人々の為にするものである。王介甫が経書を解釈する様になってからは、高等な学問を尊ぶようになり、それからというもの学ぶ者は一般の人々を顧みなくなり、世事の出来事などは見向きもしなくなった。管仲や晏嬰は春秋時代の覇者の補佐役として同じ立場にあった。桓公が公子紂を殺した時、管仲は殉死をしなかったし、多くの妻を持ったり、諸侯が使う調度品を備えたり、また多くの家臣を抱えるなど身分不相応な振る舞いがあり、その態度は非礼極まりないものであった。崔杼も主君を殺すという大罪を犯したが、晏子は同じ時代にゆったりと構え、礼節を守って一生を過ごしたことは、真に節度のある振る舞いであった。そこで孔子は、“晏子は立派に人々と交わり、旧知の間柄であっても変わりなく相手を尊敬し続けた”と云っている。また管仲については、“殉死しなかったことは小さな事で、彼の仁徳には誰も遠く及ぶまい”と感嘆しきりに語っている。管仲の功績は天下に及び、其の成果は広いものがあるとか、晏子はただ身を正しただけだとか云って、簡単に片付けてしまうのは好ましくない」と。

  (注釈)王(安石)介甫の解いた「経」とは、前述した<三経新義>のこと。管(夷吾)仲は春秋時代の斉国の宰相で、十六代桓公に仕えてその覇者への道を輔けた。「桓公殺公子紂、管仲不能死」は<論語、憲問>にある言葉。公子紂は管仲が始めに仕えた主君。「有三帰反坫、官事不攝」は<論語、八佾>にある言葉で、孔子が人に管仲の暮らしぶりを尋ねられた時のもの。一方で孔子は、「如其仁、如其仁」とここにある様に、彼の業績を<論語、憲問>の中で褒めている。崔杼は同じ斉の悪名高い宰相で、二十二代景公(桓公の子)、二十四代霊公(景公の孫)、二十五代荘公光、二十六代景公の四代にわたって専権を恣にし、荘公を私的怨みから殺し、後年家内を収められず自殺することになる。斉国の歴史に、「崔杼殺君」と記されたことは先に触れた。晏(嬰)仲は霊公・荘公光・景公三代に仕えた名宰相。「善興人交、久而人敬之」は<論語、公冶長>にある褒め言葉だが、孔子には彼に対する否定的な評もある。孔子が斉に仕官しようとした時に、晏嬰に邪魔された怨みがあるからだと云う説もある。

75又た説くに、「陰陽・災異の説は、儒者が此れを泥(けが)すべからずと雖も、亦た全廃すべからず。王介甫は此を用いず。若し政を為すに介甫の意に依れば、是れ天を畏れざる者なり。(已上は皆紹聖中の語なり)

  (訳文)また語るには、「陰陽や天災地変の話は、儒者にとって触れるべき対象ではないが、全く無視してよいと云うものでもない。王介甫は、これに触れることは無かった。だが若し政治に携わっていながら、彼の様にこの問題を無視すると、天を恐れないことになる」と。(以上は紹聖年間に記述したものである)

  (注釈)<論語、述而>に、「子不語怪力乱神」なる言葉が見られる。

76前邵倅呉朝奉が説くに、「近世の士大夫は太(はなは)だ節操を以て事を為さず」と。因って説くに、「他と興に節を立てよ。一朝一夕に能く為す所に非ずして、蓋し平日之れ養う所に在り」と。他とは甚だ之れ然り。時に李自明が坐に在りて云うに、「此の事は閑事に説くが時に甚だ易く、臨時の時に於いては、執り得るは定めを要するのみ」と。因って言うに、「昔の人は有(また)諫官に自り事を言うを以て、責めを被りし時に判国子監を兼ねれば、乃ち諸生と興に往きて賀す。蓋し嘉祐以前は、事を言うを以て責めを被るを滎と為せり。既に顔色を見て惨沮し、殆ど説話すること能わず。昔の人は尚此くの如くして、他人は未だ能く易(か)えず」と。呉が因って言うに、「自らは書を読むこと小(すく)なく、得るに工夫を用いて正さず。当に節を立てるは素養に非ずして能わず。若し学を得て正さざれば、則ち養う所亦非ざるなり」と。

  (訳文)前邵倅呉朝奉が語るには、「近頃の士大夫はまったく節操も無いままに、物事を処理している」と。そして語り続けるには、「人々と一緒になって節操を貫くが良い。それは一朝一夕に為しうるものでは無いが、日々その修養に努めるが良い」と。共に行うと言うことは非常に良いことだ。ある時、李自明が同席していて語るには、「此の事は余裕がある時にするのが、場合によっては大変改めやすい。事件が起きてからでは、取り得る策は決まりを守るだけと云うことに為りかねない」と。続けて語るには、「昔の人は諫官となって其の務めを果たした結果、咎めを受けたとしても判国子監を兼務していたので、学生らと共に務めを果たし得たことを喜び合ったものだ。まさに、仁宗朝の嘉祐年間までは、諫言して咎めを受けてもそれを栄誉としたものだ。やがては、相手の顔色を覗って、惨めにも気力を失い、全く口もきけないという有様になってしまった。昔の人はこのように節操を堅持していたが、今では私を除く人々は何にも変わっていない有様だ」と。呉が語り次いで言うには、「私は読書を余りしないが、工夫を凝らすので正すこともない。確かに節操を貫く為に必要なのは素養ではなく、それだけでは解決しない。若し知識を得ても正さなければ、結局節操を養う處ではなくなる」と。

  (注釈)前邵倅呉朝奉、李自明ともに、詳細不明。年寄りが現状を歎く様子は、昔も今も変わらないようだ。

77陳瑩中が又た説くに、「学ぶ者は止(ただ)語言を読誦し、文詞を撰綴するのみに非ずして、将に以て吾が之れ放心を求めんとするものなり。故に大畜の卦に曰わく、“君子は以て多く前言往行を識りて、以てその徳を蓄ふ”と。謂う所の識者は、其れ是れ非を識るなり。其れ邪正を識るなり。夫れ是くの如ければ、故に能く其の徳を蓄えり。”天は山中に在り“と言う所以のものは、前言往行することは、紀極有ること無ければなり。故に天の象(かたち)を取る」と。

  (訳文)陳瑩中がまた語るには、「学問をする者は、ひたすら読誦し、文章作成に励むというだけでは宜しくない。まさに失いがちな良心を取り戻すことに資するべきだ。だから易経の大畜の卦の象に、“君子は昔の人の言行をよく勉強して、己の仁徳を高めよ”とある。いわゆる識者と称する人は、何が過ちかと言うことをよく知っており、また何が邪悪で何が正しいかということを、よく知っている者だ。だから己の人徳を高めることに、大いに努力するのだ。大畜の象の始めに記されている“天は山中に在り”という言葉は、昔の人の言行には、尽きる處が無いと云う意味だ。だから偉大な天と云う言葉を使ったのだ」と。

  (注釈)ここにある易の言葉は、<易経>の第二十六卦、天山大畜の「象曰:天在山中,大畜;君子以多识前言往行,以畜其」に基づくもの。

78瑩中が説くに、「今人有りて曰わく、“仕宦し顕達する者にして、天下に之れ賢人と謂わしめるは、則ち不可にして、天下に之れ不賢人と謂わしめるは、則ち可とす。天下に之れ賢人と謂わしめるは、是れ自ら其の善を取りて、過ちを其の君に帰すことなり。天下に不賢と謂わしめるは、是れ自ら其の悪を取りて、美(よき)ことを其の君に帰すことなり”」と。曰わく、「是れ然らず。此れ乃ち李斯の分謗の説なり。尽く其の悪名を受けること能わざるも、悪名を君に及ぼさざらしむは、是れ李斯のみ。何ぞ況ん、天下に之れ不賢と謂いて、未だ必ずしも其の君の累を為さずんばあらずや!」と。

  (訳文)瑩中が語るには、「或る人が云っていたが、“仕官して高位に登ると、あの人は賢人だと世間の評判になることがあるが、それは芳しいことではないし、それこそ凡人だと云わせておいた方が、賢明というものだ。賢人だとの評判が立てば、功績は独り占めして過ちを主君に押しつけるということになる。凡人だとの評判が立てば、過ちは自分が背負い功績は主君のものとするということになる”」と。語り続けるには、「これは間違いだ。あの李斯の謗りを分かち合うというのが本当の處だ。悪い評判を全て受け止めることは出来なかったが、主君にその責めを負わせない様にしたのは、独り李斯だけだ。世間に凡人だと云われて、その主君に累を及ぼさなかった者は未だ嘗て居なかったし、そんなことは比較になる話ではない」と。

  (注釈)李斯とは、始皇帝朝を築き上げた功労者であり、焚書坑儒に深く関わった為、後世の評判は良くない。<史記>の中で、道を誤らなければその功績は周公旦の業績にも匹敵すると語られている。分謗なる言葉は、元代の清官で儒学者の張養浩が著した、<三事忠告>の廟堂の章にある「任怨・分謗」が有名だが、これは後の話。ここに出てくる「李斯分謗之説」の出所は解らぬが、古くは<左傳、宣公十二年>の中に、「分謗生民、不亦可乎。」という記述が見られる。「同僚の受けるべき謗り・批判を我が身も分担する」と云うのが本来の意味。

79又た説くに、「范子の思いは知る所を守る所にて、其れ兄に過(まさ)り、范氏の家学は便有りて使う處。

  (訳文)また語るには、「范仲掩の思いは、修得した知識を守り通す處に有って、その点では兄にも勝っていた。范氏に代々伝わる学問には、役立つものがあって、用いる価値がある」と。

  (注釈)范子は前述の范仲掩のこと。兄というのは、范(仲温)伯玉のこと。彼ら兄弟は、范氏一族の族塾を創設した。これを見倣って、南宋以降、一族が族塾を設けることが各地に流行し、後世に大きな影響を与えた。

80又た説くに、「孔子は柔を以て剛を文(かざ)り、故に内に聖徳有りて、外は人と同じなり。孟子は剛を以て剛を文り、故に自ら其の道を信じて、人の為に屈せざるなり。衆人は剛を以て柔を文り、故に色は(はげ)しくして荏(やわらか)なり。却説(さて)、他に楊子の書唯だ是あり、説くに孟子の書に到る。自得は之れ面(かお)に発(あらわ)れ、平坦の気が浩然の気を養うの類の如し。皆自得する處。孔子の則ち自得する處に並ぶは、亦た無し。

  (訳文)また語るには、「孔子は外では物腰を柔らかくして内面の強い意志を隠し、聖徳の志を内に秘めながら外面は衆人と変わらない態度であった。孟子は内面の強い意志をそのまま態度に出して行動し、己の信ずる道を邁進し、世間に屈することは無かった。多くの人は外面を強く見せて、内面の軟弱さを隠すので、顔付きがきつい割には意志が軟弱である。さて他に語りたいのは楊子の書であり、最後には孟子の書に行き着く。自得すれば顔に現れ、平坦の気が浩然の気を涵養するなどの類の話で、皆自得に関係するものである。孔子の自得する處に並ぶ者は居ない」と。

  (注釈)楊子の著書は伝わっていないが、<列氏、楊朱第七篇>や<荘子>などに、その学説が断片的に紹介されている。「平坦の気」とは、<朱子語類>の「夜気の章」に述べられているもので、万象寝静まった時に宇宙に満ち満ちている清澄な気のこと。「浩然の気」は、孟子が唱えた天地から受ける正気のこと。

81又た説くに、「特に誦数を習い、文章を発するのみに非ず。将に以て古人の為す所を学ぶべし。荊公の学が興りて自り、此の道は壊(くず)れたり。

  (訳文)また語るには、「学ぶ者は、特に繰り返し読むことを習得したり、文章を発表したりすることだけに片寄ることは良くない。まず以て昔の人が残した行跡を学習するのが良い。王安石の学問が興ってからというものは、こういう学び方が廃れてしまった」と。

  (注釈)荊公の学とは、前述の王安石の荊公新学のこと。

82又た説くに、「凡そ経を解することを欲すれば、必ず先ず諸れを其の身に反(かえり)みて、而して安んじて之れ天下を措(はから)い而して行うべし。然る後之れ説をなさん。縦(たと)へ未だ聖人の心を尽くすこと能わずとも、亦た庶幾(ちかし)。若し是くの如からずして、辭辯通暢と雖も、亦た未だ鑿(うがつ)こと免れざるなり。今人の語る有りて曰わく、“冬日は水を飲み、夏日は湯を飲む”と。何ぞや?冬日の陰は外に在りて陽は内に在り。陽が内に在れば則ち内は熱く、故に人に水を思(ねが)はしむ。夏日の陽は外に在りて陰は内に在り。陰が内に在れば則ち内は寒く、故に人に湯を思はしむ。甚だ辯(あきらか)なるものとは雖も、其の説を破ること能わず。然して諸れを其の身に反みて安からざれば、之れ天下を措いて行うべからず。嗚呼、学ぶ者は能く是くの如く心を用いん。豈に補う之れ小と曰わんや!」と。

  (訳文)また語るには、「一般に、経書を読み解こうとする場合、必ず第一にその内容を我が身に照らし合わせ、それから納得して世の中の状況を加味して行い、その後で考えを纏めるが良い。たとえまだ聖人の心を持ち得なかったとしても、その実現は近い。もしそうせずに巧みな言葉や流暢な表現を使ったとしても、深く切り込むことは出来ない筈だ。今或る人が語るには、“冬に水を飲み、夏に湯を飲む”と。どう言うことか?冬日の陰の気は外にあって、陽の気は内にある。陽の気が内にあれば、内部は暖かく、だから人は水を欲しがる。夏日には陽の気は外にあって、陰の気は内にある。陰の気が内にあれば、内部は涼しく、だから人は湯をほしがる。これは全くはっきりしたことだが、先の疑問に答えることは出来ない。だからこの事を我が身に照らして納得出来なければ、周りの状況を加味した上で、事を進めないことだ。なんともはや、学ぶ者にとってこのような心配りをしなければならんとは!これはそんなに小さいことではないのだ」と。

  (注釈)<孟子、告子上篇>の「義内論争」の中で、「冬日則飲湯、夏日則飲水」なる言葉が用いられており、また<朱子語類>の中に、「冬日則飲湯、夏日則飲水、此是経也。有時、行不得處、冬日須飲水、夏日須飲湯、此是權也。」なる記述がある。

83荘子に曰わく、「道の真(まこと)は以て身を治め、其の緒餘・土苴にて以て天下国家を治む」と。曰わく、然らず。礼記に曰わく、「誠なるものは、独り己を成すに非ざるなり。将に以て物を成さんとす」と。我の得る所のものは尽く人に推すこと能わずして、聖人の道に非ざるなり。但し之れ一身に行い、先後有るのみ。孟子に曰わく、「窮すれば則ち独り其の身を善くし、達すれば則ち兼(あわせ)て天下を善くす」と。其の窮する方(ところ)では、独り一身の道に善くし、乃ち兼て天下の道に善くす。其の達するに及びては、兼て天下の道に善くし、乃ち独り一身の道に善くす。一身に施して余り有るに非ざるなり。天下に施して足らざること非ざるなり。是れは之れ聖人の道と謂う。聖人を学ぶ者は孔子・孟子を以て心を為す能わずして、専ら荘周の爲我の書を以て説を為す。烏(なん)ぞ其れ聖人を学ぶに在りや!

  (訳文)<荘子>に、「万物の根源となる真理の中の真髄によって自分自身を正し、その余りや残り滓すで天下・国家を治める」とあるが、さてそうではあるまい。<礼記>に、「誠は自分自身を完成させる為だけにあるのではなく、自分自身以外の全ての物事を完成させる為のものでもある」とある。だが、私の学び得た知識では、その全てを人々の為に尽くす事は出来ないので、聖人の道に達しているとは到底云えない。しかし、今は自身の為に行ってはいるが、後先があっても致し方あるまいと思う。<孟子>に、「逆境にある時は自分自身だけの修養に努め、栄達した時にはその上に天下の人々の善導に務める」とある。逆境に在っても自分自身のみならず天下を善導し、栄達すれば天下を善導するのみならず、自分自身の修養に努める。それは自分自身の修養に努めても余裕があると云うわけでもなく、天下の善導に努めても余裕があると云うわけでもない。これこそが聖人の道というものである。聖人の道を学ぶ者は、得てして<孔子>・<孟子>の教えに従って修養しても達成出来ないものだから、専ら荘子の“爲我の書”に頼って説き明かそうとする。そんなことでは聖人の道を学ぶにはほど遠いと云うものだ。

  (注釈)<荘子>の言葉は、譲王篇にある、「道之真以治身、其緒餘以為国家、其土苴以治天下」から取ったもので、由此観之、帝王之功、聖人之餘事也、非所以完身養生也。今世俗之君子、多為身棄生以殉物、豈不悲哉!と続く。荘周は前述の荘(周)子休のこと。<礼記>の言葉は、<中庸>の二十五章にある、「誠者自成也、而道自道也。誠者物之終始、不誠無物。是故君子誠之為貴。誠者非自成己而己なり、所以成物也。」から取ったもので、「成己仁也。成物知也。」と続き、これで意味がはっきりする。<孟子>の言葉は、盡心章句上にある「故士窮不失義、達不離道、窮不失義、故士得己焉、達不離道、故民不失望焉、古之人得志、沢加於民、不得志、脩身見於世、窮則獨善其身、達則兼善天下」から取ったもの。ここでは本中の心境が語られている。

84瑩中が説くに、「学を為せば日に益し、道を為せば日に損ず。尋常の人が便ち説くに、“両事を作すは、之れを失うこと遠(はなはだ)し”と。蓋し語として学は則ち益、道は則ち損なるも、二卦は未だ嘗て偏廃せざるなり。損ずる所は忿(いかり)を懲(いまし)め欲を窒(とど)め、益する所は善を見て則ち遷(あらた)め、過ち有れば則ち改める。若(かくのごと)く此の説を用いて方始(はじめて)行うこと可にして、然らざれば則ち虚語なり」と。又た云うに、「胡先生は邇英に在りて損益の卦を講じて、専ら上に損して下に益し、下に損して上に益するを以て説と為す」と。

  (訳文)瑩中が語るには、「学問をすると日ごとに世俗的知識は増えて行き、道の修養に努めれば日ごとに世俗的知識は薄れて行く。普通の人が云うには、“学問に励み、道の修養にも努めると云うことをすると、両方共に未完成のままに終わってしまう”と。たしかに、言葉としては学は益、道は損となってはいるが、易に云う損卦・益卦の二卦は、一方的に他を無視すると云うことは今までに一度も無かった。損卦というのは怒りと欲は損の元だから、それを抑え止めよと云うものであり、益卦というのは、善を見たらすぐに学び取り、過ちがあればすぐに改めよと云うものである。この様にこの説に従って事を行うべきで、さもないとこれらは無駄な言葉となってしまう」と。また語り続けて、「胡安定先生は宮中の邇英に於いて損益の卦の講義をし、損卦彖伝の損上益下および益卦彖伝の損上益下の言葉を引いて語ったと云う」と。

  (注釈)「爲学日益、爲道日損」は<老子>にある言葉で、無為自然の道を説くもの。「懲忿窒欲。見善則遷、有過則改」は、<易経、損卦象伝>の「象曰、山下有澤損。君子以懲忿窒欲。」および<易経、益卦象伝>の「象曰、風雷益。君子以見善則遷、有過則改。」から取ったもの。「損上益下、損下益上」は、<易経、益卦彖伝>の「益、損上益下、民説無疆。自上下下其道大光。・・・」および<易経、損卦彖伝>の「損、損下益上、其道上行。損而有孚元吉・・・」からとったもの。

「童蒙訓」登場人物    書き方:姓(名)字、(其の他)

1.巻下Ⅰ

●穀(梁)元始  ●晏(嬰)仲平  ●陳(無宇) ●欒子雅  
●高子尾  ●公孫免餘  
●子(喜)  ●国(僑)子産  
●陽王公(子融)

2.巻下Ⅱ

●曹氏    ●蘇(轍)子由   ●張公芸叟   ●張□美   ●鄒(浩)志完(道郷)   

3.巻下Ⅲ

●李(格)正之   ●公父文伯   ●趙(君錫)無愧   ●楊(畏)子安   

4.巻下Ⅳ

●富(弼)彦国   ●孫威敏    ●石(介)守道   ●韓   ●戚(同文)文約  
●嵆穎       ●程(珦)    ●侯無可   
●陳(漸)畿叟   ●沈(諸梁)子高

5.巻下Ⅴ

●列禦冠、列子   ●老子   ●荘(周)子休  ●晁仲約   ●張海  ●王通  
●周(行己)恭叔

6.巻下Ⅵ

●成王   ●武王   ●伯禽   ●紂王   ●劉師正

7.巻下Ⅶ

●楊(朱)子居   ●范辯叔   ●冉(雍)仲弓   ●子桑伯子   ●李(朴)先之   
●劉元承元禮   ●紀侯    ●紀季   
●斉侯(襄公)   ●哀公    ●趙盾   
●霊公(夷皐)   
●鉏麑    ●趙穿   ●董狐

8.巻下Ⅷ

●高説他    ●韓(愈)退之   ●墨子   ●樂文仲   ●眉浩学士   
●陳(正)端誠   ●王(弼)輔嗣   
●何(晏)平叔  ●王(安石)介甫    
●呉叔揚    
●任淳夫   ●範子夸

9.巻下Ⅸ

●管(夷吾)仲   ●公子紂   ●崔杼   ●景公  ●霊公   ●荘公光  
●晏(嬰)仲  ●前邵倅呉朝奉   
●李自明  ●李斯  ●范(仲温)伯玉  

                            巻下 終

平成24年11月24日             「呂氏童蒙訓」 完

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「童蒙訓」ー巻下Ⅷ

2012-11-20 13:48:03 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅷ

56宿州の高朝奉説他は伊川先生に師事し、嘗て先生に見えて説くに、「義とは宜なり。知とは此れを知るものなり。禮とは文を此れ節するものなり。皆訓詁して得尽くす。惟し仁の字は、古今の人訓詁し尽くさず。或る人以て謂うに、”仁とは愛なり”と。愛は仁の一端とは雖も、然して喜怒哀懼愛悪欲は情にして性に非ざるなり。故に孟子が云うに、”仁は人なり”」と。

  (訳文)宿州の高朝奉説他は伊川先生に師事し、昔先生にお会いした時に語るには、「義とは時と場合に応じて、妥当な処置をするの意であり、知とは人倫の道を知るという意であり、礼とは容儀を程良く整えるの意である。これら皆、その字句の解釈はし尽くされている。ただ仁の意だけは、解釈し尽くされたとは云い難い。或る人は、”仁とは愛すなわち慈しむの意”だと云う。愛は仁の始まりの一つだが、喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲は皆已発の情である。だから孟子は、“仁は人なり”と云っており、人間らしくあれということ」だと。

  (注釈)高朝奉説他についてはよく解らないが、朝奉郎職にあった高説他という人だろう。「義者宜也」は<中庸>にある言葉で、<文章規範>にある「行而宜之之謂義」も同じ意味。「知者知此者也」の意については、<中庸>に詳しく説かれている。「禮者節文也」の意については、<禮記、坊記篇>に「禮者、因人之情而為之節文、以為民坊者也」が参考になる。「仁者愛也」の意については、韓(愈)退之の<原道>に「博愛之謂仁」とか、<墨子、経説上>に「仁、愛也」とか、関連する言葉があちこちに見られる。「端」はもと(本)とか、いとぐちの意味で、孟子の云う「四端」に関連する言葉。「喜怒哀懼愛悪欲」は<禮記、禮運>にある七情、すなわち人間の持つ七種類の感情のことで、「何謂人情、喜怒哀懼愛悪欲、七者弗学而能」に基づく。「仁者人也」については、<孟子、盡心篇下>に、「仁也者人也、合而言之、道也」とある。

57楽文仲が眉浩学士の事を説くに、「亦た好く常に、人の字を写すに端正ならざるを見て、必須に之れを勸戒す。或る人之れを問うに、曰わく、“毎事端正ならざるは無く、則ち心は自正す”」と。

  (訳文)楽文仲が眉浩学士の事を語るには、「彼は常に人の習字の様子を見ていて、必ずその姿勢を正していた。その理由を聞かれると、”常に姿勢は、正しく整えておかねばならない。姿勢が正しいと、心も自ずと正しくなるからだ“と答えていた」と。

  (注釈)楽文仲、眉浩学士については解らない。

58陳正端誠が説くに、「王輔嗣・王介甫らは大段(おおい)に通ぜざる處有りて、須要なるは“應”を説く故(こと)なり。田明之が説く易の尤も過ぎること多き所以のものは、須要なるに“無應”を説く故なり。易中に自ら“上下敵應”、“剛柔相応”などを説く類(たぐい)の言葉が甚だ多く、豈之を“無應”なると謂い得るや?但だ執定するべからざるのみ。

  (訳文)陳正端誠が語るには、「王輔嗣や王介甫らの発言には、甚だしく意味の通じない處があり、その中でも、“無“という言葉の意味を、是非とも説明してもらわなければならない。田明之が語る易の解釈についても、行き過ぎが多く見られるのは、”無應“という言葉の意味で、これも説明してもらう必要がある。易の中には元々、“上下敵應”とか“剛柔相応”などの類の言葉が非常に多いが、これらが“無應“とどうつながるのだろうか?執着し過ぎるのも如何なものか」と。

  (注釈)陳(正)端誠については詳細不明だが、哲宗時代の通儒という記載が見られる。王(弼)輔嗣は三国時代の魏の学者であり政治家である。何(晏)平叔(陳端誠と同じく魏の政治家であり学者)らと共に、儒教の経典解釈学と老荘思想を交えて解釈する、玄学を基にした哲学的発想の持ち主である。王(安石)介甫(北宋、神宗時代の宰相)は前出。“應”とか“無應”とかの言葉は、仏教にも良く出てくる。“上下敵應”は<周易、下彖伝>に、“上下敵應、不相與也“とあり、”剛柔相応“は<易経、恆卦彖曰>に、”巽而動、剛柔皆應“とある。

59又説くに、「邵尭夫先生が説くに、“孟子は易を説かざると雖も、然して易に精しき者なり」と。且つ云うに、「能く以て仕うべくんば則ち仕え、以て止むべくんば則ち止み、及(また)禹・稷・顔子は地を易(か)うれば、則ち皆然らんと説く。易に精しから非れば、豈此れに及ぶか?

