宗密の[華厳原人論]―Ⅶ
◎原人論 終南山草堂寺沙門宗密述(かた)る
④本末を会通する第四
(訳文)根本の教えも不完全な教えも両立することを説く第四章。
(注釈)會通とは、相矛盾したように思われる教説を突き合わせ、両立を可能とする深い理解を導き出すことを指す仏教用語。
〇(前に斥く所を會して、同じく一源に帰せしめ、皆正義と為す)
真性は身の本為りと雖も、生起するには蓋し因由有り。端無くして忽ち身相を成すべからず。但だ前宗の未了に縁(もとづ)き、以て節々に之れを斥ける所なり。今将に本末が會通す。乃至(あるい)は儒道も亦た是れなり。
(訳文)(前に批評した教えを取り挙げて、真の教えの一乗顕性教に融合して、全てが正しい意義を持つことを説く)
あるがままの不変な本然の性は、人間の大本となるものだが、それが生まれてくるにはそれなりの訳がある。起こり得べき理由が無いのに、いきなり生まれてくる訳ではない。ただ前に取り挙げた仏の教えは、未熟なものだったので、あれこれと批評したのである。今こそ、この未熟な教えを真の教えの一乗顕性教の下に集めて、その存在意義を明らかにする。さらに儒道二教についても同様である。
(注釈)真性とは、真如法性を指す仏教用語で、あるがままで常住不変不改の本姓のこと。未熟な教えとは、人天教・小乗教・法相教・破相教の四宗を指す。第五番目の教えは本源を窮める一乗顕性教のこと。
〇(初めは唯だ第五の性教を説く所とし、後段従り已去は、節(せつ)級(きゆう)に方に諸教に同ず。各は注に説くが如し)
初めに謂うは、「唯一の真靈の性は、不生不滅、、不増不滅にして不変不易なり」と。衆生は無始から迷睡して自ずから覚知せず。隠覆に由るが故に如来蔵と名づく。如来蔵に依るが故に生滅の心相有り。
(訳文)(初めは第五番目の本然の性の教えを明らかにし、後半以後は順序立てて諸教を真の教えの下に集め、その意義を各注で説き明かす)
初めに云いたいことは、「真の教えの一乗顕性教で呼ぶ、唯一無二の真の靈性である本然の性は、勝手に生滅したり増滅したり変易したりするものではない」と。人々は遠い昔から、心の迷いによって自身の霊妙な本姓を自覚しないでいる。と云うのも、この霊妙な本姓は迷妄などで覆い隠されている為に、如来蔵と呼ばれている。人々はこの如来蔵の状態から離れられないので、生滅の現象が現れてくるのである。
(注釈)如来蔵とは、衆生のうちにある成仏の可能性。仏と違わない本来清らかな心が、迷妄などで覆い蔵されている状態のこと。
〇(此れ自り方に是れ第四の教えに亦た同(どう)じて、此れより已前の生滅の諸相を破るなり)
所謂不生滅の真心と生滅の妄想とを和合して、一に非ず異に非ざるは、名づけて阿頼耶識と為す。此の識に覚と不覚との二義有り。
(訳文)(ここでは第四の教えの大乗破相教を、真の教えの大乗顕性教に融合し、③で説いた生滅の色々な姿の真相を見抜くことにする)
いわゆる心の深層にあって生滅することの無い真心と、時により生滅を繰り返す妄想心を一緒にして、溶け合ってもいないし混ざり合ってもいない状態の意識を、阿頼耶識とする。この意識には、確りしている状態とまともではない状態が存在する。
(注釈)第四の教えの大乗破相教では、心を本来の面(不生滅の信心)と活動の面(生滅の妄想心)の二面から考える。大乗仏教を支える根本思想には眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識があり、人間存在の根本にある識であると考えるのが阿頼耶識であって不生滅の真心となり、前の7つが生滅の妄想心となる。
〇(此れより下は方に是れ第三の法相教の中に亦た同じて、説く所なり)
不覚に依るが故に最初に念を動ずるを名づけて業相と為す。又た此の念、本と無なるを覚せざるが故に、転じて能見の識及び所見の境界(きようがい)の相現ずることを成す。又たこの境は但だ自心従り妄に現ずることを覚らず。執して定有と為し、名づけて法執(ほつしゆう)と為す。
(訳文)(ここから下に記するものは、第三の法相教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)まともではない状態にあるので初めに妄念が起きるが、その状態を業相と呼ぶ。また、この妄念は元々は存在しないと云う事を知らないものだから、心は動き続けて能見相と境界相が現れてくる。またこの心の認識対象は、自身の心の働きとして現れた迷いだと云うことを自覚しない。しかもそこに執着して実在するものだと信じ、これを法執と呼んでいる。
(注釈)<大乗起信論>では、我々の心を「不生不滅」のスタティックな心の相である心真如(真心)と、「生滅」を繰り返すダイナミックな心の相である心生滅(妄心)の二相に分ける。そして迷い(無明)の構造を、根元的な無知にもとづく業の相(無明業相)・対象を認識する主観としての相(能見相)・真実には存在しないが妄想の結果現れてくる客観としての相(境界相)の基本的な三相(三細)に分けて考える。業相では、真実を覚らない限り心の動き(業)が止まらず、苦を生じ続ける。仏典には、よく能と所とが対になって使われる。能は能動的にある動作の主体となるもの、所は受動的にその動作の客体となるものを指す。。例えば、見る眼が能見、見られる対象が所見。法執とは、すべての存在(法)は実在すると考える誤った見解で、法も空であるとする仏教の立場に反する。
〇(此れより下は方に是れ第二の小乗教の中に亦た同じて、説く所なり)
此れ等を執するが故に、遂に自他の殊(こと)なることを見て、便(すなわ)ち我執を成す。我相を執するが故に順情の諸境を貪愛(たんあい)し、以て我を潤さんと欲す。違情の諸境を瞋嫌(しんけん)して、相い損悩せんことを恐る。愚癡の情は展転増長す。
(訳文)(ここから下に記するものは、第二の小乗教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)すべては実在するものだという考えに執着する余り、遂には自身と他人を区別するようになり、その結果我執が生まれてくる。実体としての自我があるものと信じ切って、気に入った対象だけを貪欲に愛し満足しようとする。気にくわない対象は機嫌を悪くして毛嫌いし、損失を恐れたり悩まされることを恐れる。この愚かな思いは次第に激しくなっていく。
(注釈)我執とは、意識ある生きものの衆生が、恒常不変の自我が実在すると考えて執着すること。我相とは実体としての自我があるとして固執する考え。ここに記された貪愛・瞋嫌・愚癡がいわゆる三毒の煩悩に当たる。
〇(此れより下は方に是れ第一の人天教の中に亦た同じて、説く所なり)
故に殺盗等の心神は此の悪行に乗じ、地獄・鬼・畜等の中に生ず。復た此の苦しみ怖れる者或いは性善なる者有りて、施戒等を行じ、心神は此の善行に乗じて、中陰に運んで母胎の中に入る。
(訳文)(ここから下に記するものは、第一の人天教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)そうなると遂には人殺しや盗みの心がこの悪行を働くことになり、地獄・餓鬼・畜生などの三悪道の苦しみに堕ちることになる。またこの苦しみを恐れる者や、或いは生まれつき善良な者が居て、布施や持戒などを行い、その心はこの善行を働くことによって、中陰の時期を経て母胎の中に生まれてくる。
(注釈)悪行を重ねた人間が死後に趣くといわれる地獄・餓鬼・畜生の三道を三悪道または三悪趣と云う。これに対し天道・人間道・修羅道を三善趣と呼ぶ。中陰とは、人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という。
〇(此れより下は方に是れ儒道二教に亦た同じて、説く所なり)
気を稟け質を受く。(彼の説く所の気を以て本と為すを会す)気は則ち頓(とみ)に四大を具え、漸(しだい)に諸根を成す。心は則ち頓に四蘊を具え、漸に諸識を成す。十月満足して生じ来たるを人と名づく。即ち我等が今の身心は是なり。故に身心は各の其の本有り、二類和合して方に一人を成すことを知る。天も修羅も等しく此に大同す。
(訳文)(ここから下に記するものは、儒道二教の内容を、真の教えの大乗顕性教に融合して繙くものである)人間は気を受けて生まれ、天然自然の性質を受け継ぐ。(儒・道二教では、天地間に満ちる気を万物生成の根本と考えるが、この点を考慮して真の教えの大乗顕性教に融合する)気はにわかに地・水・火・風の四つの物質構成要素を整え、次第に眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの認識器官を形成する。心はにわかに受・想・行・識の四蘊を整え、次第に前五識・第六意識・第七未那識・第八阿頼耶識を形成する。こうして十ヶ月を経て生まれてきたものを人と呼ぶ。すなわちこれが我々の今の身心の姿である。こうして我々の身心には、それぞれ其の拠ってきたる本があり、儒道と仏教の二種類の考え方を合わせれば、一人の人間が出来上がる様子が理解出来る。天界に生まれ変わる様子も、修羅道に生まれ変わる様子も、いずれもこれと似通ったようなものである。
(注釈)四大とは、仏教で説く物質の構成要素のこと。四大にさらに空を加えて五大とすることもある。諸根とは、五根又は六根(+意)を指す。四蘊とは、心的作用の受想行識のこと。五蘊の色の肉体を除く。諸識とは、意が作用して、その結果生ずる八つの認識のこと。
〇然も引業(いんごう)に因ってこの身を受得すと雖も、復た萬(まん)業(ごう)に由るが故に、貴賤・貧富・寿夭・病健・盛衰・苦楽あり。謂ゆる前世の敬慢が因と為り、今の貴賤の果てを感ず。乃至は仁は寿(いのちな)がく、殺は夭(わかじに)し、施は富み、慳(ものお)しみは貧しく、種々の別報は具に述べるべからず。是れを以て此の身は、或いは悪無くて自ら禍(わざわ)いし、善無くて自ら福(さいわ)いし、不仁にして寿がく、不殺にして夭する等の者有り。皆是れ前世の萬業已に定まるが故に、今世の所作に因らず自然に然るが如し。外学の者は前世を知らず、但だ目覩(もくと)に據って唯だ自然を執す。(彼の説く所の自然が、本と為るを會す)
(訳文)しかも、業因の結果として幸いにも人として生まれてきても、さらに人としての所行に違いが生じる結果として、貴賤・貧富・寿夭・病健・盛衰・苦楽などの違いが現れてくる。例えば前世の所行が敬愛であったか驕慢であったかによって、現世の品格が貴人か賤人かに分かれてくる。また情け深かった人は長生きし、人を殺した者は若死にし、施しに積極的だった人は繁栄し、吝嗇だった人は貧乏するなど、その例は尽きない。ところで悪い人では無いのに災いを被っていたり、善人ではないのに幸せに暮らしていたり、非情な人なのに長生きしたり、人殺しでもない人が早死にしたりする者が居る。これらはすべて前世の所行で決まっているので、現世での所行には関係なく、当然約束されたことなのである。儒道二教を学ぶ者は前世のことを考えず、ただ直視した事柄だけを問題にして自然に拘り過ぎている。(儒道二教で説く自然を重視する考えを取り込む)
(注釈)来世の生まれ合わせを決める力を引業と云い、その結果の現れ方に差異を生じさせる力を満業と云う。
〇復た前世に少(わか)くして善を修め、老いては悪を造(な)す。或いは少くして悪、老いて善なり。故に今世少小にては富貴にして楽し、老大にて貧賤にして苦しむ。或いは少にて貧苦、老いて富貴なる等あり。故に外学の者は唯だ否泰が時運に由ることを執る。(彼が説く所は皆、天命に由るを會す)
(訳文)また、前世において若い時には善行に務め老いては悪行に走る場合や、或いはその逆の場合がある。そうなると、現世で前者は若い時には富有で楽に暮らし、老いては貧乏な暮らしで苦しむことになる。或いは後者は若い時には貧乏に苦しむが、老いてからは富有に暮らすことになるなど千差万別である。ここで儒道二教を学んでいる者は、これら運不運は時の定めによるものだと諦めてしまう。(儒道二教の天命思想を取り込む)
(注釈)儒家の天命説は上天上帝信仰に基づく人間の使命と捉え、道家の天命説は天道に基づく人間の宿命と捉える。これに対し仏教は縁起説 (苦しみを生み出す原因を追及して、それを滅することにより苦しみを解消することを目指す)を唱える。
〇然も稟けし所の気が展転して本を推(おしはか)れば、即ち混一の元気なり。起こす所の心が展転して源を窮むれば、即ち真一の靈心なり。実を究めて之れを言はば、心外に的(まさ)に別法無し。元気も亦た心の所変に従って、前の転識の所現の境に属す。是れ阿頼耶識の相分に攝する所なり。初一念の業相従り、分かれて心境の二と為る。
(訳文)さて人間は気を受けて生まれたと云うが、その気の源は陰陽の気を含んだ元気である。その元気から生まれてくる心の源は、仏教で云う真実唯一の霊妙な心に他ならない。本当の處、霊妙な心以外に別なものが有る訳ではない。元気と云ってもそれは霊妙な心の働きが現れたもので、前述の根本識から変転した前六識の認識対象に属すものである。これこそが阿頼耶識が認識する客観対象に相当する。初めの一瞬に起こった業の状態に基づいて、主観の心と客観の対象の二つに分かれたのである。
(注釈)元気とは、天地の間にあって、万物生成の根本となる精気のこと。心外無別法とは、この世の諸現象はすべて心の生みだしたもので,心とは別に存在するものは何も無いと云うこと。華厳経が唱える中心思想。前六識は,根本識から転変してきた心ということで,これを転識と呼ぶ。
〇心既に細従り麤(そ)に至り、展転妄計して乃ち造業に至る。(前に叙列するが如し)境も亦た微従り著に至り、展転変起して乃ち天地に至る。(即ち彼の始め太易自り五重運転して乃ち太極に至り、太極は両儀を生む。彼の自然太道と説くは、此の真性を説くが如くあれども、其の実は但だ是れ一念能変の見分なり。彼の元気と云うは、此の一念初めて動くというが如くなれども、其の実は但だ是れ境界の相なり)
(訳文)心は、身近なものから次第に広範に亘って、妄念を広げて業を生み出す。(前述の通り)認識もまた微かなものから明らかなものへと対象を広げ、ついには天地の間に至る。(すなわち道教では、「世界の初めは何も無い太虚の空間に動く気配=太易が起こり、五段階を経て陰陽の気の分化が起きる太極の状態に至り、この太極が陰陽二つの力を生む」と云う。また老子の説く万物の根源である深遠な道と云うのは、仏教で説く万物が存在しているあるがままの姿と云う考えに似ているが、事実は全く異なっており、それは一瞬の阿頼耶識の主観的側面に過ぎない。また儒教の云う元気なるものは、仏教で云う世界の初めの一瞬の動きの事を云っているようだが、その実体は認識の対象となる世界のただの姿に過ぎない)
(注釈)先天五太(道家の中心思想)は天地誕生前の五つの段階すなわち
太虚(全く何も無い世界)から太易(何らかの動きが始まる状態)・太初(気が生まれる状態)・太始(形が出来る状態)・太素(素質が整う状態)太極(陰陽の分化が起こる状態)を指す。両儀は天地または陰陽を指す。
〇業既に成熟すれば、即ち父母に従って二気を稟受し、業(ごつ)識(しき)と和合して人身を成就す。此れに拠れば則ち心識所変の境は乃ち二分と成る。一分は即ち心識と和合して人と成り、一分は心識と和合せず、即ち天地・山河・国邑と成る。三才の中に唯だ人のみ靈なるは、心神と合するに由ってなり。仏の説く内なる四大と外なる四大とは同じからずとは、正に是れ此れなり。哀しきかな、寡学にして異執紛然たることを!
