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論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

申鑒-雜言(提言あれこれ)下-②

2020-04-01 08:16:37 | 仁の思想

申鑒-雜言(提言あれこれ)下-②
8或問性命。曰:「生之謂性也,形神是也,所以立生終生者之謂命也,吉凶是也。夫生我之制,性命存爾,君子循其性以輔其命,休斯承,否斯守,無務焉,無怨焉。好寵者乘天命以驕,好惡者違天命以濫,故驕則奉之不成,濫則守之不終,好以取怠,惡以取甚,務以取福,惡以成禍,斯惑矣。」
[書き下し文]
 或るひとが性命を問う。曰く、「生は之れ性と謂い、形と神(こころ)が是れなり、立生終生たる所以の者は之れ命なりて、吉凶が是れなり。夫れ我を生みし制(きまり)は、性命在るのみにて、君子は其の性に循(したが)い以て其の命を輔(たす)け、休みには斯れを承け、否まれれば斯れを守り、務めることも無く、怨むことも無し。寵(おご)ることを好む者は天命に乗じて以て驕り、悪るいことを好む者は天命に違(そむ)いて以て濫(みだ)れ、故に驕れば則ち奉(まかな)うこと之れ成らず、濫れれば則ち守ること之れ終わらず、好みは以て怠(ゆる)みを取(ものに)し、惡は以て甚(ひど)さを取し、務めは以て福を取し、惡は以て禍いを成す、斯れ惑いなるかな。」と。
[訳文]
 或る人が天から与えられた性質(性命)について問い掛けてくる。そこで応えるには、「生きるとは生まれつきの素質を大切に為て生きると言うことであり、その素質は、
形体と精神活動から成っており、生まれるのも死ぬのも天命によるもので、目出度いことでもあり不吉なことでもある。そもそも人が生まれる時の決まりごととしては天から与えられた性質が決まっているだけであって、君子はその天性に従って性命を正しく保つことに努めるわけであり、その活動を休止する時には素直に従うし、否定されればそれに抵抗するし、また天性に手を加えるとか、或いはそれを怨むと云った事はしない。思い上がる者は天命を良いことにして驕り高ぶり、悪事に手を染める者は天命に叛いて心の平静を失い、そこで驕る者は天性を維持することが出来なくなり、悪事に手を染めた者は天性を守り切ることが出来ず、悪事を働けば心に緩みが生じて度を超すことにもなり、励めば幸せがもたらされるが、悪事を働けば災いがもたらされるだけであり、これが迷いというものなのである」と。
[参考]
 ・<孟子、告子上>
    「3告子曰:「生之謂性。」」
 ・<說文解字、卷七、生部>
    「3856生:進也。象艸木生出土上。凡生之屬皆从生。」
 ・<說文解字、卷十一、心部>
    「6671性:人之陽氣性善者也。从心生聲。」

9 或問天命人事。曰:「有三品焉,上下不移,其中則人事存焉爾。命相近也,事相遠也,則吉凶殊矣。故曰:窮理盡性以至於命,孟子稱性善、荀卿稱性惡。公孫子曰:『性無善惡』、揚雄曰:『人之性善惡渾』、劉向曰:『性情相應,性不獨善,情不獨惡。』」曰:「問其理。」曰:「性善則無四凶、性惡則無三仁、人無善惡,文王之教一也則無周公、管、蔡、性善情惡,是桀紂無性,而堯舜無情也、性善惡皆渾,是上智懷惠,而下愚挾善也。理也未究矣,唯向言為然。」
[書き下し文]
 ・或るひとが天命人事を問う。曰く、「三品(さんぴん)有り、上下は移らず、其れ中は則ち人事在るのみ。命相は近く、事相は遠く、則ち吉凶は殊(こと)なる。故に曰く、理を窮め性を盡くして以て命に至り、孟子は性善を称え、荀卿は性悪を称えると。公孫子が曰く、『性に善悪無し』、揚雄が曰く、『人の性は善悪渾(まじ)る』、劉向が曰く、『性情相(たが)いに応(こた)え、性は獨(た)だ善ならず、情は獨だ悪ならず。』」と。曰く、「其の理(わけ)を問う」と。曰く、「性善なれば則ち四凶無く、性悪なれば則ち三仁人無く、善も悪も無く、文王の教え一なれば則ち周公も管も蔡も無く、性が善にして情が悪ならば、是れ桀や紂は性無く、而して尭や舜は情無く、性は善悪皆(とも)に渾(まじ)るならば、是れ上智は懷惠し、而して下愚は挾善なり。理は未だ究まらず、唯だ向言のみにて然りと為す。」と。
[訳文]
 ・或る人が天が与えた人として為すべき事について尋ねる。答えるには、「人の性には上中下の三種類があり、上位の賢者と下位の愚者の性は変わることが無いが、中位の一般の人々の性はその人の努力次第でどうにでもなるとある。また生まれつきは似通っているが、躾や習慣などの修行の仕方の違いによっては大きな差がつくことになるとも云われる。そこで万物に備わっている道理を明らかにし、人の性の本源である天命に到達する事によって天道に合致する事が出来るとして、孟子は性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えている。また公孫子は性白紙説を唱え、揚雄は性善悪混淆説を唱え、劉向は心性と感情は互いに相手に影響を及ぼす存在で、心性は善だとか感情は悪だとか、決め付けるものではない(性情感応説)と云っている。」と。或る人は、「いずれの主張が正しいのだろうか説明して欲しい」と問い続ける。それに応えて説明するには、「性善説を採れば、舜帝時代のあの有名な共工・驩兜・三苗・鯀らの悪者も現れなかったろうし、性悪説を採れば、殷王朝末期の三人の仁人である微子・箕子・干諫らも現れなかったろうし、性白紙説を採れば、周王朝の文王に同じように育てられた兄弟なのに、孔子が崇拝した理想の聖人である周公旦が居るかと思うと、その周公旦を疑って三監の乱を起こした実の兄の管叔鮮や実の弟の蔡叔度らが居ることが不思議だし、心性は善で感情は悪だとすると、暴君で名高い夏の桀王や殷の紂王には心性が無いことになるし、聖天子の尭帝や舜帝には感情が無いことになるし、心性には善も悪も共に混ざり合っているとすると、これでは生まれながらに人の道を弁えている人は天の恩恵に感謝して喜ぶだろうが、愚かな人々は善事を積み重ねる努力をせねばならず不公平なことになる。いずれの主張が正しいのかまだ結論は出ていないが、今の処は談論風発して喧しいだけだが、これも致し方のないことである」と。
[参考]
 ・<論語、陽貨>
    「2子曰:「性相近也,習相遠也。」」
    「3子曰:「唯上知與下愚不移。」」
 ・<韓愈集、卷十一・雜著一>
   [原性]
    「12性也者,與生俱生也;情也者,接於物而生也。性之品有三,而其所以為性者五;情之品有三,而其所
                以為情者七。曰:何也?或無曰字。曰:性之品有上中下三。上焉者,善焉而已矣;中焉者,可導而上
                下也;下焉者,惡焉而已矣。・・・」

 ・<周易、説卦>
    「1昔者聖人之作《易》也,幽贊於神明而生蓍,參天兩地而倚數,觀變於陰陽而立卦,發揮於剛柔而生
              爻,和順於道德而理於義,窮理盡性以至於命。」

 ・<孟子、告子上>
    「2・・・孟子曰:「水信無分於東西。無分於上下乎?人性之善也,猶水之就下也。・・・。」」
 ・<荀子、性惡>
    「1人之性惡,其善者偽也。今人之性,生而有好利焉,順是,故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順
              是,故殘賊生而忠信亡焉・・・」

 ・公孫子:詳細不明。<論衡、本性>に登場する孔子の孫弟子に当たる公孫尼子のことか?或いは性白紙説
                                     を唱えた告子と関連があるのか?

 ・<揚子法言、修身卷第三>
    「2人之性也善惡混。修其善則為善人,修其惡則為惡人。氣也者,所以適善惡之馬也與?」
 ・<論衡、本性>
    「2周人世碩以為人性有善有惡,舉人之善性,養而致之則善長;性惡,養而致之則惡長。如此,則性各有
             陰陽,善惡在所養焉。故世子作《養書》一篇。密子賤、漆雕開、公孫尼子之徒,亦論情性,與世子相出
             入,皆言性有善有惡。」

 ・<尚書、虞書、舜典>
    「6象以典刑,流宥五刑,鞭作官刑,扑作教刑,金作贖刑。眚災肆赦,怙終賊刑。欽哉,欽哉,惟刑之恤
             哉!流共工于幽洲,放驩兜于崇山,竄三苗于三危,殛鯀于羽山,四罪而天下咸服。」

 ・<論語、微子>
    「1微子去之,箕子為之奴,比干諫而死。孔子曰:「殷有三仁焉。」」
 ・<史記、本紀、周本紀>
    「22成王少,周初定天下,周公恐諸侯畔周,公乃攝行政當國。管叔、蔡叔群弟疑周公,與武庚作亂,畔
               周。周公奉成王命,伐誅武庚、管叔,放蔡叔。・・・」

 ・心性論について纏める。
   ・孟子:性善説  ・荀卿:性悪説  ・告子:性白紙説
   ・揚雄曰:『人之性善惡渾』→善悪混交説  ・公孫子曰:『性無善惡』
   ・劉向曰:『性情相應,性不獨善,情不獨惡』→性情感応説
   ・韓愈:性三品説(上中下)

10或曰:「仁義性也,好惡情也。仁義常善而好惡或有惡,故有情惡也。」曰:「不然,好惡者,性之取舍也,實見於外,故謂之情爾,必本乎性矣。仁義者,善之誠者也,何嫌其常善。好惡者,善惡未有所分也,何怪其有惡。凡言神者,莫近於氣,有氣斯有形,有神斯有好惡喜怒之情矣。故人有情,由氣之有形也。氣有白黑,神有善惡,形與白黑偕,情與善惡偕。故氣黑非形之咎、情惡非情之罪也。」
[書き下し文]
 ・或るひと曰く、「仁義は性なり、好悪は情なり。仁義は常に善く而して好悪も或(とき)には悪(にく)むこと有り、故に情が有ることは悪なり」と。曰く、「然らず、好悪なる者は、性の取舎するものなりて、外に實見(じっけん)するもの、故に之れを情(まじりっけのない心)と謂うのであり、必ず性を本とする。仁義なる者は、善の誠なる者なりて、何ぞ其の常善を嫌(うたが)わんや。好悪なる者は、善悪の未だ所分すること有らざるなりて、何ぞ其の悪しきこと有るを怪しまんや。凡そ言(ことば)の神(こころ)なる者は、氣より近きは莫く、氣有りて斯れ形有り、神有りて斯れ好悪喜怒の情有らん。故に人には情有りて、氣に由(もとづ)く之れ形有り。氣に白黒有り、神に善悪有り、形と白黒は偕(つれだ)ち、情と善悪は偕つ。故に気の黒(あし)きことは形の咎(とがめ)に非ず、情の悪(あし)きことは情の罪には非ざるなり」と。
[訳文]
 ・或る人が語るには、「人が守るべき仁義の思想は本然の性に属するものであり、人が抱く好悪の思いは感情に属するものである。その仁義の思想と云うものは常に正しいのに対して、好悪の感情と云うものは時によっては憎むと云う感情が伴う事があるので、感情があると云うことは悪いことである」と。そこで反論するには、「そうではあるまい、好悪の感情と云うものは人が天から与えられた本然の性が支配する対象となるものであり、性の本質が外面に現れたものである。だからこれを忄(心)+青(まじりっけのない)で情と云うのであり、必ず本然の性がベ-スとなっている。仁義と云う徳目は、善事の本質となるものであり、従ってそれが常に正しいものだと云うことは疑いようがない。好悪と云う感情は、まだ善悪の区別がつかない段階のものであり、従ってそれが悪い事だと決め付けるのは尚早と云うべきものである。一般的に云えば、言葉に意味を持たせる精神(意志)は氣そのものであり、それが音声言語と云う形となって現れるので、意志があれば好悪喜怒の感情が表れるのも当然である。と云う訳で人には感情が伴うもので、その感情は氣が元となり音声言語と云う形で表れてくる。気には澄んだ気(陽気)と濁った気(陰気)の相反する事象があるので、意志には善悪の事象が付きものであり、気に基ずく形には相反する事象が必然的に現れるし、感情には善悪の事象が必然的に現れるものである。だからと云って気に現れる悪い事象は形の罪と云う訳でもないし、感情に現れる好ましくない事象は感情の罪と云う訳でもない」と。
[参考]
 ・<國語、周語下>
    「30 ・・・口內味而耳內聲,聲味生氣。氣在口為言,在目為明。言以信名,明以時動。名以成政,動以殖
                生。政成生殖,樂之至也。・・・」

     音声言語も気の一種と考える。言語は意味を含み、其の意味を込めるものは人間の精神である。その為
            人間の精神自体も気の一種と古人は考えた。

 ・<毛詩、序>
    「關雎、・・・詩者,志之所之也。在心為志,發言為詩。情動於中而形於言,言之不足,故嗟嘆之。嗟嘆之
            不足,故永歌之。永歌之不足,不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲,聲成文謂之音。」

     (詩は意志の向かわんとする処を表すものである。心の中にあるときは意志であり、言葉になって発せら
              れると詩になる。心の中で感情が動くと、それは言葉になって表れ、言葉で表しても足りない時は、大き
               く感嘆する。感嘆しても足りない時は、声を長くして歌う。歌っても足りない時は、知らず知らずの内に
              手は舞い足は踊り出す。感情は音声となって発せられ、この音声は彩模様をなし、これが音楽と云うも
              のである。)

 ・<說文解字、卷二、示部>
    「25 神:天神,引出萬物者也。从示、申。」
 ・<朱子語類>
    「問生死鬼神之理、・・・所謂神者、以其主乎形気也。・・・」

11或曰:「人之於利,見而好之,能以仁義為節者,是性割其情也。性少情多,性不能割其情,則情獨行為惡矣。」曰:「不然。是善惡有多少也,非情也。有人於此,嗜酒嗜肉,肉勝則食焉,酒勝則飲焉,此二者相與爭,勝者行矣。非情欲得酒,性欲得肉也。有人於此,好利好義,義勝則義取焉,利勝則利取焉,此二者相與爭,勝者行矣。非情欲得利,性欲得義也。其可兼者,則兼取之,其不可兼者,則隻取重焉,若苟隻好而已,雖可兼取矣,若二好鈞平,無分輕重,則一俯一仰,乍進乍退。」
[書き下し文]
 ・或るひと曰く、「人の利に於けるや、見(まみ)え而して之を好み、能く仁義を以て節を為す者は、是れ性が其の情を割(た)つなり。性に少(か)け情が多(ま)せば、性は其の情を割つこと能わず、則ち情は独行して悪を為さん」と。曰く、「然らず。是れ善悪は多少有るも、情に非ざるなり。此こに人有り、酒を嗜み肉を嗜む、肉勝れば則ち食し、酒勝れば則ち飲す、此の二者は相い與に争えば、勝りし者が行う。情欲非ざれば酒を得(と)り、性欲には肉を得る。此こに人有り、利を好み義を好む、義勝れば則ち義が取られ、利勝れば則ち利が取られ、此の二者は相い與に争えば、勝りし者が行い。情にもとずく欲非ざれば利を得り、性(さが)に基ずく欲は義を得る。其れ兼ねる可(べ)き者は、則ち之れを兼取し、其れ兼ねる可からざる者は、則ち隻取を重んじ、若し苟(かり)に隻好(せきこう)するのみならば、兼取を可(よし)とすると雖も、若し二好が鈞平(きんぺい)し、軽重に分けること無くば、則ち一俯一仰し、乍(たちま)ち進み乍ち退く。」と。
[訳文]
 ・或る人が語るには、「人は利潤に対しては、それを目前にすると欲望の感情(感情的欲求)が芽生えるものだが、厳しく仁義によって節度を守り通す者は、生まれ持った素質(本能的欲求)によってそれらの感情を抑える事が出来る。処が、生まれ持った素質に欠ける者が多情であると、生まれ持った素質ではその多情を抑えきることが出来ず、感情が暴走して悪事を働くことになる」と。そこで云うには、「そうでは無い。いずれにしろ物事には善悪と云うものが多かれ少なかれ付きまとうものだが、それは感情とは関係ないものである。或る処に一人の人が居るとして、その人がお酒は飲むし肉も好物だとして、その時々の好みに応じてどちらかを選ぶとする。感情的欲求が無い時には飲酒し、本能的欲求の勝る時には肉食を選ぶことになる。また或る処に一人の人が居るとして、その人が利潤に関心があり義理にも厚い人だとして、その時々の心境に応じてどちらかを選ぶとする。感情的欲求が無い時には利潤に関心を示し、本能的欲求の勝る時には義理を重視することになる。感情的欲求や本能的欲求を同時に制御出来る者は利潤も義理も共に自在に操り、感情的欲求や本能的欲求を同時に制御出来ない者は、どちらか一方を重視することになり、もし他に選択の余地が無いとするならば、たとえ二つとも選択出来たとしても□□□□だろうし、若し二つの好みが均衡して軽重付け難いと云うことになると、互いに譲らずいつまでも決着が付かないことになる」と。


12 或曰:「請折於經。」曰:「《易》稱『乾道變化,各正性命、』是言萬物各有性也。『觀其所感,而天地萬物之情可見矣、』是言情者應感而動者也。昆蟲草木皆有性焉,不盡善也。天地聖人,皆稱情焉,不主惡也。又曰:『《爻》、《彖》以情言』亦如之。凡情意心志者,皆性動之別名也。『情見乎辭』,是稱情也。『言不盡意』,是稱意也。『中心好之』,是稱心也。『以制其志』,是稱志也。惟所宜,各稱其名而已,情何主惡之有?故曰:『必也正名』。」
[書き下し文]
 ・或るひと曰く、「(易)經を折(と)きあかすことを請う」と。曰く、「<易>が称えるに、『乾道(けんどう)変化し、各々性命を正す』と、是れ万物各々性を有するを言う。『其の感ずる所を観て、而して天地万物の情を見る可し』と、是れ情は感応し而して動ずる者なるを言う。昆虫草木は皆な性を有するも、善を尽くさず。天地聖人は、皆な情を称え、悪を主とせず。又た曰く、『爻彖(こうたん)は情を以て言う』亦た之の如し。凡そ情意心志なる者は、皆な性の動きしものの別名なり。『情は辭に見(あらわ)るるなり』と、是れ情を称えるなり。『言は意を盡さず』と、是れ意を称えるなり。『中心之れを好む』と、是れ心を称えるなり。『以て其の志(のぞみ)を制(た)つ』と、是れ志を称えるなり。惟れ宜しき所にして,各々は其の名を称するのみにして、情が何んぞ悪を主とすること之れ有らん?故に曰く、『必らずや名を正さんか』」と。
[訳文]
 ・或る人が云うには、「<易経>の解説をお願いしたい」と。そこで語るには、「<易經>が称えている処によると、『天道は刻々に変化し、その変化に応じて万物が天から与えられたそれぞれの資質を正しく発揮して、大自然の調和を保っている』とあり、これは万物がそれぞれ定められた資質を天から与えられていることを意味している。また、『心に感じて思う事柄を善く観察して、天や地や人間を始めとする動物草木など生きる物全ての情(内面的な本当の姿)を善く把握すべし』とあり、これは情というものは外界の刺激に反応して変動することを意味している。昆虫を始めとする小動物や草木などは皆な天から与えられた固有の資質を持っているのに、善事を尽くしているとは云えない。天も地も聖人も皆んな物事に感じて起こる情の示す働きの素晴らしさを称賛し、悪いものだと決め付けたりはしない。またこうも言っている、『爻辭や卦辭はその卦や爻の持つ本当の意味を言葉によって語っている』とあるが、全くその通りである。そもそも情や意・心・志と云う言葉は、皆んな本然の性が外物の刺激を受けて起こした感情や思慮の別名である。<易經>に『心に思っている事柄の真意は、卦や爻に含まれている字句に表れている』とあり、これは情の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。<易經>に『言葉は意(心の中に思っていること)を全て述べ尽くしているわけではない』とあり、これは意の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。<詩経>に『心の中ではこれを喜ぶ』とあり、これは心の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。『そしてその志(のぞみ)を断つ』とあるが、これは志の示す働きの素晴らしさを称賛したものである。これらはいずれも妥当な指摘であり、それぞれがそれぞれの働きに応じた妥当な呼称を名乗っているに過ぎなず、それなのにどうして情だけが悪いと決め付けられることになるのだろうか?だから、『名(言葉)と実(内容)とを正確に一致させることが大切なのだ』と云うのである」と。
[参考]
 ・<易經、乾卦>
    「1乾:元亨,利貞。 
      彖傳: 大哉乾元,萬物資始,乃統天。雲行雨施,品物流形。大明始終,六位時成,時乘六龍以御天。
              乾道變化,各正性命,保合大和,乃利貞。首出庶物,萬國咸寧。」

 ・<易經、咸卦>
    「1咸,亨,利貞,取女吉。 
      彖傳: 咸,感也。柔上而剛下,二氣感應以相與,止而說,男下女,是以亨利貞,取女吉也。天地感而
              萬物化生,聖人感人心而天下和平,觀其所感,而天地萬物之情可見矣。」

 ・情・意・心・志の<説文解字> 
   情:人之陰気有欲者。従心青聲。
   意:意也。从心之聲。
   心:人心,土藏,在身之中。象形。博士說以為火藏。凡心之屬皆从心。
   志:志也。从心察言而知意也。从心从音。

 


 ・心と意と志と情

 ・<周易、繫辭下>
    「12・・・八卦以象告,爻彖以情言,剛柔雜居,而吉凶可見矣。・・・」
 ・<周易、繫辭下>
    「1八卦成列,象在其中矣。因而重之,爻在其中矣。剛柔相推,變在其中矣。繫辭焉而命之,動在其中
              矣。・・・爻象動乎內,吉凶見乎外,功業見乎變,聖人之情見乎辭。天地之大德曰生,聖人之大寶曰
              位。何以守位曰仁,何以聚人曰財。理財正辭,禁民為非曰義。」

 ・<周易、繫辭上>
    「12易曰:「自天祐之,吉无不利。」子曰:「祐者,助也。天之所助者,順也;人之所助者,信也。履信思乎
               順,又以尚賢也。是以自天祐之,吉无不利也。」子曰:「書不盡言,言不盡意。然則聖人之意,其不可
               見乎。」子曰:「聖人立象以盡意,設卦以盡情偽,繫辭以盡其言,變而通之以盡利,鼓之舞之以盡
               神。」・・・」

 ・<詩經、國風、唐風、有杕之杜>
    「1有杕之杜、生于道左。彼君子兮、噬肯適我。中心好之、曷飲食之。
     2有杕之杜、生于道周。彼君子兮、噬肯來遊。中心好之、曷飲食之。」
 ・『以制其志』:出典不明。
 ・<論語、子路>
    「3子路曰:「衛君待子而為政,子將奚先?」子曰:「必也正名乎!」・・・」
[感想]
 ここでは次のような事柄について触れられている。すなわち、
   8性命についての問答
   9「性三品説」に始まり、孟子・荀子・公孫子・揚雄・劉向らの「性論」の紹介。
   10性と情(好悪喜怒)そして「気」との関連。
   11本能的欲求と感情的欲求
   12<易経>に取り挙げられている情・意・心・志の意味
 5つの史実が紹介されているが、いずれも有名な故事である。「性論」が取り挙げられ、孟子の「性善説」から始まって劉向の「性情感応説」が紹介され、結論が出されていない現状を踏まえた上で、清気・濁気に基ずく感情の現れ方に触れている処は注目すべき点である。
                                                                                                          (02.04.01)続く

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申鑒-雜言(提言あれこれ)下-①

2020-03-01 15:38:37 | 仁の思想
申鑒-雜言(提言あれこれ)下-①
1衣裳,服者不昧於塵塗,愛也。衣裳愛焉,而不愛其容止,外矣。容止愛焉,而不愛其言行,末矣。言行愛焉,而不愛其明,淺矣。故君子本神為貴,神和德平而道通,是為保真。人之所以立德者三:一曰貞,二曰達,三曰志。貞以為質,達以行之,志以成之,君子哉。必不得已也,守一於茲,貞其主也。人之所以立檢者四:誠其心,正其志,實其事,定其分。心誠則神明應之,況於萬民乎。志正則天地順之,況於萬物乎?事實則功立,分定則不淫。曰:「才之實也,行可為才不可也?」曰:「古之所以謂才也本,今之所謂才也末也。然则以行之貴也,無失其才,而才有失。先民有言,適楚而北轅者,曰:『吾馬良,用多,御善。』此三者益侈,其去楚亦遠矣。遵路而騁,應方而動,君子有行,行必至矣。」
[書き下し文]
 ・
衣裳を、服(き)る者が塵塗(じんと)に昧(おか)さざるは、愛(いと)おしめばなり。衣裳を愛おしみ、而して其の容止(ようし)を愛おしまざるは、外れしこと。容止を愛おしみ、而して其の言行を愛おしまざるは、末のこと。言行を愛おしみ、而して其の明(かしこ)さを愛おしまざるは、浅きこと。故に君子は本神(ほんしん)を貴しと為し、神(こころ)と徳は平らかにして道通する、是れを保真と為す。人の徳を立てる所以の者は三つ:一に曰く貞(ただ)すこと、二に曰く達(とお)すこと、三に曰く志すこと。貞すことは質(まこと)を為すことを以てし、達すことは之れを行うことを以てし、志は之れを成(しあげ)ることを以てする、君子なるかな。必らず已むを得ざるや、茲に於いて守一するならば、貞すことは其れ主なり。人の検(のり)を立てる所以の者は四つ:其の心を誠にし、其の志を正し、其の事(つとめ)を實(みた)し、其の分(けじめ)を定める。心誠なれば則ち神明之れに応じる、況んや万民に於いておや。志し正せば則ち天地は之れに順(したが)う、況んや万物に於いておや。事が実されれば則ち功おが立(な)り、分が定まれば則ち淫(みだ)れず。曰く、「才は之れ實なり、行いは才たる可きか可からざるか?」と。曰く、「古の才なりと謂う所以のものは本にして、今の所謂(いわゆる)才なるものは末のことなり。然れば則ち行いを以て之れを貴(たか)めるや、其の才を失(あやま)つこと無く、而して才もまた失(あやま)つこと有り。先民に言有り、楚に適(むか)い而して北轅(ほくえん)する者が、曰く、『吾が馬良く、用(たから)も多く、御(ぎょ)するものも善し』と。此の三者が益(いよいよ)侈(こせ)ば、其れ楚を去るも亦た遠し。路に遵(したが)い而して騁(は)せ、方(むき)に応(したが)い而して動く、君子が行(みち)を有(たも)てば、行(おこな)いは必ず至らん」と。
[訳文]
 ・
衣装を着用する者が汚さないように心掛けるのは、大事にしたいという気持ちからのことである。衣装は大事にするのに、自身の立ち居振る舞いを大事にしないのはもっての外である。立ち居振る舞いを大事にしても己の言動を大事にしないのは、本末転倒も甚だしい。言動を大事にしても賢明で無ければ、其れは浅はかと云うものである。そこで君子は本然の善性を大切にして、私心と仁徳を平静に保って人として守るべき道を貫き通すのであり、これが保真(本然の善性を守り続けて失わない)と云うことなのである。人が道徳を確立する訳には三つの理由がある。すなわち、一つには心を正しく保つ為であり、二つにはそれを守り通す為であり、三つにはそれを実現する為である。心を正しく保つ為には真心を以て臨むことであり、それを守り通す為にはそれを実践することであり、それを実現する為にはそれを成し遂げることであり、それが君子の立場と云うものなのである。どうしても止むを得ずに、この中の一つだけ守れと云う事であれば、一つ目の心を正しく保つと云うことになる。人が道義を守る為の手段として四つの事柄があり、それは誠実であること、意志を正すこと、務めを全うすること、身分を正しく定めることである。誠実であれば神はこれに応えてくれるのだから、万人が応えてくれるのは云うまでもない。意志を正せば天地もこれに答えてくれるのだから、万物が答えてくれるのは云うまでもない。務めを全うする事が出来れば功績を立てることが出来るし、身分が正しく定まれば秩序が乱れることも無くなる。更に、「才とは持って生まれた本質的能力だが、行いはその能力に左右されると云って良いのだろうか?」と問い掛けてくる。答えるには、「生まれつきの能力と云っても昔は本然の善性のことを意味していたが、今日では後天的な気質(知恵)のことである。いずれにしろ行いの成果を高める為には、己の優れた物事を成し遂げる能力に悖ることの無いように心掛けるべきだが、時として身に付けた知恵に溺れて失敗することもあるので注意が肝要である。昔の人が語っていると云う話に、楚の國が南に在るのに反対の北に向かっている人が、その間違いを指摘されても、自分が正しいと屁理屈を捏ねるには、『私の乗っている馬車は駿馬が曳いているし、路銀もたっぷり有るし、御者も優秀だから必ず楚の國に着ける』と云う。これらが度を超すと兪々遠く目的の楚の國から遠ざかることになる。正しい道を走り正しい方向に動く事が肝心で、君子が正しい行動をすれば善い成果がえられると云うものである」と。
[参考]
 ・気と人間
   元氣→陽気(清)・(理)気・ 形而上・ 魂(気)・ 神(精神活動)
      →陰気(濁)・(器)質・ 形而下・ 魄(形)・ 鬼(形体)
 ・<黃帝內經、素問、宣明五氣>
    「10藏所藏:心藏神,肺藏魄,肝藏魂,脾藏意,腎藏志,是謂五藏所 
      藏。」
 ・<黃帝內經、靈樞經、本神>→本神:基本となる神(精神状態)。
    「1黃帝問于歧伯曰:凡刺之法,先必本于神。血、脈、營、氣、精神,此
      五藏之所藏也。・・・何謂德、氣、
      生、精、神、魂、魄、心、意、志、思、智、慮?請問其故。」
     2歧伯答曰:天之在我者德也,地之在我者氣也。德流氣薄而生者
      也。故生之來謂之精;兩精相搏謂之神;隨神往來者謂之魂;並精而
      出入者謂之魄;所以任物者謂之心;心有所憶謂之意;意之所存謂
      之志;因志而存變謂之思;因思而遠慕謂之慮;因慮而處物謂之
      智。」
 ・<周易、繫辭上>
    「5一陰一陽之謂道,繼之者善也,成之者性也。仁者見之謂之仁,知
      者見之謂之知。百姓日用而不知,故君子之道鮮矣。顯諸仁,藏諸
      用,鼓萬物而不與聖人同懮,盛德大業至矣哉。富有之謂大業,日
      新之謂盛德。生生之謂易,成象之謂乾,效法之為坤,極數知來之
      謂占,通變之謂事,陰陽不測之謂
      神。」
 ・<戰國策、魏策、魏四>
   《魏王欲攻邯鄲》
    「魏王欲攻邯鄲,季梁聞之,中道而反,衣焦不申,頭塵不去,往見王
      曰:「今者臣來,見人於大行,方北面而持其駕,告臣曰:『我欲之
      楚。』臣曰:『君之楚,將奚為北面?』曰:「吾馬良。『臣曰:『馬雖良,
      此非楚之路也。』曰:『吾用多。』臣曰:『用雖多,此非楚之路也。』
      曰:『吾御者善。』『此是者愈善,而離楚愈遠耳。』今王動欲成霸王,
      舉欲信於天下。恃王國之大,兵之精銳,而攻邯鄲,以廣地尊名,
      王之動愈數,而離王愈遠耳。猶至楚而北行也。」→四字熟語の北
      轅適楚(ほくえんてきそ)の語源となった逸話。意志と行動が別の方
      向を向いていて互いに反していることのたとえ。
 (性と情)
  ・性:人之陽気性善者也。従心生聲。<説文解字>
     忄(こころ)+生(うまれながら)。本然の清い心(本体)。
  ・情:人之陰気有欲者。従心青聲。<説文解字>
     忄(こころ)+青(まじりけのないすんだ)。性の発露したもの(作用)。
  ・感情:物事に感じて動く情。已発の情。
 (才と知と智)
  ・才:草木之初也。(くさきのはじめなり)<説文解字> 生まれながらに
     持っている能力。素質。
  ・知:詞也。(詞:意內而言外也。从司从言。)<説文解字> 思いを言葉
     にして発する能力。知識の保存。
  ・智:識詞也。<説文解字> 知(人)+曰(くちにする)。物事の本質を言
     い当てて、知らせる。知惠。物事を理解する能力。知識の本質を把握
     して、説得出来る能力。
2或問:「聖人所以為貴者,才乎?」曰:「合而用之,以才為貴。分而行之,以行為貴。舜、禹之才而不為邪、甚於□矣。舜、禹之仁,雖亡其才,不失為良人哉。」
[書き下し文]
 ・或るひとが問うに、「聖人を貴しと為す所以は、才か?」と。曰く、「合わせて之れを用いれば、才を以て貴しと為す。分けて之れを行えば、行いを以て貴しと為す。舜や禹の才は而して邪(よこしま)為らず、□より甚だし。舜・禹の仁は、其の才を亡なうと雖も、良人為るを失わず。」と。
[訳文]
 ・或る人が問うには、「聖人を尊敬する訳は才智に長けている事にあるのか?」と。答えるには、「才能と智慧を合わせて用いることを考えれば才智そのものが尊敬の対象になるし、分けて行動することを考えればその行為の結果を見て尊敬するか否かの評価が分かれてくる。舜帝や禹王の才能は真ともなものであり、□よりも厳しいものがあった(才智全体が貴ばれる)。彼等の民を慈しむ行為は、その素質が失われたとしても、善良な人であったことには間違いあるまい(行為そのものが貴ばれるのだから)。」と。
[参考]
 ・<史記、五帝本紀>
    「11帝堯者,放勛。其仁如天,其知如神。」
 ・<史記、夏本紀>
    「4禹為人敏給克勤;其德不違,其仁可親,其言可信;聲為律,身為
      度,稱以出;亹亹穆穆,為綱為紀。」
3或問:「進諫受諫孰難?」曰:「後之進諫難也,以受之難故也。若受諫不難,則進諫斯易矣。」
[書き下し文]
 ・或るひとが問うに、「進諫(しんかん)と受諫(じゅかん)は孰れが難し?」と。曰く、「後れし進諫の難きことや、以(おも)うに之れを受けるは難きが故なり。若し受諫が難からざれば、則ち進諫は斯れ易きことかな。」と。
[訳文]
 ・或る人が問い掛けてくるには、「諫言を進めるのと受けるのとでは、どちらが難しいだろうか?」と。応えるには、「諫言の機会が後れれば後れるほど難しくなるのは、君主が受け入れ難くなるからである。諫言が受け入れやすいものだとすると、君主を諫めることなど極めて簡単なことである」と。
[参考]
 ・<說苑、正諫>
    「1《易》曰:「王臣蹇蹇,匪躬之故。」人臣之所以蹇蹇為難,而諫其君者
      非為身也,將欲以匡君之過,矯君之失也。君有過失者,危亡之萌
      也;見君之過失而不諫,是輕君之危亡也。夫輕君之危亡者,忠臣
      不忍為也。三諫而不用則去,不去則身亡;身亡者,仁人之所不為
      也。是故諫有五:一曰正諫,二曰降諫,三曰忠諫,四曰戇諫,五曰
      諷諫。孔子曰:「吾其從諷諫乎。」・・・」
   正諫:率直に誤りを指摘する諫言。降諫:君主の言を受け入れた上での
       諫言。
   忠諫:忠義の心からの諫言。戇諫:馬鹿正直な諫言。諷諫:遠回しに言う
       諫言
4或問:「知人自知孰難?」曰:「自知者,求諸內而近者也;知人者,求諸外而遠者也,知人難哉。若極其數也,明,有內以識,有外以暗;全有內以隱,有外以顯。然則知人自知,人則可以自知,未可以知人也。急哉,用己者不為異則異矣。君子所惡乎異者三:好生事也,好生奇也,好變常也。好生事,則多端而動眾;好生奇,則離道而惑俗;好變常,則輕法而亂度。故名不貴苟傳,行不貴苟難。權為茂矣,其幾不若經;辯為美矣,其理不若絀;文為顯矣,其中不若樸;博為盛矣,其正不若約。莫不為道,知道之體,大之至也;莫不為妙,知神之幾,妙之至也;莫不為正,知□之□,正之至也。故君子必存乎三至,弗至,斯有守無誖焉。」
[書き下し文]
 ・或るひとが問うに、「知人と自知は孰れが難きことか?」と。曰く「自知なる者は、諸(これ)を内に求め而して近き者なり。知人なる者は、諸を外に求め而して遠き者なりて、知人こそ難きことかな。若(かくのごと)く其の数(どうり)を極めるや、明かに、内に有るは以て識り、外に有るは以て暗し。全ては内に有るものは以て隠れ、外に有るものは以て顕かなり。然らば則ち知人と自知なるものは、人は則ち自知を以てすべく、未だ知人を以てすべからざるなり。急(ゆとりはない)ぞ、己を用いるを異と為さざるは則ち異ならん。君子が異を悪む所の者は三つ:事を生じさせることを好むこと、奇を生じさせることを好むこと、常(ならわし)を変えることを好むことなり。事を生じさせることを好めば則ち多端に而して衆を動(ゆりうご)かし、奇を生じさせることを好めば則ち道を離れ而して俗を惑わし、常を変えることを好めば則ち法を軽んじ而して度(のり)を乱す。故に名に苟(いやし)くも伝わることを貴ばず、行に苟くも難きことを貴ばず。權は茂(すぐ)れ為り、其れ幾(ちか)きも經には若かず;辯は美為るも、其れ理(りくつ)では絀(くちごもり)に若かず;文(そとずら)は顯(あざやか)為るも、其れ中は樸に若かず;博(ひろ)さは盛ん為るも、其れ正しさは約(しめくくる)ことに若かず。道と為らざるは莫く、知道は之れ體(まこと)、大いなるもの之れ至るなり;妙(たえ)と為らざるは莫く、知神は之れ幾(まれ)にして、妙なること之れ至るなり;正と為らざるは莫く、知□之□、正は之れ至るなり。故に君子は必ず三至に在り、至らざれば、斯れ無誖(むはい)を守ること有らん。」と。
[訳文]
 ・或る人が問い掛けてくるには、「他人の品行・才能を能く監察してその情況を推量すること(知人)と、自分自身の精神状態を把握すること(自知)と、どちらの方が難しいことだろうか?」と。答えるには、「自分自身の心の内を観察することは、身近な自分自身の事だから割と容易いことだろう。一方、他人の性状を理解することは、相手があることだから思い通りには行かず難しいことだろう。この様にその理屈が解れば、自知は推量しやすいし、人知は推量し難いことは明らかである。一方有らゆる物事は内在するものは隠れて見え難いが、外在するものは顕かだから見え易いものである。以上のことを考えると知人と自知については、我々としては自知をもっと大切にすべきであり、知人は今以て難しいことだと認識すべきである。迷うことはない、早いほうが良い。自分自身を見つめ直して悪い処は改め良い処を伸ばす努力をしないとは何と勿体ない話ではないか!君子が厭悪する異常な行為には三つのものがある。則ち、揉め事を引き起こすこと、怪しげで人を惑わすような言動をすること、常軌を逸した行動をすることである。揉め事を引き起こせば、多方面に亘って大衆を動揺させることになるし、怪しげで人を惑わすような言動をすれば、道理から外れて世間を惑わすことになるし、常軌を逸した行動を取れば、法を軽んじて秩序を乱すことになる。だから名声を広めたいとは少しも思わないし、行動するにしても難しければ難しいほど良いとも思わない。臨機応変の措置である権道は勝れた方策ではあるが、近いとは云え不変不易の經道の方策には敵わないし、辯舌が巧みなことは結構だが、道理を弁えているかどうかと云う点では絀(みおとり)するにしろ訥弁には敵わないし、外見の華やかさは結構だが、中身が充実しているかどうかと云う点では素朴で飾り気がないにしろ樸直さには敵わないし、博識振りは盛んでも、正鵠を得ているかどうかと云う点では要点だけを述べる約言には敵わないのである。この世で全てのものが道義の対象となるが、人として守るべき道理を知ること(知道)こそが基本であり、偉大さの極まったものである;この世で全てが精妙なものだが、心の働きを理解すること(知神)こそが人知を超越したものであり、神妙の極まったものである;この世で道に外れて良いものは無いが、知□之□、正義の道こそその極みなのである。そういう訳で君子は、以上の知道・知神・知□の三つの極致の境地を守ることに専心し、守ることが出来なければ道理に叛かぬように、出来るだけその境地に近づこうと努力するのである。」と。
[参考]
 ・<論語、陽貨>
    「24子貢曰:「君子亦有惡乎?」子曰:「有惡:惡稱人之惡者,惡居下流
      而訕上者,惡勇而無禮者,惡果敢而窒者。」曰:「賜也亦有惡乎?」
      「惡徼以為知者,惡不孫以為勇者,惡訐以為直者。」」
 ・<荀子、不苟>
    「1君子行不貴苟難,說不貴苟察,名不貴苟傳,唯其當之為貴。・・・」
 ・<道家、道德經>
    「45大成若缺,其用不弊。大盈若沖,其用不窮。大直若屈,大巧若
      拙,大辯若訥。躁勝寒靜勝熱。清靜為
      天下正。 」大弁(たいべん)は訥(とつ)なるが若し。(本当に能弁な者
      は口下手に見える。)
5或問守。曰:「聖典而已矣,若夫百家者,是謂無守。莫不為言,要其至矣;莫不為德,玄其奧矣;莫不為道,聖人其弘矣。聖人之道,其中道乎。是為九達。」
[書き下し文]
 ・或るひと守るべきものを問う。曰く、「聖典のみ、若し夫れ百家者は、是れを守ること無しと謂う。莫不為言,要其至矣;莫不為德,玄其奧矣;莫不為道,聖人其弘矣。
言を為さざるは莫く、要(かなめ)は其れ至(きわ)めん;徳を為さざるは莫く、玄(げん)は其れ奥ぶかし;道を為さざるは莫く、聖人は其れを弘む。聖人の道は、其れ中道かな。是れを九達と為す。
[訳文]
 ・或る人が人として守るべきことについて問うて来る。答えるには、「それは聖人の著した典籍だけであるが、多くの学者で、その聖典など守る必要はないと云う人も居る。
誰でも思いを述べる為に言葉を口にするが、肝心な事は最も道理に適った言葉を用いることであり;誰でも立派な徳目を修めようとするが、その不可思議な働きの奥深さを認識する必要があり;人として守るべき道理に従わない者は一人として居ないが、聖人はその立派な道義の普及に努めるものである。聖人が教える道理とは中庸の道のことなのだ。これこそが全てに通じる道理と云うものなのである。
[参考]
 ・<爾雅、釋宮>
    「29路,旅,途也,路,場,猷,行,道也。
     30一達,謂之道路,二達,謂之歧旁,三達,謂之劇旁,四達,謂之
      衢,五達謂之康,六達,謂之莊,七達,謂之劇驂,八達,謂之崇
      期,九達,謂之逵。」
      逵:九つの方向に通じる道。多方に通じる道。
 ・九達:1.谓四通八達。 2.四通八達的道路。
      逵は、〔説文〕に「馗、或ひは辵に从(したが)ひ、坴に从ふ」とある異
      体字。通用する別の字とされる場合が多い。
 ・聖典:聖人が書き残した書物で、儒教では易経・詩経・書経・春秋・禮記・な
      ど
6 或曰:「辭達而已矣。聖人以文其隩也有五:曰玄、曰妙、曰包、曰要、曰文。幽深謂之玄、理微謂之妙、數博謂之包、辭約謂之要、章成謂之文、聖人之文,成此五者,故曰不得已。」
[書き下し文]
 ・或るひとが曰く、「辭は達するのみ。聖人の文を以て其れを隩(ふかめ)るもの五つ有り:曰く玄、曰く妙、曰く包、曰く要、曰く文と。幽深之れを玄と謂い、理微之れを妙と謂い、數博之れを包と謂い、辭約之れを要と謂い、章成之れを文と謂い、聖人の文は、此の五者を成し、故に曰く得ざるのみ」と。
[訳文]
 ・或る人が語るには、「言葉は、相手に自分の意志が伝われば、それだけで十分である。聖人が言葉を使って意志を伝える場合に注意する点が五つある。すなわち、玄と妙と包と要と文がそれである。物静かで奥深いことを玄と云い、高尚で深遠な様相を妙と云い、話の筋道をハッキリさせることを包と云い、言葉を簡略化することを要と云い、言葉を飾ることを文と云い、聖人の言葉はこの五点に注意が注がれており、思いを正しく伝える為には、これも必要なことと云わねばなるまい」と。
[参考]
 ・<論語、衛靈公>
    「41子曰:「辭達而已矣。」」
7君子樂天知命故不憂,審物明辨故不惑,定心致公故不懼。若乃所憂懼則有之,憂己不能成天性也,懼己惑之,憂不能免,天命無惑焉。
[書き下し文]
 ・君子は天を楽しみ命を知る故に憂えず、審物(しんぶつ)明辨(めいべん)なるが故に惑わず、定心(じょうしん)致公故に懼れず。若(いくらか)の所は憂懼(ゆうく)則ち之れ有り、己を憂えることは天性を成すこと能わず、己を懼れることは之れを惑わし、憂いは免れること能わず、天命は惑うこと無からん。
[訳文]
 ・君子は天理の自然に従うことを楽しみ、天命の当然の分に安んじることを知っているので心の中では何の憂いも恐れることもないし、物事を詳しく調べてその道理を確実に弁えるので迷うこともないし、平常心を保って公事に奉仕するので何事にも懼れることはない。幾らかは憂い懼れる處もあるが、憂いを抱くことは本然の善性を見失うことにもなるし、懼れを抱くことは本然の善性を惑わすことにもなるので、憂いを抱くことから免れる事が出来ないとしても、本然の善性を惑わすようなことが有ってはならない。
[参考]
 ・<周易、繫辭上>
    「4易與天地準,故能彌綸天地之道。仰以觀於天文,俯以察於地理,
      是故知幽明之故。原始反終,故知死生之說。精氣為物,遊魂為
      變,是故知鬼神之情狀。與天地相似,故不違。知周乎萬物,而道
      濟天下,故不過。旁行而不流,樂天知命,故不懮。・・・」
[感想]
 ここでは次のような事柄について触れられている。すなわち、
   1保真・三つの徳目・四つの立検手法について解説し、才智について触
    れる
   2聖人と才智についての問答
   3諫言についての受ける立場と進言する立場の違いについての問答
   4知人・自知・知道・知神・知□についての問答
   5聖人が進める聖典の重要性
   6正鵠を得た発言の重要性
   7天理・天命の尊重
 諫言についての問答が見られるが、掘り下げた議論が為されていないのが物足りない。<申鑑>が後漢最後の皇帝であった献帝への上申書としての役目を目論んでいたとしたならば、尚更その思いに強いものがある。また知人・自知の問答に登場する四字熟語の[北轅適楚]の逸話は、果たして的を得た譬え話なのだろうか?
                                                                                
