申鑒-雜言(提言あれこれ)下-②
8或問性命。曰:「生之謂性也,形神是也,所以立生終生者之謂命也,吉凶是也。夫生我之制,性命存爾,君子循其性以輔其命,休斯承,否斯守,無務焉,無怨焉。好寵者乘天命以驕,好惡者違天命以濫,故驕則奉之不成,濫則守之不終,好以取怠,惡以取甚,務以取福,惡以成禍,斯惑矣。」
[書き下し文]
・或るひとが性命を問う。曰く、「生は之れ性と謂い、形と神(こころ)が是れなり、立生終生たる所以の者は之れ命なりて、吉凶が是れなり。夫れ我を生みし制(きまり)は、性命在るのみにて、君子は其の性に循(したが)い以て其の命を輔(たす)け、休みには斯れを承け、否まれれば斯れを守り、務めることも無く、怨むことも無し。寵(おご)ることを好む者は天命に乗じて以て驕り、悪るいことを好む者は天命に違(そむ)いて以て濫(みだ)れ、故に驕れば則ち奉(まかな)うこと之れ成らず、濫れれば則ち守ること之れ終わらず、好みは以て怠(ゆる)みを取(ものに)し、惡は以て甚(ひど)さを取し、務めは以て福を取し、惡は以て禍いを成す、斯れ惑いなるかな。」と。
[訳文]
・或る人が天から与えられた性質(性命)について問い掛けてくる。そこで応えるには、「生きるとは生まれつきの素質を大切に為て生きると言うことであり、その素質は、
形体と精神活動から成っており、生まれるのも死ぬのも天命によるもので、目出度いことでもあり不吉なことでもある。そもそも人が生まれる時の決まりごととしては天から与えられた性質が決まっているだけであって、君子はその天性に従って性命を正しく保つことに努めるわけであり、その活動を休止する時には素直に従うし、否定されればそれに抵抗するし、また天性に手を加えるとか、或いはそれを怨むと云った事はしない。思い上がる者は天命を良いことにして驕り高ぶり、悪事に手を染める者は天命に叛いて心の平静を失い、そこで驕る者は天性を維持することが出来なくなり、悪事に手を染めた者は天性を守り切ることが出来ず、悪事を働けば心に緩みが生じて度を超すことにもなり、励めば幸せがもたらされるが、悪事を働けば災いがもたらされるだけであり、これが迷いというものなのである」と。
[参考]
・<孟子、告子上>
「3告子曰:「生之謂性。」」
・<說文解字、卷七、生部>
「3856生:進也。象艸木生出土上。凡生之屬皆从生。」
・<說文解字、卷十一、心部>
「6671性:人之陽氣性善者也。从心生聲。」
9 或問天命人事。曰:「有三品焉,上下不移,其中則人事存焉爾。命相近也,事相遠也,則吉凶殊矣。故曰:窮理盡性以至於命,孟子稱性善、荀卿稱性惡。公孫子曰:『性無善惡』、揚雄曰:『人之性善惡渾』、劉向曰:『性情相應,性不獨善,情不獨惡。』」曰:「問其理。」曰:「性善則無四凶、性惡則無三仁、人無善惡,文王之教一也則無周公、管、蔡、性善情惡,是桀紂無性,而堯舜無情也、性善惡皆渾,是上智懷惠,而下愚挾善也。理也未究矣,唯向言為然。」
[書き下し文]
・或るひとが天命人事を問う。曰く、「三品(さんぴん)有り、上下は移らず、其れ中は則ち人事在るのみ。命相は近く、事相は遠く、則ち吉凶は殊(こと)なる。故に曰く、理を窮め性を盡くして以て命に至り、孟子は性善を称え、荀卿は性悪を称えると。公孫子が曰く、『性に善悪無し』、揚雄が曰く、『人の性は善悪渾(まじ)る』、劉向が曰く、『性情相(たが)いに応(こた)え、性は獨(た)だ善ならず、情は獨だ悪ならず。』」と。曰く、「其の理(わけ)を問う」と。曰く、「性善なれば則ち四凶無く、性悪なれば則ち三仁人無く、善も悪も無く、文王の教え一なれば則ち周公も管も蔡も無く、性が善にして情が悪ならば、是れ桀や紂は性無く、而して尭や舜は情無く、性は善悪皆(とも)に渾(まじ)るならば、是れ上智は懷惠し、而して下愚は挾善なり。理は未だ究まらず、唯だ向言のみにて然りと為す。」と。
