論語を詠み解く

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中論-ⅩⅢ

2018-02-01 08:51:21 | 仁の思想

中論-ⅩⅢ
譴交(交わりを譴める)→交わり方を問い糾す。
1民之好交游也,不及聖王之世乎?古之不交游也,將以自求乎?昔聖王之治其民也,任之以九職,紏之以八刑,導之以五禮,訓之以六樂,教之以三物,習之以六容,使民勞而不至於困,逸而不至於荒。當此之時,四海之內,進德脩業,勤事而不暇,詎敢淫心舍力、作為非務以害休功者乎?自王公至於列士,莫不成正畏,相厥職有恭,不敢自暇自逸。故《春秋外傳》曰:「天子大采朝日,與三公九卿、祖識地德。日中考政,與百官之政事師尹惟旅牧相、宣序民事;少采夕月,與太史司載、紏虔天刑;日入監九御,潔奉褅郊之粢盛,而後即安。諸侯朝修天子之業命,晝考其國職,夕省其典刑,夜警其百工,使無慆淫,而後即安。卿大夫朝考其職,晝講其庶政,夕序其業,夜庀其家事,而後即安。士朝而受業,晝而講貫,夕而習復,夜而計過無憾,而後即安。」正歲使有司令於官府曰:「各修乃職,考乃法,備乃事,以聽王命。其有不恭,則邦有大刑。」由此觀之,不務交游者,非政之惡也,心存於職業而不遑也。且先王之教,官既不以交游導民,而鄉之考德,又不以交游舉賢,是以不禁其民,而民自舍之,及周之衰,而交游興矣。
[訳1]
 民の交遊を好むや、聖王の世に及ばざるか?古の交遊せざるや、将に以て自ら求めんとするや?昔し聖王の其の民を治めるや、之れに任せるに九職を以てし、之れを糾すに八刑を以てし、之れを導くに五禮を以てし、之れに訓(おし)えるに三物を以てし、之れを習わしめるに六容を以てし、民を労(いた)わり而して困(くる)しみに至らず、逸(はな)ち而して荒(すさ)むに至らざら使む。当に此の時、四海の内は、徳に進み業を修め、事を勤め而して暇あらず、詎(なんすれ)ぞ敢えて心を淫して力を舍て、非務を作為し害を以て功を休む者ありや?王公自り列士に至るまで、正畏を成さざるは莫く、厥(そ)の職を相(み)るに恭有り、敢えて自ら暇(か)し自ら逸せず。故に<春秋外伝>に曰く、「天子は大采(たいさい)して日に朝し、三公九卿と、地徳を祖識す。日中(ひちゅう)して政(まつりごと)を考え、百官の政事・師尹・維(および)旅(もろもろ)の牧相と、民事を宣序(せんじょ)す。少采して月に夕(せき)し、大史司載と、天刑を糾虔(きゅうけん)す。日入りて九御を監し、禘郊の粢盛(しせい)を潔奉(けつほう)せしめ、而して後に安に卽(つ)く。諸侯は朝(あした)に天子の業命(ぎょうめい)を修め、昼は其の国職(こくしょく)を考え、夕べには其の典刑(てんけい)を省み、夜は百工を警(いまし)め、慆淫(とういん)無からしめ、而して後に安に卽く。卿大夫は朝に其の職を考え、昼は其の庶政を講じ、夕べには其の業を序(つい)で、夜は其の家事を庀(おさ)め、而して後に安に卽く。士は朝に業を受け、昼に講貫(こうかん)し、夕べに習復し、夜に過ちを計り、憾み無くして、而して後に安に卽く。」と。正歳に有司をして官府に令せしめて曰く、「各おの修めるは乃ち職、考(おも)うは乃ち法、待(とどま)るは乃ち事(つとめ)、以て王命を聴くべし。其れ共にせざること有れば、則ち国は大刑を有(も)つ」と。此に由りて之を観れば、交游を務めざるは、政の悪に非ず、心は職業に在り而して遑(いとま)あらざればなり。且つ先王の教えは、官は既(もとよ)り交游を以て民を導かず、而して之れを郷(う)けて徳を考え、又た交遊を以て賢を挙げず。是を以て其の民を禁(おさえ)つけず、而して民が自ら之れを舍てて、周(あまね)く之れが衰えるに及ぶも、而(すなわ)ち交遊興る。
 民衆の交游の仕方には、聖王の時代と比べて及ばないものがあるのだろうか?昔は交游を望まない場合、積極的に自分のほうからそうしたものなのだろうか?古代聖王がその民を治める場合、九つの職種を定めて委託し、八つの刑罰を定めて処罰し、五つの礼式を定めて教導し、三つの行動規範を定めて教化し、六つの礼儀作法を定めて教習して、民を労って困却に至らぬようにし、自由は与えるが野放図にはしなかったものである。当時の天下は、道徳が良く守られ学業の修得が進み、充実した日々を暮らして横道にそれることもないと云った状況にあったのだから、どうしてわざわざ心を乱してふしだらに怠けたり、好んで務めを怠り悪意を以て仕事を休んだりする者が居ただろうか?天子や諸侯そして烈士に至るまで敬い慎まざる者はなく、その職務の様子を見ると慎み深く、敢えて自分勝手に暇をもてあましたり楽しみを追ったりはしていなかったのである。だから<国語>に、「天子は五色に彩られた服を着て太陽を朝拝し、高官の三公九卿と共に、大地の偉大なる恵みについて学習する。