論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

韓愈の[原の五書]ーⅢ

2013-08-15 09:15:19 | 韓愈

韓愈の[原の五書]-Ⅲ
Ⅲ.原人
 この世に於ける人の占める立場を明らかにし、その為すべき務めを示す。韓愈と同時代に生きた華厳第五祖の圭峰宗密なる人物が、人間の本質を説いた<原人論>を著したのもこの頃で、当時は各界で人の本質についての義論が盛んに行われていたらしい。
 第一条
  〇上に形(あらわ)れるものは之れを天と謂いう。下に形れるものは之れを地と謂いう。其の両間に命(さだ)められしものは之れを人と謂う。
  (訳文)上に形作られたものを天と云い、下に形作られたものを地と云い、その天と地の間に位置づけられたものを人と云う。
  (注釈)天地人三才(才は働きのこと)思想に準拠した解説。<周易、説卦伝>にある[將以順性命之理,是以立天之道曰陰與陽,立地之道曰柔與剛,立人之道曰仁與義。兼三才而兩之,故《易》六畫而成卦。]を参考にしたものだろう。
  上に形れし日月星辰は皆天なり。下に形れし草木山川は皆地なり。其の両間に命められし夷狄禽獣は皆人なり。
  (訳文)上に現れる日や月や星は皆天に属し、下に現れる草や木や山や川は皆地に属し、天と地の間に現れる野蛮人や鳥や獣は皆人に属す。
  (注釈)天と地の間に存在する全ての物を人と表現し、同じ性を宿している禽獣も三才思想からは人の範疇に属すると解す。その天命の性に気の混濁が現れて人と禽獣に差が出てくる。異民族は混濁の性がその中間に位置することになると考えたのだろう。ここには気の思想が色濃く反映されている。
 第二条
  〇曰わく、「然らば則ち吾れ禽獣を人と謂うは可ならんか」と。
  (訳文)自問自答してみる。即ち、「禽獣も人の内に入ると云ってはみたが、果たしてそれで良いのか」と。
  (注釈)三才思想を広げ過ぎたので、理屈を見出さねばならなくなったのか?
  曰わく、「非なり。山を指して問うに曰わく、山かと。曰わく、山と曰うは可なり。山には草木禽獣有りて、皆之れを挙ぐ。山の一草を指して問うに曰わく、山かと。山と曰うは則ち不可。」と。
  (訳文)その答えは、「そうは云いにくい。山を指して山と云うのはいいが、山には草木が生え禽獣が住んでおり、これら全てを含めて山と呼んでいる。山に生えている一本の草を指して、山とは呼べないだろう。」と云うことだ。
  (注釈)禽獣も広い意味で、三才思想に云う人の範疇に属するが、それを直接名指す時は人とは云わないということか。こじつけと云うべきか、それとも要らぬ自問自答をしたと云うべきか。
 第三条
  〇故に天道乱れて、日月星辰は其の行を得ず。地道乱れて、草木山川は其の平を得ず。人道乱れて、夷狄禽獣は其の情を得ず。
  (訳文)もとより、天道が乱れれば、そこに属する日も月も星もまともな運行が出来ない。また、地道が乱れれば、そこに属する山川草木も無事では居られない。さらに、人道が乱れれば、そこに住む異民族は勿論禽獣もまともな生き方が出来なくなる。
  (注釈)ここで用いられている結果を示す「行」・「平」・「情」の三文字は、下平声八庚の韻に属す。
  天は、日月星辰の主なり。地は、草木山川の主なり。人は、夷狄禽獣の主なり。主にして之れを暴たげるは、其の主為るの道を得ず。
  (訳文)天は、日や月や星を支配する。地は、山川草木を支配する。人は、異民族や禽獣を支配する。その支配者が、属する處のものを害する行為は、支配者としての道に反する。
  (注釈)絶対なる支配者なればこそ、与えられた正しい道を守れと説く。
  是の故に、聖人は一視して同仁に、近きを篤くして遠きを挙ぐ。
  (訳文)以上のような理由で、聖人は全てのものを平等に愛し、身近なものには手厚く、そして縁遠いものも見捨てるようなことはしない。
  (注釈)後半には、儒教の特徴である差別愛が語られている。<孟子>にある[楊氏為我、是無君也。墨氏兼愛、是無父也。無父無君、是禽獣也。]なる言葉を思い出す。有名な「一視同仁」なる言葉は、ここから出たもの。
                                            終わり