[訳文]
・或る人が天が与えた人として為すべき事について尋ねる。答えるには、「人の性には上中下の三種類があり、上位の賢者と下位の愚者の性は変わることが無いが、中位の一般の人々の性はその人の努力次第でどうにでもなるとある。また生まれつきは似通っているが、躾や習慣などの修行の仕方の違いによっては大きな差がつくことになるとも云われる。そこで万物に備わっている道理を明らかにし、人の性の本源である天命に到達する事によって天道に合致する事が出来るとして、孟子は性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えている。また公孫子は性白紙説を唱え、揚雄は性善悪混淆説を唱え、劉向は心性と感情は互いに相手に影響を及ぼす存在で、心性は善だとか感情は悪だとか、決め付けるものではない(性情感応説)と云っている。」と。或る人は、「いずれの主張が正しいのだろうか説明して欲しい」と問い続ける。それに応えて説明するには、「性善説を採れば、舜帝時代のあの有名な共工・驩兜・三苗・鯀らの悪者も現れなかったろうし、性悪説を採れば、殷王朝末期の三人の仁人である微子・箕子・干諫らも現れなかったろうし、性白紙説を採れば、周王朝の文王に同じように育てられた兄弟なのに、孔子が崇拝した理想の聖人である周公旦が居るかと思うと、その周公旦を疑って三監の乱を起こした実の兄の管叔鮮や実の弟の蔡叔度らが居ることが不思議だし、心性は善で感情は悪だとすると、暴君で名高い夏の桀王や殷の紂王には心性が無いことになるし、聖天子の尭帝や舜帝には感情が無いことになるし、心性には善も悪も共に混ざり合っているとすると、これでは生まれながらに人の道を弁えている人は天の恩恵に感謝して喜ぶだろうが、愚かな人々は善事を積み重ねる努力をせねばならず不公平なことになる。いずれの主張が正しいのかまだ結論は出ていないが、今の処は談論風発して喧しいだけだが、これも致し方のないことである」と。
[参考]
・<論語、陽貨>
「2子曰:「性相近也,習相遠也。」」
「3子曰:「唯上知與下愚不移。」」
・<韓愈集、卷十一・雜著一>
[原性]
「12性也者,與生俱生也;情也者,接於物而生也。性之品有三,而其所以為性者五;情之品有三,而其所
以為情者七。曰:何也?或無曰字。曰:性之品有上中下三。上焉者,善焉而已矣;中焉者,可導而上
下也;下焉者,惡焉而已矣。・・・」
・<周易、説卦>
「1昔者聖人之作《易》也,幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生
爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。」
・<孟子、告子上>
「2・・・孟子曰:「水信無分於東西。無分於上下乎?人性之善也,猶水之就下也。・・・。」」
・<荀子、性惡>
「1人之性惡,其善者偽也。今人之性,生而有好利焉,順是,故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順
是,故殘賊生而忠信亡焉・・・」
・公孫子:詳細不明。<論衡、本性>に登場する孔子の孫弟子に当たる公孫尼子のことか?或いは性白紙説
を唱えた告子と関連があるのか?