                         (02.03.01)続く
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申鑒-雜言(提言あれこれ)上-③-2

2020-02-01 09:42:26 | 仁の思想

 

申鑒-雜言(提言あれこれ)上-③-2
8
或問:人君人臣之戒。曰:「莫匪戒也。」請問其要。曰:「君戒專欲,臣戒專利。」患之甚矣。(五字缼)城重譯而獻珍,非寶也。腹心之人,匍匐而獻善,寶之至矣。故明王慎內守,除外寇而重內寶。」雲從于龍,風從于虎,鳳儀于韶,麟集于孔,應也。出於此,應於彼,善則祥,祥則福。否則眚,眚則咎,故君子應之。君子食和羹以平其氣,聽和聲以平其志,納和言以平其政,履和行以平其德。夫酸鹹甘苦不同,嘉味以濟謂之和羹、宮商角徵不同,嘉音以章謂之和聲、臧否損益不同,中正以訓謂之和言、趨舍動靜不同,雅度以平謂之和行。人之言曰:「唯其言而莫予違也」,則幾於喪國焉。孔子曰:「君子和而不同。」晏子亦云:「以水濟水,誰能食之。琴瑟一聲,誰能聽之。」《詩》云:「亦有和羹,既戒且平。奏假無言,時靡有爭。」此之謂也。

[書き下し文]
 ・或るひとが問うに、「人君・人臣の戒めとは?」と。曰く、「戒めに匪(あら)ざる莫(な)きなり」と。請うて其の要(かなめ)を問う。曰く、「君は專欲を戒め、臣は專利を戒める」と。患うこと之れ甚だしきかな。・・・城重譯而して珍しきを獻ずるは、寳に非ざるなり。腹心の友が、匍匐し而して善を献(すす)めるは、寳の至りかな。故に明王は內守を慎み、寇(あだ)するものを除外し而して內寶を重ねる。雲は龍に従い、風は虎に従い、鳳(おおとり)は韶(しょう)に儀(のっと)り、麟(きりん)は孔(子)に集い、應(こた)えるなり。此れに出で、彼(そ)れに応える、善きこと則ち祥(さいわ)い、祥い則ち福(しあわせ)。否(しか)らざるは則ち眚(わざわい)、眚は則ち咎(とが)め、故に君子は之れに応える。君子は和羹(わこう)を食し以て其の気を平らにし、和聲を聴き以て其の志を平らにし、和言を納めて以て其の政(まつりごと)を平らにし、和行を履(おこな)い以て其の徳を平らにす。夫れ酸鹹甘苦(さんかんかんく)は同じからず、嘉(よ)き味は濟(ととの)えることを以てし之れ和羹と謂い、宮商角徵(きゅう・しょう・かく・ち)は同じからず、嘉き音は章(まと)めることを以てし之れ和聲と謂い、臧否(ぞうひ)損益は同じからず、中正は訓(みち)びくことを以てし之れ和言と謂い、趨舍(すうしゃ)動靜は同じからず、雅度は平(たいら)かなることを以てし之れ和行と謂う。人の言に曰く、「唯だ其の言に而して予(わ)れに違うこと莫(な)きなり」と、則ち喪國に幾(ちか)し。孔子が曰く、「君子は和し而して同ぜず」と。晏子が亦た曰く、「水を以て水を濟えるも、誰か能く之れを食らわず。琴瑟(きんしつ)の一聲なるも、誰か能く之れを聴かん」と。<詩(經)>に云う、「亦た和羹(わこう)有り、既に戒(そな)わり且つ平(たい)らぐ。奏假(そうかく)して言無く、時(こ)れ争うこと有る靡(な)し。」と。此れを之れ謂うなり。
[訳文]
 ・或る人が、君主と臣下の戒めるべき点について尋ねてくる。そこで答えるには、「戒めること意外何物でもない」と。その要点は何かと更に尋ねてくる。それは、「君主は専横私欲に走らぬ事であり、臣下は私利私欲に走らぬ事である」と再度答える。その乱倫振りは目に余るものがある。・・・城に譯を重ねて珍宝なる物を献上したとしても、そんな物には何の価値もありはしないのだ。絶対の信頼を置く友人が誠心誠意善行を奨める行為は何物にも代えがたいものがある。そこで聡明な徳の高い君主は自身の品行を慎み、害する者は遠ざけて修養を重ねて能力向上を図るのである。龍がうなれば雲が湧き虎が吠えれば風が吹いて気質を同じくする者が互いに引き合い、鳳凰は舜帝の作成した韶舞を見習って群舞して人々は威儀を整え、麒麟は孔子を慕って群がり集い、天下太平の世の出現に感応する。この様に感応し出現したと云う事は、善いことであり幸いなことであり幸せなことである。そうでなければ災いとなり過ちとなるので、君子はそうならぬように努力するのである。君子は味を能く整えた吸い物を食して自身の気力を整え、語調の穏やかな話し声を聞いて自身の志気を整え、語調の和やかな話し言葉を聴いて自身の行う治政を整え、穏やかに行動して自身の徳行を整えるものである。そもそも酸っぱさ・塩辛さ・甘さ・苦さは同じ味ではないが、美味しい味とはこれらを調合することによって出来上がるものでこれが和羹と云うものであり、宮(唇音)・商(歯音)・角(牙音)・徴(舌音)は同じ音ではないが、心地よい音とはこれらを程よく纏めることによって出来上がるものでこれが和聲と云うものであり、善事・悪事・損失・利益は人にとって異なる出来事だが、片寄らず中正を保つことによって世の中の平和が保たれるものでこれが和言と云うものであり、前進・後退・動作・静止は人の振る舞いとして異なるものだが、奥ゆかしい態度に裏打ちされることによって自身の徳行が整うものでこれが和行と云うものである。誰かの言葉に、「ただ、私の言った言葉に誰独り逆らわない」とあるが、この言葉は国を亡ぼすと云う事に近いものである。孔子は<論語、子路>の中で、「君子は人と同調するが、付和雷同するようなことはない」と云っている。晏子もまた、「水に水を加えて料理したとしても、誰もこれを旨いと云って食べはしまい。琴と瑟がそれぞれ一本調子の音を奏でても、そんなものは誰も上手いと云って聴きはしまい」と云っている。<詩経、商頌、烈祖>の中にも、「また旨いス-プも出来上がり、既に準備も整って祭場も静まりかえりました。大勢の人が集まり、仲良く争うこともなく静寂に満ち満ちている」とあります。これらはこのことを云っているのである。
[参考]
 ・<史記、三王世家>
    「6・・・百蠻之君,靡不鄉風,承流稱意。遠方殊俗,重譯而朝,澤及方
            外。故珍獸至,嘉穀興,天應甚彰。・・・」

 ・<史記、伯夷列傳>
    「7「君子疾沒世而名不稱焉。」賈子曰:「貪夫徇財,烈士徇名,夸者死
            權,眾庶馮生。」「同明相照,同類相求。」雲從龍,風從虎,聖人作而
            萬物睹。」伯夷、叔齊雖賢,得夫子而名益彰。顏淵雖篤學,附驥尾而
            行益顯。巖穴之士,趣舍有時若此,類名堙滅而不稱,悲夫!閭巷之
            人,欲砥行立名者,非附青雲之士,惡能施于後世哉?」

 ・<尚書、虞書、益稷>
    「5夔曰:「戛擊鳴球、搏拊、琴、瑟、以詠。」祖考來格,虞賓在位,群后
            德讓。下管鼗鼓,合止柷敔,笙鏞以閒。鳥獸蹌蹌;《簫韶》九成,鳳皇
            來儀。夔曰:「於!予擊石拊石,百獸率舞,庶尹允諧。」 」

 ・<孔子聖跡圖、三、麟吐玉書>
    「后人为孔子编纂的灵异故事,说孔子降生的前一天傍晚,有麒麟降
            临孔府阙里人家,并吐玉书,上面写有“水精之子孙,衰周而素王,
            徵在贤明。”意在告知众人:孔子不是一个凡人,虽未居帝王之位,却
            有帝王之德,堪称“素王”。」

 ・<春秋左傳、哀公十四年>
    「2十四年,春,西狩于大野,叔孫氏之車子鉏商獲麟,以為不祥,以賜
            虞人,仲尼觀之,曰,麟也,然後取之。」

 ・<論語、子路>
    「15定公問:「一言而可以興邦,有諸?」孔子對曰:「言不可以若是其
            幾也。人之言曰:『為君難,為臣不易。』如知為君之難也,不幾乎一
            言而興邦乎?」曰:「一言而喪邦,有諸?」孔子對曰:「言不可以若是
            其幾也。人之言曰:『予無樂乎為君,唯其言而莫予違也。』如其善而
            莫之違也,不亦善乎?如不善而莫之違也,不幾乎一言而喪邦
            乎?」」

 ・<論語、子路>
    「23子曰:「君子和而不同,小人同而不和。」 」
 ・<春秋左傳、昭公二十年>
    「2・・・公曰,唯據與我和夫,晏子對曰,據亦同也,焉得為和,公曰,和
            與同異乎,對曰異,和如羹焉,水火醯醢鹽梅,以烹魚肉,燀之以
            薪,宰夫和之,齊之以味,濟其不及,以洩其過,君子食之,以平其
            心,君臣亦然,君所謂可,而有否焉,臣獻其否,以成其可,君所謂
            否,而有可焉,臣獻其可,以去其否,是以政平而不干民無爭心,故
            詩曰,亦有和羹,既戒既平,鬷假無言,時靡有爭,先王之濟五味(辛
            酸鹹甘苦),和五聲(宮商角徵羽)也,以平其心,成其政也,聲亦如
            味,一氣,二體,三類,四物,五聲,六律,七音,八風,九歌,以相成
            也,清濁大小,長短疾徐,哀樂剛柔,遲速高下,出入周疏,以相濟
            也,君子聽之,以平其心,心平德和,故詩曰,德音不瑕,今據不然,
            君所謂可,據亦曰可,君所謂否,據亦曰否,若以水濟水,誰能食
            之,若琴瑟之專壹,誰能聽之,同之不可也如是、・・・」

 ・<詩經、商頌、烈祖>
    「1嗟嗟烈祖、有秩斯祜。申錫無疆、及爾斯所。既載清酤、賚我思成。
     亦有和羹、既戒既平。鬷假無言、時靡有爭。綏我眉壽、黃耇無疆。
     約軧錯衡、八鸞鶬鶬。以假以享、我受命溥將。自天降康、豐年穰
            穰。
來假來饗、降福無疆。顧予烝嘗、湯孫之將。」
[感想] 
 ここでは、
   ⑦意思を強く持つこと・忠臣と諛臣について
   ⑧君主と臣下の戒めるべき事項や和羹・和聲・和言・和行の大切さにつ
           いて
触れられている。17の史実が紹介されているが、これらを掘り下げてみるのも面白い。
                                              (02.02.01、雜言上終わり)続く

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申鑒-雜言(提言あれこれ)上-③

2020-02-01 09:37:25 | 仁の思想

申鑒-雜言(提言あれこれ)上-③
7或問厲志。曰:「若殷高宗能葺其德,藥瞑眩以瘳疾、衛武箴戒於朝、勾踐懸膽於坐,厲矣哉。」寵妻愛妾,幸矣、其為災也,深矣。「災與幸,同乎?」曰:「得則慶,否則災。戚氏不幸不人豕,趙昭儀不幸不失命,栗姬不幸不廢,鉤弋不幸不憂殤,非災而何?若慎夫人之知,班婕妤之賢,明德皇后之德,邵矣哉!」為世憂樂者,君子之志也。不為世憂樂者,小人之志也。太平之世,事閑而民樂徧焉。使遽者揖讓百拜,非禮也。憂者弦歌鼓瑟,非樂也。禮者,敬而已矣。樂者,和而已矣。匹夫匹婦,處畎畝之中,必禮樂存焉爾。
違上順道,謂之忠臣、違道順上,謂之諛臣。忠所以為上也,諛所以自為也、忠臣安於心,諛臣安於身。故在上者,必察乎違順,審乎所為,慎乎所安。廣川王弗察,故殺其臣、楚恭王察之而遲,故有遺言、齊宣王其察之矣,故賞諫者。
[書き下し文]
 ・或るひとが厲志(れいし)について問う。答えるには、「殷の高宗が能く其の徳を葺(つくろ)うが若く、薬瞑眩(めんげん)し以て疾を瘳(い)やし、衛の武(公)が朝に箴戒(しんかい)し、勾踐は膽(きも)を坐に懸(つる)す、厲(きび)しきことかな」と。妻を寵(いつく)しみ妾を愛するは、幸いなるかな、其れ災いと為るや、深(むご)し。「災いも幸いも、同じことか?」。曰く、「得られれば則ち慶、否であれば則ち災いなり。戚氏(せきし)は不幸にして不人豕、趙昭儀(ちょうしょうぎ)は不幸にして不失命、栗姬(りつき)は不幸にして不廢、鉤弋(くよく)は不幸にして不憂殤幸、災いに非ざるとは如何に?慎夫人の知、班婕妤(はんしょうよ)の賢、明德皇后の德の若きは、邵(たか)きかな!」と。世の為に憂い楽しむは、君子の志しなり。世の為に憂い楽しまざるは、小人の志しなり。太平の世は、事は閑にして而して民の楽しみは徧(あまね)し。使(し)遽(にわ)かなる者の揖讓百拜(ゆうじょうひゃくはい)は、禮に非ざるなり。憂いし者の弦歌鼓瑟(げんかこしつ)は、楽しみに非ざるなり。禮は、敬(つつ)しむのみ。楽しみは、和するのみ。匹夫匹婦は、畎畝(けんぼ)の中に處(お)り、必ずや禮楽在るのみ。上に違(さから)い道に順(したが)うは、之れ忠臣と謂い、道に違い上に順うは、之れ諛臣(ゆしん)と謂う。忠する所以は上を為(たす)けるなり、諛する所以は自ら為すなり、忠臣は心を安んじ、諛臣は身を安んじる。故に上に在る者は、必ず違順を察し、所為(ふるまい)を審らかにし、安んじる所を慎む。廣川(ひろかわ)王は察せず、故に其の臣を殺し、楚の恭王は之れを察し而して遲れ、故に遺言を有(たも)ち、齊の宣王は其れ之れを察し、故に諫者を賞す。
[訳文]
 ・或る人が意思の鍛練につて問い掛けてくる。答えるには、「殷朝の中興の祖、武丁が徳義を積み重ねたように、病気を治す薬にしても目眩するぐらいの強い作用が無くては効果は期待出来ないし、衛の武公は常に教え諭すことを怠らず、越王勾践は寝起きする度に苦い肝を舐めて復讐を誓ったと云うが、意思を鍛え続けると云う事は誠に厳しいものがある」と。妻を慈しみ妾を愛することは幸せなことだが、それが災いとなればこれほど酷いことは無い。そこで、「災いと幸せとは、紙一重と云う事か?」と聞いてくる。そこで答えるには、「妻を慈しみ妾を愛することが同時に出来れば喜ばしいことだが、出来ないと云うことになればそれは悲劇である。戚氏は幸せな生涯を全うすることは出来なかったが、かと云って人豕と蔑まれるほどの生き方をした訳ではなく、趙昭儀は幸せな生涯を全うすることは出来なかったが、かと云って命を失わずに済んだし、栗姬は幸せな生涯を全うすることは出来なかったが、かと云って実子の皇太子、劉栄が廃嫡させられるほどの不行跡を働いた訳ではなく、鉤弋は幸せな生涯を全うすることは出来なかったが、かと云って16歳の若さで殺害されるほどの過失など全くなく、これらは災いで無ければ何だというのだ?孝文帝の寵妃であった慎夫人の知恵、漢の女官で成帝の寵愛を得た賢明で詩歌にすぐれた班婕妤の賢才、後漢の第2代明帝の皇后で屈指の賢夫人と云われた明德皇后の人徳などは、皆な勝れたものであった事を思い出すのだが!」と。世の中の為に憂いまた楽しむことは、君子の目指す處である。そうしないのが小人の目指す處である。世の中が落ち着いていると全てが平穏無事なので、人々の楽しみは尽きる所を知らない。使いの者が狼狽えながら両手を胸の前で組み合わせてペコペコとお辞儀する様子は、礼儀に適ったものではない。愁いに沈んだ者が楽器を奏でながら歌ったりしても、それは心から楽しんでいるのではない。礼節というものは、慎みが肝心である。楽しみと云うものは、和むことが大切なのである。平凡な男女は、民間の中でひっそりと暮らし乍ら、礼節を重んじ雅楽を楽しむことに喜びを見出しているのである。君主を諫め道義を守るのが忠臣であり、道義に逆らい君主の言いなりになるのが諛臣である。忠義を尽くすのは君主が正しい政治を行う上での手助けをするものであり、媚び諂うのは自らの保身の為であり、忠臣は心の状態を正しく保つ事に努め、諛臣は身の地位や名誉を保つ事に努める。だから人の上に立つ者は必ずその違順を洞察し、身の処し方を明らかにし、慎重に治政に務めなければならない。廣川王は違順を洞察出来なかった為に臣下を見殺しにしたし、楚の恭王は違順を洞察する事は出来たが遅きに失して遺言だけを遺す羽目になり、齊の宣王は違順を洞察して諫臣を褒賞することが出来たのである。
[参考]
 ・<孟子、滕文公上>
    「1滕文公為世子,將之楚,過宋而見孟子。孟子道性善,言必稱堯
              舜。
世子自楚反,復見孟子。孟子曰:「世子疑吾言乎?夫道一而已
              矣。成覸謂齊景公曰:『彼丈夫也,我丈夫也,吾何畏彼哉?』顏淵
              曰:『舜何人也?予何人也?有為者亦若是。』公明儀曰:『文王我師
              也,周公豈欺我哉?』今滕,絕長補短,將五十里也,猶可以為善
              國。《書》曰:『若藥不瞑眩,厥疾不瘳。』」

 ・<史記 、殷本紀>
    「23帝小乙崩,子帝武丁立。帝武丁即位,思復興殷,而未得其佐。三
              年不言,政事決定於冢宰,以觀國風。武丁夜夢得聖人,名曰說。以
              夢所見視群臣百吏,皆非也。於是乃使百工營求之野,得說於傅險
              中。是時說為胥靡,筑於傅險。見於武丁,武丁曰是也。得而與之
              語,果聖人,舉以為相,殷國大治。故遂以傅險姓之,號曰傅說。

     24帝武丁祭成湯,明日,有飛雉登鼎耳而呴,武丁懼。祖己曰:「王勿
              憂,先修政事。」祖己乃訓王曰:「唯天監下典厥義,降年有永有不
              永,非天夭民,中絕其命。民有不若德,不聽罪,天既附命正厥德,
              乃曰其奈何。鳴呼!王嗣敬民,罔非天繼,常祀毋禮于棄道。」武丁
              修政行德,天下咸驩,殷道復興。」

 ・<史記、衛康叔世家>
    「9武公即位,修康叔之政,百姓和集。四十二年,犬戎殺周幽王,武公
              將兵往佐周平戎,甚有功,周平王命武公為公。五十五年,卒,子莊
              公揚立。」

 ・<史記、呂太后本紀>
    「4呂后最怨戚夫人及其子趙王,乃令永巷囚戚夫人,而召趙王。使者
              三反,趙相建平侯周昌謂使者曰:「高帝屬臣趙王,趙王年少。竊聞
              太后怨戚夫人,欲召趙王并誅之,臣不敢遣王。王且亦病,不能奉
              詔。」呂后大怒,乃使人召趙相。趙相徵至長安,乃使人復召趙王。
              王來,未到。孝惠帝慈仁,知太后怒,自迎趙王霸上,與入宮,自挾
              與趙王起居飲食。太后欲殺之,不得閒。孝惠元年十二月,帝晨出
              射。趙王少,不能蚤起。太后聞其獨居,使人持酖飲之。犁明,孝惠
              還,趙王已死。於是乃徙淮陽王友為趙王。夏,詔賜酈侯父追謚為
              令武侯。太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲瘖藥,使居廁中,命
              曰「人彘」。居數日,乃召孝惠帝觀人彘。孝惠見,問,乃知其戚夫
              人,乃大哭,因病,歲餘不能起。使人請太后曰:「此所為。臣為
              太后子,終不能治天下。」孝惠以此日飲為淫樂,不聽政,故有病
              也。」

 ・<漢書、外戚傳下>
    「21孝成趙皇后,本長安宮人。初生時,父母不舉,三日不死,乃收養
              之。及壯,屬陽阿主家,學歌舞,號曰飛燕。成帝嘗微行出,過陽阿
              主,作樂。上見飛燕而說之,召入宮,大幸。有女弟復召入,俱為婕
              妤,貴傾後宮。

     22許后之廢也,上欲立趙婕妤。皇太后嫌其所出微甚,難之。太后姊
              子淳于長為侍中,數往來傳語,得太后指,上立封趙婕妤父臨為成
              陽侯。後月餘,乃立婕妤為皇后。追以長前白罷昌陵功,封為定陵
              侯。

     23皇后既立,後寵少衰,而弟絕幸,為昭儀。居昭陽舍,其中庭彤
              朱,而殿上觋漆,切皆銅沓冒黃金塗,白玉階,壁帶往往為黃金釭,
              函藍田璧,明珠、翠羽飾之,自後宮未嘗有焉。姊弟顓寵十餘年,卒
              皆無子。

     24末年,定陶王來朝,王祖母傅太后私賂遺趙皇后、昭儀,定陶王竟
              為太子。

     25明年春,成帝崩。帝素彊,無疾病。是時楚思王衍、梁王立來朝,
              明旦當辭去,上宿供張白虎殿。又欲拜左將軍孔光為丞相,已刻侯
              印書贊。昏夜平善,鄉晨,傅恊拦欲起,因失衣,不能言,晝漏上十
              刻而崩。民間歸罪趙昭儀,皇太后詔大司馬莽、丞相大司空曰:「皇
              帝暴崩,群眾讙譁怪之。掖庭令輔等在後庭左右,侍燕迫近,雜與
              御史、丞相、廷尉治問皇帝起居發病狀。」趙昭儀自殺。」

 ・<史記、外戚世家>
    「21景帝長男榮,其母栗姬。栗姬,齊人也。立榮為太子。長公主嫖有
              女,欲予為妃。栗姬妒,而景帝諸美人皆因長公主見景帝,得貴幸,
              皆過栗姬,栗姬日怨怒,謝長公主,不許。長公主欲予王夫人,王夫
              人許之。長公主怒,而日讒栗姬短於景帝曰:「栗姬與諸貴夫人幸姬
              會,常使侍者祝唾其背,挾邪媚道。」景帝以故望之。

     22景帝嘗體不安,心不樂,屬諸子為王者於栗姬,曰:「百歲後,善視
              之。」栗姬怒,不肯應,言不遜。景帝恚,心嗛之而未發也。

     23長公主日譽王夫人男之美,景帝亦賢之,又有曩者所夢日符,計
              未有所定。王夫人知帝望栗姬,因怒未解,陰使人趣大臣立栗姬為
              皇后。大行奏事畢,曰:「『子以母貴,母以子貴』,今太子母無號,宜
              立為皇后。」景帝怒曰:「是而所宜言邪!」遂案誅大行,而廢太子為
              臨江王。栗姬愈恚恨,不得見,以憂死。卒立王夫人為皇后,其男為
              太子,封皇后兄信為蓋侯。」

 ・<漢書、外戚傳>
    「40孝武鉤弋趙婕妤,昭帝母也,家在河間。武帝巡狩過河間,望氣者
              言此有奇女,天子亟使使召之。既至,女兩手皆拳,上自披之,手即
              時伸。由是得幸,號曰拳夫人。先是其父坐法宮刑,為中黃門,死長
              安,葬雍門。

     41拳夫人進為婕妤,居鉤弋宮,大有寵,元始三年生昭帝,號鉤弋
              子。任身十四月乃生,上曰:「聞昔堯十四月而生,今鉤弋亦然。」乃
              命其所生門曰堯母門。後衛太子敗,而燕王旦、廣陵王胥多過失,
              寵姬王夫人男齊懷王、李夫人男昌邑哀王皆蚤薨,鉤弋子年五六
              歲,壯大多知,上常言「類我」,又感其生與眾異,甚奇愛之,心欲立
              焉,以其年稚母少,恐女主顓恣亂國家,猶與久之。

     42鉤弋婕妤從幸甘泉,有過見譴,以憂死,因葬雲陽。後上疾病,乃
              立鉤弋子為皇太子。拜奉車都尉霍光為大司馬大將軍,輔少主。明
              日,帝崩。昭帝即位,追尊鉤弋婕妤為皇太后,發卒二萬人起雲陵,
              邑三千戶。追尊外祖趙父為順成侯,詔右扶風置園邑二百家,長丞
              奉守如法。順成侯有姊君姁,賜錢二百萬,第宅以充實焉。諸
              昆弟各以親疏受賞賜。趙氏無在位者,唯趙父追封。」

 ・<漢書、外戚傳下>
    「14孝成班婕妤,帝初即位選入後宮。始為少使,蛾而大幸,為婕妤,
              居增成舍,再就館,有男,數月失之。成帝遊於後庭,嘗欲與婕妤同
              輦載,婕妤辭曰:「觀古圖畫,賢聖之君皆有名臣在側,三代末主乃
              有嬖女,今欲同輦,得無近似之乎?」上善其言而止。太后聞之,喜
              曰:「古有樊姬,今有班婕妤。」婕妤誦詩及窈窕、德象、女師之篇。
              每進見上疏,依則古禮。

     15自鴻嘉後,上稍隆於內寵。婕妤進侍者李平,平得幸,立為婕妤。
              上曰:「始衛皇后亦從微起。」乃賜平姓曰衛,所謂衛婕妤也。其後
              趙飛燕姊弟亦從自微賤興,踰越禮制,寖盛於前。班婕妤及許皇后
              皆失寵,稀復進見。鴻嘉三年,趙飛燕譖告許皇后、班婕妤挾媚道,
              祝詛後宮,詈及主上。許皇后坐廢。考問班婕妤,婕妤對曰:「妾聞
              『死生有命,富貴在天。』修正尚未蒙福,為邪欲以何望?使鬼神有
              知,不受不臣之愬;如其無知,愬之何益?故不為也。」上善其對,
              憐憫之,賜黃金百斤。

     16趙氏姊弟驕妒,婕妤恐久見危,求共養太后長信宮,上許焉。婕妤
              退處東宮,作賦自傷悼,其辭曰:」

 ・<後漢書、皇后紀上>
    「16明德馬皇后諱某,伏波將軍援之小女也。少喪父母。兄客卿敏惠
              早夭,母藺夫人悲傷發疾慌惚。后時年十歲,幹理家事,敕制僮御,
              內外諮稟,事同成人。初,諸家莫知者,後聞之,咸歎異焉。后嘗久
              疾,太夫人令筮之,筮者曰:「此女雖有患狀而當大貴,兆不可言
              也。」後又呼相者使占諸女,見后,大驚曰:「我必為此女稱臣。然貴
              而少子,若養它子者得力,乃當踰於所生。」

     17初,援征五溪蠻,卒於師,虎賁中郎將梁松、黃門侍郎竇固等因譖
              之,由是家益失埶,又數為權貴所侵侮。后從兄嚴不勝憂憤,白太
              夫人絕竇氏婚,求進女掖庭。乃上書曰:「臣叔父援孤恩不報,而妻
              子特獲恩全,戴仰陛下,為天為父。人情既得不死,便欲求福。竊聞
              太子、諸王妃匹未備,援有三女,大者十五,次者十四,小者十三,
              儀狀髮膚,上中以上。皆孝順小心,婉靜有禮。願下相工,簡其可
              否。如有萬一,援不朽於黃泉矣。又援姑姊妹並為成帝婕妤。葬於
              延陵。臣嚴幸得蒙恩更生,冀因緣先姑,當充後宮。」由是選后入太
              子宮。時年十三。奉承陰后,傍接同列,禮則脩備,上下安之。遂見
              寵異,常居後堂。

     18顯宗即位,以后為貴人。時后前母姊女賈氏亦以選入,生肅宗。帝
              以后無子,命令養之。謂曰:「人未必當自生子,但患愛養不至耳。」
              后於是盡心撫育,勞悴過於所生。肅宗亦孝性淳篤,恩性天至,母
              子慈愛,始終無纖介之閒。后常以皇嗣未廣,每懷憂歎,薦達左右,
              若恐不及。後宮有進見者,每加慰納。若數所寵引,輒增隆遇。永平
              三年春,有司奏立長秋宮,帝未有所言。皇太后曰:「馬貴人德冠後
              宮,即其人也。」遂立為皇后。

     19先是數日,夢有小飛蟲無數赴著身,又入皮膚中而復飛出。既正
              位宮闈,愈自謙肅。身長七尺二寸,方口,美髮。能誦易,好讀春
              秋、楚辭,尤善周官、董仲舒書。常衣大練,裙不加緣。朔望諸姬主
              朝請,望見后袍衣疏麤,反以為綺縠,就視,乃笑。后辭曰:「此繒特
              宜染色,故用之耳。」六宮莫不歎息。帝嘗幸苑囿離宮,后輒以風邪
              露霧為戒,辭意款備,多見詳擇。帝幸濯龍中,並召諸才人,下邳王
              已下皆在側,請呼皇后。帝笑曰:「是家志不好樂,雖來無歡。」是以
              遊娛之事希嘗從焉。

     20十五年,帝案地圖,將封皇子,悉半諸國。后見而言曰:「諸子裁食
              數縣,於制不已儉乎?」帝曰:「我子豈宜與先帝子等乎?歲給二千
              萬足矣。」時楚獄連年不斷,囚相證引,坐繫者甚眾。后慮其多濫,
              乘閒言及,惻然。帝感悟之,夜起仿偟,為思所納,卒多有所降宥。
              時諸將奏事及公卿較議難平者,帝數以試后。后輒分解趣理,各得
              其情。每於侍執之際,輒言及政事,多所毗補,而未嘗以家私干。欲
              寵敬日隆,始終無衰。

     21及帝崩,肅宗即位,尊后曰皇太后。諸貴人當徙居南宮,太后感析
              別之懷,各賜王赤綬,加安車駟馬,白越三千端,雜帛二千匹,黃金
              十斤。自撰顯宗起居注,削去兄防參醫藥事。帝請曰:「黃門舅旦夕
              供養且一年,即無褒異,又不錄勤勞,無乃過乎!」太后曰:「吾不
              欲令後世聞先帝數親後宮之家,故不著也。」

     22建初元年,欲封爵諸舅,太后不聽。明年夏,大旱,言事者以為不
              封外戚之故,有司因此上奏,宜依舊典。太后詔曰:「凡言事者皆欲
              媚朕以要福耳。昔王氏五侯同日俱封,其時黃霧四塞,不聞澍雨之
              應。又田蚡、竇嬰,寵貴橫恣,傾覆之禍,為世所傳。故先帝防慎舅
              氏,不令在樞機之位。諸子之封,裁令半楚、淮陽諸國,常謂『我子
              不當與先帝子等』。今有司柰何欲以馬氏比陰氏乎!吾為天下母,
              而身服大練,食不求甘,左右但著帛布,無香薰之飾者,欲身率下
              也。以為外親見之,當傷心自敕,但笑言太后素好儉。前過濯龍門
              上,見外家問起居者,車如流水,馬如游龍,倉頭衣綠恳,領袖正
              白,顧視御者,不及遠矣。故不加譴怒,但絕歲用而已,冀以默愧其
              心,而猶懈怠,無憂國忘家之慮。知臣莫若君,況親屬乎?吾豈可
              上負先帝之旨,下虧先人之德,重襲西京敗亡之禍哉!」固不許。

     23帝省詔悲歎,復重請曰:「漢興,舅氏之封侯,猶皇子之為王也。太
              后誠存謙虛,柰何令臣獨不加恩三舅乎?且衛尉年尊,兩校尉有大
              病,如令不諱,使臣長抱刻骨之恨。宜及吉時,不可稽留。」

     24太后報曰:「吾反覆念之,思令兩善。豈徒欲獲謙讓之名,而使帝
              受不外施之嫌哉!昔竇太后欲封王皇后之兄,丞相條侯言受高祖
              約,無軍功,非劉氏不侯。今馬氏無功於國,豈得與陰、郭中興之后
              等邪?常觀富貴之家,祿位重疊,猶再實之木,其根必傷。且人所
              以願封侯者,欲上奉祭祀,下求溫飽耳。今祭祀則受四方之珍,衣
              食則蒙御府餘資,斯豈不足,而必當得一縣乎?吾計之孰矣,勿有
              疑也。夫至孝之行,安親為上。今數遭變異,穀價數倍,憂惶晝夜,
              不安坐臥,而欲先營外封,違慈母之拳拳乎!吾素剛急,有匈中
              氣,不可不順也。若陰陽調和,邊境清靜,然後行子之志。吾但當含
              飴弄孫,不能復關政矣。」

     25時新平主家御者失火,延及北閣後殿。太后以為己過,起居不歡。
              時當謁原陵,自引守備不慎,慚見陵園,遂不行。初,太夫人葬,起
              墳微高,太后以為言,兄廖等即時減削。其外親有謙素義行者,輒
              假借溫言,賞以財位。如有纖介,則先見嚴恪之色,然後加譴。其美
              車服不軌法度者,便絕屬籍,遣歸田里。廣平、鉅鹿、樂成王車騎朴
              素,無金銀之飾,帝以白太后,太后即賜錢各五百萬。於是內外從
              化,被服如一,諸家惶恐,倍於永平時。乃置織室,蠶於濯龍中,數
              往觀視,以為娛樂。常與帝旦夕言道政事,及教授諸小王,論議經
              書,述敘平生,雍和終日。

     26四年,天下豐稔,方垂無事,帝遂封三舅廖、防、光為列侯。並辭
              讓,願就關內侯。太后聞之,曰:「聖人設教,各有其方,知人情性莫
              能齊也。吾少壯時,但慕竹帛,志不顧命。今雖已老,而復『戒之在
              得』,故日夜惕厲,思自降損。居不求安,食不念飽。冀乘此道,不
              負先帝。所以化導兄弟,共同斯志,欲令瞑目之日,無所復恨。何意
              老志復不從哉?萬年之日長恨矣!」廖等不得已,受封爵而退位歸
              第焉。

     27太后其年寢疾,不信巫祝小醫,數敕絕禱祀。至六月,崩。在位二
              十三年,年四十餘。合葬顯節陵。」

 ・<揚子法言、孝至卷第十三>
    「17吾聞諸傳,老則戒之在得。年彌高而德彌邵者,是孔子之徒與?」
                                                                             (02.02.01)続く