正午になると政事を考え、百官の長である正事・師尹・多くの牧相らと共に、民の政事を遍く処理する。次いで三色に彩られた服を着て月を夕拝し、大史と司載の天文関係の官人と共に、天の啓示する法則を慎んで敬う。日が沈むと宮中女官の九御を監視して、天帝を祭る諦祭・郊祭に供える黍を清めて奉献させてから、始めて休息する。諸侯は毎朝天子から受けた指令を整理し、昼は与えられた国の職務を検討し、夕方は恒常不変の刑罰について省察研究し、夜は百官に訓戒を垂れて規律違反を防いでから、始めて休息する。卿大夫は毎朝与えられた職務について目を通し、昼は与えられた沢山の政務を講究し、夕方はその業務を整理し、夜は家の事務を処置してから、始めて休息する。士は毎朝出勤して朝廷から仕事を与えられ、昼は研修を受け、夕方には昼間の仕事を見直し、夜は一日の過失の有無を調べ、遺憾な点がなければ、始めて休息する。」とある。正月に朝廷に於いて役人が指令して云うには、「各自は己の持ち場を整え、規則制度を守り、職責を全うし、その上で王の命令に従うべし。職務を尽くすことが出来なければ、国は重い刑罰を与えることになる」と。このことから考えると、交游を止めてしまうことがあるのは、政事の有りようが間違っているのではなく、頭の中が仕事のことで一杯で忙しすぎることから起こるのである。そして先王の教えによると、政事を行う役人は交游が必要なのだと云う意識で国民を指導するのではなく、この事を念頭に置いて道徳の大切さを考え、また交游を名目にして賢人を登用したりはしないのである。そう言う訳で民を抑圧しなくとも、民のほうから交游を止めてしまい、全てに亘って交游が無くなったとしても、交游というものは大切なものだから再び盛んになるのである。
[参考]
 ・交游:交は脛を組むの意で、游(ゆらゆらと泳ぎ回る)は斿(旗竿に付けた吹き流しが風に流れる意→氏族が旗を靡かせて旅をする意)から変化したもの。
     修己成徳の為に賢人を求めて各地に出向くことを意味する。
 ・九職:九種の職域
   ①三農(農業・農村・農民):九穀(黍・稷・秫・稲・麻・大豆・小豆・大麦・小麦の九つの穀物)の育成。
   ②園圃:草木の育成。
   ③虞衡(山林川澤の管理):山水・山野の保守。
   ④藪牧(薮澤放牧の管理):鳥獣の繁殖。
   ⑤百工(全ての職人):八材の加工。
       八材:珠、象、玉、石、木、金、革、羽。
   ⑥商賈(商人):宝飾・服飾の流通。
   ⑦嬪婦(宮中の女官):麻絹の縫製。
   ⑧臣妾(侍臣・侍女):家事一般(食事・身の回り世話)
   ⑨閑民:遊民。<周禮、天官冢宰>
     「61 以九職任萬民:一曰三農,生九穀。二曰園圃,毓草木。三曰虞衡,作山澤之材。四曰藪牧,養蕃鳥獸。五曰百工,飭化八材。六曰商賈,阜通貨賄。七曰嬪婦,化治絲枲。八曰臣妾,聚斂疏材。九曰閑民,無常職,轉移執事。」
 ・三物(六徳・六行・六藝):<周禮、地官司徒>
     「73 以鄉三物教萬民而賓興之:一曰六德,知、仁、聖、義、忠、和;二曰六行,孝、友、睦、姻、任、恤;三曰六藝,禮、樂、射、御、書、數。」
 ・八刑(不孝・不睦・不姻・不悌・不信任・不同情・訛言惑衆・亂名執邪道以亂政)
  :<周禮、地官司徒>
     「74 地官司徒: 以鄉八刑糾萬民:一曰不孝之刑,二曰不睦之刑,三曰不姻之刑,四曰不弟之刑,五曰不任之刑,六曰不恤之刑,七曰造言之刑,八曰亂民之刑。」
 ・五禮:<周禮、地官司徒>
     「75 以五禮防萬民之偽而教之中。以六樂防萬民之情而教之和。凡萬民之不服教而有獄訟者,與有地治者聽而斷之;其附于刑者歸于士。」
 ・五禮(祭祀・喪葬・賓客・軍旅・冠婚):<隋書、卷六志第一、禮儀一>
     「2  殷因於夏,有所損益,旁垂祗訓,以勸生靈。商辛無道,雅章湮滅。周公救亂,弘制斯文,以吉禮敬鬼神,以兇禮哀邦國,以賓禮親賓客,以軍禮誅不虔,以嘉禮合姻好,謂之五禮。 」
 ・六楽=黃帝以下六代的古樂。
     ・文舞:雲門(黃帝之樂)、咸池(堯樂)、大韶(舜樂)、大夏(禹樂)
     ・武舞:大濩(湯樂)、大武(武王之樂)。
 ・六容(形式:祭祀・賓客・朝廷・葬礼・軍旅・乗り物):<周禮、地官司徒>
     「113保氏:掌諫王惡,而養國子以道。乃教之六藝:一曰五禮,二曰六樂,三曰五射,四曰五馭,五曰六書,六曰九數。乃教之六儀:一曰祭祀之容,二曰賓客之容,三曰朝廷之容,四曰喪紀之容,五曰軍旅之容,六曰車馬之容。凡祭祀、賓客、會同、喪紀、軍旅,王舉則從;聽治亦如之。使其屬守王闈。 」
 ・《春秋外傳》曰:<國語、魯語下>