・<揚子法言、修身卷第三>
「2人之性也善惡混。修其善則為善人,修其惡則為惡人。氣也者,所以適善惡之馬也與?」
・<論衡、本性>
「2周人世碩以為人性有善有惡,舉人之善性,養而致之則善長;性惡,養而致之則惡長。如此,則性各有
陰陽,善惡在所養焉。故世子作《養書》一篇。密子賤、漆雕開、公孫尼子之徒,亦論情性,與世子相出
入,皆言性有善有惡。」
・<尚書、虞書、舜典>
「6象以典刑,流宥五刑,鞭作官刑,扑作教刑,金作贖刑。眚災肆赦,怙終賊刑。欽哉,欽哉,惟刑之恤
哉!流共工于幽洲,放驩兜于崇山,竄三苗于三危,殛鯀于羽山,四罪而天下咸服。」
・<論語、微子>
「1微子去之,箕子為之奴,比干諫而死。孔子曰:「殷有三仁焉。」」
・<史記、本紀、周本紀>
「22成王少,周初定天下,周公恐諸侯畔周,公乃攝行政當國。管叔、蔡叔群弟疑周公,與武庚作亂,畔
周。周公奉成王命,伐誅武庚、管叔,放蔡叔。・・・」
・心性論について纏める。
・孟子:性善説 ・荀卿:性悪説 ・告子:性白紙説
・揚雄曰:『人之性善惡渾』→善悪混交説 ・公孫子曰:『性無善惡』
・劉向曰:『性情相應,性不獨善,情不獨惡』→性情感応説
・韓愈:性三品説(上中下)
10或曰:「仁義性也,好惡情也。仁義常善而好惡或有惡,故有情惡也。」曰:「不然,好惡者,性之取舍也,實見於外,故謂之情爾,必本乎性矣。仁義者,善之誠者也,何嫌其常善。好惡者,善惡未有所分也,何怪其有惡。凡言神者,莫近於氣,有氣斯有形,有神斯有好惡喜怒之情矣。故人有情,由氣之有形也。氣有白黑,神有善惡,形與白黑偕,情與善惡偕。故氣黑非形之咎、情惡非情之罪也。」
[書き下し文]
・或るひと曰く、「仁義は性なり、好悪は情なり。仁義は常に善く而して好悪も或(とき)には悪(にく)むこと有り、故に情が有ることは悪なり」と。曰く、「然らず、好悪なる者は、性の取舎するものなりて、外に實見(じっけん)するもの、故に之れを情(まじりっけのない心)と謂うのであり、必ず性を本とする。仁義なる者は、善の誠なる者なりて、何ぞ其の常善を嫌(うたが)わんや。好悪なる者は、善悪の未だ所分すること有らざるなりて、何ぞ其の悪しきこと有るを怪しまんや。凡そ言(ことば)の神(こころ)なる者は、氣より近きは莫く、氣有りて斯れ形有り、神有りて斯れ好悪喜怒の情有らん。故に人には情有りて、氣に由(もとづ)く之れ形有り。氣に白黒有り、神に善悪有り、形と白黒は偕(つれだ)ち、情と善悪は偕つ。故に気の黒(あし)きことは形の咎(とがめ)に非ず、情の悪(あし)きことは情の罪には非ざるなり」と。
[訳文]
・或る人が語るには、「人が守るべき仁義の思想は本然の性に属するものであり、人が抱く好悪の思いは感情に属するものである。その仁義の思想と云うものは常に正しいのに対して、好悪の感情と云うものは時によっては憎むと云う感情が伴う事があるので、感情があると云うことは悪いことである」と。そこで反論するには、「そうではあるまい、好悪の感情と云うものは人が天から与えられた本然の性が支配する対象となるものであり、性の本質が外面に現れたものである。だからこれを忄(心)+青(まじりっけのない)で情と云うのであり、必ず本然の性がベ-スとなっている。仁義と云う徳目は、善事の本質となるものであり、従ってそれが常に正しいものだと云うことは疑いようがない。好悪と云う感情は、まだ善悪の区別がつかない段階のものであり、従ってそれが悪い事だと決め付けるのは尚早と云うべきものである。一般的に云えば、言葉に意味を持たせる精神(意志)は氣そのものであり、それが音声言語と云う形となって現れるので、意志があれば好悪喜怒の感情が表れるのも当然である。と云う訳で人には感情が伴うもので、その感情は氣が元となり音声言語と云う形で表れてくる。気には澄んだ気(陽気)と濁った気(陰気)の相反する事象があるので、意志には善悪の事象が付きものであり、気に基ずく形には相反する事象が必然的に現れるし、感情には善悪の事象が必然的に現れるものである。だからと云って気に現れる悪い事象は形の罪と云う訳でもないし、感情に現れる好ましくない事象は感情の罪と云う訳でもない」と。