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申鑒-雜言(提言あれこれ)上-②

2020-01-01 10:08:59 | 仁の思想

申鑒-雜言(提言あれこれ)上-②
5或曰:「在上有屈乎?」曰:「在上者以義申,以義屈。高祖雖能申威於秦、項,而屈於商山四公;光武能申於莽,而屈於強項令;明帝能申令於天下,而屈於鍾離尚書。若秦二世之申欲,而非笑唐虞,若定陶傅太后之申意,而怨於鄭,是謂不屈;不然,則趙氏不亡,而秦無愆尤。故人主以義申,以義屈也。喜如春陽,怒如秋霜,威如雷霆之震,惠若雨露之降,沛然孰能禦也。」
[書き下し文]
 ・或るひと曰く、「上に在るものは屈すること有りや?」と。曰く、「上に在る者は義を以て申し、義を以て屈する。高祖(劉邦)は秦や項(羽)に能く威(ちから)を申すと雖も、而るに商山四公(しょうざんしこう)に屈し、光武は能く莽に申し、而るに強項(きょうこう)令に屈し、明帝(曹叡)は能く天下に令を申し、而るに鍾離(鍾離意)尚書に屈す。秦の二世(胡亥)の申欲し、而して唐虞を非笑する若(ごと)き、定陶の傅太后(ふたいこう)の申意し、而して鄭(てい)を怨むが若きは、是れを不屈と謂い、然らざれば、則ち趙氏(ちょうし)は亡びず、而して秦は愆尤(けんゆう)すること無し。故に人主は義を以て申し、義を以て屈するなり。春陽の如く喜び、秋霜の如く怒り、雷霆(らいてい)の震(かみなり)の如く威(おど)かし、雨露の降るが若く恵み、沛然として孰(たれ)か能く禦(とど)めん」と。
[訳文]
 或る人が問い掛けるには、「君主が臣下に対して己の意向を曲げることがあるのだろうか?」と。答えるには、「真ともな君主であれば道義に基づいて己の意思を表現するし、道義に基づく進言であれば己の意思を引っ込めるものである。漢の高祖、劉邦は秦国や楚の項羽に対しては己の威光を示したが、隠者の商山四公には頭が上がらなかったし、後漢王朝の初代光武帝は新朝の権力者の王莽に能く進言したが、剛直一本気で光武帝に彊項長官と称させた洛陽県令の董宣には頭が上がらなかったし、後漢の第2代明帝は精力的に政令を頻発したが、穢れた宝の分配に反対した洛陽尚書の鍾離意の進言には大いに耳を傾けたものである。例えば秦王朝の二世の胡亥が欲望をほしいままにして唐虞の善政の世を嘲笑ったことや、例えば前漢王朝の第十三代の哀帝の祖母である定陶傅太后(傅昭儀)が帝位獲得に奔走した上に鄭を怨んだことは、我意を通すと云う事であり、さもなければ前漢王朝の第十二代の成帝の寵姫の趙飛燕・合徳姉妹も自殺に追い込まれることも無かったろうし、秦王朝も過ちを犯す事もなかったであろう。だからこそ真ともな君主であれば道義に基づいて己の意思を表現するし、道義に基づく進言であれば己の意思を引っ込めるものである。暖かい春の陽光を浴びたように歓喜し、秋の冷たい霜に出会したように憤怒し、雷のような大声を張り上げて威嚇し、雨露が注ぐように大いなる恩恵を施せば、降り注ぐようにその勢いは誰も止めることが出来ないだろう」と。
[参考]
   ・<高士傳、卷中、四皓>
            「1四皓者,皆河內軹人也,或在汲。一曰東園公,二曰角里先生,三曰綺里季,四日夏黃公,皆
               修道潔已,非義不動。秦始皇時,見秦政虐,乃退入藍田山,而作歌曰:「莫莫高山,深谷逶
               迤。曄曄紫芝,可以療飢。唐虞世遠,吾將何歸?駟馬高蓋,其憂甚大。富貴之畏人,不如貧
               賤之肆志。」乃共入商雒,隱地肺山,以待天下定。及秦敗,漢高聞而徵之,不至,深自匿終南
               山,不能屈已。」
    ・<後漢書、列傳、酷吏列傳>
         「5後特徵為洛陽令。時湖陽公主蒼頭白日殺人,因匿主家,吏不能得。及主出行,而以奴驂
               乘,宣於夏門亭候之,乃駐車叩馬,以刀畫地,大言數主之失,叱奴下車,因格殺之。主即還
               宮訴帝,帝大怒,召宣,欲箠殺之。宣叩頭曰:「願乞一言而死。」帝曰:「欲何言?」宣曰:「陛
               下聖德中興,而縱奴殺良人,將何以理天下乎?臣不須箠,請得自殺。」即以頭擊楹,流血被
               面。帝令小黃門持之,使宣叩頭謝主,宣不從,彊使頓之,宣兩手據地,終不肯俯。主曰:「文
               叔為白衣時,臧亡匿死,吏不敢至門。今為天子,威不能行一令乎?」帝笑曰:「天子不與白衣
               同。」因敕彊項令出。賜錢三十萬,宣悉以班諸吏。由是搏擊豪彊,莫不震慄。京師號為「臥
               虎」。歌之曰:「枹鼓不鳴董少平。」」
     ・<後漢書、列傳、第五鍾離宋寒列傳>
          「50顯宗(明帝)即位,徵為尚書。時交阯太守張恢,坐臧千金,徵還伏法,以資物簿入大司
               農,詔班賜群臣。意得珠璣,悉以委地而不拜賜。帝怪而問其故。對曰:「臣聞孔子忍渴於盜
               泉之水,曾參回車於勝母之閭,惡其名也。此臧穢之寶,誠不敢拜。」帝嗟歎曰:「清乎尚書之
               言!」乃更以庫錢三十萬賜意。轉為尚書僕射。車駕數幸廣成苑,意以為從禽廢政,常當車陳
               諫般樂遊田之事,天子即時還宮。永平三年夏旱,而大起北宮,意詣闕免冠上疏曰:・・・」
    ・<漢書、外戚傳>
          「26哀帝既立,尊趙皇后為皇太后,封太后弟侍中駙馬都尉欽為新成侯。趙氏侯者凡二人。
               後數月,司隸解光奏言:
          43成帝崩,哀帝即位。王太后詔令傅太后、・・・
          44傅太后父同產弟四人,曰子孟、中叔、子元、幼君。子孟子喜至大司馬,封高武侯。中叔子
               晏亦大司馬,封孔鄉侯。幼君子商封汝昌侯,為太后父崇祖侯後,更號崇祖曰汝昌哀侯。太
               后同母弟鄭惲前死,以惲子業為陽信侯,追尊惲為陽信節侯。鄭氏、傅氏侯者凡六人,大司
               馬二人,九卿二千石六人,侍中諸曹十餘人。
          45傅太后既尊,後尤驕,與成帝母語,至謂之嫗。・・・」
     ・怨於鄭:定陶傅太后が王太皇太后(王政君)を恨み続けた史実のことか?
     ・<史記、留侯世家>
          「24漢十二年,上從擊破布軍歸,疾益甚,愈欲易太子。留侯諫,不聽,因疾不視事。叔孫太傅
               稱說引古今,以死爭太子。上詳許之,猶欲易之。及燕,置酒,太子侍。四人從太子,年皆八
               十有餘,鬚眉皓白,衣冠甚偉。上怪之,問曰:「彼何為者?」四人前對,各言名姓,曰東園公,
               角里先生,綺里季,夏黃公。上乃大驚,曰:「吾求公數歲,公辟逃我,今公何自從吾兒游  
               乎?」四人皆曰:「陛下輕士善罵,臣等義不受辱,故恐而亡匿。竊聞太子為人仁孝,恭敬愛
               士,天下莫不延頸欲為太子死者,故臣等來耳。」上曰:「煩公幸卒調護太子。」
           25四人為壽已畢,趨去。上目送之,召戚夫人指示四人者曰:「我欲易之,彼四人輔之,羽翼
               已成,難動矣。呂后真而主矣。」戚夫人泣,上曰:「為我楚舞,吾為若楚歌。」歌曰:「鴻鴈高
               飛,一舉千里。羽翮已就,橫絕四海。橫絕四海,當可奈何!雖有矰繳,尚安所施!」歌數闋,
               戚夫人噓唏流涕,上起去,罷酒。竟不易太子者,留侯本招此四人之力也。」
6或問曰難行。曰:「若高祖聽戍卒不懷居,遷萬乘不俟終日;孝文帝不愛千里馬;慎夫人衣不曳地;光武手不持珠玉,可謂難矣。抑情絕欲,不如是,能成功業者鮮矣。人臣若金日磾,以子私謾而殺之;丙吉之不伐;蘇武之執節,可謂難矣。」
[書き下し文]
 ・或るひとが難行(なんこう)について問うて曰く。曰く、「若し高祖が戍卒(ぼそつ)の居を懐(おも)うことを聴かば、萬乘を遷(うつ)すに終日を俟たず;孝文帝は千里馬を愛さず;慎夫人は衣を地に曳きずらず;光武は手に珠玉をもたず、難きことと謂うべきかな。情を抑え欲を絶ち、是れにしかず、能く功業を成せし者は鮮やかかな。人君は金日磾(きんじつてい)の若く、子を以てするに私謾(しまん)し而して之れを殺し、丙吉(へいきつ)の伐たざる、蘇武(そぶ)の節を執る、難きことと謂うべきかな」と。
[訳文]
 ・或る人がなかなか守り通すことが難しい行為について問い掛けてくる。そこで答えるには、「人情味の厚い漢の高祖(劉邦)ならば辺境に派遣されている兵士の望郷の念を知れば、すぐにでも迎えの兵車を手配したであろうし、鮮卑の建てた北魏の孝文帝(前漢の第5代皇帝)は多くの抵抗を押し切って漢化政策を実施したが、遊牧騎馬民族の誇る優駿の千里馬(汗血馬)を尊重しなかったし、孝文帝の寵妃であった美貌の慎夫人は優美さを保つため、苦労を厭わず常に裳裾を引きずらないように努めていたし、謹言重厚で飾りっ気のない後漢の光武帝(初代皇帝)は、派手な 珠玉などには目もくれなかったというが、これらはどれもこれも行い難い行為である。情欲を抑え絶つことは、最も望むべき事だが、其れを鮮やかに成し遂げた者は見事なものである。上に立つ君主という者は後漢の政治家で光武帝に仕えた誠実で忠義な金日磾(きんじつてい)のように、義の為に自分の子供を見殺しにすることもあるし、宣帝擁立の功労者であった丙吉は無闇に人を裁くことはしなかったし、前漢の第9代の宣帝に仕えた蘇武は、匈奴の捕虜となりながら長い間節義を守り通したが、これらはどれもこれも行い難い行為である。」と。
[参考]
   ・<漢書、武帝紀>
          「185四年春,貳師將軍廣利斬大宛王首,獲汗血馬來。作西極天馬之歌。」
   ・<史記、袁盎鼂錯列傳>
          「8上幸上林,皇后、慎夫人從。其在禁中,常同席坐。及坐,郎署長布席,袁盎引卻慎夫人坐。
                慎夫人怒,不肯坐。上亦怒,起,入禁中。盎因前說曰:「臣聞尊卑有序則上下和。今陛下既
                已立后,慎夫人乃妾,妾主豈可與同坐哉!適所以失尊卑矣。且陛下幸之,即厚賜之。陛下
                所以為慎夫人,適所以禍之。陛下獨不見『人彘』乎?」於是上乃說,召語慎夫人。慎夫人賜
                盎金五十斤。」
   ・<漢書、霍光金日磾傳>
          「35金日磾字翁叔,本匈奴休屠王太子也。武帝元狩中,票騎將軍霍去病將兵擊匈奴右地,多
                斬首,虜獲休屠王祭天金人。其夏,票騎復西過居延,攻祁連山,大克獲。於是單于怨昆邪、
                休屠居西方多為漢所破,召其王欲誅之。昆邪、休屠恐,謀降漢。休屠王後悔,昆邪王殺之,
                并將其眾降漢。封昆邪王為列侯。日磾以父不降見殺,與母閼氏、弟倫俱沒入官,輸黃門養
                馬,時年十四矣。
           36久之,武帝游宴見馬,後宮滿側。日磾等數十人牽馬過殿下,莫不竊視,至日磾獨不敢。
                日磾長八尺二寸,容貌甚嚴,馬又肥好,上異而問之,具以本狀對。上奇焉,即日賜湯沐衣
                冠,拜為馬監,遷侍中駙馬都尉光祿大夫。日磾既親近,未嘗有過失,上甚信愛之,賞賜累
                千金,出則驂乘,入侍左右。貴戚多竊怨,曰:「陛下妄得一胡兒,反貴重之!」上聞,愈厚
                焉。
           37日磾母教誨兩子,甚有法度,上聞而嘉之。病死,詔圖畫於甘泉宮,署曰「休屠王閼氏。」
                日磾每見畫常拜,鄉之涕泣,然後乃去。日磾子二人皆愛,為帝弄兒,常在旁側。弄兒或自
                後擁上項,日磾在前,見而目之。弄兒走且啼曰:「翁怒。」上謂日磾「何怒吾兒為?」其後弄
                兒壯大,不謹,自殿下與宮人戲,日磾適見之,惡其淫亂,遂殺弄兒。弄兒即日磾長子也。上
                聞之大怒,日磾頓首謝,具言所以殺弄兒狀。上甚哀,為之泣,已而心敬日磾。」
    ・<漢書、魏相丙吉傳>
            「9丙吉字少卿,魯國人也。治律令,為魯獄史。積功勞,稍遷至廷尉右監。坐法失官,歸為州
                從事。武帝末,巫蠱事起,吉以故廷尉監徵,詔治巫蠱郡邸獄。時宣帝生數月,以皇曾孫坐
                衛太子事繫,吉見而憐之。又心知太子無事實,重哀曾孫無辜,吉擇謹厚女徒,令保養曾
                孫,置閒燥處。吉治巫蠱事,連歲不決。後元二年,武帝疾,往來長楊、五柞宮,望氣者言長
                安獄中有天子氣,於是上遣使者分條中都官詔獄繫者,亡輕重一切皆殺之。內謁者令郭穰
                夜到郡邸獄,吉閉門拒使者不納,曰:「皇曾孫在。他人亡辜死者猶不可,況親曾孫乎!」相
                守至天明不得入,穰還以聞,因劾奏吉。武帝亦寤,曰:「天使之也。」因赦天下。郡邸獄繫者
                獨賴吉得生,恩及四海矣。曾孫病,幾不全者數焉,吉數敕保養乳母加致醫藥,視遇甚有恩
                惠,以私財物給其衣食。
            10後吉為車騎將軍軍市令,遷大將軍長史,霍光甚重之,入為光祿大夫給事中。       
                昭帝崩,亡嗣,大將軍光遣吉迎昌邑王賀。賀即位,以行淫亂廢,光與車騎將軍張安世諸大
                臣議所立,未定。吉奏記光曰:「將軍事孝武皇帝,受襁褓之屬,任天下之寄,孝昭皇帝早崩
                亡嗣,海內憂懼,欲亟聞嗣主,發喪之日以大誼立後,所立非其人,復以大誼廢之,天下莫
                不服焉。方今社稷宗廟群生之命在將軍之壹舉。竊伏聽於眾庶,察其所言,諸侯宗室在列位
                者,未有所聞於民間也。而遺詔所養武帝曾孫名病已在掖庭外家者,吉前使居郡邸時見其
                幼少,至今十八九矣,通經術,有美材,行安而節和。願將軍詳大議,參以蓍龜,豈宜褒顯,
                先使入侍,令天下昭然知之,然後決定大策,天下幸甚!」光覽其議,遂尊立皇曾孫,遣宗
                正劉德與吉迎曾孫於掖庭。宣帝初即位,賜吉爵關內侯。
        11吉為人深厚,不伐善。自曾孫遭遇,吉絕口不道前恩,故朝廷莫能明其功也。地節三年,立
                皇太子,吉為太子太傅,數月,遷御史大夫。及霍氏誅,上躬親政,省尚書事。是時,掖庭宮
                婢則令民夫上書,自陳嘗有阿保之功。章下掖庭令考問,則辭引使者丙吉知狀。掖庭令將則
                詣御史府以視吉。吉識,謂則曰:「汝嘗坐養皇曾孫不謹督笞,汝安得有功?獨渭城胡組、淮
                陽郭徵卿有恩耳。」分別奏組等共養勞苦狀。詔吉求組、徵卿,已死,有子孫,皆受厚賞。詔
                免則為庶人,賜錢十萬。上親見問,然後知吉有舊恩,而終不言。上大賢之,制詔丞相:「朕
                微眇時,御史大夫吉與朕有舊恩,厥德茂焉。詩不云虖?『亡德不報。』其封吉為博陽侯,邑
                千三百戶。」臨當封,吉疾病,上將使人加紼而封之,及其生存也。上憂吉疾不起,太子太傅
                夏侯勝曰:「此未死也。臣聞有陰德者,必饗其樂以及子孫。今吉未獲報而疾甚,非其死疾
                也。」後病果瘉。吉上書固辭,自陳不宜以空名受賞。上報曰:「朕之封君,非空名也,而君上
                書歸侯印,是顯朕之不德也。方今天下少事,君其專精神,省思慮,近醫藥,以自持。」後五
                歲,代魏相為丞相。      
             12吉本起獄法小吏,後學詩、禮,皆通大義。及居相位,上寬大,好禮讓。掾史有罪臧,不稱
                職,輒予長休告,終無所案驗。客或謂吉曰:「君侯為漢相,姦吏成其私,然無所懲艾。」吉
                曰:「夫以三公之府有案吏之名,吾竊陋焉。」後人代吉,因以為故事,公府不案吏,自吉始」 
    ・<漢書、李廣蘇建傳>
        「27蘇建,杜陵人也。以校尉從大將軍青擊匈奴,封平陵侯。以將軍築朔方。後以衛尉為遊擊將
                軍,從大將軍出朔方。後一歲,以右將軍再從大將軍出定襄,亡翕侯,失軍當斬,贖為庶人。
                其後為代郡太守,卒官。有三子:嘉為奉車都尉,賢為騎都尉,中子武最知名。
        28武字子卿,少以父任,兄弟並為郎,稍遷至栘中廄監。時漢連伐胡,數通使相窺觀,匈奴留
                漢使郭吉、路充國等,前後十餘輩。匈奴使來,漢亦留之以相當。天漢元年,且鞮侯單于初
                立,恐漢襲之,乃曰:「漢天子我丈人行也。」盡歸漢使路充國等。武帝嘉其義,乃遣武以中
                郎將使持節送匈奴使留在漢者,因厚輅單于,答其善意。武與副中郎將張勝及假吏常惠等
                募士斥候百餘人俱。既至匈奴,置幣遺單于。單于益驕,非漢所望也。
        29方欲發使送武等,會緱王與長水虞常等謀反匈奴中。緱王者,昆邪王姊子也,與昆邪王俱降
                漢,後隨浞野侯沒胡中。及衛律所將降者,陰相與謀劫單于母閼氏歸漢。會武等至匈奴,虞
                常在漢時素與副張勝相知,私候勝曰:「聞漢天子甚怨衛律,常能為漢伏弩射殺之。吾母與
                弟在漢,幸蒙其賞賜。」張勝許之,以貨物與常。後月餘,單于出獵,獨閼氏子弟在。虞常等
                七十餘人欲發,其一人夜亡,告之。單于子弟發兵與戰。緱王等皆死,虞常生得。      
             30單于使衛律治其事。張勝聞之,恐前語發,以狀語武。
             31事如此,此必及我。見犯乃死,重負國。」欲自殺,勝、惠共止之。虞常果引張勝。單于怒,召
                諸貴人議,欲殺漢使者。左伊秩訾曰:「即謀單于,何以復加?宜皆降之。」單于使衛律召武
                受辭,武謂惠等:「屈節辱命,雖生,何面目以歸漢!」引佩刀自刺。衛律驚,自抱持武,馳召
                毉。鑿地為坎,置熅火,覆武其上,蹈其背以出血。武氣絕,半日復息。惠等哭,輿歸營。單
                于壯其節,朝夕遣人候問武,而收繫張勝。
     32武益愈,單于使使曉武。會論虞常,欲因此時降武。劍斬虞常已,律曰:「漢使張勝謀殺單于近
                臣,當死,單于募降者赦罪。」舉劍欲擊之,勝請降。律謂武曰:「副有罪,當相坐。」武曰:「本
                無謀,又非親屬,何謂相坐?」復舉劍擬之,武不動。律曰:「蘇君,律前負漢歸匈奴,幸蒙大
                恩,賜號稱王,擁眾數萬,馬畜彌山,富貴如此。蘇君今日降,明日復然。空以身膏草野,誰
                復知之!」武不應。律曰:「君因我降,與君為兄弟,今不聽吾計,後雖欲復見我,尚可得
                乎?」武罵律曰:「女為人臣子,不顧恩義,畔主背親,為降虜於蠻夷,何以女為見?且單于
                信女,使決人死生,不平心持正,反欲鬥兩主,觀禍敗。南越殺漢使者,屠為九郡;宛王殺漢
                使者,頭縣北闕;朝鮮殺漢使者,即時誅滅。獨匈奴未耳。若知我不降明,欲令兩國相攻,匈
                奴之禍從我始矣。」
     33律知武終不可脅,白單于。單于愈益欲降之,乃幽武置大窖中,絕不飲食。天雨雪,武臥齧雪
                與旃毛并咽之,數日不死,匈奴以為神,乃徙武北海上無人處,使牧羝,羝乳乃得歸。別其
                官屬常惠等,各置他所。
     34武既至海上,廩食不至,掘野鼠去屮實而食之。杖漢節牧羊,臥起操持,節旄盡落。積五六年,
                單于弟於靬王弋射海上。武能網紡繳,檠弓弩,於靬王愛之,給其衣食。三歲餘,王病,賜武
                馬畜服匿穹廬。王死後,人眾徙去。其冬,丁令盜武牛羊,武復窮厄。
     35初,武與李陵俱為侍中,武使匈奴明年,陵降,不敢求武。久之,單于使陵至海上,為武置酒設
                樂,因謂武曰:「單于聞陵與子卿素厚,故使陵來說足下,虛心欲相待。終不得歸漢,空自苦
               亡人之地,信義安所見乎?前長君為奉車,從至雍棫陽宮,扶輦下除,觸柱折轅,劾大不敬,
               伏劍自刎,賜錢二百萬以葬。孺卿從祠河東后土,宦騎與黃門駙馬爭船,推墮駙馬河中溺
               死,宦騎亡,詔使孺卿逐捕不得,惶恐飲藥而死。來時,大夫人已不幸,陵送葬至陽陵。子卿
               婦年少,聞已更嫁矣。獨有女弟二人,兩女一男,今復十餘年,存亡不可知。人生如朝露,何
               久自苦如此!陵始降時,忽忽如狂,自痛負漢,加以老母繫保宮,子卿不欲降,何以過陵?
               且陛下春秋高,法令亡常,大臣亡罪夷滅者數十家,安危不可知,子卿尚復誰為乎?願聽陵
               計,勿復有云。」武曰:「武父子亡功德,皆為陛下所成就,位列將,爵通侯,兄弟親近,常願肝
               腦塗地。今得殺身自效,雖蒙斧鉞湯鑊,誠甘樂之。臣事君,猶子事父也,子為父死亡所恨。
               願勿復再言。」陵與武飲數日,復曰:「子卿壹聽陵言。」武曰:「自分已死久矣!王必欲降武,
               請畢今日之驩,效死於前!」陵見其至誠,喟然歎曰:
      36嗟乎,義士!陵與衛律之罪上通於天。」因泣下霑衿,與武決去。
      37陵惡自賜武,使其妻賜武牛羊數十頭。後陵復至北海上,語武:「區脫捕得雲中生口,言太守
              以下吏民皆白服,曰上崩。」武聞之,南鄉號哭,歐血,旦夕臨。
     38數月,昭帝即位。數年,匈奴與漢和親。漢求武等,匈奴詭言武死。後漢使復至匈奴,常惠請其
             守者與俱,得夜見漢使,具自陳道。教使者謂單于,言天子射上林中,得雁,足有係帛書,言武
             等在某澤中。使者大喜,如惠語以讓單于。單于視左右而驚,謝漢使曰:「武等實在。」於是李陵
             置酒賀武曰:「今足下還歸,揚名於匈奴,功顯於漢室,雖古竹帛所載,丹青所畫,何以過子
             卿!陵雖駑怯,令漢且貰陵罪,全其老母,使得奮大辱之積志,庶幾乎曹柯之盟,此陵宿昔之
             所不忘也。收族陵家,為世大戮,陵尚復何顧乎?已矣!令子卿知吾心耳。異域之人,壹別長
             絕!」陵起舞,歌曰:「徑萬里兮度沙幕,為君將兮奮匈奴。路窮絕兮矢刃摧,士眾滅兮名已隤。
             老母已死,雖欲報恩將安歸!」陵泣下數行,因與武決。單于召會武官屬,前以降及物故,凡隨
             武還者九人。
     39武以元始六年春至京師。詔武奉一太牢謁武帝園廟,拜為典屬國,秩中二千石,賜錢二百萬,
             公田二頃,宅一區。常惠、徐聖、趙終根皆拜為中郎,賜帛各二百匹。其餘六人老歸家,賜錢人
             十萬,復終身。常惠後至右將軍,封列侯,自有傳。武留匈奴凡十九歲,始以彊壯出,及還,須
             髮盡白。
     40武來歸明年,上官桀子安與桑弘羊及燕王、蓋王謀反。武子男元與安有謀,坐死。」
[感想]
   ここでは、
   ⑤臣下と対する上での君主の心構えについて
   ⑥君主の心得としての身の処し方について
  触れられ、18の史実が紹介されている。                                                     
                                                                                        (02/01/01)続く

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申鑒-雜言(提言あれこれ)上-①

2019-12-01 09:50:10 | 仁の思想

申鑒-雜言(提言あれこれ)上-①
1或問曰:「君子曷敦乎學?」曰:「生而知之者寡矣,學而知之者寡矣,悠悠之民,泄泄之士,明明之治,汶汶之亂,皆學廢興之由,敦之不亦宜乎?」君子有三鑒,世人鏡。前惟順,人惟賢,鏡惟明。夏商之衰,不鑒於禹湯也、周秦之弊,不鑒於民下也。側弁垢顏,不鑒於明鏡也,故君子惟鑒之務。若夫側景之鏡,亡鑒矣。
[書き下し文]
 ・或るひとが問うて曰く、「君子は曷(いず)くんぞ学ぶことを敦(おもん)ずるか?」と。曰く、「生まれてこれを知る者は寡く、学びて之を知る者も寡く、悠悠の民、泄泄(えいえい)の士、明明の治、汶汶(ぼんぼん)の亂、皆な學の廢興の由(もと)、之れを敦ずるに亦た宜しからずや?」と。君子に三鑒有りて、世と人と鏡。前(むかし)は順(ただし)きを惟(おも)んみ、人は賢(さか)しさを惟んみ,鏡は明(みわけ)ることを惟んみる。夏・商の衰えるは、禹・湯を鑒(かがみ)とせず、周・秦の弊(やぶ)れしは、民下(みんか)を鑒(かんが)みざればなり。側弁(そくべん)垢顏(こうがん)して、明鏡を鑒みざればなり。故に君子は鑒みる務めを惟んみる。若し夫れ景(あお)ぐべき鏡を側(そば)めれば、鑒みることを亡なう。
[訳文]
 ・
或る人が問うには、「君子はどうして學ぶことを重んずるのか?」と。答えるには、「生まれながらにして道徳を弁えている人は少なく(聖人のこと)、学習して道徳を弁える人も少なく(努力の人)、俗事に拘わらず心静かな民人や、物事に動ぜず悠然と構える士人や、公明正大な政(まつりごと)や、汚濁にまみれた世の乱れなど、全て学問の興廃によるものであり、学問を重んずることは真に最もなことではないか?」と。君子には手本とすべき三つの心得と云うものがあり、それは世の変遷を学ぶ歴史と、是非の手本となる勝れた人物と、礼節を守る為に衣冠を正す鏡の三つである。古の事跡を語る歴史については己の生き方の正しさを省みる為の手本とし、勝れた人物については己の才智・徳行の程度を省みる為の手本とし、人の有り様を写り出す鏡については己の身嗜みを省みる為の手本とするのである。夏王朝・商王朝が衰退したのは禹王・湯王を手本としなかった為であり、周王朝・秦王朝が亡んだのは統治すべき民衆を省みなかった為である。冠を傾けて被り顔を汚しても鏡を善く見て正そうとしないからである。だから君子は常に反省することに努めるのである。若し反省する為に必要な手本から目を反らすようなことになると、反省する為に必要な手段を失うことになる。
[参考]
 ・<中庸>
     「20天下之達道五,所以行之者三,曰:君臣也,父子也,夫婦也,昆弟也,朋友之交也,五者天下
        之達道也。知仁勇三者,天下之達德也,所以行之者一也。或生而知之,或學而知之,或困而
        知之,及其知之,一也;或安而行之,或利而行之,或勉強而行之,及其成功,一也。」
 ・<新唐書卷九十七 、列傳第二十二、魏徵伝>
     「帝后臨朝歎曰:「以銅為鑒,可正衣冠;以古為鑒,可知興替;以人為鑒,可明得失。朕嘗保此三
      鑒,內防己過。今魏徵逝,一鑒亡矣。・・・」
2或問:「致治之要,君乎?」曰:「兩立哉,非天地不生物,非君臣不成治,首之者天地也,統之者君臣也哉。先王之道致訓焉,故亡斯須之間而違道矣。昔有上致聖由教戒,因輔弼,欽順四鄰。故檢柙之臣,不虛於側、禮度之典,不曠於目、先哲之言,不輟於身、非義之道,不宣於心,是邪僻之氣,末由入也,鑒有間,必有入之者矣。是故僻志萌則僻事作,僻事作則正塞,正塞則公正亦末由入也矣。不任不愛謂之公,惟公是從謂之明。齊桓公中材也,末能成功業,由有異焉者矣。妾媵盈宮,非無愛幸也;群臣盈朝,非無親近也,然外則管仲射己,衛姬色妾,非愛也,任之也。然後知非賢不可任,非智不可從也,夫此之舉弘矣哉。膏盲純白,二豎不生,茲謂心寧,省闥清淨,嬖孽不生,茲謂政平。夫膏盲近心而處阨,鍼之不遠,藥之不中,攻之不可,二豎藏焉,是謂篤患。故治身治國者,唯是之畏。」
[書き下し文]
 ・
或るひとが問うに、「致治の要は、君(かみ)か?」と。曰く、「兩(なら)び立つかな、天地にあらざれば物を生まず、君臣にあらざれば治を成さず、首たる者は天地なり、統べる者は君臣なるかな。先王の道は訓(おし)えを致(つた)え、故に斯須(ししゅ)の間も亡くさば道を違う。昔しは教戒に由り上致する聖(ひじり)有りて、輔弼(ほひつ)に因(よ)り、四鄰を欽順す。故に檢柙(けんこう)の臣は、側に虚(お)かず、禮度の典は、目に曠(いれ)ず、先哲の言は、身に輟(とど)めず、義に非ざるの道は、心に宣(の)べず、是れ邪僻(じゃへき)の氣にして、由しなく入(かかわ)るや、鑒(いましめ)に間(すきま)が有(あらわ)れ、必ずや入る者有らん。是の故に僻志(へきし)萌(めば)えれば則ち僻事(へきじ)作(な)り、僻事作れば則ち正に塞がり、正に塞がれば則ち公正に亦た入る由し末(な)きなり。任せず愛(したし)まざるを之れ公(おおやけ)と謂い、惟だ公に是れ従うを之れ明と謂う。齊の桓公は中材なり、未だ能く功業を成さず、焉(これ)を異(あや)しむ者有る由し。妾媵(しょうよう)が宮に盈(み)ちれば、愛幸すること無きに非ざるなり。群臣が朝に盈ちれば、親しみ近づくこと無きに非ざるなり。然して外れるも則ち管仲は己(おのれ)を射て、衛姬は色妾なるも愛に非ず、任之れなり。然る後に賢に非ざれば任すベからず、智に非ざれば従うべからざることを知る、夫れ 此れは之れ舉弘(きょこう)かな。膏盲(こうこう)が純白なれば、二豎(にじゅ)生まれず、茲(こ)れを心寧(しんねい)と謂い、省闥(しょうたつ)が清淨なれば、嬖孽(へいげつ)生まれず、茲れ を政平と謂う。夫れ膏盲は心に近く而して阨(せま)き處にて、鍼は之れ不遠、藥は之れ中(かな)わず、攻めること之れ不可(きかず),二豎(にじゅ)藏(ひそ)む、是れを篤患(とっかん)と謂う。故に身を治め国を治める者は、唯だ是れを之れ畏れる。
[訳文]
 ・
或る人が尋ねるには、「國の安定を図る要となるものは、君主なのか?」と。答えるには、「共存するもので、天と地が存在しなければあらゆる物は生まれてこないし、君主と臣下が共存しなければ政治は成り立たないし、物事の拠り所とする處は天と地であり、世の中を統治する者は君主とその臣下なのである。昔の聖王の説く道は世の中の道理を伝えるものであり、だから少しの間でもその教えから外れると物事はその道理から外れてしまうことになる。昔しは教え戒める事によって教化する智徳に勝れ道理に明るい人が居て、天子の政治を補佐して近隣の諸国を欽仰させたものである。だから法に詳しい小うるさい家臣は側に置かず、礼節の経典も目の前から遠ざけ、昔の賢人の述べる教訓には耳を貸さず、道義に反する行為にも心を動かすこともないようでは、これは邪悪な心気というものでしかなく、特別な理由も無いのにそんな行動を採れば、戒めに綻びが生じ、必ず違反者が出てくることになるのである。そういう訳で正しくない思いが芽生えると間違ったことが行われ、間違ったことが行われると手の施しようが無くなり、手の施しようが無くなると公明正大とは程遠い事態に至るのである。相手の思うままにさせずまた庇い過ぎないのが公平公正と云う事であり、惟だひたすら公平公正を守り通す事が公明正大と云う事なのである。齊の桓公は凡人で特に功績を挙げた訳でもないとあるが、どうも腑に落ちない處がある。貴人の側に仕える女性が宮中に大勢居れば、中には寵愛される者も居る。多くの家臣が朝廷に居れば、中には重用される家臣も居る。そこで外しはしたが管仲は殺害しようとして桓公に矢を射たし、桓公の賢夫人の長衛姫は美しい人ではあったが愛情に因らず、二人共に桓公の信頼を得てそれぞれ外を治め内を治めたのだとあるが、これこそが任せると云うことなのである。その上で賢者でなければ任せるべきではないし、智者でなければ従うべきではないし、これこそが広く登用すると云うことなのである。膏盲に異常が無ければ病魔の二豎子は現れず、これを心寧(心部安泰)と云い、宮中が清廉に満ちていれば後継者争いをもたらす君主の寵愛する妾腹の子が生まれてくることもなく、これを政平(政治の秩序が保たれる)と云うのである。彼の膏盲と云うものは心臓に近い狭い部分にあって、鍼も受け付けず、薬も効かず、病気の治し難い所で、病魔の化身の二人の童が宿る處であり、これが所謂重篤な病気と云うものである。だから自身の修養に努め国を治める者は、ひたすら以上のことを畏れ憚るのである。
[参考]
  ・<春秋左傳、成公十年>
    「2公疾病,求醫于秦,秦伯使醫緩為之,未至,公夢疾為二豎子曰,彼良醫也,懼傷我,焉逃之,其
      一曰,居肓之上,膏之下,若我何,醫至,曰,疾不可為也,在肓之上,膏之下,攻之不可,達之
      不及,藥不至焉,不可為也,公曰,良醫也,厚為之禮而歸之,」 
  ・<列女傳、賢明、齊桓衛姬>
    「1衛姬者,衛侯之女,齊桓公之夫人也。桓公好淫樂,衛姬為之不聽鄭衛之音。
     2桓公用管仲甯戚,行霸道,諸侯皆朝,而衛獨不至。桓公與管仲謀伐衛。
     3罷朝入閨,衛姬望見桓公,脫簪珥,解環佩,下堂再拜,曰:「願請衛之罪。」桓公曰:「吾與衛無
      故,姬何請耶?」對曰:「妾聞之:人君有三色,顯然喜樂容貌淫樂者,鐘鼓酒食之色。寂然清靜
      意氣沉抑者,喪禍之色。忿然充滿手足矜動者,攻伐之色。今妾望君舉趾高,色厲音揚,意在衛
      也,是以請也。」桓公許諾。
     4明日臨朝,管仲趨進曰:「君之蒞朝也,恭而氣下,言則徐,無伐國之志,是釋衛也。」桓公曰:
     「善。」乃立衛姬為夫人,號管仲為仲父。曰:「夫人治內,管仲治外。寡人雖愚,足以立於世矣。」
      君子謂衛姬信而有行。《詩》曰:「展如之人兮,邦之媛也。」      
     5頌曰:齊桓衛姬,忠款誠信,公好淫樂,姬為脩身,望色請罪,桓公加焉,厥使治內,立為夫
      人。」
   ・媵:中国の周代の婚姻の形態による、側室の一種。当時の天子や貴族が正室を娶るときは、正室の
      女性とともに、同族の姉妹や従妹が媵として付き従った。正室となる女性が子供を産めなかった
      場合、その代理として媵が子供を産む役目を負った。側室の一種であるが、妾とは異なり、媵が
      産んだ子供は正室の子として扱われた。
3或曰:「愛民如子,仁之至乎?」曰:「未也。」曰:「愛民如身,仁之至乎?」曰:「未也。湯禱桑林,邾遷于繹,景祠于旱,可謂愛民矣。」曰:「何重民而輕身也?」曰:「人主承天命以養民者也,民存則社稷存,民亡則社稷亡,故重民者,所以重社稷而承天命也。」
[書き下し文]
 ・
或るひとが問うに、「民を愛すること子の如くば、仁の至(きわ)みか?」と。曰く、「未だし」と。曰く、「民を愛すること身(おのれ)の如くば、仁之れ至まれるや?」と。曰く、「未だし。湯は桑林(そうりん)に禱(いの)り、邾は繹(えき)に遷(かえ)し、景は旱(ひでり)に祠(まつ)る、民を愛(いつく)しむと謂うべし」と。曰く、「何ぞ民を重んじ而して身を軽んじるや?」と。曰く、「人主(じんしゅ)は天命を承り以て民を養う者なり、民存せば則ち社稷存し、民亡くば則ち社稷亡ぶ、故に民を重んじる者は、社稷を重んじ而して天命を承る所以なり」と。
[訳文]
 ・
或る人が尋ねるには、「民を吾が子のように慈しむ行為は、究極の仁徳と云って良いのだろうか?」と。答えるには、「そうとは云えまい」と。それならばと、「民を自分自身のように慈しめば、それが究極の仁徳と云えるのか?」と問い続ける。それに答えるに、「それでも充分とは云えない。殷の明哲王たる湯王は桑林の地で雨請いをしたし、邾侯國の文公は繹に國を返したし、齊の景公は大旱の年に雨乞いの為に霊山(山の神)を祠(まつ)ろうとしたが、これこそが民を愛するということなのである」と。更に問い掛けてくるには、「どうして民を優先して自身の事は二の次にするのか」と。答えるには、「人の上に立つ君主という者は天命を受けて民を導きその暮らしを豊かにするのが役目であり、民が居るからこそ国家というものが成り立っているのであり、民が居なければ国家は成り立たないのだから、君主は民を重んる則ち国家を大切にすることが天命に答えることになるのである」と。
[参考]
  ・<呂氏春秋、季秋紀、順民>
    「2昔者湯克夏而正天下,天大旱,五年不收,湯乃以身禱於桑林,曰:「余一人有罪,無及萬夫。萬
      夫有罪,在余一人。無以一人之不敏,使上帝鬼神傷民之命。」於是翦其髮,𨟖其手,以身為犧
      牲,用祈福於上帝,民乃甚說,雨乃大至。則湯達乎鬼神之化,人事之傳也。」
  ・<春秋左傳、文公十三年>
    「2邾文公卜遷于繹,史曰,利於民而不利於君,邾子曰,苟利於民,孤之利也,天生民而樹之君,以
      利之也,民既利矣,孤必與焉,左右曰,命可長也,君何弗為,邾子曰,命在養民,死之短長,時
      也,民苟利矣,遷也,吉莫如之,遂遷于繹,五月,邾文公卒,君子曰知命。」
  ・邾:春秋・戦国時代に存在した諸侯國で、首府は邾・繹(現在の山東省鄒城市)。後年楚に併合され
     た。
  ・<晏子春秋、內篇、諫上、景公欲祠靈山河伯以禱雨晏子諫>
    「1齊大旱逾時,景公召群臣問曰:「天不雨久矣,民且有饑色。吾使人卜,云,祟在高山廣水。寡人
      欲少賦斂以祠靈山,可乎?」群臣莫對。晏子進曰:「不可!祠此無益也。夫靈山固以石為身,以
      草木為髮,天久不雨,髮將焦,身將熱,彼獨不欲雨乎?祠之無益。」
     2公曰:「不然,吾欲祠河伯,可乎?」
     3晏子曰:「不可!河伯以水為國,以魚鱉為民,天久不雨,泉將下,百川竭,國將亡,民將滅矣,
      彼獨不欲雨乎?祠之何益!」
     4景公曰:「今為之柰何?」
     5晏子曰:「君誠避宮殿暴露,與靈山河伯共憂,其幸而雨乎!」于是景公出野居暴露,三日,天果
      大雨,民盡得種時。
     6景公曰:「善哉!晏子之言,可無用乎!其維有德。」」
4或問曰:「孟軻稱人皆可以為堯舜,其信矣?」曰:「人非下愚,則愚可以為堯舜矣。寫堯舜之貌,同堯舜之姓則否、服堯之制,行堯之道則可矣。行之於前,則古之堯舜也、行之於後,則今之堯舜也。」或曰:「人皆可以為桀紂乎?」曰,「行桀紂之事,是桀紂也。堯舜桀紂之事,常並存於世,唯人所用而已。楊朱哭岐路,所通逼者然也。夫岐路惡足悲哉?中反焉。若夫縣度之厄素,舉足而已矣。損益之符,微而顯也。趙獲二城,臨饋而憂。陶朱既富,室妾悲號。此知益為損之為益者也。屈伸之數,隱而昭也。有仍之困,復夏之萌也;鼎雉之異,興殷之符也;邵宮之難,隆周之應也;會稽之棲,霸越之基也;子之之亂,強燕之徵也:此知伸為屈之為伸者也。」人主之患,常立於二難之間,在上而國家不治,難也;治國家則必勤身苦思,矯情以從道,難也。有難之難,闇主取之;無難之難,明主居之。大臣之患,常立於二罪之間,在職而不盡忠直之道,罪也;盡忠直之道焉,則必矯上拂下,罪也。有罪之罪,邪臣由之;無罪之罪,忠臣置之。人臣之義,不曰「吾君能矣,不我須也,言無補也」,而不盡忠;不曰「吾君不能矣,不我識也,言無益也」,而不盡忠。必竭其誠,明其道,盡其義,斯已而已矣,不已則奉身以退,臣道也。故君臣有異無乖,有怨無憾,有屈無辱。人臣有三罪,一曰導非,二曰阿失,三曰尸寵。以非引上謂之導,從上之非謂之阿,見非不言謂之尸。導臣誅,阿臣刑,尸臣絀。進忠有三術:一曰防,二曰救,三曰戒。先其未然謂之防,發而止之謂之救,行而責之謂之戒。防為上,救次之,戒為下。下不鉗口,上不塞耳,則可有聞矣。有鉗之鉗,猶可解也;無鉗之鉗,難矣哉!有塞之塞,猶可除也,無塞之塞,其甚矣夫!
[書き下し文]
 ・
或るひとが問うて曰く、「孟軻は人皆以て尭・舜と為ること可と称するが、其れ信(まこと)なるか?」と。曰く、「人は下愚(かぐ)に非ず、則ち愚も以て尭・舜となるべし。尭・舜の貌(ふるま)いを写(なぞ)り、尭・舜の姓(うじ)を同じくするは則ち否、尭の制(おきて)に服し、尭の道を行うは則ち可なり。之れを前(さき)に行うは、則ち古の尭・舜なり、之れを後に行うは、則ち今の尭・舜なり」と。或るひと曰く、「人は皆以て桀・紂と為ること可なるか?」と。曰く、「桀・紂の事(しわざ)を行(まね)するは、是れ桀・紂たり。堯・舜・桀・紂の事は、常に世に並存するも、唯だ人が用いる所のみ。楊朱は岐路(衢涂)に哭す、逼(せば)まりしを通りし所の者は然るなり。夫れ岐路はいずくんぞ足(とど)まることを悲しまん!中は反。夫の縣度(けんど)の厄素(やくそ)の若きは、足を挙げるのみ。損益の符(きざし)は、微(かす)かに而して顕かなり。趙が二城を獲るも、臨饋(りんき)し而して憂う。陶朱(とうしゅ)は既に富むも、室妾は悲號す。此れ益を知り損を為すも之れ益と為す者なり。屈伸の数(すじみち)は隠に而して昭かなり。有仍(ゆうじょう)の困(くる)しみは、復た夏の萌(めばえ)なり。鼎雉(ていち)の異(わざわい)は、殷を興す符(きざし)なり。邵宮(しょうきゅう)の難(わざわい)は、周を隆(たか)める應(こた)えなり。會稽(かいけい)に棲(す)むは、越を覇とするための基(いしずえ)なり。子之(しし)の亂は、燕を強めし徵(あらわ)れなり。此れ伸びを知り屈を為すも之れ伸びを為す者なり。」と。人主の患(わずら)いは、二難の間に常立し、在上し而して国家の治まらざるは、難きことなり。国家を治めるには則ち必ず勤身苦思し、矯情(きょうじょう)以て道に従うは、難きことなり。有難の難、闇主は之れを取る。無難の難、明主は之れに居る。大臣の患いは、二罪の間に常立し、在職し而して忠直の道を盡くさざるは、罪なり。忠直の道を盡くすは、則ち必ず矯上拂下(きょうじょうひつげ)するは、罪なり。有罪の罪、邪臣は之れを取る。無罪の罪、忠臣は之れに置く。人臣の義は、曰ず、「吾が君は能(たけ)る、我は須(のぞ)まず、言は補(おぎな)うこと無し」と、而して忠を盡くさず;曰ず、「吾が君は能ず、我は識らず、言は益すること無し」と、而して忠を盡くさず。必ず其の誠を竭(つ)くさず、其の道を明らかにし、其の義を盡くし、斯(こ)れ已まんのみ、已まず則ち身を奉じて以て退く、臣の道なり。故に君臣は異有るも乖(そむ)くこと屈すること有るも辱められること無し。人臣に三罪有り、一に曰く導非、二に曰く阿失(あしつ)、三に曰く尸寵(しちょう)。非(あやまち)を以て上に引きたてるは之れ導(てびき)すると謂い、上に従うに之れ非(ただ)さざるは之れ阿(おもね)ると謂い、非(あやまり)を見て言わざるは之れ尸(むな)しきと謂う。導臣は誅し、阿臣は刑し、尸臣は絀(ちゅつ)す。忠を進めるに三術あり、一に曰く防(ぼう)、二に曰く救(きゅう)、三に曰く戒(かい)。先ず其れ未然(みぜん)之れ防ぐと謂い、発し而して之れを止める之れ救うと謂い、行い而して之れを責める之れ戒めると謂う。防は上と為り、救は之れに次ぎ、戒は下と為る。下は口を鉗(つぐ)まず、上は耳を塞がず、則ち聞くこと有るべし。有鉗(ゆうけん)の鉗は、猶お解くべきなり。無鉗の鉗は、難きかな!有塞(ゆうさい)の塞は、猶お除くべきなり。無塞の塞は、其れ甚だしきかな!
[訳文]
 ・
或る人が尋ねて云うには、「孟子が人は誰でも皆んな帝尭や帝舜のような聖人になれると云っているが、果たして本当だろうか?」と。答えるには、「人は非常に愚かと謂う訳では無いのだから、愚かな者でも努力さえすれば尭帝や舜帝のような聖人にもなり得る。尭帝や舜帝の姿・貌や行動を真似するだけでは駄目だが、尭帝の教えを良く守り、尭帝の行いを見習って行動すれば良い。真っ先に道に適った行動をしたのが尭帝であり舜帝であった。これを見習って行うことが今の世に求められているのである」と。或る人が続けて問い掛けるには、「人は皆な夏の桀王や殷の紂王のような暴君にもなり得るのか?」と。答えるには、「桀王や紂王の真似をすれば彼等と同じ暴君と云うことになる。尭帝や舜帝らや・桀王や紂王らの行ったことは何時の時代でも並存しているが、気を付けるべき事は同じ人間が行っていると云う事実である。楊朱は分かれ道で行動の選択に迷って嘆き悲しんだと云うが、切羽詰まればそれも致し方あるまい。岐路に立てば誰しもそうなるであろう!岐路ではどちらかを選ばなくてはならず、程ほどと云うことは有り得ないのである。あの難所で名高い縣度山に通うには、ひたすら歩くほか手立てはあるまい。商売の損得の兆しを察知することは難しいが、必ず予兆はある。趙は二つの城を手に入れたが臨饋して悩むことになる。越國の功臣の范蠡は後年富豪となったが妻妾はこれを見て悲嘆号泣した。このように利することを知るばかりでなく、時には損失を被る経験をした者こそ真の益者と云うものである。物事の浮き沈みの本質は分かり難いが明瞭に現れる。夏王朝の六代皇帝の夏后帝少康が、母の実家の有仍國で苦労したが、これは夏王朝の再興に繋がった。鼎雉の災難は殷王朝を復興させる目出度い印しである。邵宮の災難は周王朝を興隆させる目出度い印しである。越王勾践が武装兵と共に険峻な會稽山に立てこもったのは、越国を再興する為の基礎を固める為の手段である。戦国時代の燕の宰相子之が起こした動乱は、燕国を強国化した。このように物事を高めることを知った上で、時には屈することも必要なことを理解している者こそ真の成功者である。」と。君主の悩み事は、二つの成し遂げ難いものの間で恒常的に確立され、君主の地位に居て國が治まっていなければ、これほど心を痛めることは無い。国を治めると云うことは常に刻苦勉励し、世情を矯め治して人の道を守り通させることだが、それは難しいことである。目の前の難事を処理することに懸命なのが愚かな君主のすることであり、目に見えない難事を見つけ出して前以て処理するのが明主の遣り方である。大臣の悩み事は、二つの道理に反する行為の間で恒常的に確立され、その地位に止まっていて忠誠正直の手段を執らないのは罪である。忠誠正直の手段を執りながら、君主を詐り部下を切り捨てるのは、罪である。目の前の罪事に目を向けるのが邪臣の行為である。目に見えない罪事を見つけ出して前以て処理するのが忠臣の遣り方である。臣下の道義と云うものは、「吾が君は長けたお人なので、私は補佐する必要も無いし、助言する必要も無い」と言い訳をすることでもないし、そうして忠節を尽くさないことではない。また、「吾が君は愚鈍だが、私の関与することでも無いのだから、助言など必要ない」と言い訳することでもないし、そうして忠節を尽くさないことではない。必ず誠意を以て仕え、臣下として守るべき道を表明して全力を尽くす、これに尽きるのである。こうして誠心誠意務めた上で潔く退職するのが臣下の採るべき道理なのである。こうして君主と臣下は意見が異なる事があって逆らって叛き合ったり屈伏し合ったりしても傷つけ合うことは無いのである。臣下には三つの罪過が有り、一つ目は君主の道に外れた行為に手を貸すこと、二つ目は君主の過失に目を瞑って己の意思を曲げて従うこと、三つ目は無闇に君主の寵愛を受けることである。過失には目を瞑って引き立てることを導(てびき)すると云い、君主にひたすら黙って従う行為を阿(おもね)ると云い、諫言することも無く君主の過ちを見過ごす行為を職務を尸(おこたる)と云う。手引きした臣下は死罪にし、追従した臣下は刑罰に処し、職務怠慢の臣下は退職させる。忠節を尽くさせる手立てとして三つの方法が有る。一つ目は防ぐことであり、二つ目は救うことであり、三つ目は戒めることである。まず反抗させないように手を打つこと則ち防、次が言葉で説得すること則ち救、更にその行動を見て説き聞かせること則ち戒である。一番大事なのが防であり、次いで救、更に戒が続く。臣下は忌憚なく君主に思いを告げ、君主は臣下の意向を善く聞いてやることが大切である。臣下が口をつぐんでいればなおのこと、発言しやすいように環境を整えてやる必要がある。臣下が忌憚なく意見を述べているようでも、述べきらない處が有ることを察知することは至難のことである。閉じた口は開いてやるように仕向けてやる必要がある。頑なに口を閉ざしている場合は、その口を開かせることは至難の業である。
[参考]
  ・<孟子、告子章句下>
      「22曹交問曰:「人皆可以為堯舜,有諸?」」
  ・<荀子、王霸>
      「13・・・楊朱哭衢涂,曰:「此夫過舉蹞步,而覺跌千里者夫!」」 
  ・縣度(山):漢時代にあった西域の故山名。渓谷に阻まれた交通不便な山。縄伝いに通うほどの難所。  
  ・<史記、貨殖列傳>
      「7范蠡既雪會稽之恥,乃喟然而嘆曰:「計然之策七,越用其五而得意。既已施於國,吾欲用之
        家。」乃乘扁舟浮於江湖,變名易姓,適齊為鴟夷子皮,之陶為朱公。朱公以為陶天下之中,
        諸侯四通,貨物所交易也。乃治產積居。與時逐而不責於人。故善治生者,能擇人而任時。十
        九年之中三致千金,再分散與貧交疏昆弟。此所謂富好行其德者也。後年衰老而聽子孫,子
        孫修業而息之,遂至巨萬。故言富者皆稱陶朱公。」
  ・有仍:春秋戦国時代の小国。任とか仍とも云う。
  ・陶朱:春秋時代の越王勾践の臣であった范蠡の変名。
  ・<春秋左傳、哀公元年>
      「2吳王夫差敗越于夫椒,報檇李也,遂入越,越子以甲楯五千,保于會稽,使大夫種因吳大宰嚭
        以行成,吳子將許之,伍員曰,不可,臣聞之,樹德莫如滋,去疾莫如盡,昔有過澆,殺斟灌
        以伐斟鄩,滅夏后相,后緡方娠,逃出自竇,歸于有仍,生少康焉,為仍牧正,惎澆能戒之,
        澆使椒求之,逃奔有虞,為之庖正,以除其害,虞思於是妻之以二姚,而邑諸綸,有田一成,
        有眾一旅,能布其德,而兆其謀,以收夏眾,撫其官職,使女艾諜澆,使季杼誘豷。遂滅過
        戈,復禹之績。祀夏配天,不失舊物,・・・」
  ・<尚書、商書、高宗肜日>
      「 高宗肜日: 高宗祭成湯,有飛雉升鼎耳而雊,祖己訓諸王,作《高宗肜日》、《高宗之訓。」     
      「1高宗肜日,越有雊雉。祖己曰:「惟先格王,正厥事。」乃訓于王。曰:「惟天監下民,典厥義。降
        年有永有不永,非天夭民,民中絕命。民有不若德,不聽罪。天既孚命正厥德,乃曰:『其如
        台?』嗚呼!王司敬民,罔非天胤,典祀無豐于昵。」」  后因以"鼎雉"指災異的徴候。(天災
        地異の兆し)
  ・<史記、越王句踐世家>
      「3三年,句踐聞吳王夫差日夜勒兵,且以報越,越欲先吳未發往伐之。范蠡諫曰:「不可。臣聞兵
        者凶器也,戰者逆德也,爭者事之末也。陰謀逆德,好用凶器,試身於所末,上帝禁之,行者
        不利。」越王曰:「吾已決之矣。」遂興師。吳王聞之,悉發精兵擊越,敗之夫椒。越王乃以餘兵
        五千人保棲於會稽。吳王追而圍之。 
       4越王謂范蠡曰:「以不聽子故至於此,為之柰何?」蠡對曰:「持滿者與天,定傾者與人,節事
        者以地。卑辭厚禮以遺之,不許,而身與之市。」句踐曰:「諾。」乃令大夫種行成於吳,膝行頓
        首曰:「君王亡臣句踐使陪臣種敢告下執事:句踐請為臣,妻為妾。」吳王將許之。子胥言於吳
        王曰:「天以越賜吳,勿許也。」種還,以報句踐。句踐欲殺妻子,燔寶器,觸戰以死。種止句
        踐曰:「夫吳太宰嚭貪,可誘以利,請閒行言之。」於是句踐以美女寶器令種閒獻吳太宰嚭。
        嚭受,乃見大夫種於吳王。種頓首言曰:「願大王赦句踐之罪,盡入其寶器。不幸不赦,句踐
        將盡殺其妻子,燔其寶器,悉五千人觸戰,必有當也。」嚭因說吳王曰:「越以服為臣,若將赦
        之,此國之利也。」吳王將許之。子胥進諫曰:「今不滅越,後必悔之。句踐賢君,種、蠡良臣,
        若反國,將為亂。」吳王弗聽,卒赦越,罷兵而歸。
       5句踐之困會稽也,喟然嘆曰:「吾終於此乎?」種曰:「湯系夏臺,文王囚羑里,晉重耳奔翟,齊
        小白奔莒,其卒王霸。由是觀之,何遽不為福乎?」」
[感想]
   先ず問い掛けから始まり、テ-マが設定されて荀悦の持論が展開される。ここでは、
   ①学ぶことの大切さと反省について
   ②國の安定を図る上での君主として守るべき心得について
   ③民を愛し慈しむことの大切さについて
   ④君主と臣下の間の有り様について
 触れられている。君子の三鑒・臣下の三罪などが目新しい指摘とでも云うべきか。ここでは21の史実が紹
 介されている。                                                   (01.12.01)続く