     「13 ・・・是故天子大采朝日,與三公、九卿祖識地德;日中考政,與百官之政事,師尹維旅、牧、相宣序民事;少采夕月,與大史、司載糾虔天刑;日入監九御,使潔奉禘、郊之粢盛,而後即安。諸侯朝修天子之業命,晝考其國職,夕省其典刑,夜儆百工,使無慆淫,而後即安。卿大夫朝考其職,晝講其庶政,夕序其業,夜庀其家事,而後即安。士朝受業,晝而講貫,夕而習復,夜而計過無憾,而後即安。・・・」
 ・<列女傳、母儀、魯季敬姜>
     「7・・・是故天子大采朝日,與三公九卿組織地德。日中考政,與百官之政事,使師尹維旅牧宣敘民事。少采夕月,與太史司載糾虔天刑。日入監九御,使潔奉禘郊之粢盛,而後即安。諸侯朝脩天子之業令,晝考其國,夕省其典刑,夜儆百工,使無慆淫,而後即安。卿大夫朝考其職,晝講其庶政,夕序其業,夜庀其家事,而後即安。士朝而受業,晝而講隸,夕而習復,夜而討過,無憾,而後即安。・・・」
 ・大采:青・赤・黄・白・黒の五色のこと。
 ・少采:青・赤・白の三色のこと。
 ・正歲使有司令於官府曰:<周禮、天官冢宰>
     「80正歲,令于百官府曰:「各修乃職,考乃法,待乃事,以聽王命。其有不共,則國有刑!」・・・」
2問者曰:「吾子著書,稱君子之有交,求賢交也。今稱交非古也,然則古之君子無賢交歟?」曰:「異哉!子之不通於大倫也。若夫不出戶庭,坐於空室之中,雖魑魅魍魎,將不吾覿,而況乎賢人乎?今子不察吾所謂交游之實,而難其名,名有同而實異者矣。名有異而實同者矣。故君子於是倫也,務於其實,而無譏其名。吾稱古之不交游者,不謂嚮屋漏而居也。今之好交游者,非謂長沐雨乎中路者也。」古之君子因王事之閒,則奉贄以見其同僚及國中之賢者,其於宴樂也,言仁義而不及名利。君子未命者,亦因農事之隙,奉贄以見其鄉黨同志,及夫古之賢者亦然。則何為其不獲賢交哉?非有釋王事、廢交業、遊遠邦、曠年歲者也。故古之交也近,今之交也遠;古之交也寡,今之交也眾;古之交也為求賢,今之交也為名利而已矣。
 問う者が曰く、「吾子(ごし)は書を著し、君子が交わりを有(も)つことを称え、賢く交わることを求む。今交わりを称えるも古きに非ず、然れば則ち古の君子は賢く交わること無きか?」と。曰く、「異なる哉!子は之れ大倫に通ぜざるなり。若し夫れ戸庭に出ず、空室の中に座せば、魑魅魍魎と雖も、将に吾は覿(まみ)えず、而るを況んや賢人をや?今子が吾が所謂交游の實を察せず、而して其の名を難(なじ)るが、名は有同に而して実は異なる。名は有異に而して実は同じ。故に君子は是れに於いて倫なりて、其の實を務め、而して其の名を譏ること無し。吾は古の交游せざる者を称えたり、屋漏に嚮(む)かい而して居ることを謂わざるなり。今の交游を好む者は、中路に長く沐雨する者を謂うに非ざるなり」と。古の君子は王事の閒に因み、則ち贄(にえ)を奉り以て其の同僚及び国中の賢者に見え、其れは宴樂に於いてし、言は仁義に而して名利には及ばず。君子未だ命(めざ)さざるは、亦た農事の隙に因み、贄を奉じ以て其の郷党同志に見えることにて、及び夫れ古の賢者亦た然り。則ち何ぞ其の為に賢交を獲ざるや?王事を釋すること有るに非ざれば、交業を廃し、遠邦に遊び、年歳を曠(むなし)くするものなり。故に古の交わりたるや近(したし)く、今の交わりたるや遠(うと)く;古の交わりたるや寡(すくな)く、今の交わりたるや衆(おお)く;古の交わりたるや求賢を為し、今の交わりたるや名利を為すのみ。
 問う人が云うには、「あなたは書物を著して、其の中で君子が交わりを持つことを称揚し、賢い交わり方をするように説いている。處で交わりの大切さを称揚してはいるが、それは古い時代の交わり方の事ではないと云うが、そうだとすれば古い時代の君子は賢い交わり方をしなかったと云うのだろうか?」と。答えるには、「間違っている。君は人が守るべき大道について何も解っておらんようだ。広く世間を視ようと努力しなければ身近な魑魅魍魎は勿論の事、ましてや数少ない賢人には尚更出会えるものではない。今君は私の言う處の交游の本質を理解せずに、何でもかんでも一緒くたにしてその名目だけを捉えて問い糾しているが、名目というものは同じであったとしてもその本質は異なるものである。名目が異なる場合でも本質は同じと言うこともある。だから君子はそう言う点で人の守るべき道理を良く理解しており、その本質を確りと重んじるのであって、その名目を咎めたりはしないのである。私は古い時代の交游は好ましくないと言ったり、交游を避けて人目に付かぬ場所にじっと潜んで居ろと云っているのではない。今日の交游に積極的な者とは、道半ばにして苦労に耐え抜いている者のことを云っているのではない。」と。