(訳文)人間として生まれる業の定めが決まると、父母のそれぞれの精気を受け、それが妄念に覆われた真如の阿梨耶識と合体して人間が生まれてくる。こうして識によって変えられる外界の現在の姿は、果報を受けている本人とその環境に分かれる。前者の人間は業を含んだ心意識を持って生まれ、後者の環境は心意識を持たない天地・山河・国々となる。天地人の三才の中で人間だけが霊妙な力を持っているのは、心意識を併せ持つ事が出来たからである。仏教で説く人間の構成要素の四大(地水火風)と、環境を構成する四大とが異なると云うのは、将にこの事を指している。浅学の徒が正当でない教えに執着して戸惑っていることは、甚だ嘆かわしいことである。
(注釈)業識とは、真実に気づかずに迷いつづけている時の心のこと。心識所変の境とは、内四大・外四大の言葉は、宝積経(大乗仏教の経典の1つで、宝積は集積の意味であり、経典49部を集めたもの。中国仏教においては、般若経・華厳経・涅槃経・大集経と共に、大乗仏教五部経の1つに数えられる)の中で述べられているらしい。
〇語を道流に寄す。成仏せんと欲せば、必ず須く麤細本末を洞明し、方に能く末を棄て本に帰し、心源を返照すべし。麤尽き細除き靈性顕現して、法として達せずということ無きを、法報身と名づけ、自然に應現無窮なるを化身仏と名だく。 華厳原人論終わる。
(訳文)最後に同じ道を志す人々に提言する。成仏しようと思うならば、事の粗細や本末を洞察し、末事は捨てて基本に立ち帰り、真の本源を明らかにすべきである。表面的な教えを断ち、技葉末節の教えを取り除き、霊妙なる本性を明らかにするならば、真理に到達出来ない筈はなく、そこに永遠不滅の真理を持つ仏の姿があり、完全な悟りの世界に入った仏の姿があり、自然に応えて現れ極まる處のない仏の姿がある。 華厳原人論終わり。
(注釈)大乗仏教で仏の姿を三身と云い、法身(真如そのものの仏の姿)・報身(修行して悟りを開いた仏の姿)・応身(化身とも云い、人々を教化する為に現れる仏の姿)に分ける。
完
宗密の[華厳原人論]―Ⅵ
③直顕にして真源第三(仏の了義にして実教)
(訳文)一乗顕性教こそ真実の義理を明らかにした大乗の教えであり、原人の本源を明らかにしたものだと説く第三章。(仏の真実の教え)
(注釈)了義とは、真理をすべて明らかに説き示した教えのこと。
〇五に一乗顕性教は、「一切の有情は、皆本覚の真心有り」と説く。無始以来、常住にして清浄、昭昭として不昧、了了として常知なり。亦た仏性(ぶつしよう)と名づけ、亦た如来蔵と名づく。無始の際従(よ)り妄想之れを翳(かざ)して自ら覚知せず。但だ凡質を認めるが故に、耽著(たんちよ)して業を結び、生死の苦を受く。大(だい)覚(かく)之れを愍れみて、一切皆空と説き、又た靈覚の真心が清浄なること全く諸仏に同じことを開示す。
(訳文)五つ目の一乗顕性教は、「生きとし生けるものは皆、もともと悟りの智慧による信仰の心を持っている」と説いている。その心は世界が始まった時から、変わることなく何時も存在して清浄であり、はっきりとしていて汚れがなく、賢くて全てを知り尽くしている。この心のことを涅槃(ねはん)経(ぎよう)では仏性と呼び、勝(しよう)鬘(まん)経(きよう)では如来蔵と呼ぶ。世界が始まってこの方、妄想がこの心を覆い隠すので、衆生は気づかぬまま過ごしがちであった。ひたすら愚かな心に拘り、煩悩に災いされて業を重ねて、生死の苦労を重ねたのである。仏陀はこれを憐れんで、「すべては空である」と説き、さらに霊妙な悟りの智慧による信仰心は、清浄であって諸仏と同じものであると説き明かしている。
(注釈)一乗顕性教は、人間の生まれつきの性質を明らかにし、仏陀への唯一の道を示す教え。仏陀は人間の素質や能力に応じて三乗(声聞乗,縁覚乗,菩薩乗)を説いたが,それらは人びとを導くための方便にすぎず,実は唯一つの真実(一乗)の教えがあるのみで,それによっていかなる人間もすべて平等に仏に成ることができると説く。仏性・如来蔵については、この仏性を育てて自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく(自利)、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開く(利他)ことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。涅槃経とは大般(だいはつ)涅(ね)槃(はん)経(きよう)のことで、釈迦の入滅(=大般涅槃)を叙述し、その意義を説く経典類の総称で、小乗の阿含経典類から大乗経典まで数種ある。大乗の涅槃経 は、初期の涅槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。勝鬘経とは勝鬘師子吼一乗大方便方広経のことで、大乗仏教の理想・理念を強く打ち出した教え。一切皆空とは、大乗教で説く、「一切の存在はすべて固定した実体ではなく空である」という仏教の根本教理。
〇故に華厳経に云うに、「仏子は一衆生にして如来の智慧を具有せざること無く、但だ妄想・執著を以て證得せず。若し妄想を離れなば、一切智・自然(じねん)智(ち)・無礙智(むげち)即ち現前することを得る」と。便ち一塵は大千の経巻を含むの喩えを挙げ、塵は衆生に況(たと)え、経は仏智に況う。次後に又た云うに、「爾(こ)の時、如来は普く法界の一切衆生を観て、是の言を作す。奇なる哉!、奇なる哉!、此の諸の衆生は、云何(いか)に如来の智慧を具有し、迷惑して見ざるや?我当に教えるに聖道を以てし、其れ永らく妄想を離れて、自ら身中に於いて如来の広大なる智慧を見て、仏と異なること無きを得さ令(し)む」と。
(訳文)そこで華厳経が語るには、「仏を信ずるものは命あるもののひとりとして、真実の世界から来た者としての智慧を具えているが、妄想心や執着心が邪魔してその智慧を覚らずにいる。もし妄想から離れることが出来れば、あらゆる事物について知る縁覚・声聞の智慧、生来備わっているすぐれた智慧、自由自在な理解能力と表現能力の智慧の三智を目の当たりにすることが出来る」と。すなわち仏法の大道においては、「塵ほどの中にも幾千の経巻があり、 限りなき仏たちがまします」と云う喩えを挙げて、塵は衆生であり経巻は仏の智慧であるとして、ちっぽけな一人の人間にも幾千もの素晴らしい知恵が備わっていると語っている。さらに華厳経が語るには、「如来が最高の悟りを成し遂げた時に、すべての衆生をご覧になって次のように語った。すなわち、珍しいことだ。誠に珍しいことだ。すべての衆生は既に如来の智慧を持ちながら、どうして迷ったり悩んだりしてそのすぐれた智慧を忘れてしまうのだろうか?自分は聖人の道のすばらしさを彼らに教えて永久に妄想を捨てさせ、衆生自身の中には如来と同じ広大で素晴らしい智慧が充ち満ちていることを見せて、仏と同じだと云うことを覚らせなければならない」と。
(注釈)華厳経とは、正式には『大方広仏華厳経』と呼び、大乗仏教の経典のひとつで、時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏について説いた経典である。華厳とは別名雑華ともいい、原義は「花で飾られた広大な教え」という意味。ここの言葉は、華厳経の宝王如来性起品にある。智慧の三智は、智度論では、声聞・縁覚の智である一切智、菩薩の智である道種智、仏の智である一切種智を云い、楞伽(りようが)経では、凡夫外道の智である世間智、声聞・縁覚の智である出世間智、仏・菩薩の智である出世間上上智を云う。
〇評に曰わく、「我等は多くの劫で、未だ真宗に遇わず。省みて自ら身を原ねることを解さず。但だ虚妄の相に執って、凡下と、或いは畜と、或いは人と甘認す。今、至教で約(しめくく)り、之れを原ね、方に本来是れ仏たるを覚る。故に須く、行は仏行に依り、心は仏心に契(ちぎ)り、本に返り、源に還り、凡習を断除し、之れを損じて又た損じ、以て無為に至らば、自然の応用は恆沙(ごうしや)なるべし。之れを名づけて仏と曰う。当に迷悟は同一の真心なるを知るべし。大なる哉妙門。原人、此に至る」と。(然るに、仏は前の五教を、或いは漸(しだい)に、或いは頓(ただち)に説く。若し中下の機有れば、則ち浅従り深に至り、漸漸に誘接す。先ず初教を説き、悪を離れ、善に住(とど)まら令む。次に二・三を説き、染を離れ、浄に住まら令む。後に四・五を説き、相を破り、性を顕し、權を会して、実に帰す。実教に依って修して、乃ち成仏に至る。若し上上根智なれば、則ち本従り末に至る。謂ゆる初めに便ち第五に依り、頓に一真心体を指す。心体既に顕はれれば、一切皆是れ虚妄にして、本来空寂なるを自覚す。但だ迷いを以てが故に、真に託して起こる。須く悟真の智を以て悪を断じ、善を修め、妄を息(や)め、真に帰すべし。妄が尽き、真が圓(まどか)なる、是れを法(ほつ)身(しん)仏(ぶつ)と名づく。)
(訳文)論評して纏めると、「我々は多くの時を過ごしてきたが、未だに正しい真の教えに会えずに来た。省みれば、自身の本源をどう究明すべきか知らなかったのである。ただただ虚妄の姿にとりつかれ、我が身を凡夫と思い、或いは畜生と思い、或いはただの人間だと甘く考えてきた。今最高の教えで締めくくることが出来、やっと自身の本源を尋ねることが出来、まさしく自身が生まれた時から仏であることを知った。だから当然の事ながら、己の行いは仏行に適い、己の心は仏心に適うように努め、本源に立ち返り、愚かな習慣を断ち切り、これを徹底的に打ち破って本来の姿に立ち返る事が出来れば、自然と何事にも対応出来るようになろう。これこそが仏の真の姿と云うものである。こうして迷い多き衆生も悟りを得た仏も、同じ真実の心を持っていることが解る。なんと素晴らしい霊妙な仏の教えであろう!こうして人の本源を明らかにすることが出来たのである」となる。(さて、仏は以上の五教を、時には浅い内容の教えから次第に深い教えへと説き進み、またある時には直ちに深い内容の教えを説き、もし仏道修行の素質・能力が,中位の者や、素質・能力の劣った者が居れば、浅い教えから深い教えに進むように配慮された。先ず人天教を説いて悪を離れ善に止まるように仕向け、次に小乗教・大乗法相教を説いて煩悩を捨てさせて清浄な境地に立ち帰らせ、最後に大乗破相教・一乗顕性教を説いて認識対象の存在を否定してその真の姿を明らかにし、大乗の真実の教えに導き入れる方便としての仮説を理解させた上で、真実の教えに導いたのである。この真実の教えに従って修養すれば、成仏出来ることになる。もし仏の教えを理解する能力に長けた者であれば、実教である一乗顕性教を直ちに示してから後に前の四教を振り返ればよい。すなわち初めから一乗顕性教の教えにより、心を正した時のその心性が仏心であると云うことを直接悟らせるのである。仏心が明らかになれば、すべてが虚妄であり、もともと万物は皆実体が無く空であると云うことを自覚できる。ただ迷いが生じる為に、仏心の中に虚妄が現れてくるのである。当然ながら、生まれながらの心性を覚る智慧によって悪を断ち、善を修め、迷いから覚めて仏心に立ち帰るべきである。すべての迷いが取り除かれ、生まれながらの心性が満ち足りて安らかな状態を法身仏と呼ぶ)
(注釈)機とは、仏の教えを受ける衆生の素質・能力のことで、根・機根とも云う。次の三種類がある。すなわち①上機根:仏道修行の素質・能力のすぐれたもの、②中機根:仏道修行の素質・能力が,中ぐらいのもの、③下機根:仏道修行の素質・能力の劣ったもの。一般に、物質や人の性質を九種類に分類したものが九(く)品(ほん)で、仏教では、衆生の機根の違いを挙げる時に用い、九品のそれぞれは「○品○生」(○は上・中・下)と書く。その上位にあるのが上品上生で、上上根智は上機根の段階にある人の智慧と云う意味になる。法身仏とは、仏身(仏の姿)を表す三身(法・報・応)の一つで、真理そのものとしてのブッダの本体、色も形もない真実そのものの体のこと。
つづく
宗密の[華厳原人論]―Ⅴ
