論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

中論-Ⅰ

2016-12-01 08:53:27 | 仁の思想

中論-Ⅰ
 後漢末期の文人である徐幹が著した懦・道に基ずく大義 を説いた作品である。その内容は原序に、「見辞人美麗之文、並時市作、曽無関弘大義、敷散道教、上求聖人之中、下救流俗之昏者、故廃詩賦頒銘賛之文、著中論之書二十篇」とある。その代表的表現が、「大道の中」である。単に伝統的な儒家思想を述べたもので独創性に欠けるとの批判もあるが、以下にその全貌を紹介しよう。
[参考]
 ・徐幹:曹操に仕えた政治家でもあり、その文章は美麗典雅で詩賦にも長じ、曹操の子で後に初代魏帝となった曹丕に、「著中論二十余篇、成一家之言。辞義典雅、足伝于後。此子為不朽矣。」と称えられるほどの人物であった。建安七子の一人に数えられる。
 ・建安七子:後漢の献帝劉協の建安年間に活躍した七人の文人。(孔融・王粲・劉楨・陳琳・阮瑀・徐幹・応瑒)
漢無名氏徐幹《中論》序(漢の無名氏による徐幹《中論》の序)
.予以荀卿子孟軻懷亞聖之才,著一家之法,繼明聖人之業,皆以姓名自書,猶至於今,厥字不傳。原思其故,皆由戰國之世,樂賢者寡,同時之人,不早記録。豈况徐子《中論》之書,不以姓名爲目乎?恐歴久遠,名或不傳,故不量其才,喟然感嘆。先目其德,以發其姓名,述其雅好不刋之行,屬之篇首,以爲之序。其辭曰:世有雅逹君子者,姓徐名幹,字偉長,北海劇人也。其先業以清亮臧否爲家,世濟其美,不隕其徳,至君之身十世矣。
[訳1]
 ・予(われ)以(おも)うに荀卿子・孟軻は亞聖の才を懷(いだ)き、一家の法を著し、聖人の業を繼明し、皆姓名を以て自書し、猶お今に至るも、厥(そ)の字(あざな)は伝わらず。其の故を原(たず)ね思うに、皆戰國の世に由り、賢を楽しむ者は寡なく、同時の人は、早(すみやか)に記録せず。豈に況んや徐子《中論》の書は、姓名を以て目(かなめ)とは為さざるをや?恐らく久遠を歴(へ)て、名或いは伝わらず、故に其の才を量(おしはかれ)ず、喟然(きぜん)として感嘆す。先ず其の徳を目し、以て其の姓名を発し、其の雅好なる不刊の行を述べ、之れ篇首に属(つな)ぎ、以て之れを序と為す。其の辞に曰く、「世に雅逹する君子有り、姓は徐名は幹、字は偉長、北海の劇の人なり。其の先業は清亮臧否を以て家を為し、世に其の美を濟(な)し、其の徳を隕(うしな)わず、君の身十世に至る」と。
 ・私が思うには、荀子や孟子らは聖人に次ぐ才能を持っていて、独自の優れた見解を主張し、聖人の功績を継承して明らかにし、皆自身の姓名を題名にした書を著し、そうして今日に至っているが、彼らの字(あざな)までは伝わっていない。素直にその訳を考えてみると、皆戦国の時代に生を受けており、当時は賢者の思想に親しむ人々も少なく、従って当時の人々にしてみれば、姓名を付けた題名などどうでも良かったに違いない。ましてや徐幹の<中論>なる書物など、その姓名が話題に上る筈もなかったのだろう?恐らく時代を経ても彼の名は伝わらず、従ってその才能は認められず、誠に残念なことである。先ずその徳義に注目するとして、その姓名を紹介し、その洗練された好感の持てる不朽の文章の冒頭に序文を掲げることにする。すなわち、「この世に清雅にして達人なる君子が居り、その姓は徐名は幹、字は偉長と云う青州北海郡劇県の人である。旧家の生まれで清く明るく善悪に厳しい家庭に育ち、世の中の華美な風潮にも流されず、徳義を守り通し、その家系は十代にも及んでいる」と云うのが始めの言葉である。
[参考]
 ・姓名と字:中国人は個人に特有の名として、姓(氏)と諱(名)と字(あざな)の三つの要素を持っている。字は成人男子が実名以外につけた名で、成人した人間の呼び名としては原則として字が用いられ、諱を呼ばないために使う。諱は軽々しく用いられることは忌避され、親や主君などの特定の目上の人物だけが諱を使用し、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼なこととされていた。逆に、そういった諱で呼びかけることができる立場にある者がわざわざ字で呼びかけることは、立場とは別に一定以上の敬意を示すことになる。目上の人に名乗る時は姓名で、それ以外では姓字で呼ぶことになる。云ってみれば、個人が特定される諱(名)は親しい間柄で用いられ、字は不特定多数の人々の間で用いられるもの。実生活で使  われるものが字と云うことになる。
 ・戦国時代の漢籍の題名:老子(姓=李・諱=耳・字=耼)、墨子(姓=墨・諱=翟  ・字=?)、荘子(姓=荘・諱=周・字=子休)、孟子(姓=孟・諱=軻・字=子輿)  荀子(姓=荀・諱=況・字=?)、韓非子(姓=韓・諱=非・字=?)、呉子(姓=  呉・諱=起・字=?)、列子(姓=列・諱=禦寇・字=?)