昔の君子は帝王の事業が堅実に行われている時代に合わせて伝手を得て宮廷に登り、禮物を献上して宮廷の同僚や国中の賢人と接触して交わりを持ち、それも宴席を通じて行い、仁義道徳を語るも名利については触れなかったものである。君子がこれまで目指さなかったものは、農閑期を狙って禮物を献上して村里の同志と接触することであり、こう云うことは賢者に於いても同様のことである。と云う訳だから交わりの為に賢人と接触しない訳がないのである。帝王の事業の様子が解らない時には、交流を止め、遠国に遊学して、期が満ちるまで時を過ごしたものである。だから昔の交游の姿というものは親しみの深いものであったが、今の交游は表面的な付き合いに終わっており;昔の交游は本質的なものだけに限られていたのでその数は少なく、今の交游は名目だけのものも含めてしまうのでその数は多く;昔の交游と云うものは賢者と接触することが主眼であったのに対し、今の交游は名利を求めることに汲汲としているのである。
3古之立國也,有四民焉。執契脩版圖,奉聖王之法,治禮義之中,謂之士;竭力以盡地利,謂之農夫;審曲直形勢,飭五材以别民器,謂之百工;通四方之珍異以資之,謂之商旅。各世其事,毋遷其業,少而習之,其心安之,則若性然,而功不休也。故其處之也,各從其族,不使相奪,所以一其耳目也。不勤乎四職者,謂之窮民,役諸圜土。凡民出入行止,會聚飲食,皆有其節,不得怠荒,以妨生務,以麗罪罰。然則安有群行方外,而專治交游者乎。是故五家為比,使之相保、比有長。五比為閭,使之相憂,閭有胥。四閭為族,使之相葬,族有師。五族為黨,使之相救,黨有正。五黨為州,使之相賙,州有長。五州為鄉,使之相賓,鄉有大夫。必有聰明慈惠之人,使各掌其鄉之政教、禁令。正月之吉,受法于司徒,退而頒之于其州黨族閭,比之群吏,使各以教其所治之民,以考其德行,察其道藝,以歲時登。其大夫察其眾寡,凡民之有德行、道藝者,比以告閭,閭以告族,族以告黨,黨以告州,州以告鄉,鄉以告。民有罪奇衺者,比以告,亦如之。有善而不以告,謂之蔽賢,蔽賢有罰;有惡而不以告,謂之黨逆,黨逆亦有罰。故民不得有遺善,亦不得有隱惡,鄉大夫三年則大比而興賢能者,鄉老及鄉大夫群吏獻賢能之書於王,王拜受之,登於天府,其爵之命也,各隨其才之所宜,不以大司小,不以輕任重,故《書》曰:『百僚師師,百工惟時。』此先王取士官人之法也。故其民莫不反本而自求,慎德而積小,知福祚之來不由於人也。故無交游之事,無請託之端。心澄體靜,恬然自得。咸相率以正道,相厲以誠愨,姦說不興,邪陂自息矣。
 古の国を立てるや、四民を有(も)つ。執契して版圖を脩(ととの)え、聖王の法を奉り、礼義の中を治めよと、之れを士に謂い;力を竭(つ)くし以て地利を尽くせと、之れを農夫に謂い;曲直形勢を審らかにし、五材を飭(ととの)え以て民器を別けよと、之れを百工に謂い;四方の珍異を通(ゆきわた)らせ以て之れを資(たす)けよと、之れを商旅に謂う。各々其の事(つとめ)を世(つづ)け、其の業(なりわい)を遷(かわ)ること毋く、少(おさな)くして之れを習い、其の心は之れを安んじ、則ち性(さが)の若く然り、而して功は不休なり。故に其の之れを処するや、各々其の族を従え、相い奪わ使めず、其の耳目を一にする所以なり。四職を勤めざる者は、之れを窮民と謂い、諸々の圜土(えんど)に役(つか)う。凡そ民の出入り行止、會聚飲食は、皆な其の節を有し、怠荒(たいこう)し、以て生務を妨げ、以て罪罰を麗(うるわ)しいとすることを得ず。然らば則ち安んじて方外に群行すること有り、而して専ら交游を治(たす)けたるか。是の故に五家は比と為り、之れを相に保た使め、比に長有り。五比は閭(りょ)と為り、之れを相に憂え使め、閭に胥(しょ)有り。四閭は族と為り、之れを相に葬(ほうむ)ら使め、族に師有り。五族は黨と為り、之れを相に救わ使め、黨に正有り。五黨は州と為り、之れを相に賙(すく)わ使め、州に長有り。五州は郷と為り、之れを相に賓(したが)わ使め、郷に大夫有り。必ず聡明慈恵の人を有し、各々其の郷の政教・禁令を掌(つかさど)ら使む。正月の吉(ついたち)に、司徒より法(さだめ)を受け、退き而して其の州・黨・族・閭に之れを頒(わ)かち、比は之れ群吏に、各々以て所治の民に教え、以て其の徳行を考えさ使め、其の道藝を察(つまびらか)にし、歳時を以て登る。其れ大夫は其の衆寡を察し、凡ての民は之れ徳行を有し、道藝は、比以て閭に告げ、閭以て族に告げ、族以て黨に告げ、黨以て州に告げ、州以て郷に告げ、郷以て告ぐ。民の罪み奇衺(きじゃ)有る者は、比以て告げるは、亦た之れの如し。善有りて而して以て告げざるは、之れを蔽賢と謂い、蔽賢は罰有り;悪有りて而して以て告げざるは、之れを黨逆と謂い、黨逆は亦た罰有り。