論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

中論-ⅩⅩ

2018-08-30 15:28:05 | 仁の思想

中論-ⅩⅩ
賞罰(賞と罰)→賞罰の意義。
1政之大綱有二。二者何也?賞、罰之謂也。人君明乎賞罰之道,則治不難矣。夫賞罰者、不在乎必重,而在於必行。必行、則雖不重而民肅。不行、則雖重而民怠。故先王務賞罰之必行。《書》曰:「爾無不信,朕不食言。爾不從誓言,予則孥戮汝,罔有攸赦。」「天生烝民」,其性一也。刻肌虧體,所同惡也。被文垂藻,所同好也。此二者常存,而民不治其身,有由然也。當賞者不賞,當罰者不罰!夫當賞者不賞,則為善者失其本望,而疑其所行。當罰者不罰,則為惡者輕其國法,而怙其所守。苟如是也,雖日用斧鉞於市,而民不去惡矣。日錫爵祿於朝,而民不興善矣。
[訳1]
 ・政(まつりごと)の大綱には二つ有り。二つとは何ぞや?賞と罰の謂いなり。人君が賞罰の道を明らかにするは、則ち難からざるを治む。夫れ賞罰は、必ずしも重きに在らず、而して必ず行うことに在る。必ず行えば、則ち重からざると雖も而して民は肅(つつし)む。行わざれば、則ち重きと雖も而して民は怠る。故に先王は賞罰の必ず行うことに務む。<書>に曰く、「爾じ信ぜざる無かれ、朕(われ)は言を食(いつわ)らず。爾じ誓言に従わざれば、予は則ち汝を孥戮(どりく)して、赦す攸(ところ)有る罔(な)からん」と。「天は蒸民を生ず」とは、其の性(さが)は一つなり。肌を刻(きざ)み體を虧(そこな)うは、同じ悪(きず)とする所なり。文を被り藻を垂れるは、同じ好みとする所なり。此の二者は常に存し、而して民が其の身を治めざるには、由然有るなり。賞すべき者は賞さず、罰すべき者は罰さずとは。夫れ賞すべき者を賞さざるは、則ち善を為す者は其の本望を失い、而して其の行うべき所を疑う。罰すべき者を罰さざるは、則ち悪を為す者は其の国法を軽じ、而して其の守るべき所を怙(たよ)る。苟しくも是の如くなれば、日び市にて斧鉞(ふえつ)を用いると雖も、而して民は悪を去らず。日び朝にて爵禄を錫(たま)うも、而して民は善を興さず。
 政治の根本には二つの重要な点が有る。その二つとは何ぞや?賞と罰の二点である。人の上に立つ君主が賞と罰の二点を明示すれば、治めることも難しくない。この賞罰というものは、重くしたからと云って良い訳ではなく、必ず実行することが重要なのである。必ず実行さえすれば重くしなくとも民衆は身を慎む。実行しないと重くしても民衆は怠る時には怠る。だから昔の聖君は賞罰を必ず実行した。<尚書、湯誓篇>にも、「その方らは私を信じなくてはいけない、私は嘘をつかない。その方らがこの誓いに従わぬならば、私はその方らを奴隷にして辱め、赦さぬだろう」とある。「天は色々な人をお生みになった」と<詩經、烝民篇>にあるが、生まれつきの本性は皆同じである。肌を傷つけるのも體を壊すのも、悪影響を及ぼすという点では同じ意味合いを持つ。文章を飾るのも模様を描くのも、趣味という点では同じ意味合いを持つ。これらの内容は違うが意味合いに於いては一緒と云うものは常に存在するし、同じ本性を持つ人間もその表に現れる形が異なるのもその一つであり、民衆が自身をコントロ-ル出来ないという現実には、それなりの理由が有る。賞すべき者を賞さず、罰すべき者を罰せずとは何たることか!そもそも賞すべき者を賞さずと云うことになると、善行を心掛ける者の熱意を殺ぐことにも為るから、善行を心掛けることに迷いを生じさせることになる。罰すべき者を罰さずと云うことになると、悪事を働く者は國の法律を軽視することにも為るから、勝手し放題に振る舞って悪事を続けることになる。若しもこう云う事がまかり通ると、絶えず巷で重い刑を科したとしても、民衆から悪事を取り除くことは出来ない。絶えず朝廷にて爵位・俸禄をばらまいたとしても、民衆は善行に興味を示すことはない。
[参考]
 ・《書》曰:<尚書、商書、湯誓>
     「2「爾尚輔予一人,致天之罰,予其大賚汝!爾無不信,朕不食言。爾不從誓言,予則孥戮汝,罔
        有攸赦。」」

 ・<詩經、大雅、蕩之什、烝民>
     「1天生烝民、有物有則。民之秉彝、好是懿德。天監有周、昭假于下、保茲天子、生仲山甫。」
 ・仲山甫:周代の政治家。樊侯(はんこう)。魯(ろ)の献公の子で、前8世紀前半に周の宣王に用いられ、
       周王朝中興の臣といわれた。

2是以聖人不敢以親戚之恩而廢刑罰,不敢以怨讎之忿而廢慶賞。夫何故哉?將以有救也。故《司馬法》曰:「賞罰不踰時,欲使民速見善惡之報也。」踰時且猶不可,而況廢之者乎。賞罰不可以踈,亦不可以數。數則所及者多,踈則所漏者多。賞罰不可以重,亦不可以輕。賞輕則民不勸,罰輕則民亡懼。賞重則民徼倖,罰重則民無聊。故先王明庶以德之,思中以平之,而不失其節。故《書》曰:「罔非在中,察辭於差。」夫賞罰之於萬民,猶轡策之於駟馬也。轡策不調,非徒遲速之分也,至於覆車而摧轅。賞罰之不明也,則非徒治亂之分也,至於滅國而喪身。可不慎乎!可不慎乎!故《詩》云:「執轡如組,兩驂如舞。」言善御之可以為國也。
 