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申鑒-俗嫌(世俗の悪習を嫌う)②

2019-11-01 08:40:11 | 仁の思想

申鑒-俗嫌(世俗の悪習を嫌う)②
10 或問:「凡壽者必有道,非習之功。」曰:「夫惟壽,則惟能用道,惟能用道,則性壽矣。苟非其性也,脩不至也。學必至聖,可以盡性,壽必用道,所以盡命。」
[書き下し文]  
  ・
或るひとが問うに、「凡そ壽者には必ず道(てだて)有り、之れ功(わざ)を習うに非ずや?」と。曰く、「夫れ惟だ壽は、則ち惟だ能く道を用い、惟だ能く道を用いる、則ち性(生まれつき)が壽ならん。苟も其れ性に非ざれば、脩(おさめ)るに至らざるなり。学べば必ず聖に至り、以て性を盡すべく、壽が必ず道を用いるは、命を盡す所以なり」と。
[訳文]
  ・
或る人が尋ねるには、「一般に長寿の人は必ずそれなりの工夫をしている筈だが、それもわざわざその為の方法を習っている訳でもあるまい?」と。答えるには、「大体寿命というものは、それを延ばす為の良い方法がある訳ではなく、ひたすら延ばす為の工夫をする事は出来るが、生まれつきのものなのだ。仮に生まれつきでないとしても、寿命を調整することなど出来る筈がない。工夫すれば必ず賢くなって与えられた寿命を全うすることが出来るし、寿命を全うする為に工夫努力することは、天寿を全うすることにもなるのである」と。
[参考]
  ・<莊子、雜篇、盜跖>
      「・・・人上壽百歲、中壽八十、下壽六十、・・・。天與地無窮、人死者有時、・・・」
  ・<論衡、正説>
     「12或説《春秋》・・・上壽九十、中壽八十、下壽七十、・・・」
11 或曰:「人有自變化而僊者,信乎?」曰:「未之前聞也。然則異也,非僊也。男化為女者有矣,死人復生者有矣,夫豈人之性哉?気数不存焉。」
[書き下し文]
  ・
或るひとが曰く、「人が自ずから變化(へんげ)し而して僊ずる者有るは、信(まこと)か?」と。曰く、「未だ之れを前聞せざるなり。然れば則ち異なるは、僊に非ず。男が女に化けること有り、死人が生き復ること有り、夫れ豈に人の性ならんや?氣數は在せざらん」と。
[訳文]
  ・
或る人が語るには、「人が意のままに変化して姿形を変える者は果たして居るのだろうか?」と。そこで答えるには、「そんなことはまだ聞いたことがない。だから異変というものは変幻自在と称する仙人とは関わりのないことである。男が女に化けたり、死人が生き返ったりすることが有ると云うが、それがどうして人間の本性と言えるのか。?物事が勝手に変化するなどと云ったことはないのだ」と。
[参考]
 
 ・僊:長生僊去。僊去疑當爲䙴去。莊子曰。千歲猒世。去而上僊。(説文解字注)
   ・<搜神記、第六卷>
       「獻帝建安七年,越雋有男子化為女子,時周群上言:哀帝時亦有此變,將有易代之事。至二十五
            年,獻帝封山陽公。」
   ・<後漢書、孝獻帝紀>
       「35是歲(初平二年)、長沙有人死經月復活。」
       「105是歲(建安四年)初置尚書左右僕射。武陵女子死十四日復活。」
       「116是歲(建安七年)、越巂男子化為女子。」
12 或問曰:「有養性乎?」曰:「養性秉中和,守之以生而已。愛親、愛德、愛力、愛神,之謂嗇,否則不宣,過則不澹。故君子節宣其氣,勿使有所壅閉滯底。昏亂百度則生疾,故喜怒哀樂思慮必得其中,所以養神也;寒暄虛盈消息必得其中,所以養體也。善治氣者,由禹之治水也。若夫導引蓄氣,歷藏內視,過則失中,可以治疾,皆非養性之聖術也。夫屈者以乎申也,蓄者以乎虛也,內者以乎外也。氣宜宣而遏之,體宜調而矯之,神宜平而抑之,必有失和者矣。夫善養性者無常術,得其和而已矣。鄰臍二寸謂之關,關者所以關藏呼吸之氣,以稟授四體也。故氣長者以關息,氣短者其息稍升,其脈稍促,其神稍越,至於以肩息而氣舒,其神稍專,至於以關息而氣衍矣。故道者,常致氣於關,是謂要術。凡陽氣生養,陰氣消殺,和喜之徒,其氣陽也,故養性者,崇其陽而絀其陰。陽極則元,陰極則凝,元則有悔,凝則有凶。夫物不能為春,故候天春而生,人則不然,存吾春而已矣。藥者療也,所以治疾也,無疾則勿藥可也。肉不勝食氣,況於藥乎?寒斯熱,熱則致滯,陰藥之用也,唯適其宜,則不為害,若己氣平也,則必有傷。唯鍼火亦如之。故養性者,不多服也,唯在乎節之而已矣。」
[書き下し文]
   ・
或るひと問うて曰く、「養性(ようせい)有りや?」と。曰く、「養性は中和を秉(と)り、守るに之れ生を以てするのみ。親(み)を愛(いと)おしみ、徳(ほんしょう)を愛(いつく)しみ、力(ちから)を愛(お)しみ、神(こころ)を愛しむ、之れを嗇(むさぼ)ると謂い、否(しか)らずば則ち不宣、過(すぐる)は則ち澹(やすらか)ならず。故に君子は其の気を節宣し、壅閉(ようへい)滯底(たいてい)する所有ら使むこと勿し。昏亂(こんらん)百度(ひゃくたび)は疾(なやみ)を生じ、故に喜怒哀楽思慮は必ず其の中を得る、養神する所以なり。寒暄(かんけん)虛盈(きょえい)消息は必ず其の中を得る、養體する所以なり。気を善く治めしは、禹の治水に由るなり。若し夫れ蓄氣を導引し、歴(あまね)く蔵(おさ)めて内視すれば、過(あやま)って則ち中を失するとしても、治疾を以てす可く、皆な養性の聖術に非ざるなり。夫れ屈(かが)むことは申(のば)すことを以てし、蓄(たくわ)えることは虚(むな)しさを以てし、内なるは外を以てするなり。気は宜しく宣(の)べ而して之れを遏(とど)め、體は宜しく調(ととの)え而して之れを矯(ただ)し、神(こころ)は宜しく平(とと)のえ而して之れに抑(したが)うも、必ず和を失する者有り。夫れ養性を善くするには常術無く、其れ和(やわら)ぎを得るのみ。臍に鄰(とな)る二寸は之れを關(かん)と謂い、關なるは呼吸の氣を關藏する所以のものにして、以て四體を稟授(ひんじゅ)するものなり。故に氣長きは關息を以てし、氣短きは其の息は稍(しだい)に升(はや)まり、其の脈は稍に促(はや)まり、其の神(こころ)は稍に越(つまず)き、肩息(けんそく)に至り而して氣は舒(ひろ)がり、其の神は稍に専(もっぱ)らとなり、關息に至り而して気は衍(めぐりゆ)く。故に道者は、常に關に氣を致し、是を要術と謂う。凡そ陽気は生養し、陰気は消殺し、和喜の徒(ともがら)は、其の気は陽なり。故に性を養(はぐく)む者は、其の陽を崇(たか)め而して其の陰を絀(しりぞ)ける。陽極まれば則ち元に、陰極まれば則ち凝(とどこ)うり、元は則ち有悔(ゆうかい)、凝うりは則ち有凶。夫れ物は春を為(もたら)すこと能わず、故に天の春を候(ま)ち而して生み、人は則ち然らず、我が春を存するのみ。薬は療(い)やし、疾を治す所以にして、疾無くば則ち薬は可とする勿れ。肉は食(し)の氣に勝らず、況んや薬に於いておや?寒は斯れ熱、熱は則ち滯(とどこお)りを致(まね)き、陰藥之れ用いるは、唯だ其の宜しきに適い、則ち害を為さず、若し己が氣平(おだや)かなれば、則ち必ず傷つくこと有り。唯だ鍼火亦た之れの如し。故に養性は、多くを服(もち)いず、唯だ節に在ること之れのみ」と。
[訳文]
  ・
或る人が尋ねて謂うには、「本然の性を全うする真の生き方というものは有るのか?」と。「真の生き方をするには過不足なく片寄らないことが大切で、それを守り通すには生きることに執着することである。自分自身を愛(いつく)しみ、徳に愛(した)しみ、体力を温存し、気持ちを大切にする、これが何事にも物惜しみせず積極的だと云う事であり、そうでなければ充分に意を尽くさないことになるし、それが過度になると安定しないことになる。それ故に君子たる者は血気を上手く発散させ、塞がり滞ることが無いように心掛けるのである。心の乱れが度重なると病(やまい)に罹ることになる、だから喜怒哀楽思慮などの感情は中庸を保つように心掛け、ゆったりと寛いで精神を修める訳はそこに有る。寒暑などの気候や体の変調や時の移り変わりなどに対する身の処し方は程ほどにして中庸を保つように心掛けるが、栄養や休息などを十分にとって身体の健康に気をつける訳はそこに有る。雲気(天地間の自然現象)を善く治めた話は、帝禹の治水事業のことである。そもそも蓄氣を体内に取り入れて、余すところなく心眼を以て物事に対処すれば、間違えると中庸を保てなくなるにしても、病を治すことが出来ると云うのが氣導術の趣旨だが、これらは全て生命の本質を本然のままの自然の状態に保つ聖人の手法とは異なるものである。そもそも屈む行為は伸ばす事を前提としたものであり、蓄える行為は虚しい事を前提としたものであり、内と云うのは外を前提としたものである。氣は体内に正しく行き渡らせて蓄えておき、肉体は正しく整えて矯め直し、精神は正しく平常を保たせて行動したとしても、必ず調和を乱す者が現れるものである。そもそも養性を正しく行う方法には決まったものがある訳ではなく、調和を保つ事が肝心なのである。臍から二寸離れたツボを関元と云い、このツボは呼吸した元気を關藏する處で、それによって手足の働きを本然の状態に保つ役目を持つものである。だから呼吸をゆっくりするには關息を用い、呼吸を弾ませるとその息は次第に早まり、その脈も次第に早まり、その心の働きは次第に躓き、肩で息するようになって気持ちも落ち着き、その心の働きも次第に集中するようになり、關息が働くようになって生気が体内を順調に巡り行くことになる。そこで長生不死の術を身に付けた道士は、關の急所に元気を集中させるが、これが要術と云うものである。一般に陽気は出生と養育に関わり、陰気は消散と滅亡に関わり、穏和で幸福な人々の生気は陽気そのものである。だから養性に励む者はその陽気を高めることに努力して陰気を遠ざけるのである。陽気に充たされれば本然の性が保たれるので後はその状態から落ちないように慎み、、陰気に充たされれば本然の性は阻害されるのでその状態から抜け出す努力をすべきである。万物は春の季節を自ら齎すことが出来ないので、自然の働きに基ずく春の季節を待って子孫を残すが、人だけはそれと異なり、季節を選ばず自身の子孫を残す能力を持っている。薬は病を治す為のもので、病が無ければ薬は必要としない。道家の養性法は肉食にも勝り、薬を用いることなど論外である。寒気は発熱の原因となるもので、発熱すると血気の停滞を招き、陰薬を用いるのが最も適していて害もなく、ただ血気が平常であれば、反って害を及ぼすことがあるので注意が必要である。鍼灸の効果についても同じ事が言える。だから養性を考える時には、何事も過度に用いることなく、慎重に節度を守ることが肝心である。
[参考]
   ・「養性」:生命の本質(神と形)を本然のままの自然の状態に保つ事。
   ・
「養生」:健康(形)の増進を図ること。
   ・<莊子、內篇、養生主篇>
        「1吾生也有涯,而知也无涯。以有涯隨无涯,殆已;已而為知者,殆而已矣。為善无近名,為惡
               无近刑。緣督以為經,可以保身,可以全生,可以養親,可以盡年。」
   ・「氣」の字
 



  ・関元:臍下指幅三本のツボ。健康の元である元気に関わるツボ。
  ・<論語、鄉黨>
         「8食不厭精,膾不厭細。食饐而餲,魚餒而肉敗,不食。色惡,不食。臭惡,不食。失飪,不食。
                不時,不食。割不正,不食。不得其醬,不食。肉雖多,不使勝食氣。惟酒無量,不及亂。沽酒
                市脯不食。不撤薑食。不多食。祭於公,不宿肉。祭肉不出三日。出三日,不食之矣。食不
                語,寢不言。雖疏食菜羹,瓜祭,必齊如也。」
   ・食氣:道家で用いられている養性の方法の一種。
   ・陰薬・鍼火:いずれも道術に於ける述語。
13 或問:「仁者壽,何謂也?」曰:「仁者內不傷性,外不傷物,上不違天,下不違人,處正居中,形神以和,故咎徵不至,而休嘉集之,壽之術也。」曰:「顏、冉何?」曰:「命也,麥不終夏,花不濟春,如和氣何?雖云其短,長亦在其中矣。」
[書き下し文]
  ・
或るひと曰く、「仁者は壽(いのちなが)し、何の謂いぞや?」と。曰く、「仁者は内では性を傷つけず、外では物を傷つけず、上は天に違わず、下は人に違わず、正に處(お)り中に居り、形神は和を以てし、故に咎徵(きゅうちょう)には至らず、而して休嘉之れを集める、壽しは之れ術なり」と。曰く、「顔(顔回)・冉(冉有)は何ぞ?」と。曰く、「命なり、麦は夏を終えず、花は春を濟(わた)らず、和気とは如何?其の短きを云うと雖も、長きは亦た其の中に在らん」と。
[訳文]
  ・
或る人が語るには、「仁徳のある人は長生きすると云うが、どうゆう意味か?」と。答えるには、「仁徳のある人は内面では天性に悖らない様にし、外面では他物を労る様に心掛け、大局的には天命を守り、身近なことでは人の道を外すことなく、肉体と精神の一致を心掛ける、そうすれば災いを招くこともなく、結果として大いなる幸せを勝ち取ることが出来る訳で、こう云った意味で長生きすると云うことは、天命を全うする為の手段に過ぎないのである」と。
[参考]
 
 ・孔門十哲の徳行の人、顔回(顔淵)、冉耕(冉伯牛)はいずれも夭折?
   ・<論語、雍也>
         「23子曰:「知者樂水,仁者樂山;知者動,仁者靜;知者樂,仁者壽。」」
   ・<史記、仲尼弟子列傳>
         「6 回年二十九,發盡白,蚤死。孔子哭之慟,曰:「自吾有回,門人益親。」」
         「11伯牛有惡疾,孔子往問之,自牖執其手,曰:「命也夫!斯人也而有斯疾,命也夫!」」
   ・<論語、先進>
         「9顏淵死。子曰:「噫!天喪予!天喪予!」 」
   ・<論語、雍也>
         「10伯牛有疾,子問之,自牖執其手,曰:「亡之,命矣夫!斯人也而有斯疾也!斯人也而有斯
                  疾也!」」
              14或問黃白之儔。曰,「傅毅論之當也。燔埴為瓦則可,爍瓦為銅則不可,以自然驗於不然,
                  詭哉!敵犬羊之肉以造馬牛,不幾矣,不其然歟?」
[書き下し文]
 
  或るひとが黃白の儔を問う。曰く、「傅毅(ふき)は之れ当に論じるなり。埴(つち)を燔(や)いて瓦と為すは則ち可し、瓦を爍(と)かして銅と為すは則ち可からず、自然を以て不然を験(ため)すは詭(たぶらか)さんか。犬羊の肉に敵(たい)して以て馬牛を造るは、幾せられざらん、其れ然らんや?」と。
[訳文]
   ・
或る人が煉丹の術について尋ねてきた。答えるには、「後漢の文人の傅毅が其の事を論じている。土を焼いて瓦を造るのは当たり前のことだが、その瓦を融かして銅を造るといったことはまやかし事であって有り得ないことであり、自然の法則に従わずに不正を試みることは世を誑かすことになる。犬や羊の肉の代わりに馬や牛を使うのは、有ってはならないことだし、良いことではない」と。
[参考]
   ・黃白:道家で、丹薬から金銀を造る術。
   ・<後漢書、文苑列傳上>
         「22傅毅字武仲,扶風茂陵人也。少博學。永平中,於平陵習章句,因作迪志詩曰:・・・」
15 世稱緯書,仲尼之作也,臣悅叔父故司空爽辨之,蓋發其偽也。有起於中興之前,終張之徒之作乎。或曰:「雜。」曰:「以己雜仲尼乎?以仲尼雜己乎?若彼者,以仲尼雜己而已。然則可謂八十一首,非仲尼之作矣。」或曰:「燔諸?」曰:「仲尼之作則否,有取焉則可,曷其燔?在上者不受虛言,不聽浮術,不采華名,不興偽事。言必有用,術必有典,名必有實,事必有功。」
[書き下し文]
   ・
世に緯書と称するは、仲尼の作なり、臣悦(荀悦)の叔父故司空の爽(荀爽)は之れを辨(ただ)す、蓋し其の偽を発(あば)くなり。中興の前に有起し、張の徒の作で終わる。或る人が曰く、「雑なことよ」と。曰く、「己を以て仲尼を雑するや?仲尼を以て己れを雑するや?彼の若(ごと)きは、仲尼を以て己を雑するのみ。然して則ち八十一首と謂うべきは、仲尼の作に非ず」と。或るひと曰く、「諸れを燔(や)きしか?」と。曰く、「仲尼の作は則ち否、取ること有らば則ち可、曷(いず)くんぞ其れ燔か?上に在る者は虚言を受けず、浮術を聴かず、華名を采(と)らず、偽事を興さず。言は必ず有用、術は必ず有典,名は必ず実有り、事は必ず功有り」と。
[訳文]
   ・
世間には儒家の経書の注釈書として緯書と称する書物が出回っているが、これは孔子が手懸けたものとされているが、私の叔父の司空まで登り詰めた故人の荀爽がその真偽を糾してその偽りを明らかにした。この緯書は、前漢の中興の祖と云われた武帝の曾孫、9代皇帝の宣帝の時代の前から盛んになり、黄巾の乱を起こした張角らの徒党の時代で終息した。或る人が云うには、「何と雑なことよ」と。そこで反論するには、「未熟な私なので大聖人の孔子を粗雑に扱ってしまったのか?或いは、大聖人の孔子が偉大すぎて浅学非才の私では真相を捉えきれなかったのか?となれば、大聖人の孔子が偉大すぎて浅学非才の私では真相を捉えきれなかったと云うことになる。とは言え本当の所は、<河圖>・<洛書>を始めとする緯書の八十一冊は、仲尼の作でないことは間違いない」と。或る人が続けて尋ねるには、「これを焼き棄ててしまったのか?」と。それに答えるには、「孔子の作と云うのは偽りだが、利益になる處が有ればそれで良いのであって、どうしてこれを焼き棄てるものか?人々の上に立つ者は根も葉もない言葉を受け付けず、非現実的な手段には耳を貸さず、華やかな物事には手を染めず、人を欺く様な事業には手を出してはならない。発する言葉は必ず世に役立つものであり、手懸ける手段は確実に道に則ったものであり、手にした名声には必ず実質を伴い、引き受けた物事には必ず結果を出すのだ」と。
[参考]
 
 ・緯書:儒家の経書を未来のことや吉凶禍福を神秘的に解釈した書物。前漢末から後漢にかけて隆盛し
             た。易緯・書緯・詩緯・礼緯・楽緯・春秋緯・孝経緯など多種。前漢末から後漢にかけて隆盛。
   ・爽:荀悦の叔父、荀爽のこと。後漢の政治家。荀氏の八龍と呼ばれた傑物で、董卓に見出されて司空
            にまで登り詰める。
   ・<後漢書、荀韓鍾陳列傳>
        「6爽字慈明,一名諝。幼而好學,年十二,能通春秋、論語。太尉杜喬見而稱之,曰:「可為人
               師。」爽遂耽思經書,慶弔不行,徵命不應。潁川為之語曰:「荀氏八龍,慈明無雙。」」
   ・張之徒:道教の一派である太平道という宗教組織を率い、黄巾の乱を引き起した、張角らの徒党のこ
                と。
   ・<隋書、卷三十二志第二十七、經籍一(經)>
        「485・・・其書出於前漢,有《河圖》九篇,《洛書》六篇,雲自黃帝至周文王所受本文。又別有三
               十篇,雲自初起至於孔子,九聖之所增演,以廣其意。又有《七經緯》三十六篇,並云孔子所
               作,並前合為八十一篇。・・・」
   ・<文心雕龍譯注、四、正緯>
        「30 11八十一篇:指河圖九篇、洛書六篇、七經緯三十六篇,還有「九聖之所增演以廣其意」的
               三十篇,共八十一篇(見《隋書,經籍志》)。」
   ・七緯(詩緯・易緯・書緯・礼緯・楽緯・春秋緯・孝経緯)は孔子の作と伝えられるが偽書。
[感想]                             
     引き続き、延命・變化(へんげ)・養性・仁徳と寿命・練丹術・経書と緯書について徐幹の見解が述べられている。道術に関連する記述が有るが、独特な術語が有るので、果たして的を射た訳になったか自信がない。                       (01.11.01)俗嫌終わり

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申鑒-俗嫌(世俗の悪習を嫌う)①

2019-10-01 08:53:00 | 仁の思想

申鑒-俗嫌(世俗の悪習を嫌う)①
1 或問卜筮。曰:「德斯益,否斯損。」曰:「何謂也、吉而濟,凶而救之謂益;吉而恃,凶而怠之謂損。」
[書き下し文]  
或るひと卜筮(ぼくぜい)を問う。曰く、「徳(よし)は斯れ益なるや、否は斯れ損なるや」と。曰く、「何の謂いぞや?、吉にして濟(な)し、凶にして之れを救(ただ)せば益と謂い;吉にして恃み、凶にして之れを怠れば損と謂う」と。
[訳文]
 ・或る人が占いについて問うてきた。云うには、「結果が善しと出れば益があり、拒まれれば損すると云うことになるのか?」と。そこで答えるには、「解りきったことを聞くね。一体何を知りたいんだね?吉と出たことを素直に受け入れて行いを慎み、凶と出ても反省して行いを正せば有益なものとなるし、吉だからと喜んで何の努力もせず現状に甘んじたり、凶と出たのにそのまま行いを正さなければそれこそ損すると云うことになるのだ」と。
[参考]
 ・<禮記、曲禮上>
     「74外事以剛日,內事以柔日。凡卜筮日:旬之外曰遠某日,旬之內曰近某日。喪事先遠日,吉事先近
          日。曰:「為日,假爾泰龜有常,假爾泰筮有常。」卜筮不過三,卜筮不相襲。龜為卜,策為筮,卜筮
          者,先聖王之所以使民信時日、敬鬼神、畏法令也;所以使民決嫌疑、定猶與也。・・・」」
2 或問曰時群忌。曰:「此天地之數也,非吉凶所生也。東方主生,死者不鮮;西方主殺,生者不寡;南方火也,居之不燋;北方水也,蹈之不沈。故甲子昧爽,殷滅周興;咸陽之地,秦亡漢隆。」
[書き下し文]
 ・或るひと時の群(かずかず)の忌(ものいみ)について問いて曰く。曰く、「此れ天地の数なり、吉凶は生む所に非ず。東方は生かす事を主(つかさど)るが、死なる者も鮮(すく)なからず;西方は殺す事を主るが、生なる者も寡(すく)なからず;南方は火なるが、居るも之れ燋(こ)げず;北方は水なるが、蹈むも之れ沈まず。故に甲子(かっし)の昧爽(まいそう)に、殷は滅び周は興り、咸陽の地に、秦は亡び漢は隆(さか)ゆ」と。
[訳文]
 ・或る人が時節の色々な物忌み事について質問してきた。答えるには、「物忌み事は上天の法則や大地の法則に則るもので、吉凶が生まれると云った事とは関係ない。例えば方位と云った事について云えば、東の方角は物を生み出す事に関係するが、死に関連する事も少なくないし、西の方角は命を絶つ事に関係するが、生に関する事も少なくないし、南の方角は火の様な灼熱の性質を持つが、その場に居ても燃え尽きる訳でもないし、北の方角は水の様な流体の性質を持つが、その場に居ても沈んで仕舞う訳でもない。と云う訳で同じ甲子(きのえね)の日の未明に、牧野の戦で殷王朝は滅んで周王朝が勃興しているし、同じ咸陽の地で秦王朝は亡び漢王朝が栄えたのである」と。
[参考]
 ・天数:天帝の道(法則)。 ・地数:大地の法則。
 ・<周易、繫辭上>
    「9天一地二,天三地四,天五地六,天七地八,天九地十。天數五,地數五,五位相得而各有合。天
           數二十有五,地數三十,凡天地之數,五十有五,此所以成變化,而行鬼神也。・・・」
 ・<尚書、周書、洪範>
    「3一、五行:一曰水,二曰火,三曰木,四曰金,五曰土。水曰潤下,火曰炎上,木曰曲直,金曰從
           革,土爰稼穡。潤下作鹹,炎上作苦,曲直作酸,從革作辛,稼穡作甘。」
 ・五行概念:
    五行:   木   火   土    金   水
    五方:   東   南  中 央   西   北
    五時:  春(生) 夏  土 用  秋(死) 冬
    五常:   仁   禮  (信)   義   智
    八卦:  雷・風  火  山・地  天・沢  水
 ・<尚書、周書、牧誓>
    「1時甲子昧爽,王朝至于商郊牧野,乃誓。・・・」
 ・<史記、殷本紀>
    「33・・・周武王於是遂率諸侯伐紂。紂亦發兵距之牧野。甲子日,紂兵敗。紂走入,登鹿臺,衣其寶
             玉衣,赴火而死。周武王遂斬紂頭,縣之[大]白旗。・・・」
3 或問五三之位周應也,蘢虎之會晉祥也。曰:「官府設陳,富貴者值之。布衣寓焉,不符其爵也。獄犴若居,有罪者觸之。貞良入焉,不受其罰也。」或曰:「然則日月可廢歟?」曰:「否。曰元辰,先王所用也,人承天地,故動靜焉順焉。順其陰陽,順其日辰,順其度數。內有順實,外有順文,文實順理也,休徵之符,自然應也。故盜泉朝歌,孔、墨不由,惡其名者,順其心也。苟無其實,徼福於忌,斯成難也。」
[書き下し文]
 ・或るひと五三の位(ほうい)に周が応えし事、蘢虎(ろうこ)の會(であい)に晋が祥(さいわ)いせし事を問う。曰く、「官府は陳(ならび)を設け、富貴の者は之を値(ねうち)とす。布衣(ふい)は焉(これ)に寓(よ)るも,其の爵を符(わりふ)られず。獄犴(ごくかん)に若し居りて、罪有る者は之れに觸れる。貞良に入(かかわ)れば、其の罰を受けず」と。或るひと曰く、「然らば則ち日月は廃すべきか?」と。曰く、「否。曰く元辰は先王の用いる所なり、人は天地に承け、故に動静は焉(こ)れ順(したが)わん。順うは其れ陰陽、順うは其れ日辰、順うは其れ度数なり。内には實(なか)みに順うこと有り、外には文(あや)に順うこと有りて、文と実は順(しだい)と理(ことわり)なり、休徵の符は、自然の應(こたえ)なり。故に盗泉(とうせん)・朝歌(ちょうか)に、孔・墨は由らず、其の名を悪むに、順うは其れ心なり。苟且にも其れ実無く、忌まわしきものに福を徼(もと)めるは、斯れ成り難きことなり」と。
[訳文]
 ・或る人が天体の三辰・五星の方位に反応して周王朝が建国されたという故事や、二十八宿の東方青龍と西方白虎の二房宿の会合に晋国が吉兆を感じたという故事について問うてきた。答えるには、「朝廷が序列を設ければ、それを富貴の階級は歓迎する。庶民はこれに期待するが、爵位は与えられない。それは牢獄に居る罪人にとっても同じ事である。忠正誠信を保てば、その限りではない。と云う様にそれぞれの立場によって星占いの受け取り方は変わってくるものなのだ」と。或る人が更に尋ねる、「それならば、占星術などは必要ないのか?」と。答えるには、「否否そうじゃない。吉日を占う行事は昔の帝王が能く行ったと云われており、人は上天や大地に影響を受けているのだから、その動静に影響を受けるのは当たり前のことである。従う対象となるのは陰陽の動向であり、日月星辰の動向であり、起こる回数などである。内面的には本質の動向(實)に従い、外面的には形式(文)を重んじる、文とは外に現れる形であり、實とは物事の道理のことであり、吉祥の徴候は自然の応答なのである。そういう訳で、孔子は盗泉と云う名の泉の水を飲むことを止めたし、墨子は暴君の紂王の酒池肉林が行われた殷の都の朝歌を嫌って避けて通ったが、何れも其の名を嫌ったが為であり、その行為は本質を見透した上でのものだったのである。一時の間に合わせにしろ実質の伴わない、忌まわしいものに幸運を求めるのは、有っては為らないことである」と。
[参考]
 ・五三:五星(木・火・土・金・水)三辰(日・月・北斗星)。
 ・二十八宿:中国の天文学・占星術で用いられた、天球を二十八の区域(星宿)に分割したもの。区分の基
                準となった天の赤道付近の二十八の星座(星官・天官)の事。
 ・蘢虎:方位の四神(蒼龍・白虎・朱雀・玄武)の内の蒼龍・白虎の二つ。
 ・<春秋元命包>
    「殷時五星聚於房,房者蒼神之精,周據而興。」
 ・<春秋左傳、僖公五年>
    「2僖公五年 ・・・八月,甲午,晉侯圍上陽問於卜偃曰,吾其濟乎,對曰,克之,公曰,何時,對曰,
           童謠云,丙之晨,龍尾伏辰,均服振振,取虢之旂,鶉之賁賁,天策焞焞,火中成軍,虢公其奔,
           其九月十月之交乎。丙子旦,日在尾,月在策,鶉火中,必是時也。冬,十二月,丙子朔,晉滅
           虢。・・・」
 ・卜偃:春秋時代の晋の献公に仕えた大夫で、卜官でもあった。
 ・盗泉:中国の山東省泗水県にあった泉の名。孔子がその名を忌み、飲まなかったという故事によって知
           られている。→渴不飲盜泉水(猛虎行)
 ・朝歌:殷の晩期の首都・衛の首都など諸説あるが、紂王の時の離宮別館があった地方の大都市とも云
          われる。殷の紂王が都とした地で、県城の西に糟丘および酒池肉林があった。紂王が自害した鹿
          台は城内にある。県内に賊徒の集まる黒山がある。
 ・<論衡、問孔>
    「65孔子不飲盜泉之水,曾子不入勝母之閭,避惡去汙,不以義,恥辱名也。盜泉、勝母有空名,而
             孔、曾恥之;佛肸有惡實,而子欲往。不飲盜泉是,則欲對佛肸非矣。「不義而富且貴,於我如
             浮雲。」枉道食篡畔之祿,所謂浮雲者,非也。」
 ・<淮南子、說山訓>
    「15墨子非樂,不入朝歌之邑;曾子立廉,不飲盜泉;所謂養志者也。紂為象箸而箕子唏,魯以偶人
             葬而孔子歎。故聖人見霜而知冰。」
4 或曰:「祈請者誠以接神,自然應也。故精以底之,犧牲玉帛,以昭祈請,吉朔以通之。禮云禮云,玉帛云乎哉?請云祈云,酒膳云乎哉?非其禮則或愆,非其請則不應。」
[書き下し文]
 ・或るひと曰く、「祈請なるは誠に以て神に接し、自然に応えるものなり。故に精(こころ)をつくして以て之れに底(いた)るに、犠牲玉帛(ぎせいぎょくはく)は,昭を以て祈請し、吉朔は以て之れを通(のべ)る。禮と云い禮と云うも、玉帛を言わんや?請と云い祈と云うも、酒膳を言わんや?其れは禮に非ず則ち或いは愆(あやま)ちにして、其れは請に非ず則ち応えず」と。
[訳文]
 ・或る人が語るには、「神に祈ると云う行為は真摯に神に接し、素直に神の意志を受け入れることである。そこで真心を尽くしてそう言う状態を実現するには、神に捧げる生け贄や宝石・絹織物などには、余計なものは加えずに信を尽くして祈願し、月初めの目出度い日にはこの清い心を以て接するのである。禮を尽くすのだと云っても、玉や絹布を奉納すれば良いと云ったものではあるまい?真心を持って祈願せよと云っても、お酒や豪華な料理を供えれば良いと云ったものでもあるまい?そんなことは神に接する禮義には当たらないし、反って禮義に悖ることにもなり、それは祈願でも何でもないのである」と。
[参考]
 ・<春秋左傳、莊公十年>
    「2十年,春,・・・犧牲玉帛,弗敢加也,必以信,・・・」
 ・<論語、陽貨>
    「11子曰:「禮云禮云,玉帛云乎哉?樂云樂云,鐘鼓云乎哉?」」
5 或問祈請可否。曰:「氣物應感則可,性命自然則否。」
[書き下し文]
 ・或るひと祈請の可否を問う。曰く、「氣物や應感については則ち可、性命や自然については則ち否」と。 [訳文]
 ・或る人が神仏に祈って加護を願うことの是非について尋ねた。答えるには、「運気や心の働きについては祈願しても構わないが、天命や自然の摂理については祈願することは出来ない」と。
6或問:「避疾厄,有諸?」曰,「夫疾厄,何為者也?非身則神、身不可避,神不可逃。可避非身,可逃非神也。持身隨天,萬里不逸。譬諸孺子掩目巨夫之掖,而曰逃可乎?」
[書き下し文]
 ・或るひとが問う、「疾厄を避けるは、諸れ有りや?」と。曰く、「夫れ疾厄とは、何ん為るものぞや?身は則ち神に非ざれば、身は避けるべからず、神は逃げさすべからず。避けるべきは身に非ず、逃げさすべきは神に非ざるなり。身を持して天に随い、萬里不逸(に)げず。諸れを譬えれば孺子が巨夫の掖(わきがかえ)に目を掩(おお)い、而して曰(さて)逃げるは可なりや?」と。
[訳文]
 ・或る人が尋ねるには、「病気の苦しみから逃れることは出来るだろうか?」と。答えるには、「病気の苦しみとは何を意味するのか?人間の肉体は神とは違うのだから、肉体は苦しみを避けることは出来ないし、神でも避けさせることは出来ない。避けるべきは肉体では無いし、逃げさせるのは神ではない。心得るべき事は、肉体を大事にして天命に従い、強い意志を持って避けることも逃げることもしないことだ。譬えれば、童子が大男の脇に抱えられて怖くて目を瞑ってしまったら、逃げることなど出来ない様に、浅はかな考えなど抱かぬ事だ」と。
[参考]
 ・<三國志、魏書二十一、王粲傳>
    「7・・・琳諫進曰:「易稱『即鹿無虞』。諺有『掩目捕雀』。夫微物尚不可欺以得志,況國之大事,其可
              以詐立乎?・・・」
7 或問人形有相。曰:「蓋有之焉。夫神氣、形容之相包也,自然矣。貳之於行,參之於時,相成也,亦參相敗也。其數眾矣,其變多矣,亦有上中下品云爾。」
[書き下し文]
 ・或るひと人形(ひとかた)に相有りやと問う。曰く、「蓋し之れ有らん。夫れ神気と形容は相(とも)に包(くく)るが、自然なり。貳に之れ行に、参に之れ時に、相に成るなり、亦た参に相に敗れるなり。其の数は眾く、其の変はも多く、亦た上中下の品を有するとしかいう」と。
[訳文]
 ・或る人が、人に人相が有る様に人形にも人形相と云ったものが有るのかと尋ねてくる。答えるには、「確かに有る。そもそも不思議な霊気とその姿形は一体のもので、それが自然の姿である。その振る舞いや普段の状態では一体のものではあるが、時によっては分離してしまうこともある。人形相の種類は多く、その変化も多様であり、上中下の品格を持つのも事実である」と。
[参考]
 ・人形(ひとかた):人の形をした宗教的行事(お祓いの時)に用いられたもの。尸・形代などとも云う。
 ・人形(にんぎょう):「ひとかた」として用いられていたものが、中世以降に観賞用として発達したもの。木
                          偶・偶人などとも云う。
 ・<史記、殷本紀>
    「28帝武乙無道,為偶人,謂之天神。與之博,令人為行。天神不勝,乃僇辱之。為革囊,盛血,卬而
             射之,命曰「射天」。武乙獵於河渭之閒,暴雷,武乙震死。子帝太丁立。帝太丁崩,子帝乙立。
             帝乙立,殷益衰。」
 ・<周禮、夏官司馬>
    「101節服氏:掌祭祀、朝覲,袞冕六人,維王之太常。諸侯則四人,其服亦如之。郊祀,裘冕二人,
             執戈,送逆尸,從車。」
 ・<呂氏春秋、季秋紀、順民>
    「2昔者湯克夏而正天下,天大旱,五年不收,湯乃以身禱於桑林,曰:「余一人有罪,無及萬夫。萬
           夫有罪,在余一人。無以一人之不敏,使上帝鬼神傷民之命。」於是翦其髮,𨟖其手,以身為犧
           牲,用祈福於上帝,民乃甚說,雨乃大至。則湯達乎鬼神之化,人事之傳也。」
 ・<春秋左傳、僖公二十一年>
    「2・・・夏,大旱,公欲焚巫尪,臧文仲曰,非旱備也,脩城郭,貶食省用,務穡勸分,此其務也,巫尪
            何為,天欲殺之,則如勿生。若能為旱,焚之滋甚,公從之,是歲也,饑而不害。」
 ・<列子、湯問>
    「13・・・偃師謁見王。王薦之曰:「若與偕來者何人邪?」對曰:「臣之所造能倡者。」穆王驚視之,趣
            步俯仰,信人也。巧夫,顉其頤,則歌合律;捧其手,則舞應節。千變萬化,惟意所適。王以為實
            人也。與盛姬內御並觀之。技將終,倡者瞬其目而招王之左右侍妾。王大怒,立欲誅偃師。偃師
            大懾,立剖散倡者以示王,皆傅會革、木、膠、漆、白、黑、丹、青之所為。王諦料之,內則肝、
            膽、心、肺、脾、腎、腸、胃,外則筋骨、支節、、皮毛、齒髮,皆假物也,而无不畢具者。合會復
            如初見。王試廢其心,則口不能言;廢其肝,則目不能視;廢其腎,則足不能步。・・・」
8 或問神僊之術。曰:「誕哉!末之也已矣。聖人弗學,非惡生也。終始運也,短長數也。運數力之為也。」曰:「亦有僊人乎?」曰:「僬僥桂莽,產乎異俗,就有仙人,亦殊類矣。」
[書き下し文]
 ・或るひとが神僊の術を問う。曰く、「誕(いつわり)かな!之れ末(な)きのみ。聖人は学ばざるに、悪生に非ざるなり。終始運(さだめ)なり、短長も数(さだめ)なり。運数は人力の為すことに非ざるなり」と。曰く、「亦た僊人(せんにん)有りや」と。曰く、「僬僥(しょうぎょう)桂莽(けいもう?)は、異俗に産(う)まれ、就(な)す有る仙人は、亦た殊類(しゅるい)なるかな」と。
[訳文]
 ・或る人が、仙人の仙術について尋ねる。答えるには、「仙術というものはまやかしものである!有ってはならないものである。聖人は特に教わる訳でもないのに、正しい生き方をする。人の一生は一貫して定められたものであり、死も生も定められたものである。この定めというものは人力ではどうすることも出来ないものである。」と。また尋ねる、「そうは云っても仙人は存在するのだろう!」と。答えるには、「小人國に住む僬僥人や桂莽(?)らは、異なった環境の下に生まれた者だが、生まれながらの仙人という者は、やはり特別な存在である」と。
[参考]
 ・<山海經、海外南經>
    「21周饒國在其東,其為人短小,冠帶。一曰焦僥國在三首東。」
 ・<山海經、大荒南經>
    「20有小人,名曰焦僥之國,幾姓,嘉穀是食。 」
 ・<列子、湯問>
    「2從中州以東四十萬里,得僬僥國。人長一尺五寸。東北極有人名曰諍人,長九寸。」
9 或問:「有數百歲人乎?」曰:「力稱烏獲,捷言羌・亥,勇期賁・育,聖云仲尼,壽稱彭祖,物有俊傑,不可誣也。」
[書き下し文]
 ・或るひとが問うに、「数百歳の人有りや?」と。曰く、「力は烏獲(うかく)を称(たた)え、捷(はや)きは羌(きょう?)、亥(がい)を言い、勇(おお)しきは賁(ふん)、育(いく)を期(き)し、聖(ひじり)は仲尼を云い、壽(いのちながき)は彭祖(ほうそ)を称え、物には俊傑有り、誣(ぶ)しむべからずなり」と。 誣(ぶ)しむべからずなり
[訳文]
 ・或る人が尋ねるには、「五・六百歳も長生きした人は居るだろうか?」と。答えるには、「剛力では秦の烏獲将軍が称賛されるし、脚力では羌人(?)や豎亥の名が挙げられるし、胆力では秦の孟賁将軍や衛の勇士の夏育が挙げられるし、聖人とは孔子のことであり、長寿者としては八百歳の寿命を保った伝説上に仙人の彭祖が称賛されているが、世の中には衆人より勝れた人物が居るもので、これは明白な事実なのである」と。
[参考]
 ・彭祖:中国の神話の中で長寿の仙人であり、伝説の中では南極老人の化身とされており、八百歳の寿
           命を保ったことで有名である。
 ・<列子、力命>
    「1・・・彭祖之智不出堯、舜之上,而壽八百;顏淵之才不出眾人之下,而壽十八。仲尼之德。不出諸
           侯之下,而困於陳,蔡・・・」
 ・烏獲(生没年不詳):中国戦国時代の秦の将軍。武王に仕えた。任鄙や孟賁と並ぶ大力士として知られ、
                            千鈞の物を持ち上げる力が有ったと言われる。勇士を好む秦の武王に取り立てら
                            れ、彼らと共に大官に任じられた。
 ・孟賁(または孟説):武王に仕えた任鄙・烏獲や夏育、成荊、呉の慶忌と並ぶ大力無双の勇士と知られた
                            秦の将軍。孟賁は生きた牛の角を抜く程の力を持っており、勇士を好む秦の武王に
                            取り立てられ仕えた。武王と力比べで鼎の持ち上げを行った際、武王は脛骨を折っ
                            て亡くなってしまった。その罪を問われ、孟賁は一族と共に死罪に処されたと言う。  
  ・夏育:戦国時代の衛の武将。秦の武王に仕えた任鄙・孟賁・烏獲や成荊、呉の慶忌と並ぶ千鈞の物を持
           ち上げる大力無双の勇士。
 ・<史記、范睢蔡澤列傳>
    「13・・・且以五帝之聖焉而死,三王之仁焉而死,五伯之賢焉而死,烏獲、任鄙之力焉而死,成荊、
           孟賁、王慶忌、夏育之勇焉而死。死者,人之所必不免也。」
 ・<史記、秦本紀>
    「64・・・武王有力好戲,力士任鄙、烏獲、孟說皆至大官。王與孟說舉鼎,絕臏。八月,武王死。族孟
           說。・・・」
 ・<韓非子、觀行>
    「2・・・有烏獲之勁,而不得人助,不能自舉。有賁、育之彊,而無法術,不得長生。故勢有不可得,事
           有不可成。故烏獲輕千鈞而重其身,非其身重於千鈞也,勢不便也;離朱易百步而難眉睫,非百
           步近而眉睫遠也,道不可也。故明主不窮烏獲,以其不能自舉;不困離朱,以其不能自見。因可
           勢,求易道,故用力寡而功名立。時有滿虛,事有利害,物有生死,人主為三者發喜怒之色,則
           金石之士離心焉。聖賢之撲淺深矣。故明主觀人,不使人觀己。明於堯不能獨成,烏獲不能自
           舉,賁、育之不能自勝,以法術則觀行之道畢矣。」
 ・<漢書、司馬相如傳>
    「17臣聞物有同類而殊能者,故力稱烏獲,捷言慶忌,勇期賁育。臣之愚,竊以為人誠有之,獸亦宜
           然。今陛下好陵阻險,射猛獸,卒然遇逸材之獸,駭不存之地,犯屬車之清塵,輿不及還轅,人
           不暇施巧,雖有烏獲、逢蒙之技不能用,枯木朽株盡為難矣。是胡越起於轂下,而羌夷接軫也,
           豈不殆哉!雖萬全而無患,然本非天子之所宜近也。」
 ・羌:出所不明。古代より中国西北部に住んでいた遊牧民族、西羌人のことか?
 ・亥:神話に出てくる健脚の上故神、豎亥のこと。
 ・<山海經、海外東經>
    「9帝命豎亥步,自東極至于西極,五億十選九千八百步。豎亥右手把算,左手指青丘北。一曰禹令
           豎亥。一曰五億十萬九千八百步。」
 ・<淮南子、墬形訓>
    「6・・・使豎亥步自北極,至於南極,二億三萬三千五百里七十五步。・・・」
[感想]
  ここでは卜筮・物忌み・占星・祈請・疾厄・人形(ひとかた)・仙術・長寿など、民間の俗信について徐幹の考え方が述べられている。徐幹が生きた後漢最後の献帝の世は、乱世とも云える時代だから、民力も疲弊しさぞかし俗信が横行したに違いない。それを目前にして徐幹は自論を述べて正そうとしたのであろう。                         
                                                                            (01.10.01) 続く