故に民は善を遺(わす)れること有り得ず、亦た悪を隠すこと有り得ず、郷大夫の三年則は大比し而して賢能者を興(ひきた)て、郷老及び郷大夫の群吏は賢能の書を王に献じ、王は之れを拝受し、天府に登(しる)し、其れは爵の命なりて、各々は其の才の宜しき所に従い、大を以て小を司らせず、軽を以て重きを任せず、故に<書>に曰く、「百僚(ひゃくりょう)師師(しし)、百工(ひゃくこう)惟れ時(よ)く。」とある。此れは先王が士官を取る人の法なり。故に其の民は反本(はんぼん)せざること莫く而して自ら求め、徳を慎み而して小を積み、福祚(ふくそ)の来ることを知るは人に由らざるなり。故に交游の事無く、請託の端(きざし)無し。心は澄み體は静かに、恬然(てんぜん)として自得す。咸(すべ)て正道を以て相に率(みちび)き、誠愨(せいかく)を以て相に厲(はげ)み、姦説興らず、邪陂(じゃひ)自ずから息(や)む。
 昔は国を作ると、先ず士農工商の四種の人民階級を整えた。証拠を集めて地籍を整え、聖王の掟を遵奉し、人の踏み行うべき規範たる禮儀の中道を守れと、士人に説き聞かせ;一生懸命に土地から生ずる利益を享受せよと、農夫を励まし;材料の曲直をよく調べ、木・火・土・金・水の五つの材料を揃えて民用器物を整えよと、職人達を説得し;世界中の珍しい物を集めて物資の流通を図れと、商人を督励した。いずれも代々その務めを世襲し、何時までも家業を変えること無く、幼少時からその務めを見習い、穏やかに過ごすことを心掛ければ、即ち其れが習性となって、失敗すること無く終生過ごすことが出来るのである。と云う訳で、民を教導するには、各々その一族を統率させ、互いに奪い合わないように、情報を共用するように仕向けたのである。以上の士農工商の四職に就けない者は、窮民と称して各地の獄吏の役に就かせた。全体として民の出入り・往来・集会・宴会などには、節度を設けるようにし、怠けて仕事を疎かにして家業を潰したりすることに注意を払った。そういう訳で安心して地方に集団で出かけて、交游を促進したものである。そこで周の制度では、五つの家を一つの集団と見なして比(身内)と称し、共同生活を義務づけ、統率者を置いた。五つの比を纏めて閭(集まり)と称し、悩み事を共有させ、胥(小役人)に監督させた。四つの閭を纏めて族(仲間)と称し、葬儀を共催させ、師(教導者)に統率させた。五つの族を纏めて黨(集団)と称し、互に助け会わせ、正(おさ)に治めさせた。五つの黨を纏めて州(村里)と称し、相互救済の責務を負わせ、知事を置いた。五つの州を纏めて郷(村里の集合体)と称し、人権尊重を徹底し、大夫(長官)を置いた。必ず聡明で慈悲深い人材を選び出して、各郷の政治・教化・法令遵守の務めに当たらせた。正月の始めに宮中で、教育担当大臣から守るべき法律について説明があり、終わってそれぞれ州・黨・族・閭に持ち帰り、比ではこれを群吏に説明して治める民えの徹底を計って徳行について考えさせ、道徳と学問の大切さを認識させ、季節毎に登録する。大夫は人口動態を調べ、全ての民に徳行・道藝を備えさせ、比はこの様子を閭に報告し、閭は族に、族は黨に、黨は州に、州は郷にそれぞれ報告して、郷は其れを徹底する。民で罪があり邪心の有る者は、同じようにして比が報告する。善行の有る者を報告しない場合は、これを蔽賢(埋没贤能的人)と云い、これは有っては為らないことであり;悪行の有る者を報告しないのも、これを黨逆(悪者を庇う意)と云って、有ってはならない罰すべき事である。と云う訳で民衆は善事を忘れる筈もなく、また悪事を隠す筈もなく、郷大夫の三年毎の国勢調査で賢能者を選び出し、郷老や郷大夫に仕える役人らが選び出した賢能者調書を王に提出し、王はこれを丁重に受理して宮中の書庫に保管させ、後に必要となる叙爵の際に役立て、その賢能の程度に応じて間違いなく任命したもので、だから<書経>にも、「多くの役所や諸々の長(おさ)や多くの役人達が良く従う」と記されているのである。これこそが古の帝王の士官を選び登用する方法なのである。と云う訳でその頃の民衆は道徳の基本を大切にし自修を心掛け、徳を慎んでこつこつと努力を積み重ねる事により、幸せが訪れることを全ての人々が理解していたのである。だから交游の必要も無く、請託の必要も無かったのである。心は落ち着いていて立ち居振る舞いも穏やかで、平然として楽しく暮らしていたのである。全ての面で正道を貫いて互いに切磋琢磨し、誠実に身を処して互いに励まし合って暮らしていたので、世を惑わすような主張も現れることなく、邪悪不正も自然と起こらなかったのである。
[参考]
 ・四民:<春秋穀梁傳、成公、成公元年>
     「3・・・古者有四民,有士民,有商民,有農民,有工民。」
 ・版圖:國家的戶籍和地圖。
 ・<周禮、冬官考工記>