是こを以て聖人は敢えて親戚の恩を以てし而して刑罰を廢さず、敢えて怨讎の忿みを以てし而して慶賞を廢さず。夫れは何故か?将に以て救い有ればなり。故に<司馬法>に曰く、「賞罰時を踰えざるは、民を使て速やかに善悪の報を見んことを欲すればなり」と。時を踰え且つ猶お不可に、而して況んや之れを廢せんや。賞罰は踈を以てすべからず、亦た数を以てすべからず。数は則ち及ぶ所の者多く、踈は則ち漏れる所の者多し。賞罰は重きを以てすべからず、亦た軽きを以てすべからず。賞軽ければ則ち民は勤めず、罰軽ければ則ち民は懼れること亡し。賞重ければ則ち民は徼倖(きょうこう)し、罰重ければ則ち民は無聊(ぶりょう)す。故に先王は庶を明らかにし以て之れを徳せしめ、中を思って以て之れを平らにし、而して其の節を失わず。故に<書>に曰く、「中に在ら非る罔(な)く、辭(つみ)と差(とが)とを察す。」と。夫れ賞罰の万民に於けるや、猶お轡策(えんさく)の駟馬(しば)に於けるがごとくなり。轡策が不調は、徒に遅速の分かれるところに非ざるなりて、覆車に至り而して轅(ながえ)を摧(くだ)く。賞罰の不明なるや、則ち徒に治乱の分かれるところに非ず、滅國に至り而して身を喪(ほろぼ)す。慎まざるべきや!慎まざるべきや!故に<詩>に云うに、「轡(ひ)を執(と)ること組(くみひも)の如く、兩驂(りょうさん)は舞うが如し。」と。言・善・御の可きは以て國の為なり。
 以上の理由で、聖人は肉親の恩愛に縛られていても強引に仕置きを止めてしまうことはないし、仇敵に対する怒りがあっても強引に恩賞を与える行為を止めてしまうことはない。何故だろうか?そうすればこそ救いがあるというものなのだ。そこで、<司馬法>には、「賞罰を与える時には即断即決を旨とすべきであって、それは人民に対して速やかに善悪の報いを知らしめる必要があるからだ」とある。苟且にものんべんだらりと何時までも結果を示さないのは言語道断であり、ましてやうやむやに終わらせてしまう様では示しが付かない。賞罰を与える対象が少なすぎても多すぎても良いことはない。少な過ぎれば貰うべき人が貰えないことにも為るし、多過ぎれば効果が薄くなる。賞罰は重過ぎてもいけないし、軽すぎてもいけない。賞が軽いと人民は勤労意欲を失うし、罰が軽いと傍若無人に振る舞う様になる。賞が重いと思いがけない幸せをえて勤労意欲が増すだろうし、罰が重いと心配になって仕事も落ち落ち手に付かないと云うことになる。そこで昔の聖君は人々の仕事ぶりを明らかにして恵みを垂れ、心中を慮って落ち着かせ、節度を失わない様に取り計らった。そこで<書経>には、「法の適用は正しく偏らず、罪状と懲罰の釣り合いを計るべし」と記されてあるのだ。そもそも賞罰と万民との関係は、四頭立ての馬車の引き締める役目の轡と早や駆けさせる役目の鞭の関係の様なものである。轡と鞭の使い方が間違っていると、馬車の制御が効かず、顛覆にも繫がって轅の棒を壊すことにも為る。賞罰があやふやだと単に國が治まるとか乱れるとかの問題ではなく、最後には国を亡ぼし身も亡びることになる。慎むべし!真に慎むべし!だから<詩経、大叔于田篇>にも、「手綱さばきも鮮やかに、二頭の添え馬は舞い踊る様だ」とあるのだ。
[参考]
 ・《司馬法》曰:<司馬法、天子之義>→、斉の景公に任じられ大司馬の職にあった司馬穰苴の書いたと
            される兵法書。武経七書の一つ。

           「13・・・賞不踰時,欲民速得為善之利也。罰不遷列,欲民速睹為不善之害也。・・・」
 ・《書》曰:<尚書、周書、呂刑>
           「8・・・非佞折獄,惟良折獄,罔非在中。察辭于差,非從惟從。・・・」
 ・《詩》云:<詩經、國風、鄭風、大叔于田>
           「1叔于田、乘乘馬、執轡如組、兩驂如舞。叔在藪、火烈具舉。襢裼暴虎、獻于公所。將
             叔無狃、戒其傷女。」

[感想]
 民衆をコントロ-ルする上での賞・罰の重要性を説いているが、ここでも目新しい記述は見当たらない。何時の世も民衆を治める為には色々と工夫が必要なのだ。二千年前の人々の苦労が今の世にも生きていると云うことだろう。
                        (30.08.30)続く。

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中論-ⅩⅨ

2018-08-01 08:32:16 | 仁の思想

中論-ⅩⅨ
亡國(国を亡ぼす)→国を亡ぼさない為に。
1凡亡國之君,其朝未嘗無致治之臣也,其府未嘗無先王之書也。然而不免乎亡者,何也?其賢不用,其法不行也。苟書法而不行其事,爵賢而不用其道,則法無異乎路說,而賢無異乎木主也。
[訳1]
 凡そ亡国の君にも、其の朝に未だ嘗て治を致す臣無くんばあらず、其の府に未だ嘗て先王の書無くんばあらざるなり。然り而して亡(ほろ)びるを免れざるは、何ぞや?其れ賢は用いられず、其れ法は行われずばなり。苟にも法を書きしるし而して其の事を行わず、賢を爵し而して其の道(はたら)きを用いず、則ち法は路説に異なること無く、而して賢は木主(ぼくしゅ)に異なること無きなり。
 そもそも国を亡ぼすような君主にも、その朝廷には必ず国家安寧を図る家臣は居たし、その役所には国家繁栄を図る先王の教えが代々伝わってきた筈である。それにも拘わらず国を亡ぼしてしまうのは、どういう訳なのだろうか?それは賢者を用いず法を守らなかったからである。一時の間に合わせにしろ法を定めても正しく実行せず、賢者に爵位を授けてもその能力を発揮させることが出来なければ、法もお座なりのものになってしまうし、賢者もお飾り的なものになってしまう。
[参考]
 ・五大亡国の君主(夏~後漢)
  ①夏桀:<史記、夏本紀>
   「帝桀之時,自孔甲以來而諸侯多畔夏,桀不務德而武傷百姓,百姓弗堪。乃召湯而囚之夏臺,已而
       釋之。湯修德,諸侯皆歸湯,湯遂率兵以伐夏桀。桀走鳴條,遂放而死。・・・」