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申鑒-時事(時々の事情を鑑みる)③

2019-08-30 09:30:42 | 仁の思想

申鑒-時事(時々の事情を鑑みる)③
聖王先成民而後致力於神,民事未定,郡祀有闕,不為尤矣。必也舉其重而祀之,望祀五嶽四瀆,其神之祀,縣有舊常,若今郡祀之,而其祀禮物,從鮮可也。禮重本,示民不偷,且昭典物,其備物以豐年,日月之災降異,非舊也。
[書き下し文]  
聖王は先ず民を成(おさ)め而して後に神に力を致す、民事未だ定まらざれば、郡祀は闕(おこた)ること有るも、尤もとは為さず。必ずや其の重きを挙げ而して之を祀り、五嶽四瀆(ごがくしとく)を望祀(ぼうし)して、其の神の祀りは、県に舊常有り、若し今ま之れを郡祀し、而して其れ禮物を祀るに、従うは鮮(あきらか)に可なり。禮は本を重んじ、民に示すに偷(なおざ)りにせず、且つ典物を昭かにし、其の備え物は豊年を以てするも、日月の災(わざわい)が降異するは、舊(ふる)きことに非ざればなり。
[訳文]
 ・聖王は先ず民を良く治めてから神に祈りを捧げて加護を求めるが、政治が安定していない時に郡部の祭祀を見送ることがあるのは、これは道理に適ったことではない。確りとその大切さを認識して祭祀を実行し、五大名山・四大河川の山川地祇を遙拝祭祀してその神々を祀る行事は地方に昔から有る仕来りであり、もし今ま郡部の祭祀を実行して禮物を供えるならば、それは誠に礼節に適った行為であることは間違いない。礼節は基本を大事にするものであり、人民に対してもその重要性を認識させる必要があり、その上に典章制度を明示し、供物は豊作の年に供える様にするのも、自然災害が毎年異なるからであり、それは今でも起こっていることなのである。
[参考]  
  ・<春秋左傳、桓公六年>
    「2・・・夫民,神之主也,是以聖王先成民,而後致力於神,・・・。」
 ・五嶽:中国の五大名山,すなわち東岳泰山,南岳衡山,西岳華山,北岳恒山,中岳嵩山(すうざん)の
           総 称。神仙の住む所とされ,歴代多くの帝王がみずから祭祀を行った。
 ・四瀆:中国の河川を代表する江(長江),河(黄河),淮(淮河),済(済水)の4河川を指す。五嶽と共に古く
           から信仰の対象となっていた。
天人之應,所由來漸矣。故履霜堅冰,非一時也,仲尼之禱,非一朝也。且日食行事,或稠或曠,一年二交,非其常也。《洪範傳》云:六沴作見。若是王都未見之,無聞焉爾,官脩其方,而先王之禮,保章視祲,安宅敘降,必書雲物,為備故也。 太史上事無隱焉,勿寢可也。
[書き下し文]
 ・天人の應、由りて来る所は漸(ぜん)なり。故に履霜堅冰(りそうけんぴょう)は、一時に非ず、仲尼の禱(いの)りは、一朝に非ざるなり。且つ日食の行事は、或いは稠(こまやか)に或いは曠(ひろ)く、一年二交にして、其れ常に非ざるなり。<洪範傳>に云う、「六沴(れい)作見す」と。若し是れ王都未だ之れを見ず、聞くことも無くんば、官は其の方(てだて)を脩(おさ)め、而して先王の禮は、保章氏や視祲(ししん)が、安宅(あんたく)・敘降(じょこう)し、雲物を必書するは、備える為の故なり。太史が上事は隠すこと無く、寝(おこた)ること勿るが可なり。
[訳文]
 ・天と人との間の感応には、それなりに長い時間が掛かるものである。だから大きな災難に遭わない様に、少しでも其の前兆があれば避ける用意をし、其の時ばかりではなく孔子が行っていた様に、絶えず天に祈り続けることが大切である。更に日食の行事については、常に丁重にまた常に盛大にする事を心掛けるべきで、一年に二回の事で常態化したものではない事を念頭に止めておくべきである。<洪範傳>には、「六つの禍いが現れた」とある。もしこの現象を王都で今まで経験したことが無いのであれば、官吏たる者は其の手立てを整えておくべきで、こうして聖天子の正しい作法として、暦を作る保章氏や雲気を観察して禍福を占う視祲などの官吏に、安全な場所や災害発生場所を予測させたり、雲気(空模様)を必ず記録させたりするのは、備えを万全にする為なのである。國家に関する記録を掌る史官は国事は余すところなく記録し、何事も疎かにしないことが大事である。
[参考]
   ・<周易、坤卦>
    「10積善之家,必有餘慶;積不善之家,必有餘殃。臣弒其君,子弒其父,非一朝一夕之故,其所由
             來者漸矣,由辯之不早辯也。《易》曰「履霜堅冰至」,蓋言順也。」
   ・<漢書、文帝紀>
    「14二年十一月癸卯晦,日有食之。詔曰:「朕聞之,天生民,為之置君以養治之。人主不德,布政不
             均,則天示之災以戒不治。乃十一月晦,日有食之,適見于天,災孰大焉!朕獲保宗廟,以微
             眇之身託于士民君王之上,天下治亂,在予一人,・・・」
   ・六沴:六気(陰・陽・風・雨・晦・明)が均衡を崩した場合に起こる異常現象。陰→寒疾,陽→熱疾,風→
            末疾,雨→腹疾,晦→惑疾,明→心疾。天の六気(陰・陽・風・雨・晦・明)が地に過剰に降って現
            れる、寒疾・熱疾・四肢の疾・腹の疾・惑疾・心の疾を云う。
  ・<春秋左傳、昭公元年>
        「・・・天有六氣,降生五味,發為五色,徵為五聲,淫生六疾,六氣曰陰,陽,風,雨,晦明也,分
            為四時,序為五節,過則為菑,陰淫寒疾,陽淫熱疾,風淫末疾,雨淫腹疾,晦淫惑疾,明淫心
            疾,・・・」
   ・<尚書大傳、周傳、洪範五行傳>
        「1・・・若六沴作,見若是共共禦,[(註)若,順也。共讀曰恭。禦,止也。帝]・・・」
   ・六極(六種不幸的事):一曰凶(早死),二曰疾(疾病),三曰憂(憂愁),四曰贫(贫究),五曰悪(悪
                                恶),六曰弱(不壮毅)。”
   ・六沴とは:天の六気(陰・陽・風・雨・晦・明)が地に過剰に降って現れる、寒疾・熱疾・四肢の疾・腹の
                 疾・惑疾・心のこと。
   ・<漢書、匡張孔馬傳>
       「45會元壽元年正月朔日有蝕之,後十餘日傅太后崩。・・・又曰『六沴之作』,歲之朝曰三朝,其
                應至重。乃正月辛丑朔日有蝕之,變見三朝之會。上天聰明,苟無其事,變不虛生。・・・」
   ・<周禮、春官宗伯>
       「131視祲:掌十輝之法,以觀妖祥,辨吉凶。一曰祲,二曰象,三曰鑴,四曰監,五曰闇,六曰
                         瞢,七曰彌,八曰敘,九曰隮,十曰想。掌安宅敘降。正歲,則行事;歲終,則弊其
                         事。」   視祲:雲気を見て吉凶を占う役人。
       「147保章氏:掌天星,以志星辰日月之變動,以觀天下之遷,辨其吉凶。以星土辨九州之地,所
                         封封域皆有分星,以觀妖祥。以十有二歲之相,觀天下之妖祥。以五云之物辨吉凶、
                         水旱降、豐荒之祲象。以十有二風,察天地之和、命乖別之妖祥。」
                   保章氏:国府で作られたものに注を補い、郡の暦を作る役人。
   ・<春秋左傳、僖公五年>
       「2五年,春,王正月,辛亥朔,日南至,公既視朔,遂登觀臺以望,而書,禮也。凡分,至,啟,
              閉,必書雲物,為備故也。」
天子南面聽天下,嚮明而治,蓋取諸《離》,天之道也。月正聽朝,國家之大事也。宜正其儀,以明舊典。 [書き下し文]
 ・天子は南面して天下を聴き、明に嚮(むか)いて治む、蓋し諸(こ)れを《離》に取るは、天の道なり。月正(げつせい)に朝(まつりごと)を聴くは、国家の大事なり。宜しく其の儀を正し、以て舊典を明らかにすべし。 [訳文]
 ・天子は南面し正しく正座して政治の現状を聴取すれば、天下は明るい方向に向かって治まると云う事は、将に離の卦に従うことであり、天の道と云うものである。年の初めに朝廷で聴聞会を開くことは、国家にとって最も大事な行事となる。当然のことながらその儀禮の有り方を正して、昔の良き制度を守り通すべきである。
[参考]
 ・<周易、說卦>
    「5・・・聖人南面而聽天下,嚮明而治,蓋取諸此也。・・・」
 ・<易經、離卦>
    「1離:利貞,亨。畜牝牛,吉。彖傳:離,麗也;日月麗乎天,百穀草木麗乎土,重明以麗乎正,乃化
              成天下。柔麗乎中正,故亨;是以畜牝牛吉也。象傳:明兩作離,大人以繼明照于四方。」
古有掌陰陽之禮之官,以教後宮,掌婦學之法、婦德婦言婦功,各率其屬,而以時御序于王,先王禮也。宜崇其教,以先內政,覽列圖,誦列傳,遵典行。內史執其彤管,記善書過,考行黜陟,以章好惡。男女正位乎外內,正家而天下定矣。故二儀立而大業成,君子之道,匪闕終日,造次必於是。
[書き下し文]
 ・古えに陰陽の禮を掌る官有り、以て後宮を教えるに、婦学の法、婦德・婦言・婦功を掌り、各々其の属(ともがら)を率い、而して時に王に御序するは、先王の禮なり。宜しく其の教えを崇め、以て内政を先にし、列圖を覽(なが)め、列傳を誦(そらん)じ、典行に遵(のっと)る。內史は其の彤管(とうかん)を執り、善を記し過ちを書き、行を考(はか)って黜陟(ちっちょく)し、以て好悪を章(あき)らかにす。男女は外內に正位し、家を正し而して天下定まる。故に二儀立ち而して大業成り、君子の道は、匪闕(ひけつ)終日、造次(ぞうじ)にも必らず是に於いてす。
[訳文]
 ・古い時代に陰陽の禮義を管掌する官職の者が居り、内宮で女官に女性として守るべき婦德・婦言・婦功などの道徳を教え、それぞれ部下を従えて、時には王に進講するという仕来りは、昔の聖王の習わしであった。女官等は誠意を以てその教えを尊重し、後宮を治める事を優先し、多くの書籍を読み、多くの伝記を諳んじ、教えの道を守ったのである。法典や宮中記録を掌る内史は、宮中の政令や后妃のことを記録し、女官の善行や過失を余す處なく書き記し、その行為を評定して官位を定め、業績評価を行った。男女の所在は外宮と内宮に厳格に区分けし、内宮を正しく運営してこそ天下は安定するのである。こうして男女間の本文が成り立って偉業が完成し、君子の道は終日絶える事なく、如何なる時も仁の境地を守り通したのである。
[参考]
  ・<周禮、天官冢宰>
       「131九嬪:掌婦學之法,以教九御婦德、婦言、婦容、婦功,各帥其屬而以時御敘于王所。凡祭
                 祀,贊玉粢,贊後薦、徹豆籩。若有賓客,則從後。大喪,帥敘哭者亦如之。」
備博士,廣太學,而祀孔子焉,禮也。仲尼作經,本一而已,古今文不同,而皆自謂真本經。古今先師義一而已,異家別說不同,而皆自謂古今。仲尼邈而靡質,昔先師沒而無間,將誰使折之者。秦之滅學也,書藏於屋壁,義絕於朝野,逮至漢興,收摭散滯,固已無全學矣,文有磨滅,言有楚夏,出有先後,或學者先意有所借定,後進相放彌以滋蔓。故一源十流,天水違行,而訟者紛如也。執不俱是,比而論之,必有可參者焉。
[書き下し文]
 ・博士を備え、太学を広め、而して孔子を祀るは、禮なり。仲尼は經を作し、本(もと)一つのみにて、古今の文は同じからず、而して皆自らは真の本經と謂う。古今先師は義一つのみにて、異家の別説は同じからず、而して皆自ら古今と謂う。仲尼は邈(とお)く而して質(ただ)すこと靡(な)らず、昔し先師が没し而して間無くに、將に誰か之れを折(わ)け使める者ぞ。秦の學を滅ぼすや、書は屋壁に藏(かく)され、朝野より義絕され、漢の興るに至るに逮(およ)び、散滯(さんたい)を收摭(しゅうせき)するも、固(もと)より已に全學は無く、文は摩滅有り、言は楚夏が有(もち)いられ、出(いずる)に先後有り、或る學者は先意して借定(そてい)する所有り、後進は相(たがい)に放ち彌(ますます)以って滋蔓(じまん)す。故に一源十流、天と水と違(たが)い行き、而して訟(しょう)なるは紛の如きなり。執るには是れを俱にせず、比(くら)べて之れを論じ、必らず参ずべきもの有らん。
[訳文]
 ・五経博士制度を整え、大学を全土に広めて、儒学の祖である孔子を崇めることは、礼節に適った事である。聖人である孔子は人の守るべき道理を示した経書を著し、その元となる書物は一つだけだが、それには古文経書と今文経書と云う二つの異なる記述方式があり、それぞれが本經を主張している。本来孔子が述べている本義は一つだが、異なる流派のそれぞれの主張は根本的に異なるものがあり、それぞれが自説を曲げないのである。孔子は遙かに遠い存在でその違いを教えて貰う訳にもいかないが、昔し孔子が亡くなってから間が無いと云う時期に、こんな風に二派に分かれる事など誰も予想しなかったに違いない。秦朝が儒学を滅ぼすと、民間では屋壁に経書を埋め込んで隠したので経書が世の中から姿を消したが、漢朝が興ることによって、その埋もれていた儒学文献が日の目を見る様になったが、全ての経典が姿を現した訳ではなく、文章には摩滅した箇所もあり、その字体は漢代通用の隷書体ではなく、先秦時代の古い文字が用いられ、出土もバラバラで、或る学者は先走って憶測の上断定するし、後進は互いに好き勝手に自論を強調する有様である。その結果様々な学派が横行し、勝手気ままに論争を繰り返して紛争する始末である。この問題を取り挙げるに当っては、軽々しく論ずる事なく十二分に比較検証すれば、必ず目的を達成出来る筈である。
[参考]
 
 ・<周易、訟卦>
       「1象傳: 天與水違行,訟;君子以作事謀始。」
   ・<史記、秦始皇本紀>
       「38始皇置酒咸陽宮,博士七十人前為壽。・・・丞相李斯曰:「・・・禁之便。臣請史官非秦記皆燒
              之。非博士官所職,天下敢有藏詩、書、百家語者,悉詣守、尉雜燒之。有敢偶語詩書者棄市。
              以古非今者族。吏見知不舉者與同罪。令下三十日不燒,黥為城旦。所不去者,醫藥卜筮種樹
              之書。若欲有學法令,以吏為師。」制曰:「可。」」「三十四年、・・・丞相李斯曰:「・・・禁之便。臣
              請史官非秦記皆燒之。非博士官所職,天下敢有藏詩、書、百家語者,悉詣守、尉雜燒之。有
              敢偶語詩書者棄市。以古非今者族。吏見知不舉者與同罪。令下三十日不燒,黥為城旦。所不
              去者,醫藥卜筮種樹之書。若欲有學法令,以吏為師。」」
   ・<漢書、武帝紀>
       「20置五經博士。」
   ・古今文:始皇帝焚書以前の古文経典と以後の今文経典のこと。
   ・楚夏:南楚と諸夏(斉・燕・韓・魏・趙の国々)。
   ・六国古文:秦の小篆以前に斉・楚・燕・韓・魏・趙で使われていた篆書系統の文字。
   ・古文経書:前漢の武帝の時,孔子の子孫の家の壁〈孔壁〉から発見された竹簡の経典《礼記》《尚書》
                 (書経)《春秋》《論語》《孝経》など。
或曰:「至德要道約爾,典籍甚富,如而博之以求約也?」語有之曰:「『有鳥將來,張羅待之、得鳥者一目也。今為一目之羅,無時得鳥矣。』道雖要也,非博無以通矣。博其方,約其說。」
[書き下し文]
 ・或るひと曰く、「至徳要道は約なるのみにて、典籍は甚だ富(ゆた)かなり、而(か)の如く之れを博めて以って約を求めんや?」と。語るに之れ有りて曰く、「『鳥の将に来たらんとすること有れば、羅(あみ)を張って之れを待つも、鳥を得るは一目なり。今ま一目の羅を為すも、時(たま)にも鳥を得ること無からん』と。道は要なりと雖も、博からざれば以て通じること無し。博は其れ方(てだて)、約は其れ説(おしえ)」と。
[訳文]
 ・或る人が云うには、「最高最善の道徳とは人の生き方の基本となる規範を要約したものであり、その関連する書物は豊富に有るが、これらの書物を幅広く学んでその規範を身に付けるべきなのだろうか?」と。古人の言葉を引用して答えるには、「『鳥が飛んでくる時に網を張って待ち構えていれば、鳥は網の一目だけで捕らえられてしまう。とは言え、一目しか無い網を張ってはまぐれでも鳥を捕まえることは出来ないだろう』とある。道徳と云うものは人が身に付けねばならぬ基本となるものだからこそ、幅広く学ばなければ通暁する事は難しい。幅広く学ぶと云う事は知識を身に付ける為の手段であり、人の生き方の基本となる規範の要約とは教えそのものの事なのである」と。
[参考]
 
 ・<孝經、開宗明義>
       「1仲尼居,曾子侍。子曰:「先王有至德要道,以順天下,民用和睦,上下無怨。汝知之
       乎?」・・・」
  ・<淮南子、說山訓>
     「16有鳥將來,張羅而待之,得鳥者,羅之一目也。今為一目之羅,則無時得鳥矣。今被甲者,以
       備矢之至,若使人必知所集,則懸一劄而已矣。・・・」
赦令,權也。或曰,「有制乎。」曰:「權無制,制其義,不制其事,巽以行權,義制也。權者反經,無事也。」問其象。曰:「《無妄》之災,《大過》,凶其象矣。不得已而行之,禁其屢也。」曰:「絕之乎?」曰:「權曰宜,弗之絕也。」
[書き下し文]
 ・赦令(しゃれい)は、權なり。或るひと曰く、「制有りや?」と。曰く、「權には制無く、制は其れ義にして、其の事を制せず、巽(そん)は以て權を行ふ、義は制なり。權なるは經に反するも、事無きなり」と。其の象を問う。曰く、「《無妄》の災、《大過》、凶が其の象(かたち)かな。已むを得ず而して之れを行い、禁は其れ屡々なり」と。曰く、「之れを絶つべきか?」と。曰く、「權とは曰く宜にて、之れは絶たざるなり」と。
[訳文]
 ・君主が発布する罪刑や賦役を減免する赦令と云う制度は、臨機応変の措置である。そこで或る人が語りかけるには、「発布する上での制約みたいなものはあるのだろうか」と。それに対して答えるには、「臨機応変の措置だから制約と云ったものはないし、制約を意味するものは道義そのものだが、赦令制度を制約するものではなく、事情の推移に応じて臨機応変の措置を取ったものであり、道義とは制約そのものなのである。臨機応変の措置(權)は一定不変の道理(經)に反するが、問題は無い」と。その臨機応変の措置が意味するものは何かと問い掛けてくる。語るには、「易で云う突然に起こる《真実で詐りのない象(かたち)の災い》を意味するものであり、他より大いに勝れた事を意味する《大過》の卦象だが、凶事の象である事には変わりない。心ならず赦令を行うにしても、注意すべき事は繰り返す事の無い様にすることである。」では、「禁止すべき事なのか」と重ねて問い掛けてくる。そこで答えるには、「權はあくまで臨時的措置であって、度々行うべきものではない」と。また問い掛けてくるには、「では実施すべき事では無いのか?」と。答えるには、「權と云っても宜すなわち道理に適ったものであり、完全には禁じては為らないものである」と。
[参考]
  ・<後漢書、孝獻帝紀>
       「11初平元年(190年)春正月, 辛亥,大赦天下。
        27初平二年(191年)春正月辛丑,大赦天下。
        36初平三年(192年)春正月丁丑,大赦天下。
        41初平三年五月丁酉,大赦天下。
        44初平三年己未,大赦天下。
        51初平四年(193年)丁卯,大赦天下。
        66興平元年(194年)春正月辛酉,大赦天下。
        79興平二年(195年)春正月癸丑,大赦天下。
        87建安元年(196年)春正月癸酉,大赦天下。」
          荀悦が仕えた後漢最後の皇帝献帝は、擁立された当初の初平元年から7年に亘り連続し
          て大赦を行った。
  ・「經(常ね)」:一定の法則・秩序を持ちながら變化して行く「成り行き」に對する行爲・處置。「權(仮り)」:
           予想外の「成り行き」の突發的な異常事態に對する行爲・處置。
  ・<朱子語類、論語十九>
       「14用之問:「『權也者,反經而合於道』,此語亦好。・・・」
       「18・・・經者,道之常也;權者,道之變也。道是箇統體、貫乎經與權。・・・ 」      
          權:臨機応変の措置。 經:一定不変の道理。
       「20或問經與權之義。曰:「公羊以『反經合道』為權,伊川以為非。・・・正甫謂:「『權、義舉而皇
          極立』,權、義只相似。」曰:「義可以總括得經、權,不可將來對權。義當守經,則守經;義
          當用權,則用權,所以謂義可以總括得經、權。・・・」
  ・<春秋公羊傳、桓公十一年>
       「3・・・權者何?權者反於經,然後有善者也。權之所設,舍死亡無所設。行權有道,自貶損以行
          權,不害人以行權。・・・」
  ・<孟子集注 -> 盡心章句下>
       「33・・・經,常也。・・・」
  ・<王弼周易注、上經、27. 頤卦 >
       「《象》曰:觀我朵頤,亦不足貴也。六二,顛頤,拂經于丘頤,征凶。
        【注】養下曰顛。拂,違也。經,猶義也。・・・」
  ・<尚書、周書、君陳>
       「2王曰:「君陳,爾惟弘周公丕訓,無依勢作威,無倚法以削,寬而有制,從容以和。殷民在辟,
              予曰辟,爾惟勿辟;予曰宥,爾惟勿宥,惟厥中。・・・」
  ・<尚書、商書、仲虺之誥>
       「2・・・王懋昭大德,建中于民,以義制事,以禮制心,垂裕後昆。・・・」
  ・<周易、繫辭下>
       「7・・・履以和行,謙以制禮,復以自知,恆以一德,損以遠害,益以興利,困以寡怨,井以辯義,
           巽以行權。」
  ・<論語學案>→明の劉宗周著書。「經權之體、權經之用、合而言之道也。」
  ・<易經、无妄卦>
      「1无妄:元亨,利貞。其匪正有眚,不利有攸往。彖傳: 无妄,剛自外來,而為主於內。動而健,
        剛中而應,大亨以正,天之命也。其匪正有眚,不利有攸往。无妄之往,何之矣?天命不佑,
        行矣哉?象傳: 天下雷行,物與无妄;先王以茂對時,育萬物。」
      「4六三:无妄之災,或繫之牛,行人之得,邑人之災。象傳: 行人得牛,邑人災也。」
  ・<易經、大過卦>
      「1大過:棟橈,利有攸往,亨。彖傳: 大過,大者過也。棟橈,本末弱也。剛過而中,巽而說行,利
        有攸往,乃亨。大過之時大矣哉! 象傳: 澤滅木,大過;君子以獨立不懼,遯世无悶。」
  ・<禮記、中庸>
      「20・・・仁者人也,親親為大;義者宜也,尊賢為大。・・・」
尚主之制非古也。釐降二女陶唐之典、歸妹元吉帝乙之訓、王姬歸齊宗周之禮。以陰乘陽違天,以婦凌夫違人。違天不祥,違人不義。
[書き下し文]
 ・尚主の制は古きに非ざるなり。二女を釐降(りこう)するは陶唐の典、妹を帰(とつが)しめて元吉(げんきつ)なるは帝乙(ていいつ)の訓、王姬の斉に帰ぐは宗周の禮なり。陰を以て陽に乗じれば天に違い、婦(つま)を以て夫に凌げば人に違う。天に違うは不祥、人に違うは不義なり。
[訳文]
 ・天子の娘(公主)を降嫁させる制度は特に古いものではない。尭帝が二人の娘(娥皇・女英)を虞舜に嫁がせた故事は尭帝の経典に述べられており、殷王朝の第29代王の帝乙が臣下に妹を嫁がせて幸せを得た話は帝乙の教訓に有るし、周王朝の姫君の王姬が斉の桓公に嫁いだのは宗主の周の仕来りである。處でその際気を付けねばならぬのは降嫁した姫の行動で、陰気が陽気に優ると天の意思に反することになる様に、妻が威を借りて夫を蔑ろにすれば人の道に反することになる。天の意思に反することは良くないことだし、人の道に反することは道義に逆らうことになる。
[参考]
  ・<尚書、虞書、堯典>
       「4・・・師錫帝曰:「有鰥在下,曰虞舜。」帝曰:「俞?予聞,如何?」岳曰:「瞽子,父頑,母嚚,象
          傲;克諧以孝,烝烝乂,不格姦。」帝曰:「我其試哉!女于時,觀厥刑于二女。」釐降二女
          于媯汭,嬪于虞。帝曰:「欽哉!」」
  ・<後漢書、荀悅>
      「尚主之制非古。厘降二女,陶唐之典。歸妹元吉,帝乙之訓。王姬歸齊,宗周之禮。以陰乘陽違
       天,以婦陵夫違人。違天不祥,違人不義。」
  ・<易經、泰卦>
      「6泰: 六五:帝乙歸妹,以祉元吉。象傳: 以祉元吉,中以行愿也。」
古者天子諸侯,有事必告于廟。朝有二史,左史記言,右史記動。動為《春秋》,言為《尚書》。君舉必記,臧否成敗,無不存焉。下及士庶,等各有異,咸在載籍。或欲顯而不得,或欲隱而名章,得失一朝而榮辱千載,善人勸焉,淫人懼焉。故先王重之,以嗣賞罰,以輔法教。宜於今者官以其日,各書其盡,則集之於尚書,若史官使掌典。事不書詭,常為善惡則書,言行足以為法式則書,立功事則書,兵戎動眾則書,四夷朝獻則書,皇后、貴人、太子拜立則書,公主、大臣拜免則書,福淫禍亂則書,祥瑞災異則書。先帝故事有起居其注,日用動靜之節必書焉。宜復其式,內史掌之,以紀內事。
[書き下し文]
 ・古え天子・諸侯は、有事には必ず廟に告す。朝(ちょう)に二史有り、左史は言(ことば)を記し、右史は動(おこない)を記す。動は<春秋>と為り、言は<尚書>と為る。君の舉(ふるまい)は必ず記し、臧否・成敗は、在せざること無し。下は士庶に及ぶまで、等しく各々異有れば、咸(みな)載籍(さいせき)に在り。或いは顯(きわだつ)ことを欲し而して得ず、或いは隱(ひそめる)ことを欲し而して名章(あらわ)れ、その得失は一朝に而して榮辱は千載、善人は勸(はげ)み、淫人は懼(おそ)る。故に先王は之れを重んじ、嗣ぐに賞罰を以てし、輔(たす)けるに法教を以てす。宜しく今に於いて官は其の日を以てし、各おの其の盡(ことごと)くを書き、則ち之れを尚書に集め、若(かくのごと)く史官に掌典せしむ。事は詭(いつわ)りを書かず、常に善悪を為せば則ち書き、言行足りて以て法式を為せば則ち書き、功事立てれば則ち書き、兵戎(へいじゅう)が動眾すれば則ち書き、四夷が朝獻すれば則ち書き、皇后・貴人・太子らが拜立すれば則ち書き、公主・大臣らが拜免すれば則ち書き、福淫禍亂ならば則ち書き、祥瑞災異ならば則ち書く。先帝の故事や有りし起居の其の注や,日用動靜の節は必ず書く。宜しく其の式を復し、內史は之れを掌り、以て內事を紀(ただ)す。
[訳文]
 ・昔し天子や諸侯は、何か変事が有ると必ず霊廟に報告したものである。朝廷には二種類の史官が居り、左史は天子の発言を記録し、右史は天子の行動を記録した。天子の行動は編年体で簡単に記述され、発言は記録形式で整理編集される。天子の振る舞いは必ず記録され、その善悪・成否は勿論のことである。臣下では下級官吏から庶民に至まで、区別することなくそれぞれ異変があれば、必ず記録書に書き加えたのである。時には名を求めたのに名が残らない場合もあれば、時には隠そうとしたのに名が顕れる場合もあり、その利害得失は一時的なものだが、その名誉と恥辱は永遠に残るものだから、善人は一層励み、悪人はますます恐れおののくことになる。そこで天子はかかる史書の編纂を重視して、実施するに当たっては賞罰を設け、補強する上で聖人の教えを引用した。当時の現状に即して、各部署はその定めに従って、それぞれに各部署の事情を全て記録し、歳の終わりには<尚書>の中に集約し、こうして史官に文書を管理させたのである。出来事は偽りなく記録し、常に善悪の行為があれば記録し、言行が満足なもので規範に適っていれば記録し、成果が得られれば記録し、軍隊が移動すれば記録し、蛮族が朝貢すれば記録し、皇后・貴人・太子らが祭祀に拝礼すれば記録し、公主・大臣らが官職の授与や罷免を行ったならば記録し、福事・淫行・災禍・变乱などが有れば記録し、祥瑞・災異が起これば記録した。先帝の故事来歴や言行録、そして日常の様子の節目は必ず記録した。確りとその法式を継続し、宮中の記録官はこれを管掌して朝廷内の規律を正したのである。
[参考]
  ・皇后:皇帝正妻。
  ・起居注:帝王の言行録。
  ・春秋:各国の史実を編年体で簡単に記述したもの。孔子が魯の史記によって1字1句の表現に賞罰の
       意を寓し (これを春秋の筆法という) ,王法を示した。
  ・尚書:孔子が古聖王の記録を整理編集したもの。
  ・<後漢書、荀韓鍾陳列傳>
       「30・・・宜於今者備置史官,掌其典文,紀其行事。每於歲盡,舉之尚書。以助賞罰,以弘法
            教。」
[感想]  ここでは残りの十九項目について荀悦の私見が述べられている。則ち、
  ⑪ 祭祀の有り方についての見解。
  ⑫ 天命に対応する為の心得。
  ⑬ 年の初めに朝廷で聴聞会を開く事の意義。
  ⑭ 宮廷内の婦女に対する教育の重要性を説く。
  ⑮ 学識の高い博士職を設ける意義。
  ⑯ 徳を極め道理を正す事の意義。
  ⑰ 赦令制度に対する見解。(権と經)
  ⑱ 天子の息女の降嫁制度の有り方に対する見解。
  ⑲ 公的行事に於ける天子の言行を記録する史官の存在意義。
 全般的に見て朝廷の有り様に関する記述が多い。特に感想を述べることもないが、屡々<易経>の卦辭の引用が目立つ。また、「權と經」に付いての記述があるが、これには朱熹を始めとして多くの先達だ自論を展開していることに触れておこう。                       (01.08.30) 時事終わり