[参考]
・<國語、周語下>
「30 ・・・口內味而耳內聲,聲味生氣。氣在口為言,在目為明。言以信名,明以時動。名以成政,動以殖
生。政成生殖,樂之至也。・・・」
音声言語も気の一種と考える。言語は意味を含み、其の意味を込めるものは人間の精神である。その為
人間の精神自体も気の一種と古人は考えた。
・<毛詩、序>
「關雎、・・・詩者,志之所之也。在心為志,發言為詩。情動於中而形於言,言之不足,故嗟嘆之。嗟嘆之
不足,故永歌之。永歌之不足,不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲,聲成文謂之音。」
(詩は意志の向かわんとする処を表すものである。心の中にあるときは意志であり、言葉になって発せら
れると詩になる。心の中で感情が動くと、それは言葉になって表れ、言葉で表しても足りない時は、大き
く感嘆する。感嘆しても足りない時は、声を長くして歌う。歌っても足りない時は、知らず知らずの内に
手は舞い足は踊り出す。感情は音声となって発せられ、この音声は彩模様をなし、これが音楽と云うも
のである。)
・<說文解字、卷二、示部>
「25 神:天神,引出萬物者也。从示、申。」
・<朱子語類>
「問生死鬼神之理、・・・所謂神者、以其主乎形気也。・・・」
11或曰:「人之於利,見而好之,能以仁義為節者,是性割其情也。性少情多,性不能割其情,則情獨行為惡矣。」曰:「不然。是善惡有多少也,非情也。有人於此,嗜酒嗜肉,肉勝則食焉,酒勝則飲焉,此二者相與爭,勝者行矣。非情欲得酒,性欲得肉也。有人於此,好利好義,義勝則義取焉,利勝則利取焉,此二者相與爭,勝者行矣。非情欲得利,性欲得義也。其可兼者,則兼取之,其不可兼者,則隻取重焉,若苟隻好而已,雖可兼取矣,若二好鈞平,無分輕重,則一俯一仰,乍進乍退。」
[書き下し文]
・或るひと曰く、「人の利に於けるや、見(まみ)え而して之を好み、能く仁義を以て節を為す者は、是れ性が其の情を割(た)つなり。性に少(か)け情が多(ま)せば、性は其の情を割つこと能わず、則ち情は独行して悪を為さん」と。曰く、「然らず。是れ善悪は多少有るも、情に非ざるなり。此こに人有り、酒を嗜み肉を嗜む、肉勝れば則ち食し、酒勝れば則ち飲す、此の二者は相い與に争えば、勝りし者が行う。情欲非ざれば酒を得(と)り、性欲には肉を得る。此こに人有り、利を好み義を好む、義勝れば則ち義が取られ、利勝れば則ち利が取られ、此の二者は相い與に争えば、勝りし者が行い。情にもとずく欲非ざれば利を得り、性(さが)に基ずく欲は義を得る。其れ兼ねる可(べ)き者は、則ち之れを兼取し、其れ兼ねる可からざる者は、則ち隻取を重んじ、若し苟(かり)に隻好(せきこう)するのみならば、兼取を可(よし)とすると雖も、若し二好が鈞平(きんぺい)し、軽重に分けること無くば、則ち一俯一仰し、乍(たちま)ち進み乍ち退く。」と。
[訳文]