  (訳文)また語るには、「邵尭夫先生が話していたことだが、“孟子は易について語ることは無かったが、易には詳しかった”」と。さらに続けて、「孟子は孔子に倣って、仕えた方が良いと判断した時には仕え、止めた方が良いと判断した時には止めた。また禹や稷や顔淵らの行いは、もしお互いに立場を変えたならば、皆同じ事をしたに違いない。易に詳しくなければ、こう言うことは語らない筈だ」と語った。

  (注釈)“可以仕則仕、可以止則止”は、<孟子、公孫丑上篇>にある言葉で、伯夷や伊尹に比べて、臨機応変な孔子の生き方を説明したもので、“可以久則久、可以速則速、孔子也”とつづく。“禹稷顔子、易地則皆然”も<孟子、離婁下篇>にある、禹・稷・顔淵の賢者三人について評した孟子の言葉。此処に書かれていることが、“易”とどう関わるのかは解らない。

60李君行が説くに、「他は毎日常に多くは、只易・書・詩・春秋・孝経を読み、間に孟子を読む」と。

  (訳文)李君行が語るには、「彼らは毎日欠かさず<易経>・<書経>・<詩経>・<春秋>・<孝経>を読み、時には<孟子>を付け加えていた」と。

  (注釈)<論語>・<大学>・<中庸>などが抜けているのが気になる。

61田明之が説くに、「他は常に只易・論語・孟子・老子・楊子を詠み、荘子の如きは未だ読むに暇あらず」と。

  (訳文)田明之が語るには、「彼らはいつも<易経>・<論語>・<孟子>・<老子>・<楊子>を読み、<荘子>などは読む暇が無かった」と。

  (注釈)一門の教材はそれぞれ異なっていたということか?

62呉叔揚が紹聖中に嘗て説くに、「世人の多くは欲が学に勝り、故に為さざる所無し。惟だ陳瑩中は学が欲に勝り、故に為さざる所有り」と。且つ云うに、「瑩中ら今の諸公が他を知らざるに非ずして、但だ得て用うべからざるなり」と。

  (訳文)呉叔揚が紹聖年間の昔語っていたことだが、「世間の多くの人は、欲心のほうが学習意欲に勝って、したい放題という有様だ。その中で陳瑩中は学習の心が欲望に勝り、自制する様子が見られた」と。さらに続けて、「瑩中ら今の諸君は、俗世間のことを知らないのでは無い。世の人々もそういう知識を得ても、それに深入りしてはいけないのだ」と語っていた。

  (注釈)呉叔揚については不明。

63又た説字について説くに、「詩の字は言に従(もと)づき寺に従づけば、詩は法度の言なり。詩を説く者は文(もじ)を以て辭(ことば)を害(そこ)なわず、辭を以て志を害なわずして、惟れ詩は法度を以て拘わるべからず。若し必ず寺を以て法度と為さば、則ち侍は法度の人、峙は法度の山、痔は法度の病なり。古えの字を置(もう)けし者は、詩や峙や侍や痔など、特に其の声の相近きを以て取りしのみ。

  (訳文)また字の解説をして、「詩という字は、言と寺から成り立っている。詩は法度(きまり)のある言葉である。詩を語る者は、一字一字にとらわれ過ぎて、一句の意味を間違える様なことがあってはならないし、一句一句の意味に拘りすぎて作者の思いを取り違える様なことがあってはならない。詩という言葉の成り立ちだからといって、法度に拘り過ぎてもいけない。拘りすぎると、侍は法度の人、峙は法度の山、痔は法度の病などと為りかねない。昔の字を作った人は、詩・峙・侍・痔など、特にその声の響き方が近い處から採用しただけの話だ」と語った。

  (注釈)“説詩者、不以文害辭、不以辭害志”は、<孟子、万章上>にある言葉で、“以意逆志、是為得之”とつづく。孟子の場合は、<詩経>を読み解く時の心得についての話である。後半は宋代に盛んになった右文説(声符=音符で字義を解釈するもの)を戒めたものか?

64又た説くに、「今の学者は必ず其の説を一にするを要す。是は聖人の意を知らざるなり。无妄の往くは何(いづ)くにか之(ゆ)かん。言うこころは、无妄の世に往くに、之く所なしと。无妄の往くは志を得るなり。言うこころは、无妄にして往くに、則ち以て志を得るべしと。其れ无妄の往くは、則ち一なるも、其れ无妄の往くと為す所以のものは、則ち異なり」と。

  (訳文)また語るに、「今の学者は、物事の解釈を何でも統一しようとするが、これでは聖人の意図する思いを知らないと云うものある。“无妄之往何之矣”という言葉があるが、その意味は“欲望の渦巻く世の中では、天の助けは得られず、何事も叶わない“というものであり、また”无妄之往得志“という言葉があるが、その意味は”至誠の行為は、天の助けを借りてその思いを達成出来る“というものである。出だしの”无妄之往“という言葉は同じだが、結果は異なるものだ」と。

  (注釈)“无妄之往何之矣”も”无妄之往得志“も<周易上象伝>の震下乾上、天雷无妄の項にある言葉で、前者は彖伝に、後者は象伝に見られる。

65任淳夫が説くに、「荘子の儵忽渾沌の説を、郭象は只だ“為す者は之を敗るを以てす”と之を解す、則ち経を解く者は何ぞ多言を用いん」と。

  (訳文)任淳夫が語るには、「<荘子>にある儵帝・忽帝・渾沌帝の話を、郭象は“何かを仕掛けようとすると、反ってそれを害することになるので、自然のままに従え”と解釈した様に、経書を解釈する上では、多言は無用だ」と。

  (注釈)任淳夫については詳細不明。儵忽渾沌の話は、<荘子、応帝王篇>にある寓話で、“南海帝王の儵と北海帝王の忽が、のっぺら坊の中央帝王の渾沌に持てなされ、お返しに人間の様な姿になって楽しめと七つの穴を毎日一つずつ開けていったら、七日目に死んでしまった”というもの。“為者敗之”は、<老子>にある言葉で、無為の薦めを意味する。

66範子夸が説くに、「其の祖が外任官と作りし時、京の中人の書と興に京に居り、慎んで窃(ひそか)に論ずること勿く、曲直は同じからず。言官に任ぜられし時、小名を取るも大過を受け、因って吾が徒に相見して言うには、“正当に行己立身の事を論ずるのみ”」と。

  (訳文)範子夸が語るには、「祖が外任官となった時は、京の宦官の書と共に京で暮らし、身を慎んで隠れてあれこれ語り合うことはせず、理非曲直を明らかにしていた。諫官に任ぜられた時に、少しばかりの名声を得はしたが、大過を蒙ることになった。だからその後仲間と集まった時には、正々堂々と立身行己の事だけ語り合う様にした」と。

  (注釈)範子夸については詳細不明。外任は、地方官のこと。趙廷内の官職は内官。中人とは宦官のこと。言官は諫官のこと。立身行己は身を全うし、自立すること。

67又た説くに、「仲尼は聖人なるも、才(はじめ)は陪臣作り。顔子は大賢なりて、簞食瓢飲す。後の人は孔子顔子に及ばざること遠し。而して常に任官に達せざるを歎くは、何ぞ愚かなること之れ甚だし。若し能く自己の官爵を以て孔顔に比方するは僥倖も甚だし。

  (訳文)また語るには、「孔子は聖人となったが、始めは陪臣の身であった。顔回は大賢であり、質素な生活に甘んじていた。後世の人々は、孔子や顔回に遠く及ばない。それなのに常に任官に不満を持ち、その愚かさには甚だしいものがある。もし己の官職や爵位を誇って、孔子や顔回と比較する様なことがあれば、それは偶々そうなっただけであって、比較するのもおこがましいことだ」と。

  (注釈)孔子が陪臣だったと云うには、当時魯国で権勢を振るっていた季桓氏との関係を言うのだろう。孔子の父も孟孫氏に仕えていたという。顔回の簞食瓢飲の話は有名。

 68又た説くに、「凡人が事を為すには、須く是れ衷(まこと)よりするを方(まさ)に可(よ)しとすべし。若し嬌飾して之を為さば、恐れは免れず。変事に有れば誠を任(たも)つのみ。時に失うもの有ると雖も、亦た覆蔵して人に知らざらしまずして、但だ之を改めるのみ。

  (訳文)また語るには、「凡人が物事を進めるに当たっては、真心を尽くすと云うことが第一である。もし偽ったり取り繕ったりすれば、失敗する恐れがある。変事に於いても誠を尽くすだけである。時には失うものが有ったとしても、心中に納めて他人に気づかれぬ様にして、改めて己の失敗を反省することだ」と。

  (注釈)<旧唐書>に「功成名遂,不退将危:此由衷之情,不徒然也」なる言葉が見える。

69李君行と田明之が俱に説くには、「読書は須く是れ別人の解くものは看ること不要とすべし。聖人の言は暁(のべ)ること易く、傳の解を看るは則ち愈惑う」と。田誠伯が説くに、「然らず。須く是れ先ず古人の解説を看るべし。但し執る所有るに当たらざれば、其の善きものを択(えら)び之れに従え。若し都(すべ)て看ず、知らざるも多少の工夫を用いれば、方(まさ)に先儒の見る處に到るべし」と。

  (訳文)李君行と田明之が共に語るには、「読書をする際には、決して他人の見解を参考にしてはならない。聖人の言葉は大変易しく述べられているから、徒に経書の注解を見ることは迷いを生ずるだけだ」と。田誠伯が語るには、「そうではない。当然先ずは古人の解説を見て参考にすべきだ。ただし参考にする所がなければ、その善い所だけでも採り入れ、もし全く見なかったり、そういうものが有ることを知らなかったとしても、多少の工夫さえすれば先輩儒家の知識程度には達するものだ」と。

  (注釈)人の思いはそれぞれと言うこと。

70陳端誠が説くに、「易は須く是れ到りて、行くべき處を説くを始めに可とすべし」と。

  (訳文)陳端誠が語るには、「易経については、達すべき目標となる處をしっかりと、説明することから始めるのがよい」と。

  (注釈)易は<易経>のこと。

71陳瑩中が説くに、「書に曰わく、“惟れ彼の陶唐は、此れ冀方に有り。今厥(そ)の道を失い、其の紀綱は乱れたり”と。蓋し尭は舜に授け、舜は禹に授け、禹は啓に授け、三聖一賢は相継いで、未だ始めより道を失わず。太康に至りて邦を失い、故に上(さかの)ぼって陶唐から推(おしは)かって云うと、今は厥の道を失い、尭より太康に至るまで百二十年」と。

  (訳文)陳瑩中が語るには、「書経には、“かの聖天子尭帝は、冀州に居を定めて天下を統べた。今その教えが守られず、その綱紀も乱れてしまった”と。まさに尭は舜に、舜は禹に、禹は啓にそれぞれ帝位を禅譲したし、彼ら三聖人と一賢人はよく太平の世を引き継ぎ、終始尭舜の教えを守り通した。太康の世になって国が亡びたので、陶唐の時代に遡って考えると、今は尭舜の道も失われ、尭帝から太康に至るまでが百二十年であった」と。

  (注釈)<書経、夏書・五子之歌>に、「惟彼陶唐、有此冀方。今失厥道、乱其紀綱、乃底滅亡」とある。<孔傳>に“陶唐帝尭氏は冀州に都し、天下四方を統ぶ”とある。古代中国では、中国全域を九つの州(三皇最後の人皇の時代に九人の兄弟が居て、分けて九つの州をおさめさせた)に分けた。その一つが冀州。禹は夏王朝の開祖。啓は禹の子で、中国史上最初の世襲王であり、太康は啓の子で、遊興に走り朝政を顧みなかったので国を亡ぼした。太康の五人の弟が歎いて作ったのが<五子之歌>である。

72又た説くに、「大舜は焉(こ)れより大なるもの有り。善きこと人と同じければ、己を舎(す)てて人に従い、人に取りて以て善を為すを楽しめり。耕稼陶漁(こうかとうぎょ)より、以て帝と為るに至るまで、人に取るに非ざるもの無し。諸(これ)を人に取りて以て善を為すは、是れ人と興に善を為すものなり。故に君子は人と興に善を為すより大なるはなし。夫れ能く是くの如く、故に能く其の大體を養いて大人と為り、故に能く君心の非を格(ただ)して、天下に見るに利せ使め、故に能く言動は以て法則と為る。後の人は急急然として唯だ己が是れを為すことを欲し、恐れて其れ己に畔(そむ)き利を以て之れを誘い、害を以て之れを駆(おいはら)い、天下は終に以て然りと為さずして、自ずから以て過ちと為る。天下何ぞ愚かなること之れ甚だし」と。

  (訳文)また語るには、「聖天子舜は素直な子路(孔子門人)や、謙虚な禹王よりも偉大であった。善い事は人々に同調して、自分を捨ててまでもその意向に従い、人々の善行を見習って一緒に楽しんだ。農耕・陶冶・漁労を手がけていた時も、また帝位に就いてからも、人々の善行を見習うことを止めなかった。このように人々の善行を見習って実行出来る者は、つまりは人々と共に善行を為していることになる。だから君子の徳の中では、人々と善行を為すことが最も偉大なことなのである。と云うわけで、人間の良心を養って優れた有徳者ともなれば、主君の心の迷いを正すことも出来、そうなると世の人々も有徳者の声を聞く様に為り、その言動が世の規範となり得る。後世の人々は余りにも急いで己の欲望を満たそうとし、急ぎすぎる余り自分の意志に反してまで利害を盾に誘惑したり閉め出したりするので、天下は遂にこれを受け入れなくなり、自ら過ちを犯すようになる。何と愚かしいことであろうか」と。

  (注釈)出だしの「大舜有大焉、・・・故君子莫大乎與人為善」なる記述は、<孟子、公孫丑上篇>にある。至孝の人としても有名な舜帝は、尭帝から禅譲されるまで暦山で農耕に、黄河のほとりで陶器作りに、そして雷沢漁業をしていた。「大體」は大局的道理の事で<孟子、告子上篇>に、「格君心之非」は<孟子、離婁上篇>に見られる言葉である。

73又た説くに、「安んじて之を行うは、聖人なり。聖人に非ざるより、皆利して之を行う者なり。何ぞや?善に遷(かえ)り罪を遠ざけるを欲するは、是れ善を利するなり。君に忠なるを欲するは、是れ忠を利するなり。父に孝を欲するは、是れ孝を利するなり。其の余は皆然り。今の学者は其の近き者や小さき者を見る能わずして、妄意は其の大なる者や遠き者を談じ、故に終に汗漫にして成ること無し。

  (訳文)また語るには、「迷わず安らかに物事を進めるのが、聖人である。聖人に達しない者は、皆利害を考えて物事を進める。何故か?善意に立ち返って罪業から遠ざかることを望めば、それは善行を進めることになる。主君に忠義を尽くすことを望めば、それは忠義の心を高めることになる。父に孝養を尽くすことを望めば、それは孝心を高めることになる。その他のことも皆、同様である。今日の学者は身近なことや些細なことに力を注がず、深く考えもせずに難しい高尚な事柄や深遠な事柄に注力し、その為に終には表面的な学問に終わってしまって、何も得る処が無いという有様だ」と。

  (注釈)関連する言葉に、熊沢蕃山が著した経世済民の書<大学或問>の「君子務其遠者、小人務其近者小者」がある。また<論語、子張篇>に、「君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉」なる言葉もある。

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「童蒙訓」ー巻下Ⅶ

2012-11-10 16:22:20 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅶ

45徐仲車先生が少年の時、母の為に膳を置(もうけ)るに、一つの賣肉家を過ぎるも、心の中に他の肉を買うことを欲すれば、遂に先ず市中に於いて他の物を買い、而して路を別にして帰途にて順為り。且つ亦た肉を売る者有り。因って自念して言(おも)うに、心中已に他家の肉を買うことを許す。若し捨てて他を之にすれば、能く心を欺かざるや?と。遂に道を迂(とおまわ)りして肉を買って帰る。且つ云うに、「己の信を行うは、此れ自り始まる」と。又た言うに、「少年の時、逐日衫帽を以て母に揖し、一日貴官に見えるに當り、乃ち幞頭襴衫を用う。因って自念して言うに、天下の尊たるも父母を逾(こ)えること無く、今や反して貴官に見えるに若かずや?と。明日自り幞頭襴衫を以て往きて母に揖す。家人の見る者は之を笑わざるは莫かれど、既に久しければ亦た笑わざるなり」と。且つ云うに、「己の敬を行うは、此れ自り始まる」と。

  (訳文)徐仲車先生が少年時代、母親の御膳を整える為に、必要な肉を買いに出掛けた。一つ目の肉屋の前は通り過ぎ、始めから買うことを決めていた市中の肉屋で買い求めて家路に就いた。帰りは別の道を通った處、良さそうな肉を売る者に出くわした。手にしていた買ったばかりの肉を買い直そうと思ったが、そこで自問自答した。“始めから決めていた肉屋で買い求めることが出来たのだから、今更買い直すのでは始めの思いが無駄になる。もっと良いものが有るからと言って、心変わりしても良いものか?”と。納得がいったので、買った肉をそのまま持って帰ってきた。そして云うには、「私が信念を曲げなくなったのは、この時からだ」と。また少年時代の話だが、毎日母に挨拶する時には衫と帽子を着用した。或る日、貴い身分の役人に面会する機会があり、幞頭襴衫に身を正して出掛けた。そこで自問自答した。“天下に聞こえた尊い人でも、我が父母の尊さを超えることは出来ない筈だ。今思うに、父母に挨拶することがその尊い人に見えることよりも劣る筈がない”と。翌日から幞頭襴衫を着用して、母親に挨拶した。これを見た家人で苦笑しない者はいなかったが、そのうちに笑うような者は居なくなった。そして云うには、「私が真心を込めて敬うようになったのは、この時からだ」と。

  (注釈)当時の正装は、役人は、幞頭(冠)、公服(官服)、帯、靴、笏。進士は、幞頭、襴衫(すそべりの附いた服)、帯。處士(在野の賢人)は、幞頭、皁衫(黒い服)、帯。無官は、帽子、衫、帯が一般的。

46徐仲車は門人に見えるに、多(たびたび)空中に一つ正の字を書く。且つ云うに、「安定する處に於いて此の一字を得、亦た用いるに盡ず」と。

(訳文)徐仲車は門人に会う度に、空中に“正“の一字を指で書いて云うには、「心を落ち着けるには、この一字を思い浮かべれば良い。その効用は尽きる處がない」と。

  (注釈)<大学>の八條目の一つが“正心“である。

47徐仲車が説くに、「信を以て誠を解くに、誠を尽くす能わず。至誠は息(やす)むこと無く、信は豈に能く之を尽くすか?」と。

  (訳文)徐仲車が語るには、「信念をもって誠を理解するにしても、誠を知り尽くすと云うことは出来ない。至誠は一刻も休むことなく、永遠に存在していて、信念を貫き通したとしても、誠をし尽くすことは出来ないだろう」と。

  (注釈)<中庸>第二十六章に、“故至誠無息、不息則久、・・・”とあり、誠のすばらしさが延々と綴られている。

48伊川先生が嘗て説くに、「楊子の云々の、“聖人の言は遠きこと天の如く、賢人の言は近きこと地の如し”とは、是れ然らず。当に他に為(なお)して数字を易(か)えるべくして曰わん、“聖人の言は其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し”と。其の遠きこととは、須く之れ遠きことを謂(おも)うべく、其の近きこととは、須く之れ近きことを謂うべきなり」と。

  (訳文)伊川先生が昔、語っていたことだが、「楊子の言葉に、“聖人の言葉は、天のように遠大であり、賢人の言葉は、地のように身近なものだ”とあるが、これは間違いだ。これを改めて、幾つかの字を代えるべきで、すなわち、“聖人の言葉は、その偉大なことは天のようであり、その身近なことは、地のようだ”と。遠大だと云うのは、及びもしない程の遠くにあって、なかなか把握するのが難しいと云うことであり、身近だというのは、手が届き掴みやすく親しみやすいと云うことだ」と。

  (注釈)楊子とは楊(朱)子居のことで、戦国時代の思想家で衛国の人。極端な個人主義と、快楽主義を主張した。ここの文章は、致知に対する心構えに触れたもので、致知の仕方が悪くて、身近なことを深く掘り下げ過ぎると知を狂わすだけだし、また聖人の重い言葉を軽く受け止め過ぎたりすると、思慮が足りないことになる。浅いことは浅く、深いことは深く説くのが、致知の仕方だと云うこと。程氏遺書にある伊川の話で、“凡解文字云々の条(文字の意味を解く時の心得)”にある。

49范辯叔が説くに、「今の太学の長貳や搏士ら此に居て住まう者は、皆養資を利と考えて、外進を求む。之れ学生為る者は、皆歳月を利して擧に応ず。上下利を以て相聚(つど)う、其れ能く人才を長育するや!此れ本に於いて亦已に錯了し、更に言するを不須(もちいず)」と。