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申鑒-時事(時々の事情を鑑みる)②

2019-08-01 09:36:47 | 仁の思想

申鑒-時事(時々の事情を鑑みる)②
問德刑並用,常典也,或先或後,時宜,刑教不行,勢極也。教初必簡,刑始必略,事漸也,教化之隆,莫不興行,然後責備。刑法之定,莫不避罪,然後求密。未可以備,謂之虛教,未可以密,謂之峻刑。虛教傷化,峻刑害民,君子弗由也。設必違之教,不量民力之未能,是招民於惡也,故謂之傷化。設必犯之法,不度民情之不堪,是陷民於罪也,故謂之害民。莫不興行,則一毫之善可得而勸也,然後教備。莫不避罪,則纖介之惡可得而禁也,然後刑密。
[書き下し文]  
德刑並用を問うに、常典なり、或るいは先に或るいは後に、時宜にして、刑教は行われず、勢極まるなり。教初は必ず簡、刑始は必ず略、事は漸なり、教化は之れ隆(さかん)にして、興行せざることなく、然る後に責備(せきび)す。刑法之れ定まり、避罪せざることなく、然る後に密(こまや)かさを求む。未だ備えを以てすべからざれば、之れを虚教と謂い、未だ密かさを以てすべからざれば、之れを峻刑と謂う。虚教は傷化し、峻刑は民を害(そこな)えば、君子は由(よ)ら弗(ざ)るなり。設(も)し必ず違えて之れ教えなば、民力の未能なるを量れず、是れは民に悪を招く、故に之れを傷化と謂う。設し必ず犯して之れ法(のっと)るならば、民情の堪えざるところを度(はか)れず、是れ民を罪に陥れる、故に之れを害民と謂う。興行せざることなくば、則ち一毫の善は得るべく而して勸(すす)めるなりて、然る 後に教えは備わる。避罪せざることなくば、則ち纖介の悪は得るべく而して禁(とどめ)るなりて、然る後に刑は密かなり。
[訳文]  
恩澤と刑罰の併用についての質問だが、昔から変わらぬ慣例で、時に応じて前後する事はあっても共に用いられ、刑罰と教化が行われないのは、権勢の尽きた時だけである。教化の始めは必ず大まかなものであり、刑罰の始めも必ず簡略なものであり、それが次第に確立されてきて、盛んに行われるようになり、そうして完全な物になったのである。刑罰の法制化が決まり、刑罰を逃れる術がなくなり、そうした上で細部が整えられる。十分に備えが整わないうちに施行されるのは、不十分な教化(虚教)というもので、十分な吟味も成されずに施行されるのは、厳しすぎる刑罰(峻刑)というものである。不十分な教化は化育を傷つける事になるし、厳しすぎる刑罰は人民を傷つける事になるので、君子たる者はそうならない様に努力する。もし少しでも教化の仕方を間違えれば、人民に欠けている能力の程度を量る事が出来ず、これでは人民に悪影響を及ぼすことになり、そこでこの現象を傷化と云うのである。もし少しでも法の施行の仕方を間違えれば、人民の心情の耐えがたきところを察知することが出来ず、これでは人民を罪人に仕立てる様なものであり、そこでこの現象を人民を害する(害民)と云うのである。良い行いを修める様に皆んなが努めれば、僅かな善事でも見逃されなくなるので奨励するのであり、そうする事によって教化の効果が現れるのである。罪を犯さない様に皆んながなれば、僅かな悪事でも見逃されなくなるので禁止するのであり、そうする事によって刑罰は細かい所まで整備されるのである。
[参考]
 ・<春秋左傳、宣公十二年>
       「2・・・叛而伐之,服而舍之,德刑成矣,伐叛,刑也,柔服,德也,二者立矣。」
或問復讎、「古義也。」曰:「縱復讎可乎?」曰:「不可,」曰:「然則如之何?」曰:「有縱有禁,有生有殺,制之以義,斷之以法,是謂義法並立。」曰:「何謂也?」依古復曰:「讎之科,使父讎避諸異州千里,兄弟之讎避諸異郡五百里,從父從兄弟之讎避諸異縣百里、弗避而報者無罪,避而報之殺。犯王禁者罪也,復讎者義也,以義報罪。從王制順也、犯制逆也,以逆順生殺之。凡以公命行止者,不為弗避。」
[書き下し文]
 ・或る人が復讎を問うに、「古は義なり」と。曰く、「復讎を縦(ほしいまま)にすべきか?」と。曰く、「すべからず」と。曰く、「然らば則ち之れを如何?」と。曰く、「縦(ゆる)めること有り禁ずること有り、生きること有り殺(しぬ)こと有り、之れを制するに義を以てし、之れを断ずるに法を以てする、是れを義と法が並立すると謂う」と。曰く、「何の謂いぞ?」と。古へ依り復た曰く、「讎の科(きま)りは、父の讎には諸異の州千里を避け、兄弟の讎には諸異の郡五百里を避け、從父や從兄弟の讎には諸異の縣百里を避け使め、避き而して報ぜざる者は無罪、避け而して之れを報ぜし者は殺す。王禁を犯せし者は罪なり、讎を復せし者は義なり、義を以て罪に報ず。王制に従うは順なり、制を犯すは逆なり、逆を以て生に従うは之れを殺す。凡そ公命を以て行止する者は、避けざることを為さず」と。
[訳文]
 ・或る人が復讐について問うには、「復讐と云う行為は、昔しから道に叶ったものとされてきた」と。そこで云うには、「ところで復讐と云う行為は、そのまま放置して置いて良いものだろうか?」と。それに答えるには、「放置して良いものではない」と。そこで問い返すには、「それならばどうしたら良いのだろうか」と。そこでまた答えるには、「復讐の制度が緩くなったり禁じられたり、復讐によって生き続ける事も有るし死ぬ事も有るが、復讐と云う行為を制限するには人の守るべき道理に基づいて行い、復讐と云う行為を裁くには法律に基づいて行うのが妥当であり、こうして義理と法律が正しく両立する事になるのである」と。問うには、「もう少し詳しく説明して貰いたいが?」と。昔しから言い伝えられている事だが、「復讐の決まりごととして、父親の讎の対象はさまざまな異州千里に居る者は除き、兄弟の讎の対象はさまざまな異郡五百里に居る者は除き、從父や從兄弟の讎の対象はさまざまな異縣百里に居る者は除くことにし、除いて対象とならなかった者は無罪とし、除いた者に仕返しをした者には死罪を与える。天子の定めた禁制を犯した者は当然罪に服するが、讎を伐った者の行為は道義に叶ったものであり、道義に基づいて讎の対象者は罪を償うのである。天子の定めた制度に従うのは妥当な行為であり、これを犯すことは道理に叛くことになり、叛いた者は死罪を受けることになる。そもそも天子の命令に従って行動する者は、復讐の決まりごとを確りと守るものである」とある。
[参考]
  ・<周禮、地官司徒>
      「116調人:掌司萬民之難而諧和之。凡過而殺傷人者,以民成之。鳥獸,亦如之。凡和難:父之
               讎,辟諸海外;兄弟之讎,辟諸千里之外;從父兄弟之讎,不同國;君之讎視父,師長之讎視兄
               弟,主友之讎視從父兄弟。・・・」
  ・<禮記、王制>
      「6凡四海之內九州,州方千里。州,建百里之國三十,七十里之國六十,五十里之國百有二十,
              凡二百一十國;名山大澤不以封,其餘以為附庸間田。八州,州二百一十國。天子之縣內,方
              百里之國九,七十里之國二十有一,五十里之國六十有三,凡九十三國;名山大澤不以封,其
              餘以祿士,以為間田。凡九州,千七百七十三國。天子之元士、諸侯之附庸不與。」
   ・<周禮、夏官司馬>
      「64乃以九畿之籍,施邦國之政職。方千里曰國畿,其外方五百里曰侯畿,又其外方五百里曰甸
              畿,又其外方五百里曰男畿,又其外方五百里曰采畿,又其外方五百里曰衛畿,又其外方五
              百里曰蠻畿,又其外方五百里曰夷畿,又其外方五百里曰鎮畿,又其外方五百里曰蕃畿。」     
          「131凡邦國千里,封公以方五百里,則四公;方四百里,則六侯;方三百里,
則十一伯;方二百里,
              則二十五子;方百里,則百男。以周知天下。・・・」
   ・百里:中国で、百里四方の国。諸侯の国。のち、一県の地、また、その長官をいう。
或問祿。曰:「古之祿也備,漢之祿也輕。夫祿必稱位,一物不稱,非制也。公祿貶則私利生,私利生則廉者匱而貪者豐也。夫豐貪生私,匱廉貶公,是亂也。先王重之。」曰:「祿可增乎?」曰:「民家財愆,增之宜矣。」或曰:「今祿如何?」曰:「時匱也,祿依食,食依民,參相澹。必也正貪祿,省閑冗,與時消息,昭惠恤下,損益以度可也。」
[書き下し文]
 ・或るひと禄を問う。曰く、「古の禄なるは備えにて、漢の禄は軽し。夫れ禄は必ず位に称(かな)い、一物称わざるは、制にあらざるなり。公祿貶(おち)れば則ち私利生じ、私利生じれば則ち廉者は匱(とぼ)しく而して貪者は豊かなり。夫れ豐貪(ほうたん)が私(わたくし)を生み、匱廉(きれん)が公(おおやけ)を貶(しりぞ)けるは、是れ亂(みだ)れなり。先王は之れを重んず」と。曰く、「禄は増すべきか?」と。曰く、「民家の財(たくわえ)は愆(けん)なれば、之れを増すことが宜し」と。或るひと曰く、「今の禄は如何に?」と。曰く、「時に匱しく、禄は食を依(たす)け、食は民を依け、参は相い澹たり。必ずや貪祿を正し、閑冗(かんじょう)を省き、時とともに消息し、恵みを昭らかにして下を恤(すく)い、損益は度を以てすべきなり」と。
[訳文]
 ・或る人が俸禄について質問した。すなわち、「昔の俸禄というものは暮らしの備えとして大切なものであったが、この漢代のそれは軽すぎるのではないか?そもそも俸禄と云うものはそれぞれの位に即したものであり、それが即していない様では、人が守るべき制度とはとても言えまい。公的な俸禄が充分でないと私利の欲が生じ、そうなると正直者はそのまま貧乏のままで過ごし、欲深者は手段を懲らして豊かに暮らす事になる。そもそも豊満で貪欲な風潮が利己心を生み出し、貧しく清廉過ぎる風潮は公共心を萎えさせ、世の中が乱れる原因になる。だから昔の聖天子は俸禄制度を整えたのである」と。更に問うには、「ならば俸禄は増やすのが良い事なのか?」と。答えるには、「人民の財産は乏しくなるのが普通なので、増やす方向に持って行くのが良いだろう」と。また或る人が問い掛けるには、「現在の俸禄制度についてはどう思うか?」と。それに答えるには、「現在の俸禄は充分ではないし、俸禄は食い扶持の助けになるし、食い扶持は人民の暮らしを豊かにするし、これらは互いに関連して密接に進むものである。必ず俸禄の制度を正し、無駄な官職は淘汰し、時代に即した対応を取り、恩恵を表明して下々を労り、俸禄の増減は節度を以て行うべきである」と。
[参考]
   ・<荀子、富國>
       「3禮者,貴賤有等;長幼有差,貧富輕重皆有稱者也。故天子袾裷衣冕,諸侯玄裷衣冕,大夫裨
              冕,士皮弁服。德必稱位,位必稱祿,祿必稱用,」
諸侯不專封富人,名田踰限,富過公侯,是自封也。大夫不專地,人賣買由己,是專地也。或曰:「復井田與?」曰:「否。專地非古也,井田非今也。然則如之何。」曰:「耕而勿有,以俟制度可也。」
[書き下し文]
 ・諸侯が富人に專封させざれば、名田は踰限(ゆげん)し、富は公侯に過(ゆきす)ぎる、是れ自封なり。大夫は専地せず、人の売買は己れに由る、是れ専地なり。或るひと曰く、「井田を復するか?」と。曰く、「否な。専地は古えに非ざるなり、井田は今は非ざるなり。然らば則ち之れを如何にせん?」と。曰く、「耕し而して有すること勿れ、制度を俟(ま)つことを以てすべきなり」と。
[訳文]
 ・諸侯が資産を持つ者に土地の占有を認めず、自己の名を冠した田地が限度を超え、富が公侯に集まり過ぎる、これが勝手に領地を持つと云う事である。大夫が自由に土地を領有せず、人がその売買を自分自身の力で行う、これが専地と云うものである。或る人が問うには、「昔周王朝で行われていた土地制度を復活させたらどうだろうか?」と。答えるには、「それは駄目だ。専地と云うものは昔は無かったし、井田の制度は今の世には適さない。ではどうしたら良いのだろうか」と。それは、「自分が耕したのだからと云って勝手に自分の物にしてはいけないのだから、制度に従って処置すべきだ」と云うことである。
[参考]
   ・<周禮、地官司徒>→井田制。
       「80凡國之大事,致民;大故,致餘子。乃經土地而井牧其田野:九夫為井,四井為邑,四邑為
              丘,四丘為甸,四甸為縣,四縣為都,以任地事而令貢賦,凡稅斂之事。乃分地域而辨其守,
              施其職而平其政。 」
或問貨。曰:「五銖之制宜矣。」曰:「今廢,如之何?」曰:「海內既平,行之而已。」曰:「錢散矣。京畿虛矣,其勢必積於遠方,若果行之,則彼以無用之錢,市吾有用之物,是匱近而豐遠也。」曰:「事勢有不得,官之所急者穀也,牛馬之禁,不得出百里之外,若其他物,彼以其錢,取之於左,用之於右,若其他物,周而通之,海內一家,何患焉?」 曰:「錢寡矣。」曰,「錢寡民易矣,若錢既通而不周於用,然後官鑄而補之。」或曰:「收民之藏錢者,輸之官,牧遠輸之京師,然後行之。」曰:「事枉而難實者,欺慢必眾,奸偽必作,爭訟必繁,刑殺必深,吁嗟紛擾之聲,章乎天下矣,非所以撫遺民,成緝熙也。」曰:「然則收而積之與?」曰:「通市其可也。」
[書き下し文]
 ・或るひとが貨(たから)について問う。曰く、「五銖の制は宜し」と。曰く、「今ま廃することは如何?」と。曰く、「海内既に平らかなれば、之れを行うのみ」と。曰く、「銭は散るもの。京畿(けいき)は虚なれば、其の勢いは必ず遠方に積もり、若し果たして之れを行はば、則ち彼は無用の銭を以てし、吾れは有用の物を市(あきな)う、是れ匱(とぼ)しさ近く而して豊かさ遠きなり」と。曰く、「事勢(じせい)得ざるところ有れば、官の急ぐ所のものは穀なるも、牛馬の禁により、百里の外に出ることを得ず、其の他の物を若(えら)ぶに、彼は其の銭を以てし、之れを左より取り、之れを右に用い、其の他の物を若び、周く而して之れを通ぜば、海内一家は、何ぞ患わんや」と。曰く、「銭は寡なからんや」と。曰く、「銭寡なく民易く、若し銭既に通じ而して用いるに周(あまね)からざれば、然る後に官は鋳し而して之れを補わん」と。或るひと曰く、「民の銭を蔵せし者を収め、輸の官牧が之れを京師に遠輸し、然る後に之れを行うのではないか?」と。曰く、「事は枉(ま)げられ而して実たすこと難く、欺慢必ず眾(おお)く、奸偽必ず作(おこ)り、爭訟必ず繁く、刑殺必ず深まり、吁嗟(うさ)紛擾(ふんじょう)の聲は、天下に章(あらわ)る、遺民を撫す所以に非ざるは、緝熙(しゅうき)を成すなり」と。曰く、「然らば則ち収(おさ)まり而して之れを積(つみかさ)ねるか?」と。曰く、「通市は其れ可なり」と。
[訳文]
 ・或人が貨幣について問うには、「五銖の貨幣制度は時宜に適したものだが、今これを廃止したらどうなるだろうか?」と。答えるには、「国内は悉く落ち着いているのだから、このままで良いだろう」と。続けて、「貨幣は流通してこそ価値あるもの。首都圏では活力が衰え、必然的に地方の活力が勢いを増し、結果として首都圏では使えない貨幣が溜まり、一方の地方では必要な物資が有り余ると云うことになり、これでは地方に物資が有り余っているのに手元には入らないという不都合な現象が起きることになる」と。更に続けて、「物資の流通が滞ると、政府としては穀物の確保が急務となるが、牛馬の禁制で遠く離れた地方から運んでくる事が出来ないので蓄えることが出来ず、その結果として首都圏の人々は貯め込んでいる貨幣を使ってでも高い穀物を手に入れざるを得ず、そうなると否が応でも貨幣は広く流通する様になり、世の人々の患いの種は無くなる」と。或る人が呟くには、「そもそも貨幣の発行額が少な過ぎるのだ」と。そこで、「貨幣の発行額が少なければ人々はすぐに布、帛、金、粟などの実物貨幣に切り替えて必要な物を手に入れる様になるし、貨幣が流通していても不足すれば、政府はすぐに鋳造して不足分を補うものだ」と語りかける。そこでまた或る人が呟くには、「政府は貨幣を貯め込んでいる地方の民から召し上げて、運搬役の官牧がこれを都に運び、その上で不足分を補っているではないか」と。それに対して、「事実は曲げられておりそんな事は実行不可能だし、そんな事をすれば世の中は欺瞞に満ち溢れ、狡猾・偽装の風潮が生まれ、訴訟沙汰が頻繁に起きて死刑の執行も多くなり、世間は怨嗟紛騒の声に満ち溢れてきて、そうなれば生き残った人々を納得させる事など出来なくなることは明白である」と語り続ける。そこでまた或る人が尋ねるには、「そうだとすれば物事は丸く収まるのだから、このまま続けるべきだと云うことか?」と。答えるには、「そうすれば商いは上手く行く筈だ」と。
[参考]
     ・五銖銭(ごしゅせん)
       前漢7代武帝が戦費調達の為鋳造した貨幣。量目(質量)が当時の度量衡で5銖(1石 = 4鈞、1
          鈞 = 30斤、1斤 = 16両、1両 = 24銖)で、表面に「五銖」の文字を刻印。後漢末に董卓が相国
          となっていた時期には董卓五銖銭あるいは董卓無文小銭と称される粗悪銅銭が発行された。
     ・鋳造貨幣と商品(実物)貨幣
          政治的混乱期に五銖銭などの鋳造貨幣が不足すると、布帛,米穀などの代替貨幣が用いられた。  
     ・前漢財政収支事情は,後漢の場合にも基本的に当てはまるが、人口規模の縮小と専売制廃止、塩鉄
          の郡国移管により後漢代の中央財政基盤はより脆弱になった。
    ・牛馬之禁:本意把握出来ず。
    ・<史記、平準書>
         「3至孝文時,莢錢益多,輕,乃更鑄四銖錢,其文為「半兩」,令民縱得自鑄錢。故吳諸侯也,以
                即山鑄錢,富埒天子,其後卒以叛逆。鄧通,大夫也,以鑄錢財過王者。故吳、鄧氏錢布天
                下,而鑄錢之禁生焉。」
         「17令縣官銷半兩錢,更鑄三銖錢,文如其重。盜鑄諸金錢罪皆死,而吏民之盜鑄白金者不可
                勝數。」
         「21有司言三銖錢輕,易姦詐,乃更請諸郡國鑄五銖錢,周郭其下,令不可磨取鋊焉。」     
             「34其後二歲,赤側錢賤,民巧法用之,不便,又廢。於是悉禁郡國無鑄錢,專令上林三官鑄。
                錢既多,而令天下非三官錢不得行,諸郡國所前鑄錢皆廢銷之,輸其銅三官。而民之鑄錢益
                少,計其費不能相當,唯真工大姦乃盜為之。」
      ・<後漢書、光武帝紀下>
         「130初,王莽亂後,貨幣雜用布、帛、金、粟。是歲,始行五銖錢。」
[漢朝の貨幣]
 ・前漢初期:秦半両銭(戦国半両銭、実質貨幣、半両=約8g)を踏襲した漢半両銭(名目貨幣、重さは時
                 により変化した)が用いられた。漢半両銭(名目貨幣)民間での鋳工を許可。
           ・榆莢半両銭(秦末より漢当初、1銖=約0.6g程度)不均一であった事や、徐々に重さを減じ
                   て鋳工された為、軽すぎると云う問題で廃止。
           ・呂后半両銭(前186年、8銖=5.4g)重過ぎて廃止。
           ・呂后五分半両(前182年、2.4銖=1.6g)後に重量を減じたものが多く作られ楡莢半両銭
                   程度まで小型化される。
           ・文帝四銖半両銭(前175年、4銖=2.7g)厳格な製作基準を定めただけではなく、違反した
                   場合の処罰を明記した上で民間に許可した事もあり、均一化された半両銭が流通する様に
                   なる。違反者は厳しく処罰された。
           ・武帝三銖半両銭(前140年、3銖=約2g)従来の四銖半両銭よりも軽量だった事から盗鋳
                   が盛んに行われた、鋳工期間は5年間で中止され、武帝四銖銭に戻る。改鋳により廃止。        
                 ・武帝四銖半両銭(前136年、4銖=2.7g)前118年に五銖銭に改鋳され、戦国、秦時代より
                   流通していた半両銭は役目を終える。
 ・孝武帝期:五銖銭(実質貨幣)半両銭は廃止。外征に伴う歳出増加を補う為の措置。表面に「五銖」の文
                   字を鋳印。
           ・郡国五銖銭(118年、5銖)寸法・重量・金属配合などを厳格に決めて地方(郡國など)での
                   鋳造を認めた。当時は郡国に対し中央へ納付する租税を五銖銭によるものと定めたため、
                   地方での大規模な鋳工につながった。五銖銭の原料となる銅は既存の半両銭であったた
                   め、改鋳すると4/5の目減りになり、改鋳させた五銖銭を納入させることで郡国の経済力削
                   減を目的にしたという説がある。
           ・赤側五銖銭(前114年、5銖)これ1枚が郡国五銖銭5枚に相当する価値をもたせたもの
                   で、租税の徴収や国家歳出には 赤側五銖銭の使用を義務付けた。発行当初は一時的な
                   国家歳入の増加が見られたが、広く流通すると実質的な減少となり、また私鋳銭が行われ
                   るようになったことから翌年には郡国銭・赤側銭ともに廃止されてた。
           ・三官五銖銭(前113年、5銖)それまで地方に認めた鋳造を禁じ、水衡都尉に所属する三官
                   (鍾官、技巧、弁銅)の管轄する大規模な鋳銭所に鋳造させた。地方の旧銭を含む銅を三
                   官に集中させることで私鋳銭を防止させ、貨幣経済の安定化を図った。
   ・新国期:王莽が新朝を建てると名目的な価値が素材価値に伴わない異種の貨幣が数多く鋳造され、国
                   内経済は大きく混乱し、貨幣政策は結局大きな社会不安を与え、王莽政権の崩壊を早めさ
                   せた。
            ・五銖銭(前漢を踏襲、5銖)9年に廃止。
            ・大銭(7年、大泉、五銖銭50個相当)高額取引用。14年に廃止。
            ・契刀(7年、五銖銭500個相当)高額取引用、9年に廃止。
            ・錯刀(7年、五銖銭5000個相当)高額取引用、9年に廃止。
            ・小銭(9年、1銖=約6g)少額取引用。14年に廃止。
            ・異種銭(10年、金銭・銀銭・亀甲銭・貝銭・銅銭、6形式28種)
            ・王莽貨泉銭(14年、青銅貨、初期は5銖)
            ・王莽貨布銭(14年、25銖)
   ・後漢期:期中に五銖銭の改鋳は行われなかったが、時期による精粗がある。
            ・五銖銭(41年鋳造再開、5銖)
            ・董卓五銖銭(190年、従来の五銖銭を削って小型化)董卓無文小銭とも称された粗悪銅
                   銭。小型化させた磨辺銭・剪輪銭などの私鋳銭が出回り、価値が低下して100枚や1000
                   枚を紐で束ねて使ったという。
或曰:「改鑄四銖。」曰:「難矣。」或曰:「遂廢之。」曰:「錢實便於事用,民樂行之,禁之難。今開難令以絕便事,禁民所樂,不茂矣。」曰:「起而行之,錢不可,如之何?」曰:「尚之廢之,弗得已,何憂焉。」
[書き下し文]
 ・
或るひと曰く、「四銖を改鑄すべくか?」と。曰く、「難し」と。或るひと曰く、「之れを遂廢すべきか?」と。曰く、「錢は事用に實に便にして、民は之れを行う事を楽しめば、禁ずること難し。今ま難令を開き以て便事を絶ち、民の楽しむ所を禁ずるは、茂(よか)らず。」と。曰く、「起(さかん)に而して之れを行えば,錢は不可、如何に?」と。曰く、「之れを尚(たっと)び之れを廃すも、已むを得ざれば、何ぞ憂えんや」と。
[訳文]
 ・或る人が呟くには、「五銖銭を重さの軽い四銖銭に改鋳したら良い」と。それに対して、「それは難しいことだ」と反論する。また或る人が呟くには、「最後の手段として、五銖銭を廃止して古くから有る布帛などの実物貨幣を使うのはどうだろう」と。それには、「貨幣は使用するには実に便利だから、人々はこれを使うことを望んでいるので、貨幣の使用を禁止することは難しいだろう。今更ら問題のある制度に戻して今の便利な制度を廃止し、民の望む所を禁止してしまうのは、良策とは言えまい」と語りかける。また或る人が問い掛けてくるには、「流通が盛んになれば貨幣など必要なくなるのでは?」と。それには、「貨幣を尊重するのも廃止するのも、已むを得ないことであれば、どちらを選ぼうと何も心配することは無いだろう」と語る。
[参考]
   ・四銖銭(ししゅせん)
      前漢5代文帝の時代に鋳造され、表面に「半両」と刻字され、重量が4銖であることから四銖半両銭
         と称された。武帝の時に廃止され、三銖銭に切り替えられた。
   ・貨幣の改鋳とは、市場に流通している貨幣を回収し、それらを鋳潰して新たな貨幣を鋳造して市場に
      流通させるもの。
   ・<後漢書、孝獻帝紀>
         「24董卓壞五銖錢,更鑄小錢。」
         「121十二月,賜三公已下金帛各有差。自是三年一賜,以為常制。」
         「124秋九月,賜百官尤貧者金帛各有差。」
         「160二十年春正月甲子,・・・賜諸王侯公卿以下穀各有差。」
   ・<晉書、志第十六 、巻二十六、食貨志>
         「文帝黃初二年,以穀貴,始罷五銖錢。」
   ・<三國志、魏書二、文帝紀>
         「20 黃初二年(221年)冬十月・・・罷五銖錢。・・・」
   ・<晋書、食貨志>
         「文帝黃初二年,以穀貴,始罷五銖錢。」
         「建武十六年(41年),馬援又上書曰:「富國之本,在於食貨,宜如舊鑄五銖錢。」帝從之。於是
        復鑄五銖錢,天下以為便。及章帝時,穀帛價貴,縣官經用不足,朝廷憂之。尚書張林言:「今
        非但穀貴也,百物皆貴,此錢賤故爾。宜令天下悉以布帛為租,市買皆用之,封錢勿出,如此
        則錢少物皆賤矣・・・」
  ・<三國志、何夔傳>
       「4建安二年(197年)・・・、是時太祖始制新科下州郡,又收租稅緜絹。」
  ・<三國志、趙儼傳>
       「1・・・建安二年,惟陽安郡不動,而都尉李通急錄戶調。儼見通曰:「方今天下未集,諸郡並叛,
         懷附者復收其緜絹,小人樂亂,能無遺恨!且遠近多虞,不可不詳也。・・・」」     
         戶調:戸毎の布帛などを納める税。
  ・<晉書、食貨志>
       「・・・及初平(献帝の治世の最初の元号、190~193年)袁氏,以定鄴都,令收田租畝粟四升,
         戶絹二匹而綿二斤,餘皆不得擅興,藏強賦弱。」
[感想]  
  ここでは中段の項目について荀悦の私見が述べられている。則ち、
   ⑥罪を犯した者を罰する刑罰と善行を積んだ者を賞する恩徳とを、上手に運用して人民を教化し善導  
    する事の必要性。
   ⑦仇討ちは道義に叶ったものであるから、天子の定めた決まりごとに従って正しく行うべしとの認識。  
   ⑧俸禄の必要性と現行の不適切さを批判。
   ⑨土地の占有化に対する批判。
   ⑩名目貨幣と実質貨幣の優劣についての議論。
  前段では普遍的な人民教化に関する意見が述べられ、後段では俸禄・専地・貨幣制度の有り方に対す
  る現状批判が述べられている。後者については、後漢末期の事情を頭に描きながら読んでみると納得
  する處が多々あることに気付く。特に貨幣制度については、色々と異論があるのではなかろうか?                                                                   (R01/08/01)続く。

 

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申鑒-時事(時々の事情を鑑みる)①

2019-07-01 09:19:04 | 仁の思想

申鑒-時事(時々の事情を鑑みる)①
 最凡有二十一首,其初二首,尚知貴敦也。其二首有申重可舉者,十有九事。一曰明考試;二曰公卿不拘為郡,二千石不拘為縣;三曰置上武之官;四曰議州牧;五曰生刑而死者,但加肉刑;六曰德刑並用;七曰避讎有科;八曰議祿:九曰議專地;十曰議専科;十一曰約祀舉重;十二曰天人之應;十三曰月正聽朝;十四曰崇內教;十五曰備博士;十六曰至德要道;十七曰禁數赦令;十八曰正尚主之制;十九曰復外內注記者。
[書き下し文]
 最凡(さいはん)で二十一の首(かなめ)有りて、其の初めの二つの首は、知を尚び・敦(つと)めを貴ぶことなり。其の二首に申重に舉げる可き者有りて、十有九事。一に曰く考試を明らかにすること;二に曰く公卿は郡を為(おさ)めることに拘わらず、二千石(にせんせき)は縣を為めることに拘わらざること;三に曰く上武の官を置くこと;四に曰く州牧に議すること;五に曰く生刑にして死するも,但(ひと)り肉刑を加えること;六に曰く德刑は並用すること;七に曰く讎を避け科を有(たも)つこと;八に曰く祿を議すること;九に曰く專地を議すること;十に曰く錢貨を議すること;十一に曰く祀りを約(つ)め重きを挙げること;十二に曰く天人の應のこと;十三に曰く月正(げつせい)に朝(まつりごと)を聴くこと;十四に曰く內教を崇めること;十五に曰く博士を備えること;十六に曰く德に至り道を要(ただ)すこと;十七に曰く禁數赦令すること;十八に曰く尚主の制を正すこと;十九に曰く外內注記者に復(むく)いること。
[訳文]
 ・
総計で二十一の重んずべき事があり、その初めの二つとは知恵を重んじ思い遣りの気持ちを貴ぶことである。その二つに加えて強調すべきものとして十九の重んずべき事がある。一に官吏登用試験の透明性を保つ事;二に国政を掌る中央官僚の公卿は地方行政区域の郡の統治に口出しせず、郡政を掌る中級官僚の二千石は下部行政区域の県の統治に口出ししない事;三に優れた武人を用いる官職を設ける事;四に地方長官に意見を諮問する事;五に身体刑で死ぬ者が出るにしても、肉刑だけは止め置く事;六に恩賞必罰の処置を併用する事;七に怨みを買うような行為は慎み何事もほどほどにする事;八に役人の俸給について詮議する事;九に役人に与える領地について詮議する事;十に貨幣の発行について詮議する事;十一に祭祀を切り詰め貴重な人材を登用する事;十二に天と人との間の感応に関する事;十三に年の初めに朝廷で聴聞会を開く事;十四に婦女に対する教育を尊重する事;十五に学識の高い博士職を設ける事;十六に徳を極め道理を正す事;十七に罪を数え上げて責める事はせず大赦を心掛ける事、十八に天子の息女の降嫁制度を正す事;十九に内外の記録官を大事にする事。
[参考]
 ・漢代の中央官制。
  ・三公(丞相→大司徒)→官秩:万石。
  ・九卿(太常・光祿勲・衛尉・太樸・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府)→ 官秩:中二千石。
  ・三公・九卿を総称して公卿と称した。
  ・郡守・内史→官秩:二千石。
  ・県令→官秩:千石以下。
 ・二千石:俸給(秩石)が二千石に相当する郡守・内史などの高官の呼称。
 ・秩石(ちっせき)制:漢代の官僚の年俸制度。穀物と銭で支給され、三公(丞相・大司馬・御史太夫)の一
   万石を筆頭に、九卿の中二千石、郡太守の二千石という順に、十数種類に等級分けされ、秩石制といわ
   れた。
 ・州牧:(「牧」は人民を養うの意) 州の長官。地方の長官や諸侯。
 ・郡県制度:中国の中央集権的な地方行政制度。全国を郡・県などの行政区画に分け、中央政府より官
  