  ②商紂:<史記、殷本紀>
   「紂愈淫亂不止。微子數諫不聽,乃與大師、少師謀,遂去。比干曰:「為人臣者,不得不以死爭。」乃
       彊諫紂。紂怒曰:「吾聞聖人心有七竅。」剖比干,觀其心。箕子懼,乃詳狂為奴,紂又囚之。殷之大
       師、少師乃持其祭樂器奔周。周武王於是遂率諸侯伐紂。紂亦發兵距之牧野。甲子日,紂兵敗。紂
       走入,登鹿臺,衣其寶玉衣,赴火而死。」荒淫

  ③周幽王:<史記、周本紀>
   「幽王嬖愛褒姒。褒姒不好笑,幽王欲其笑萬方,故不笑。幽王為烽燧大鼓,有寇至則舉烽火。諸侯
       悉至,至而無寇,褒姒乃大笑。幽王說之,為數舉烽火。其後不信,諸侯益亦不至。幽王以虢石父為
       卿,用事,國人皆怨。石父為人佞巧善諛好利,王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒,與繒、西夷
       犬戎攻幽王。幽王舉烽火徵兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。

  ④秦二世胡亥:始皇帝が作りあげた帝国を、佞臣趙高に踊らされて僅か4年で滅亡させてしまった暗
       君。

  ⑤漢献帝劉協:残虐非道の太師董卓に操られ、その後乱世の奸雄魏王曹操の傀儡となり、終には曹
       丕に禅譲して漢王朝を滅亡に導いた最後の皇帝。

2昔桀奔南巢,紂踣於京,厲流於彘,幽滅於戲,當是時也。三后之典尚在,而良謀之臣猶存也。下及春秋之世,楚有伍舉、左史倚相、右尹子革、白公子張,而靈王喪師。衛有太叔儀、公子鱄、蘧伯玉、史鰌,而獻公出奔。晉有趙宣子、范武子、太史董狐,而靈公被弑。魯有子家羈、叔孫婼,而昭公野死。齊有晏平仲、南史氏,而莊公不免弑。虞、虢有宮之奇、舟之僑,而二公絕祀。由是觀之,苟不用賢,雖有無益也。然此數國者,皆先君舊臣世祿之士,非遠求也。
[訳2]
 ・昔し桀は南巣に奔り、紂は京に踣(たお)れ、厲は彘(てい)に流(さまよ)い、幽は戲(たわむ)れに滅(ほろ)ぶ、当に是れ時(なりゆき)なり。三后の典は尚しく存し、而して良謀(りょうぼう)の臣も猶お存るなり。下るに及び春秋の世、楚に伍擧(ごきょ)、左史の倚相(いそう)、右尹(ういん)の子革(しかく)、白公子張ら有り、而して霊王は師を喪う。衛に太叔儀(たいしゅくぎ)、公子鱄(こうしせん)、蘧伯玉(きょはくぎょく)、史鰌(ししゅう)有り、而して獻公は出奔す。晋に趙宣子(ちょうせんし)、范武子(はんぶし)、太史董狐(たいしとうこ)ら有り、而して霊公は弑いせ被(ら)る。魯に子家羈(しかき)、叔孫婼(しゅくそんしゃく)ら有り、而して昭公は野死す。齊に晏平仲(あんへいちゅう)、南史氏ら有り、而して荘公は弑を免れず。虞(ぐ)、虢(かく)に宮之奇(きゅうしき)、舟之僑(しゅうしきょう)ら有り,而して二公は祀(し)を絶つ。是れに由りて之れを觀れば、苟しくも賢を用いざれば、有りと雖も益無きなり。然して此の数国なるは、皆な先君・舊臣・世祿(せいろく)の士ら,遠くに求めるに非ざるなり。
 むかし夏の桀王は殷の湯王に追われて南巣に逃げ、殷の紂王は周の武王に敗れて首都の朝歌に逃げて自殺し、周の厲王は暴動事件に際して彘に逃れ、周の幽王は傾国の美女の襃姒(ほうじ)にうつつを抜かして死を招いてしまうが、これらは皆当然の成り行きなのである。夏の禹王・殷の湯王・周の文王の教えは久しく伝えられてきており、名参謀役の家臣も久しく存在してきた。時代が下って春秋時代に入ると、楚の國には伍舉、左史倚相、右尹子革、白公子張ら賢者忠臣が輩出して君主を諫言補佐したが、霊王は信頼を失ってこれらの師から見放されてしまう。衛の國には太叔儀、公子鱄、蘧伯玉、史鰌ら賢者忠臣が輩出して君主を諫言補佐したが、献公は政変に巻き込まれて一時齊国に逃避する羽目になる。晋の國には趙宣子、范武子、太史董狐ら賢者忠臣が輩出して君主を諫言補佐したが、霊公は家臣に殺されてしまう。魯の國には家羈、叔孫婼ら賢者忠臣が輩出して君主を諫言補佐したが、昭公は三桓の季孫氏に敗れて異国の地で死んでしまう。齊の國には晏平仲、南史氏ら賢者忠臣が輩出して君主を諫言補佐したが、荘公は宰相である崔杼に殺されてしまう。虞の國には宮之奇、虢の國には舟之僑ら賢者忠臣が輩出して君主を諫言補佐したが、虞の君主も虢の君主も共に国を亡ぼしてしまう。こういう風に見てくると、せっかく賢者を登用していても重用しなければ居ないも同然だし、無益と云うものである。しかもこれらの国々は、皆んな歴代の君主や譜代の家臣や直参の家臣らは、遠くから求められてきた訳ではない。
[参考]
 ・桀:夏王朝最後の王。肉山脯林(にくざんほりん)と云う、殷の紂王の酒池肉林と並ぶ亡国の宴会を催し
    たことで名を残す。