  (訳文)范辯叔が語るに、「今の太学の学長・副学長そして博士ら教職にある者が皆、自身の保身にきゅうきゅうとしており、学外に滎進することばかり考えている。一方学生達は皆長い時間をかけて、栄達につながる科挙に合格することばかり考えている。こうして上も下も功利を求めて寄り集っているが、こう言うことで人才の長期育成の目的が果たせるのだろうか!これでは教育の本質をはき違えること甚だしく、これ以上云う言葉も出ない」と。

  (注釈)范辯叔については詳しいことが解らない。北宋朝の教育制度の腐敗ぶりに対する、痛烈な批判と云ったところ。宋代の科挙制度が高級官僚えの登竜門の様相を呈するにつれ、その弊害が出て来たことは周知のこと。

50田誠伯が説くに、「仲弓が子桑伯子を問うに、子が曰うには、“可なり、簡なり”と。仲弓は未だ以て然りと為さず。乃ち曰うに、“敬に居て簡を行い、以て其の民に臨めば、亦た可ならずや?簡に居て簡を行う、乃ち太簡なること無からん!”と。子の曰うには、“雍の言や然り”と。仲弓は未だ聖人の言を以て然りと為さずして之を問い、而して聖人は仲弓の言を以て然りと為す。聖人を学ぶ者は、仲弓の如きが可なり」と。且つ云うに、「君行は此くの如き見(おも)いで説けり」と。

  (訳文)田誠伯が語るには、「仲弓が師に子桑伯子の人柄について尋ねた処、孔子が、“彼は好人物だ。おおようでこせこせしない處が良い”と答えた。仲弓はこれを聞いて、納得出来ず、尋ね返した。すなわち、“自分自身は慎み深くして、他人には寛大というのは結構ですが、そういう態度で人民に接するのは如何なものでしょうか?おおように構えておおように行うのでは、余りにもおおよう過ぎはしませんか”と。そこで孔子は、“お前の云う通りだ”と云われた。仲弓は、聖人孔子とはいえその言葉におかしい處があれば、その疑問を率直に問いただし、また聖人孔子もそれに気づいて、仲弓の言葉を素直に受け入れたのである。聖人について学ぶ者は、この仲弓の態度を見習うが良い」と。更に追加して、「君行はこのような思いで、論じているのだ」とも語った。

  (注釈)仲弓は孔門十哲、徳行の人、冉(雍)仲弓のこと。子桑伯子は詳細不明だが、当時の政治家だろうと云われている。仲弓と孔子との問答は、<論語、雍也篇>にある。

51誠伯が説くに、「公羊は聖人の意を知らず。故に其の立言は、多くの教えを傷つけ義を害し、“母が子を以て貴しとし、子は母を以て貴しとす”及び“人臣は将にせんとする無く、将にせんとすれば而(すなわ)ち誅す”が如くに至る。此の二者は尤も甚だし。西漢の時に丁・傅を尊崇し、及びて大臣を誅し、以て将に悪を謀らんとする者為らしむに至る。蓋し公羊の説を用うるなり。其れ天下後世の害と為ること甚だし」と。

  (訳文)誠伯が語るには、「<春秋>公羊伝の解説を見ると、、聖人というものの意味がよく解っていないようだ。だからそこで云っている戒めの言葉も、反って多くの教えに反するものや、道義を害うものが見受けられる。たとえば、“母は子の貴賤の程度によってその尊さが決まるし、子は母の出自の貴賤によってその尊さが決まる”とか、“臣下が主君に反逆の気持ちを抱いただけで罪があり、それだけで直ちに誅殺すべきだ“などと云ったものがこれに当たる。この二者が最も際立っている。西漢時代に哀帝が、生母の丁氏と祖母の傅氏を尊重し、彼らに逆らった大臣らを謀反人として処刑したことがある。これは前記の公羊の説を信じた結果である。これが後世に及ぼした弊害は、計り知れないものが有る」と。

  (注釈)公羊伝は<春秋>の注釈書。「母以子貴、子以母貴」は親親の道(肉親に対する特別な配慮)を表したもので、<公羊伝、・隠公元年>には、「桓何以贵?母贵也。母贵则子何以贵?子以母贵,母以子贵。」とあり、本来は嫡子がおらず庶子から後継者を選ぶには、母の出自の高い方を選ぶという意味である。それが後年、「母以子貴」の部分が強調されて、母方の親族をも尊重する意味に捉えられるようになった。また、「人臣無将、将而誅」は君臣の義を表したもので、<公羊伝・荘公>には、「公子牙今将爾。辭曷為與親殺者同。君親無将。将而誅焉。然則善之與。曰然。」とある。西漢云々は、前漢第十三代哀帝の時の話で、母の姫・祖母の皇太后氏一族を尊重した話で、前漢の滅亡を招いた王莽の時代が築かれる遠因をなすことになる。

52李朴先之が説くには、「洛を離れる時に臨み、先生に教えを請う。先生が云うに、“浩然の気を養う當し”と。先ず之れを語って云うに、「張子厚が作す所の西銘を観て、能く浩然の気を養うものなり“と。

  (訳文)李朴先之が語るには、「洛陽を離れる時に、伊川先生に教えを請うたことがある。先生が云うには、“浩然の気を養うことだ“と。更に付け加えられて、”張子厚が著した<西銘>を読んで、厳しく浩然の気を養いなさい”と云われた」と。

  (注釈)李(朴)先之は李君行の長子で、宋代の理学家。洛陽の国子監で教授に就いていた。伊川に傾倒。<西銘>は張子厚が仁義の根本を説いた文章で、書斎の西の窓に掲げていたのでこの名がある。“乾称父、坤称母;”から始まって、“存、吾順事;没、吾寧也。”で終わる、二百五十三字からなる文章である。“浩然の気“は孟子の発言として有名。

53先の説は、「擧業を以て人才を育てるに、要(かなめ)に何が使用と作すかを知らず」と。

  (訳文)前項の話は、「科挙の為の勉強をさせて人材を育てるというのでは、肝心な處を見落としていることになる」と云うことである。

  (注釈)李先之が洛陽の国子監に、教授として赴任する時の話であろうか。

54誠伯が説くに、「近世の学者には、恐らく横渠先生の如き者は有る無し。正叔は其れ次なり」と。又た云うに、「向日正蒙の書を看るに因り、得る處の箇所有るが似(ごと)し」と。又た云うに、「與叔の<中庸解>を見る毎に、便(すなわ)ち其の人と為りを想見す」と。是れ由り之れを観るに、誠伯は横渠が師なり。

  (訳文)誠伯が語っていたことだが、「近ごろの学者の中には、恐らく横渠先生のような優れた人物はいないだる。その次に優れているのは、程伊川だ」と。また云うには、「過日、<正蒙>なる書を読んで、得る処多大なものが有った」と。さらに云うには、「呂與叔の<中庸解>を読む度に、彼の人と為りを思い浮かべている」と。こうした発言を聞くと、誠伯は横渠を師と仰いでいたらしい。

  (注釈)<正蒙>は張横渠の作で、彼の唯物論的思想が展開されている。道(太和)・気・(鬼)神・易から始まり、天地・陰陽・日月・五行、人・動物・植物、性・徳・誠・敬・孝・中道、仁・義・礼・楽・知、聖天子・聖人・君子、政治・祭祀・官位・姓・諡と多岐にわたってその見解が、十七篇五百十七項に述べられている。可なり膨大なもので、最終乾称第十七篇の第一項には、<西銘>の全文が記されている。金石学家の呂(大臨)與叔には、<礼記解>・<大学解>・<中庸解>・<論語解>など多くの著作がある。

55劉元承元禮は嘗て伊川に師事す。説くに、「紀侯大その国を去る。大は紀侯の名なり。齋師未だ境に入らずして已に之れを去る。則ち罪は齋侯には在らざるなり。故に齋侯を書(かきしる)さず。又た伊川先生に見えて説くに、「仲尼が曰わく、“惜しいかな!境を出づれば乃ち免れん。須く終身反らずべくして、始めて罪を免るべし”」と。

  (訳文)劉元承元禮は昔、程伊川に師事していた。彼が語るには、「<春秋>に、紀国の君侯大が自分の国から逃げ去ったとあるが、ここの大と云うのは紀侯の名だ。齋侯の軍勢は紀国の境まで迫りはしたが、越境せずに引き上げたのだから、国を捨てた紀侯に非はあるものの、齋侯には罪は無い。だから<春秋>には齋侯のことには特に触れていないのだ」と。また彼が伊川先生にお会いした時に語ったことだが、「孔子が晋国の賢臣趙盾の事件に触れて、“惜しいことだ!事件が起きた時に国境を越えておれば、悪名を免れたろうし、一生帰国することがなければ、これまた罪も免れ得ただろう”と云っている」と。

  (注釈)劉元承元禮は、二程全書に<劉元承手編>なる文を遺し、ここに書かれている事変に触れているが、詳しい人物像は解らない。ここに書かれていることは、字面だけを見ていてはその内容を把握するのは難しい。余程東周(春秋戦国)時代の歴史に詳しくなければ、理解は難しい。そこで少しその事情を掘り下げてみよう。ここには二つの事件が語られている。

①  紀の国の滅亡

<春秋>“紀侯大去其国”とだけ記されて、紀国の滅亡が伝えられている。この言葉の解釈で、後世色々と論争を呼ぶことになる。<春秋左氏伝>では、“紀侯その国を大去す”と解釈し、紀侯が既に斉に帰属していた弟紀季に国を与えて紀国は亡んだとしている。大去とは、一人の民も残さず立ち去ったという表現である。<春秋穀梁伝>では、同じ解釈だが、紀の民は紀侯を慕って国を去った“として、紀侯は賢君であったのに対し、これを亡ぼした齋侯は小人だとしている。<春秋公羊伝>でも、解釈の仕方は変わらない。だが齋の襄公は先祖の讐(斉の先祖哀公が、紀侯の讒言で周王に煮殺された事件)を討ったのだから、復讐を遂げた襄公は賢王であり、滅国した紀侯は大悪者としている。ここまでは良いが、程頤の問題提起である。彼は”紀侯名は大、その国を去る“と解釈した。滅国の君主は生きながら名を記されるのが、<春秋>の筆法だという理由である。だから国を捨てた紀侯に罪が在って、斉侯には罪は無い。しかも越境もしていないのだから斉侯の影響はなく、斉侯の名が無いのも当たり前と云うこと。

②  晋の趙盾、其の君を殺す

後半の”仲尼曰”から始まる部分に関するもの。<春秋>では”晋趙盾殺其君夷皐”と書かれている。この事件は、晋の正卿趙盾の後ろ盾で擁立された君主霊公(夷皐)の反目から始まる。次第に趙盾の云うことを聞かなくなった霊公は、遂に刺客を使って趙盾を殺そうとする。刺客のが趙盾の修身ぶりに心打たれ、板挟みになって自殺するという話が挟まったりするが、結局趙盾は逃げ出すことになる。しかし国境を出ないうちに、霊公が趙盾の従兄弟の趙穿に殺されてしまう。趙盾は急いで宮殿に戻り、新君主を立てる。ところが趙盾の反対にも拘わらず、晋の史官董狐が国史に”晋趙盾殺其君夷皐”と記録してしまう。その理由は、”君主が殺された時、国を出ずに正卿のまま戻ってきたのだから、反逆者の趙穿を誅する義務がある。それをしなかったのだから、貴方が殺したのも同じだ“と史官は答える。そこでこの話を聞いた孔子が、” 董狐は良吏だ。法を守って正確に記録した。また趙盾は優れた大夫だ。法の為に悪名を受け入れた。ただ惜しいことに、事件が起きた時に国境を越えさえしていれば、悪名を受けることも無かったろうに“と云ったという話になる。

以上二つの越境の話が混ざり合っているので、話がややこしくなり、理解し難いことになる。

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「童蒙訓」ー巻下Ⅵ

2012-11-01 09:26:33 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅵ

36伊川先生が嘗て言うに、「成王は魯を賜うに天子の礼楽を以て当たらず。周公在(あ)ら使めば、必ず受けざるなり。故に曰わく“魯の郊禘は礼に非づ。周公其れ衰へたり”と。後世の儒者が以為(おも)うに周公は能く人臣の為す能わざる所の功を為す。故に人臣の用いるを得ざるところの礼楽を賜るも、此れ尤も教えを傷つけ義を害なうものなり。人臣と為るも周公の如きにて始めて可なり。故に曰わく、“舜の尭に事える所以を以て君に事えざるは、其の君を敬はざる者なり。

  (訳文)伊川先生が昔言っていたことだが、「周の成王が魯国を叔父の周公旦の子、伯禽に賜る時に、天子の礼楽を行うことを認めなかった。たとえ許すと云われても、周公旦が生存していたならば拒んだは筈ある。だから世間では、魯が郊禘の大祭を行っているのは、礼に叶っていないと批判するのだ。周公の掟も、守られなくなってしまった。後世の儒学者は、“周公は人臣として為し得ぬほどの功績を挙げたのだから、人臣が用いては非礼と為る天子の礼楽を許されたと云うが、これは本来の教義を逸脱するものであり、正義に悖る。だが周公は人臣となったとは云え、もともと天子の家柄の出だから、それは許される“と考えた。つまり舜帝が尭帝に仕えたようにしなければ、それは天子に対し不敬となるのだ」と。

  (注釈)成王は周朝第二代の王で、武王の子。周公旦は周の始祖、文王の子で武王の弟。成王を助けて、周の制度・礼楽を定め、周王朝の基礎を築いた。孔子が理想とした人物である。ここの天子の礼楽郊禘については先に述べたが通りだが、ここでは孔子も<論語、八佾>で批判している“八列の舞い”を指している。伯禽は魯の初代君主。父の周公旦が成王の摂政として周に残ったので、魯に魯公として派遣された。世儒とは王安石を指し、荊国公に封ぜられ、「文」と謚されたので、王荊公、王荊文公と呼ばれる。”不以舜之所以事堯事君、不敬其君者也。”は、<孟子、離婁章句上>に見られる言葉。

37范正平子夷は尭夫丞相の子にして、賢者なり。能く其の家を世(つ)ぐ。嘗て言うに、「其の家の家学は、小官として卑しからず。一官に居り、便ち心を尽くすことを思い、一官の事(つとめ)を治む。只だ此れ便ち是れ聖人を学ぶなり。若(かくのごと)きは以て州県の職徒として人を労ることを為す爾。聖人を学ぶ所以に非ざるなり」と。

  (訳文)范正平は范(尭夫)純仁宰相の子で、賢人であった。能くその家系を守った。彼が昔語っていたが、「我が家に伝わる家学は、官吏として分を弁えたものであり、官吏として止まる限りは、全身全霊を以てその本分を尽くす為に役立てている。しかも聖人を学ぶ家学でもある。こうして州県の役人として人民の為に誠心誠意を盡だけである。決して聖人を学ぶことが本分ではない」と。

  (注釈)范純仁は“自分に厳しく、他人に寛大である事が出来れば、聖人となる道にさえぎるものは何も無い”と常々息子達に言い聞かせていた。また范純仁は言葉と行動において、守るべきことは何かと聞かれ、「質素な生活を心掛け、廉恥心を修め、寛容にして慈悲と徳を修めることだ」と語ったと云う。范純仁は高官でありながら絶えず修養に努め、贅沢な食事に執着することもなく、毎日執務を終えて家に帰ると、粗末な服に着替えたという。これが范家の家学の特徴なのだ。

38周恭叔又た説くに、「先生が人を教え学を為すに、當に格物より始むべし。格物は窮理の謂いなり。窮理を欲すれば、直ちに須く思い始めることを得べし。思えば之れ悟る處有りて、始めが可なり。然らずして学ぶ所の者は恐らく限り有り」と。恭叔が又た言うに、「陰陽は測りえずして之れを神と謂う。(横渠先生が云うには、両つ在るが故に測りえずと)仁者は之を見て之を仁と謂い、知者は之を見て之を知と謂う。然して則ち聖人の道では、仁知は皆測ること能わざるなり。一(あるい)は陰、一は陽之を道と謂い、仁且つ知は夫子が既に聖とする所以なり。乾坤は之れ易に於いて、猶陰陽は之れ道に於いて、仁知は之れ聖に於けるがごとし。故に曰わく、“乾坤其れ易の縕(うん)か。乾坤列を成して、易其の中に立つ。乾坤毀(そこな)はるれば則ち以て易を見る無し。易見るべからざれば、則ち乾坤或いは息(や)むに幾(ちか)し”と。

  (訳文)周恭叔がまた語るに、「伊川先生は、人に学問を教えるに当たっては、まず<大学>に述べられている格物の知識から始めるべきであるとした。格物とは道理を極め尽くすことである。道理を窮めようとするならば、まず思考することから始めるべきで、熟考すれば悟る處があるので、始めが肝心である。こういう段階を踏まずに勉強に励んでも、恐らく限界があるだろう」と。恭叔がまた云うには、「陰陽は測ることが出来ないもので、これを神と謂う。(張横渠先生は、“太極が陰にも陽にも存在するから、測り得ない“と云った)仁者は陰陽を仁と表現し、知者は陰陽を知と表現した。だから聖人の道理でも、仁知は測り難い広大なものと認識した。陰といい、陽というこれらを道と云う。仁も知も孔子は、既に聖なるものとして捉えていた。乾坤は易学で、陰陽は道学で、そして仁知は聖学に於いて用いられる言葉で、皆同じ事を指す。だから易経で、”乾坤二卦は、易の変化の極意とも云うべきものであろうか。乾と坤は相対立して連なっており、易は乾坤二卦の変化によって成立している。乾坤二卦の対立が壊れると、易の変化は成立しない。そうなると乾坤二卦のどちらかが存在しないことに等しくなる“と云っている」と。

  (注釈)<大学>、三綱領八条目の中で真っ先に出てくるのが“格物”であることは、前にも触れている。“窮理”という言葉も、宋学の中で“居敬”と共に聖人となる為の大事な“工夫“の一つとして扱われている。”陰陽不測之謂神“や”仁者見之謂之仁、・・・謂之知“更に”乾坤其易之縕耶。乾坤・・・或幾乎息矣。“は、<易経、撃辞上伝>にある。ここで云わんとしていることは、”格物“や”窮理“の大事なことは解るが、それ以降の言葉は引用の羅列で、今ひとつピンと来ないが、窮理の対象と為るものが、易学の”乾坤“、道学の”陰陽“そして聖学の”仁知“で、それが測り知れない程の深遠なものだと云いたかったのだろう。

39李君行先生説くに、「武王が紂の罪を数えて曰わく、“郊社は修まらず、宗廟は享(まつ)らず”と。諸書を暦観するに、皆郊を以て社に対す。蓋し郊は天を祭る所以にして、社は地を祭る所以なり。南郊北郊五帝の類は、皆周礼(しゅらい)より出ず。聖人の書中には見えざるなり。父を厳(たっと)び天に配するの礼は、蓋し周公自り始まる。若(かくのごと)く古(いにしえ)自り之れ有れば、則ち孔子何ぞ則ち周公其の人なりと言い得る。爵に列するに五と為し、土を分けるに三と為す、蓋し周に至りて始めて定む。若し夏商以前俱に此の如しとなす、則ち書は妄為り。因みに言う、吾が徒ら聖人を学ぶ者は、当に自ら意を用いて易詩書春秋論語孟子孝経を看るべきのみ。中心は既(もとより)主たる所に有りて、則ち諸書を散看し、方円軽重の来るは必ず規矩権衡が正す所為り」と。又た言うに、「史書は尚最も是れ可にして、荘老は読時大段道を害す」と。

  (訳文)李君行先生が語っていたことだが、「周の武王が商王紂の罪を数え上げて言うには、“郊社の祭礼を正しく守らず、宗廟の祭祀も怠った”と。いろいろな書物を繙くと、皆郊の祭りが社の祭りを含めて行われたことが解る。郊とは天を祭る行事であり、社は地を祭る行事である。南郊(天の祭り)・北郊(地の祭り)・五天帝の祭りなどは皆、<周礼>から始まる。聖人の書には、そのことが触れられていない。父祖を尊び、郊祭事に祖先を併せて祭る義礼は、まさしく周公が始めたものである。若し古くから天地祖の祭礼が有ったとすれば、どうして孔子はかかる祭祀の儀礼が、周公その人から始まったと言い得たのか。五爵三封の制度も、周朝が始めて定めたものである。夏・商時代の以前から有ったとする書物の記載は、間違いである。ついでに言うと、我ら仲間が聖学を学ぶ時には、それぞれに注意して、<易経>・<詩経>・<書経>・<春秋>・<論語>・<孟子>・<孝経>だけを教材としている。中心となるものは、当然その主体となる部分で、これらの教材を廣く学ぶのであり、その重要性は正しい基準に照らして判断することになる」と。また言うには、「歴史書は最も重視すべきものだが、<荘子>・<老子>を読む時には、大きな過ちを犯して道を踏み外し易いので、注意すべきである」と。

  (注釈)武王は周朝の初代の帝王。商(殷)の暴君紂王を亡ぼして周王朝を建てた。ここの武王の言葉は、<書経、周書>の泰誓篇にある。郊社の礼や宗廟の礼については先にも触れたが、<礼記、中庸>に記録があるが、<論語>などの聖書には見られない。<周礼>は周公旦が、周代の官制を記したものとされているが、後代のものらしい。“列爵惟五、分土惟三”は<書経、周書>武成へんにある言葉で、爵位は五段階、土地分封は三段階を意味し、公侯伯子男の五爵、公侯爵が方百里・伯爵が方七十里・子男爵が方五十里の三封となる。殷王朝までは公侯伯の三爵だったが、武王がこれに子男の二爵を追加した。しかし与える土地が限られていたので、爵位と分封がこうなったと云う。武王も臣下の待遇に気を配らねば為らなかったのだろう。<唐律疏義>に“権衡之知軽重、規矩之得方圓”の言葉がある。

40萬物は皆我に備わる。身に反(かえり)みて誠あらば富有之れ大業、至誠息(や)むこと無く、日新之れ盛徳なり。

  (訳文)この世のすべてに通ずる道理は、生来皆自分の本姓の中に備えているものだ。自身を省みて、真心に欠ける處がなければ、大いに大事業を果たすことが出来ろ。その至誠の働きは永遠に続き、日々新たに己の学問を進歩させることが出来るが、これが盛徳というものである。

  (注釈)“萬物皆備於我矣、反身而誠”は<孟子>盡心篇に有り、“楽莫大焉、・・・”と続く。“富有之大業、日新之盛徳也”は、<易経>撃辞伝に有り、“富有之謂大業、日新之謂盛徳”となっている。“至誠無息”は、そのまま<中庸>に有る。あちこちの言葉を組み合わせただけのことか。

41田膄誠伯が嘗て説くに、「他に心を用い、多(まさ)に気を心に勝(まさ)ら使め、心不善の所の者有る毎に、常に気を之れに勝ら使む」と。且つ云うに、「自知は此の如く、未だ善為り得ざるなり」と。

  (訳文)田膄誠伯が昔語っていたことだが、「心は物に応ずるだけに止め、限りなく萬物を受け入れる気が、心に勝るように心掛け、心に不善が生じる度に、気を働かせることが大切だ」と。更に云うには、「己を知れば、このように善の境地にはまだまだ達していないことがよく解る」と。

  (注釈)<荘子>人間世篇にある、“無聴之以耳、而聴之以心。無聴之以心、而聴之以気。聴止於耳、心止於符。気也者虚而待物者也”が参考になる。“気”が“心“よりも上位概念として扱われている。夏目漱石の”道草“に、”姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に、彼の気は興奮していた“という一節がある。”心“と”気“が別物として捉えられている處が面白い。