〇三に大乗法相(ほつそう)教は、一切の有情は無始已来、法(ほう)爾(に)として八種の識有りと説く。中に於いて第八の阿頼耶識は、是れ其の根本なり。頓に根身・器界の種子(しゆうじ)を変じ、転じて七識を生ず。皆能く自分の所縁を変現して、都て実法無し。如何でか変ずるや?謂(おも)うに、「我法分別し薫習(くんじゆう)した力の故に、諸識の生じる時に変じて、我法に似る」と。第六と七識は無明に覆われるが故に、此れに縁(もと)づき執って実我・実法と為す。患い(重病では、心が惛(みだれ)て異色の人物を見る)と夢(夢想の所見と知るべし)とは、患いと夢との力の故に、心は種々の外(げ)境(きよう)の相に似て現る。夢の時は執って実に外物有りと為すが、寤(ご)来たりて方に、唯だ夢の所変なるを知る。我が身亦た爾り。唯識の所変なり。迷うが故に、我及び諸境有ることに執り、此に由り惑い起き、業を造り、生死窮まり無し。(廣く前に説くが如し)此の理を悟解せば方に我が身は唯識の所変にして、識が身の本為るを知る。(不了の義は、後に破する所の如し)
(訳文)三つ目の大乗法相教では、全ての生き物は世界が始まった時から、本来の姿として八つの識を持っていたと説いている。その中でも第八番目の阿頼耶識こそが、人間存在の根本にある心の働きであるとしている。絶えず阿頼耶識の中の身体と環境に関する種子(因子)が色々の縁によって変化して、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識(まなしき)の七識が生まれる。それら全てはおのれの本来の姿を変えて現れて来るが、実体がある訳ではない。ではどのようにして変化するのか?思うに、自分自身が外界を認識し始めると、阿頼耶識の中に貯蔵された種子の力に依って、その認識の有り様に似て変化して諸識が生まれてくる。第六番目の意識と第七番目の末那識は、真理に暗い處があるのにそれに頼り過ぎ執着し過ぎて、自分と云う存在が実存するものだと思い込む。患った時(重い病の時は意識が朦朧として、怪しげな人影を見る)や夢を見た時(夢の中の出来事を思い出せ)には、病や夢と云う異常な状態のせいで、心の中に有りもしない諸々の現象が現れてくる。夢の中では頭の働きが鈍って異様なものが現れたりするが、目が覚めさえすれば、それは神仏や鬼や霊などが形を変えて夢の中に現れた仮の姿なのだと云うことが解る。我々の身体も夢の中のこの出来事と同じ事である。これらのことはただ心の中にしか存在せず、その出来事の一切は心の中で起こった変化に過ぎない。(これが唯識の所変というもの)唯識の道理を知らない為に、自分自身の存在や外界の事物の存在にこだわり、その為に迷いを起こし、業を造り、生死の世界に窮まること無く輪廻するのである。(このことは詳しく前述した通りである)この道理を悟ってよく理解出来れば、自分自身は識が生み出した仮の姿であって、心の働きこそが人間の本源であることを理解出来る。(この教えが不完全な教説である点については、後に批評することにする)
(注釈)大乗法相教とは、唐の玄奘の弟子である慈恩大師窺基が開祖となった大乗仏教の一部派である。その教義では、心の働きが世の中の一切の存在を生み出し、主体的存在である自己もまた自身の心から変化したものであるという唯識論を唱える。そして我々の認識以外には、如何なる存在もないとする「唯識無境」のところに根本的真理があるとする。なお法相とは、存在のあり方を指す言葉。法爾:とは、真理にのっとって本来あるがままであることを云う。八種の識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識のこと。阿頼耶識とは、唯識思想により立てられた心の深層部分の名称で、大乗仏教を支える根本思想。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識のうちの第8番目。ここで唯識思想について簡単にまとめておこう。一切のこの世の存在は、唯だ自身の識(心の働き)の作り出したもので、各個人にとっての世界はその個人の映像(表象)に過ぎない、と云うのが基本思想である。その識には、表層から深層に向かって次の八つのものがある。すなわち。
①前五識(眼識(げんしき)・耳(に)識(しき)・鼻識・舌識・身識→五感)
②第六意識(自覚的意識、途切れることがある)
③第七未那識(常に煩悩が随伴し、途切れることなく働き続ける)
④第八阿頼耶識(根本の識で、身体と前七識を生み出し、他の識と協同して仮世界を築く)
識の階層構造を下図に示そう。
前五識はそれぞれ色・声・香・味・触を知覚し、意識は法(考えられる対象)を認識・識別する。未那識は寝ても覚めても我執し続ける識で、阿頼耶識は前七識の活動による影響を記録する種子と呼ばれるものを蔵している。(この蓄えられる作用が薫習)阿頼耶識は未那識・意識に作用すると共に、前五識にも作用して外界から縁(えにし)を受けることになる。その結果も種子に薫習される。人間の如何なる行為(業)も、一瞬だけ存在するがすぐに過ぎ去り、その残影が種子の中に蓄積され成熟し、識の転変を経て再び前七識が生まれ、そして再び行為が繰り返されることになる。唯識所変とはただ識が変化したものと云う意味で、全ての事物はただ心にしか存在せず、一切は心から変化したものであるという唯識そのものを指す。不了の義とは不完全な教義と云うことで、ここに説く法相宗を指している。
〇四に大乗破相教は、前の大小乗法相の執りを破って、密(くわし)く後の真性空寂の理を顯かにす。(破相の談(はなし)は、唯だ諸部の般若のみならず、遍く大乗経に在り。前の三教は次に依って先後す。此の教えは、執りに随って即ち破れ、定まりし時節無し。故に龍樹は二種の般若を立つ。一は共(ぐう)、二は不共(ふぐう)なり。共は、二乗同じく聞を信解して、二乗の法執を破る故(こと)、不共は唯だ菩薩の解にて、密く仏性(ぶつしよう)を顯かにする故なり。故に天竺の戒賢・智光の二論師は、各の三時教を立て、此の空教を指(しめ)せり。或いは唯識法相の前に在りと云い、或いは後に在りと云う。今の意は後を取る。)
(訳文)四つ目の大乗破相教は、前に述べた小乗教や大乗法相教の説く處を論破し、詳しく後に説く、「あらゆる存在の真の姿は、実体が無く空である」の道理を明らかにする。(破相教の教えは色々な般若経で触れられている丈でなく、広く大乗経の中にも説かれている。人天教を含めた前述の三教は、その説かれた時代の後と先きがはっきりしている。だがこの破相教は、三教がそれぞれに執着する主張について一々反論するので、その確立した時期がはっきりしない。さてインドの仏教僧の龍樹は、浅い教義の共般若と菩薩のみに対して説く深い教義の不共般若の二説を主張した。共般若とは、一般の仏弟子の声聞と迷いを断ち理を悟った縁覚の二者が、同じように仏の教えを理解信心し、彼らが抱く「一切の存在に実体がある」と云う思いを絶ち切る智慧であり、不共般若とは、菩薩のみが悟得し、広く仏の性質・本性を明らかにする智慧である。そこでインドの戒賢と智光の二人の仏学の師は、それぞれに釈迦一代に説かれた教説を三時期に分類した教説を立てて、この空を説く破相教を発表した。戒賢は破相教が唯識を説く法相教の前に在ったものだと主張し、智光はその後のものだと云っている。ここでは後の主張を採用する)
(注釈)大乗破相教は、小乗教や大乗法相教で説く存在えの執着に反対し、全ては空であると説き、その真の姿を示さんとする教えである。なお破相とは、存在を含めてあらゆる現象を否定することを意味する。真性空寂の理とは、破相教で説く「空」の理論のこと。般若とは、真理を自覚し悟りを開くことで、最高の智慧を指す。龍樹とは、2世紀に生まれたインドの仏僧であり、大乗仏教中観派(空の思想・中道の実践を主張する学派)の祖。龍樹の空理論では、存在という現象も含めてあらゆる現象は、それぞれの因果関係の上に成り立つとする。この因果関係を釈迦は「縁起」と呼ぶ。因果関係によって現象が現れているのだから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)は無いと主張する。。すなわちすべての存在は無自性であり、「空」であると論証している。共般若とは、共通の智慧であり、不共般若とは特別な高位の智慧のこと。二乗とは、声聞乗(しようもんじよう)(仏の声に導かれてみずからの悟りのみを求める教え)と縁(えん)覚(がく)乗(じよう)(独りで悟りを開く教え)のこと。この二乗は聖者ではあるが、大乗仏教からは自己中心的であるとして小乗と蔑称される。乗とは、人間が悟りの境界へ至るための乗物すなわち教えを意味している。また菩薩乗(自利の為のみならず一切の人間の悟りのための教え)を含めて三乗と云う。聞とは、仏の願いが立てられた理由とその結果について全てを素直に聞き入れることを云う。法執とは、我執と対を為す言葉で、すべての存在に実体(法我)があるとする考えかた。仏性とは、仏教の根本的概念の一つで、仏の本当の姿やその思いを云
う。戒賢とは、唯識派で玄奘の師。小乗の教えである現象には実体がないがそれを構成する要素は存在するという有(う)教(きよう),すべてに実体がないとする空教,そして非空非有の最終的真理を説く中道教を打ち立てた。智光とは、中觀学派の仏僧。小乗・法相・破相の三教を説く。三時教とは、釈迦一代の説法を三期に分けたもの。
〇将に之れを破らんと欲して、先ず之を詰めて曰わく、「所変の境が既に妄ならば、能変の識は豈に真なりや?」と。若し一が有、一が無と言へば、(此の下は、却って彼の喩を将(も)って之れを破る)則ち夢想と所見物とは應(まさ)に異なるべし。異なれば則ち夢は是れ物ならず、物は是れ夢ならず。寤め来たり、夢滅(たえ)て其の物應に在り。又た物が若し夢に非ざれば、應に是れ真物なり。夢若し物に非ざれば、何を以て相と為さん?故に夢の時は則ち夢想と夢物は、能見と所見の殊なるに似たるを知る。理に拠れば則ち同一虚妄にして、都て所有無し。諸識も亦た爾り。以て皆衆(しゆ)縁(えん)を仮託して、自性無き故なり。故に中觀論(ちゆうがんろん)の云うに、「未だ曾て一法として因縁従り生ぜざるはあらず」と。是の故に一切の法は是れ空ならざるは無し。又た云うに、「因縁所生の法は、我れ即ち是れ空と説く」と。起信論の云うに、「一切の諸法は唯だ妄念に依って差別有り。若し心念を離れなば、即ち一切境界(きようがい)の相無し」と。経の云うに、「凡そ相の有る所、皆是れ虚妄なり。一切の相を離れること、即ち諸仏と名づく(此れ等の如き文は、大乗蔵に遍(あまね)し)」と。是れ心境は皆空とは、方に是れ大乗の実理たるを知る。若し約して此に身を原ねれば、身は元是れ空、空は即ち是れ本なり。
(訳文)では法相教の考え方を論破するとして、先ずはその問題点を取り挙げてみよう。すなわち、「外界の事象はただ識が変化しただけで実際には存在しないと云うが、それではそれを生み出した識も存在しないと云うことにはならないか?」と云う疑問が湧いてくる。もし識は有るが識の外の世界は無いとして、(以下は前に記した夢の喩えを用いて論破する)先ずは夢に喩えて考えてみよう。夢を見ることと、見た物事とは別なものに違いない。別なものだとすれば、夢は見た物事を含まないことになるし、見た物事もまた夢の中の出来事ではないことになる。夢から覚めても見た物事は存在する。また見た物事がもし夢と別なものだとするならば、それこそその見た物事は本当に存在することになる。夢がもし見た物事を含まないとすると、夢と見た物事とは別のものと云うことになり、そうなると夢の中の様子は一体どう説明すべきなのか?こう見てくると、夢の中では見ることと見た物事という違いがあるように見えるが、見る主体と客体という違いはあるにしろ、夢という同じ一つのものであることには変わりない。その道理をよくよく考えてみれば、夢を見ることも見た物事も夢と云う同じ虚妄の出来事であることには変わりないので、全ては存在しないのである。また八識についても同じ事で、識もその対象も全て存在しないのである。それは皆、様々な因縁にこと寄せて現れ出でたもので、本質的なものではない。だから中觀論では、「未だ曾て一つとして因縁に依らずに生まれ出たものはない」と云っている。こうして一切の存在で空でないものは無いのである。また中觀論では、「因縁によって生まれてくる一切の存在は、全て空である」と説いている。起信論では、「全ての存在は、人間の心の迷いから差別を生じる。もしその心の迷いを絶ち切ることが出来れば、全ての認識対象の姿は空であることが理解できよう」と云っている。金剛般若波羅蜜経には、「およそ姿形のあるものは、全て虚妄である。その虚妄なる姿形の一切から離れた處のものが、諸仏にほかならない」とある。(この様な記述は、諸々の大乗経典に見受けられる)心の働きも認識対象もすべて空であると云うことこそ、大乗経の真実の教えであるということが解る。もし以上のことをよく理解して、人間の本源を明らかにすることが出来れば、この身もまた空であることが解り、空こそが根本となる。