・或る人が語るには、「人は利潤に対しては、それを目前にすると欲望の感情(感情的欲求)が芽生えるものだが、厳しく仁義によって節度を守り通す者は、生まれ持った素質(本能的欲求)によってそれらの感情を抑える事が出来る。処が、生まれ持った素質に欠ける者が多情であると、生まれ持った素質ではその多情を抑えきることが出来ず、感情が暴走して悪事を働くことになる」と。そこで云うには、「そうでは無い。いずれにしろ物事には善悪と云うものが多かれ少なかれ付きまとうものだが、それは感情とは関係ないものである。或る処に一人の人が居るとして、その人がお酒は飲むし肉も好物だとして、その時々の好みに応じてどちらかを選ぶとする。感情的欲求が無い時には飲酒し、本能的欲求の勝る時には肉食を選ぶことになる。また或る処に一人の人が居るとして、その人が利潤に関心があり義理にも厚い人だとして、その時々の心境に応じてどちらかを選ぶとする。感情的欲求が無い時には利潤に関心を示し、本能的欲求の勝る時には義理を重視することになる。感情的欲求や本能的欲求を同時に制御出来る者は利潤も義理も共に自在に操り、感情的欲求や本能的欲求を同時に制御出来ない者は、どちらか一方を重視することになり、もし他に選択の余地が無いとするならば、たとえ二つとも選択出来たとしても□□□□だろうし、若し二つの好みが均衡して軽重付け難いと云うことになると、互いに譲らずいつまでも決着が付かないことになる」と。
12 或曰:「請折於經。」曰:「《易》稱『乾道變化,各正性命、』是言萬物各有性也。『觀其所感,而天地萬物之情可見矣、』是言情者應感而動者也。昆蟲草木皆有性焉,不盡善也。天地聖人,皆稱情焉,不主惡也。又曰:『《爻》、《彖》以情言』亦如之。凡情意心志者,皆性動之別名也。『情見乎辭』,是稱情也。『言不盡意』,是稱意也。『中心好之』,是稱心也。『以制其志』,是稱志也。惟所宜,各稱其名而已,情何主惡之有?故曰:『必也正名』。」
[書き下し文]
・或るひと曰く、「(易)經を折(と)きあかすことを請う」と。曰く、「<易>が称えるに、『乾道(けんどう)変化し、各々性命を正す』と、是れ万物各々性を有するを言う。『其の感ずる所を観て、而して天地万物の情を見る可し』と、是れ情は感応し而して動ずる者なるを言う。昆虫草木は皆な性を有するも、善を尽くさず。天地聖人は、皆な情を称え、悪を主とせず。又た曰く、『爻彖(こうたん)は情を以て言う』亦た之の如し。凡そ情意心志なる者は、皆な性の動きしものの別名なり。『情は辭に見(あらわ)るるなり』と、是れ情を称えるなり。『言は意を盡さず』と、是れ意を称えるなり。『中心之れを好む』と、是れ心を称えるなり。『以て其の志(のぞみ)を制(た)つ』と、是れ志を称えるなり。惟れ宜しき所にして,各々は其の名を称するのみにして、情が何んぞ悪を主とすること之れ有らん?故に曰く、『必らずや名を正さんか』」と。
[訳文]
・或る人が云うには、「<易経>の解説をお願いしたい」と。そこで語るには、「<易經>が称えている処によると、『天道は刻々に変化し、その変化に応じて万物が天から与えられたそれぞれの資質を正しく発揮して、大自然の調和を保っている』とあり、これは万物がそれぞれ定められた資質を天から与えられていることを意味している。また、『心に感じて思う事柄を善く観察して、天や地や人間を始めとする動物草木など生きる物全ての情(内面的な本当の姿)を善く把握すべし』とあり、これは情というものは外界の刺激に反応して変動することを意味している。昆虫を始めとする小動物や草木などは皆な天から与えられた固有の資質を持っているのに、善事を尽くしているとは云えない。天も地も聖人も皆んな物事に感じて起こる情の示す働きの素晴らしさを称賛し、悪いものだと決め付けたりはしない。またこうも言っている、『爻辭や卦辭はその卦や爻の持つ本当の意味を言葉によって語っている』とあるが、全くその通りである。そもそも情や意・心・志と云う言葉は、皆んな本然の性が外物の刺激を受けて起こした感情や思慮の別名である。<易經>に『心に思っている事柄の真意は、卦や爻に含まれている字句に表れている』とあり、これは情の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。