42誠伯が又た云うに、「読書は須く是れ盡(ことごと)く某人の説や某人の説の心を去り、然して後に經(はか)りて窮すべし」と。

  (訳文)誠伯がまた語るには、「読書に際しては誰某の見解とか、誰某の見解の真意を鵜呑みにすべきではない。熟読して後に能く分析して極め尽くすべし」と。

  (注釈)鵜呑みにせず紙背に徹すべしという處か。

43李君行先生の学問は、利欲を去るを以て本と為す。利欲去れば則ち誠心在り。

  (訳文)李君行先生の学問は、利得を貪る心を捨て去ることが基本となっていた。これが達成出来れば、確りと真心を培うことが出来る。

  (注釈)私欲が誠の心を鈍らす。本然の善性を曇らす要因の一つが、利得と云うこと。

44李君行先生が語るに、「年二十餘の時に、安退處士の劉師正が<春秋>の文字を解するを見て、甚だ之を愛し、他(かれ)に従いその文を観、他も亦た惜しまず。後に楚州に於いて聚学す。他に一日訪問されて曰われるには、“李君が此処に在るは何を欲するためか”と。答えて曰わく、“大人去るに擧に応ずることを令(すすめ)、及第後に帰ることを令るも、今次期服を以て礙却と為る。且(しばらく)就(そこで)此処に修学し、以て後次の應擧を俟たんと欲す”と。劉が曰うには、“然らず。夫れ得んとして久しきは可ならざれば、父母の左右に在れ”と。君行是れに於いて便ち帰郷す。然して則ち劉師正は、君行の師となる」と。また云うに、「嘗て君行に語るに、“今の人の学を為す所以は、某(それがし)には却(とても)此の如き学を為すは会(かな)わず」と。

  (訳文)李君行先生が語るには、「二十余りの年に、安退處士の劉師正なる人物が、<春秋>の文章を正しく読み解いているという事を知って非常に心を引かれ、彼についてその文章を勉強し、彼もまた惜しみなく教えてくれた。その後楚州に移って、人々に混じって学習していたが、或る時彼が訪ねて来て私に、“君は長らく此処に止まっているが、何か目的があるのか“と尋ねてきた。私は、”貴方と別れる時に科挙の試験を受けるように勧められ、及第したら帰郷しようと学習していたのです。ところが今回一年の喪に服さねばならなくなり、受験の機会を失ってしまいました。そこでもう暫く此処に止まって学習し、次回ののチャンスを待っている處です“と答えた。すると劉氏が云うには、”それはまずい。時間を掛け過ぎるのは良くないし、父母の側に居るべきだ“と。君行は之を聞いて、恐れ入ってとうとう帰郷した。こうして劉師正は、君行の師となった」と。また劉師正が君行に語るには、「近ごろの学問をする者は、はっきりした目的を持って居らず、私にはとてもそういう姿勢は合っていない」と。

  (注釈)安退處士についてはよく解らない。處士とは官職に就かぬ在野の士のことだが、安退が名の類なのか、土地の名なのか或いは他の意味か解らない。劉師正についても詳しいことは不明である。魯国の歴史書<春秋>に詳しい人物だから、学問に厳しい目を持っていたことは頷ける。ここで云わんとしているのは、親元を離れるのは、親不孝に当たると云うことか。それと目的も為しにだらだらと学習することの戒めも。

                         つづく

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「童蒙訓」ー巻下Ⅴ

2012-10-15 08:27:23 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅴ

32瑩中が都司と為り、曽子宣に上げた目録で論じた書に云うに、「目今之を観るに、盛衰の世は大臣の門に負恩の士有ら使しめ、則ち漢の宗社は未だ危亡に至らず。然して則ち大臣と為る者は其の君を欺かず、尽忠の士は亦安忍して其の門を負(にな)う。此の如き等語は、皆以て懦夫の志を立てしむるに足る」と。其の後、呂吉甫に上げた書に、「列子の言に有る”世は生人を以て行人と為し、則ち死人は帰人と為る。行きて帰るを知らざるは、家を失う者なり”とは、此れ禦冠の未了の語なり。生死は無時にして不一、四大は無時にして不離、何ぞ死を待ちて乃ち帰と為すや。其の生や心に帰し、其の死や形に化す。帰して化を待つ、復た何ぞ言を俟(ま)つや」と。其の精識遠見、殆ど古人に過(まさ)る。此れ蓋し吉甫を誘い、之れ善と為さ使め、老子の所謂常善は人を救うものなり。

  (訳文)瑩中が都司となってから、宰相の曽布に提出した上奏文の中で、古典を論評して記すに、「只今、これらを見てみると、栄枯盛衰の世に於いては補佐役となる大臣の中に、恩徳に報いんとする忠臣が現れるように出来ており、漢朝も滅亡には至らなかった。すなわち大臣達は君主を欺くことなく、尽忠の臣は甘んじて堪え難きを堪えながら其の職責を果たしていた。負恩とか尽忠とかの同じ意味を持つ言葉は、意気地ない者達の志を、奮い立たせるのに充分に役立つものだ」と。其の後大臣の呂恵卿にも上奏文を提出して、その書に記すに、「<列子>の中の言葉に、“世間では生きている人間を旅を続けている行人と称し、死んだ人間は本来の住処に戻ってきた帰人と称した。だから、旅を続けたまま帰ることを忘れた者は、自分の住処を失った人間ということになる”と記されている。これでは列禦冠の言葉は舌足らずと云うものだ。生とか死というものは常に一つのものではないし、宇宙の中の大なるもの、すなわち<道>・<天>・<地>そして生死をも呑み込む<人=聖王>は常に不即不離の状態にある。どうして死ぬことが帰ると云うことになるのか。生きることは心に帰属する問題であり、死ぬことは形骸化する問題だ。帰属して形骸化すると云うだけで、それ以上の言葉は要るまい」と。彼の識見の精密で遠大な處は、実に先人に過ぎるものが有る。こういう奏上をした意図は、瑩中が吉甫を誘い、瑩中の見解が正しいものと世間に認めさせ、老子の云ういわゆる常善の思想こそが人々を救う最善の策だと云いたかったのであろう。

  (注釈)都司とは軍制を掌った都指揮使司のこと。前漢・後漢・蜀漢を通じて多くの負恩の士・尽忠の士が輩出したことは、有名な三国志などを見れば解る。引用されている<列子>の言葉は、<天瑞篇第十>にあるもので、孔子が“死は休息だ”とか、春秋時代の斉の名宰相晏嬰の“死は人生の帰着点を得ること”などの話も紹介されている。御寇は<列子>を著したとされる列御寇のこと。四大とは、老子が説く無為自然に基づくもので、“宇宙には四つの大なるものがあり、道・天・地そして王(徳のある人)の四つで、自然を本としてこの順にそれぞれ則る”とされる。常善も老子の言葉で、善行無轍迹の項に“是以聖人、常善救人、故無棄人・・・”と紹介されている。ここでは忠臣の話、死生観、四大の話そして常善の話が紹介されている。これらをどうつなぎ合わせて良いのか、戸惑う。解釈の仕方が間違っているのかとも思うのだが、もう一つぴんとこない處がある。死生観に触れているので、折角だから道家の考えをまとめてみよう。

  ◯老子は無為自然を標榜し、万物の根源であり始原である「道」は大で、大であればどこまでも進んで果てしなく遙かに為り、遙かに為ればまた元に返る事に為る。この大なるものには「天」・「地」そして「王=徳を窮めた人」がある。だから人の生死も無為自然の働きの中に在り、他の三大と共に自然に則ると捉える。死も其の中に組み込まれているのだから、恐れることはないと云うことになる。

  ◯列子は万物が渾淪(渾沌)の中から生まれ、人もその例外では無いと説く。その生まれて終わるまでに、大きな変化(嬰児・少壮・老耄そして死)を辿る。最後の死期にあっては、休息そのものであって、それ以上の本に反る事は無い。そこが人生の帰着点となり、仁者はそこで休息し、不仁者はそこに身を隠すことになる。故に行人とか帰人とか住まいとかの言葉が出てくる。死とは心を落ち着ける家に帰ることになる。

  ◯荘子は万物斉同(絶対的空間では差別が無いから、万物は皆等しく、物を二つに分けて差別する人為を無くす“無為”に為れば、そこにありのままの真実が現れる)を主張し、生命を構成する気が集合すれば生に為り、離散すれば死に為り、生死は一気の集散に過ぎないのだから、生死について何も憂える必要は無いと説く。生も死も等しいのだから、生にあっては生に安んじ、死にあっては死に安んずれば良いと云う。荘子は中国で最初に死を正面から論じた思想家である。

33高郵守晁仲約、大賊有りて城下を過ぎるに、城を攻めんと欲す。守は民の金を醵(つの)って賊に与え、賊は乃ち去る。范文正公は富鄭公と同じく政府に在り、鄭公は建議して、「守は死守すること能わず、乃ち金を以て賊に与え、節を失すれば誅に当たる」と。范公以為(おもえらく)、守は能く金を醵り、賊を却(しりぞ)けたれば功有りと為す。縦(たとえ)賞を欲せざるとも、安(いず)くんぞ誅を可とするやと。既に退きし、富公慍(いか)って曰うに、「方今、法は挙げずして患い、方(まさ)に法を挙げるを欲して、多方之れを沮む。何を以てか衆を整うや」と。范公密かに告げて云うに、「祖宗以来未だ嘗て軽(むやみ)に臣下を殺さず。此れ盛徳の事なり。奈何(なんぞ)軽に之を壊さん。且つ吾は公と共に此れに在って、同寮の間に同心の者幾人か?上意亦た未だ定まらずと雖も、軽に人主を道(みちび)くに、以て臣下を殺戮せんか?他日自滑せば、吾輩と雖も亦た未だ敢えて自保せざるなり」と。富公が曰うに、「聞くに高郵の人は、守の肉を食(くら)うことを欲す」と。范公が曰うに、「高郵の守は既に能く民の為に賊を却け、民は感載之れ暇あらず、豈に守の肉を食うことを欲するの理有らんや」と。仁廟卒(お)わり范公の議に従う。明日富公は疾と称して出ず。仁廟で宰執が問うに、「富弼は何を以てか出ざるか」と。范が曰うに、「必ず是れ高郵の事を争う為なり」と。上が曰うに「富弼は卿門の人に非ずや」と。范が曰うに、「富弼は臣と相知にして、然して弼は人の為とは雖も義を守るに回(まげ)ず、心を安んぜざる者にして、肯えて従わざるなり。此れ正に是れ弼の好處なり」と。上が曰うに、「此れ却って是れ卿の好處なり」と。後に范富俱に政を罷(しりぞ)き、富は事を以て召されて京師に至るも、之れを譖(そし)る者甚だ衆(おお)し。或いは以て為すに、富公は不臣の意有りとして、京城に至るも見(まみ)えざる者、累日たり。富公は甚だ恐懼し、且つ高郵の建議の非を悔い、歎いて曰うに、「范六丈は真に聖人なり、吾が浅見とは同じからず」と。

  (訳文)高郵の城を守っていた軍事長官の晁仲約が、城下を通りかかった賊に攻められる事件があった。その時彼は民衆から金を集めて盗賊に与え、立ち去って貰った。当時范仲掩は富弼と共に政府の要職にあった。富弼はこの件に関して、次のように具申した。則ち、「彼の長官は城を死守することもせず、金を賊に与えて逃がすという失敗をしてしまった。これは誅殺に値するものだ」と。この時范公が思ったのは、“彼の長官は金を集めることを思いついて実行し、盗賊を追い払って城を守ったのだから、功績を挙げたことに為る。だから褒めてやってもいい話で、誅殺など以ての外だ”と。既に退出していた富弼は、この事を耳にして怒りを込めて云うには、「昨今、法を守らぬ傾向があると云うよりも、法を曲げようという風潮が見られる。これでは、どうやって民衆を治めようと云うのか!」と。范公が密かに富弼に云うには、「初代太祖以来、軽々しく臣下を誅殺することは無く、これはひとえに天子の聖徳の賜であった。今回の件も、軽率に処理してはいけない。私は貴君と共に朝廷に席を置いているが、同役で貴君の意見に賛同する者は少ない。上意がなかなか決まらないからと云って、軽々しく臣下を死罪に処すべしなどと、主君に進言するのは良くない。いつの日か主上が同じような過ちをすることがあれば、私は身を挺してでも防ぐつもりだ。」と。富弼が云うには、「高郵の人々は、今回のことで晁仲約を憎み、その肉を食らいたいぐらいだと云っていると聞く」と。范公が云うには、「今回のことは、晁仲約が民が傷つくことを恐れてやったことであって、民も危害を加えられなかったことを大いに喜んでいる。そんな彼らが長官の肉を食らいたいなどと思っている筈がない」と。廟議が終わり、范公の意見が採り入れられた。翌日富弼は病と称して廟議の席に現れなかった。宰執らが、どうして富弼が出席しないのかと問うた。范公が答えて、「高郵の件の処置に不満だったのでしょう」と。仁宗が、「富弼は国政に参加する重責を負っているのではないか」と咎めた。これに范公が答えて、「私は富弼をよく知っていますが、彼は人を傷つけることに為るからと云って、正義を曲げるようなことをしない一途な者で、今回もその信念に従って頑固に反対したのです。これぞ正しく、彼の素晴らしい處と言えます」と。仁宗が云うには、「正しくその通りだろう」と。後に范仲掩・富弼共に政界を退いた。富弼は神宗に召し出されて宰相に為るが、評判が芳しくなかった。ある者は、富弼が臣下の道に反していると云って、幾日も会うことを拒む者も居た。富弼はその評判を恐れ、また高郵事件のことを悔い歎いて云うには、「范公は真に聖人である。私のような見識の浅い者とは、器が違う」と。

  (注釈)高郵は江蘇省にある地名。晁仲約が軍官であった以外は詳細不明。ただ、この話は有名で、あちこちの書物に記載されている。大賊とは、あちこちを荒らし回っていた海賊の張海という者。この時、晁仲約は戦力的に到底防ぎきれないとみて、富豪を説いて金を集め、酒肴を整え、手厚く贈り物をして大いにご機嫌を取ったらしい。盗賊は暴虐を働かず、喜んで去ったという。当時范仲掩は参政知事、富弼は枢密副使で共に宰執として閣内におり、仁宗朝の慶歴三年から五年まで共に在任していた。その頃の話である。范六丈の六丈とは、兄弟の中の六番目という意味で、范公を敬ってこう呼んだ。富弼は范仲掩に取り立てられた人物である。

34榮陽公が嘗て、文中子の数語を家中の壁上に榜(かか)げて、云うに、「子の室に酒絶えず」と。注して云うに、「用に節有れば、礼は缼かさず」と。

  (訳文)榮陽公が昔、<文中子>の中にある“王通の部屋には酒が絶えず置かれていた”と云う言葉を家の壁に掲げていた。その側に、“飲み方にも節度があり、礼を失ってはいけない”と添え書きされていた。

  (注釈)<文中子>は、隋代の儒学者王通(おうとう)とその弟子との対話集で、<論語>に倣ったもの。文中子は王通の諡。

35周恭叔行己が嘗て言うに、「呂與叔博士に見(まめ)えなば、必ず説くに”事(そ)うこと有りて、正(せい)とすること勿れ、忘れること勿れ、助長すること勿れ”と。浩然の気は天地に充塞し、得て言うは難しと雖も虚無には非ざるなり。必ず事うこと有り。但し其の名を正して之れを取るは、則ち之れを失うことなり。又た之れを忘るべからず。之れを忘れる者は苗を芸(うえ)ざる者なり。其の名を正して之れを取る者は、苗に非(そむ)く者なり」と。

  (訳文)周恭叔行己が昔、語っていたことだが、「呂與叔博士にお会いすると、必ず語るには、”浩然の気は常に正義と人道とに連れ添って存在するから、浩然の気だけを目標として養うようではいけない。かといって勿論忘れたり、助長してもいけない”と。浩然の気は天地の間に充ち満ちており、これを養うことはなかなか難しいが、道家の云うような虚無という物でもない。常に正義と人道と共にある。浩然の気という名にとらわれ過ぎて、養うこと急ぎすぎると反って失うことにもなりかねない。また忘れることは、浩然の気を始めから否定してしまうことになる。さらに執着しすぎるのも、反って浩然の気を害うことになりかねない」と。

  (注釈)周(行己)恭叔とは程伊川の門人で、その二程全書によく出てくる人物。悪所道楽を、親の身体を汚しているのと同じだと師に注意されたとか、葬儀の席の供酒は礼に反すると叱られたりしている。ここで語られている“浩然の気“は、<孟子、公孫丑上篇>に記されている。苗は、浩然の気を譬えたもの。助長(助けようとして、無理に外から力を加えて、反ってそれを害すること)という言葉も、<孟子>から出ている。

                      つづく

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「童蒙訓」ー巻下Ⅳ

2012-10-01 08:29:06 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅳ

25元佑の間に、伊川先生は既に洛中に帰り、范公淳父の書に寄せて云うに、「丞相に久しく留まり、左右の助ける所の一意正道の者は、実に原明在るのみ」(原明は榮陽公の字なり)と。伊川が嘗て言うに、「楊応之は交遊中に在りて、英気偉度人に過絶し、未だ其の比を見ず。望んで以て吾道を託すべき者なり。応之は善を楽しみ徳を尚(たっと)び、而して論議苟(いやしか)らず。富文忠公以て事を処すも、猶有心免れず。孫威敏の如きは操行不能にして端一、石守道の行いは詭激多し。特に両人は己に附すを以て、乃ち威敏を薦めて己れに代え、守道を薦めて台諫に任ずるを可とす。又劉原父の如きは、文学人を絶ち、喜んで韓・富を訕(そし)り、亦た擯抑を加う。凡そ此の類は有心を免れず、況んや常人おや。然りと雖も、毫髪之れを失わば心術生じ、其の流れは之れ敝して、勝言すべからざるもの有り。豈に賢師の友を要して、以て其の微邪を正救せざるや。此れ応之の論なり」と。

  (訳文)元佑年間に、伊川先生は既に洛中に帰っていて、范祖禹がしたためた書を引用して語るに、「丞相のお側に長らく仕えて輔佐するに、ひたすら道を正すことに努めた者は、実に原明のみである」(原明は、榮陽公の字なり)と。伊川が昔語っていたことだが、「私が交友を持った者の中では、楊応之が英気・器量共に一番優れており、今までに見たこともない人物だ。出来れば私の後継者になってもらいたいものである。応之は善を楽しみ、徳を尊び、その意見は誠実そのものだ。富弼は仕事を進める上で、ややもすると思慮分別に欠ける處がある。孫威敏は品行に好ましからざる處があって、しかも融通がきかず、石介の言動には過激すぎる嫌いがある。しかしこの二人は富弼を守り立てるので、威敏を後任に、守道を台諫に推薦した。また劉原文はその文学に卓越していたばかりに、進んで韓や富弼を譏ったり、侮ったりした。全くこういう知識人でも、思慮分別に欠ける所があるのだから、常人では尚更である。しかしながら少しでも思慮分別の足りない言動をすると、正しい心が働いてブレーキが掛かり、おごり高ぶった言動はおさまるものだ。どうして賢師を友としながら、その少しの過ちを正すことが出来ない事があろうか。と云うのが応之の主張である」と。

  (注釈)丞相とは正献公の事であろう。楊応之の記述が出てくる度に思うのは、顔淵のこと。どこか似通った處を感じる。富文忠公とは富弼のこと。字は彦国。范仲淹に見出され、宰相にまで上りつめ、宋代名臣の一人に数えられている。王安石の新法が始まると、これに敵対して左遷されてしまう。穏健な政治を行ったとされている。孫威敏については詳しいことは解らないが、二程全書にその名が度々現れたり、孫威敏征南録なる書も見られるので、当時は名の通った人だったのだろう。石守道とは石(介)守道のこと。北宋の学者で、徂徠山の麓に住んでいたので、徂徠先生と云われた。台諫とは、知諫院(天子の行為を諫争する部署)と御史台(朝廷の監察を掌る部署)のこと。韓富とは仁宗朝から神宗朝にかけて宰相であった韓と富弼のこと。

26太宗朝、真宗朝、睢陽に戚先生なる者有り。名は同文、字も同文、至行有りて、郷人皆之に化す。睢陽に初めて学を建て、同文実に之を主(つかさど)る。范文正は嵆内翰穎の父と興に、皆嘗て師事す。戚の綸は其の後なり。居る処の門前に大井有り。上元の夜に至る毎に、即ち井傍に坐り、游人の井に墜つるを恐れ、之を守り、夜の深けるに至り、則ち井を掩いて後に帰寝す。嘗て人が其の衣とする所の衫を、盗む者有り。同文は適(たまたま)之を見て盗を喩(さと)し、弟(ただ)将に去る。然して此れ自り慎みて、復た然ること勿し。汝の行止を壊(ただせ)ば、悔いは及ぶこと無し。盗は慚(は)じ謝して去る。同文の意を、衫を以て之に予う。南康学中に、今に至るも戚先生の祠堂あり。

  (訳文)太宗朝から真宗朝にかけて、睢陽に戚先生という人が居た。名は同文と云い、字も同文で、日頃の身の処し方が尋常では無く、非常に立派だったので、郷里の人々は皆彼に感化されるという風であった。睢陽に初めて学問所を開き、これを主宰した。范文正は内翰の嵆穎の父と共に、古くから戚先生に師事していた。戚先生が学問所を主管するようになったのは、その後のことである。住まいの門前に大きな井戸があり、彼は上元の夜が来る度に井戸端に坐り込み、物見遊山に出掛けた人が、誤って落ちることを心配して注意を払い、夜が更けると井戸に覆いをかぶせて、間違いが起きないように気を配ってから家に入り、それから寝るという有様であった。また昔、衣服を盗む者がいて、たまたま其れを見た同文はその盗人を諭すだけで、事を荒立てるでもなく立ち去ってしまった。それからは盗みを働くことも無くなった。人は己の振る舞いを正せば、悔いることは無くなる。盗人は恥じ入り、礼を云って立ち去った。同文の思いは、こうして盗人に伝わったのである。南康学門所の中には、今でも戚先生の社が残っている。

(注釈)睢陽は河南地方にあったらしい。戚先生とは、戚(同文)文約のこと。ここでは字が同文となっており、宋史にも同文と記されているが、どちらが正しいかは不明。北宋初期の著名な教育家。儒学世家の出で、幼少にして両親を失い、祖母に育てられ、祖母が亡くなると一日中泣き悲しんで、数日飲まず食わずで過ごし、人々はこれを見て大いに感動したという。この事が“至行”という言葉になって現れたのだろう。<禮記>・<五経>などその指導は厳しかったが、五・六十人の登第者を出し、其の名を慕って遠く千里の遠方からも、学生が参集したという。井戸の話や盗人の話は、如何にも人を思う教育者らしい逸話である。蔵書多く、作詩を好んだ。嵆穎については不明。内翰は翰林院(文人や学者を集め、天子の詔勅を掌った役所)の職。南康は江西地方にある。

27范文正公は初めて戚先生に従って学び、志趣特異、初め学中に在りて未だ己が実に范氏の子なるを知らず。人或いは之に告げ、帰りて其の母に問えば、信(まこと)に然りと。曰うに、「吾は既に范氏の子、朱氏の資給を受けるは難し。因って力(つと)めて之を辞す。貧甚だしく、日に粟米一升を糴(か)い、煮熟放冷し、刀を以て四段に畫(わ)け、一日の食と為す。道人有りて之を憐れみ、授けるに焼金法を以てし、幷(なら)びに金一両を以て之に遣わし、又た金一両を留めて、之に謂いて曰わく、「吾が子来り候わば、之を予えよ」と。明年道人の子来たりて金を取る。文正は道人の授ける所の金法幷に金二両を取り、皆封完して未だ嘗て動かさず。併せて以て之を遺す。其の励行は此の如し。後に科に登り、朱氏の父に封贈し、然る後に帰姓す。