(注釈)能変とは、唯識論で呼ぶ八識のこと。次の三つに分けられる。
①初能変:異熟と云って、阿頼耶識のこと。
②第二能変:思量識と云って、未那識のこと。
③第三能変:了別境識と云って、前六識のこと。
中觀論とは中論とも云い、竜樹が初期に著した仏教書。因縁によって生じたものはすべて空であるとして、有無を超えた空観による中道を説いたもの。起信論とは大乗起信論の略で、大乗仏教の教義を要約したもの。ここの経とは、正しくは金剛般若波羅蜜経と云い、般若系経典の一つ。真実の知恵は通常の認識によっては得られず,空によることを明らかにする。
〇今復た此の教えを詰めて曰わく、「若し心・境が皆無ならば、無を知るは誰ぞ?。又た若し都て実法無くば、何に依って諸の虚妄を現さん?且つ現に世間の虚妄の物を見るに、未だ実法に依らずして、能く起こるもの有らず。如し湿性不変の水無くば、何んぞ虚妄假相の波有らんや。若し浄明不変の鏡無くば、何んぞ種々の虚假の影有らんや。又た前に、夢想と無境は同じ虚妄なりと説きしは、誠に言う所の如し。然し此の虚妄の夢は、必ず睡眠せし人に依る。今既に心・境が皆空ならば、何に依って妄が現れるか審らかならず!」と。故に此の教えは但だ執情を破り、亦た未だ明らかに真靈の性を顕さざるを知る。故に法(ほつ)鼓(く)経(きよう)に曰わく、「一切の空経は是れ有余の説なり(有余とは、余の義の未了なり)」と。大品経に云うに、「空は是れ大乗の初門なり」と。
(訳文)今度は、以上で見てきた破相教の教えについて論評してみる、「心もその認識対象もすべて空というならば、その空を認識するのは一体誰なのか?またもし全てに於いて永遠不変の実体が無いものとするならば、何を根拠に諸々の虚妄は現れて来るのだろうか?と云う疑問が生じる。と云うのも、この世の虚妄と云われるものが、永遠不変の実体が存在しないのに起こったと云う話を聞いたことがないからだ。実体があるからこそ、その虚妄もその姿を現わすことが出来る。喩えて云えば、もし水としての特性を持った実体不変の水が無ければ、虚妄であり仮の姿でもある波は起こることはない。またもし何時までも清浄不変な鏡と云う実体が無いと、仮の姿である映像も映し出すことは出来ない。また前に、夢を見ることと見た物事は共に虚妄だと記したが、その通りである。しかしながらこの虚妄である夢が存在出来るのも、眠る人が居てこそのことである。破相教が主張するように、認識する心もその認識対象も皆空と云うのであれば、虚妄が現れる理屈が説明出来ない事になりはしないか」となる。だからこの破相教では、識以外の何物も存在しないと説く破相えの執着を論破するだけであって、生まれながらの霊妙清浄な心を説き明かすまでには至っていないことが解る。そこで法鼓経では、「全ての空を説くお経は、説明不十分なものである(説明不十分というのは、十分に全体を説き明かしていないと云うこと)」と云っている。大品経では、「空を語るだけでは、大乗経の門をくぐったに過ぎない」とも云っている。
(注釈)水の湿性という表現は、不変なものとしての喩えとして、仏教ではよく使われるもの。火の暖性も同じ。大乗起信論に水波の喩えと云う言葉が載っている。浄明不変の鏡の處を浄明不変の境と記しているものもあるが、ここでは意味が通じやすいので鏡の方を採った。なお鏡の喩えは、同じ起信論に悟りの体と相の説明に引用されている。ここの鏡は常住不変 の根本清浄識を指し、虚假の影とは仮相の認識対象を指す。真靈の性とは、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。法鼓経とは、仏陀の説法をもって空性説を打ち破る事を掲げた中期大乗経典。大品経とは、般若経典の一つである摩訶般若波羅蜜経のことで、一切皆空を説く大乗経典。
一乗顕性教(人間の真性を明らかにし、仏陀への唯一の道を示す教え
〇上の四は、展転して相望めば、前は浅く後は深し。若し且(しばら)く之れを習い、自ら未了を知れば、名づけて之を浅いと為す。若し執って了と為せば、即ち名づけて偏りと為す。故に習人に就いて、偏浅と云う。
(訳文)以上述べてきた四教すなわち人天教・小乗教・大乗法相教・大乗破相教を色々な角度から展望してみたが、前は浅く後になるほど深い教えであることが解った。もし暫くでもこれらの教えを習って、それ等が不完全な教えであることが理解出来れば、浅い教えだと云わざるを得なくなる。もしそれ等の教えに執着するようなことにでもなれば、偏った教えだと云わざるを得なくなる。だから学習する人の受け取り方によって、これ等四教は浅い教えとも偏りの教えともなるのである。
(注釈)一番深い教えの一乗顕性教に導く為の布石がこれで終わる。
つづく
宗密の[華厳原人論]―Ⅳ
〇二に小乗教は、形骸の色や思慮の心を説き、無始従り来(このか)た因縁の力の故に念念生滅し、相続して窮まりなく、水の涓涓たるが如く、燈の焔焔たるが如し。身心仮に合して一に似、常に似たり。凡愚は覚らず、之に執(こだわ)って我と為す。此の我を寳とするが故に、則ち貪(むさぼ)る(名利を貪り、以て我を栄(さかん)にす)、瞋(いか)る(違(たが)う情境を瞋り、我を侵害することを恐れる)、痴(まよ)う(非理の計(けい)校(こう))等の三毒を起こす。三毒は意を撃ち、身・口を発動し、一切の業を造り、業成れば逃れ難く、故に五道の苦楽等の身(別業の感ずる所)を、三界の勝劣等の處(共業の感ずる所)を受く。
(訳文)二つ目の小乗教では、むくろとなった肉体(五蘊の色)や心的作用(五蘊の受・想・行・識)について語り、それは限りなく遠い過去から因縁の力によって、一舜一舜生滅を繰り返しながら継続して窮まるところがないと説く。その様子はまるで、水が絶えることなくちょろちょろと流れ、灯火が絶えることなくちろちろと燃えているようである。このように我々の身心は、因縁の力によって一時的にではあるが合体しているので、ちょっと見ると一つのもののようにまた不変なもののように認識されがちである。この因縁の力を知らない愚か者は、この一時的な身心の状態に固執して、これを我(が)と捉えまた大事にしている。だから貪(とん)(名利を貪って驕り高ぶる)・瞋(じん)(環境が思いのままにならないことを怒り、被害を被るのではないかと恐れる)・癡(ち)(理屈に合わぬと愚痴る)の三毒を起こすことになる。三毒が現れて意識を刺激すると身体と口を動かして、全ての業を作り出すことになり、そうなると因果の道理によって、その業から逃れることが出来なくなる。そして五道に於ける苦・楽の業報を受ける身となり(個人的な業報=不共(ふぐう)業(ごう))、三界の優劣の差のある場所(共通に背負わねばならぬ業報=共(ぐう)業(ごう))に生まれることになる。
(注釈)小乗教とは、釈迦入滅の数百年後に現れた大乗仏教側から見た差別的意味を持つ呼称で、釈迦が唱えた「自分の心の苦しみを自分の力で解決する」と云う「自利=自己救済」を標榜した初期仏教を指す。これに対し大乗仏教は「利他=他人の救済」が前面に出てきます。五蘊とは、人の成り立ちを次の五つの要素に分けて考えたもの。すなわち、色(肉体)・受(感受作用)・想(構想作用)・行(意思や記憶の働き)・識(認識や意識)で、色は外面その他は内面の心的作用を受け持つ。因縁とは、因(結果を生ぜしめる内的な直接原因)と、縁(外から因を助ける間接原因=条件)から成る。一切のものは、因縁によって生滅するとされる。三毒(三不善根)とは、克服すべ根本的な三つの煩悩を指す。三毒が展開されて十悪となる。我とは自分に執着することだが、仏教では我執(自我)を含む自己を意味し、人間の生命現象の奥に潜んでいる本質的存在を指す。釈迦は自我を否定して無我を主張する。業には身(身体)・口(言語)・意(意思)の三業がある。共業とは、人間が共通して背負う業のこと。不共業とは個人的な業のこと。人間は自身固有の果報と、環境が変わる果報の両方を受けて輪廻する。業報を受ける環境を依報(えほう)と云い、その環境にある身体を正(しよう)報(ほう)と云う。三界とは、凡夫が生死を通じて往来する世界のことで、欲界(上は六欲天から無間地獄まで)・色界(欲界の上の四禅天からなる世界)・無色界(色界の上にある四天からなる世界)がある。
〇受ける所の身に於いて還(ま)た執って我と為し、還た貪り等を起こし、業を造り報を受く。身は則ち生老病死し、死して復た生ず。界は則ち成住壊空(じようじゆうえくう)し、空にして復た成る。(空劫従り初めて世界を成すとは、頌(じゆ)に曰わく、「空界に大風起こり、傍らに広がる数は無量、厚さは十六洛(らく)叉(さ)、金剛も壊すこと能わず、此に持界風と名づく。光音に金蔵の雲、布(ひろ)げて三千界に及び、雨は車軸の如くに下り、風に遏(とど)められて流れることを聴かず。深さ十一洛叉にて始めて金剛界を作る。次第に金蔵の雲は注ぐ雨となって其の内に満ち、先ずは梵王界乃至は夜摩天を成す。風は清水を鼓(たた)いて須彌(しゆみ)や七金等を成す。滓濁は山や地や四州及び泥(ない)犂(り)と鹹海(かんかい)の外輪圍と為る。方に器界立と名づく。時に一増減を経たり。乃至は二禅の福尽きて人間に下生す。初めに地餅や林藤を食し、後に粳米は銷せざれば、大小便利し、男女の形が別れ、田を分けて主を立て、臣佐を求め、種々差別し、十九の増減を経る。前を兼ね、総じて二十の増減を名づけて成劫と為す」と。議して曰わく、「空界の劫中は、是れ道教にては指して虚無の道と云う。然れども道体は寂照・靈通にして是れ虚無ならず。老氏或いは之れに迷い、或いは權(かり)に設けて務めて人欲を絶ち、故に空界を指して道と為す。空界中の大風とは即ち彼の渾沌一気にて、故に彼は、「道は一を生む」と云う。金蔵雲なる者は気(き)形(ぎよう)の始め、即ち太極なり。雨下って流れざれば陰気凝(とど)まる。陰陽相い合して、方に能く生成す。梵王界乃至須彌とは彼の天なり。滓濁とは地なり。即ち一は二を生ず。二禅福尽きて下生すとは、即ち人なり。即ち二は三を生じ、三才が備わる。地餅已下乃至種々とは、即ち三は万物を生ず。此れ三皇已前は穴居・野食して未だ火化有らざる等に当たる。但だ其の時は文字の記載無きを以ての故に、後人の伝聞明らかならず。展転錯謬(てんてんさくびゆう)して、諸家の著作に種々異説あり。仏教は又た三千世界を通明し、大唐に局(くぎ)らざるに縁るが故に、内外の教文は全く同じからず。住は住劫亦た二十の増減を経、壊は壊劫亦た二十の増減あり。前の十九の増減が有情を壊し、後の一の増減が器界を壊す。能く壊すは是れ火・水・風等の三災なり。空は空劫亦た二十の増減の中は、空にして世界及び諸の有情無し。)