 ・南巢:今の安徽巢縣西南地方。古代の漢民族が活動した地域の南方を指す。
 ・紂:殷王朝最後の王。酒池肉林と称された亡国の宴会を催したことで名を残す。
 ・京:牧野の戦いに敗れて撤退した紂王が逃れた首都”朝歌”のこと。その後焼身自殺した。
 ・厲:周朝の第10代王。悪政による暴動発生に際して彘に逃れた。
 ・彘:黄河を越えた現在の山西省霍州市の古地名。
 ・幽:周朝の第12代の王。西周最後の王。愚王の典型とされている。反乱軍に殺される羽目になる。
 ・三后:夏の禹王・殷の湯王・周の文王のこと。
 ・伍舉:春秋時代の楚の政治家。遊蕩していた荘王に謎をかけて諫言を行った人物。孫に伍子胥がい
   る。

 ・左史倚相:春秋時代に楚の霊王に仕えた左史(記録係り)の倚相。典籍に精通し楚國の寶とも云われた
   賢者。、<春秋左氏傳>、<国語>を著した左丘明は孫。

 ・右尹子革:春秋時代に楚の霊王に仕えた大臣の鄭丹。霊王を諫言し補佐した賢者。
 ・白公子張:春秋時代に楚の霊王に仕えた忠臣。霊王を諫言し補佐した。
 ・楚靈王:楚の第27代君主。楚国の勢力拡大策で民心は霊王から離れ、弟等のク-デタ-で、独り山中
   を彷徨い悲惨な最期を遂げる。

 ・太叔儀:春秋時代に衞の獻公に仕えた家臣。
 ・公子鱄:子鲜,名は鱄。獻公の弟。
 ・蘧伯玉:春秋時代末期の衛國の大夫。獻公・霊公に仕えよく反省して立派な人生を送った賢者で、孔子
   が衛に滞在中その面倒を見た人物。

 ・史鰌:春秋時代の衛の忠臣の史魚のこと。獻公・霊公に仕え死を以て諫言した人物。
 ・衛獻公:春秋時代の衛の第24代君主。一時政変により退位するも復位する。
 ・晋霊公:晋の第26代君主。乱行が修まらず、終には家臣に殺されてしまう。。
 ・趙宣子:春秋時代の晋の政治家、趙盾(ちょうとん)のこと。襄公・霊公・成公の三代に仕え、常に政変の
   中心に居た。

 ・范武子:春秋時代の晋の武将で政治家、士会(しかい)のこと。文公・襄公の二代に仕えるも、世継ぎ問
   題で秦に亡命して一時軍事顧問をして晋軍を撃破するも、後其の才を買われて晋に再仕官して大夫に
   取り立てられ、その後宰相として国政に参画するが二年で退官する。晋の歴史上最高の宰相と称され
   た。

 ・太史董狐:春秋時代の晋の太史(記録官)で、趙盾を霊公弑逆の犯人として史書に記録したことで知ら
   れる。

 ・子家羈:春秋時代の鲁国の政治家の子家懿伯のこと。昭公に仕えて大夫を勤め、諫言役を買って朝政
   に参画。

 ・叔孫婼:叔孫氏第6代宗主。昭公に仕えた人物。
 ・魯昭公:魯の第25代君主。季孫氏との戦いに敗れて晋に逃れて異国の地で死す。
 ・晏平仲:春秋時代の斉の政治家の晏嬰(あんえい)のこと。霊公・荘公光・景公の3代に仕え、宰相とし
   て諫言居士の名が高い。

 ・南史氏:春秋時代の齊国の地方の史官。
 ・齊莊公:春秋時代の齊の第25代君主、荘公光のこと。武を好み、彼の時代に齊は隆盛し、政治的には
   安定していたが密通事件を起こして怨まれて殺された。

 ・虞:春秋時代の諸侯国の一つ。紀元前655年に晋に亡ぼされる。
 ・虢:周の武王の叔父の虢仲が封ぜられた國。紀元前658年に晋に亡ぼされる。
 ・宮之奇:春秋時代の虞国の政治家。賢臣。
 ・舟之僑:春秋時代の晋国の大夫。元虢國の家臣で、意見が合わず晋に亡命して晋の文公の戎右(じゅ
   うゆう)になるも、最後は文公によって殺される。

3乃有遠求而不用之者,昔齊桓公立稷下之宫,設大夫之號,招致賢人而尊寵之。自孟軻之徒皆遊於齊。楚春申君亦好賓客,敬待豪傑,四方並集,食客盈館。且聘荀卿,置諸蘭陵。然齊不益強,黃歇遇難,不用故也。
[訳3]
 乃ち遠くに求め而して之れを用いざること有るは、昔し齊の桓公は稷下の宫(やかた)を立て、大夫の號を設け、賢人を招致し而して之れを尊寵す。孟軻の徒自り皆な齊に遊ぶ。楚の春申君(しゅんしんくん)は亦た賓客を好み、豪傑を敬待し、四方に並集し、食客は館に盈(み)つ。且つ荀卿を聘(まね)き、諸(こ)れを蘭陵(らんりょう)に置く。然して齊は強さを益さず、黃歇(こうあつ)が難に遇うは、用いざるが故なり。
 處で広く人材を求めたとしてもこれを登用しなかった者として、昔し齊の威王や宣王(桓公は誤り)が天下の学者(稷下の士)を集め、国都の臨淄の稷門の下に館を建てて住まわせ、上大夫の待遇を与えて厚遇した例がある。一時政治に関与した孟子を始めとして多くの学者が齊に集まり、日々論争に明け暮れていた。楚の宰相であった春申君もまた食客をもてなすことを好み,才智・武勇に長けた人物を敬い持てなし、周りに侍らせ、食客は館に満ち溢れていた。しかも荀子を招いて蘭陵県の長官に据えるほどの熱の入れ方であった。しかしながら齊の国威発揚に寄与した訳でもなかったし、春申君は食客の一人であった李園に殺されるという災難に遭ったのも、彼らを登用しなかったと云うのが理由の一つである。
[参考]
 ・桓公:春秋時代の齊の第16代君主。春秋五覇の筆頭。
 ・春申君:戦国時代の楚の政治家。姓は黄、諱は歇。宰相にまで登り詰めるが、三千人に上る食客(荀子
   もその一人)を集めた中の一人に殺害されて果てる。春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。