  (訳文)范文正は初めて戚先生の下で学問に励んだが、その志向する處は特異なものであった。初め学問所に居た時には、自分が范氏の家系とはつゆ知らず、人から其の事を聞き、帰宅して母に尋ねて真実であることを知った。そして、「私が范氏の家系だと解った限りは、朱氏の資給を受ける事は出来ない」と云って、強くそれを辞退した。その為に貧乏暮らしも酷くなり、毎日粟米を一升買うだけが精一杯で、それを煮炊きし、冷やして固めた物を刀で四つに切り分け、一日の食量に当てると云った具合であった。一人の道人がこれを見て憐れみ、焼金の法を教え、また一両を与え、更に一両を預けて、「吾が子が来たら渡してくれ」と云った。明年道人の子が訪ねて来たので、預かっていたお金を渡した。文正は道人から教わった金法と、頂いたお金、それに預かったお金をそっくり仕舞っておいたのである。その生真面目さは将にこのようなものであった。その後科挙に合格して、育ててくれた朱氏の父親に応分の贈り物をして、その上で本来の范姓に戻ったという。

  (注釈)范文正は前にも触れたが範純礼の父親で、北宋初期の政治家。范(仲掩)希文(文正)のことである。二才で父を失い、母が朱氏に再嫁したので朱(説)と名乗っていた。成長して生家のことを知り、本姓に戻った。ここで語られているのは、この時の話である。彼は常に天下国家を論じて、士大夫の心意気を奮い立たせ、欧陽脩らと共に“君子の朋党”を名乗り、一身を投げ打って国家の為に尽力した。六経・易にも通じていたという。道人は道教を修めた人で、ここで云う“焼金の法”についっては詳細不明だが、神明や死者におくって陰間の費用に充てる為に、紙銭(祭祀用品として作られた、貨幣を模して作られた紙製品)や紙布を祠廟の金爐・街頭・墓地などで焼く事を焼金と云い、そこに秘伝の法があったようで、道教信仰として災難除けに用いられたらしい。今でも台湾などで行われているという。

28師友の淵源には必ず自(もとづ)く所有りて、未だ因(わけ)無くして然りとするは有らず。周茂叔先生の如きは、南安の軍に官守し、守の為に不禮を所とす。両程の父太中公は虔州自り差(つかわ)されて南安の倅を攝(す)べ、茂叔と相い善(した)しく、力めて之を庇護す。其の後両程は皆茂叔に師事す。

  (訳文)師とも仰ぐ友人を得るには、そうなる為の理由が必ずあるわけで、理由も無くそういう関係を築いたという話は、今までに聞いたことがない。周茂叔先生の場合は、南安軍に籍を置いて、職責を果たす為には、礼に叶わぬ事もしなければならなかった。両程の父太中公は、虔州から派遣されて南安軍の兵士らを指揮する立場にあり、其の中で茂叔と親交を深め、彼を積極的に庇護するという因縁があった。その後二程は二人とも、茂叔に師事する事になったのである。

  (注釈)太中公とは、程明道・伊川兄弟の父で、その思想形成に大きく影響を与えた人物の程(珦)のことで、太中大夫であった。

29陜西侯無可先生は二程の舅(おじ)にして賢豪独立、申顔先生と友に為る。申先生が死し、侯先生は家の有する所を傾けて之に予(あた)う。

  (訳文)陜西の侯無可先生は二程の舅父であり、賢く優れた人物で独立心強く、申顔先生の友人であった。申先生が死亡すると、自分の家を処分してまで、彼の遺族を援助したという。

  (注釈)侯無可についてはよく解らない。申顔先生とは巻上Ⅰに出てきた”申顔者”なる者と同一人物のようだ。關中は陝西省中部にあるのだから。

30關止叔が嘗て言うに、「伊川の門弟子は、且(まさ)に是れ信得して師説に及ぶ」と。

  (訳文)關止叔が昔、語っていたことだが、「伊川の門弟らは心底信じ切って、師の教えを守った」と。

  (注釈)程伊川は非常に厳しい人だったから、弟子達もさぞかし恐れていたことだろう。

31陳瑩中が嘗て責沈文を作り、其の姪孫の畿叟に送って云うに、「予(われ)元豊乙丑の夏、禮部貢院點検官と為り、適(たまたま)校書郎の范公淳夫と舎を同じくす。公は嘗て論ずるに、“顔氏の遷(うつ)さず弐(ふたた)びせずは、唯だ伯淳のみ之を能くす”と。予公に問いて曰わく、“伯淳とは誰か”と。公は黙然として久しくして之れ曰わく、“伯淳が有るを知らざるや?”と。予は謝して曰うに、“東南にて生長し、実に未だ知らず”と。時に予年二十九。是れ自り以来、常に寡陋を以て自愧す。其の傳を得し者は楊中立先生の如くして、亦た未だ之を識らざるなり云々」と。所謂責沈なるものは葉公沈諸梁のことなり。葉公、孔子を子路に問うに、子路對(こた)えず。葉公は當世の賢者なるも、魯に仲尼有るを知らず、宣乎(むべなるかな)子路之れ對えざるは。瑩中以て謂うに、「世に伯淳有り、而して己は知らず、自責も宜なるものなり。今世の人は、己の知らざる所を聞けば、其れ慍(いか)りて謗罵を発せざる者は幾(ほとん)ど希れなり。況んや能く自責し、日夜以て愧と為すおや?」と。瑩中之れ古今を超絶し、特立独行にして顧みざる所以は、偶然には非ざるなり。

  (訳文)沈瑩中が昔、責沈なる文を書いて、兄の孫の陳畿叟に送った中に、「私は元豊八年の夏に、禮部貢院點検官となり、たまたま校書郎の范祖禹と同居することがあった。范公は、“顔回の八つ当たりせず、過ちを繰り返さず、という言葉を実践しているのは、程だけだ“と語ったことがある。私は、”程とは誰のことか“と尋ねた。すると公は、黙っていたが暫くして、”あの有名な程を知らないのか“と云った。私は言い訳がましく、”東南地方で育ったものだから、其の名を聞いたことがない“と云った。当時私は二十九才にもなっていた。それ以来というものは、常に知識の至らなさを恥じ入るばかりであった。顔回の思想を受け継ぐ者は、楊中立先生なのだが、之も知らなかったのである、云々」と。ここで責沈というのは、春秋時代、葉縣の長官をしていた葉公沈諸梁の故事に習った言葉である。即ち、葉公が孔子のことを子路に尋ねた処、子路が答えなかったという場面から生まれた言葉である。葉公は当時の賢者ではあったが、魯に孔子なる君子が居ることを知らず、子路はあきれて答えなかったのである。瑩中が云いたかったのは、「有名な程を知らず、自分を責めることになったのは致し方ない。当世の人々は、自分の知らないことを聞くと、怒って悪態をつくばかりで反省もしない。まして自責の念に囚われ、日夜それを恥じると云った態度を示す者など居ない」と云うことであろう。瑩中は飛び抜けた存在で、独立独行の人ではあったが、若年時に反省が足りなかったと云うのも、起こるべくして起こったものである。

  (注釈)責沈とは見慣れぬ言葉だが、本分の中にも書かれているように、沈氏が己の知識不足を責めたと云う處から出たもののようで、当時としては珍しくもない表現だったのだろう。姪孫の畿叟とは、兄の孫の陳(漸)畿叟のことで、後に陳(淵)知黙と改名したらしい。初め二程に学び、後に亀山に従学。文官として天子の講義にも参加。・“不適、不弐”は、<論語、雍也>にある言葉で、魯の国主が孔子に、弟子の中で誰が学問好きかと尋ねた時の返事の中の、“有顔回者、好学、不遷怒、不弐過、云々”である。禮部貢院は尚書省にある科挙試験場のことで、そこの試験監督官だった頃の話である。東南育ちだと言い訳したのは、程は北方出身だからである。葉公とは、楚の国の葉縣の長官であった沈(諸梁)子高のこと。子路が答えなかったという話は、<論語、述而>にある。
                                            
つづく

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「童蒙訓」ー巻下Ⅲ

2012-09-15 08:26:50 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅲ

19伊川先生が嘗て弟子の日(ひごと)の歌會に赴き、、過ごすこと差(しばし)有り。先生は之を聞き大いに楽しまず。以て為すに此の如きは人理を絶ち、禽獣に去(へだたる)こと無畿(いくばくも)無き耳(のみ)と。(一本に幾希と作る)

  (訳文)伊川先生が昔、門人達が毎日行っている歌會に出向いて、暫く同座した事があった。先生は出席はしたものの、大変不機嫌であった。と云うのも、こういう会合は人の道理を欠き、禽獣とちっとも変わらない行為だと思ったからである。

  (注釈)程伊川は性格が謹厳に過ぎその非妥協的な言動が同僚との軋轢を生じ、特に蘇東坡やその門下生と争い、まもなく朝廷を追われ、晩年はおおむね不遇であった。歌詩の類は軟弱だとでも思っていたのだろう。

20正献公が相と作りし時、毎月上尊を以て親舊に分遺す。楊十七学士応之は、公の甥なり。月に両壺を送る。楊学士は酒を得るに、即ち酒家に送り、常に酒の数壺を易て、酒を飲むことを欲して即ち之を取る。東莱公は以て為すに、楊学士の英気は偉度にして、必ず脣舌の間に霑(うるお)すを以て上尊の滋味を玩(もてあそ)び、美と為さず。酒を得るに多くを尊び、美の悪を問わざれば人を過ちに達(みちび)く。

  (訳文)正献公が宰相となって、毎月上等な酒樽を、親族や親しい人達に送り届けていた。楊応之は公の甥に当たる。彼にも毎月二つの酒壺を送っていた。楊応之はその壺を酒屋に預け、何時も五・六個の酒壺を用意しておいて、飲酒に当てていた。東莱公は叔父の楊応之を鋭気に満ちた人物として接し、酒を飲むのも口を潤す程度のもので、上等な酒の滋味を味わっているのであって、酒に溺れているのではないと捉えていた。酒を飲むにも度を超して、その美味の誘惑に負けてしまうと、人を失敗に導くのが酒である。

  (注釈)毎月と云うと、正献公の周りの人々は可為りの飲兵衛だったのか?

21.李君行先生の長子格は徳行にして博学、克く其の父に肖(に)て四六の標章に長ける。早歳にして科に登り、紹聖中に江寧府上元縣を知し、榮陽公は太平府を知す。李は啓事を以て公を賀し、其の略(あらまし)を云うと有れば、「知府侍講は命世の雄才を蘊(つ)み、經邦の遠器を賦す。令問令望、韋平舊相の家を起こし、嘉謀嘉猷、舜禹重熙の代に翊(と)ぶ。危誠獨立にして、己を直して回(まが)らず、進退の儀は従容として、始終の節は挺達す」と。

  (訳文)李君行先生の長子格は、道徳に叶い造詣も深く、父親に似て四六文の表現に長けていた。若くして科挙に合格し、紹聖年間に江寧府上元縣の主管と為り、その当時榮陽公は太平府の主管であった。李先生は上申書を送って榮陽公を祝い、そのあらましは次のようなもので、「府知事侍講の榮陽公殿は、世に名高いすぐれた才能を積み重ね、国を治める才能に長けておられる。令名高く人望があり、かの韋氏・平氏ら舊丞相家のように、宰相を輩出した名家の跡を立派に引き継ぎ、深謀遠慮にして聖王舜禹の如き光り輝く御代を輔佐しておられる。己を正して道理に外れることもなく、進退の作法にも冷静に対応し、日頃の節度を守る様子にも抜きん出たものがある」と。李先生は間もなく病に伏して再起が叶わず、学士や大夫らは痛惜の念に堪えられなかったと云う。

  (注釈)李格とは、李(格)正之のこと。幼少時から家代々伝えられた儒学を学び、品行純厚にして博学多才の人物。煥章閣待制まで登り詰めた官人。四六文とは主に四字句・六字句を対にし、声調の美に主眼を置いた美文の一種。魏・晋代に始まり、六朝時代に栄えた。駢文とか駢儷體等とも云う。韋平とは、前漢時代の韋賢・韋玄成父子と平當・平晏父子のことで、いずれも丞相の位に就き、漢が建国されて以来父子で宰相になったのは韋・平両家だけだったと言うことで有名。このことから鄒・魯地方では、「黄金を籠に満たすとも、子に経典を教えるには如かず」という諺が遺ったほどである。呂夷簡・公著父子が宰相職に就いたことは前に書いた。聖天子舜禹のことは言うまでも無い。

22国語に、「公父文伯の母が季康子に告げるに、君子能く労すれば後世継ぐあり」と。又其の子に謂うに、「聖王の民を處(お)くには、瘠土を擇(えら)びて之を處き、其の民を労して之を用う、故に長く天下に王たり」と。又曰うに、「民は労すれば則ち思い、思えば則ち善心生ず。逸すれば則ち淫し、淫すれば則ち善を忘れ、善を忘るれば則ち悪心生ず。沃土の民の不才なるは淫すればなり。瘠土の民の義に嚮(むか)はざる莫(な)きは労すればなり」と。左伝に亦た言うに、「民生は勤(つと)むるに在り、勤むれば則ち匱(とぼ)しからず」と。知を以て勤労するは身を立て善を為すの本にして、勤めず労せざれば万事挙がらず。今夫れ細民の勤労は必ず凍餒の患い無く、人親しまざると雖も、人亦た之を任(た)えるが常なり。懶惰は必ず饑寒の憂い有りて、人親しみを欲(いだ)くと雖も、人は用いるべからず。公父文伯の母と左伝の記する所は、皆故家の遺俗相伝の語にして、其れ必ず聖人より出(いで)たり。然して則ち後世は身を処し業(なりわい)に居るに、其れ勤労を以て先に為さずして、懶惰は自ら其の身より棄てるべきか?

  (訳文)国語に、「公父文伯の母が季康子に、君子が厳しく自身の労苦を厭わなければ、子孫もよく家系を守り、無事に引き継いでいくものだ、と語った」とある。またこの母が子に、「昔の聖王は民を定住させる為に、わざと痩せた土地を選んで住まわせ、其の民に労働を強いて治めたものだ」と語ったとある。更に続けて、「民が苦労すれば、其れを打開しょうとして対策を考えるようになり、考えれば善心が生まれてくる。民は安逸に過ごすと、道に外れた行いをするようになり、そうなると人としての正しい道を忘れ、悪心が生まれてくる。肥沃な土地に住む民の才能が劣るのは、安逸すぎるからだ。痩せた土地に住む民が人の道に外れるわけがないのは、苦労しているからだ」とも語ったと云う。左伝にも亦同じような記述があって、「民の生活は努力の如何によって決まる。努力さえすれば貧しくなることはない」と。知恵を働かせて勤労することは、身を立て善事を行う本となり、勤労を怠れば全てが失敗に終わる。今は貧しい民であっても、勤労さえすれば必ず貧苦から逃れられる。勤労は元来人に好かれないものだが、それが人としての務めであることには間違いが無い。怠けると必ず飢えたり凍えたりする心配がつきまとうし、怠け心は人につきものだが、人としてはならないことである。公父文伯の母の言葉や、左伝に記されている事柄は、皆旧家に遺されている戒めの言葉であり、それらはいずれも聖人が口にした言葉である。しかしながら、我々後輩は身を処し生業をするに當り、勤労を先にするよりも怠け心を捨て去る事から始めるべきではないかと迷う處だ。

  (注釈)国語とは、春秋時代の出来事を国別に記録したもので、周の左丘明の作といわれるが定かではない。公父文伯とは、魯国の執政、季桓子の孫。季康子は季桓子の子で、文伯の叔父に当たる。文伯の母は賢女として有名で、幾つもの逸話が遺されている。ここで引用されている記述は、<国語、魯語下>にあるもので、[公父文伯の母と季康子]と[公父文伯とその母]の項にある。前半の言葉は、文伯の母が姑から聞いたもので、後半の言葉は、文伯が母に説教された時のものである。左伝は魯国の史記で、やはり左丘明の作と云われるが、これも定かではない。ここで引用されている記述は、魯第二十五代君主、昭公の十六年の伝にある。いずれも勤労の尊さを強調しているものだが、最後に勤労が先か、怠け心を退治するのが先かと、問題を投げかけている處が面白い。

23元佑の末に李君行先生は楊応之学士と興に同じく京師に在りて、安静自守す。諸公は其の己に附かざるを以て甚だ進用を肯ぜず。趙公君錫無愧が中丞と為り、御史を薦めるに當り、榮陽公に薦めるに当たる所の者を問い、公は応之を以て對(こた)えと為すも、無愧は亦た用いること能わず。更に楊畏子安を挙げて御史と為すも、楊愧は後に反って無愧を攻む。紹聖の初め、応之は病となり卒す。蘇子由が知汝州を罷り、李君行先生は往きて之れに見え、之れと興に當世の事を論ず。子由は君行を知ること之れ晩きを恨む。当時の議者が謂う楊李二公が如し言路に在らば、必ず萎靡の自己を肯(ゆる)さずして、縦(たと)え益する所無くとも、亦た必ず極言して去らん。

  (訳文)元佑年間の末に、李君行先生は楊応之と同じく、京師に住んでいたが、その暮らしぶりは穏やかで、他人に迷惑をかけるでもなく、静かなものであった。支配層の人々は、自分の所に近づこうともしない君行を、少しも登用する気が無かった。趙無愧は御史中丞になって、部下となる御史の推薦を榮陽公に問うた處、楊応之を薦めてきた。無愧はこの進言を用いずに、楊畏を登用した。楊畏は後に無愧に敵対することになるのだが。紹聖年間の初めに、楊応之は病を得て没してしまう。蘇轍が汝州知事の役目を解かれ、君行は彼を訪ねて世情について論じ合った。蘇轍は君公に会うのが遅すぎたことを怨んみ、当時の評論家の間で名の通っていた楊応之・李君行の二公が、もし今の言論界に居たならば、必ずや気力の衰えた自分を許さなかっただろうし、たとえ役立つことが無かったとしても、必ず思う存分語っていっただろうと思った。

  (注釈)趙(君錫)無愧は司馬光を手伝って、“資治通鑑”の編纂に最初の頃携わっていた。御史中丞に登り詰めるが、榮陽公と同時期に元佑黨禍に遭い、逐われる身となる。世渡り上手の楊畏に背かれたここの話は、この事を指す。楊(畏)子安は官人として新旧法党の争いの激しかった神宗・哲宗・徽宗朝を巧みに渡り歩いた。

24司馬温公は既に宥密の命を辞し、名一時に冠たり。士は賢も不肖も無く、皆重く所帰し、而して両程先生・孫莘老・李公擇ら諸公は尤も正献を推重す。已にして二公は同じく洛中に居る。熙寧の末に正献は起こりて河陽に知たり。明道は詩を以て行を送りて曰く、「暁日都門に旆旌(はいせい)颭(せん)し、晩風鐃(さわが)しく吹きて三城に入る。知公は再び蒼生の為に起ち、是れ尋常の刺史には行(なら)ず」と。又た温公と同じく正献を餞し、復(ふたた)び詩有りて温公に与えて云うに、「二龍閑臥(かんが)し洛波清し、此の日都門に独り餞行。願わくば得ん賢人の出處均しからんことを。始めて知る深意の蒼生に在るを」と。蓋し二公の出處は異なること無く、且つ温公は出でざるを以て高きに為くを恐れたり。正献公は河陽自り乞うて京の官宮祠に在るに及び、神廟大いに喜びて召還し、遂に枢府に登らしむ。人或いは二程に問うに、「二公の出処を以て優劣有りと為すか」と。二程先生が曰うに、「正しく此の如からず。呂公は世臣なり。帰りて上に見えざることを得ず。司馬光は争臣なり。退處せざるを得ず」と。蓋し熙寧の初め自り、正人端士ら相い継ぎ屛伏し、上意は常に楽しまず。以て為すに諸賢は我が用と為るを肯んぜず。故に正献は求めて京宮祠に在り、以て然ざるを明らかにし、上意は始めて大いに喜べり。

  (訳文)司馬光は枢密院副使を辞めたが、当時其の名は世に鳴り響いていた。人々はその知識人とか民衆とかを問わず、皆温公を尊敬していた。一方二程・孫覚・李公擇等の諸公は、また非常に正献公をも尊重していた。その頃二公とも洛中に住まいしていた。熙寧年間の末に、正献公は河陽県知事に起用された。明道は詩を作って一行を送るに、「明け方の都門には旗が翻り、夕暮れには風が騒がしく吹いて、公は河陽の三城に入る。知事となった公は、再び民人の為に起ち上がり、其れこそ尋常な長官ではない」と。また温公・正献公二公の送別の宴を開き、また詩を作って温公に送って云うに、「飛龍の如き二公は、静かに休息し、洛水の波は清く穏やかで、此の日お二人を都門にて静かにお見送りしている。二賢人の出処が同じであることを願いたいが、今正に其の深意が共に、民衆の為であることに気がついた」と。正しく二公の出処に違いは無く、ただ温公は表舞台に出ない方を選んで、評判が高くなり過ぎないよう注意したのだ。正献公は河陽の職を辞して、京の官宮祠に転ずることを望んだが、これを聞いた神宗が大変喜ばれて、召されて遂に枢密院に登用された。或る人が二程に尋ねたのだが、「二公の出処の仕方に、優劣を付けることが出来ようか」と。二程先生が答えるには、「優劣を付けるとはもってのほか。呂公は世臣であって、都に帰って天子に仕えて務めを果たそうとしたのであり、司馬光は争臣であって、身を辞して務めを果たそうとしたのだ」と。まさしく、熙寧年間の初め頃から、心正しい家臣達が相次いで斥けられ、これを天子は常々不満に思っており、多くの賢者もお側に仕えることを拒んでいた。そこで正献公は自身から望んで京宮祠となり、その悪弊を絶ちきることに努めたので、天子もやっと胸をなで下ろすことが出来たのである。

  (注釈)宥密とは枢密院のこと。所帰と云う言葉が使われているが、これは浄土宗で使われている言葉で、帰依する対象の阿弥陀如来を指す。宮祠とは、官名の宮観使のことで、道教寺院に関連したもの。三城は、河陽三城地方のこと。           

                                                       つづく  

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「童蒙訓」ー巻下Ⅱ

2012-09-01 15:12:26 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅱ

9.京師の曹氏ら諸貴族は卑幼が、尊長に見(まみ)えざれば三日にして必ず拝す。

  (訳文)洛陽の曹氏ら一族の貴族の間では、その家の年少者が年長者に挨拶できないことがあっても、三日に至らず必ず拝謁して礼儀を守っていた。

  (注釈)曹氏については詳細不明。

10元符の末に、叔祖待制公は元佑党人に坐して道州に貶(お)ち、未だ至らざるに先ず人を遣わして屋両間を借りる。時に公は亦た家を挈(ひきつ)れて往き、既に至るも屋は窄陋甚だしく、更に一間を益(ます)べく公状を以て郡守に申(つ)げるも、敢えて往見せず。是の時上皇即位し、已に褒用を議す。韓原伯川は先に道州に貶ち、公は俱に謫籍に在るを以て敢えて相見せず。既に原伯は公と俱に官に復して内に徙(うつ)り、原伯が先に命を受け、往きて公と見(まみ)えるも、亦た敢えて興に相見せず。以為(おもえらく)、未だ官に復す命を受けざればなり。前輩が事を慎むこと此の如く、其れ亦た能く禍を遠ざく。然して且つ免れざれば、則ち亦た命なり。