(訳文)業報を受ける身になると、再び我執に拘って三毒を呼び起こして業を造りだし、その結果として果報を受けることになる。すなわちその身は輪廻から抜け出すことが出来ずに生老病死を繰り返し、また生まれて死ぬというように窮まるところがない。そしてその業報を受けた身の環境は誕生・持続・崩壊・空虚の循環を繰り返し、時を経てまた空虚から誕生することになる。(形あるものが一切なくなった無の期間から、初めて世界が出来上がる様子が、倶舎論(くしやろん)の世間品の詩頌に次のように記されている。すなわち、「空虚な世界に大風が巻き起こり、その広がりは想像を絶するもので、厚さが十六洛叉もある風輪と呼ぶ層となる。如何なる物もこれを破壊することが出来ないほどの強固なもので、須(しゆ)弥(み)山(せん)世界の土台となるので、この大風を持界風と呼ぶ。色界の第二禅天にある光音(こうおん)天(てん)=極光(ごくこう)浄(じよう)天(てん)から金蔵雲=黄金色の雲が湧き立って三千世界を覆い尽くし、雨が滝の如く降り注ぐも持界風に妨げられて流れ落ちることが出来ず、風輪の上に止まって水たまり=水輪となる。その深さが十一洛(らく)叉(しや)に達すると、始めて金輪が出来はじめる。次第に金蔵雲からの雨が貯まって金輪が満ち終わると、先ず六欲天の天上部分の夜摩天から色界の初禅天=梵王界に至る世界が出来てくる。一方持界風は水輪の内の澄んだ水に刺激を与えて、須弥山やそれを取り巻く七つの山脈を形作る。水輪の内の濁り滓は、山地・四州・泥(ない)犂(り)=地獄・海水・外輪山=鉄(てつ)囲山(ちさん)となる。すなわちこれを命ある者が住む世界の成立と呼ぶ。こうして天地創造の始めに、一増減=一中劫が費やされる。次いで色界の第二禅天に住んでいた有情たちの福報が尽き果てて、人間世界に生まれ変わる。さて地上に降り立った有情たちも、始めのうちは地上にある美味しい消化の良い地味や地餅や林藤を食べて快適に暮らしていたが、それも尽き果てると消化の良くない粳米を食べるようになって大小便を排泄するようになり、男女の別が生じ、食糧確保の為の土地争いから地主と小作の関係が現れ、やがて領主と領民の差別も生じ、こうして人間世界が成立するのに十九増減=十九中劫を費やすことになる。初めから考えると、二十増減=二十中劫を経て成劫が終わることになる」と。さて以上のことを認識した上で仏教と他教との違いについて考察を加える。仏教で云う空劫の中のことを、道教では虚無の道と云っている。しかし天地すなわち宇宙自体は、奥深く静まりかえった光り輝く霊妙な意義あるもので、決して虚無なるものでは無い。老子は考えあぐねた末に、大道が虚無だと云うことに固執したのだろうか。或いはまた空界に相当する概念を大道と呼んで、人々の物欲を絶ち切らせる手段に利用したのかも知れない。また空界中の大風とは、老子の云う渾沌の一気のことである。だから老子は「道は一を生ず」と云ったのである。金蔵の雲と云うのは、根源の働きが具象化し始めること、すなわち太極のことである。雨が降っても流れないと云う件(くだり)は、儒教で云う陰気が凝結し陰陽が合して万物を生成することに相当する。梵王界すなわち須弥とは、儒教の云う天のことである。滓濁とは儒教で云う地のことである。すなわちここの件は、道教で云う渾沌の一気から、或いは儒教で云う太極から、陰陽の二気を生むと云う件に相当する。第二禅天に住んでいた有情たちの福報が尽き果てて、人間世界に生まれ変わるという件は、儒教で云う天・地が合して人が生まれると云う表現に相当する。すなわち天・地の二つが合して人が生まれ、ここに三才が整うことになる。地餅以下云々のことは、この三才から万物が生まれたという<老子>の言葉に相当する。これらの意味するところは、古代中国における三皇以前の状況で、洞穴で暮らしたり野宿して食べ物を漁ったりしていた時代のことで、まだ火を使うことを知ら無い時代のことである。当時は文字が発明されていなかったので、後世の人々には詳しいことは解らない。漠然としていて間違いもあり、多くの学者の著述もあり、また多くの異説があって本当の處は解らない。仏教では三千世界を取り挙げてその様子を語っているが、中国だけを対象にしていないので、儒・道・仏教の説く處が同じにならないのは当然のことである。住というのは住劫のことで、やはり二十中劫の経過期間があり、壊というのは壊劫のことで、これまた二十中劫の経過期間がある。壊劫では、前の十九中劫の間に一切の生き物を刀兵災・疾疫災・飢饉災の小三災で亡ぼし、最後の一劫でその住む世界を火災・水災・風災の大三災で壊す。空とは空劫のことで、同じように二十中劫の経過期間があり、ここで世界も一切の生き物も消えてしまうのである。
(注釈)成住壊空(じようじゆうえくう)とは、本来星の一生を説明した言葉で、永遠極まりない世界の循環のことを指す。仏教で云う四劫を意味する。すなわち世界は成劫(誕生期間)→住劫(持続期間)→壊劫(崩壊期間)→空劫(一切無の期間)を繰り返すとする。劫とは インド古代の巨大な時間の単位で、仏教に云う劫には大劫と中劫(中間劫とか小劫とも云う)があり、宇宙生滅の1サイクルが1大劫で、1大劫は80中劫にあたる。四劫はそれぞれ20中劫からなる。
倶舎論(くしやろん)は古代インドの仏教僧世親が著した仏教論書。その中に世界の構成を記した世(せ)間(けん)品(ぼん)の章がある。頌(じゆ)とは仏の教えや仏・菩薩の徳を讃えた韻文。ここで須弥山世界と三界構造について以下に図示しておこう。なお須弥山世界とは仏教界で云う宇宙(三千世界)を構成する一小世界のことで、その中心にあるのが須弥山。三界とは衆生が生死輪廻する欲界・色界・無色界のこと。
仏教で云う空界とは六界(地界・水界・火界・風界・空界・識界)の一つで、事物のないすき間あるいは事物は存在するが運動しうる広がりを意味する。洛叉とは古代インドの数量の単位で、十の五乗のこと。ここにある金剛界とは、須弥山世界の金輪のこと。梵王界とは、色界の初禅天にある淫欲を離れた清浄な三天(大梵天・梵輔天・梵衆天)を指す。夜摩天とは、欲界に属する空居(くうご)天(てん)の最下位にある天界のこと。七金は須弥山を取り巻く七つの山脈。
器界とは 三種世界(衆生世間=生命のあるもの・器世間=山河大地など・智正覚世間=仏の世界)の一で、構造面から捉えた世界を器界と呼ぶ。地餅林藤とは地味・地餅・林藤などの芳香を放つ甘味食料のこと。増減は空界内部の変動を表現し、劫はその経過を表現するが同じ意味を持つ。道体と云う言葉は余り使われていないが、紀元前に著された<淮南子、人間訓>に、「或明礼義、推道体而不行、或解構妄言而反當」なる記載がある。道の本体と云う意味で、この道は老子の云う沖(むな)しき道のことで、天地すなわちここで問題としている宇宙を意味する。寂照霊通についてはよく解らない表現だが、適当に訳してみた。一念寂照などの言葉が見られるが、ここの表現とは無関係のようである。虚無の道と云う直接の表現は<老子>に見当たらない。「道沖」とか、「天地之間、虚而不屈」とか「視之不見、聴之不聞、搏之不得」とか「有物混成、先天地生、寂兮寞兮、独立不改、周行而不殆。可以為天下之母」などの記述から勝手に虚無の道なる言葉が一人歩きしているようだ。渾沌の一気という言葉も<老子>の中には見当たらない。同じ意味合いで、有名な「道生一、一生二、二生三、三生万物。万物負陰而抱陽、沖気以為和」と云う記述はある。道教では、渾沌の一気から陰陽の両気が生じるという陰陽二元論が提示される。「道生一」の一は、古来考えられた「神」であり、儒教で云う「太極」であり、老子の云う「有」であり、仏教の「仏」である。三才とは中国の古代において世界を説明しようとして考えた,天・地・人の三つの働きをいう。三材ともいう。(易経、説(せつ)卦(け)伝)に,天道には陰陽,地道には柔剛,人道には仁義の働きがあるというのがこれである。三皇とは天皇氏・地皇氏・人皇氏を指す。有情とは、心の働きを持つものの意で、生きとし生けるものの総称。衆生とも云う。三災とは、仏教語で三種の災厄のこと。住劫の減劫に起こる刀兵災・疾疫災・飢饉災の小三災と、壊劫の終わりに起こる火災・水災・風災の大三災がある。
〇劫劫生生、輪廻は絶えず。無終無始にして汲井輪の如し。(道教では只だ、今此の世界の成らざる時の一度の空劫を知り、虚無・渾沌の一気等と云い、名づけて元始と為す。空界已前は早やかに千千萬萬遍く成・住・壊・空を経て、終わりて復た始まることを知らず。故に仏の教法の中の小乗浅浅の教えが、已に外典の深深の説を超えたることを知る。)都(すべ)ては、此の身の本は是れ我ならざることを了(さと)らざるに由る。是れ我ならずとは、此の身の本が、色・心の和合に因り相と為るを謂う。
(訳文)未来永劫にわたって輪廻は絶えることがない。終わりも始まりもなく、あたかも井戸の滑車が上下を繰り返して、動きが止まらない様子に似ている。(道教では、この今の世界が出来る前の一回の空劫の期間だけを問題にして、虚無だの渾沌の一気だのと云って、それを世界の始まりとしている。その空劫以前にも数え切れないほどの成・住・壊・空の四劫期間を繰り返して、終わるとまたすぐに始まることを知らずにいる。だから仏の教えの中でも浅薄な教えとされる小乗教でさえも、儒教や道教の中の深遠な教えよりも勝れていることが解る。)全く我々人間の根底には、永遠に不変な実体など無いのだと云うことを知らないのだ。永遠に不変な実体など無いと云うのは、人間は元々肉体と心が因縁によって和合してこの世に現れたもの、と云うことである。
(注釈)劫々生々とか未来永劫とか生々世々とかは仏教用語で過去・現在・未来を指す。不我は仏教で云う無我とか非我と同じ意味。我(が)は内に潜在する独立永遠の主体を指し、個人を支配し統一すると云う印度思想界の重要な主題の一つ。仏教は縁起による無我説を唱えて、我を否定する。色心とは、仏教語で物質と精神のこと。相とは見かけ上の姿のこと。
〇今推尋分析するに、色には地・水・火・風の四大有り、心には受(能く好・悪の事を領納す)・想(能く像を取るもの)・行(能く造作するものにして、念念遷流す)・識(能く了別するもの)の四蘊有り。若し皆是れ我ならば、即ち八我を成す。況んや地大の中に復た衆多(あまた)有り。謂うに、三百六十段の骨は、一つ一つ各の別なり。皮毛筋肉、肝心脾腎は各の相(たが)いに是れならず。諸の心数等も亦た各の同じからず。見は是れ聞ならず。喜は是れ怒ならず。展転して乃至八万四千の塵労なり。既に此れ衆多の物有れば、何者を定取して我と為すか知らず。若し皆是れ我ならば、我は即ち百千にして、一身の中に多くの主が紛乱す。離れて此れの外に、復た別法無し。翻覆して我を推すに、皆得るべからず。
(訳文)さて今度は、人間の根底にある永遠不変の実体について詳しく分析してみよう。色には地大(堅さを保つ要素)・水大(湿っぽさを保つ要素)・火大(熱と成熟作用を持つ要素)・風大(ものの動きを助ける要素)の四大種が有り、心には受(外界の刺激を感じ取る働き)・想(考えを纏める構想の働き)・行(実行しようとする意思の働き)・識(物事を識別する認識の働き)の四蘊が有る。もしこれらが皆我だと云うならば、八つの我が有ることになる。更には地大の中にもまた多くの我がある。骨だけでも三百六十段あるから、それぞれ別々の我があることになる。皮・毛・筋・肉・肝臟・心臟・脾臟・腎臟も、それぞれ別のもので我と云うことになるがそうではない。色々ある心の成分(心所)もそれぞれ別なものである。その働きの中でも見ると聞くとは別ものだし、喜びの思いと怒りの思いはまた別ものである。こうして見てくると、八万四千にも上る煩悩を数えることが出来る。これ程多くの別々なものがあれば、一体何を以て我として良いか解らない。これら全てを我とするならば、我の数は百にも千にもなり、一個人の中の多くのその我が互いに争って紛糾し、その結果として混乱が起きることになる。以上のような見方の外に、我すなわち人間の心の内にある永遠不変の実体を解明する方法はあるまい。あれこれほじくり返してもこれ以上、我の正体を推し測ることは難しい。
(注釈)四大種とは、仏教で説く物質の構成要素のこと。段とは骨の数え方だろうが、よく解らない。人骨が階段状または層をなしている處から来たものだろうか?一片と数えるのが普通の筈。人間の骨の数は赤ちゃんで三百位(一説には三百五十)、大人で二百位と云われている。心数とは、心の主体(心王)とそこに宿る心所(水に溶けているミネラルに喩えられる)のことで、一説には不善心所(心を汚す成分)、浄心所(心を清める成分)と同他心所(心を善にも悪にも変える成分)の五十二種類あると云う。煩悩は百八つと云うのが一般的だが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまち。小は三から大は六万八千とも云われる。
〇便ち此の身は、但だ衆くの縁が和合の相に似せて、元は我・人無しと悟れば、誰が為に貪り・瞋るや?誰が為に殺し・盗み・施し・戒めるや?(苦諦(くたい)を知る)遂に心は三界有漏の善悪に滞らず。(集諦(じつたい)を断ず)但だ無我の觀智を修め、(道諦(どうたい)なり)以て貪り等を断じ、諸業を止息し、我空・真如を證得す。(滅諦(めつたい)なり)乃至阿羅漢果を得て、灰身(しん)滅智して方に諸苦を断ず。此の宗の中に拠れば、色・心の二法及び貪・瞋・癡を以て、根身・器界の本と為す。過去や未来に、更に別法に本と為すは無し。