 ・蘭陵:戦国時代の楚の地。今の蘭陵鎮。
4夫遠求賢而不用之,何哉!賢者之為物也,非若美嬪麗妾之可觀於目也,非若端冕帶裳之可加於身也、非若嘉肴庶羞之可實於口也。將以言策,策不用,雖多亦奚以為!若欲備百僚之名,而不問道德之實,則莫若鑄金為人,而列於朝也。且無食祿之費矣。然彼亦知有馬必待乘之而後致遠,有醫必待行之而後愈疾。至於有賢,則不知必待用之而後興治者,何哉?賢者難知歟?何以遠求之!易知歟?何以不能用也,豈為寡不足用、欲先益之歟?此又惑之甚也。賢者稱於人也,非以力也。力者必須多,而知者不待眾也。故王卒七萬,而輔佐六卿也。故舜有臣五人而天下治,周有亂臣十人而四海服,此非用寡之驗歟!且六國之君雖不用賢,及其致人也,猶脩禮盡意,不敢侮慢也。至於王莽,既不能用,及其致也,尚不能言,莽之為人也,內實姦邪,外慕古義,亦聘求名儒,徵命術士,政煩教虐,無以致之。於是脅之以峻刑,威之以重戮,賢者恐懼,莫敢不至。徒張設虛名、以夸海內、莽亦卒以滅亡。且莽之爵人,其實囚之也。囚人者、非必著之桎梏,而置之囹圄之謂也,拘係之、愁憂之之謂也。使在朝之人欲進則不得陳其謀,欲退則不得安其身,是則以綸組為繩索,以印佩為鉗鐵也。小人雖樂之,君子則以為辱。
[訳4]
 夫れ遠くに賢を求め而して之れを用いずとは、何んぞや!賢者の物を為すや、若(ある)いは美嬪(びひん)麗妾(れいしょう)の目に観るべきに非ず、若いは端冕帶裳(たん・べん・たい・しょう)の身に加えるべきに非ず、若いは嘉肴(かこう)庶羞(しょしゅう)の口に実たすべきに非ざるなり。将に言策を以てするも、策は不用にて、多しと雖も亦た奚(なに)を以て為さん!若しくは百僚の名を備えることを欲し、而して道徳の實を問わざれば、則ち鋳金(ちゅうきん)の若(ごと)く人を為し、而して朝に列することなきなり。且つ食禄の費(つい)え無し。而して彼らはまた馬は必ず之れに乗るものを待ち而して後に遠くに致すこと有り、医は必ず之れを行うことを待ち而して後に疾を癒やすこと有るを知る。有賢に至り、則ち必ず之れを待用し而して後に興治するを知らざるとは、何んぞや!賢者は知ること難きか?何を以て之れを遠きに求むるや?知り易きや?何を以て用いる能わざるや、豈に用いるに寡不足と為り、先ず之れを益すことを欲するや?此れ又た惑えるの甚だしきものなり。賢者は人を称えるや、力を以てするに非ざるなり。力は多くを必須とし、而して知は多くを待(たの)まざるなり。故に王は卒七万、而して補佐するは六卿なり。故(むか)し舜は臣五人有し而して天下は治まり、周は乱臣十人有し而して四海は服す。此れ寡を用いるの験(あかし)に非ずや!且つ六国の君が賢を用いざると雖も、其の人に致すに及ぶや、猶お禮を脩め意を尽くし、敢えて侮慢(ぶまん)せざるなり。王莽(おうもう)に至り、既に用いること能わず、其の致れるに及ぶや、尚お言うこと能わず、莽の人に為すや、内は姦邪(かんじゃ)に實(み)ち、外は古儀を慕(たっと)び、亦た名儒を聘求(へいきゅう)し、術士を徵命(ちょうめい)し、政煩教虐にして,以て之れに至ること無し。是に於いて之れを脅かすに峻刑を以てし、之れを威すに重戮(じゅうりく)を以てし、賢者は恐懼し、敢えて至らざる莫し。徒らに虚名を張設し、以て海内に夸(ほこ)り、莽は亦た卒し以て滅亡す。且つ莽の人を爵するや、其の實は之れを囚(とら)えるなり。囚われし人は、必著の桎梏(しっこく)に非ず、而して之れを置くに囹圄(れいぎょ)の謂い、之れを拘係(こうけい)し、之れを愁憂するの謂いなり。在朝の人が進むことを欲すれば則ち陳(そなえ)を其の謀りごとに得ず、退くことを欲すれば則ち安きを其の身に得ざら使める、是れぞ則ち綸組(りんそ)を以て繩索(じょうさく)と為し、印佩(いんふう)を以て鉗鐵(けんてつ)と為すなり。小人は之れを楽しむと雖も、君子は則ち以て辱(はじ)と為す。
 そもそも広く賢者を求めてもこれを重用しないのであれば、何の意味も無いだろう。賢者が物事を進める上で心得るべき事は、美しい妻妾にうつつを抜かしたり愛らしい腰元や侍女に見惚れたりしてはならないし、贅沢な服装で身を着飾ったりしてはならないし、美味しいご馳走に舌鼓みを打ったりしてはならない。確かに言論や策略は必要なものだが、策略は用いるべきではないし、たとえ策略を多く用いても何の役にも立たないだろう!更には百官の役職を整えていても道徳の本質を糾さない様では、鋳型から作られた木偶の坊のような人々がただ朝廷に群がっているようなもので、決して許されることではない。しかも俸禄の無駄な出費も抑えられるというものだ。處で君主は、馬が必ず人を乗せた上で始めて目的に向かって歩き出すことを、更には医者は必ず患者を診た上で始めて病いの治療をすることを、よく弁えている筈である。それなのに賢者を見出して必ず選抜し登用したその上で、治政に与らせるのが常道であることを知らないとは一体どう言うことか!賢者を見出すことがそんなに難しいことなのか?どうしてわざわざ賢者を遠い處に求めるのか!容易いことではないのか?どう言う理由で賢者を重用出来ないのか?どうして賢者を用いる上で不足を来たしたからと云って賢者を増やすことに汲汲とせねばならぬのか?これは実に考え違いも甚だしいと云うものだ。賢者が人を登用する場合には、強引に行うことはない。力ずくでは効率が悪いし、知恵を働かせれば無駄が無いというものだ。そこで王者としては家臣七万人を統率する上で補佐する者として六官(天・地・春・夏・秋・冬)の長たる六人の大臣を任命したのである。昔し舜帝は五人の家臣(禹→司空・稷→農政・契→文教・皋陶→司法・伯益→治水)を従えて天下を統治したし、周王朝には國をよく治める十人の賢臣(周公旦→摂政・召公奭→摂政・太公望→軍師・畢公→重臣・栄夷公→卿士・太顚→賢臣・閎夭→賢臣・散宜生→賢臣・南宮适→西周の功臣・文母→文王妃の太姒)が居て天下は治まった。これこそ賢臣が少なくとも国をよく治めることが出来るという証しではないか!さらに山東六国の君主が賢者を用いなかったとは言え、人々を処遇するに当たっては、確りと礼節を整えて誠意を表し、決して侮り軽んじることはなかったのである。王莽の代になると、最早や賢者を用いるどころではなく、その絶頂期にはそれを言葉にすることも憚られ、王莽が人々と対する場合には、内に向かっては依怙贔屓に走ったり、外に向かっては古い仕来りに拘ったり、更には有名な儒家を高禄で召し抱え、方術士を呼び出して重用し、政治は煩雑を窮め教化策は虐げられて止まる所を知らずと云う有様。こうして人々に重い刑罰や激しい恥辱を与えて脅迫したので、賢者さえも恐れおののいて自分の方から遠ざかって行った。無闇矢鱈に無意味な改名を行って天下に己の権威を誇張したが、遂には頼む臣下にも背かれて殺されてしまう。更に王莽が爵位を授けるに当たって、その狙いは束縛する處にあった。囲い込まれた人物は、牢獄の様な雁字搦めに自由を束縛される訳ではないが拘束され、一生寂しく恐れおののき乍ら暮らす訳である。朝廷に仕える者は出仕しても策謀を具申する機会も与えられず、退出しても安穏に暮らすことも出来ないという有様だが、一方では特權意識を持たせる為に官員の印の青絲綬を与えたり、官印を佩带させて行動を抑制した。下らぬ人間はこう云う表面的な待遇に興味を示すけれども、君子はこれを恥と捉えるのである。
[参考]
 ・<論語、泰伯>
     「20舜有臣五人而天下治。武王曰:「予有亂臣十人。」・・・」
 ・舜の臣:禹(う)・稷(しょく)・契(せつ)・皐陶(こうよう)・伯益(はくえき)。
 ・周の臣:周公旦(しゅうこうたん)・邵公爽(しょうこうせき)・太公望(たいこうぼう)・畢公(ひつこう)・栄公
   (えいこう)・太顛(たいてん)・闔妖(こうよう)・散宜生(さんぎせい)・南宮括(なんきゅうかつ)・太似(たい
     じ)