  (訳文)元符年間の末に、大叔父の希純は元佑黨人禍に遭って、道州に流されることになった。到着する前に人を遣わして、二間ほどの家を借り受けさせた。一行は家族同伴で着いてみると、家は随分と狭かったので一間増やすことにして、正式な書状をもって役所に届け出たが、自身は顔を出すことはなかった。そうこうしている内に、上皇が即位して旧法党人えの恩赦の議が検討された。韓原伯は先に道州に流されていたが、希純は共に流謫の身にあるとして、互いに会うことをしなかった。やがて原伯は希純と共に復官することになって中央に帰ることになるが、先に原伯が復官の命を受けたので、希純の所に挨拶に行ったが、希純は会わなかった。思うに、希純はまだ復官の命を受けていなかったので、会うのを躊躇ったのだろう。このように、先輩達の身の処し方は慎重で、いらぬ疑いを受けないように注意を怠らなかった。それでも禍から逃れられぬ時には、それも運命だとして素直に受け入れたのである。

  (注釈)叔祖待制公とは、本中の祖父、希哲の弟の待制職にあった希純のこと。元佑年間は三年ほどの短い期間ではあったが、政局はめまぐるしく変わった。宣仁太皇太后の摂政時代が終わって哲宗の親政が始まると、元佑元年には旧法黨人狩りが始まり、元佑三年に哲宗が死んで向太后の摂政が始まると、旧法党が息を吹き返すといった具合である。ここに出てくる上皇とは向太后の事だと思うが、即位と云う言葉が使われているので、確かなことは云えない。韓原伯だが、呂氏家とは親しい仲だったことは解るが、それ以上は不明である。

11蘇子由は崇寧の初め穎昌に居る時に、方(まさ)に元佑黨籍を以て罪に為り、深居して自守し、復(ふたた)び人と相見せず。逍遙として自處し、終日黙坐す。是の如くすること幾十年、以て没に至る。亦た人は能く難ずる所なり。

  (訳文)蘇子由は崇寧年間の初め穎昌に住んでいたが、元佑黨人という理由で罪に問われ、それからは家に引きこもり、他人の手は借りず、再び人の前に顔を出すことはなかった。俗世間から離れ、一人住まいを通して終日黙坐して過ごしていた。こうして幾(ほとんど)十年間という長い間暮らし続けた末に没した。人々はなかなか出来ないことだと評した。

  (注釈)蘇子由とは蘇(轍)子由のことで、北宋の文人で官僚。有名な蘇東坡の弟で、ともに唐宋八大家の一人に数えられている。兄を大蘇、弟を小蘇と呼ぶ。兄と共に王安石の新法に反対して、元佑黨人禍に遭う。官を辞した後、穎濱遺老と称して世捨て人となり、終日黙坐して経史諸子を研究すること十年にして七十四才で没す。

12崇寧の間に、張公芸叟は既(やがて)貶から復帰するも、門を閉じて自守す。人や物と交わらずして、時時独り山寺に遊び、芒鞋(ぼうあい)道服にて一羸馬(るいば)に跨がり、至る所従容たり。飲食は一瓯(おう)淡麪(べん)にして、更に他の物は無し。人は皆其の清徳を服(わす)れず、後生は法(のり)と取(す)。

  (訳文)崇寧年間に張公芸叟はやがて流刑地から復帰してきたが、そのまま門を閉ざして自守していた。。人や物とは交わらず、しばしば山寺を訪ねては心を癒やしたり、草鞋を履き道服を着た格好でやせ馬に跨がり、行く先々ではくつろいだ様子であった。食事は一盛りの薄味のうどんだけで、他には何も取らなかった。人々はその清徳の様子を忘れず、後々までその暮らしぶりを見習ったという。

  (注釈)張公芸叟とは北宋の官人にして、文学家であり画家であった張(舜民)芸叟のこと。性格は剛直にして物怖じせず、その詩風は蘇東坡に近い。元佑姦党禍に巻き込まれて罪を得た。

13..崇寧の間に、𩜙徳操節・黎介然確・汪信民革らは、同じく宿州に寓し、文を論じ會しては課し、時時詩を作り、亦た略(およそ)詆(そし)っては時事に及ぶもの有り。榮陽公が之を聞いて、深く以て然りと為さず。時に公は疾病にて方(まさ)に癒え、為すに麥熟・繰絲等の曲詩を作り、当世を歌詠し以て諷して𩜙・黎ら諸公を止めたり。諸公らは詩を得て慙懼し、遽(うろたえ)て公を詣で、謝し且つ皆公の詩に和すこと公の意の如く、此れ自りは復(ふたたび)前の作(ふるまい)は有らずと。

  (訳文)崇寧年間に𩜙徳操・黎介然・汪信民らは、共に宿州に住まいしており、文を論じては互いに刺激し合ったり、しばしば詩を作ったり、また当時の出来事を取り上げて批評したりしていた。榮陽公がこの事を知って、深く憂慮していた。その頃公はやっと病が癒えて元気を取り戻し、麥熟や繰絲等と題する曲詩を作り、当時の世相をを歌に詠み、批評を加えて彼らに示し、その行いを戒めた。彼らは恥じ入り恐れ入って狼狽えながら公の下を訪ねて謝罪し、皆で公の詩に答えてその意を汲み、それからは自粛するようになったと云う。

  (注釈)当時は新旧法党の争いの真っ直中で、不穏な世情であったから、榮陽公は彼らが巻き込まれることを恐れて、詩に託して彼らを諫めたのであろう。

14張□美は京畿の人にして久しく太学に遊び、諸生の多くは之を称え、擢第して後に官として衛州を守る。陳公瑩中が郡と為り、頗る厚くを待し、礼遇して独り衆人と異なる。は深く公の恩意を感じ、然して亦た独り異なるの意を暁ること能わず。崇寧の間には宿州に官し、諸公や貴人を数(しばしば)之れ招致することを欲し、は陳公を待して見(まみ)えんことを感(おも)うも、終に肯(あ)えて進めず。蓋しの人と為りは

賢にして差(やや)弱く、陳公が異をもって之に待する所以は、以て其の意を堅くすることを欲すればなり。は終に能く自守す。前輩が人を成就するに委曲は此くの如し。教えは亦た術(すべ)多し。

  (訳文)張□美は京畿の出で、長い間太学で勉強し、多くの学生に尊敬され、科挙に合格した後役人となって衛州に勤務していた。陳瑩中が郡に赴任すると大変手厚くを礼遇し、彼だけが他と違った待遇を受けていた。は大いに陳公の恩義を感じてはいたが、何故自分独りだけ厚遇されるのか其の真意を測りかねていた。崇寧年間に、が宿州の役人となってからは、高官や貴人を度々招待し、その際に恩義のある陳公を招待して会いたいと思っていたが、一度もその機会を作ることが出来なかった。確かにと云う人は、賢才ではあったが優柔不断な處があり、陳公はこの点を心配して鍛え直す為に、特別に彼を厚遇したのである。はその後公の意を知って自守出来るようになった。先輩達が人を教育するに当たっては、このように注意深く気を配ったのである。人を教育するにも、色々な手段が有るというものである。

  (注釈)張□美についてはよく解らない。画一的な教え方ではなく、相手に応じた策を以て進めよとの教訓か。

15劉器之が当時の人物を論じているが、多くは弱しと云い、実に世人の病を中(あて)たり。大氐(たいてい)承平之れ久しく、人は安(やすらぎ)を偸(ぬす)み、死を畏れ、事を避けて因循苟且(かりそめ)にして然りと致すのみ。

  (訳文)劉器之が当時の人物を取り上げて批評しているが、その多くは気概に欠けていると云い、ずばり世人の病を言い当てた。随分と泰平の世がつづいたので、人々は皆安易な暮らしに慣れ、一途に死を畏れ、問題から逃げるばかりで進取の気性を失い、その場限りの暮らしに甘んじているという情けなさだ。

  (注釈)劉器之の生きた時代は、宋朝の爛熟期に相当する神宗・哲宗・徽宗の時代で、新旧法党の争いの真っ直中にあった。

16紹聖・崇寧の間は諸公の遷貶相次ぐも、然して往々に自處して甚介は意(おも)はず。龔彦和央は化州に貶とされ、徒歩にて徑往し、扇を以て銭を乞うも、以て難と為さず。張才叔庭堅は象州に貶とされ、居る所は屋が才(わずか)に一間、上漏下湿、屋の中間を箔を以て之を隔て、家人は箔内に處(お)り、才叔は屐(げき)を躡(は)き、箔外に端座し、日に佛書を看し、了(まったく)厭色無し。凡そ此れ諸公ら皆、平昔から富貴の念絶無にして、故に事に遇うも自然なること此くの如し。如し世の念(おも)い忘れずして富貴の心尚在ら使め、事艱難に遇い、縦(たと)い堅忍を欲すとも、亦た必ず不懌の容(かたち)、勉強の色有り。鄒志完侍郎は嘗て才叔を称えて云うに、「是れ天地の間に和気薫蒸の成す所にして、往きて相い近づくことを欲す。先ず和気の人を襲うを覚る」と。

  (訳文)紹聖と崇寧の間に、新旧法党の争いに敗れた諸公の、流罪追放が続いて起きたが、彼らは普段から自分のことは自分でする習慣が身に付いていたので、誰の助けも借りずに暮らすことが出来た。龔彦和は化州に流され、徒歩で流刑地に向かい、途中人々から金銭を恵んで貰うこともあったが、何の苦痛も感じなかった。張庭堅は象州に流され、その住まいは一間の狭い家屋で、雨漏りはするは床は湿るはと云ったひどいものだったが、家の中をすだれで囲って、家人は其の中に居て、才叔は木靴を履いてすだれの外に端座し、毎日佛書を読んで暮らし、少しも嫌がる様子を見せなかった。大体諸公達は普段から富貴については無関心で、どんな境遇になっても、自然体で過ごす習慣がこのように身に付いていた。たとえ世俗忘れ難く、富貴の心が残っていて、苦しい目に遭い、忍苦に耐えなければならなくなった場合でも、苦痛の様子は見せるが、前向きの姿勢は変わらなかった。鄒浩は昔、才叔を褒め称えて、「彼の周りには和気が漂い、薫風に満ち、自然と近づきたくなる。全く和気が人々を包み込むようだ」と云っていた。

  (注釈)新旧法党の争いが激烈を窮めた時代の話である。鄒志完とは、鄒(浩)志完(道郷)のことで、元佑黨禍に遭った一人。呂公著・范純仁に可愛がられた。“勝って兜の緒を締めよ”という意味の<勝非為難、持之為難>という言葉と関連が有るらしい。

17豊公相之稷は清節自守にして一意直道、更に他説無くして、未だ嘗て物を絶たず。張才叔は蓋し之を師法とす。相之は元佑の間に、榮陽公と興に同じく経筵に在り。女(むすめ)の喪があり、榮陽公が之に問いて曰うに、「公の定力は此くの如きを以て、必ずや過戚無からん」と。相之が云うに、「正に未だ此くの如く能わざる為り」と。

  (訳文)豊稷は節操を正しく守り、独立独行にして、専心正道を守り通した人である。しかも押しつけがましい處がなく、いちども暴力を振るうことがなかった。張才叔はまさしく、彼の生き様を手本にしていた。豊稷は元佑年間に、榮陽公と共に経筵の席に同座していた。豊稷の娘の喪があった時に、榮陽公がこの事に触れて語りかけるに、「あなたの冷静さは有名だから、きっとこの悲しみも乗り越えることでしょう」と。豊稷が答えるには、「本当のところは、そういう風にも行かないのです」と。

  (注釈)定力とは仏教語で、禅定(心を統一して瞑想し、真理を監察すること)によって備わる心が乱されない力を云う。呂氏家の禅との拘わりが、ここでも覗い知ることが出来る。

18李君行先生は紹聖中に致仕して處州に帰る。元符庚辰の歳に諸公ら既に朝廷に還り、君行は驛(つづい)て召されて對を賜り、宗子の学を管勾し、国子司業にも比(およ)ぶ。蓋し陰(ひそか)に之を沮(はば)み要地に在るを恐れる者有り。伊川先生が嘗て従学の者に問うに、「李君行は何を以て復た出たるや」と。従学の者が對えて曰うに、「李司業は朝廷の美意を承り、出ざるを得ず。然して且つ帰りたり」と。君行は既に京師に至るも、則ち疾を引きて帰りたり。

  (訳文)李君行先生は紹聖年間中に、辞職して處州に帰郷した。元符三年には旧法党の諸公らも朝廷に復帰し、君行も召し出されて詔勅を賜り、宗子の学問所を管理することになり、国子司業にもなる。確かに一方では、君行が要職に就くことを恐れた者達がいて、ひそかに之を阻止しようとする動きがあったらしい。伊川先生が昔、弟子達に、「李君行は何故再出仕したのだろうか」と尋ねたことがある。弟子達が答えるには、「李司業は朝廷からの丁重な誘いを断り切れなかったのでしょう」と。だが君行は都には入ったが、病を理由に帰国出来たという。

  (注釈)国子司業とは、国子(貴族・官僚の子弟)の教育部門として設置された行政機関の一部門の名称。

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「童蒙訓」ー巻下Ⅰ

2012-08-15 08:39:57 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻下Ⅰ
http://homepage2.nifty.com/tokugitannka-ronngo/

1.榮陽公が嘗て言うに、「孝子は親に事え、須く事事(じじ)躬(みずか)ら親しくして、之を使令に委ねるべからず」と。嘗て説くに、「穀梁の言に、”天子が親しく耕して以て粢盛(しせい)を共にし、王后が親しく蠶(さん)して以て祭服を共にすれば、国に良き農工女無きこと非ざるなり。以て爲人の盡(すべて)は其の祖禰(そでい)に事え、己自ら親しくする所のものに若かざるなり”と。此の説は最も親に事える道を盡(きわめ)たり」と。又た説くに、「人の子為る者は、形無きを視、声無きを聴き、心は未だ嘗て頃刻(かたとき)も親を離れざるなり。親に事えること天えの如くし、頃刻も親を離れれば、則ち時有りて天に違えなば天は得(さと)り、されば違えるべからざるなり」と。

  (訳文)榮陽公が昔、云っていたことだが、「孝子であるならば、親に仕えては何事も他人任せにせず、自身がお世話しなければならない」と。また諭して云うには、「穀梁の言葉に、“天子が自ら耕して神に供える穀物を作り、王后が自ら養蚕して祭事の衣服を編むと云ったように、上が良い手本を示せば、その国には必ず良い農民・工人・女性が育つものである。思うに全人格を以てその父祖に仕え、己自身が奉仕する行為に勝るものは無い”とある。この説話は親に仕える道を云い尽くしている」と。また諭すには、「人の子たる者は、目に見えない處や、声を掛けられない處まで気を配り、片時も親のそばを離れないように心掛けるべきである。親に仕えるにも、天に仕えると同じ気持ちで接し、少しでも親元を離れるようなことがあれば、天に逆らうことにもなり、天も之を知ることに為るのだから、違えることがあっては為らない」と。

  (注釈)<穀梁の言葉>とは、春秋穀梁伝/桓公十四年の中にある記述である。この書物は、孔子の弟子の子夏の門人の穀梁(赤、一説には俶)、字が元始の作で、春秋三伝の一つ。“為人子者、視於無形、聴於無声”なる言葉は、<礼記>曲礼上篇の人の子たる者の心得を説いた記述の中に散見される。

2范文正公は養士の類(たぐい)を愛し、至らざる所無し。然して法を乱し衆(たみ)に敗(わざわい)する者有れば、亦た未だ嘗て仮借せず。嘗て陝西を帥(ひきい)た日に、士子が一廳妓に怒って甆瓦(しが)を以て其の面を剓(わ)り 、墨を以て之を涅(くろ)くす。妓は之を官に訴え、公は則ち士子を追って之を法に致(ゆだ)ねて、之を杖(ちょう)して曰うに、「爾は既に人の一生を壊したれば、却(さて)当に爾の一生を壊すべし。人は公の處事の當に服さざるは無し。

  (訳文)范仲淹は下役人等を可愛がり、良く面倒を見ていた。しかし法を犯したり、民を痛めたりする者が有れば、例外なく彼らを厳しく取り締まった。昔、陝西省に赴任していた時に、役人が官お抱えの一人の歌い女の態度に怒って、磁気瓦でその顔を打って傷つけ、墨を塗って目も当てられない姿にしてしまった。歌い女がこの事を訴え出たので、公は其の役人を呼びつけて、法に則って杖罰を加えて云うには、「お前は人の一生を台無しにしてしまった。だからその代償として、当然お前も一生を棒に振らなければならない」と言い渡した。人々はこの公の処置の正しさを認めて、以後罪を犯す様なことは無くなった。

  (注釈)養士・士子・廳妓・甆瓦など見慣れぬ言葉が出てくるのには困却する。

3榮陽公は嘗て、<人を治め、天に事えることを、嗇(お)しむが若きこと莫(な)かれ>と、坐す所の壁上に大書し、修養して家にて此れを以て、養生の要術と為す。然して事事保慎して常に余り有ら令(し)め、身を持し家を保ち邦を安んじるの道を此に越さざるよう養生を止めず。老子の論亦た当に理たるべし。

  (訳文)榮陽公は昔、<人を治め、天に仕える努力を惜しんでは為らない>という言葉を壁上に大書してかかげ、これを養生の基本にして家内一同修養に努めていた。その上で、何事にも慎みを忘れず、いつも余裕を持って事に当たり、身を正し、家庭を守り、国の掟を守って度を超さず、養生専一に努めていた。まさしく老子の理論を実践していたのである。

  (注釈)この壁書は、<老子>道徳経第五十九章にある文章から引用したものである。

4焦伯強千之先生が嘗て称すに、東漢□一節至顔子□榮陽公は以て然りとなさず。列氏が称すに、「狐父の盗が爰旌目に食(たべ)させるも、爰旌目は義として其の食を食さずして、手を地に拠(そ)えて之を欧(は)くも、出ざれば喀喀然として、遂に伏して死す」と。人の盗を以て因(ゆえ)に食と謂うに、盗と為して敢えて食せざるは、是れ名実を失うものなり。

  (訳文)焦伯強千之先生が昔、称えていたことだが、「東漢□一節至顔子□」と。榮陽公は以下の逸話を引き合いに出して、称える程のことでは無いと云っていた。則ちその逸話とは、<列氏>の中で称えられていることだが、“狐父の盗賊の丘なる者が、行き倒れていた爰旌目に食物を食べさせた處、爰旌目は自分は義を重んずる者だとして、両手を地に付けて食べたものを吐き出そうとしたが吐ききれず、ゴホンゴホンと咳き込みながら、遂には俯せになって死んでしまった”という話である。確かに彼は盗賊ではあるが、与えた食物まで盗品だと決めつけて、食べることを拒むのは行き過ぎというものだ。幾ら徳行の人だからと云って、名実共に失う行為は許されるものではあるまい。それこそ死んでは元も子もないのだ。

  (注釈)前半の部分に欠落が有って、完訳できない。「焦伯強千之先生嘗称東漢□一節至顔子□榮陽公不以為然」が原文だが、□の處が何字なのかも解らない。後漢の書にでも顔淵の徳行を称えた一文でも有るのだろうか。いずれにしろ、度が過ぎることを戒めたかったのだろう。爰旌目の話は、<列氏>説符第八に載っている。狐父の盗賊の丘なる者は、相当有名な強盗だったらしい。

5易に曰わく、「君子は以て徳を倹(おさ)めて難を避け、滎するに祿を以てすべからず」と。大抵困否の世に居り,惟れ貧しく賤と興にあるも則ち以て免れるべし。苟も権寵に居り富厚を擁するも、及ばざる者有るは鮮(すくな)し。季札が晏平仲に謂うに、「子は速(すみ)やかに邑と政とを納めよ。邑無く政無くば、乃ち難を免れん」と。晏子は陳桓子に因(たよ)り以て政と邑とを納め、是れを以て欒高の難を免れたり。大抵春秋の世は邑と政とが無くば以て免れること可為り。斉は晏子に邶殿と其の鄙六十を与えるも、卒して受けず。曰わく、「慶氏は之れ邑への欲が足(すぎ)たが故に亡び、吾は邑への欲が足ず。之れを益(ふや)して邶殿を以(もち)いれば、乃ち欲に足ぎ、欲が足れば亡びて日無し。子雅は邑を与えられるも多くを辞して少(わずか)に受け、子尾は邑を与えられて、受けて稍(しばらく)して之れを致(おさ)めたり。公は以て忠為りとして寵有り。衛は公孫免餘に邑六十を与えるも、辞して曰わく、“子は唯邑多くして故に死す。臣は死の速やかに及ぶことを懼れる”と。公は固(まこと)に之を与えられるも、其の半ばを受く。鄭の子張は疾有りて、邑を公に帰して官を黙(へら)し祭を薄く使め、盡く其の餘邑を帰して曰わく、“吾は之を聞くに、乱世を生きるには、貴くして貧に能(た)え、民に求むること無ければ以て後に亡ぶべし。敬して共に君と二三子とに事えよ。生きるには敬戒在るも富みには在らざるなり”と。此れら皆、古人が尊を辞して卑に居り、富を辞して貧に居るは、乱世を處する自全の道にして、以て万世の貧冒を厭(おさ)えずして、以て破家亡国を致(まね)く者の至るを戒め為るべし」と。

  (訳文)易経の記述に、「君子たる者は己の徳を自慢して、災難に遭うようなことは避けるようにし、栄達の為に祿位に頼る様なことをしてはならぬ」とある。大体この世では、苦しい生活や不運な境遇にあるのが普通となっているが、貧しくとも亦身分が低くとも、災難から免れることは出来る。一方思うに、たとえ権勢を誇ったり、蓄財に成功したからと云って、災難から免れたという幸運の者は少ない。季札が晏平忠に云うに、「晏子よ、すぐに領土と支配権を返上しろ。何も無くなってしまえば、災難に遭うこともあるまい」と忠告した。晏子は陳桓子を頼り、その口利きで領土と支配権を返上して、欒・高の難から逃れることが出来た。大体春秋の世では、領土と支配権を持っていなければ、災難に遭うことも無いのが普通であった。斉は晏子の功績に対して、邶の屋敷とその村里六十を与えたが、亡くなる時に此を返上した。そして晏子が云うには、「慶氏は領土への執着が過ぎて身を滅ぼしたが、私はその欲望がなさ過ぎる。領地を増やし、屋敷を大きくすれば欲が過ぎるし、欲が過ぎると亡んでしまう。子雅は領土を与えられた時に、多くを辞退して少しばかりの領土を貰い、子尾は領土を貰ったが、暫くして此を返上した。斉公は之を見て、両人共に忠臣なりとして寵愛した。衛は公孫免餘に村里六十を与えたが、彼は此を辞退して云うに、“子は領土が多いと云うだけで殺されてしまった。私は死に急ぎはしたくないので、半分で十分です”と。鄭の子張は病気が重くなり、今後のことを考えて余分な領地を全て主君に返上し、家臣を減らし、祖先の祭りを質素に変えた上で云うには、“私は、乱世では貴い地位にいても、慎ましく暮らして領民を苦しめることが無ければ、家の滅亡を先に延ばすことが出来ると聞いている。これからも真心込めて君主に仕えよ。生き長らえるには、身を慎み注意を怠らないことが大切で、財産に執着するようなことがあってはならぬ”と子らを諭した。これらの話は皆、古人が身分の高さを求めず、低い地位に甘んじ、富を蓄えず貧しさに耐えることが、乱世を生き抜く為の手段になることを自覚し、いつの世も欲望を抑えることが出来なければ家名を絶やし、国を亡ぼす事になるという戒めなのである」と。