(訳文)すなわち我々の身体は、ただ多くの縁が都合良く混ざり合ったものだから、元来自分とか他人とかの区別はないものだと云うことが解れば、欲深くなったり、怒ったりする意味がなくなる。殺したり盗んだりする悪行も、施したり諌めたりする善行も意味がなくなる。(こうしてこの世の苦=苦諦の意味が解ってくる)そうなれば善悪に拘わらず三界の煩悩は、心に留めないことが肝心となる。(苦の原因となる煩悩=集諦を断つ必要が解る)もっぱら人間の心の内にある永遠不変の実体など無いことを理解し(煩悩を消す具体策=道諦が解る)、そうすることによって欲深さなども絶ち切って、あらゆる業を捨て去ることが出来、永久不変の我は存在しない事が真理として明らかにされる。(煩悩を消滅させねばならぬ理屈=滅諦が明かされる)そうなれば最高の悟りの境地である阿羅漢果に達し、身も心も無にして執着を捨て去り、あらゆる苦悩を絶ち切ることが出来る。この小乗教の教えは、身・心の二つの存在と貪・瞋・癡の三種の煩悩が、身心と自然界の本源であると云う。また過去にも未来にも、これ以外に本源となる存在はないとする。
(注釈)苦諦(この世はすべてが苦)・集諦(苦の原因は煩悩)・滅諦(煩悩消滅が苦を消すと云う真理)・道諦(煩悩を消す具体策)は、釈迦が唱えた迷いと悟りの両方にわたって因と果とを明らかにした四つの真理。我空とは、人間の身心は因縁によって仮に生成したもので、永久不変の我などはないということ。真如とは真理を意味する。阿羅漢果とは阿羅漢(尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと)に到達した境地のこと。この境地に至ると、迷いの世界を流転することなく涅槃に入ることができるとされる。灰身滅智とは、身を灰にして智を滅すると云う意味で、煩悩を断って、身も心も無にして執着を捨て去ること。上座部仏教の理想とする境地である。色法とは、物質的存在の総称。それに対立するのが心の働きの総称である心法。ここの法とは、存在と云う意味。根(こん)身(じん)(有根身とも云う)とは、一般に言う身体のことだが、唯識では認識機能を持つ有機体と捉えている。識そのものではないが、ここでは阿頼耶識(心の深層部分)から生じた心の一部と考えた方が良いだろう。
〇今之れを詰りて曰わく、夫れ生を経、世を累(かさ)ねて身の本と為るものは、自體須く間断無し。今五識は縁を闕けば起こらず。(根境等が縁と為る)意識は時有りて行わず。(悶絶・睡眠・滅尽定・無想定・無想天なり)無色界天は、此の四大無し。如何ぞ此の身を持ち得て、世世絶えざらん?是に此の教えを専らにするものは、亦た未だ身を原ねざることを知る。
(訳文)さて小乗教の教えを批評してみよう。幾度も生死を繰り返し世代を重ねてきた我々人間の根本と為る主体は、切れ目無く続くものである。ところで物事を認識する場合、因となる五識(眼・耳・鼻・舌・身)は、縁となる五蘊(色・声・香・味・触)が存在しなければ働きだすことが出来ない。(根=認識する感覚器官や、境=認識される対象などが因縁を結ぶ)六識の中の意識は、機会が与えられなければ働き出すことは無い。(意識が働かない時とは、気絶したり、眠っていたり、禅定の最終段階となる滅尽定、そして色界第四禅定にある陥ってはならぬ無想定と、その結果である無想天の五つの機会)無色界では 欲望も物質的条件も超越しているので、四大種は存在しない。そうすると、ここにある我々人間が絶えること無く世代を重ねてこれたのは、一体どう云う訳であろうか? 小乗教は六識の作用を説くだけなので、人間の根本を明らかにすることは出来ない。
(注釈)「世界をどう認識しているか」と云う基準で人間を分類したのが、十二處である。すなわち、感覚器官としての六根(六識=眼・耳・鼻・舌・身と意)と、対象としての六境(色・声・香・味・触と法)の合計十二。滅尽定とは九段階ある禅定(色禅定の四段階、無色禅定の四段階と滅尽定)のうちの最終段階である心のあらゆる動きが全く止滅した状態のこと。無想天とは無想有情天とも云い、禅定の中にあって行ってはならない無想定に悟入した状態とされている、一時的に心が止まっている異質な状態のことで、色界の第四禅天の「広果天」の中にある。無色界は、受想行識の四蘊のみより成る世界。ただ精神作用のみが働き、禅定に住している世界。
つづく
宗密の[華厳原人論]―Ⅲ
②偏浅を斥ける第二(仏の不了義教を習う者)
(訳文)偏・浅の教義を排斥する第二章(不完全な仏の教えを習う者)
(注釈)仏教の教えを次のように、浅いものから深いものの五つに分ける。即ち、
人天教→小乗教→大乗法相教→大乗破相教→一乗顕性教
ここでは、前の四教を学び終わって、その教義を理解しただけの者を浅い、その教義に執着する者を偏ると批評する。
〇仏教は浅自り深に之(ゆ)くに、略して五等有り。一に人天教、二に小乗教、三に大乗法相教、四に大乗破相教。(上の四つは此の篇中に在り)五は一乗顕性教なり。(此の一つは第三篇中に在り)
(訳文)仏教の諸宗は、その教義が浅いものから深いものまで、おおよそ五つの区分に分かれる。一が人天教、二が小乗教、三が大乗法相教、四が大乗破相教である。(以上の四つは、この篇中に説かれている)五は一乗顕性教である。(これは次篇で説く)
(注釈)釈迦が初めて比丘に説いた教えの中身は、中道(何事もほどほどが良い)・八正道(涅槃に至る修行の基本となる八つの徳目)・四聖諦(しせいたい)(人生苦の考察)・三転十二行相(四諦の完成)と云われる。その根本思想は自利→消極的利他である。釈迦没後五百年経って、原始仏教を守り通す上座部仏教と、利他→成仏(自利)を教義とする大乗仏教とに分かれる。前者は後者から小乗仏教とも呼ばれる。人天教の内容は原始仏教に準ずるものと云って良いだろう。釈迦一代の教説を、五つに分類したものが五教で、それには幾つもあるが、華厳宗の小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教の五つが最も著名。ここに示された宗密の五教は彼独自のもので、著作によって呼び方を変えている。
〇一は仏が初心の人に為すに、且(まさ)に三世の業報・善悪の因果を説く。謂うに、「上品は十悪を造れば死して地獄に、中品は餓鬼に、下品は畜生に堕つ」と。故に仏は且に世の五常の教えに類(なら)う。(天竺の世教の儀式は殊(こと)なると雖も、懲悪・勧善に別無し。亦た仁義等の五常を離れず、而して徳行有りて修むべし。例えば此の国では手を斂(おさ)めて挙げ、吐蕃では手を散じて垂れるも、皆礼と為すが如し)五戒を持た令(し)め、(殺さざるは是れ仁、盗まざるは是れ義、邪淫ならざるは是れ礼、妄語ならざるは是れ信、酒肉を飲み噉(く)らわざるは神気清潔にして智に益す)三途を免れ得て人道の中に生ず。上品の十善及び施戒等を修めれば六欲天に生じ、四禅八定を修めれば色界・無色界天に生ず。(題の中に天・鬼・地獄を標(しる)せざるは、界地同じからず、見聞及ばず、凡俗尚お末を知らず、況んや敢えて本を窮めんや。故に俗教に対して且に原人と標す。今仏経を叙(の)べるに、理は具(つぶさ)に列するが宜し)故に人天教と名づく。(然して業に三種有りて、一に悪、二に善、三に不動と。報に三時有りて、謂うに現報、生報、後報と)此の教えの中(うち)に拠れば、業が身の本と為る。
(訳文)一つ目の人天教では、初心者の為に、前世・現世・来世の三世に亘る、自身の行為に対する報いや、因果の理法による善悪の報いについて説いている。そこには、「最も悪い場合は十悪を行って死んで地獄に堕ち、普通に悪い場合は死んで餓鬼道に堕ち、そしてほどほどに悪い場合は死んで畜生道に堕ちる」とある。そこで仏は、儒教で云う五常の教えに倣って(インドの仕来りは中国のものとは異なっているが、勧善懲悪と云う目的は同じである。だから仁・義などの五常を守り、徳行を修めねばならない。例えば、中国では両手を袖に包んで挙げて挨拶するが、チベットでは両手を離して垂れて挨拶する。どちらも礼のやり方と云うことでは変わりはない)、五戒の掟を定めたので(不殺生とは仁のことであり、不偸盗とは義のことであり、不邪淫とは礼のことであり、不妄語とは信のことであり、酒を飲まず肉を食らうことが無ければ精神は清められ智慧も付く)、死んで三途の世界に堕ちることなく、人間界で生き続けることが出来る。最善の場合、十善及び布施持戒などを修めれば、天上界のうちの六欲天に生まれ変わることが出来、また四禅八定を修めれば、未だ凡夫の世界ではあるが、色界や無色界に生を受けることが出来る。(本論の中で天道・餓鬼道・地獄道に触れていないのは、別の次元の世界のことでもあり、またその知識も不十分なので、本筋の妨げになると考えたからである。従って儒仏二教に対する関連で、ここに原人と称する次第。いま仏教に就いて触れるに当たり、その道理は詳しく順序立ててみるのが良い)そこで人間界と天上界との衆生の教えという意味で、人天教と称するのである。(報いをもたらす行いの業には悪業・善業・不(ふ)動(どう)業(ごう)の三種類があり、受ける報いには時間差によって現報=順現法受業・生報=順次生受業・後報=順後次受業の三種類がある)この人天教の教えでは、業こそが人間としての生き方の本となると説いている。
(注釈)人天教とは五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を持せば人間界に生まれ、十善(五戒の前四つと、不両舌・不悪口・不綺(き)語(ご)・不貪欲・不瞋(しん)恚(い)・不邪見)を行えば天上界に生まれるという教え。始めに仏教の世界観について触れておこう。大小の差はあるが、迷いがあり輪廻の対象となるのが、いわゆる六道(天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)で、これとは別に次元の異なる輪廻から解放された涅槃(浄土・極楽)という、悟りを開いた仏陀の行く世界がある。以上の外に輪廻の世界の分け方に、三界がある。すなわち、無色界(欲望も物質的条件も超越した精神世界)・色界(欲望から解放されてはいるが、色=情欲と色欲が残っている世界)・上部欲界(欲にとらわれた世界=六欲天)の三天界に、下部欲界(人間界以下の五つの世界)が続く。因果の理法とは、原因だけでは結果は生ぜず、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方が揃って始めて結果がもたらされると云う考え方のこと。五常は仁・義・礼・智・信のこと。三途の世界とは、死者が行くべき以下の場所。すなわち、火途(地獄道では猛火に焼かれる)・血途( 餓鬼道では互いに食い合う)・刀途(畜生道では刃物に脅される)の三つ。布施とは大乗仏教で云う六波羅密(真理を窮め尽くし、仏道修行を完成させた境地)の修行の一つで、他人えの法施(説法)・身施(労働奉仕)・財施(金銭奉仕)が含まれる。持戒とは同じく六波羅密の修行の一つで、仏の戒めをよく守り、身を慎むこと。四禅とは禅定(精神統一による安定した状態)の四つの段階のことであり、八定とはその禅定の段階が色界・無色界にそれぞれ四つづつで計八つあることから、合わせて四禅八定という。業とは色々な結果をもたらす行為のことで、その機能による区分けの三業(身・口・意)と、性質による区分けの三業(善・悪・無記=善でも悪でもないもの)がある。不動業とは人の意思に左右されない業ということからすると、無記の業を意味するのだろう。業によって起こる果報の種類による分類が三報(現報・生報・後報)、果報の現れる時期による分類が三時報(順現法受業・順次生受業・順後次受業)。
〇今之を詰(なじ)りて曰わく、「既に造業に由って五道の身を受けるとは、誰(だ)人(れ)が業を造り、誰人が報を受けるや審(つまみ)らかならず。若し此れ眼耳手足が能く業を造らば、死せし初(ばか)りの人が眼耳手足宛(えん)然(ぜん)たるに、何ぞ見聞造作せざらん?若し心作と言はば、何者をか是れ心とせん?若し肉心と言はば、肉心は質(ぜつ)有りて身内に繋がる。如何ぞ速やかに眼耳に入って外の是非を弁ぜん?是非知らざれば、何に因って取捨せん?且つ心と眼耳手足とは、俱に質閡(げ)と為す。豈に内外相い通じ、運動応接し、同じく業縁を造ることを得んや!若し但だ是れ喜怒愛悪が身口に発動し、業を造ら令むものと言えば、喜怒等の情は乍ち起こり乍ち滅し、自ら其の體無し。何にを将(もつ)て主と為して業を作るや!設(たと)え此くの如く別々に推尋に応ぜず、都(すべ)て是れ我が身心が能く業を造るものと言えば、此の身は已に死すに、誰が苦楽の報を受けん?若し死後更に身有りと言えども、豈に今日の身心が罪を造り福を修め、他の後世の身心に苦を受け楽を受け令めること有らん!此れに拠れば則ち福を修めし者は甚だ屈し、罪を造りし者は甚だ幸いす。如何ぞ神理は此の如く無道なり。故に但だ此の教えを習う者は、業縁を信ずると雖も身の本に達せざることを知る」と。