 ・山東六國,戦国七雄の中の秦國を除く韓・趙・魏・齊・楚・燕の六国。
 ・王莽:前漢の平帝を毒殺して新国(前45~後23年)を建てたが、僅か15年で後漢の光武帝に攻め滅
    ぼされる。

5故明王之得賢也,得其心也,非謂得其軀也。苟得其軀,而不論其心也,斯與籠鳥、檻獸無以異也。則賢者之於我也,亦猶怨讎也,豈為我用哉?雖曰班萬鍾之祿、將何益歟!故苟得其心,萬里猶近。苟失其心,同衾為遠。今不脩所以得賢者之心,而務脩所以執賢者之身,至於社稷顛覆,宗廟廢絕,豈不哀哉?荀子曰:「人主之患,不在乎不言用賢,而在乎不誠用賢。言賢者口也,知賢者行也。口行相反而欲賢者進,不肖者退,不亦難乎!夫照蟬者務明其火、振其樹而已。火不明雖振其樹無益也。人主有能明其德者,則天下其歸之、若蟬之歸火也」。善哉言乎!
[訳5]
 故(むか)し明王の賢を得るや、其の心を得て、其の軀(く)を得ることを謂うに非ざるなり。苟にも其の軀を得て、而して其の心を論(はか)らざれば、斯れ籠の鳥、檻の獣と以て異なること無きなり。則ち賢者の我に於けるや、亦た猶お怨讎(えんしゅう)なり、豈に我が為に用いんや!萬鍾(ばんしょう)の祿を班(わ)かつと曰うと雖も、将に何の益なるや?故に苟も其の心を得ば、万里も猶お近し。苟も其の心を失えば、同衾は遠く為る。今ま賢者の心を得る所以を脩(おさ)めず、而して賢者の身を執る所以を務脩し、社稷顛覆に至り、宗廟は廃絶するは、豈に哀しからずや。荀子が曰く、「人主の患(うれ)いは、賢を用いると言わざるに在らず、而して誠に賢を用いざるに在り。賢を言うは口なり、賢を知るは行いなり。口と行いが相い反し而して賢は進め、不肖の者は退けることを欲するとは、亦た難からずや!夫れ蝉を照らさんとする者が務めるは其の火を明かにし、其の樹を振るうのみ。火が明かならざれば其の樹を振るうと雖も無益なり。人主が能く其の徳を明らかにすること有れば、則ち天下は之れに帰すること、蝉の火に帰するが若からん」。善いかな言や!
 昔し聰明で高徳な君主が賢者を獲得する場合、賢者の精神に重きを置いたのであって彼の肉体の獲得を意味するものではなかった。たとえ彼の肉体を獲得したとしても彼の精神を重視しないのであれば、籠の鳥や檻の中の獣を飼っているのと何の変わりも無いことになる。即ちこうなると賢者自身にとっては、怨むどころか憎しみともなるので、君主の為に働きたいと思う筈がないのだ!沢山の俸禄を分け与えると云われたからと云って何の得にも為らないだろう!だから賢者の精神を獲得出来さえすれば、念願の適う日も近いと云うものである。かりにも賢者の精神を獲得出来ないとなると、念願達成も遠のくと云うもの。さて賢者の精神を尊重する必要性を理解せず、賢者の肉体を獲得することに意を注ぐと、国家は転覆することになり、宗廟を守ることも出来なくなり、誠にこれは悲しいことである。荀子が言うには、「君主が思い悩むべき事は、賢者を用いたいと口にすることではなく、誠意をもって賢者を重用するかどうかという点にある。賢者を用いたいというのは口先から出る言葉であって、賢者を実際に見出すというのは行動である。口先の言葉と行動が違っていながら賢者を集め、愚か者は退ける様にした處で、何とまあ難しいことをしようとしているのだろうか!そもそも明かりを照らして蝉を集め捕る者の役目は、明かりを強くした上で木を揺すって蝉を振り落として多く捕獲することである。照らす火の強さが弱ければ、幾ら強く木を揺すっても効果は無い。人君が明確にその仁徳を示すことが出来れば天下は善く治まると云うのも、蝉と照らす火との関係によく似ているというものだろう」。これは何と素晴らしい表現ではないか!
[参考]
 ・萬鍾之祿:萬鍾の俸禄。萬鍾:非常に多くの量。多量の米穀。一鐘:約50㍑。
 ・荀子曰:<荀子、致士>
     「4人主之患,不在乎不言用賢,而在乎不誠必用賢。夫言用賢者口也、卻賢者行也。口行相反而
             欲賢者之至,不肖者之退也,不亦難乎!夫耀蟬者,務在明其火,振其樹而已;火不明,雖振
             其樹,無益也。今人主有能明其德者,則天下歸之,若蟬之歸明火也。」