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韓愈の[原の五書]ーⅡ

2013-08-01 14:35:08 | 韓愈

韓愈の[原の五書]-Ⅱ
Ⅱ.原性
 性の字は、忄=心+生=生まれるからなり、生まれながらの心を意味する。
第一条
  性なるものは生と俱に生ずるなり。情なるものは物に接して生ずるも   のなり。
  (訳文)性は人が生まれると同時に生ずるものである。情は人が外界の事物に触れて初めて生ずるものである。
  (注釈)性は心の(本)体であり、情は心の(作)用と捉える。ここには朱子学で説く心の体用論が既に見られる。未発の性と已発の情である。
  性の品に三有り、而して其の性為る所以のものは五。情の品に三有り、而して其の情為る所以のものは七。
  (訳文)性の等級には三種類ある。またその性を構成する要素は五種類ある。情の等級にも三種類あり、またその情を構成する要素は七種類ある。
  (注釈)性を三品・五常に、情を三品・七情にわける。
第二条
  曰わく、「何ぞや」。性の品に、上・中・下の三有り。上は焉(こ)れ、善焉れ已(の)み。中は焉れ、導くこと可にして上下す。下は焉れ、悪焉れ而已(のみ)。其の性為る所以のものは五。曰わく「仁」、曰わく「礼」、曰わく「信」、曰わく「義」、曰わく「智」。上は焉れ之れが五に於けるや、一に主(しゆ)して四に行わる。中は焉れ之れが五に於けるや、一が少(わずか)に有せず則ち少に反し、其の四に於けるや混ず。下は焉れ之れが五に於けるや一に反して四に悖る。性は之れ情に於けるは其の品に視(のつと)る。
  (訳文)では具体的にはどう云うことなのか。それは、「性の品格には上中下の三つの区別がある。則ち、上は全てが善なるもの、中は導き方次第で上ともなり下ともなるもの、下は全てが悪なるもの」である。さて、その性の構成要素には、仁・義・礼・智・信の五種類がある。。上の性は、この五常の徳目のうちのどれか一つが完全な状態で主体となり、他の四つの徳目を導く。中の性は、その主体となる徳目に僅かな欠陥があり、他の四つの徳目もその程度がばらばらである。下の性は、その主体となる徳目が道に外れたものであり、他の四つの徳目も理に叶っていない。性の三品は、そのまま情の三品に影響を与える。
  (注釈)性の三品説は後漢末の文人荀悦も唱えており、彼は上・下は変わらず、中は努力次第でどうにでもなると云った。
  情の品に上中下の三つ有り。其の情為る所以のものは七、曰わく「喜」曰わく、「怒」曰わく「哀」、曰わく「懼」、曰わく「愛」、曰わく「悪」、曰わく「欲」。上は焉れ之れが七に於けるや、動いて其の中に處る。中は焉れ之れが七に於けるや、甚だしき所有りて亡き所有り、然り而して其の中に合っせんことを求むるものなり。下は焉れ之れが七に於けるや、亡きと甚だしく、直情にして行うものなり。情は之れ性に於ける其の品に視る。
  (訳文)情の等級には上中下の三種類がある。またその情を構成する要素は七種類ある。則ち、喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲の七つである。上の情は、この七つの感情が発動しても、中庸を保っている状態である。中の情は、その感情が高ぶりすぎたり鈍すぎたりしているが、なんとか中庸を保とうとしている状態である。下の情は、その感情が高ぶろうが鈍すぎようが頓着することもなく、感情の赴くままに行動している状態である。情の三品は、そのまま性の三品に影響を与える。