吏を派遣して治めさせたもの。秦の始皇帝が全国を三六の郡に分け、その下にいくつかの県を置いたの
   が始まり。
 ・生刑:死刑以外の刑罚。
 ・肉刑:肉体の一部を傷つける刑罰。入れ墨・鼻切り・宮刑などの類。
 ・徳刑:統治のための道具としての恩賞必罰。
 ・月正(ゲッセイ):正月の倒語。
 ・内教:封建時代の婦女に対する教え。
 ・尚主之制:天子の姫が降嫁する制度。
盤庚遷殷,革奢即約,化而裁之,與時消息。眾寡盈虛,不常厥道,尚知貴敦,古今之法也。民寡則用易足,土廣則物易生,事簡則業易定。厭亂則思治,創難則思靜。
[書き下し文]
 盤庚(ばんこう)が殷に遷(うつ)り、奢りを革(あらた)め約を即し、化し而して之を裁き、時と與に消息す。衆寡盈虛(しゅうかえいきょ)して、厥の道は常ならず、知を尚び・敦めを貴ぶは、古今之れ法なり。民は寡(よわ)く則ち用は足り易く、土は広く則ち物は生き易く、事は簡(てが)る則ち業は定まり易し。乱れを厭えば則ち思いは治まり、難を創(こら)せば則ち思いは静まる。
[訳文]
 ・
殷王の盤庚が殷墟の地へ遷都して、これ迄の奢侈の暮らしを正し倹約に徹し、世の移り変わりを適切に教導した。栄枯盛衰の果てに政道が落ち着かなかったとしても、知恵を重んじ思い遣りの気持ちを貴ぶ行為は、昔も今も変わらぬ妥当な方策なのである。人民は弱い立場にあるから統制しやすいし、土地は広いから物を育てやすいし、物事は単純だから事業は成し遂げやすい。乱れた政治を治めれば民衆は満足するし、困難を乗り切れば民衆の非難も納まることになる。
[参考]
 ・盤庚:殷王朝の第19代王。殷滅亡までの最後の首都殷墟の地へ遷都したとされ、善政を敷いて殷王朝
   の興隆に寄与した。
或曰:「三皇民至敦也,其治至清也,天性乎?」曰:「皇民敦,秦民弊,時也。山民樸,市民玩,處也。桀、紂不易民而亂,湯、武不易民而治,政也。皇民寡,寡斯敦,皇治純,純斯清,奚惟性?不求無益之物,不蓄難得之貨,節華麗之飾,退利進之路,則民俗清矣。簡小忌,去淫祀,絕奇怪,則妖偽息矣。致精誠,求諸己,正大事,則神明應矣。放邪說,去淫智,抑百家,崇聖典,則道義定矣。去浮華,舉功實,絕末伎,同本務,則事業脩矣。
[書き下し文]
 ・
或る人曰く、「三皇民は至敦なりて、其の治は至清なり、天性か?」と。曰く、「皇の民は敦く、秦の民は弊(つか)れるは、時なり。山の民の樸にして、市の民の玩なるは、處なり。桀と紂は民を易(おさ)めず而して乱れ、湯と武は民を易めず而して治む、政なり。皇の民は寡(よわ)く、寡くも斯く敦く、皇の治は純(かざ)らず、純らざるも斯く清く、奚(なん)ぞ惟れ性なるか?無益の物を求めず、得難き貨を蓄えず、華麗の飾を節し、利進の路を退くは、則ち民俗は清し。小忌を簡(はぶ)き、淫祀を去り、奇怪を絶つは、則ち妖偽は息(や)む。精誠を致し、諸(これ)を己に求め、大事を正すは、則ち神明は応ず。邪説を放(はな)れ、淫智を去り、百家を抑え、聖典を崇めるは、則ち道義は定まる。浮華を去り、功實を挙げ、末伎(まっき)を絶ち、本務を同じくするは、則ち事業は脩(おさ)まる。」
[訳文]
 ・
或る人が云うには、「伏羲・神農・黄帝の三皇帝が治めていた時代の人々は非常に人情に篤く、その治政は非常に清澄なものであったが、それは上天の意向の現れたものなのだろうか?」と。答えるには、「三皇帝時代の民は人情に篤かったし、それに引き換え秦国の時代の民は疲弊していたが、それは時代の流れというものだ。狩人などの山に暮らす民の愛想の無さや、都会の民の馴れ馴れしさは、居場所の影響によるものだ。夏王朝最後の桀王と殷王朝最後の紂王は民を治めきれずに國を乱し、殷王朝の建国者である湯王と周王朝の初代帝王の武王は政治の実務はそれぞれ伊尹と周公旦に任せて善政を敷いたが、それが政治というものだ。三皇時代の民は弱い存在ではあったが人情に篤く、三皇の政治は派手ではなかったが清明だったのだから、どうしてこれが上天の意向と云えようか。否や人の力というものだ。」と。無駄を省き、手に入れ難い珍品は蓄えず、華やかな飾り物は節約し、利殖に走らないことは、民の風俗が清新であることの証しである。小さくとも忌まわしい事は遠ざけ、如何わしい祀りは避け、怪しい事は絶ちきるのは、怪しく出鱈目で悪意に満ちた誤った行為に手を染めないと云う事である。誠心誠意を以て事に当たり、率先遂行し、物事の筋道を正すと云う事は、人の真心に答えると云う事である。異端の説を受け入れず、淫らな情報は近づけず、儒學以外の学説を論破し、儒教だけを称えるのは、人の踏み行うべき道を示すことなのである。上辺ばかり華美で実の伴わない事は遠ざけ、誠意に溢れた功績のある人を登用し、些末な事には拘らず、本来の務めを蔑ろにしなければ、物事は上手く行くのである。
[参考]
 ・桀王と紂王:何れも暴君で、それぞれ夏王朝と殷王朝を亡ぼした。
 ・湯王と武王:何れも賢君で、それぞれ殷王朝と周王朝の建国し、優秀な賢臣として湯王には伊尹が武王
   には実弟周公旦が居た。政治の実務は彼等が担っていた。
誰毀誰譽,譽其有試者,萬事之概量也。以茲舉者試其事,處斯職者考其績,賞罰夫實,以惡反之,人焉飾哉?語曰:「盜跖不能盜田尺寸。」寸不可盜,況尺乎?夫事驗,必若上田之張於野也,則為私者寡矣。若亂之墜於澳也,則可信者解矣。故有事考功,有言考用,動則考行、靜則考守。
[書き下し文]
 ・
誰れをか毀(そし)り誰れをか誉(たた)えん、誉めるは其れ試みること有りし者、萬事之れ概量なり。兹(ここ)に挙げし者を以て其の事(つとめぶり)を試(しら)べ、斯かる職する者を處するに其の績を考(しら)べ、賞罰が夫れ実(ゆきわた)れば、悪を以て之れに反むくも、人焉んぞ飾らんや?語りて曰く、「盜跖は田尺寸を盗むこと能わず」と。寸も盗むべからず、況んや尺においてをや?夫れ事驗(じけん)は、必若(もし)上田の野に張るや、則ち私し為る者は寡(すく)なし。若し亂の澳(ふか)きに墜ちるや、則ち信ず可き者は解矣。故に事有れば考功し、言有れば考用し、動ならば則ち考行し、静ならば則ち考守す。
[訳文]
 ・
人を謗ったり誉めたりして評価する場合、其の人の実際の言動を確かめた上で誉めるのだが、これは飽くまで大ざっぱな目安に過ぎない。その対象となる者の仕事ぶりを観察し、その務めている者の業績を調査し、賞罰の有り様が皆んなに徹底すれば、悪意を抱いて逆らったとしても、表面を繕う事など誰にでも出来るものではない。語り継がれてきた事だが、「春秋時代魯の盗賊団の大親分だった盜跖は、ちっぽけな田んぼでも盗むことが出来なかった」とある。ちっぽけな田んぼでも盗むことが出来ないのだから、それ以上の大きな田んぼでは尚更の事だろう?その証拠には、仮にも肥えた田んぼが野原に広がっていても、勝手に自分の物にしてしまうような人間は居ないだろう。もしその評価が乱れに乱れた時には、最後に信じる事が出来るのは調べた結果だけである。だから事が起きた時には其の結果を好く好く検討し、意見が提示された時にはその採用の可否を好く好く検討し、世の中に何らかの動きがあればその行為や事跡を好く好く検討し、世の中が治まって何事も無ければ現状を守る事に努めるのである。
[参考]
 ・<論語、衛霊公>
    「25子曰:「吾之於人也,誰毀誰譽?如有所譽者,其有所試矣。斯民也,三代之所以直道而行
             也。」」
 ・<莊子、雜篇、盜跖>
    「孔子不聽,顏回為御,子貢為右,往見盜跖。盜跖乃方休卒徒太山之陽,膾人肝而餔之。孔子下車
         而前,見謁者曰:「魯人孔丘,聞將軍高義,敬再拜謁者。」謁者入通,盜跖聞之大怒,目如明星,髮
        上指冠,曰:「此夫魯國之巧偽人孔丘非邪?為我告之:『爾作言造語,妄稱文、武,冠枝木之冠,帶
        死牛之脅,多辭繆說,不耕而食,不織而衣,搖脣鼓舌,擅生是非,以迷天下之主,使天下學士不
        反其本,妄作孝弟而儌倖於封侯富貴者也。子之罪大極重,疾走歸!不然,我將以子肝益晝餔之
        膳。』」」
公卿不為郡,二千石不為縣,未是也。小能其職以極登於大,故下位競,大橈其任以墜於下,故上位慎。其鼎覆刑焉,何憚於降?若夫千里之任、不能充於郡,而縣邑之功廢,惜矣哉。不以過職絀則勿降,所以優賢也,以過職絀則降,所以懲愆也。
[書き下し文]
 ・
公卿は郡を為めず、二千石は縣を為めざるは、未だ是なり。小は其の職を能くし以て大に極登し、故に下位は競い、大は其任を橈(たわ)めて以て下に墜ち、故に上位は慎む。其れ鼎は刑(かたち)を覆さん、何ぞ降すことを憚らんや?若(かくのごと)く夫れ千里の任が、郡に充たること能わず、而して縣邑の功が廃れるは、惜しいかな。職を過つも絀(しりぞ)けることを以てせず則ち降す勿きは、賢を優(あつ)くする所以なり、職を過てば絀けることを以てする則ち降すは、愆(けん)を懲らしめる所以なり。
[訳文]
 ・
国政を掌る三公・九卿らの公卿達は地方行政区域の郡の統治に関与しないとか、郡政を掌る二千石の官僚達は下部行政区域の縣の統治に関与しないと云うのは、今でも妥当な認識と云えよう。瑣末な事としては、下級職の地位に居る者がその職務を良く果たした結果大きく昇進する事になると、その同僚達は更に競い合うだろうし、重要な事としては、上級職に居る者がその責務を怠った結果降格する事になると、その同僚達も己の行動を慎む様になる。彼の易経にある火風鼎(かふうてい)卦の九四爻には、「宰相執政が国政を誤り、天下万民を窮地に陥れる罰は、誅戮に値し、凶事を表す。」とあり、降格する事など当たり前の事と云って良いだろう。このように重要な任務が郡部に及ばず、縣邑の業績が上がらないとなれば、これは誠に惜しい事である。職務をしくじっても遠ざけずに降格しないのは、賢者を優遇する為の措置であり、職務をしくじったら遠ざけるのは、過失を戒める為の措置である。
[参考]
 ・二千石:漢代における官僚の等級と俸給(秩石)を表す語。漢の秩石には万石から百石まであり、俸給
   が半分は穀物、半分は銭で支給。二千石は主に郡太守などの高官が該当し、中二千石、真二千石、
    二千石、比二千石の4種類に分かれていた。
 ・中二千石:九卿が該当。毎月180斛を支給。
 ・真二千石 前漢末の州牧などが該当。毎月150斛を支給。
 ・二千石 郡太守や太子太傅、司隷校尉などの官が該当。毎月120斛を支給。
 ・比二千石 郡都尉や丞相司直、光禄大夫、中郎将などが該当。毎月100斛を支給。比とは秩石を石高で
   区別する為に付けられた接頭辞で、「・・・に匹敵する」と云った意味合いのもの。次于:(・・・に次ぐ、・・・よ
   り劣る)と云った意味。今風に云えば、準二千石と云った処か?
 ・<周易、鼎卦>
    「5鼎: 九四:鼎折足,覆公餗,其形渥,凶。象傳:覆公餗,信如何也。」
孝武皇帝以四夷未賓、寇賊姦宄,初置武功賞官,以寵戰士。若今依此科而崇其制,置尚武之官,以司馬兵法選位,秩比博士,講司馬之典,簡蒐狩之事,掌軍功爵賞,小統於五校,大統於太尉,既周時務,禮亦宜之,周之末葉,兵革繁矣,莫亂於秦,民不荒殄。今國家忘戰日久,每寇難之作,民瘁幾盡。「不教民戰,是謂棄之。」信矣。
[書き下し文]
 ・
孝武皇帝は四夷を以てするに未だ賓(したが)えず、寇賊(こうぞく)姦宄(かんき)するにより、初めて武功の賞官を置(もう)け、以て戰士を寵す。若(かくのごと)きは今や此の科(きま)りに依り而して其の制(とり)きめを崇(たっと)び、尚武の官を置き、司馬兵法を以て位を選び、秩は博士に比(なら)い、司馬の典(ふみ)を講じ、蒐狩の事を簡(はぶ)き、軍功爵の賞を掌(ただ)し、小は五校に統べらせ、大は太尉(たいい)に統べらす。周の時務は既(おわ)るも、禮も亦た之れに宜し、周の末葉には、兵革は繁(しげ)く、秦に亂莫く、民は荒殄(こうてん)せず。今まの国家は戦う事を忘れて日久しく、寇難(こうなん)の作(おこ)る毎に、民は瘁(や)み幾(ことご)とく尽きたり。「教えざるの民が戦うは、是れ之を棄てると謂う」と。信なるかな!
[訳文]
 ・
前漢第七代の孝武皇帝は地方の異民族を押さえ込む事が出来ず、侵略者が他人を害(そこ)ない、他人の物を掠め盗る有様なので、初めて軍功による爵位を設けて売爵の対象とし、軍人の志気を挙げる事に努めた。これも今ではかかる思想を尊重してその制度を引き継ぎ、尚武の官職を設け、司馬穰苴の著した兵法書に基づいて官位を選定し、その俸禄は博士(比六百石)に準じ、司馬穰苴の著した典籍を講義させ、狩猟に基ずく軍事訓練を簡略化し、軍功爵賞の制度を正し、小事は步兵・騎兵・長水・射声・越騎の五部隊に統括させ、大事は軍事担当宰相に統括させた。周王朝の政務の有り様は既に過去のものとなっては居るが、礼節についてはその制度を良しとし、周王朝の末年には戦争があちこちで激しく起こったが、次の秦王朝の時代には内乱も起きず、人民の生活は荒れ果てる事はなかった。今では王朝も平和ぼけして戦争の事などすっかり忘れ、異民族の侵略がある度に人民は疲弊し尽くしている。「軍事教育を受けていない人民を率いて戦に臨むのは、それこそ人民を見殺しにする様なものだ。」と<論語、子路>にあるが、誠に尤もな事である。
[参考]
 ・孝武皇帝:前漢の第7代皇帝。最盛期を齎すが、晩年神仙思想に傾倒し、悪政を敷き、評価は分かれ
   る。詩人としても知られている。
 ・<漢書、武帝紀>
    「77六月,詔曰:「朕聞五帝不相復禮,三代不同法,所繇殊路而建德一也。蓋孔子對定公以徠遠,
          哀公以論臣,景公以節用,非期不同,所急異務也。今中國一統而北邊未安,朕甚悼之。日者大
          將軍巡朔方,征匈奴,斬首虜萬八千級,諸禁錮及有過者,咸蒙厚賞,得免減罪。今大將軍仍復
          克獲,斬首虜萬九千級,受爵賞而欲移賣者,無所流貤。其議為令。」有司奏請置武功賞官,以寵
          戰士。」
 ・四夷:地方の未開の異民族の総称。東夷・北狄・西戎・南蛮など。
 ・武功爵:漢武帝の代に軍功による爵位として身分爵位とは別に武功爵が設けられた。後に軍事費調達
   の為に、身分爵位と同様に売爵の対象となった。
 ・賞官:官名。漢代に行われた売爵制で、一定の献納金に対して朝廷より相応の官爵が与えられた。
 ・<春秋左傳、隱公五年>
    「2・・・故春蒐,夏苗,秋獮,冬狩,皆於農隙以講事也,三年而治兵,入而振旅,歸而飲至,以數軍實
          昭文章,明貴賤,辨等列,順少長,習威儀也,・・・」
 ・司馬兵法:司馬穰苴によって書かれたとされる兵法書。武経七書の一つ。司馬という名称は周代の軍部
   をつかさどる官名で、それが後に姓名になったもの。この本の主人公の司馬穰苴は斉人で、斉の景公に
   任じられ大司馬の職についたので司馬穰苴と呼ばれた。
 ・博士:古今の知識に通じた博士職が秦代からあり、前漢の武帝の時代に五経(易経・書経・詩経・礼記・
   春秋)博士が置かれた。  
  ・<漢書、百官公卿表>
    「8・・・博士,秦官,掌通古今,秩比六百石,員多至數十人。武帝建元五年初置五經博士,宣帝黃龍
          元年稍增員十二人。・・・」
 ・<後漢書、志、百官二>
    「4博士祭酒一人,六百石。本僕射,中興轉為祭酒。博士十四人,比六百石。」
 ・軍功爵:軍功に対する賜爵を意味する。
 ・<史記、商君列傳>
    「4・・・有軍功者,各以率受上爵・・・」
 ・五校:漢王朝時代の步兵・屯騎・長水・射声・越騎の軍隊編制五部隊の総称。
 ・<後漢書、志、百官四>
    「38屯騎校尉一人,比二千石。本注曰:掌宿衛兵。司馬一人,千石。
         39越騎校尉一人,比二千石。本注曰:掌宿衛兵。司馬一人,千石。
         40步兵校尉一人,比二千石。本注曰:掌宿衛兵。司馬一人,千石。 
         41長水校尉一人,比二千石。本注曰:掌宿衛兵。司馬、胡騎司馬各一人,千石。本注曰:掌宿衛,
             主烏桓騎。
         42射聲校尉一人,比二千石。本注曰:掌宿衛兵。司馬一人,千石。」
 ・太尉:古代中国における官職名で、軍事担当宰相の事。
 ・秩石制:前漢・後漢時代の官僚の年俸は穀物と銭で支給され、俸給とする穀物の単位(石=せき)で序
   列を表した。秩:扶持、役人の俸給。
 ・<論語、子路>
    「30子曰:「以不教民戰,是謂棄之。」」
或問曰:「州牧・刺史・監察御史三制孰優?」曰:「時制而已。」曰:「天下不既定其牧乎?」曰:「古諸侯建家國,世位權柄存焉,於是置諸侯之賢者以牧,總其紀綱而已,不統其政,不御其民。今郡縣無常,權輕不固,而州牧秉其權重,勢異於古,非所以強榦弱枝也,而無益治民之實,監察御史斯可也。若權時之宜,則異論也。」
[書き下し文]
 ・
或る人が問うて曰く、「州牧・刺史・監察御史の三制は、孰れか優れたる?」と。曰く、「時制なるのみ」と。曰く、「天下は既に其の牧(ぼく)を定めざるか?」と。曰く、「古の諸侯は家も國も建て、世位には権柄在り、是に於いて諸侯の賢者を置くに牧を以てし、其の綱紀を総べるのみにて、其の政を統べず、其の民を御(おさ)めず。今ま郡県常無く、権軽く固まらず、而して州牧が權重を秉(と)り、勢は古えに異なり、幹を強くし枝を弱くする所以にも非ず、而して治民の実の無益なるは、監察御史が斯(すなわ)ち可なり。若く權時の宜しきは、則ち異論なり」と。
[訳文]
 ・
ある人が質問するには、「州牧と刺史と監察御史の三つの官職のうち、行政に及ぼす効果としては孰れが優っていようか」と。その答えは、「それぞれ時勢に応じた適切な官職だ」と言った處だろう。重ねて問うには、「天下は監察官たる牧の職位を設けなかったのか?」と。その答えは、「古代の諸侯等は家を構えて國を領し、爵位を代々受け継いでいたが、そこで諸侯は賢者を牧に任じ、家臣の綱紀粛正の任に当たらせ、行政には口を出させず、政治には参画させなかった。處が今では郡守や県令の地位も様変わりし、その権威も地に落ちる有様で、監察官たる州牧が権力を増大し、其の勢いは昔とは異なるものがあるが、これは中央の政府に権力を集中して強くして、地方の権限を抑えて弱くする措置と云う訳ではないが、治められる人民にとってみれば有益な事は一つもないのだから、監察業務にだけ励む監察御史の方が受け入れやすい事になる。この様に見てくると当分はこれで良いとしても、異論の生じる所でも有る」と。
[参考]
 ・古代中国の土地制度の変遷  
       ・封建制:西周で施行された地方分権的統治制度。春秋・戦国時代まで続く。
      ・郡県制:全国を郡・県にわけ、それぞれに皇帝が任命する役人を派遣して治める中央集権的統治制
        度。秦の始皇帝から始まり、前漢の初期まで続く。(秦王朝の郡県制)
    ・郡国制:直轄地は「郡県制」、地方は「封建制」で治める制度。秦朝の中央集権的独裁制たる郡県制
        の失敗を考慮して前漢の高祖が採用した統治制度で、帝都長安の周辺は中央直轄地として郡県制
        を、地方は一族・功臣を諸侯王、諸侯として封じる封建制を併用したもの。
    ・州郡県制:前漢7代武帝の時代に郡県に州が加わり、新たな統治制度が導入されたが、呉楚七国
        の乱の後候王国の勢力は殺がれ、実質的には郡県制の姿に戻る。
    ・後漢王朝の郡県制:過去には一監察官に過ぎなかった刺史(時には牧)の権力が増大し、統治制度
        を牛耳る事になる。彼の曹操も一時期州牧に任命されており、その勢力増大の一翼を担った様であ
        る。
   ・州牧・刺史・監察御史について 
     ・州牧:後漢末期の12代霊帝時に、州の行政権の上に軍事権も持った州牧の官職が設けられ、九
         卿クラスの重臣が要所の州牧に配された。絶大な権限を持つ事になり、当時の群雄の多くがこの経
         験を有した。
     ・刺史:前漢の武帝時に設けられた州の監督官。次第に権力を増大し、後漢末には行政にも立ち入
         る事になる。    
        ・監察御史:周王朝時代の古くから君主の近くに仕えた史官が、時に応じ主命で監察業務に携わっ
         た場合の官名。
    ・<周禮、春官宗伯>
            「151御史:掌邦國都鄙及萬民之治令,以贊冢宰。凡治者受法令焉。掌贊書,凡數從者。 」
   ・<漢書、武帝紀>
            「161(元封五年)初置刺史部十三州。名臣文武欲盡,詔曰:「蓋有非常之功,必待非常之人,故
               馬或奔踶而致千里,士或有負俗之累而立功名。夫泛駕之馬,跅弛之士,亦在御之而已。其
               令州郡察吏民有茂材異等可為將相及使絕國者。」」
   ・<後漢書、孝靈帝紀>
        「273是歲(中平五年),改刺史,新置牧。
             275三月,幽州牧劉虞購斬漁陽賊張純。
             278太尉馬日磾免,幽州牧劉虞為太尉。」
   ・<漢書、百官公卿表>
        「34監御史,秦官,掌監郡。漢省,丞相遣史分刺州,不常置。武帝元封五年初置部刺史,掌奉
               詔條察州,秩六百石,員十三人。成帝綏和元年更名牧,秩二千石。哀帝建平二年復為刺史,
               元壽二年復為牧。
             35郡守,秦官,掌治其郡,秩二千石。有丞,邊郡又有長史,掌兵馬,秩皆六百石。景帝中二年
               更名太守。 
             36郡尉,秦官,掌佐守典武職甲卒,秩比二千石。有丞,秩皆六百石。景帝中二年更名都尉
        。」
  ・<後漢書、志、百官二>
      「4博士祭酒一人,六百石。本僕射,中興轉為祭酒。博士十四人,比六百石。」
  ・<史記、漢興以來諸侯王年表>
      「3漢定百年之閒,親屬益疏,諸侯或驕奢,忕邪臣計謀為淫亂,大者叛逆,小者不軌于法,以危
        其命,殞身亡國。天子觀於上古,然後加惠,使諸侯得推恩分子弟國邑,故齊分為七,趙分為
        六,梁分為五,淮南分三,及天子支庶子為王,王子支庶為侯,百有餘焉。吳楚時,前后諸侯
        或以適削地,是以燕、代無北邊郡,吳、淮南、長沙無南邊郡,齊、趙、梁、楚支郡名山陂海咸
        納於漢。諸侯稍微,大國不過十餘城,小侯不過數十里,上足以奉貢職,下足以供養祭祀,以
        蕃輔京師。而漢郡八九十,形錯諸侯閒,犬牙相臨,秉其阸塞地利,彊本干弱枝葉之勢,尊卑
        明而萬事各得其所矣。」
肉刑古也。或曰:「復之乎?」曰:「古者人民盛焉,今也至寡。整眾以威,撫寡以寬,道也。復刑非務必也,生刑而極死者,復之可也。自古肉刑之除也,斬右趾者死也。惟復肉刑,是謂生死而息民。」
[書き下し文]
 ・
肉刑は古えの事なり。或るひと曰く、「之れを復するか?」と。曰く、「古えは、人民盛んなるも、今まや寡(よわ)きに至る。衆を整えるには威を以てし、寡を撫すには寬を以てするは、道なり。刑を復するも務めざること必なり、生刑し而して死に極(はて)るも、之れを復すること可なり。古え自り肉刑の除や、斬右趾(ざんうし)は死なり、惟(おも)うに肉刑を復するは、是れ生死にして民を息(いこ)わしむと謂う。」と。
[訳文]
 ・
肉刑(身体に損傷を加える刑罰)は昔し有った刑罰である。或る人が問うには、「肉刑を復活させた方が良いだろうか?」と。答えとしては、「昔の人は気性が荒っぽかったが、今の人は気性も穏やかになっている。多くの民を統治していく為には威す事も必要だが、謙虚な人々を慰撫していく為には寛容さが必要であり、それが人として守るべき道理と云うものである。肉刑を復活しても用いられない事は目に見えているし、身体刑を受けて死に至る場合もあろうが、復活させても問題はあるまい。昔から肉刑の廃止については議論がなされてきたが、斬右趾の刑に服した者が死ぬのは残酷だと云う理由からである。考えてみると肉刑を復活させると云う事は、それによって活きるにしろ死ぬにしろ、民を安んじると云うことでもあるのだ。」と云う事である。
[参考]
 ・処刑の種類:生刑(徒刑と肉刑)と死刑。
 ・<周禮、秋官司寇>
     「77司刑:掌五刑之法,以麗萬民之罪,墨罪五百,劓罪五百,宮罪五百,刖罪五百,殺罪五百。若
       司寇斷獄弊訟,則以五刑之法詔刑罰,而以辨罪之輕重。
 ・中国の五刑:
   五刑(ごけい)とは、古代中国の刑罰体系で、次の五種類の刑罰を指す。
    ①墨(いれずみ)、「黥」(げい)とも云う。
    ②劓(ぎ・はなそぎ)
    ③剕(ひ・あしきり)、足を切断する。左足と右足のそれぞれの切断があり、斬左趾、斬右趾と命名。     
    ④宮(きゅう・去勢)、「腐」(ふ)または「椓」(たく)とも云う。
    ⑤大辟(死刑)、「殺」(さつ)とも云う。
   このうち大辟が生命刑(死刑)で、他の4つが身体刑(肉刑:身体に損傷を加える刑罰)。斬左趾・斬右
   趾などの重い身体刑は屡々受刑者の死亡に繋がった。漢朝は秦朝の時代の刑罰を踏襲しが、文帝の
   代に肉刑が廃止された。代わって労役刑(髡鉗城旦舂・完城旦舂・鬼薪白粲・司寇・罰作)や笞刑に
   取って代わられた。 
  ・前漢第五代文帝の刑政改革:
       ①死刑の廃止。 ②宮刑以外の肉刑は全て廃止
       基本的には、苛酷な刑罰は段階的に廃止・軽減されていった。
       これ以前は、五刑と労役(身分)刑と財産刑があった。 
  ・<史記、孝文本紀>
      「24五月,・・・今法有肉刑三,而姦不止,其咎安在?非乃朕德薄而教不明歟?吾甚自愧。故夫
        馴道不純而愚民陷焉。《詩》曰『愷悌君子,民之父母』。今人有過,教未施而刑加焉?或欲改
        行為善而道毋由也。朕甚憐之。夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其楚痛而不德也,豈稱
        為民父母之意哉!其除肉刑。」」
[感想]  
  ここでは治政に必要な二十一の要項のうち、始めの二つの基本項目則ち知識を重んじ厚情を大切にする事と、残りの十九項目の論点の内の最初の五項目について荀悦の私見が述べられている。則ち、
  ① 官吏登用試験の有り方の説明。
  ② 地方の行政長官の有り方に対する見解。
  ③ 前漢武帝の尚武の官を置いた背景の説明。
  ④ 地方行政官吏の有り方に対する考察。
  ⑤ 肉刑がある事によって人民の安寧が齎らされると云う私論の展開。
 その私見には当然の事とは言え、時代背景が色濃く影響を及ぼしている点を読み解く必要があろう。後漢末期の混乱期には、誰の目にも見るに堪えぬものがあったに違いない。                                                                 (R01.07.01) 続く

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申鑒-政體(政治の本来の形態)⑤

2019-06-01 09:16:44 | 仁の思想

申鑒-政體(政治の本来の形態)⑤
問︰「民由水也?」。濟大川者,太上乘舟,其次泅。泅者勞而危,乘舟者逸而安。虛入水,則必溺矣。以知能治民者泅也、以道德治民者舟也、縱民之情謂之亂,絕民之情謂之荒。」曰、「然則如之何?」曰、「爲之限,使弗越也、爲之地,亦勿越」。故水可使不濫,不可使無流。善禁者,先禁其身而後人、不善禁者,先禁人而後身。善禁之至於不禁,令亦如之。若乃肆情於身而繩欲於衆,行詐於官而矜實於民,求己之所有餘,奪下之所不足,捨己之所易,責人之所難,怨之本也。謂理之源斯絕矣。自上御下,猶夫釣者焉,隱於手而應於鈎,則可以得魚。自近御遠,猶夫禦馬焉,和於手而調於銜,則可以使馬。故至道之要,不於身非道也。睹孺子之驅雞也,而見御民之方。孺子驅雞者,急則驚,緩則滯。方其北也,遽要之,則折而過南;方其南也,遽要之,則折而過北。迫則飛,疎則放。志閑則比之,流緩而不安則食之。不驅之驅,驅之至者也。志安則循路而入門。
[書き下し文]  
 問うに、「民はなお水の由(ごと)きか?」と。大川を濟(わた)る者は、太上(たいじょう)は舟に乗り、其の次は泅(およ)ぐ。泅ぐ者は労(つか)れて危うく、舟に乗る者は逸(はや)くして安し。虚しく水に入れば、則ち必ず溺る。知能を以て民を治める者は泅ぎ、道徳を以て民を治める者は舟にし、民の情(おも)いを縱(ほしいまま)にすること之れ乱れると謂い、民の情いを絶(さえ)ぎること之れ荒れると謂う。曰く、「然らば則ち之れを如何せん?」と。曰く、「之れが限を為して、越さ弗(ざ)ら使め、之れが地を為して、亦た越すこと勿(なか)れ」と。故に水は濫(みだ)れざら使め、流れ無から使むべからず。善く禁(いまし)める者は、先ず其の身を禁め而して人を後にし、善く禁めざる者は、先ず人を禁め而して身を後にする。若し乃ち身は情を肆(ほしいまま)にし而して衆に欲を繩(ただ)し、官は詐を行い而して民には実を矜(ほこ)り、己の余り有る所を求め、下もの足らざる所を奪い、己の易き所を捨て、人の難き所を責めるは、怨みの本なり。謂うに理の源は斯く絶えん。上より下を御(おさ)めるに、猶お夫れ釣る者が、手を隠し而して鈎(ち)に応えなば、則ち以て魚を得べきがごとし。近きより遠きを御(おさ)めるに、猶お夫れ馬を禦し、手を和(やわ)らげ而して銜(くつわ)を調えなば、則ち以て馬を使うべきがごとし。故に道の要めに至るは、身に於いてせざるは非道なり。孺子の雞を驅(お)うところを睹(み)、而して民を御するの方を見る。孺子が鶏を驅(お)うに、急(せ)けば則ち驚き、緩(ゆる)ければ則ち滞(と)まる。其れ北に方(むか)うや、遽(にわ)かに之れを要(おびや)せば、則ち折れ而して南に過(さ)け、其れ南に方(むか)うや、遽(にわ)かに之れを要(おびや)せば、則ち折れ而して北に過(さ)ける。迫れば則ち飛び、疎んずれば則ち放(はな)れる。志し閑(のど)かなれば則ち之れに比(ちかず)き、流緩(りゅうかん)に而して不安なれば則ち之れに食(く)らわせる。不驅の驅は、驅の至るものなり。志し安ければ則ち路に循(したが)い而して門に入る。
[訳文]  
 問うには、「庶民というものは丁度水の様なものか?」と。大きな川を渡る場合、最も安全なのは舟に乗って渡ることであり、その次が泳いで渡ることである。泳ぐ場合は疲労で溺れる危険を伴うが、舟に乗って渡れば早くて安全だ。準備もせずに水に入れば必ず溺れる。知恵を働かせて庶民を治める者は泳いで渡る場合に相当し、人の守るべき道を示して庶民を治める者は舟を利用する場合に相当し、庶民の感情を野放しにすれば風俗は乱れるし、庶民の感情を徒に抑制すれば風俗は荒れる。そこで出てくるのが、「ではどうしたら良いのか?」と謂う疑問である。さて、「確りと限界を決めて越えさせないようにし、確りと地界を決めて同じく越さないようにする」と云う言葉がある。だから水はかき混ぜす過ぎて波風を立て過ぎてもいけないし、堰き止めて淀ませ過ぎてももいけない。正しい戒めかたとは、自分を先ず戒めて他人はその後にすろことであり、間違った戒めかたとは、他人を戒めることを先にして自分のことはその後にすることである。と云うことは、自分は気儘に振る舞って居ながら人々には欲望を抑えさせ、官界では欺し合いが横行しているのに民衆には誠実さを求め、自身は満ち足りているのに更に欲望を満たそうとし、困窮する庶民には更に重税を課し、自身はし易いことでも簡単に諦めてしまうのに、庶民が実施困難なことを責め立てたりするのは、怨みを買う原因となる。よくよく考えてみると、こうして人が守るべき正しい道の基本が失われていくのである。為政者が人民を治めるのは、丁度釣り人が手元を隠して釣り針の動きに反応して、魚を釣り上げる様なものである。遠く離れた僻地を治めるのは、丁度車馬を制御するのに手綱をしなやかにして馬の轡を制御して、馬を意のままに使う様なものである。この様に、人が守るべき道の基本を実現するには、自身が先ず率先実行しなければ道理に適ったとは云えないのである。童子が鶏を追い掛けている様子を見て、人民を統治する方法を想像してみる。童子が鶏を追い回している時に、激しく追いかけると鶏は驚いて逃げ回り、そっと寄っていくと鶏は静かに立ち止まる。鶏が北に向かって歩き出した時に、童子が急に遮ると、鶏は向きを変えて南の方に走って逃げて行く。鶏が南に向かって歩き出した時に、童子が又た同じように遮ると、鶏は又た身を翻して北の方に走って逃げて行く。童子が近くに迫ると、鶏は羽根を打ちたたいて飛び去り、童子が遠く離れると、鶏は又た一向に気に掛けることもなく気儘に歩き回る。鶏の気持ちが落ち着いている時には鶏に近づき、気持ちが落ち着いているのに不安そうならば餌を与えてやる。忙しなく追い回すのではなく様子を見ながら穏やかに追うのが、鶏を追い回す時の最善の策である。鶏が安心してのんびりと羽を伸ばしておれば、温和しく自分から鶏小屋に帰って行くものだ。
太上不空市,其次不偷竊,其次不掠奪。上以功惠綏民,下以財力奉上,是以上下相與。空市則民不與,民不與,則爲巧詐而取之,謂之偷竊。偷竊則民備之,備之而不得,則暴迫而取之,謂之掠奪。民必交爭,則禍亂矣。
[書き下し文]  
 ・太上は市を空にせず、其の次は 偷竊(とうひつ)せず、其の次は掠奪せず。上は功を以て民を惠綏(けいすい)し、下は財を以て上に力奉し、是れ上下を以て相い與にす。空市は則ち民は與にせず、民が與にせざれば、則ち巧詐(こうさ)を為し而して之れを取る、之れを偷竊と謂う。偷竊すれば則ち民は之に備え,之れに備えて而して得ざれば、則ち暴迫し而して之れを取る、之れを掠奪と謂う。民は必ず交爭すれば、則ち禍亂す。
[訳文]  
 ・最上のものは商いを盛んにすることであり、その次が掠め取ることであり、その次が掠奪することである。治政に参画する者は功績を挙げて人民に恩恵を与え、人民は財貨を作り出して治政者に積極的に提供し、こうして治政者も人民も皆共に快適に暮らすのである。商いが滞ると人民は暮らしが立たなくなり、暮らしが立ち行かなくなると言葉巧みに欺いて財貨を掠め取ることになるが、これが偷竊と云うことなのである。偷竊が横行すると人民は其れを防ごうとし、防ごうとしても出来ないと脅迫して奪い取ることになるが、これが掠奪と云うことなのである。人民が互いに争い合うと其れが原因で世の中は必ず乱れることになる。
或曰、「聖王以天下爲樂。」曰、「否。聖王以天下爲憂,天下以聖王爲樂。凡主以天下爲樂,天下以凡主爲憂。聖王屈己以申天下之樂,凡主申己以屈天下之憂。申天下之樂,故樂亦報之、屈天下之憂,故憂亦及之、天下之道也。
[書き下し文]  
 或る人曰く、「聖王は天下を以て楽しみと為す。」と。曰く、「否や、聖王は天下を以て憂いと為し、天下は聖王を以て楽しみと為す。凡主は天下を以て楽しみと為し、天下は凡主を以て憂いと為す。聖王は己を屈して以て天下の楽しみを申(の)ばし、凡主は己を申ばして以て天下の憂いを屈(ちぢ)める。天下の楽しみを申ばすは、故に楽しみは亦た之れに報い、天下の憂いを屈(ちぢ)めるは、故に憂いは亦た之れに及ぶ、天下の道なり。」と。
[訳文]  
 ・或る人が云うには、「優れた天子は世の人々と楽しみを分かち合う」と。それに答えるに、「いや、優れた天子は世の人々と憂いを共にし、世の人々は優れた天子と楽しみを分かち合う。平凡な君主は世の人々と楽しみを分かち合い、世の人々は平凡な君主と憂いを共にする。優れた天子は己を抑えて世の人々の楽しみを増やす。平凡な君主は己を主張して世の人々の憂いを抑え込む。世の人々の楽しみを増やすと云うことは、その為にその楽しみが再び優れた天子の下に返ってくることになり、世の人々の憂いを抑えつけると云うことは、その為にその憂いが再び平凡な君主の下に及ぶことになるが、これが世の中の道理と云うものである」と。
[参考]  
 ・<孟子、梁惠王下>     
     「11齊宣王見孟子於雪宮。王曰:「賢者亦有此樂乎?」孟子對曰:「有。人不得,則非其上矣。不得
        而非其上者,非也;為民上而不與民同樂者,亦非也。樂民之樂者,民亦樂其樂;憂民之憂
        者,民亦憂其憂。樂以天下,憂以天下,然而不王者,未之有也。」  
 ・後年の宋の范仲淹が著した『岳陽楼記』にある「先憂後楽」なる言葉はこの文章に由来するものか?  
 ・<岳陽樓記>     
     「・・・嗟夫。予嘗求古仁人之心、或異二者之為、何哉。不以物喜、不以己悲。居廟堂之高、則憂其
        民、處江湖之遠、則憂其君。是進亦憂、退亦憂。然則何時而樂耶。其必曰「先天下之憂而
        憂、後天下之樂而樂歟」。・・・」
治世所貴乎位者三,一曰達道於天下,二曰達惠於民,三曰達德於身。衰世所貴乎位者三,一曰以貴高人,二曰以富奉身,三曰以報肆心。治世之位,真位也、衰世之位,則生災矣。苟高人則必損之,災也、苟奉身則必遺之,災也、苟肆心則必否之,災也。
[書き下し文]  
 ・治世の位に貴ぶ所の者は三つ、一に曰く天下に於ける達道、二に曰く民に於ける達恵、三に曰く身に於ける達徳と。衰世の位に貴ぶ所の者は三つ、一に曰く貴を以て人を高め、二に曰く富みを以て身を奉(やし)ない、三に曰く報いを以て心を肆(つく)すと。治世の位は、真位なり、衰世の位は、則ち災を生まん。苟も人を高めれば則ち必ず之れを損じ、災いなり、苟も身を奉なえば則ち必ず之れを遺(す)て、災いなり、苟も心を肆せば則ち必ず之れを否(こば)む、災いなり。
[訳文]  
 ・太平の世に在って大事なことが三つあり、一つには天下に通用する素晴らしい道理、二つには天子から人々に与えられる素晴らしい恩恵、三つには自分自身に求められる素晴らしい道徳である。衰退の世に在って大事なことが三つあり、一つには人民を尊重してその人格を高めること、二つには人民の財産を殖やして生活を豊かにすること、三つには人民に報いる為に心を盡すことである。太平の世の状態は本来有るべき姿であり、衰退の世の状態では災いが生じることになる。仮に人民の人格を高めようとしても邪魔して災いを齎し、仮に人民の暮らしを豊かにしようとしても遺棄して災いを齎し、仮に人民の為に心を尽くしても拒んで災いを齎すことになる。
[参考]  
 ・達道:父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。  
 ・達徳:知・仁・勇。
治世之臣所貴乎順者三,一曰心順,二曰職順,三曰道順。治世之順真順也。衰世之順生逆也。體苟順則逆節,亂苟順則逆忠,事苟順則逆道。高下失序則位輕,班級不固則位輕,祿薄牢寵則位輕,官職屢改則位輕,遷轉煩瀆則位輕,黜陟不明則位輕,待臣不以禮則位輕。夫位輕而政重者,未之有也。聖人之大寶曰位,輕則喪吾寶也。
[書き下し文]  
 ・治世の臣の順に貴ぶ所の者は三つ、一に曰く心に順、二に曰く職(つと)めに順、三に曰く道に順と。治世の順は真との順なり。衰世の順は生(くらし)に逆(さか)らうものなり。體に苟(かりそめ)に順うは則ち節に逆らうことに、亂に苟に順うは則ち忠に逆らうことに、事に苟に順うは則ち道に逆らうことなる。高下序(きまり)を失えば則ち位は軽く、班級固(きま)らざれば則ち位は軽く、祿薄く寵を牢(かこ)めば則ち位は軽く、官職屡々改めれば則ち位は軽く、遷轉煩瀆(せんてんはんとく)すれば則ち位は軽く、黜陟(ちゅつちょく)明らかならざれば位は軽く、臣を待(ぐう)するに禮を以てせざれば則ち位は軽し。夫れ位が軽く而して政(まつりごと)重き者は、未だ之れ有らざるなり。聖人の大寶は曰く位にして、軽ければ則ち吾が寳を喪うものなり。
[訳文]  
 ・太平の世の臣下が逆らわずに尊重すべきものが三つあり、一つには自分の心に従順なこと、二つには職位に忠実なこと、三つには道義を遵守することである。太平の世のこの有り様は本来の有るべき姿である。衰退の世の有り様は世の中の動きに逆らうものである。仮に体の為すがままに行動すれば礼節に悖ることにも為るし、仮に乱れるがままに行動すれば職位に悖ることにも為るし、仮に物事に振り回されるがままに行動すれば道義に悖ることにも為る。上下の秩序が失われれば位階の価値は軽くなるし、爵位が決まらないと位階の価値は軽くなるし、禄高が低い者を寵愛すれば位階の価値は軽くなるし、官職がしょっちゅう変われば位階の価値は軽くなるし、屡々見下して傲慢な態度をとれば位階の価値は軽くなるし、功績の無い人を重用して功績の有る人を登用しなければ位階の価値は軽くなるし、家臣の処遇が礼節に反することがあれば位階の価値は軽くなる。そもそも位階の価値が軽いのに治世が上手く云った例しは無い。聖人の偉大な宝物を位(民の幸福の為に民を実際に化育する事の出来る高い地位)と称し、これが軽いと自身の得がたい寳を失うことになる。
[参考]
 ・<周易、繫辭下>     
     「1・・・天地之大德曰生,聖人之大寶曰位。何以守位曰仁,何以聚人曰財。理財正辭,禁民為非曰
         義。」
好惡之不行,其俗尚矣。嘉守節而輕狹陋,疾威福而尊權右,賤求欲而崇克濟,貴求己而榮華譽,萬物類是已。夫心與言,言與事,參相應也。好惡、毀譽、賞罰,參相福也。六者有失,則實亂矣。守實者益榮,求己者益達,處幽者益明,然後民知本矣。
[書き下し文]  
 ・好悪の行われざるは、其の俗(なら)い尚し。嘉く節を守り而して狹陋(きょうろう)を軽んじ、威福を疾(にく)み而して權右(ごんう)を尊び,欲を求めることを賤しみ而して克濟を崇め、己に貴く求め而して華譽を栄(かがや)かす、萬物の類(のり)は是れ已み。夫れ心と言、言と事の参つは相に応ずるなり。好惡、毀譽、賞罰の参つは相に福なり。六つは失うこと有れば則ち實に亂かな。実を守る者は益々栄え、己を求める者は益々達し、幽に處(お)る者は益々明らかに、然る後に民は本を知る。
[訳文]  
 ・好悪の感情が露骨に現れない世の中の風俗は高尚である。確りと節度を守って度量の狭い行為を軽んじ、人を思いのままに従わせる行為を憎んで高官を尊崇し、欲望を満たすことを蔑んで事の成就に重きを置き、自身には厳しくして華やかな名声を挙げる、全ての物事はこれに尽きる。そもそも思いと発せられる言葉と現れる出来事の三つの間には密接な関連がある。好惡と毀譽と賞罰の三つは天から授かった世の中を円滑にする手段である。これら六つの釣り合いが失われると確実に天下は乱れる。実(とみ)を守る者は益々栄え、自身に厳しくする者は益々己を高め、奥深くて物静かな者は益々清らかになる、こうして人民は人として守るべき道理の根本を理解するのである。
[参考]  
 
・六者:好・惡・毀・譽・賞・罰のこと。
[感想]  
 先ず習近平用典に引用された次の文章に触れておこう。即ち、
   「善禁者,先禁其身而後人、不善禁者,先禁人而後身。善禁之至於不禁,令亦如之。若乃肆情於身 
    而繩欲於衆,行詐於官而矜實於民,求己之所有餘,奪下之所不足,捨己之所易,責人之所難,怨
    之本也。」     
   「正しい戒めかたとは、自分を先ず戒めて他人はその後にすろことであり、間違った戒めかたとは、他
    人を戒めることを先にして自分のことはその後にすることである。と云うことは、自分は気儘に振る
    舞って居ながら人々には欲望を抑えさせ、官界では欺し合いが横行しているのに民衆には誠実さを
    求め、自身は満ち足りているのに更に欲望を満たそうとし、困窮する庶民には更に重税を課し、自身
    はし易いことでも簡単に諦めてしまうのに、庶民が実施困難なことを責め立てたりするのは、怨みを
    買う原因となる。」  
 さてここでは、前文の政體(政治の本来の形態)④に引き続き天子及び人民の果たすべき役割について述べられている。君主としての先憂後楽・修身・教化・殖産奨励・奉仕の精神などに、臣下としての不正防止・職務忠実・道義尊守などに、人民としての節度厳守・高官尊崇・欲望抑制などに就いて触れられている。それぞれがそれぞれの立場で最善を尽くせと言う事だろ                                                          
                                      政體終わり