<易經>に『言葉は意(心の中に思っていること)を全て述べ尽くしているわけではない』とあり、これは意の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。<詩経>に『心の中ではこれを喜ぶ』とあり、これは心の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。『そしてその志(のぞみ)を断つ』とあるが、これは志の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。これらはいずれも妥当な指摘であり、それぞれがそれぞれの働きに応じた妥当な呼称を名乗っているに過ぎなず、それなのにどうして情だけが悪いと決め付けられることになるのだろうか?だから、『名(言葉)と実(内容)とを正確に一致させることが大切なのだ』と云うのである」と。
[参考]
・<易經、乾卦>
「1乾:元亨,利貞。
彖傳: 大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明始終,六位時成,時乘六龍以御天。
乾道變化,各正性命,保合大和,乃利貞。首出庶物,萬國咸寧。」
・<易經、咸卦>
「1咸,亨,利貞,取女吉。
彖傳: 咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨利貞,取女吉也。天地感而
萬物化生,聖人感人心而天下和平,觀其所感,而天地萬物之情可見矣。」
・情・意・心・志の<説文解字>
情:人之陰気有欲者。従心青聲。
意:意也。从心之聲。
心:人心,土藏,在身之中。象形。博士說以為火藏。凡心之屬皆从心。
志:志也。从心察言而知意也。从心从音。
・心と意と志と情
・<周易、繫辭下>
「12・・・八卦以象告,爻彖以情言,剛柔雜居,而吉凶可見矣。・・・」
・<周易、繫辭下>
「1八卦成列,象在其中矣。因而重之,爻在其中矣。剛柔相推,變在其中矣。繫辭焉而命之,動在其中
矣。・・・爻象動乎內,吉凶見乎外,功業見乎變,聖人之情見乎辭。天地之大德曰生,聖人之大寶曰
位。何以守位曰仁,何以聚人曰財。理財正辭,禁民為非曰義。」
・<周易、繫辭上>
「12易曰:「自天祐之,吉无不利。」子曰:「祐者,助也。天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎
順,又以尚賢也。是以自天祐之,吉无不利也。」子曰:「書不盡言,言不盡意。然則聖人之意,其不可
見乎。」子曰:「聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭以盡其言,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡
神。」・・・」
・<詩經、國風、唐風、有杕之杜>
「1有杕之杜、生于道左。彼君子兮、噬肯適我。中心好之、曷飲食之。
2有杕之杜、生于道周。彼君子兮、噬肯來遊。中心好之、曷飲食之。」
・『以制其志』:出典不明。
・<論語、子路>
「3子路曰:「衛君待子而為政,子將奚先?」子曰:「必也正名乎!」・・・」
[感想]
ここでは次のような事柄について触れられている。すなわち、
8性命についての問答
9「性三品説」に始まり、孟子・荀子・公孫子・揚雄・劉向らの「性論」の紹介。
10性と情(好悪喜怒)そして「気」との関連。
11本能的欲求と感情的欲求
12<易経>に取り挙げられている情・意・心・志の意味
5つの史実が紹介されているが、いずれも有名な故事である。「性論」が取り挙げられ、孟子の「性善説」から始まって劉向の「性情感応説」が紹介され、結論が出されていない現状を踏まえた上で、清気・濁気に基ずく感情の現れ方に触れている処は注目すべき点である。
(02.04.01)続く