  (注釈)<礼記、礼運篇>に、「何謂七情?喜、怒、哀、懼、爱、悪、欲,七者弗学而能」なる記述がある。
第三条
  孟子は之れ性を言う。曰わく、「人の性は善」と。荀子も之れ性を言う。曰わく、「人の性は悪」と。楊子も之れ性を言う。曰わく、「人の性は善悪混ず」と。夫れ始め善にして悪に進むと、始め悪にして善に進むと、始め混じて今や善たり悪たりと。皆其の中を挙げて其の上下を遺すものなり。其の一を得て其の二を失うものなり。
  (訳文)孟子は性善説を、荀子は性悪説を、そして揚雄は性善惡混合説を唱える。始めは善だがのちに悪に陥りかねないとか、始めは悪だがのちに善に導くことが出来るとか、始めは善悪混ざっているがのちに善にも悪にも導きうるとか。それぞれの説は、いずれも中の性を取り上げるだけで、上と下の性を無視している。三品のうち一品は理解出来るが、これでは他の二品を見失うことになる。
  (注釈)孟子の言は<孟子、縢文公篇>に、荀子の言は<荀子、性悪篇>に、そして揚雄の言は<法言、修身篇>にある。
  叔魚の生まるるや、其の母之れを視て、其れ必ず賄(まかない)を以て死することを知る。楊(よう)食(い)我(が)の生まるるや、叔向(しゆくしよう)の母其の號(なく)を聞くや、必ず其の宗(もと)を滅することを知る。越椒(えつしよう)の生まるるや、子(しぶん)文(ぶん)以て大なる戚(うれい)となし、若敖(じやくごうし)氏(し)の鬼(き)食わざるを知る。人の性は、果たして善か。
  (訳文)生まれたばかりの我が子叔魚の容貌を見て母は、「この子は貪欲な顔立ちをしているから、きっと収賄事件で死ぬことになる」と思ったという。叔向の子楊食我が生まれた時、その泣き声を聞いた叔向の母は、「この子は貪欲な狼のような声で泣いている。きっと吾が一族を亡ぼすことになる」と思ったという。越椒が生まれた時、伯父の子文は、「大変な不幸に見舞われた。これで一族も絶えて先祖の祀りも出来なくなるだろう」と思った。こう見てくると人の性とは、果たして善だと云えるのだろうか。
  (注釈)叔魚は本名、羊舌鮒のことで、晋の大夫羊舌職の子。非道の臣として歴史に刻まれ、実母に見放され、予言通り不正を働いて殺されてしまう。ここの文は、<国語、晋語八>にある文で、「是虎目而豕喙,鳶肩而牛腹,谿壑可盈,是不可饜也,必以賄死」と記されている。叔向は晋の宰相、羊舌肸のことで、叔魚の兄。ここの文は、上記<国語、晋語八>の同じ場所に、「其聲,豺狼之聲,終滅羊舌氏之宗者,必是子也?」と記されている。同じ事が春秋左氏伝、昭公二十八年の項にも見られる。予言通り、楊食我は殺されて、羊舌氏一族は滅んでしまう。それにしても、羊舌氏とは珍しい一族である。越椒は楚の司馬子良の子で、子文は子良の兄。ここの文は、春秋左氏伝、宣公四年の項に見られるもので、「初,楚司馬子良,生子越椒,子文曰,必殺之,是子也,熊虎之狀,而豺狼之聲,弗殺,必滅若敖氏矣,諺曰,狼子野心,是乃狼也,其可畜乎」とある。
  后稷の生まるるや、其の母災い無し。其の始めて匍匐するや、則ち岐岐然たり。嶷嶷然たり。文王の母に在るや、母は憂えず。既に生るるや、傅は勤めず。既に学ぶや、師は煩わしからず。人の性は、果たして悪か。
  (訳文)后稷が生まれた時、母親には何も災いが起きなかった。后稷は這い始めた時から賢かった。文王が胎児の時母親の悪阻は軽く、生まれた後も乳母の手間が掛からなかった。学業を始めても師を煩わせる事が無かった。
こう見てくると人の性とは、果たして悪だと云えるのだろうか。