     「3坐而論道,謂之王公;作而行之,謂之士大夫;審曲面勢,以飭五材,以辨民器,謂之百工;通四方之珍異以資之,謂之商旅;飭力以長地財,謂之農夫;治絲麻以成之,謂之婦功。」
 ・民器:<周禮、冬官考工記>
     「2或坐而論道;或作而行之;或審曲面勢,以飭五材,以辨民器;或通四方之珍異以資之;或飭力以長地財;或治絲麻以成之。」
 ・<周禮、地官司徒>
     「96・・・五家為比,十家為聯;五人為伍,十人為聯;四閭為族,・・・」
 ・<周禮、地官司徒>
     「89鄉大夫之職,各掌其鄉之政教禁令。正月之吉,受教法于司徒,退而頒之于其鄉吏,使各以教其所治,以考其德行,察其道藝。」
 ・《書》曰:<尚書、虞書、皋陶謨>
     「2・・・百僚師師,百工惟時。・・・」
4世之衰矣,上無明天子,下無賢諸侯。君不識是非,臣不辨黑白。取士不由於鄉黨,考行不本於閥閱。多助者為賢才,寡助者為不肖。序爵聽無證之論,班祿采方國之謠。民見其如此者,知富貴可以從眾為也,知名譽可以虛譁獲也,乃離其父兄,去其邑里,不脩道藝,不治德行,講偶時之說,結比周之黨,汲汲皇皇,無日以處,更相歎揚,迭為表裏。檮杌生,華憔悴。布衣以欺人主,惑宰相,竊選舉,盜榮寵者,不可勝數也。既獲者賢己而遂往,羨慕者並驅而追之,悠悠皆是。孰能不然者乎?桓靈之世其甚者也,自公卿大夫、州牧郡守,王事不恤,賓客為務,冠蓋填門,儒服塞道,飢不暇餐,倦不獲已。殷殷沄沄,俾夜作晝,下及小司,列城墨綬,莫不相商以得人,自矜以下士。星言夙駕,送往迎來,亭傳常滿,吏卒侍門,炬火夜行,閽寺不閉,把臂捩腕,扣天矢誓、推託恩好,不較輕重。文書委於官曹,繫囚積於囹圄,而不遑省也。詳察其為也,非欲憂國恤民、謀道講德也。徒營己治私、求勢逐利而已。有策名於朝,而稱門生於富貴之家者,比屋有之。為之師而無以教,弟子亦不受業,然其於事也,至乎懷丈夫之容,而襲婢妾之態,或奉貨而行賂,以自固結,求志屬託,規圖仕進,然擲目指掌,高談大語,若此之類,言之猶可羞,而行之者不知恥、嗟乎!王教之敗,乃至於斯乎。
 世の衰えるや、上は明なる天子無く、下は賢なる諸侯無し。君は是非を識らず、臣は黒白を辨えず。取士は郷党に由らず、考行は閥閲(ばつえつ)に本(もと)づかず。助ける者多きは賢才と為り、助ける者寡きは不肖と為る。爵を序して無證の論を聴き、禄を班(わ)けて方國の謡を采(と)る。民は其の此の如き者を見て、富貴は従衆を以て為す可きことを知り、名誉は虛譁(きょか)を以て獲る可きことを知り、乃ち其の父兄を離れ、其の邑里(ゆうり)を去り、道藝を脩めず、徳行を治めず、偶時の說を講じ,比周の黨を結び、汲汲皇皇として、處するを以て日無く、更に相に歎揚し、迭(しばし)ば表裏を為す。檮杌(とうこつ)生まれ、華憔悴す。布衣以て人主を欺き、宰相を惑わし、選挙を竊(おか)し、榮寵を盗(わたくし)しする者は、数ふるに勝(た)うべからず。既に獲し者は己れを賢(たか)め而して遂に往き、羨謨(せんぼ)せし者は並駆し而して之れを追い、悠々として皆是(よ)し。孰れか能く然らざりしか?桓霊の世は其の甚しき者なり。公卿大夫、州牧郡守よりして、王事に恤(あわ)れまず、賓客が務めと為り、冠蓋(かんがい)内を填(うず)め、儒服道を塞ぎ、饑うるも餐に暇あらず、倦くるも已むことを獲ず。殷々(いんいん)沄沄(うんうん)、俾夜作晝(ひやさくちゅう)、下は小司に及び、城に列なる墨綬、相(たが)いに商(はか)り以て人に得(したし)むことなく、自ら下士を以て矜ず。星みて言(ここ)に夙(しゅく)として駕し、往くを送り来るを迎え、亭傳(ていでん)は常に滿ち、吏卒は門に侍り、炬火(きょか)は夜る行き、閽寺(こんじ)は閉ざされず、臂(ひじ)を把(と)り腕を捩(よじ)り、天を扣(たた)き誓いを矢(なら)べ、推託恩好にて、軽重を較(あらそ)わず。文書は官曹に委ね、繋囚(けいしゅう)は囹圄(れいぎょ)に積(おお)く、而して省みる遑(いとま)あらざるなり。詳らかに其の為(しわざ)を察するや、国を憂い民を恤(あわれ)み、道を謀り徳を講ぜんと欲するに非ざるなりo 徒だ己を営み私を治め、勢を求め利を逐うのみ。朝(ちょう)に策名し、而して富貴の家に門生と称する者有り、比屋之れを有す。之れ師と為り而して以て教えること無く、弟子亦た業を受けず、然れども其の事に於るや、丈夫の容(かたち)を懐くに至り、而して婢妾の態を襲い、或いは貨を奉(たてまつ)り而して賂(まいな)いを贈り、以て自ら固結し、志を求(まも)り托(たのみ)を屬(ゆだ)ね、仕進を規圖し,然して目を擲(なげう)ち掌を指し、高談大語し、此(かく)の若き類いは、言之れ猶羞じるべく、而して之れを行う者は恥を知らず、嗟乎!王の教えは之れ敗(やぶ)れ、乃ちここに至るか!