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申鑒-政體(政治の本来の形態)④

2019-05-01 09:06:36 | 仁の思想

鑒-政體(政治の本来の形態)④
天子有四時,朝以聽政,晝以訪問,夕以脩令,夜以安身。上有師、傅,下有讌臣,大則講業,小則咨詢,不拒直辭,不恥下問,公私不愆,外內不二。是謂有交。
[書き下し文]  
 ・
天子に四時有り、朝には政(まつりごと)を聴くことを以てし、昼には訪ね問うことを以てし、夕には令を脩(ととのえ)ることを以てし、夜には身を安んじることを以てす。上には師・傅(もり)有り、下には讌臣(えんしん)有り、大は則ち講業し、小は則ち咨詢(しじゅん)し、直辭を拒まず、下問を恥じず、公私愆(あやま)たず、外内 不二(ふに)。是れ有交と謂う。
[訳文]  
 ・天子には一日の内四つの大事な時刻が有り、それは朝には政務を処理し、昼には臣下からの意見具申を聴取し、夕には政令を修整し、夜には休養するのである。大官には太師・太傅(たいふ)・太保の三公が、その輔役としての少師、少傅、少保の三孤(さんこ)が居り、小官には心赦した家臣が控え、大は暮らし向きの話や、小は身の回りの相談事などを語り合い、直言を拒まず、つまらぬ問い掛けも恥じることなく、公私に亘って間違いがなく、内も外も基本的に対立することがない。これが本当の交わりと云うものである。
[参考]
  ・<春秋左傳、昭公元年>
      「2元年春,・・・ 君子有四時,朝以聽政,晝以訪問,夕以脩令,夜以安身。」
        君子には四つの時間がある。朝には政務を処理し、昼には人の意見を尋ね、夕には政令を確 
        定し、夜には体を休める。 
  ・<尚書、周書、周官> 
      「3立太師、太傅、太保,茲惟三公。論道經邦,燮理陰陽。官不必備,惟其人。少師、少傅、少保,
        曰三孤。」
  ・<周易、彖傳、泰>
      「1・・・上下交,而其志同也。・・・」
問︰「明於治者其統近。」萬物之本在身,天下之本在家,治亂之本在左右,內正立而四表定矣。」
[書き下し文]  
 問うに、「治を明らかにするは其れ近きを統べるか?」と。万物の本は身に在り、天下の本は家に在り、治乱の本は左右に在り、内正立し而して四表定まらん。」と。
[訳文]
 ・問うには、「政治を賢明且つ公正に行うには身の回りを纏めるべきか?」と。「全ての物事の根本は自分自身に原因が有り、天下の根本は家庭に原因が有り、政が治まったり乱れたりするのは側に仕える家臣に原因が有る、朝廷内が正しく整っていれば天下は平和に治まるもの」だ。
[参考]
 ・<大学、八条目>
     「2古之欲明明德於天下者,先治其國;欲治其國者,先齊其家;欲齊其家者,先修其身;欲修其身  
       者,先正其心;欲正其心者,先誠其意;欲誠其意者,先致其知,致知在格物。物格而後知至,
       知至而後意誠,意誠而後心正,心正而後身修,身修而後家齊,家齊而後國治,國治而後天下
       平。」
 ・明治:修明政事。政治が賢明且つ公正なこと。
 ・四表:四つの方角。四方。転じて、世の中。天下。
 ・正人:释义:1、正直的人;正派的人。2、指嫡系亲属。3、做官长的人。
 ・正立:端正地站立。直立して立つ。姿勢を正して立つ。
問︰「通於道者其守約。」「有一言而可常行者,恕也。有一行而可常履者,正也。恕者,仁之術也。正者,義之要也。至哉!此謂道根,萬化存焉爾。是謂不思而得,不爲而成,執之胷心之間,而功覆天下也。」
[書き下し文]
 問うに、「道に通じる者は其れ守るに約なるか?」と。一言有り而して常に行うべき者は、恕なり。一行有り而して常に履(おこな)うべき者は、正なり。恕は、仁の術(てだて)なり。正は、義の要めなり。至(きわま)る哉!此れを道根と謂い、萬化はここに存するのみ。是れを思わずして得、為さずして成ると謂い、之れを執るは胷心の間、而して功は天下を覆す。
[訳文]  
 問うには、「人の守るべき道を理解することは簡単に実行出来るものか?」と。単純な言葉だが、思い遣りと云うことだ。また簡単な行動だが、姿勢を正しくすると云うことだ。思い遣ると云うことは、仁徳を施す上での手段である。姿勢を正すと云うことは、義理を果たす上での要となるものだ。何と素晴らしいものではないか!これを天下を治め人の道を修める方法の基本と云い、万物の化育の基本はここに尽きるのだ。これが思わないでいて全てを把握し、何もしないでいて全てを成し遂げると云い、何れもこれは心の中の出来事であり、こうしてその成果は天下を根本から変える程の力を発揮するのだ。
[参考]  
 ・<孟子、盡心下>
     「78孟子曰:「言近而指遠者,善言也;守約而施博者,善道也。・・・」」
自天子達於庶人,好惡哀樂,其脩一也。豐約勞佚,各有其制。上足以備禮,下足以備樂,夫是謂大道。天下國家一體也,君爲元首,臣爲股肱,下有憂民,則上不盡樂;下有饑民,上則不備膳;下有寒民,則上不具服。徒跣而垂旒,非禮也。故足寒傷心,民寒傷國。
[書き下し文]  
 天子自り庶人に達(いた)るまで、好惡哀樂は、其れ脩一なり。豐約勞佚(ほうやくろういつ)は、各々其れ制(かぎり)有り。上足るは禮に備えることを以てし、下足るは楽に備えることを以てし、夫れ是れを大道と謂う。天下国家は一体なりて、君は元首と為り、臣は股肱と為り、民は手足と為る。下(し)も憂民有れば、則ち上みは楽を尽くさず、下も饑民有れば、上みは則ち膳を備えず、下も寒民有れば、則ち上みは服を具えず。徒跣(とせん)而して垂旒(すいりゅう)するは、非礼なり。故に足の寒さは心を傷つけ、民の寒(まずし)さは國を傷(いた)める。
[訳文]  
 天子から庶民に至るまで、その持つ好惡哀樂の感情を整えることは全く同じである。人が担う豊かさ・慎ましさ・苦労・安楽の程度には限度がある。統治に関わる者が豊かさを保っているのは六禮に備える為のものであり、庶民が蓄財に励むのは暮らしに備える為のものであり、そもそもこれこそが人として守るべき最大の道徳なのである。天下国家を築く人々は本来一体のものであり、君主は元首となって庶民を統べ、家臣はその股肱と為って助力し、庶民はその手足と為って労働に従事するのである。庶民の中に思い煩う者が居れば、治政者は快楽に耽らず、庶民の中に貧しい者が居れば、治政者は贅沢な食事を控え、庶民の中に寒さに震える者が居れば、治政者は贅沢な服装を控える。裸足のままで礼装するのは人の道に外れた行為である。と云うのは、足下が寒いと気持ちが萎えるし、庶民が貧しい暮らしをしているのは國を損なうことに為る。
[参考]  
 ・六禮:冠禮・昏(婚)禮・喪禮・祭禮・郷飲酒禮・相見禮の重要な六種の禮。  
 ・<尚書、虞書、益稷>
     「6・・・乃賡載歌曰:「元首明哉,股肱良哉,・・・」」
問︰「君以至美之道道民,民以至美之物養君。」君降其惠,民升其功,此無往不復,相報之義也。故太平備物,非極欲也。物損禮闕,非謙約也,其數云耳。
[書き下し文]  
 問うに、「君は至美の道を以て民を道(みちび)き、民は至美の物を以て君を養うか?」と。君は其れ恵みを降し、民は其れ功(はたらき)を升(さしあ)げる、此れ往きて復(かえ)らざる無く、相い報いるの義なり。故に太平備物、極欲非ざるなり。物損禮闕,謙約非ざるなりて、其れ数(すじみち)云うのみ。
[訳文]  
 問うには、「君主は人の踏み行うべき偉大なる五常の道を以て人民を導き、人民は最高の五種の穀物を作って統治者たる君主を養うのか」と?君主は人民に恵みを施し、人民は労力を提供する、こうすれば必ず良い結果が附いてきて、お互いに報われるという理屈になる。こうして天下は太平であり物事は全て上手く行き、無謀な欲望も生まれなくなる。物事が破壊されたり礼節を欠く事もなく、卑下したり困窮したりすることもなく、以上は世の中の当然の有り様について触れたに過ぎない。
[参考]  
 ・美之道:五常(仁・義・禮・智・信)のこと。  
 ・美之物:五種(稲・稗・麦・豆・麻)の主要穀物のこと。  
 ・<易經、泰卦>     
     「4泰: 九三:無平不陂,無往不復,艱貞无咎。勿恤其孚,于食有福。
          象傳: 無往不復,天地際也。      
       たいらにしてかたむかざるなく。ゆきてかえらざるなし。
問「人主。」有公賦無私求,有公用無私費,有公役無私使,有公賜無私惠,有公怒無私怨。私求則下煩而無度,是謂傷清、私費則官耗而無限,是謂傷制。私使則民撓擾而無節,是謂傷義。私惠則下虛望而無準,是謂傷正。私怨則下疑懼而不安,是謂傷德。
[書き下し文]  
 ・問うに、「人主とは?」と。公賦有るも求めるに私すること無く、公用有るも費やすに私すること無く、公役有るも使うに私すること無く、公賜有るも恵みを私すること無く、公怒有るも怨みを私すること無し。求めるに私することは則ち下もは煩い而して度すること無く、是れ清を傷(そこ)なうと謂う。費やすに私することは則ち官は耗(つ)き而して限り無く、是れ制を傷なうと謂う。使うに私することは則ち民は撓擾(どうじょう)し而して節(みさお)無く、是れ義を傷つけると謂う。恵みを私することは則ち下は望みを虚(むなしく)し而して準(たいら)無く、是れ正しさを傷つけると謂う。怨みを私することは則ち下もは疑懼(ぎく)し而して安からず、是れ徳を傷つけると謂う。
[訳文]  
 ・問うには、「君主とは」と?人民を統べる君主は、公税を徴収しても私的に流用せず、 公用に際しても私的に流用せず、公役を行うに際しても私的に利用せず、公賜を受けてもその恩恵を独り占めせず、公憤を覚えても個人的な怨みごとを転嫁しない。公賦を私的に流用するような事があれば下の者も煩悩が芽生えて欲望を抑えきれなくなるが、これは清廉潔白な心を傷つけると云うものである。公用を私的に流用する様なことがあれば国庫も干上がって歯止めが効かなくなってしまうが、これは人として守るべき制度を破壊すると云うものである。公役を私的に流用する様なことがあれば人民は怒って騒ぎ出して見境無くなるが、これは信義の道を傷つけると云うものである。公賜の恵みを私的に流用する様なことがあれば下の者は熱意も失せて心も揺れ動くが、これは正義の心を傷つけると云うものである。公憤に個人的な怨みごとを含める様なことがあれば下の者は疑いを抱き恐れて不安になるが、これは徳性を傷つけると云うものである。
問︰「善治民者,治其性也」。或曰、「冶金而流,去火則剛、激水而升,舍之則降。惡乎治」。〈平聲。〉曰:「不去其火則常流,激而不止則常升。」故大冶之爐可使無剛,踊水之機可使無降。善立教者若茲,則終身治矣,故凡器可使與顏、冉同趨。投百金於前,白刃加其身,雖巨跖弗敢掇也。善立法者若茲,則終身不掇矣,故跖可使與伯夷同功。
[書き下し文]  
 問うに、「善く民を治めるとは、其の性を治めることか?」と。或人曰く、「金(かね)を冶(と)かして流し、火を去(のぞ)けば則ち剛(かた)まり、水を激(さえ)ぎりて升(たか)め、之れを舎(はな)てば則ち降る。悪(いず)くにか治まらん」と。曰く、「其の火を去かざれば則ち常に流れ、激ぎり而して止(や)めざれば則ち常に升まる」と。故に大冶(たいや)の炉は剛まること無く使う可く、踊水(ようすい)の機(しかけ)は降ること無く使う可し。善く教えを立てる者は茲の若く、則ち終身治め、故に凡器は顔(顔淵)や冉(冉伯牛)と同趨(どうしゅう)せ使む可し。百金前に投げるも、白刃其身に加われば、巨跖と雖も敢えて掇(と)ら弗るなり。善く法を立てる者は茲の若く、則ち終身掇らず、故に跖は伯夷と同じく同功せ使む可し。
[訳文]  
 問うには、「人民をよく治めると云うことは、その民の心を正すと云うこと」かと?さて或人の言葉に、「金属を加熱して溶かせば流動し、その加熱を止めれば固体に戻るし、水を堰き止めて蓄え、之れを開けば水は流れ落ちる。この様に物事の全ては治まると云うことが無いのだ。」とある。更に云うには、「固い金属も加熱し続ければ流動し続けるし、水も遮り続ければ流れ落ちることは無い(金属が流れ水が嵩を増すように、性を正せば民は治まる)」と。だから鍛冶屋の炉は金属が固まらないように操作出来るし、跳ねつるべの仕掛けは水を漏らすことなく汲み上げることが出来るのだ。立派に教え導くことが出来る者はこの様に生涯変わること無く教化に努め、こうして凡夫は孔門十哲の徳行の人である顔淵や冉伯牛と同じように節度を守った行動をさせる事が出来るのだ。目の前に大金が転がっていても白刃を突きつけられている状態では、大盗賊の巨跖でさえも怖じ気附いてそれを拾う訳には行かないだろう。立派に法律を定めることが出来る者はこの様に生涯変わること無く分け隔てせず、こうして大盗賊の巨跖も聖人たる伯夷も同じように裁定する事が出来るのだ。
[参考]  
 ・<荘子、外篇、天地>     
     「11・・・曰:「鑿木為機,後重前輕,挈水若抽,數如泆湯,其名為槔。」」  
 ・顔・冉:孔門十哲の徳行の人である顔淵や冉伯牛のこと。  
 ・<莊子、雜篇、盜跖>     
     「1・・・柳下季之弟名曰盜跖。盜跖從卒九千人,橫行天下,侵暴諸侯,穴室樞戶,驅人牛馬,取人 
         婦女,貪得忘親,不顧父母兄弟,不祭先祖。所過之邑,大國守城,小國入保,萬民苦
         之。」  
 ・巨跖:盜跖とも云い、中国古代の伝説的な大盗賊。数千人の徒党を組み、殺害・略奪を繰り返し、暴虐 
      の限りを尽くしたと云う。  
 ・伯夷:清廉潔白な聖人君子と云われる、殷末の賢人である伯夷・叔斉兄弟の内の兄。
[感想]  
 統治者としての天子の一日の過ごし方や心構えについて荀悦の持論が述べられている。特別目新しい事もないが、「天子は六禮を備え人民は蓄財に励むのが、人として守るべき最高の道徳である」と説いている處などが目に付く。                                

 

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申鑒-政體(政治の本来の形態)③

2019-04-01 09:01:06 | 仁の思想

申鑒-政體(政治の本来の形態)③
惟修六則,以立道經。一曰中,二曰和,三曰正,四曰公,五曰誠,六曰通。以天道作中,以地道作和,以仁德作正,以事物作公,以身極作誠,以變數作通。是謂道實。
 [書き下し文]  
 ・惟(おも)んみるに六則を修め、以て道經を立つ。一に曰く中、二に曰く和(か)、三に曰く正、四に曰く公、五に曰く誠、六に曰く通と。天道を以て中を作(な)し、地道を以て和を作し、仁徳を以て正を作し、事物を以て公を作し、身極めることを以て誠を作し、変数を以て通うを作す。是れ道実と謂う。
[訳文]  
思うには、六つの規範を修めるのは、人が守るべき筋道を立てる為である。その第一は未発の中(喜怒哀楽の感情が、起こる前の偏りのない天命の性が保たれている状態)であり、第二は節度の有る和(環境に応じて起こる感情が、過不足なく本来の節度を保っている状態)であり、第三は純直な正(純正な状態)であり、第四は明清な公(公明正大な状態)であり、第五は窮極の誠(純真な状態)であり、第六は精妙な通(精通している状態)である。天の法則によって中の状態が定まり、地の法則によって和の状態が定まり、仁徳によって正の状態が定まり、全ての物事によって公の状態が定まり、身極め方によって誠の状態が定まり、常識に捕らわれないことによって通の状態が定まる。これが国を治める為の道義に基づいた実際の道理と云うものである。
[参考]
 ・<禮記、中庸>     
     「1天命之謂性,率性之謂道,修道之謂教。道也者,不可須臾離也,可離非道也。是故君子戒慎乎  
       其所不睹,恐懼乎其所不聞。莫見乎隱,莫顯乎微。故君子慎其獨也。喜怒哀樂之未發,謂之
       中;發而皆中節,謂之和;中也者,天下之大本也;和也者,天下之達道也。致中和,天地位焉,
       萬物育焉。」  
 ・變數:常數(自然の定め、一定の運命。決まった道理。)の反義語。  
 ・<中論、脩本>    
     「6或曰:「斯道豈信哉?」曰:「何為其不信也?世之治也,行善者獲福,為惡者得禍;及其亂也,
       行善者不獲福,為惡者不得禍,變數也。知者不以變數疑常道,故循福之所自來,防禍之所由
       至也。遇不遇,非我也,其時也。」」
惟恤十難,以任賢能。一曰不知,二曰不進,三曰不任,四曰不終,五曰以小怨棄大德,六曰以小過黜大功,七曰以小失掩大美,八曰以姧訐傷忠正,九曰以邪說亂正度,十曰以讒嫉廢賢能、是謂十難。十難不除,則賢臣不用,用臣不賢,則國非其國也。
[書き下し文]
・惟んみるに十難を恤(うれ)えるは、以て賢能を任(たも)つ。一に曰く不知、二に曰く不進、三に曰く不任、四に曰く不終、五に曰く小怨を以て大徳を棄て、六に曰く小過を以て大功を黜(しりぞ)け、七に曰く小失を以て大美を掩(おお)い、八に曰く姧訐(かんけつ)を以て忠正を傷(そこ)ない、九に曰く邪說を以て正度を乱し、十に曰く讒嫉(ざんしつ)を以て賢能を廢すと。是れ十難と謂う。十難除かざれば、則ち賢臣は用いられず、臣を用いて賢からざれば、則ち國は其れ國に非ざるなり。
[訳文]  
思うには、賢能の士を任用するに当たって、懸念すべき十の難点の有ることを考えておく必要がある。第一に人を見抜く力を持っていないこと、第二に見抜く力はあるが積極的に推挙する事が出来ないこと、第三に推挙はするが上手く使うことが出来ないこと、第四に使うことが出来ても全てを任すことが出来ないこと、第五に些細な怨みごとに固執して貴重な品徳を否定してしまうこと、第六に些細な過失に拘って大きな功績を見失ってしまうこと、第七に些細な欠点に拘って立派な長所を見過ごしてしまうこと、第八に欠点を暴いて追求し真心のこもった正直な心を傷つけてしまうこと、第九に邪説に惑わされて正しい規則を乱してしまうこと、第十に謗り嫉んで人格高潔で有能な人を排除してしまうことで、是れが十難と云うものである。十難を除かないと賢臣を用いることは出来ないし、そうなれば國の形はしていても國とは云えないと云うことになる。
[参考]
 
  ・<漢書、董仲舒傳>     
     「22臣聞堯受命,以天下為憂,而未以位為樂也,故誅逐亂臣,務求賢聖,是以得舜、禹、稷、镨、
        咎繇。眾聖輔德,賢能佐職,教化大行,天下和洽,萬民皆安仁樂誼,各得其宜,動作應禮,
        從容道。・・・」
惟察九風,以定國常。一曰治,二曰衰,三曰弱,四曰乖,五曰亂,六曰荒,七曰叛,八曰危,九曰亡。君臣親而有禮,百僚和而不同,讓而不爭,勤而不怨,無事惟職是司,此治國之風也。禮俗不一,位職不重,小臣讒嫉,庶人作議,此衰國之風也。君好讓,臣好逸,士好遊,民好流,此弱國之風也。君臣爭明,朝廷爭功,士大夫爭名,庶人爭利,此乖國之風也。上多欲,下多端,法不定,政多門,此亂國之風也。以侈爲博,以伉爲高,以濫爲通,遵禮謂之劬,守法謂之固,此荒國之風也。以苛爲密,以利爲公,以割下爲能,以附上爲忠,此叛國之風也。上下相疏,內外相蒙,小臣爭寵,大臣爭權,此危國之風也。上不訪,下不諫,婦言用,私政行,此亡國之風也。故上必察乎國風也。
[書き下し文]  
惟んみるに九風を察するに、定国を以て常とす。一に曰く治、二に曰く衰、三に曰く弱、四に曰く乖(かい)、五に曰く亂、六に曰く荒、七に曰く叛、八に曰く危、九に曰く亡と。君臣は親しく禮有り、百僚は和し而して同ぜず、譲り而して争わず、勤め而して怨まず、無事に職是れ司ることを惟(おも)う、此れ治国の風(しきた)りなり。禮俗は一ならず、位職は重ならず、小臣は讒嫉(ざんしつ)し、庶人は作議す、此れ衰国の風(しきた)りなり。君は讓(せめ)ることを好み、臣は逸(やす)きを好み、士は遊びを好み、民は流れを好む、此れ弱國の風(しきた)りなり。君臣は明を争い、朝廷は功を争い、士大夫は名を争い、庶人は利を争う、此れ乖國(かいこく)の風(しきた)りなり。上は多欲、下は多端、法は定まらず、政(おきて)は多門、此れ亂国の風りなり。侈を以て博を為し、伉を以て高を為し、濫を以て通を為し、尊禮は之れ劬(くるし)み謂(つと)め、守法は之れ固(かたく)なに謂める、此れ荒國の風りなり。苛(こまか)さを以て密と為し、利を以て公と為し、下を割ることを以て能(はたらき)と為し、上に附くことを以て忠と為す、此れ叛國の風りなり。上下相い疏(うと)く、内外相い蒙(おか)し、小臣は寵を争い、大臣は權を争う、此れ危國の風りなり。上は訪ねず婦言が用いられ、私政が行われる、此れ亡國の風りなり。故に上は必ず国風を察すべきなり。
[訳文]  
思うには、国運を左右する九つの社会動向を推察する場合に、國を安定させる観点から考えるのが常道である。第一には平治しているか、第二には衰退していないか、第三には惰弱化していないか、第四には乖離していないか、第五には騒動が起きていないか、第六には荒廃していないか、第七には叛乱の動きはないか、第八には危険なことはないか、第九には亡国の動きはないかと。君主と家臣の間は親しき間にも礼節を保ち、家臣達は協調するも安易な妥協はせず、譲り合って無駄な争いはせず、国事に奔走するも愚痴ることなく、無事に職を全うすることだけを考える、これが国を治めると云うことの有るべき姿である。禮義・風俗はばらばらで、地位と職務が一致せず、身分の軽い家臣が謗り嫉んだり、爵位外の庶民が批判したりする、これは國が衰えて行く時に現れる現象である。君主は厳しく咎め、家臣は責任逃れに終始し、役人は遊び呆け、民衆は望みも失せて彷徨う、これは國が弱体化する時に現れる現象である。君主や重臣は絶えず権力闘争を行い、宮廷では功績を挙げることにうつつを抜かし、士大夫達は功名争いに明け暮れ、庶民は利益をひたすら追い求める、これは國が乖離する時に現れる現象である。上層の者は欲深く、下層の者は多忙で、法規は決まらず、政令はばらばら、これは國が乱れる時に現れる現象である。誇らしげに博識ぶりを自慢し、思い上がって高慢になり、度が過ぎるほど自説を押し通し、礼節を守ることに固執し、法規を守ることに執着する、これは國が荒廃する時に現れる現象である。法令は細かく煩わし過ぎ、利潤の追求ばかりを奨励し、部下を依怙贔屓して仲間割れさせ、上司の意のままに従うことを忠義だと勘違いしている、これは國に叛乱が起きる時に現れる現象である。為政者と民衆の間に親しみが無く、國の内外で諍いが絶えず、下層の役人は上の者に媚び入り、大臣は権力争いをしている、これは國に危険が迫っている時に現れる現象である。為政者が家臣の言葉に耳を貸さず婦女子の言葉に動かされ、私政が行われている、これは國が亡びる時に現れる現象である。以上のことから為政者が心すべき事は、常に國の動向を注意深く見守ることである。
[参考]  
  ・<隋書、天文中>     
     「84女主外戚擅權,則或進或退。月變色,將有殃。月晝明,奸邪並作,君臣爭明,女主失行,陰國
       兵強,中國饑,天下謀僭。數月重見,國以亂亡。」
惟慎庶獄,以昭人情。天地之大德曰生,萬物之大極曰死。死者不可以生,刑者不可以復。故先王之刑也,官師以成之,棘槐以斷之,情訊以寬之,朝、市以共之,矜哀以恤之,刑斯斷,樂不舉,刑哉刑哉,其慎矣夫。
[書き下し文]  
惟んみるに庶獄を慎み、以て人情を昭かにす。天地の大徳は曰く生と、万物の大極は曰く死と。死せし者は以て生かす可べからず、刑されし者は以て復すべからず。故に先王の刑や、官師以て之れを成し、棘槐(きょくかい)以て之れを断じ、情訊(じょうじん)以て之れを寛(ゆる)し、朝は、市(さらしば)以て之れを共(そな)え、矜哀(きょうあい)以て之れを恤(あわ)れみ、刑斯れ断じ、樂は挙げず、刑や刑や、其れ慎むかな。
[訳文]
 
思うには、全てに於いて処刑を行うに当たっては慎重を期し、そうすることによって人々の思いを把握すべきである。天地の大いなる徳は生成して止むことがなく、万物の根源の状態は静謐を保つ。死んだ者は生き返えらないし、体刑を受けた者は元通りの体に戻すことは出来ない。。そこで昔の聖王が刑罰を与えるに当たっては、下級官吏がこれを担当し、上級官吏の三公と九卿がこれを決定し、処刑前に順序立ててよく意見を聴取して民意を確認して許すべき者は許し、朝廷は刑場で刑を実行し、哀れみの実を示してこれに当たり、刑を執行し、音楽の演奏はしなかったのであり、刑の実行に当たっては実に慎重を期したのである。
[参考]
 
  ・<周易、繫辭下>     
     「1天地之大德曰生,聖人之大寶曰位。何以守位曰仁,何以聚人曰財。理財正辭,禁民為非曰
       義。」  
  ・太極:究極の根源。万物を構成する陰陽二つの気に分かれる以前の根元の気。陰陽に分かれる前、
       動き出す前のまだ混沌とした状態のことを指します。
惟稽五赦,以綏民中。一曰原心,二曰明德,三曰勸功,四曰襃化,五曰權計。凡先王之攸赦,必是族也。非是族焉,刑茲無赦。
[書き下し文]  
・惟んみるに五赦を稽(かんが)えるは、民中を綏(やすんじ)るを以てす。一に曰く原心、二に曰く明徳、三に曰く勸功、四に曰く襃化(ほうか)、五に曰く權計。凡そ先王の攸赦(ゆうしゃ)は、必ず是の族なり。是の族に非ざれば、刑して茲(ここ)に赦すこと無し。
[訳文]  
思うには、五つの赦免策を採るのは、中間層の庶民の不満を和らげることにある。その実施に当たっては先ず第一には罪を犯した時の動機や心理を良く究明して判断すること、第二には罪を犯した人物の本性を良く身極めて判断すること、第三には罪を犯した人物が徳の高い行動に努めたか否かで判断すること、第四には人々を誉め励まして啓発する努力を怠らなかったか否かで判断すること、第五には時宜に適した扱いとして判断することである。一般に昔の聖王が免罪対象としたものは、必ずこのどれかに属するものである。それ以外は断罪して赦免することは無かった。
[参考]  
  ・<漢書、薛宣朱博傳>     
     「16・・・春秋之義,原心定罪。・・・」  
  ・<禮記·王制>     
     「37・・・民咸安其居,樂事勸功,尊君親上,然後興學。・・・」  
  ・<禮記、祭法>     
     「8・・・非此族也,不在祀典。」
[感想]  国を治める上で心すべき事として、以下の五項目が述べられている。即ち、    
      ①先ず自身が修養すべき六つの規範。     
      ②有能な部下を選択する上で注意すべき十の問題点。     
      ③國の安定を図る上で注意を怠っては為らぬ九つの社会動向。     
      ④刑罰を与える上で心すべき注意点。     
      ⑤赦免を行う上での心すべき注意点。  
 二千年も前から人間は同じ過ちを繰り返しているのだから、何と愚かな生き物なのだろう?歴史を振り返ってみよと何度言っても、愚かな過ちを繰り返している!                                                 
                                           続く

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申鑒-政體(政治の本来の形態)②

2019-03-01 08:02:23 | 仁の思想

申鑒-政體(政治の本来の形態)②
致政之術,先屏四患,乃崇五政。一曰僞,二曰私,三曰放,四曰奢。僞亂俗,私壞法,放越軌,奢敗制。四者不除,則政末由行矣。俗亂則道荒,雖天地不得保其性矣;法壞則世傾,雖人主不得守其度矣;軌越則禮亡,雖聖人不得全其道矣;制敗則欲肆,雖四表不能充其求矣。是謂四患。興農桑以養其生,審好惡以正其俗,宣文教以章其化,立武備以秉其威,明賞罰以統其法,是謂五政。
[書き下し文]
 政を致すの術は、先ず四患を屏(しりぞ)ける、乃ち五政を崇(あが)める。一に曰く偽、二に曰く私、三に曰く放、四に曰く奢。偽は俗を乱し、私は法を壊し、放は軌(みち)を越え、奢は制を敗(やぶ)る。四者除かざれば、則ち政は由し末(な)く行かん。俗乱れれば則ち道は荒れ、天地と雖も其の性を保つことを得ず;法壞(やぶ)れれば則ち世は傾き、人主と雖も其の度を守ることを得ず;軌(みち)越えられれば則ち禮は亡び、聖人と雖も其の道を全くすることを得ず;制敗れれば則ち欲は肆(ほしいまま)にして、四表と雖も其の求めを充たすことを得ず。是れ四患と謂う。農桑興し以て其の生を養い、好惡を審らかにして以て其の俗を正し、文教を宣(の)べて以て其の化を章(あき)らかにし、武備を立てて以て其の威を秉(にぎ)り、賞罰を明らかにして以て其の法を統べる、是れ五政と謂う。
[訳文]
 ・政ごとが公平で不正が行われず清明を極める為に成すべき方策は、まず四つの患いを取り除くこと、すなわち五つの施策を大事にして政治に当たることである。四患とは、一に偽ること;二に私利私欲を謀ること;三に勝手気ままに振る舞うこと;四に贅沢に浪費することである。偽れば社会の風俗を乱すし、私利私欲に走れば法令・綱紀を破壊することになるし、我が儘し放題を許すと逸脱行動を助長することになるし、贅沢三昧に浪費すると規則制度を破壊してしまう。この四つの大きな禍いを除かないと、政は上手く行かなくなる。風紀が乱れて道徳観念が腐敗して行けば、偉大な天地の力を以てしても民の平和な暮らしを保証する事は出来なくなるし;法律・制度が破壊し社会組織が壊滅すれば、勝れた君主の力を以てしても世の法度を堅持し守り切ることは出来なくなるし;行動を逸脱し道徳規範が守られなくなれば、賢い聖人の力を以てしても正しい道を守り通すことは出来なくなるし;規則制度が破壊し欲望が制限なく拡大すれば、幾ら国土が広いと云ってもその欲望を満たすにも限界が来る。これが「四患」と云われるものの姿である。国民に耕作・養蚕を奨励して暮らしの安定を図り、好悪の感情を明らかにして国民の風俗を正し、禮樂法度を広めて国民の節義を正し、武力を整えて國の権威を確保し、賞罰を明確にして法律を統率管理する、これが「五政」と云われるものの姿である。
[参考]
 ・四患:偽・私・放・奢・
   「偽」:偽うそがよくないということ。
   「私」:私心があってはならぬということ。
   「放」:規律を失って、放埓・放縦になってはならぬということ。
   「奢」:国民が贅沢になってはいけないということ。
 ・五政:
  <後漢書、荀韓鍾陳列傳>
    「23興農桑以養其性,審好惡以正其俗,宣文教以章其化,立武備以秉以其威,明賞罰以統其法。
             是謂五政。」

民不畏死,不可懼以罪。民不樂生,不可勸以善。雖使禼布五教,咎繇作士,政不行焉。故在上者先豐民財以定其志,帝耕籍田,后桑蠶宮,國無遊民,野無荒業,財不虛用,力不妄加,以周民事,是謂養生。
[書き下し文]
 ・民が死を畏れざれば、懼(おそ)れしむるに罪を以てするべからず。民が生を楽しまざれば、勧(はげ)ますに善を以てするべからず。禼をして五教を布(ひろ)め、咎繇をして士と作らしむと雖も、政は行われず。故に上に在る者は先ず民の財を豊かにして以て其の志を定め、帝は籍田に耕し、后は蠶宮に桑つめば、國に遊民無く、野に荒業無く、財は虚用せず、力は妄りに加えず、以て民事を周(あまね)くする、是れ生を養うと謂う。
[訳文]
 ・悪政の下で虐げられた人民が自暴自棄になって死を恐れないからと云って、罪を負わすぞと威嚇する様なことが有ってはならない。人民が生きる楽しみを見出すことが出来ないからと云って、善行を強制する様なことが有ってはならない。帝舜が司徒の契に五常の教えを広めさせたり、賢臣の臯陶に法律・刑罰を作らせたりしたが、世の中を上手く治めるまでには至らなかった。そこで統治する主権者としては第一に人民の財産を豊かにして人々の望む所を実現させ、帝自らが籍田を耕し,后自らが養蚕に励め姿勢を示せば、遊び暮らす民は居なくなり、荒廃した土地も見当たらなくなり、無駄な出費も必要なくなり、何事にも無闇に権力を使って強制する必要も無くなり、こうして手落ちなく人民を治める事が出来るのであり、これが人民の生命を守る為に力を尽くすと云うことなのである。
[参考]
 ・<老子、道德經>
    「74民不畏死,奈何以死懼之?・・・」
 ・<尚書、虞書、舜典>
    「11帝曰:「契,百姓不親,五品不遜。汝作司徒,敬敷五教,在寬。」
    「12帝曰:「皋陶,蠻夷猾夏,寇賊姦宄。汝作士,五刑有服,五服三就。五流有宅,五宅三居。惟明
             克允!」」

 ・禼(せつ):
     殷王朝の始祖といわれる伝説上の人物の契(せつ)のこと。帝舜の臣下で、禹の黄河治水を助け
          た。古名。

 ・五教:人の守るべき五つの教え。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。
 ・咎繇(きょうよう):
     帝舜の臣下の臯陶(こうよう)のこと。古名。法律・刑罰を定めた人物。
 ・<漢書、百官公卿表>
    「1・・・镨作司徒,敷五教;咎繇作士,正五刑;・・・」
 ・司徒:人を主る。人と言わずに徒というのは、徒は民衆を意味し、民衆を重視することを示す。
 ・士:士とは察の意。訴訟のことを掌る。
 ・<後漢書、荀韓鍾陳列傳>
    「24人不畏死,不可懼以罪。人不樂生,不可勸以善。雖使契布五教,皋陶作士,政不行焉。故在上
             者先豐人財以定其志,帝耕籍田,后桑蠶宮,國無遊人,野無荒業,財不賈用,力不妄加,以
             周人事。是謂養生。」

 ・籍田:天子が宗廟に供える穀物を、自ら耕作する為の田地。又その耕す儀式。農業奨励の目的もある。
君子所以動天地,應神明,正萬物,而成王治者,必本乎真實而已。故在上者審則儀道,以定好惡。善惡要於功罪,毀譽效於準驗,聽言責事,舉名察實,無或詐僞以蕩衆心。故事無不覈,物無不功,善無不顯,惡無不彰,俗無姦怪,民無淫風。百姓上下睹利害之存乎己也,故肅恭其心,慎脩其行,內不忒惑,外無異望,有罪惡者無徼倖,無罪過者不憂懼,請謁無所聽,財賂無所用,則民志平矣。是謂正俗。
[書き下し文]
 ・君子が天地を動かし、神明に応え、万物を正し、而して王治を成す所以の者は、必ず本なるや真実のみ。故に上に在る者は審らかにする則ち道に儀(のっ)とり、以て好悪を定む。善悪は功罪に要(もと)め、毀誉は準験に效(いた)し、言を聴き事を責(とが)め、名を挙げ実を察し、或(まど)わし詐欺し以て衆心を蕩(みだ)すこと無し。故に事は覈(たし)かならざるは無く、物は功あらざるは無く、善は顕れざるは無く、悪は彰(あき)らかならざるは無く、俗に姦怪(かんかい)無く、民に淫風無し。百姓(ひゃくせい)上下は利害の己れに存するを賭(み)、故に其の心を肅恭(しゅくきょう)し、其の行いを慎脩(しんしゅう)し、内に忒惑(かいわく)せず、外に異望無く、罪有る悪しき者には徼倖(きょうこう)無く、罪無き過(あやま)てる者は憂懼(ゆうく)せず、請謁(せいえつ)聴く所無く、財賂(ざいろ)用いる所無く、則ち民の志は平らかなり。是れ俗を正すと謂う。
[訳文]
 ・君子が天下を治めるに当たり、神の意志に従い、世の全てのものを正し、そうして帝王の政治を行うその理由は、確実に物事の真偽を正しく見定めると云う一点にある。
そこで民を治める立場にある者は、物事を道理に従って詳しく調べ、その上で好悪の判断を下すべきである。善悪の判断は功罪の結果を見て判断し、毀誉褒貶の判断は事実をよく検証して判断し、話をよく聞いて事実を確かめ、はっきりと指摘して事実を直視し、困惑させ欺いて人々の心を乱すようなことが在ってはならない。こうして物事は全て明らかになり、物事は全て成功し、善事は際立ち、悪事は隠しおおせず、風俗にも奇怪な風習が見られず、人民にも淫らな慣習が見られなくなる。役人はもとより人民に至るまで、利害得失が自身の行為と密接な関係に在ることを知り、それによって人々の心も慎み深く恭しい気持ちになり、その行動も慎重になり、内心当惑することもなく、外に対して良からぬ望みを抱くこともなく、罪の深い悪人にはまぐれ当たりの幸せなど望めず、罪の無いちょっとした過ちを犯した者には憂い懼れさせることもなく、権力者の伝手を求める必要も無く、賄賂を使う必要も無く、こうして民心は安定することになる。これが風俗を正すと云うことである。
[参考]
 ・<周易、繫辭上>
     「8子曰:「君子居其室,出其言,善則千里之外應之,況其邇者乎,居其室,出其言不善,則千里
             之外違之,況其邇者乎,言出乎身,加乎民,行發乎邇,見乎遠。言行君子之樞機,樞機之發,
             榮辱之主也。言行,君子之所以動天地也,可不慎乎。」」

 ・<漢書、董仲舒傳>
     「34冊曰:「・・・言行,治之大者,君子之所以動天地也。故盡小者大,慎微者著。《詩》云:「惟此文
             王,小心翼翼。」・・・」

君子以情用,小人以刑用。榮辱者,賞罰之精華也。故禮教榮辱以加君子,化其情也;桎梏鞭扑以加小人,化其形也。君子不犯辱,況于刑乎?小人不忌刑,況於辱乎?若夫中人之倫,則刑禮兼焉。教化之廢,推中人而墜於小人之域;教化之行,引中人而納於君子之塗。是謂章化。
[書き下し文]
 ・君子は情を以て用い、小人は刑を以て用いる。栄辱なる者は、賞罰の精華なり。故に禮教・栄辱は以て君子に加え、其れ情を化するなり;桎(しつ)・梏(こく)・鞭(べん)・樸(ぼく)は以て小人に加え、其れ形を化するなり。君子は辱を犯さず、況んや刑に於いてをや!小人は刑を忌(おそ)れず、況んや辱に於いてをや!若し夫れ中人の倫(ともがら)は、則ち刑禮兼ねる。教化の廃るや、中人を推し而して小人の域に墜とし;教化の行われるや、中人を引き而して君子の塗(みち)に納(い)る。是れ化を章(あき)らかにすると謂う。
[訳文]
 ・君子に対しては情理を以て対応し、小人に対しては刑罰を以て対応する。栄誉と恥辱は人にとって最も好ましい褒賞と刑罰として相応しいものである。将に禮節・教化・栄誉・恥辱と云うものは、君子の身に対するものであり、情理の程度を左右するものであり、手枷・足枷・鞭打ち・棒叩きと云うものは、小人の身に対するものであり、刑罰の程度を左右するものである。君子は恥辱を犯す様なことはしないし、ましてや刑を犯す筈がない。小人は刑罰を恐れるようなことはないし、ましてや恥辱を憚ることなど有りはしない。處で中人の人々については、刑罰と礼節の両者を合わせて対応する。もし教化が思うような効果を上げないと、並みの中級の人間を最下級のつまらぬ人間の領域に突き落とすことになるし、教化が確り行われると、並の中級の人間を最上級の君子へと向かう道へと引き上げることが出来る。これが教化の効果が表れたということでる。
[参考]
 ・<周禮、秋官司寇>
    「83掌囚:掌守盜賊,凡囚者;上罪梏拲而桎,中罪桎梏,下罪梏,・・・」
 ・<尚書、虞書、舜典>
    「6象以典刑,流宥五刑,鞭作官刑,扑作教刑,金作贖刑。・・・」
 ・鞭:役人を罰するむち(強く打つ)。
 ・扑:学生を罰するむち(軽く打つ)。
小人之情,緩則驕,驕則恣,恣則急,急則怨,怨則畔,危則謀亂,安則思欲,非威强無以懲之。故在上者必有武備以戒不虐,以遏寇虐,安居則寄之內政,有事則用之軍旅。是謂秉威。
[書き下し文]
 ・小人の情、緩めば則ち驕り、驕れば則ち恣(ほしいまま)に、恣なれば則ち急(かたくな)になり、急になれば則ち怨み、怨めば則ち畔(そむ)き、危うければ則ち亂を謀り、安ければ則ち欲を思い、威強く非ざれば以て之れを懲らしめること無し。故に上に在る者は必ず武備有り以て不虐を戒め、以て寇虐(こうぎゃく)を遏(とど)め、安居すれば則ち之れを内政に寄せ、事有れば則ち之れを軍旅に用いる。是れ威を秉(と)ると謂う。
[訳文]
 ・小人の感情というものは、抑制しないと思い上がり、思い上がると我が儘し放題になり、我が儘し放題になると頑なになり、頑なになると怨むようになり、怨むと背くようになり、自身に危険が迫ると反乱を起こし、安泰だと欲を出すようになり、こちらが強圧的に出ない限り彼等を懲らしめることが出来なくなる。そこで為政者は兵備を整えて不測の事態に備え、暴動を防ぎ止め、平穏な時には国内の政治に力を注ぎ、非常之時には戦さに力を注ぐ。これが権力を掌握すると云うことである。
[参考]
 ・<周易、萃卦>
    「1萃:亨。王假有廟,利見大人,亨,利貞。用大牲吉,利有攸往。
      彖傳:萃,聚也;順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚以正也。用
           大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。

      象傳: 澤上於地,萃;君子以除戎器,戒不虞。」
 ・<詩經、大雅、生民之什、民勞>
    「1民亦勞止、汔可小康。惠此中國、以綏四方。無縱詭隨、以謹無良。
      式遏寇虐、憯不畏明。柔遠能邇、以定我王。」
賞罰,政之柄也。明賞必罰,審信慎令,賞以勸善,罰以懲惡。人主不妄賞,非徒愛其
財也,賞妄行則善不勸矣。不妄罰,非徒慎其刑也,罰妄行則惡不懲矣。賞不勸謂之止善,罰不懲謂之縱惡。在上者能不止下爲善,不縱下爲惡,則國治矣。是謂統法。
[書き下し文]
 ・賞罰は、政の柄(もと)なり。賞を明らかにし必ず罰し、信を審らかにし令を慎み、賞以て善を勸(すす)め、罰以て悪を懲らしむ。人主の妄りに賞せざるは、徒に其の財を愛(お)しむには非ず、賞妄りに行わば則ち善は勸まず。妄りに罰せざるは、徒に其の刑を慎むには非ず、罰妄りに行わば則ち悪は懲らしめられず。賞して勸めざるは之れ善を止(とど)めると謂い、罰して懲らしめざるは之れ悪を縦(ほしいまま)にすると謂う。上に在る者が能く下(しも)の善を為すことを止めず、下の悪を為すことを縦にせざれば、則ち国は治まる。是れ法を統(す)べると謂う。
[訳文]
 ・賞罰は政を行う上での重要な柱となる。信賞必罰を旨とし、信義の重さを明示して法令を守らせ、褒賞して善行を奨励し、刑罰を示して悪行を抑圧する。君主が妄りに褒賞しないのは、意味もなく己の財産を出し惜しみしている訳ではなく、褒賞を無闇に行うと善行を奨める効果が薄くなるからである。また無闇に懲罰しないのは、意味もなく刑罰を与えたくないからではなく、懲罰を無闇に行うと刑罰の重みが薄くなるからである。褒賞しているのに善行が思うように進まないことを止善と云い、懲罰しても悪行が蔓延ることを縱惡と云う。そこで為政者が人民の善行を奨励し、人民の悪行を放置しなければ、國は良く治まる。これが法律を統制すると言うことなのである。
四患既蠲,五政既立,行之以誠,守之以固,簡而不怠,疏而不失。無爲爲之,使自施之、無事事之,使自交之。不肅而成,不嚴而治,垂拱揖遜,而海內平矣。是謂爲政之方也。
[書き下し文]
 ・四患既に蠲(はら)われ、五政既に立ち、之れを行うに誠を以てし、之れを守るに固(かた)きことを以てし、簡に而して怠らず、疏に而して失わず。無為之れを為し、自ら之れを施さしめ、無事之れを事とし、自ら之れを交(こもごも)なさしめる。肅(いまし)めず而して成り、厳(きび)しからず而して治まり、垂拱(すいきょう)揖遜(ゆうじょう)し、而して海内は平らかなり。是れ政を為すの方(てだて)と謂う。
[訳文]
 ・四患が確実に除かれ、五政が立派に成立し、それが誠実に行われ、その為に堅固な意思を押し通し、簡潔に事を運ぶが手落ちなく、大まかに見えて決して見逃すことはないのである。人の手を加えず、自然のあるがままに任せ、何の思惑も持たずに事を進めて、自然のあるがままに順序立てるのである。特別に戒めなくとも政は上手く行き、格別に厳しくしなくても民心は治まり、特に手を下さず譲り合えば、天下は平和を保つ。これが為政の有るべき姿と云うものである。
[参考]
 ・<老子、道德經>
    「63為無為,事無事,味無味。大小多少,報怨以德。圖難於其易,為大於其細;天下難事,必作於
             易,天下大事,必作於細。是以聖人終不為大,故能成其大。夫輕諾必寡信,多易必多難。是
             以聖人猶難之,故終無難矣。」

 ・五政とは則ち、
     一に是謂養生。〈此政之當崇者一也。〉
     二に是謂正俗。〈此政之當崇者二也。〉
     三に是謂章化。〈此政之當崇者三也。〉
     四に是謂秉威。〈此政之當崇者四也。〉
     五に是謂統法。〈此政之當崇者五也。〉
[感想]
 ここでは先ず、正しい政治を行う上で妨げとなる統治者が陥りやすい以下の四つの禍事(四患)について述べられている。即ち、
   
四患:①虚偽・②私利私欲・③放埓、放縦・④浪費。
 
次いで正しい治世の有り方として五つの政策(五政)に触れている。即ち、
   
五政:①農作振興、②風俗教化、③礼節遵守、④武備強化、⑤信賞必罰、法制管理。
 更に五政を実施する上での注意点として先ず威嚇・強制的行為を禁じ、それぞれに附言が為されている。即ち、
   ①農作振興についての尭帝の業績、②風俗教化についての真偽の見定め、③礼節遵守についての相手を見ての対応、④武備強化についての乱用禁止、⑤信賞必罰、法制管理についての善行奨励・悪行の取り締まり。
 四患を取り除き五政が立派に実施されれば天下の平和は保たれ、これが治政の有るべき姿だと云う訳けである。四患(偽・私・放・奢)という言葉は可成り有名で、あちこちの書籍で引用されているが、政治に携わる者だけではなく人に奉仕する者にとっては心すべき言葉であろう。 
                                            続く

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