6昔伊尹在田畝之中,以樂堯舜之道,聞成湯作興,而自夏如商。太公避紂之惡,居於東海之濱,聞文王作興,亦自商如周。其次則甯戚如齊,百里奚入秦,范蠡如越,樂毅遊燕。故人君苟脩其道義,昭其德音,慎其威儀,審其教令,刑無頗僻,獄無放殘,仁愛普殷,惠澤流播,百官樂職,萬民得所。則賢者仰之如天地,愛之如親戚,樂之如塤箎,歆之如蘭芳,故其歸我也,猶決壅導滯水注之大壑,何不至之有?苟麤穢暴虐,馨香不登,讒邪在側,佞媚充朝,殺戮不辜,刑罰濫害,宮室崇侈,妻妾無度,撞鐘舞女,淫樂日縱,賦稅繁多,財力匱竭,百姓凍餓,死莩盈野,矜己自得,諫者被誅,內外震駭,遠近怨悲,則賢者之視我容貌也,如魍魎。臺殿也如狴犴、采服也如衰絰、絃歌也如號哭、酒醴也如滫滌、肴饌也如糞土、從事舉錯每無一善。彼之惡我也如是,其肯至哉。今不務明其義而徒設其祿,可以獲小人,難以得君子。君子者行不媮合,立不易方、不以天下枉道,不以樂生害仁,安可以祿誘哉?雖強搏執之而不獲已,亦杜口佯愚,苟免不暇,國之安危將何賴焉?故《詩》曰:「威儀卒迷,善人載尸。」此之謂也。
[訳6]
 昔し伊尹が田畝(でんぼ)の中に在り、以て尭・舜の道を楽しみ、成湯に聞こえて作興(さっこう)し、而して夏自り商に如(いた)る。太公は紂の悪を避け、東海の濱(ほとり)に居(とど)まり、文王に聞こえて作興し、亦た商自り周に如る。其の次は則ち甯戚が齊に如り、百里奚(ひゃくりけい)は秦に入り、范蠡(はんれい)は越に如り、樂毅(がくき)は燕に遊ぶ。故に人君は苟も其の道義を脩め、其の徳音を昭らかにし、其の威儀を慎み、其の教令を審らかにし、刑は頗僻(はへき)無く、獄は放殘(ほうざん)無く、仁愛は殷(さか)んに普(ひろ)げ、恵沢は流播(るは)し、百官は職を楽しみ、万民は所を得る。則ち賢者は天地の如く之れを仰ぎ、親戚の如く之れを愛し、塤箎(けんこ)の如く之れを楽しみ、蘭芳(らんぼう)の如く之れを歆(う)ける、故に其の我に帰するや、猶お決壅(けつよう)は滞水を導いて大壑(だいがく)に之れを注ぐ如きとは、何ぞ之れに至るもの有らざる!苟も麤穢(そわい)暴虐にして、磬香(けいこう)登らず、讒邪(ざんじゃ)が側に在り、佞媚(ねいび)が朝に充ち、不辜(ふこ)を殺戮し、刑罰は滥害(らんがい)し、宮室(きゅうしつ)は崇侈(すうい)し、妻妾は度(せつど)無く、撞鐘(どうしょう)に舞う女(ひめ)、淫楽は日に縦(ほしいまま)にし、賦税(ふぜい)は繁多、財力は匱竭(きけつ)し、百姓は凍餓(とうが)し、死莩(しふ)は野に盈(み)ち、己れを矜(ほこ)って自得し、諫める者は誅(とがめ)を被り、内外は震駭し、遠きも近きも怨み悲しむ、則ち賢者の我が容貌を視るや、魍魎(もうりょう)の如し。臺殿(だいでん)なるや狴犴(へいかん)の如く、采服(さいふく)なるや衰絰(さいてつ)の如く、絃歌(げんか)なるや號哭(ごうこく)の如く、酒醴(しゅれい)なるや滫滌(しゅうてき)の如く、肴饌(こうせん)なるや糞土の如く、従事舉錯(きょそ)は、毎(つね)に一善も無し。彼の我を悪むや是くの如く、其れ肯んじ至るかな。今ま明らかに其の義を務めず而して徒に其の禄を設けるも、以て小人を獲るべくも、以て君子を獲ること難し。君子は媮合(とうごう)せずに行い、立ちて方を易えず、以て天下は道を枉(ま)げず、以て生を楽しみ仁を害さずば、安んぞ祿を以て誘うべきや?強く之れを搏執(はくしゅう)し而して已に獲らざると雖も、亦た杜口(とこう)佯愚(ようぐ)し、苟免(こうめん)に暇あらず、國の安危は将に何に頼らん?故に<詩>に曰く、「威儀卒(ことごと)く迷(うしな)い、善人は載(すなわ)ち尸(かたしろ)のごとし。」と。此れの謂いなり。
 昔し伊尹が百姓をしながら尭・舜の教えに親しみ、それが殷の湯王の耳に入って招聘されて宰相となり、湯王を補佐し夏王朝を倒して殷王朝の成立に寄与した。太公望は始め殷の紂王に仕えたがその悪逆振りに嫌気をさして立ち去り東海のほとりに住んでいたが、その才能が文王の目にとまり軍師となって周王朝の成立に寄与した。その後時代を経て甯戚が齊を・百里奚が秦を・范蠡が越を・樂毅が燕を助けて賢者振りを発揮した。こうして人の上に立つ君主は少しでも人の道を正し、人の道を解き明かし、人の道に適った礼節を守り、人の道の規範を明らかにし、刑罰は公平を期し、獄舎でも酷い扱いをせず、仁愛を広く施し、恩恵を普く世に広げることにより、多くの役人は仕事に生きがいを見出し、万民は適職を得て力を発揮する。賢者の場合は君主の命を最高に尊信し、肉親に対する様に情愛深く接し、竹笛の音曲を聞く様に楽しみ、芳香を嗅ぐ様に喜悦し、こうして治政に当たっては丁度水詰まりを解決する様に溜まり水を一気に谷底に流し落とすように行動したのだから、何とこれは未だ嘗て無い素晴らしい出来事ではないか!かりそめにも汚穢にまみれ暴虐が横行し、教化の成果が挙がらず、邪悪で狡賢い人々が闊歩し、媚びへつらいの風潮が朝廷に蔓延し、無実の者が惨たらしく殺され、刑罰は見境無く行われ、宮中は贅沢な暮らしに明け暮れ、妻妾の女どもは節度を守らず、鐘鼓の音楽に舞う美女達、淫楽は止まる所を知らず、民の税は過酷になるばかり、國の財力は枯渇し、百姓は寒さと飢えに苦しみ、餓死者は野に満ち溢れ、役人どもは己を誇示して得意げに歩き回り、諫言する者あらば咎められ、その為に國の内外を問わず戦々恐々として暮らす有様となると、治世に与る賢者にとっても自身の姿が魑魅魍魎の様に見えたに違いない。高殿のある宮殿は牢獄の様に厳めしく、役人の服装は喪服の様に冷たく、歌舞音曲は泣いている様にもの悲しく、振る舞われる酒は饐えた臭いがし、豪華な料理も腐った臭いがし、仕事ぶりには全く好い所が見られない。これでは人民にそっぽを向かれるのも、無理からぬ事である。若し道義に従わず無闇に俸禄を制度化しても、下らぬ人間は獲得出来ようが、君子を獲ることは難しいに違いない。君子は誤魔化さずに行動し、自身の立場を確りと固めて方針をぐらつかせず、そうして世の中は道徳を守り通し、人々は暮らしを享受して仁徳に反することがないと云うことになると、俸禄を口実に賢者を集める必要など無いと云うことになる。強制的に家臣を抱え込むことが仕方ないことだとしても、やはり治政に携わる家臣が口を閉じて愚か者の様に振る舞い、一時逃れに終始するとなると、國の存亡は何に頼ったら良いのか迷うばかりだ。そこで<詩経>には、「人々は礼法に叶った荘厳な態度を示さなくなり、善良な人々は尸のように口を閉ざしたままだ」とあるが、此れはこの事を云っているのだ。
[参考]
 ・伊尹:夏末期から殷初期にかけて殷王朝の成立に大きな役割を果たし、宰相として数百年続く殷の基
   礎を固めた政治家。