 世の中が衰退すると、上には賢明な天子が現れず、下には賢明な諸侯が現れなくなる。君主は是非善悪を判断出来ず、臣下は正邪黒白を辨えなくなる。官人となる賢者の選抜を地方の制度に頼ることが出来なくなり、選考試験は功績や経歴を重視することが出来なくなる。援助する者が多い者は賢い人物と為り勝ちだし、援助の少ない者は愚かな人物と為り易い。爵位を餌さにして不確かな意見を聞いてみたり、俸禄をばら撒いて地方の噂を集めたりする。民衆はこうした状況を見て、富貴と云うものは大衆の意向に左右されて形作られ、名誉と云うものはいい加減で根拠の薄い事情に基づいて形作られることを知り、こうして民衆は身内の父兄とは疎遠となり、彼等の故郷を捨て、道徳や学問から遠ざかり、道徳的行為を疎かにし、時勢に適応するのだと言って良からぬ徒党を組み、戦々恐々としておののきながら日々を過ごし、その上互いに世を儚み合い、内心とは異なる言動を現したりする。こうして檮杌のような化け物が現れて、國が疲弊することになる。こうして無官の庶民は君主を欺き、宰相を惑わし、科挙を妨害し、度外れた恩寵を独占する者が、数え切れないほど多くなるのである。以前は官位を得た者は益々その能力を高めて行き、官員たらんと欲する者はこれを見習いその後を追って努力し、それぞれに焦ることなく満足に暮らしたものである。こうした世相に反する時代はあったのだろうか?後漢の第十一代桓帝から第十二代霊帝に至る時代がその甚だしい例である。公卿・大夫・州牧・郡守を始めとして、王朝の事業には関心無く、客を持て成す事ばかりに精を出す有様である。正装した客を乗せた馬車が門内を埋め、儒教の正装を身に纏った客が道一杯に続き、お腹が空いたことにも気づかず宴に夢中で、飽くことを知らぬ有様である。喧噪は絶えることなく辺りに響き渡り、小役人までもが有頂天になり、城の内には官僚が満ち溢れ、互いに話し合うが親しむこともなく、自ら愚かさを誇示する有様である。星を戴き車に乗り、客を迎えては送り出し、旅籠は何時も客で一杯で、小役人は城門に屯し、松明は夜空を焦がし、宮廷の門は開けっ放しで、腕や臂を組み合い、小躍りして喚き散らし、引き立てられることばかりに気を遣い、能力で争うことなどしないのである。文書作りは現場任せで、囚人は獄舎に満ちあふれ、まともに職務を果たさぬ有様である。詳しくその行動を調べてみると、国事を憂えたり人民に思いを馳せたり、道徳を重んじたりその対策を講じたりする気配は全く見受けられない。唯虚しく私利を貪り身の回りだけに気を配り、権勢を求め利益を追求するばかりである。朝廷に出仕していながら金満家の高官の家に門下生だと称して居着く者が方々に見られた。門下生なのに教えを受ける訳でもなく、しかもその仕える様子は、一人前の男子を標榜しながら召使の真似事をしたり、或いは金銭などの賄賂を贈ったりして結びつきを強め、強引に頼み込み、仕官する事に血道を上げ、そうした上で目を輝かせながら物知り顔に、無遠慮に大声で勇ましい話をする有様で、こう云う連中は自分の発言を羞じるべき處、そう言う様子が全く見られないのは嘆かわしいことである!聖王の教えが守られない状態がここまで来たのである。
[参考]
 ・檮杌(とうこつ):
    <史記、五帝本紀>
     「23昔帝鴻氏有不才子,掩義隱賊,好行凶慝,天下謂之渾沌。少暤氏有不才子,毀信惡忠,崇飾惡言,天下謂之窮奇。顓頊氏有不才子,不可教訓,不知話言,天下謂之梼杌。此三族世憂之。至于堯,堯未能去。縉云氏有不才子,貪于飲食,冒于貨賄,天下謂之饕餮。天下惡之,比之三凶。舜賓於四門,乃流四凶族,遷于四裔,以御螭魅,於是四門辟,言毋凶人也。」
    <神異經、西荒经>
     「・・・西方荒中有獸焉,其狀如虎而犬毛,長二尺,人面虎足,猪口牙,尾長一丈八尺,攪乱荒中,名梼杌,一名傲狠,一名難訓。・・・」
 ・桓靈:それぞれ後漢の第十一代及び第十二代皇帝。
     桓帝は専横を極めた梁冀を粛正して親政を取り戻したが、功績の有った宦官らに権力が集中。その後党錮の禁(濁流と清流の政争)・黄巾の乱(農民の反乱)を経て漢朝滅亡へと続く。因みに魏の太祖曹操の祖父曹騰は当時の宦官の一人である。
 ・綬(じゅ):
     古代中国で、官吏の身分を表す印の鈕(ちゅう)(つまみ)の穴に通して身に佩(お)びるための紐(ひも)。官位によってその色が異なる。
 ・星言夙駕:<诗经、鄘风、定之方中>
     「靈雨既零,命彼倌人,星言夙駕,說于桑田。」→星夜驾車行驶(星空の下帝王の御車進む)。
 ・<後漢書、列傳、儒林列傳下>
     「68自桓、靈之閒,君道秕僻,朝綱日陵,國隙屢啟,自中智以下,靡不審其崩離;而權彊之臣,息其闚盜之謀,豪俊之夫,屈於鄙生之議者,人誦先王言也,下畏逆順埶也。至如張溫、皇甫嵩之徒,功定天下之半,聲馳四海之表,俯仰顧眄,則天業可移,猶鞠躬昏主之下,狼狽折札之命,散成兵,就繩約,而無悔心。暨乎剝橈自極,人神數盡,然後群英乘其運,世德終其祚。跡衰敝之所由致,而能多歷年所者,斯豈非學之效乎?故先師垂典文,褒勵學者之功,篤矣切矣。不循春秋,至乃比於殺逆,其將有意乎!」