(訳文)さて人天教の教えを批評してみよう。業報の結果として五道に生まれ変わるのだと説くが、誰が業を造り、誰がその果報を受けるのか定かでない。もし眼耳手足が業を造るとするならば、死んだばかりの人にも眼耳手足がそのまま残っているのに、どうして見たり聞いたり手足を動かしたりして業を造り出すことが出来ないのだろうか?もし心が業を作り出すものだとしたら、心とは何ものなのか?もし肉体の一部だとする心が、業の造り手だとするならば、それは物質であり、身体の中に存在することになる。それがどうして同じ身体の一部である眼耳を使って外界の是非を判別できるのか?判別出来なければどういう風にして物事の取捨選択をしているのか?またこの心と眼耳手足は障害し合うものなのに、どのように協同したり連動したりして同じ業縁を作り出すのだろうか?もし喜怒愛悪の感情が身体を動かし言葉を喋らせて業を造るのだとするならば、発露した喜怒などの感情は起きたかと思うとすぐに消え去るものだから、実体が無いことになる。それでは何が一体造業の主体なのだろうか?そこでこれまでのように別々に造業の主体を求めるのではなく、自分自身の身体と心が一体となって造業に関わるとするならばどうだろうか。だがこの場合、死と共に一体となった身体と心が消滅してしまったら、誰も苦楽の果報を受け取る事が出来ない。もし死んだ後に身体が残っていたとしても、今日の体や心の罪業や福業の結果が、他日後世の苦報や楽報として現れることなどあり得ない話である。こう考えると、福業を修めても修め損となるし、罪報を造れば造り得となる。神の道理とは誠に無道なものである。だからこの人天教を学ぶ者が業縁を信じたとしても、人の本源を明らかにすることは出来ない。
(注釈)五道とは六道から修羅道を除いたもので、初期仏教では修羅道は天上道に含まれていた。大乗仏教になってから修羅道が独立して六道となった。宗密は何故六道とは云わずに五道としたのだろうか?肉心は余り見かけない言葉だ。古代中国では、心は心臓、腹部、胸部に宿っていると考えられていたから、その宿主を指しているのだろう。ここで少し心の捉え方について触れておこう。心の語源は”凝る”などが充てられており、動物の内臓をさしていたが、人間の体の目に見えないものを意味するようになった。古代中国では、心は心臓・腹部・胸部に宿っている精神的な作用の本になるものと考えていた。儒教では、人間は魂と魄と肉体で成り立つと考えた。そして魂は精神を司り、魄は肉体を支配する。人間の生死は「気=精神を掌る魂+肉体を支配する魄」の集散で説明され、死ぬと魂は天に昇って「神」となり、魄は地に帰って「鬼」となるとした。死者の霊魂が「人鬼」である。一度散じた気すなわち魂魄は集まらないとして輪廻は否定されるが、祭祀の時だけ子孫の真心を慮って再生されるとする「招魂再生」が特徴である。道教でも、魂=精神を支える気と、魄=肉体を支える気という異なる存在があるとし、合わせて魂魄と云った。易と結びついて魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。「不老長生」が特徴なので、魂・魄も伝統中国医学の中に生かされて今日に至っている。仏教では、肉体と精神は一体のもので、両面を持っているので分けることが出来ないと考える。仏陀が無我(永遠不滅の実在は無い)と云っているように、魂や霊の存在は認めていない(と云うよりも語る意味が無いとする)。大乗仏教の時代になると、唯だあらゆる存在が八識によって成り立つとし、五種類の感覚意識(視覚=眼識・聴覚=耳識・嗅覚=鼻識・味覚=舌識・触覚=身識)と意識と二種類の無意識(末那識・阿頼耶識)が導入される。「輪廻転生(人は死ねば身体は消えてなくなるが、その念は他に移って繰り返し生まれ変わる)」が特徴となっている。
つづく
宗密の[華厳原人論]―Ⅱ
◎原人論 終南山草堂寺沙門宗密述(かた)る
①迷執を斥ける第一(儒道を習う者)
(訳文)迷妄執着を排斥する第一章(儒・道二教を習う者)
〇儒道二教が説くに、「人畜等の類は、皆是れ虚無なる大道(たいどう)より生成養育す」と。謂わく、「道は自然に法りて元気を生じ、元気は天地を生じ、天地は万物を生ず。故に愚智・貴賤・貧富・苦楽は、皆天に稟け、時命に由る。故に死後は卻(ま)た天地に帰り、其の虚無に復(かえ)る」と。
(訳文)儒・道二教は、「天地間にある生き物はすべて、空っぽだが無限の可能性を秘めた大道から生まれ、育っていく」と説いている。また、「この道は巧まずに元気を生み出し、その元気から天地が生まれ、その天地が万物を生み出す。だから、人として生きていく上で現れてくる愚智・貴賤・貧富・苦楽などの現実問題はすべて天から与えられ、それもその時々の天の意思によって変わってくる。そこで、人は死ぬと先ず元の天地に戻って行き、最後には空っぽな大道の下に落ち着く」と云っている。
(注釈)まず道教の虚無大道説が紹介される。即ち、道を宇宙の根源とし、万物の生成・復帰を説く宇宙生成論を唱える老子の教えである。元気とは万物生成の根本となる精気のことで、儒家の唱える宇宙の根源である「太極」を意味する。宇宙生成論は道家が遙かに先行しており、儒家では漢代にやっと「元気(太極)→陰陽(両儀)→四時(四象)→万物(八卦)」という<易経>から発展したモデルが提出される。
〇然るに外教の宗旨は、但だ身に依(たよ)って立行に在(あ)て、身の元由を究竟(きゆうきよう)するに在らず。説く所の万物は象外を論ぜず。大道を指して本と為すと雖も、而して備(つぶ)さに順逆・起滅・洗浄の因縁を明かさず。故に習う者は是れが權なるを知らずに、之れに執(こだわ)り了と為す。今略して挙(なら)べたてて詰(なじ)らん。
(訳文)そしてこれら二教の主旨は、ただ身を修めよと云うだけで、人の由来を究明するものではない。万物とは云うものの、 現実の世界を超越した本質の問題には触れていない。空っぽだが無限の可能性を秘めた大道が根源だとは云うが、順・起・染などの迷いの世界や、逆・滅・浄などの悟りの世界の因縁については何も明らかにしていない。だから儒道二教を学んでいる者は、それが方便の教えであることを知らずに、執着して良しとしている。そこでこれから、要点をまとめてこの二教を問い糾してみる。
(注釈)儒道二教は因縁を無視した權教だと指摘する。順逆・起滅・洗浄は、縁起論に関係する言葉。
〇言う所の、「万物は皆虚無なる大道に従って生ず」では、大道は即ち是れ生死・賢愚の本となり、吉凶・禍福の基となる。基本となれば既(ことごと)く其れ常に存す。則ち禍乱・凶愚除くべからず。福慶・賢善益(ま)すべからず。何ぞ老荘の教えを用いん!又た道が虎狼を育み、桀紂を胎み、顔冉を夭(わかじに)させ、夷斉に禍いせしとは、何ぞ尊しと名づけんや!
(訳文)二教の云っている、「万物は全て空っぽだが無限の可能性を秘めた大道から生まれる」が真とならば、大道が生死・賢愚・吉凶・禍福などの現象の本となり、本であるならば常に存在していることになる。それならば、禍乱・凶愚などの現象を人の力で起こさないようにすることは出来ないし、福慶・賢善などの現象を人の力で増やすことも出来ない筈である。人の力が及ばないものならば、なんで老荘の教えを用いる必要があろうか!またこの大道が虎狼を生み育てたことになるし、桀王・紂王を生み出したことにもなるし、顔回・冉耕を早くに喪くした事にもなるし、伯夷・叔斉兄弟を餓死させたことにもなる。これではどうして老荘の教えが尊いものだと云えるだろうか!
(注釈)虚無大道説の批判。桀王は夏王朝の最後の君主、紂王は殷王朝の最後の君主暴君で共に暴君として有名。顔回と冉耕は共に孔子の弟子で、孔門十哲に属す。伯夷・叔斉兄弟は殷の書肆で清廉潔白な人物として有名。
〇又た言うに、「万物は皆是れ自然に生化して因縁に非ず」とせば、則ち一切は因縁無き處に悉く生化し、謂うに、石は應(まさ)に草を生ずべく、草は或(こと)によると人を生じ、人は畜生等を生ずべし。又た應に生ずべきに前後無く、起こるに早晩無く、神仙も丹薬を藉(か)りず、太平も賢良を藉りず、仁義も教習を藉りずとせば、なんぞ老荘周孔が立教し軌則と為せしものを用いんや!」と。
(訳文)また、「万物は全て自然に生ずるもので、因縁とは関係ない」と云うのであれば、全ての現象は因縁とは関係なく生ずることになり、そうなると石から草が生えてきたり、事によると草が人を生み出したり、人が畜生などを生ずることになる。またその生ずる時に後と先きや早い遅いなどと云うこともなく、神通力を得た仙人も丹薬を作る必要もなく、天下太平の為に賢人良士の力を借りる必要もなく、仁義について勉強する必要もなくなる。それであればどうして老子・荘子・周公・孔子らが打ち立てた教えを用いる必要があるだろうか!」と。
(注釈)自然生化説の批判。仏教に云う因縁とは、因は内的原因を、縁は外的条件を指す。一切のものは因縁によって生滅する、と云うのが仏の教えである。
〇又た言うに、「皆元気に従って生成す」とせば、則ち歘(すぐ)に生れし神(こころ)は未だ曾て習慮せず。豈に嬰孩(えいがい)は則ち能く愛悪驕恣するを得んや?若し歘に自然にして便ち能く念に随って愛悪等を有すと言えば、則ち五徳六(りく)芸(げい)も悉く能く念に随って解すべし。何ぞ因縁を待って学習して成らんや!
(訳文)さらに、「すべての物が元気から生まれてくる」と云うのであれば、生まれたばかりの嬰児の心の中は空っぽと云うことになる。だとすればどうして嬰児が泣いたり笑ったりぐずったりと感情を表に顕すことが出来るのだろうか?もし自然に感情が生まれてきて、思いにままに愛憎の気持ちを顕すと云うのであれば、学習によって得べしとする五徳・六芸も自然に身に付いて思いのままに理解出来ると云うことになる。これでは因縁の教えを無視すること甚だしく、学習してこそ修得出来るというのは嘘になるではないか!
(注釈)元気説の批判。五徳は、五常すなわち仁・義・礼・智・信の徳。六芸は、礼・楽・射・御・書・数の諸学問。
〇又た若し、「生が是れ気を稟けて歘に有となり、死が是れ気が散じて歘に無となる」ならば、則ち誰が鬼神と為るや?且つ世に前生を鑒達(かんたつ)し往事を追憶すること有り。則ち生前に相続せし事を知り、気を稟けて歘に有るに非ず。又た「鬼神は霊知と断たず」と験(しる)す。則ち死後気散じて歘に無に非ざるを知る。故に祭祀・求祷のこと典籍に文有り。況んや死して蘇りし者が幽途の事を説き、或いは死後に妻子を感動させ怨恩に讎報すること、古今に皆有るをや。外に難じて曰わく、「若し人が死して鬼と為れば、則ち古来の鬼は巷路に填塞し、合(まさ)に見る者有るべし。如何ぞ爾らざらんや?」と。答えて曰わく、「人は死して六道に、必ずしも皆鬼と為らず、鬼は死して復た人等に為れば、豈に古来の積鬼が常に存ぜんや?」と。且つ「天地の気は本は無知なり」と。人は無知の気を稟ければ、安んぞ歘に起きて知有ることを得んや?草木は亦た皆気を稟く。何ぞ知ならざるや?」と。
(訳文)またもし、「人の生は気が集まって始まり、死は気が散って終わる」と云うのならば、鬼神とは一体何を意味するのか?時には世間で過去のことを見てきたかのように覚えていたり、思い浮かべたりする人が居る。それは生前から受け継いだ記憶であり、気が集まってすぐに現れたものではない。また、「鬼神には霊知が存在する」とも云う。すなわち死後気が散れば何も無くなってしまうと云うものではない。だから鬼神を祀ったり、祈祷したりしたことが、書物の中に記されている。ましてや、死んだ者が生き返ってあの世のことを語ったとか、あるいは死者が現れて妻子を喜ばせたとか、恨みを晴らしたとか、恩返しをしたとか云う話が今も昔もあるではないか。二教以外の人々が非難して云うには、「もし人が死んで鬼になるというなら、昔からの鬼達で巷は溢れ、人々の目に触れるはずだが、どうして見えないのだ」と。これに仏教徒は答えて、「人は死ぬと六道の世界に輪廻して、必ずしもすべての人が鬼になる訳ではない。しかも鬼が再びまた人間に戻ることもあり、巷に鬼が溢れてしまうと云うことはないのだ」と。しかも二教を信ずる者は、「天地の気には、もともと何も備わっていない」と云う。人が空っぽな気から生まれ出たとするならば、どうして生まれてすぐに知恵を働かせることが出来るのだろうか?草や木もまた気から生じる。だとすれば草や木にも知恵が備わっている筈だが、それが認められないのはどう云う訳だろう?