  (注釈)ここの易経の言葉は、上経(天地否)の項にあるもので、<否の卦>は、天地の二気が交わり通じない象を意味し、君子はこの象に従って、その才徳を内に収めて外に現さず、小人の禍難より免れ、それと共に祿位に頼って寵滎を望むなとの意である。ここに登場する人物は、春秋・秦・漢時代に活躍した政治家達の話である。まず季札とは春秋時代の呉の政治家で、清廉賢哲を以て知られ、延陵の季子とも呼ばれ、信義を重んじた事で有名で、「季札挂剣」なる故事がある。晏平仲)仲(平)のことで、春秋時代の斉の名宰相として、管仲と並び称された政治家。霊公・荘公光・景公の三代に仕えた。国家を第一に考えて上を恐れず諫言し、人民に絶大な人気があり、君主も彼を憚ったという。また清廉で、「三十年一狐裘」・「掩豚肩豆」・「羊頭狗肉」などの故事成語を残している。陳桓子とは陳(無宇)のことで田桓子とも呼ばれ、晏嬰と同時代の斉の聡明な政治家。晏嬰の後ろ楯となった人で、晏嬰を入閣させたこともある。当時の斉の政治情勢は複雑で、荘公は宰相の崔杼の妻と密通して崔杼に殺され、崔杼は慶封(慶氏)と共に景公を立てる。その後慶封は崔杼を倒して政治の実権を握り、その慶杼も陳無宇や武官の欒子雅・高子尾らによって、斉から追放されてしまう。さらに陳無宇は政敵となった欒子雅・高子尾を失脚させて魯に追放し、名声名高い晏嬰を執政に据えて、自らは裏方として実力を蓄えていく。そもそも斉は、周朝の太公望呂尚が封ぜられた国だったが、後年この陳無宇が出た田氏に奪われ、田斉となり、後に秦に亡ぼされてしまう。そんな経過から、呂尚を姓祖に持つとされる榮陽公も、これらの逸話に興味を抱いたのだろうか。欒高の難とは、陳無宇側から見た政敵欒子雅・高子尾らからの圧迫をそう表現したものだろう。公孫免餘は春秋時代に生きた衛の政治家と云うだけで、詳しくは解らない。子(喜)についても同じ。子張も鄭の臣と云うだけで、詳しいことは解らない。衛も鄭も、その政治情勢は同じように複雑である。

6.榮陽公が嘗て言うに、「子産は数事、君子の気象を失うもの有り。民は逞すべからず、度(のり)は改めるべからず、又曰うに、子寧ろ他を以て我を規(ただ)せと言うが如し。此の如く之の類は全て君子の気象無し」と。又言うに、「張良は漢祖を説いて秦の卒を詐(あざむ)きたるは、大(はなはだ)子房の平日に為す所と類(に)ず」と。

  (訳文)榮陽公が昔言っていたことだが、「子産は屡々君子としての心得を破っている。民を放任して置いてはいけないとか、規制を緩めてはいけないとか、又更に的外れな理由で私を責めるななどと言っているのがそれである。このような類のものは、全て君子の嗜みに反することである」と。又言うには、「張良は漢祖をそそのかして秦の兵等を騙して戦に勝ったが、これは張良の普段の行いと大きく隔たるものだ」と。

  (注釈)子産とは国(僑)子産のことで、春秋時代の鄭に仕え、宰相として大いに功績を挙げた政治家。晋と楚の大国に挟まれた弱小国の鄭を、外交手段を発揮して守った。内政面でも土地制度・軍制・税制の改革を進めたり、身分制度の乱れを正したりした。特に中国史上初めて成文法を制定したことで有名でもあり、反面儒家や道家から法律を多くして民を縛るのは亡国の証だとの批判を受けた。死に際して後継者に、「火は恐れるが水には親しむ人間のさがを例に引いて、厳しい態度で政治にに臨め」と諭した話は有名。孔子も尊敬した政治家としては、斉の晏嬰などと並んで春秋時代の代表的政治家とされる。ここに出てくる“子寧以他規我”なる語は、春秋左氏伝、昭公(魯第二十五だい君主)十六年の傳から引用したもので、隣国の晋から賓客を迎えた宴席での高官の過ちを、執政の自分の責めとして非難されて、立腹した時の子産の言葉である。大の男の失敗を、如何に最高責任者とは言え、その責めは負えぬと云った處か。張良とは、張(良)子房のことで、秦末期から前漢初期に掛けて活躍した政治家であり、軍師であった。漢の始祖劉邦に仕えて多くの作戦を立案し、その覇業を大きく支えた。蕭何・韓信と共に、漢の三傑とされる。秦の武関を攻めた時に、謀略を使い、関の守将が証人出だった事に目を付け、これを買収して関を開かせ、相手の油断に乗じてこれを乗っ取り、最小の被害に止めた。これが端緒となって、秦は亡ぶことになる。普段から知略に秀でていた張良が、この時だけ謀略を使ったことに対する批判であろう。

7.外高祖の侍郎・晋陽王公諱が子融は、嘗て京師の世家の家法の善きものを編集して、以て子孫に遺す。

  (訳文)母方の先祖の侍郎職にあった晋の楊王公、諱が子融と云う人は、昔都にあった高官の家法の善い處を編集して、これを我々子孫に遺している。

  (注釈)陽王公(子融)なる人物については詳細不明。

8.前輩が嘗て国朝以来の名臣の行状墓誌を編類し、その行事の善きものを取り上げ、別に之を録出し、以て自ら警戒するところ有り。亦た諸人を取り上げ、以て善と為すところを楽しむは之れ義なり。

  (訳文)先輩達が昔、宋朝初期からの名臣の行状・墓誌を編纂し、其の中の規範となるものを取り出して、別にこれらを記録し直して我々の戒めとしたものが有る。また色々な人々を取り上げ、その善行・善言を称えたものが義の書である。

  (注釈)朱熹の<宋名臣言行録>が有名だが、それ以前から同様の試みが為されていたらしい。

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「童蒙訓」ー巻中Ⅲ

2012-08-01 13:53:13 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻中Ⅲ

16陳公瑩中が言うに、「人の悪を為すに、謀反大逆に至ると雖も、若し一念悔心有れば、刑に臨む際に我が悔いを説か使む。便ち須く他を赦すべし、便ち須く他を用うべし。

  (訳文)陳瑩中が言うには、「人が悪事に走って、例え謀反や大逆に至ったとしても、深く反省しているようなら、罰する時に、私の思いを告げる事にしている。すなわち他人を許してやりなさい、その言葉に耳を傾けなさい」と。

  (注釈)前半と後半のつながりがしっくりしないのが気になる。

17榮陽公が嘗て言うに、「後生初学は、且つ須く気象を理會すべし。気象好き時は、百事是れ当たる。気象は辞令容止の軽重疾徐にして、以て之を見るに足る。唯に君子小人此に於いて分かるるのみならずして、亦た貴賤壽夭の由りて定まる所なり」と。

  (訳文)榮陽公が昔言っていた事だが、「学問を志す若者は、よくよく人の気性というものを、理解しておくべきである。気性が良ければ万事うまく行く。気性の善し悪しは、その人の言葉や態度の軽重の程度を見ればよく解る。この気性の善し悪しは、君子となり得るか、小人で終わるかの分かれ目となるだけでなく、人の貴賤や寿命を左右する重要なものでもあることを、肝に銘ずべきである」と。

  (注釈)他で云う<天命論>や<吉凶論>と同じ類の言葉である。

18榮陽公が嘗て言うに、「朝廷が言う者を奨用するは、固より是れ美の意なり。然して言を聴く際は、亦た審(つまび)らかにせざるべからず。若し事事聴従して考核を加えざれば、則ち是れ讒を信じ譖を用い、善言を納めるに非ざるなり。欧陽叔弼の如きは、最も静黙為り。正献が国を當(つかさどっ)て自り、常に来たらざるを患(うれ)い、而して劉器之は乃ち叔弼を攻め、以て競って権門に奔り為り。器之は当世の賢者を號するも、猶差誤は此の如し。況んや他人においておや。此を以て知るに言を聴く道は、審らかにせざるべからず」と。

  (訳文)榮陽公が昔、言っていた事だが、「朝廷が意見具申する者を称揚する目的は、国政に反映させて立派な国作りをする為である。ただ意見聴取に際して注意しなければならない處は、其の真意をしっかりと把握する事である。若しそのまま全てを聞き入れて、よく調べもせず陰口や訴えを信用してしまう様な事があれば、折角の役立つ意見を見落とす事にも為りかねない。欧陽叔弼という人は、非常に物静かで寡黙な人物である。正献公が国政に参画してから、訪ねてこなくなった事を心配していた。そうこうするうちに、劉器之が叔弼のことを攻撃し始めて、しきりに権力者にすり寄るようになった。器之は当時の賢者として名を馳せていたが、このような過ちを犯していた。賢者と言われた人物でもそうなのだから、ましてや凡人にとっては尚更の事である。このことからも解るように、意見を聴取する際には、その内容をしっかりと確かめる事が大事である」と。

  (注釈)欧(陽)叔弼は、欧陽脩の子。詩壇のほうでも名を馳せたらしい。

19崇寧の初めに、榮陽公は符離に謫居す。趙公仲長諱が演は、公の長壻なり。時時汝陰より来たりて公を省(たずね)たり。公の外弟の楊公諱が瑰寶は、亦た上書を以て謫(とがめ)られて符離の酒税として監す。楊公が公に事(つか)えること親兄への如く、趙公が公に事えること厳父への如くして、両人は日夕公の側に在り。公の疾病に、趙公は牀下にて執薬し、気を屛(ひそ)め疾を問い、未だ嘗て時を移さずんばあらず。公が之に去ることを命じて然る後に去る。楊公は慷慨にして當世に独立し、未だ嘗て少(すこ)しも屈せず。趙公は謹厚篤実にして、動(おこな)いは古人に法(のっと)り、両人皆(とも)に一時の英なり。饒徳操節、黎介然確、汪信民革ら時に皆(とも)に符離に在り。公の疾病の少間する毎(たび)に、則ち必ず来たりて公に見(まみ)え、而して退き、楊公、趙公及び公の子孫に従いて游び、亦た一時之れ盛んなり。趙公は毎(つね)に公の子弟及び外賓客と語るに、但(もっぱら)榮陽公を称(よ)ぶに”公”と曰い、其れ之を尊ぶこと此の如し。楊公は他人と語るに、榮陽公を称ぶに但”内兄”と曰い、或いは”侍講”と曰い、未だ嘗て敢えて字を称ばず。蓋し榮陽公の中表なれば、惟れ楊氏兄弟は親に事え長に事える道を尽くしたれば、後生の法と為すべし。

  (訳文)崇寧の初め、榮陽公は罪を得て符離に流されていた。趙仲長は公の長女を嫁に迎えていた。彼は折に触れて、汝陰から公の下を訪れていた。公の妹の夫の楊瑰寶も、上書によって咎めを受けて、符離の酒税官に左遷されていた。楊公が榮陽公と会う時は、実兄に接するように敬意を示し、趙公が榮陽公と会う時には、厳父に接するように敬意を示し、両人は朝から晩まで公の側に仕えていた。公が病気になると、趙公は枕元に在って薬を煎じ、気使いしつつ具合を聞いてはてきぱきと処置していた。公が下がっても好いと言うまでは、側から離れる事は無かったのである。楊公は慷慨の気風を示し、時代を超越して少しも臆する所が無かった。趙公は謹厚篤実にして、其の言動は古人の法に則り、両人共に当時の英傑であった。饒徳操節、黎介然確、汪信民革らも時を同じくして符離に在り、公の病が小康を得た時を見計らっては公を見舞い、楊公、趙公そして公の子や孫と交遊を重ねていた。其の交遊も一時、盛んに行われていた。趙公は榮陽公の子供達や訪れた賓客と話す時には、必ず榮陽公を”公“とだけ云い、榮陽公を非常に尊んでいた。楊公は他人と話す時には、榮陽公をただ“妻の兄”とか、“侍講”と呼び、字を呼ぶような事は無かった。まさしく彼は榮陽公の妹の夫だったので、楊氏兄弟は公に対して、”親に事え、長者に事える道を守ったのであり、これこそ後生が見習うべき礼と云うものであろう。

  (注釈)元佑黨禍で呂公著が宿州の符離に追い出された時に、子の希哲も同行する羽目になる。この頃に、本中は汪革ら江西詩派の人々と関連を持つようになり、父の影響もあって、道学と同時に禅学にも其の造詣を深めていった。符離は宿州の政庁の在った所。汝陰は嘗て在った郡州。楊(瑰寶)は、字が器之。兄が前述の楊(国寳)応之。酒税とは、地方の酒税徴収の監督官のこと。饒(節)徳操、黎(確)介然両人もまた、江西詩派に名を連ねる詞人だが詳細は不明。汪革はその頃、宿州(現在の安徽省宿州)州学教授の任にあって、榮陽公に師事し、道学・禅学を学ぶと共に、本中・饒節らと詩社を結んだ。

20榮陽公が郡(つかさ)を為す處は、公帑を多(ま)し、鰒魚や諸乾物及び筍乾蕈乾を蓄え、以て賓客を待ち、以て鶏鴨などの生命を減じたり。

  (訳文)榮陽公が行う政治とは、財政を豊かにし、あわび・諸々の乾物及び乾燥たけのこ・乾燥きのこ等を蓄えさせ、それらを賓客の接待に使い、そうする事によって鶏や鴨・あひるの類の消費量を減らしたのである。

  (注釈)財政を豊かにするのは誰でもすることだが、鶏や鴨の生命を減ずるという趣旨がよく解らない。当時はそれらが極めて希少なものだったのだろうか。そして乾物類は味が似ていて代用できると考えたのだろうか。ただ生命の字が引っかかる。禅に傾倒していた榮陽公のことだから、その思想からの発想なのだろうか。

21徐仲車先生は犬を畜(やし)ない、孳生(しせい)して数十に至るも、人に与えることを肯(がえん)ぜず。人或いは之れを問うも、云うには、「其れ母子相離せ使むるに忍びず」と。

  (訳文)徐仲車先生は犬を飼っていて、それが数十匹にも増えてしまっていたが、他人に譲ることを拒んでいた。その訳を問うと、「母子を離ればなれにする事が忍びないからだ」と答えたという。

  (注釈)慈愛深いと云って良いのか、問題含みの一文である。

22孫丈元忠、学士朴は、正献公が薦めし所にして館職たり。嘗て本中の為に言うに、「某し嘗て侍講に対して、程正叔を譏笑す。一日、侍講が某を責めて云うに、“正叔は多少好事有り”と。公は都(すべて)を説かずして、只だ“他の疑似の處を揀(えら)び、他を笑うこと非ざるとは何んぞや?”と。某は因(もと)より釈然として心服せり。後にも敢えて復た深く正叔のことを議せず。今世の士は、孫丈の義に服するに如かずして、亦た有ること少なし。侍講とは、榮陽公を謂うなり。

  (訳文)孫元忠は、正献公から推薦されて館職となっていた。昔、本中の為を思って語るには、「私が昔、侍講と世間話をしながら、程正叔の悪口を言ったことがある。或る日、侍講が私を咎めて、“正叔はやや物好きな處はあるが、良い奴だ”と云っただけで、細かいことは語らなかった。ただ一言、“疑わしいという思い込みだけで、他人を嘲笑ったりしてはいけない”と付け加えられた。何と意味深いお言葉だろう。私は勿論、目が覚めた思いで心から感心したものである。その後は敢えて正叔のことを、殊更話題にすることは無かった」と。現代の人士は、この孫丈が語ったように行動する者は少ない。ここで云う侍講とは、勿論榮陽公のことである。

  (注釈)館職は、宋朝の昭文館・史館・集顕館の三館と、秘閣・竜図閣・天章閣などの経籍・図書を蔵した部署のことで、学問に優れた人々が配属されていた。孫丈元忠、学士朴とは孫(朴)元忠のことで、元佑年間に秘書少監になったとか、華厳経の書を著したなどの記録が散見されるが、詳しいことは解らない。程正叔は程頤(伊川)のこと。

23榮陽公が嘗て言うに、「少年は学を為すに、唯だ書を検(しら)べること最も益有り。才を検べ便ち記して精を得、便ち理會して子細を得よ」と。又嘗て言うに、「書を読み語言の相い似たる事を編類して、一處と做(な)し、便ち優劣是非を見(みわ)けよ」と。

  (訳文)榮陽公が昔、言っていたことだが、「少年は学問をする上で、ひたすら書物を調べることが最も有益である。先ずその全体像を見極めてから、文字に書いて精度を上げ、さらに理解を深めて細部を理解せよ」と。また昔言っていたことだが、「書物を読んで、言葉の似通った事柄を分類編集して整理し、それからその優劣是非を見極めよ」と。

  (注釈)“読書百遍意自ずから通ず”とか“眼光紙背に徹す”とかの格言を思い出すが、小生の今の気持ちは、将にかかる境地。

24榮陽公が嘗て説くに、「その悪を攻め、人の悪を攻めること無かれ。蓋し自ら其の己の悪を攻めよ。日夜且つ自ら点検し、絲毫も尽くさざれば心に慊(いと)わず。豈に工夫して他人を點検すること有らんや」と。

  (訳文)榮陽公が昔、語るに、「自分の悪い所を正すことに努めても、他人の悪い所を探し出すような事があってはならない。思うに、自分の悪い所を正すことに努めて、日夜細かく反省し、少しでも悪い所が残っていると、不満で心が落ち着かないものだ。だからこそ他人の分まであら探しする暇は無いはずだ」と。

  (注釈)ここの文は、<論語>の巻第六顔淵第十二篇二一にある“・・・攻其悪無攻人之悪、非脩與・・・”
       なる文を引用して、解説を試みたもの。

25或るひと、榮陽公に問うに、「小人の為す詈辱なる所は、当に何を以て之を処すべきや」と。公が曰には、「上なる者は、人と己とは本一なることを知るべし。何者が詈と為り、何者が辱と為るや。自ずから忿怒の心無し。下なる者は、且(そもそも)自思して曰わく、“我は是れ何等人、彼は何等人為り”と。是の若くして他(かれ)に答(むくい)れば、却(かえ)って此(かか)る人と等(ひとし)くならん。此の如くして自ら処せば、忿心必ず自消せん。

  (訳文)或る人が榮陽公に問うに、「教養の無い人から罵られたり、辱められたら、どう対応したら良いでしょうか」と。公が云うには、「最善の策は、彼も自分も同じ人間なのだと云うことを自覚して、罵詈だ侮辱だとは云わずに彼の行為を問題にしなければ、自然に怒りの感情は失せていく。それに引き替え最悪なのは、私は間違ったことをしない人間だが、彼はああ云う人間に為ってしまったと、勝手に思い込んで彼に対応すると、彼と同じレベルに墜ちてしまう。だから最善の策を講ずるならば、怒りの感情は必ず抑えることができる」と。

  (注釈)孟子の性善説に基づく示唆であろう。

26榮陽公が嘗て説くに、「王介甫は經を解くに、文に随って義を生みしため、更に含蓄無し。学者は之を読むに、更に以て消詳すべき處も無く、更に以て思量と致すべき處も無し」と。

  (訳文)榮陽公が昔、説いていたことだが、「王介甫は経書を新釈してが、字句の表面上の意味にとらわれて、その意義を理解しようとせず、言外に含まれる深い意味を見落としてしまった。学問をする者がこれを読んでも、深い意味を推量するとか、思量するとかの糧になるようなものでは無い」と。

  (注釈)王(安石)介甫は神宗朝の宰相であり、新法改革のリーダーとして活躍した政治家として有名。また詩人であり文章家でもあって、唐宋八家文の一人でもある。天下も安定しだした仁宗朝になると、道統論が盛んになり、人生論の見直し、訓詁学への批判、道徳論の重視など儒学の充実が図られ、そして前人の主張を総合し、体系化された新たな学問が創られた。その代表が王安石の新学(荊公新学)で、<周礼>・<詩経>・<書経>に対する注釈書すなわち<三經新義>が作られ、科挙の国定教科書に採用された。彼はこの新学思想の下に、中央集権国家の樹立を目指して、数々の新法を実施する。この新学に異議を唱えたのが、程・頤らの洛学、蘇軾・轍らの蜀学そして張載らの関学であった。本中は洛学に所属していたから、当然新学への対抗意識があったろうし、元佑姦党禍の巻き添えを食ったのだから、尚更のことでもあっただろう。ここで使われている随文生義なる言葉は、文面の意義の把握が、表面上で終わる事を意味するもので、縁文生義・因文生義・望文生義などと同じ意味を表す。

27田誠伯は常に力めて、釈氏の輪廻の説を闢(ひら)いて曰うに、「君子の職は当に善と為すべし」と。

  (訳文)田誠伯は日頃から努めて、釈尊の輪廻の説を紹介して云うには、「君子の責務は、まさに善行の一言に尽きる」と。

  (注釈)宋朝の儒家達は、仏教に対する関心が非常に高かったし、本中も禅学を尊んでいたので、こんな記述が残っているのだろう。儒・道・仏の三教の思想は、儒教の招魂再生、道教の不老長生・仏教の輪廻転生の言葉で代表される。

 「童蒙訓」登場人物    書き方:姓(名)字、(其の他)

1.巻中Ⅰ
●王敏仲     ●夏(侯旄)節夫   ●唐恕   ●唐意   ●范(正平)子夷     ●劉(跂)期立  
●劉(蹈)   ●劉莘老   ●汪(革)信民  
●謝(逸)無逸  

2.巻中Ⅱ
●韓()稚圭  ●唐(充之)廣仁  ●呂(希純)好進

3.巻中Ⅲ
●欧(陽)叔弼  ●楊(瑰寳)器之  ●𩜙(節)徳操  ●黎(確)介然  ●孫(朴)元忠

                                           「童蒙訓」巻中 完

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「童蒙訓」ー巻中Ⅱ

2012-07-15 08:20:01 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻中Ⅱ

7.韓魏公が北京を留守するに、幕官が毎夜必ず出でて遊宴を有(もて)り。同官らみな之を譖(いつわ)ることを欲し、公に聴かせざることを慮(たくら)む。一日相(とも)に約して日晩(ひぐれ)に至り、公が急事を議すべく見(まみ)えて幕官を召さんと乞うに、久(しば)らく之れ至らず。衆は方(まさ)に公に所以(わけ)を白(もう)さんと欲すれども、公は佯驚して曰うに、「某(それがし)は忘記して早来せしが、某官が嘗て某に白うすに、”早出して一親識に見(まみ)える”」と。其の寛大にして人の過ちを容(ゆる)すこと此の如し。又嘗て久しく使いし一使臣が、去(ゆき)て参選せんことを求むるも、公は遣わさず。是の如くして数年、使臣は公の遣わさざることを怨み、則ち公に白すに、某の参選は方に是れ官と作るためにして、久しく公門に留まるが、止まるは是れ奴僕のみ。公は笑い、人を屛(とおざ)けて謂いて曰うに、「汝は亦た嘗て某年月日、私(ひそか)に官銀数十両を竊(ぬす)み、懐袖中に置きしと記するが、否や? 吾は之を知るも他人は知らざる也。吾が汝を遣わさざる所以は、正に汝が官を當(つかさど)るに、自慎せずして必ず官を敗(しくじ)ることを恐れしのみ。使臣は愧て謝す。公は之れ寛弘大度にして、人を服すること此くの如し。