5且夫交游者、出也或身歿於他邦,或長幼而不歸,父母懷煢獨之思,室人抱東山之哀,親戚隔絕,閨門分離,無罪無辜,而亡命是效。古者行役,過時不反,猶作詩刺怨,故《四月》之篇,稱『先祖匪人,胡寧忍予。』又況無君命而自為之者乎!以此論之,則交游乎外、久而不歸者,非仁人之情也。
 且つ夫れ交游は、出(いづ)るや或いは身は他邦に歿し、或いは長幼而して帰らず、父母は煢獨(けいどく)の思いを懐き、室人は東山の哀しみを抱え、親戚は隔絶し、閨門(けいもん)は分離し、罪無く辜(こ)無きに、而して亡命是に效(なら)う。古は行役(こうえき)し、時過ぎて反らざれば、猶お詩を作り怨みを刺(そし)るがごとく、故に<詩経、四月>の篇は、「先祖匪人(ひじん)なるや、胡(なん)ぞ寧(すなわ)ち予(われ)に忍べる。」と称(とな)える。又た況んや君命無く而して自ら之れを為すにおいておや!此れを以て之れを論じる、則ち外に交游し、久しく而して帰らざるは、仁人の情に非ざるなり。
 さらに交游について見ると、旅に出ては僻地で命を落としたり、或いは大人も子供も行方知れずになったり、親は身寄りが無くなったことを嘆き、家族は望郷の思いに駆られ、親戚は別れ別れになり、家庭は崩壊し、罪とがも無いのに亡命する羽目になる。昔は派遣されて国境の守備につき、何時まで経っても帰国しないと、詩を作って恨み言を風刺したもので、例えば<詩経、小雅、小旻之什、四月>に、「こんな暑い季節に南方に向かって征役しなければならぬとは何と私は不遇なのだろう。祖霊は人でなしか?なぜ私に苦労をさせていながら平気でいられるのだろうか?」と云う一節がある。しかも君命も無いのに出かけていって帰ってこないようでは何をか況んやであろう。このように交游と称して故郷を離れて久しく帰らないようでは、非情と云わざるを得まい。
[参考]
 ・<詩経、国風、幽風、東山>
     「1 我徂東山、慆慆不歸。我來自東、零雨其濛。我東曰歸、我心西悲。
       制彼裳衣、勿士行枚。蜎蜎者蠋、烝在桑野。敦彼獨宿、亦在車下。
       ・・・」
     周公旦の東征を詠んだ詩で、「我徂東山、慆慆不歸(我東山に徂き、滔滔として帰らず)」など、故郷に帰れずにいることを嘆く一節がある。」
 ・<詩經、小雅、小旻之什、巧言>
     「1悠悠昊天、曰父母且。無罪無辜、亂如此憮。昊天已威、予慎無罪。
       昊天泰憮、予慎無辜。・・・」
 ・ <詩經、小雅、小旻之什、四月>
     「1四月維夏、六月徂暑。先祖匪人、胡寧忍予。・・・」
[感想]
 交游の大切さを説いているのだが、ここで言う交游とは修己成徳の為に師友とすべき賢人と交わる(交)為に、広く各地に出向く(游)ことを意味している。さて昔の聖王の時代には、国の制度が整っていたので、人々は自然に人の道を守るように教化され、交游そのものが制度の中に組み込まれていたので、取り立てて交游を論じる必要は無かったのだと先ず徐幹は説いている。次いで、昔の交游の姿は親しみ深く本質的で賢者と接触する事を主眼としていたが、今の交游の姿は表面的で名目に拘り名利を追い求めていると批判する。更に昔の士農工商の四階級の理想的在り方を紹介し、又た周朝の地方行政の充実した姿と国民の教化と賢能者登用に対して果たした効能について触れている。更に徐幹が遭遇した皇帝の権力を利用した宦官と外戚による権力争い、儒教の振興による地方豪族出身官僚の反抗、民衆叛乱の頻発により乱れに乱れた後漢の桓霊時代の様相に触れ、官人の堕落振りを痛烈に批判し、折角交游の旅に出ても命を落とす羽目になると末世の様相を嘆いて此の篇を終えている。交游と云ってもそれぞれに深い意味があり、時の政情も大いに影響するのだと言う事を肝に銘じるべきだろう。また突然、詩人徐幹らしく古詩形式の表現が綴られていることにも目を向けておきたい。例えば、
     星言夙駕,  星みて言に夙として駕し、
     送往迎來,  往くを送り来るを迎え、
     亭傳常滿,  亭傳は常に滿ち、
     吏卒侍門,  吏卒は門に侍り、
     炬火夜行,  炬火は夜る行き、
     閽寺不閉,  閽寺は閉ざされず、
     把臂捩腕,  臂を把り腕を捩り、
     扣天矢誓、  天を扣き誓いを矢べ、
     推託恩好,  推託恩好にて、
     不較輕重。  軽重を較わず。
                          (30.02.01)続く。

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