(注釈)鬼神の批判。鬼神には天神・地祇・人鬼(死者の霊魂)が含まれる。ここに云う鬼神とは人鬼のこと。六道とは人それぞれの業によって輪廻する先が六っつに分かれていることを云う。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天道の六っつ。
〇又た言うに、「貧富・貴賤・賢愚・善悪・吉凶・禍福は皆、天命に由る」と。則ち天の命を賦するは奚(な)んぞ貧多く富少なく、賤多く貴少なく、乃至(あるい)は禍多く福少なきや?苟も多少の分が天にあらば、天は何ぞ平らかならざるや?況んや行無くして貴、行守って賤、徳無くして富、徳有りて貧、逆にして吉、義にして凶、仁にして夭、暴にして寿、乃至は道有る者が喪び、道無き者が興るや?既(ことごと)く皆天に由らば、天は乃ち道ならざるを興して、道を喪ぼさんや?何ぞ善に福(さいわ)いし謙に益するの賞、淫に禍し盈(みつる)を害するの罰有らんや。又た既く禍乱・反逆皆天命に由らば、則ち聖人が教えを設けて人を責めて天を責めず、物を罪(とが)めて命を罪めざらん!然して則ち<詩>には乱政を刺(いまし)め、<書>には王道を讃え、<礼>には上を安んじると称し、<楽>には風(ならわし)を移すと號す。豈に是れ上天の意を奉じ、造化の心に順ぜんや?是れにて此の教えを専らにする者は、未だ人を原ねること能わざることを知る。
(訳文)また、「貧富も貴賤も賢愚も善悪も吉凶も禍福もみんな、天が命じたものだ」と云っている。このように天命が全てだと云うならば、どうして世の中はこうも貧しい人や地位の低い人や災いが多く、豊かな人や地位の高い人や幸せな人が少ないのだろうか?全ての現象が天命に由るのであれば、天というものはなんと不平等なのだろう!さらに功績も無いのに高い地位に居たり、正しい行いをしているのに地位が低かったり、徳も無いのに裕福だったり、徳が有っても貧しかったり、理に背いているにも拘わらず恵まれていたり、身持ちが正しいのに恵まれなかったり、慈悲深いのに早死にしたり、暴れん坊なのに長生きしたりと、道に叶った生き方をしている者が恵まれず、道を踏み誤った者が恵まれるとは、一体どう言うことか?この様に何事も天の意思によるとするのであれば、天は道に外れた行いを奨励して、人の道を滅亡させようとしているのだろうか?どうして善人には幸せを与え、慎み深い人には利益をもたらすように褒め称え、道に外れた者には災いを下し、驕り高ぶった我が儘者には罰を加えないのだろうか?また全ての災いや世の乱れや反逆者の出現が天命に由るのであれば、聖人が教えを設けて人々を責め立てて天にはその責任を問わず、万物の責任は咎めるが、それを命じた天の責任は問わないと云うのでは道理に合わないと云うものだ!そして<詩経>の中では乱れた政治を厳しく戒めたり、<書経>の中では王道のすばらしさを讃えたり、<礼記>の中では君主を安んじることが大事と説いたり、<楽記>の中では良い風俗に変えることを勧めている。これは天の意思をよく守り、造物主の心に添えと云うことか?これでは、二教の徒も人間の根源を窮めることは出来まい。
(注釈)天命説の批判。ここで引用されている数々の言葉の出処を羅列しておこう。<書経、商書、湯誥篇>の「天道福善禍淫」、<易経、彖傳、謙>の「天道虧盈而益謙」、<孝経、第十二広要道章>の「安上治民、莫善於礼」、<孝経、第十二広要道章>の「移風易俗、莫善於楽」、など。
つづく
宗密の[華厳原人論]―Ⅰ
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韓愈の[原の五書]の[原人]の書の中で、華厳宗第五祖の圭峰宗密を紹介したが、ここで彼の[華厳原人論]について触れてみたい。その内容は、始めに儒・道二教を批判し、次いで仏教内部の諸教の欠点を述べた上で、華厳の一乗顕性教こそが真実の教えだと説く。更に、欠点のある儒・道や仏教の諸教にも存在意義はあるので、真実の教えの下に三教を融合すべしと主張している。彼は、七才から十年間儒学を学び、その後の三年間在家のまま仏教を学び、更に二年間儒学を学び直し、その後出家して高僧の地位を獲得している。儒仏二教のそれぞれの欠点長所を知り尽くした上での原人論だから、見るべきものがあるだろう。宗密は韓愈に少し遅れてこの世に登場した人物だから、韓愈の「原人」の書は認識していた事と思うが、この「原人論」には一言も触れられていないのが不思議である。さて、韓愈の「原人」の書は196文字の短文で、三才思想と天地人の役目について簡単に触れられているに過ぎないが、この[華厳原人論]は約六千字からなり、そのうち約60%が仏教各派の教えの批評に費やされているとは云え、多くの文字を使って自身の本源を明らかにすべく努力している。その良し悪しは別としても、一読する必要があると考え、独善に陥ることを覚悟の上で、全訳を試みることにする。
◎原人論序 終南山草堂寺沙門宗密述(かた)る
〇萬霊の蠢蠢(しゆんしゆん)たるは、皆其の本有り。萬物の芸(うん)芸(うん)たるは、各其の根に帰す。未だ根本無くして、枝末有る者は有らざるなり。況んや三才中の最霊にして、本源無からんや。且つ人を知るものは智、自(みずか)ら知るものは明。今我れ人身を稟(う)け得るも、自ら従来せし所を知らず。曷(いず)くんぞ能く他世の趣く所を知らんや。曷くんぞ能く天下古今の人事を知らんや。故に数十年の中(あい)だ学には常師なく、博く内外を攷(かんが)え以て自身を原(たず)ね、之れを原ねて已まず。果たして其の本を得たり。
(訳文)この世に蠢(うごめ)くありとあらゆる生き物の霊には、皆その本となるものがある。またこの世に繁茂する草木は、それぞれその生まれ出た根元に帰って行く。その生まれ出ずる根元が無いのに、枝葉だけが有るものはこの世には無い。まして万物の霊長たる人間に、生まれ出た本源が無い筈はない。
他人を理解するのは知恵の働きによるが、自身の分を弁えるにはさらに優れた明智が必要である。私は今ここに人間として生まれてはきたが、一体どこから来たのか理解出来ていない。ましてや行く末については何にも解らないし、天下のことや古今の出来事など知るよしもなかった。そういう訳でここ数十年の間、多くの師について広く知識を深めた結果、やっとその本源を見極めることが出来たのである。
(注釈)萬霊なる言葉は、「この世のあらゆる生命あるものの霊」を指す仏教の言葉。「萬物芸芸、各帰其根」は、<老子、道徳経>にある「夫物芸芸、各復帰其根」にもとずく。「知人者智、自知者明」も、<老子、道徳経>に出てくる言葉である。他世は現世に対する言葉で、「過去又は未来の世」を指す仏語。
〇然して今儒道を習う者は、祇(まさ)に、「近きは則ち乃(だい)祖(そ)乃(だい)父(ふ)に、傳體相続してこの身を受け得たり。遠きは則ち渾沌の一気が、剖(わか)れて陰陽の二と為り、二は天地人の三を生じ、三は萬物を生ず。萬物と人とは皆気が本為り」と。仏法を習う者は、但だ云うに、「近きは則ち前生業を造り、業(ごう)に随って報を受け、此の人身を得る。遠きは則ち業又は惑に従い展転し、乃至は阿頼耶識が身の根本と為る」と。皆已に窮むと謂えり。而して実は未だし。
(訳文)ところで今儒教や道教を学んでいる者は、ただ、「ありふれた云い方をすれば、我々の身体は父親から受けそして祖先から受け継いできたものである。難しく云えば、宇宙に満ちた渾沌の気が二つに分かれて陰陽の気と為り、この二つから天地人の三才が生まれ、その三つから萬物が生まれる。だから萬物も人も、その本源は気である」と教えられている。また仏法を学んでいる者は、ただ「ありふれた云い方をすれば、前世の業によってその生まれ方が異なり、その業が善かったので我々は人として生まれてきた。難しく云えば、その業や煩悩の影響を受けて転生するとか、或いは阿頼耶識こそが人身の本源である」と教えられている。いずれもこれで本源を窮めたと思い込んでいるが、実際の處そんな甘い物では無い。
(注釈)儒・道が説く處は、いわゆる萬物陰陽二気論であり、仏法の説く處は、受け売りに為るが、近きとは人天教(人間界と天上界についての教え)の教えを、遠きとは小乗教(自己の解脱だけを求める教え)や法相(ほつそう)宗(一切の存在は仮の姿で、阿頼耶識以外何も存在しないという教え)の教えを指している。阿頼耶識とは、大乗仏教で用いられる仏語で、人の深層にあるとされる無意識のこと。
〇然れども孔・老・釈迦は皆是れ至聖なり。時に従い物に応じ、教えを設けて塗(みち)を殊(たが)えるも、内外(ないげ)相い資(たす)けて、共に群庶(ぐんしよ)を利す。万行(まんぎよう)を策(さく)勤(ごん)して因果始終を明らかにし、萬法を推究して生起本末を彰(あき)らかにす。皆聖意と雖も実有り權有り。二教は唯だ權にして、仏は權実を兼ねる。万行を策し、悪を懲らしめ善を勧め、同じく治に帰せしめるは、則ち三教皆遵行(じゆんぎよう)す可し。萬法を推しすすめ、理を窮め性を尽くし、本源に至るは、則ち仏教方(まさ)に決(けつ)了(りよう)と為す。
(訳文)そうは云うものの、孔子・老子・釈迦らは皆高徳の人々である。時と場合によってその説き方を違えてはいるが、心理面と行動面からの教えが相まって、人々を善導してきた。あらゆる修行を奨励して因果応報の道理を説き明かし、世の中のあらゆる法則を推究して万物の生起および本末を明らかにしてきた。これらは皆聖人の思いが発現したものだが、そこには方便と真実の違いがある。儒・道の二教は方便に過ぎないが、仏教は方便と真実を兼ね備えている。あらゆる修行を奨励して、悪行は懲らしめ善行は奨励し、同じように平和な社会を実現させようとしている處は、三教ともに尊重すべき点である。世の中のあらゆる法則を推し進め、道理を究め本性を発揮し尽くして人生の根源を明らかにしたのは、まさに仏教なのである。
(注釈)ここでも内外、万行、因果、權実、決了など仏教語が多用されている。<荀子、性悪篇>にある「礼義之道、然後出於辞譲、合於文理、而帰於治」とか、<易経、説卦傳>にある「和順於道而理於義,窮理盡性以至於命」とかの中の言葉が用いられているのは格義の現れか。。儒道二教が權教だと説くのは宗密の立場として当然のことだろうが、仏教の中にも權教と実教があると説いているのは斬新な處。
〇然るに当今の学士は、各の一宗を執る。仏を師とする者に就いても、仍お実義に迷う。故に天地人物に於いて、之を原(たず)ねて源に至ること能わず。余は今、還(ま)た内外の教理に依って萬法を推し窮む。初めに浅によって深に至る。權教を習う者に於いては、滞(とどこお)りを斥(さ)けて通うぜ令(し)めて其の本を極めしむ。後に了教に依って展(てん)転(てん)生起(しようき)の義を顕示し、偏を會(さと)らせ圓ならしめて末に至る。(末とは即ち天地人物なり)文は四篇有り。原人と名づく。原人論序終。
(訳文)さて近頃の学者は、それぞれ一教一宗に固執している。仏教を信奉する者も、真の道理を把握しかねている。その為に、この世や人や物について、その根源を把握出来ずにいる。私は今や内外の教理を学び、世の中のあらゆる法則を究め尽くした。そこで初めに皮相的教理から入って、本源に迫る教理を説くことにする。先ず、方便の教えを学ぶ者には、その進歩を助けて本源に到達せしめる。そうして最後には、大乗の教えによって転生の意義を明らかにし、未熟な教えの片寄りを覚らせて間違いの無いようにした上で、この世や人や物の根源を窮めさせる。本文は四篇に分かれている。これを原人と名付けることにする。原人論序終わり。
(注釈)了教とは了義教(真理をすべて明らかに説き示した教え)のことで、宗密が究極の教えとする一乗顕性教を指す。自分は萬法を窮めたとは、すごい自信の持ち主である。
つづく