  (訳文)韓魏公が北京の役所を留守にすると、部下の幕僚が毎晩必ず遊びに出掛けていた。同役の者は皆其の事を秘密にしていて、公にばれないように気を配っていた。或る日何時ものように示し合わせて出掛けていったが、夕暮れ時になって急に公が話があると云って役所に戻ってきて、幕官を呼びつけた。幕官が中々現れないので下役が事情を説明しようとした時、公が急に思い出した振りをして云うには、「私はどうもうっかり忘れていて、早く来てしまったようだ。そうそう彼が前に、“親しい知り合いと会うので早退したい”と云っていたのを思い出した」と。心が広く、人の過ちを許す公の人柄は、この逸話でもよく解る。また、昔長らく仕えていたある使臣が、“中央の役人になる活動をしたい”と申し出てきたが、公は許さなかった。そうこうすること数年、使臣は公の措置を怨みだし、公に対して、“私が活動したいと申し出たのは、中央の役人になることを強く望んだからで、こんなに長く役所に留まっているようでは、奴僕と何ら変わりません”と言い出した。公は笑って人を遠ざけて語りかけるには、「お前は何年何月何日に、密かに役所の金数十両を誤魔化して懐に入れたと記憶しているが、そうではなかったのか? このことは私だけが知っていることで、他は誰も知らない。私がお前の願いを聞かなかったのは、お前が陞任した後に、慎みを忘れて必ず役人の地位を汚すだろうと云うことを恐れてのことだ」と。これを聞いて使臣は、恥じ入って謝罪した。公はこのように、心が広く、度量が大きく、人を心服させる人柄であった。

  (注釈)韓魏公とは韓、字が稚圭で英宗朝で宰相を務め、功績により魏国公に封じられた。始め西夏の攻撃に失敗するなどの不手際があったが、北宋の全盛時代とされる所謂<慶暦の治>に参画し、後に元老重臣として王安石の新法改革に終始反対した。没後徽宗から魏郡王を追贈された。       

前にも科挙・進士・(選人)改官などの言葉が出てきたが、ここで宋代の 官僚制度について、関連する事項をまとめておきたい。

Ⅰ.中央官僚と地方官僚

・中央官僚

・朝官:朝謁に与る資格のある官吏(正八品以上の常参官)

・京官;都に勤務する官吏(従九品~従八品の寄禄官)、中央官僚となって始めて一人前となり、士大夫社会に参加できる

・地方官僚(幕職州県官): 

  ・選人;進士出身・九經出身(高位の諸科出)・学究出身(低位の諸科出)で、この順に役位が低くなる

  ・其他;攝官出身(現地任用)・恩蔭出身・進納人(買官者)・流外出身(胥吏=小役人)で、この順に役位が低くなる

Ⅱ.中央官僚の官職名

  宋代の官吏は幾つもの異なった性格の官職名を持っていた。代表例として、<資治通鑑>に記されている司馬光の場合を紹介する。

  館職      館職    散官   寄禄官    館職

端明殿学士、兼 翰林侍読学士、朝散大夫、右諫議大夫、充集賢殿修撰、

  祠祿官     勲    爵      食邑     食實封

提西京嵩山崇福官、上柱国、河内郡開国侯、食邑一千八百戸、食實封六百

    賜    

戸、賜紫金魚袋、臣司馬光 

実に丁寧で、これだけで司馬光の履歴が解ろうというもの。少し説明すると、

・館職は、文学素養が豊かなエリートを待遇するもの

・散官は、定まった職務の無い官職

・寄禄官は、俸給のランク付けと位階の順序を示す

Ⅲ.幕職州県官の昇進(循資と云う)

①  常調:一定の勤務年限と、毎年の勤務評定をパスして昇進。

②  酬奨:勤務評定で高位の者に対する優遇措置。

③  奏薦:一定の勤務評定を終え、しかも規定数の挙主(推薦人)が居る場合の優遇措置。

④  改官:選人改官のことを指し、一定の勤務年限と評定を経た後、京官の擧主(連帯保証もする)
       を一定数得て申請
する。吏部(文官の選任・勲階・懲戒などを掌る中央官庁)で之を麿勘
       銓選(厳しく選考)し、条件が満た
されて初めて京官薦擧対象者となる。薦擧対象者は国
       
都の開封に出向き、皇帝じきじきの引見に合格すると晴れて京官となる。始めのうちは対
       象となる選人の数
も少なかったが、後年になると年間百を超えるほどになり、引見の仕方
       や時期を変えるようになる。太祖が
選人の<四時参選>の条文を評議させたという記述
       が
見受けられるので、北宋初期では季節の変わり目毎に官が行われたようだ。

8.崇寧の初めに、本中が始めて楊中立先生のことを關止叔に問う。止叔は先生の学を称して、自得有りて力量有り。嘗て言うに、「常人が死を畏れる所以は、世人が皆死を畏れるを以てなり。習いが風と成り、遂に死を畏れしのみ。如(も)し習俗が皆死を畏れざれば、則ち亦た死を畏れざるなり。凡そ此の如く、皆講学は未だ明らかならずして、知は之れ未だ至らずして然り。

  (訳文)崇寧の初めに、本中が始めて楊中立先生のことを關止叔に尋ねたことがあるが、止叔は楊先生の学問を称して、自力で問題の解決を図り、其の力量は大したものだと云った。また、昔先生が云っていたことだが、「普通の人が死を畏れるのは、世の人々が皆死を畏れているからだ。其の事が繰り返し耳に入るとそれが常識になってしまい、果ては死を畏れることが当たり前になってしまう。もし世間の常識が皆死を畏れなくなると、同じように其れが当たり前のことになる。一般に此に似たような事だが、すべて学問の研究というものには、不明な面が多々あって、知識の及ばない事柄がある事も確かな事だ」と。

  (注釈)後半の説明に苦しい處を感ずるが如何。

9.東莱公が嘗て言うに、凡そ衆人が日夕説く所の話は、趙丈仲長ら諸公の如きは、都(すべ)て此(かか)る話無し。衆人が作す所の事は、楊公應之や李君行ら諸公の如きは、都て衆人の做(な)す底事(なにごと)も做さざるなり。

(訳文)東莱公が昔云っていたことだが、一般に、多くの人々が日頃している世間話などは、趙仲長ら多くの士大夫にとっては、全く話題になることは無い。また多くの人々が取る行動は、楊應之や李君行ら士大夫にとっては、全く問題外のことであった。

(注釈)士大夫の心意気を述べたものであろう。

10李公公擇は毎(つね)に、子婦諸女を側に侍(はべ)ら令(し)め、為すに孟子の大義を説く。

  (訳文)李公擇いつも女子供らを集めて、孟子の大義について教えを垂れていた。

  (注釈)孔子の<仁>に対して、孟子は<義>を付け加えて強調した。浩然の気・大丈夫の心得・出処進退・恥論などを説いたのだろう。

11唐充之廣仁は毎に、前輩を称して後生に説くに、「詬(いかり)を忍ぶこと能わざるは、以て人為(た)るに足らず。人の密論を聞きて容受すること能わずして、軽く之を泄(もら)すは、以て人為(た)るに足らず。

  (訳文)唐廣仁はいつも先輩の士大夫の言動を褒めて後輩に伝え、「怒りを抑える事ができないようでは、人としての修養が足りないと云わざるを得ないし、また他人の秘密を黙っておれずに軽々しく言いふらしてしまうようでは、人としての修養が足りないと云わざるを得ない」と諭していた。

  (注釈)唐充之は、字が廣仁。賢者としての名が高く、地方官として貴族に可愛がられたとか、当時の有力者と争って罪を得たとかの記述が残されている。ここにも士大夫の心意気が語られている。

12陳公瑩中は閩の人にして、専ら北人を主(す)べ、北人を以て而後以て為す有るべし。南人は軽険にして変え易く、必ず為す有るべからず。

  (訳文)陳瑩中は南方の閩地方の出身である。彼は専ら華北の人々を部下とし、その後も有能だとして華北の人々を用いた。一方、華南の人々は、すばしっこく腹黒いし豹変しやすいからと云って、使う事は無かった。

  (注釈)閩は南方にあるが、陳瑩中は初め、北辺の地の湖州の書記をしたので、その頃から北人贔屓になったのだろう。元佑姦党禍に名を連ねる彼らしい物の見方である。

13待制の叔祖は都(みな)夢を説かずして云うに、「既に妄なり。何ぞ用いて説と為さん」と。

  (訳文)待制であった大叔父の呂希純は、机上の空論のような話をすることは無く、「そんな事は道理に合わない。論ずるだけの価値の無い事だ」と云っていた。

  (注釈)本中の大叔父、呂希純は礼法にうるさかったらしく、屡々それに関する意見を上申している。夢などの入り込む余地は、無かったに違いない。

14明道先生が嘗て楊丈中立について語って云うに、「某(なにがし)の縣と作す處は、凡そ坐起する等の處において、並べて視民如傷の四字を貼り、常に観省を要す」と。又言うに、「某は常に此の四字を愧る」と。

  (訳文)明道先生が昔、楊中立について語った事だが、「彼の掲げるモットーは、立ち居振る舞いに於いて、総じて<視民如傷>の四字をベースに置き、常に物事の本質を見て反省しながら行動していた」と。また、「彼は常に、この四字に恥じないように行動していた」と。

  (注釈)<視民如傷=民を視ること傷つくが如し>は、春秋左氏伝にある“臣聞国之興也、視民如傷、是其福也、其亡也、以民為土芥、是其禍也”から引用したもの。

15明道先生が言うに、「人の心は同じからずして、其の面(かお)の如し。同じからざる所は、皆私心なり。公に至りて則ち然らず。

  (訳文)明道先生が言うには、「人の心は同じとは限らない。みんなの顔形が違うようなものだ。同じではないというその理由は、人の心というものは皆、利己的だからだ」と。しかし公だけは全く違っていた。私心が無かったのである。

  (注釈)最後の公とは誰なのだろう。明道ならば先生と呼ぶ方がここではしっくりする。<宋史>に私利私欲なしと記された曾祖父の呂公著とも考えられるが、やはり薫陶を受けた祖父呂希哲としたい。

                                                つづく 

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「童蒙訓」ー巻中Ⅰ

2012-07-01 10:04:39 | 童蒙訓

[童蒙訓]―巻中Ⅰ
http://homepage2.nifty.com/tokugitannka-ronngo/

1.本中が嘗て榮陽公に問いて曰わく、「兄弟の生は、相い去(へだ)たること或いは数日、或いは月と十日、其れ尊卑と為すや微。而して聖人が真に是の如く長幼を分別するは何ぞや?」と。公が曰ふに、「特に聖人は真に先後の序を重んぜず。天の四時、分豪(ふんごう)頃刻(けいこく)皆次序有り。此く是れ物理自然にして、易えるべからず」と、

  (訳文)本中が昔、榮陽公に尋ねるには、「同じ年頃の者ならその生まれが数日とか数十日とか違うだけでは、尊卑の区別など問題にならないと思う。ところが聖人はこの違いを以て長幼を区別するが、その理由は何でしょうか」と。公が答えるには、「特別に聖人が誕生の先後の順序を重視しているわけではない。自然の四季や四時のように、ほんの少しとは云え何事にも順序というものが有る。これ即ち物事の道理であり、自然の理屈なのだから変えることは出来ないのだ」と。

  (注釈)四時とは、一年の四季、一ケ月の四時(晦・朔・弦・望)、一日の四時(朝・昼・夕・夜)などを指す。

2.榮陽公は人の為に事を処するに、皆久長の計と方便を求むるの道有り。只だ中風を病みし人の如く、口は言うこと能わず、手は書くこと能わずして疾を養(おさ)める者には、乃ち欲するところを問い、病者が既に答えること能わざれば適(まさ)に苦は増(ますます)足(おお)く、故に公は嘗て人に教えるに毎事一牌子を作らせるに、飲食衣装寒熱の類及び常に服するところの薬、常に作す所の事の如し。(常に服する所の薬とは、理中圓の類の如く、常に作す所の事とは、梳頭洗手の類の如く、及び某{なにがし}が親等の書{ふみ}を作らしむ)。病者は牌子を取(手にと)り以て人に示せば、則ち大半の苦は減るべし。凡そ公が人の為に事を処するは毎(つね)に是くの如し。

  (訳文)榮陽公は物事を処理する時には、常に人々の行く末を考慮し、また上手くいくように策を講じていた。例えば中風を患っている人のように、口も手も不自由な人が居れば、こちらから何をしたいのか積極的に問い掛け、病が重く答えることもままならず、苦痛が激しい時には介添人にあらゆる事に対処できる口変わりになる“書き札”を作らせた。例えば飲食・衣装・寒暑の類や、服薬のことや何をしたいのかなどの“メモ”類である。(例えば、“常備薬は理中圓”とか、“頭を洗いたい“とか、”手を洗いたい“とか、更には”親の名“などのメモ)。病人はその”書き札“を取り出して人に見せることにより、要望が満たされるので苦痛は大いに和らげられることになる。榮陽公はこのように何時も人の立場をよく考えて対処していたのである。

  (注釈)理中圓とは漢方薬のことで、傷寒論にその成分は人参・白朮・甘草・乾姜となっている。今の人参湯(理中丸)のことで、体質虚弱の人に使われている。

3.王尚書敏仲は古(むかし)から毎事必ず人の為に方便の道を求む。河朔の如く、舊日北使が由州郡を経て、北使が将に至らんとする毎(たび)に、民間は供張の具を假貸し至(はなはだ)煩擾せり。敏中は使いを奉り、即ち之を朝に言(つた)え、乞うて河朔の人に令(めい)じて経由の處に、皆官銭を支(はら)って什物を置か使む。之を別庫に儲(たくわ)え、専ら人使を待てり。此れ自り河朔には復(ふたたび)假貸の擾無し。王公は事に臨むに毎(つね)に此の如し。

  (訳文)尚書の王敏仲は昔から、常に人々が楽に暮らしていく方策を考えていた。例えば大分前のことだが、河北地方では北使が由州郡を経由して度々通過することがあったが、その度にその土地の人々は設営用具を準備するなど余計な仕事に追われる始末であった。これを見た敏中は朝廷に上申して官費を出して貰い、経由地に什物置き場をその地の人に作らせ、その管理を常駐の役人に見張らせた。その後、この河北ではこういう余計な仕事で手を煩わす様なことは無くなった。王公は常にこのように、民のことを気遣っていたのである。

  (注釈)王敏仲は尚書にもなったが北使としても活躍した官人である。蘇軾と親交があり、<謝仲适坐上送王敏中北使>なる詩詞が見られる。

4.榮陽公は諸夫と興に少(おさな)きころ自り官守に處(つ)き、未だ嘗て人の擧薦を干(さまた)げず。以て後生の戒めと為す。仲父舜従は官(つかさ)として会稽を守る。人或いは其の知(まじわ)りを求めざるを譏る。仲父は對(こた)えるに甚だ好き詞(ことば)をもって云うに、「職事を勤るに、其の他は敢えて慎ま不(ず)んばあらず。乃ち交わることを求める所以なり」と。

  (訳文)榮陽公は伯父達と共に、幼少の頃から官職に就いていたが、一度も他人の推挙に反対することが無かった。そしてその心構えを後輩に戒めとして伝えていた。叔父の舜従は、会稽の長官をしていたが、その親交を深めることを嫌う姿を見て、嫌みを云う者が居た。叔父はこれについて大変心に浸みる言葉を残している。即ち、「職責を全うする為には、余計なことは厳に慎むべきである。それこそが本当の親交というものだ」と。

  (注釈)会稽は、春秋時代の越王勾践が呉王夫差に破れた所で、今の浙江省紹興市。人は惰性に流され易いもの。常に心を引き締めておけとの教えであろう。

5.本中は往年、前輩先生長者に侍する毎(たび)に当世の邪正善悪を論じ、是は是非は非として精盡せざる事無し。前輩の行事の得失や、文字の工拙に至り、及び漢唐の先儒の經義を解釈し、或いは至らざる事あれば後生に敢えて略議してこれを及ぼし、必ず作色して痛(なや)むも之を裁折して曰わく、「先儒の得失や前輩の是非は、豈に後生が知る所なり。楊十七学士應之兄弟や、晁丈以道の規矩は最も厳なり。故に凡そ後世で嘗て此の諸老に親近せし者は、皆敦厚の風有りて浮薄の過ち無し」と。

  (訳文)本中は昔から、先輩と接する度に、その当時の出来事の正邪善悪を論じ、是は是、非は非としてとことん問い詰めるという風であった。先輩の行為の得失や、文字の巧拙を問題にしたり、漢・唐時代の先儒の説く経書の意義を解説してみたり、或いは未解決の問題があれば、それを後輩に敢えて問題提起し、その際には必ず控え目に付け加えて云うには、「先儒の得失や先輩の是非については、後輩が明らかにする役目を持つ。楊應之兄弟や晁以道らの経学に臨む態度には、極めて厳しいものがあった。だから後輩で彼ら諸老に親しく接した者は、皆人情に厚い気風を持ち、軽薄な過ちを犯すことは無かった」と。

  (注釈)本中は可なり理屈っぽい質だったようで、学問一筋の感が否めない。

6.前輩の士大夫は専ら風節を以て己の任と為し、其れ褒貶取豫に於いて甚だ厳なり。故にその立つ所は、実に人に過ぎるもの有り。近年以来風節は立たずして、士大夫の節操は一日が一日に如かざるなり。夏侯旄節夫は京師の人にして、年は本中に長ずること以て倍し、本中は猶之と交わるに及ぶ。崇寧の初めに召されて諸州牧に任ぜられ、学制を授かるも既に盼(はん)たり。即日醫を尋ねて去る。後に西京の幕官に任ぜられるも任を罷(しり)ぞき、改官(かいかん)に当たり挙げて将に一人安惇を以てし、肯用せずして卒するまで改官せず。京師に浮湛して死に至るも屈せず。唐丈名は恕、字が處厚は、崇寧の初めに荊南知県に任ぜらる。新法既に行われ、即ち致仕して出でざること幾(ほとんど)三十年。范丈正平子夷は忠宣公の子なり。忠宣公が国を當(つかさ)どり、子夷は是の時官(つかさ)として遠く入るに當り、父の恩例を肯用せず卒して遠地を授かり、後に祥符の尉と為る。紹聖の初めに當り、中貴人と争って地界を打量し、興に曲直を辨じて屈せざれば罪を得て去る。劉丈跂期立、蹈(?)、皆丞相莘老の子にして、高科に登り、文学を以て名を知らる。州県に仕え、自ら處し莘老て約すること甚だしければ、人は其れ宰相の子為るを知らざるなり。汪革信民は政和の間に、諸公に其の名を熟聞され、国子博士に除して漸く之を用いることを欲するも、意(つい)に辞して受けず。謝逸無逸は臨川の人にして、州郡は八行を以て薦めんと欲すれども堅く之を却(しりぞ)けたり。凡そ此くのごとく諸公は皆卓然として自立し、一時は古人を媿(はず)かしめず。爾来流俗は復た此を以て貴しと為さず。

  (訳文)先輩の士大夫達は、固く己が信念を曲げないことを信条としていて、他人の批評や自分の昇進そして部下の任用などにも、非常に厳しく対応していた。だから其の立場は、人に過れたものであった。近ごろは其の信念が崩れだし、士大夫等の節操は日増しに衰え始めている。夏侯節夫は京師出身で、本中より倍も年かさだったが、交友関係にあった。崇寧の初め頃、幾つかの州の教授に任命され、学校制度の管理を任されたが、既に整っていたので病気を理由に即刻退任した。その後首都の洛陽の中央官僚に任ぜられたが、この折角の選人改官の機会を断り、其の任を退いてひっそりと誠実に暮らし、死ぬまで改官せずに時流の赴くままに都にあって、其の意志を貫き通した。唐恕は崇寧の初めに、荊南県知事に任ぜられたが、時の新法改革に反対し、辞任してその後は家に閉じこもり、三十年近く世の中に顔を出さなかった。范正平は宰相の范純仁の子である。純仁が宰相となり、正平が地方官に任ぜられようとした時に、父の功績による蔭官を快しとせず断り、父の没後に始めて地方官として赴任し、後には都のある開封県の軍官となった。紹聖年間の初めに、当時戸部尚書であった蔡京(後の宰相で旧法党の弾圧者)と土地争いになり、激しく正当性を主張し合って最後まで屈しなかったが敗訴し、罪人となって職を辞することになる。劉跂と劉蹈の兄弟は、執政劉莘老の子で、共に最高位で科挙に合格し、文学方面で高名を馳せた。地方官となっても慎ましく暮らしていたので、人々は彼らが宰相の子だと云うことに気づかなかった。汪革信民は政和年間に、士大夫間で其の名を知られ、教育機関の国子博士に任用されることになったが、強く辞退して受けることは無かった。謝逸は臨川の出身で、州郡では八行制度に基づいて彼を推薦したが、謝逸はこれを固辞した。このようにこの頃の士大夫は皆非常に優れ、自立心強く、士大夫の名を辱めることは無かった。その後俗世間では、このような風潮を軽視するようになった。

  (注釈)士大夫とは北宋以降に現れた、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた人達のことで、所謂豪族・貴族階級だが、自らを「士」とか「士大夫(したいふ)」と呼んだ。士大夫にも階級があったようで、上者(忠実で才能見識のある者)・次者(才能が高くなくとも忠実な者)・三者(不安定だが才能があって仕事ができる者)に分かれ、そのほかは小人(邪念を抱き付和雷同して態度を変える者)となる。この階級から外れたものを「庶」と呼び、激しく差別した。其の気概は、范仲淹の「先憂後楽」の語に代表される。また彼らは文人・学者でもあり、宋朝文化の担い手でもあった。一方「陞官発財」=(官に上れば財を発する)とも云われたように、官吏となることによる特権が得られる處から、一族から科挙官僚を出すことが最も得する手立てでもあった。夏侯旄は、字が節夫で京師の出身。唐恕は江陵出身。弟唐意と共に若くして退官し、その後世に出ること無く晴耕雨読の日々を送って余生を終えた。一時監察御史に除するとの詔書が下されたが、貧しくて登朝出来なかったという。また最後は江陵山中で餓死体として発見されたとも云われている。范正平は字が子夷で、蘇州呉県出身。作詩の才能があり、特に五言詩に長け、学問品行共に非常に高いものが有った。忠宣公とは范(または範)純仁のこと。中貴人とは、宮中の役人で君主に寵愛されていた者で、後に宦官をこう呼んだ。ここでは蔡京のこと。劉跂とは字が斯立。弟が劉蹈。共に賢才であった。父親の劉莘老は哲宗朝の宰相劉摯のことで、元佑姦党禍の一人。汪革信民は字が信民で、臨川出身。交友にして性格深厚、慎み深い性格の人。家は貧しかったが学問を好み、高名な学者として名を馳せた。道学・禅学など博く勉強したという。呂希哲に師事し、江西詩派のメンバーでもある。処世修養の書として有名な<菜根譚>の書名が、彼の言葉即ち「人常咬得菜根、則百事可做」から採られたことでも有名。国子搏士の国子とは、公卿・大夫・貴族の子供のこと。国子学校など教育行政を掌ったのが国子監。その位階の一つが博士。九経担当の部署の内の一つが国子学で、そこには博士二名、助教二名、五経博士五名、学生三百名が所属していた。謝逸無逸とは、字が無逸。臨川出身。科挙受験に失敗し、詩詞の分野で名を馳せた。汪革とは同郷の親友である。八行とは、道徳や人柄面で優れた人材を推薦する制度で、徽宗朝の大観元年に「八行取士科」が設けられ、八行兼備である者は早いペースで太学入学でき、試験を経ずに太学の優等生となり、科挙を受けずに官職に就けるという数々の恩典があった。八行は恐らく、里見八犬伝にも出てくる仁義八行(仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌)とも関連するもので、仁義礼智信は儒教で云う所謂自律の徳(五常の徳)であり、忠孝悌は散見される徳目を従属の徳として後から加えたものであろう。こういう八行の徳を持つ人材の登用を目的として、かかる制度が設けられたのであろう。

                                                つづく

                            

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