 ・太公:周の文王に見出されて武王の活躍に一役買った太公望のこと。始め紂王 に仕えたがその無道ぶ
   りに嫌気をさして立ち去り、諸侯を説いて遊説するも認められず、最後は周の西伯昌 (文王) のもとに身
   を寄せたと伝えられている。

 ・甯戚:前出。(審大臣)
 ・百里奚:春秋時代の秦の宰相。
 ・范蠡:春秋時代の越の政治家で軍人。越王勾践に仕え春秋五覇にまでに押し上げた。
 ・樂毅:戦国時代の燕国の武将。燕の昭王に仕え斉を滅亡寸前まで追い込む。
 ・《詩》曰:<詩經、大雅、生民之什、板>
     「5天之方懠、無為夸毗。威儀卒迷、善人載尸。民之方殿屎、則莫我敢葵。
      喪亂蔑資、曾莫惠我師 。」
[感想]
 一言に纏めれば、「広く賢者を見出し重用してその思いが実現する様に治政に当たらせれば、亡国を防ぐことが出来る」と云うことになる。何も難しいことを云っているのでは無く、当たり前のことを説いている。その裏付けとして、夏王朝から前漢後の新國に至る君主と賢臣の歴史が、実名で紹介されながら縷々述べられている。王莽については比較的詳しく辛辣な批判がなされ、漢王朝については徐幹の生きた時代でもあったから、差し障りのあることを考えて具体的に氏名を挙げず、前漢第11代皇帝の成帝の酒色・第12代皇帝の哀帝の男色、後漢第12代皇帝の霊帝の酒色と宦官政治・第13代皇帝の献帝時代の武将政治などを念頭に批判文が展開されている。
                                                                  (30.08.01)続く。

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