  (注釈)后稷は帝尭に仕えた周王朝の祖。この文は<詩経、大雅-生民之什篇>に、次のようにある。則ち、「誕實匍匐、克歧克嶷、以就口食」。文王の生誕事の様子については、 <烈女伝、周室三母篇>に、次のような記述が見られる。則ち、「太任者,文王之母,摯任氏中女也。王季娶為妃。太任之性,端一誠莊,惟之行。及其有娠,目不視惡色,耳不聽淫聲,口不出敖言,能以胎教。溲於豕牢,而生文王。文王生而明聖,太任教之,以一而識百,卒為周宗。君子謂大任為能胎教」と。
  尭の朱、舜の均、文王の管蔡らは、習い善ならざるに非ざるなり。而して卒(つい)に奸と為る。瞽叟の舜、鯀の禹らは、習い悪ならざるに非ざるなり。而して卒に聖人と為る。人の性は、善悪果たして混ずるか。
  (訳文)帝尭の子の丹朱、帝舜の子の商均、文王の子の管叔鮮・蔡叔度兄弟らは、育った環境が悪かったわけではない。それなのに後年悪人になってしまった。瞽叟の子の帝舜、鯀の子の帝禹は、育った環境が良かったわけではない。それなのに後年聖人となった。こう見てくると人の性とは、果たして善悪混在すると云えるのだろうか。
  (注釈)丹朱は不肖の子として帝尭に疎んぜられ、商均もまた不肖の子として帝舜に疎んぜられた。文王の三男で管に封ぜられた管叔鮮と五男の蔡に封ぜられた蔡叔度は、後に周朝成王の時、文王の四男の周公旦が専横だとして三監の乱を引き起こし、敗れて殺害される。瞽叟は後妻や連れ子と共に、子の舜を殺そうとまでした人物。鯀は帝尭に重用されて治水に努めるが、成果挙がらず、遂にはその責めを負わされて、帝舜の命で刑死させられる。
  故に曰わく、「三子の性を言うや、其の中を挙げて其の上下を遺すものなり。其の一を得て、其の二を失うものなり」と。
  (訳文)だから、「孟子・荀子・揚雄ら三氏の性説は、いずれも中の性を取り挙げているだけで、他の上下の性について触れていない。中途半端というものだ」と云いたい。
  (注釈)人間の性とは、もっと複雑なものだと主張する。
第四条
  〇曰わく、「然らば性の上下は、其れ終に移るべからざるか」と。曰わく、「上の性は学に就いて愈よ明らかに、下の性は威を畏れて罪を寡なくす」と。是の故に上なるものは教うべく、而して下なるものは制すべきなり。其の品は則ち孔子の謂う移らざるなり。
  (訳文)さらに云えば、「そうすると、性の上下の者は、最後まで変わらないのか」と。その答えは、「上の性の者は、勉学に励めば益々向上するし、下の性の者は、取り締まりを強化して罪を犯す機会を失わせることが出来る」と云うことだ。則ち、性の上の者には教育を施し、下の者には規則を守らせるのだ。ただしその品格は、孔子が云うように一生変わらないものだ。
  (注釈)孔子の言とは、<論語、陽貨篇>にある、「唯上知與下愚不移」のこと。孔子の言葉の引用は、少々強引な気がするが?
第五条
  〇曰わく、「今の性を言う者は此れに異なる。何ぞや」と。曰わく、「今の言う者は、仏老を雑(まじ)えて言うなり。仏老を雑えて言うなるは、奚(なん)ぞ言いて異ならざらん」と。
  (訳文)問うに、「今、性を論じている人々は、以上の性三品とは意見を異にしている。それは何故か?」と。それは、「今の論者は、仏教や道教の思想を交えて論じているからだ。それでは異なるのが当たり前」だからである。
  (注釈)仏老を排する韓退之としては、論ずる以前の問題だと捉えたのだろう。
                                                     終わり

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