2.君含元休清明之氣,持造化英哲之性,放口而言則樂誦九德之文,通耳而識則敎不再告,未志乎學,蓋已誦文數十萬言矣。年十四,始讀五經,發憤忘食,下帷專思,以夜繼日,父恐其得疾,常禁止之。故能未至弱冠,學五經悉載於口,博覽傳記,言則成章,操翰成文矣。此時靈帝之末年也,國典隳廢,冠族子弟結黨權門,交援求名,兢相尚爵號。君病俗迷昏,遂閉戶自守,不與之群,以六籍娱心而已。君子之逹也,學無常師。有一業勝己者,便從學焉,必盡其所知而後釋之。有一言之美,不令過耳,必心識之。志在緫衆言之長,統道德之微,恥一物之不知,愧一藝之不克,故日夜亹亹,昃不暇食,夕不解衣,晝則研精經緯,夜則歴觀列宿。
[訳2]
 ・君は元休清明の氣を含み、造化英哲の性を持ち、口を放ちて言うに則ち九德の文を樂誦し、耳にて識を通(さとる)に則ち再び告げざら教(し)め、学ぶに未だ志(はた)さず、蓋し已に數十萬言を誦文す。年十四にして、始めに五経を読み、発憤して食を忘れ、帷(い)を下して專思し、夜以(より)日に継ぐ、父は其の疾を得ることを恐れ、常に之を禁止す。故に能く未だ弱冠に至らざるも、學は五経悉く口に載(の)せ、博覽にして記を傳(の)べ、言は則ち章(あや)を成し、翰(ふで)を操って文を成す。此の時は靈帝の末年なり、国の典(のり)は隳廢(きはい)し、冠族の子弟は党を結び門を権(はか)り、援(たすけ)を交えて名を求め、競って相(たが)いに爵号を尚(のぞ)む。君は俗(ならわし)を病(うれ)えて迷い昏(みだ)れ、遂に戸を閉じて自ら守り、之の群れに與(あずか)らず、六籍を以て心を娯(たの)しむのみ。君子の達するや、學に常師無し。一業己に勝るもの有れば、便(すなわ)ち従って焉(これ)に学び、必ず其の知る所を尽くし而(しか)る後に之れを釈す。一言の美有らば、耳を過ごさ令めず、必ず心に之れを識す。志は衆言の長を総べ、道徳の微を統べるに在り、一物の不知を恥じ、一芸の克(よ)くせざるを愧(は)じ、故に日夜亹亹(びび)として、昃(ひかたむく)も食する暇あらず、夕べにも衣を解かず、昼には則ち経緯を研精し、夜には則ち列宿を歴觀す。
 ・君は大らかで麗しく清く明るい気性を心に秘め、天与の人並み優れた性格を備え、口にすれば九徳の言葉を嬉々として唱え、耳にすれば再び教えを受けることなく、学ぶに終わることなく、已に數十萬言の文章を正確に誦読出来る才能を持つ。十四才で五経を諳んじ、寝食を忘れるほど発憤し、家に籠もって思考に暮れ、夜を日に継いで學に励み、それを見て御尊父は病気になるのではないかと心配し、絶えず注意したという。そういう訳で成人前には既に、学問は五経を全て暗唱出来るほどの博覧強記ぶりで、言辞は雅やかで文才に長けていた。当時は霊帝の末で国の抑えも効かなくなり、高官の家族の子弟らは徒党を組んで勢力を誇示し、協力して名声を求め爵号を望むと云う有様である。君は風俗の退廃を憂いて心を乱し、遂には門戸を閉じてその影響から逃れ、同調することなく六経に親しむ毎日を送ったと云う。君子は成し遂げる上で、学業に決まった師匠を持たない。少しでも自分より優れた所があれば師事してその知識を吸収し、その上でそれを解き明かす。役立つ言葉があれば、譬え耳にしなくとも必ず心に刻み込む。志は至高の状態を保ち、道徳の奥深さを纏め上げ、些細な無知でもこれを恥じ、経書の中の一つでも不勉強な所があれば心穏やかならず、その為に日夜倦まずたゆまず学習に努め、日が傾いても食事を取らず、夜遅くまで衣服を解かず、昼間に経緯を詳しく調べ、夜には夜空の星々を見渡すと云う勉学ぶりである。
[参考]
 ・九徳:行為に現れる九つの徳目。< 尚書、虞書、皋陶謨>
  (一)寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
  (二)柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
  (三)愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
  (四)乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
  (五)擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
  (六)直にして温(正直・率直だが、温和)
  (七)簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
  (八)剛にして塞(剛健だが、内も充実)
  (九)彊にして義(強勇(ごうゆう)だが、義(ただ)しい)
 ・霊帝:中国後漢の第12代皇帝。
 ・六籍:六経のこと。即ち、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経。後に楽経が亡んだので、かわりに周礼を加えて六経となる。
 ・學無常師:<論語、子張>に、「夫子焉不學?而亦何常師之有?=夫子焉(いずく)にか学ばざらん。而して亦た何の常師かこれ有らん。」とある。
3.考混元於未形,補聖德之空缺,誕長慮於無窮,旌微言之將墜,何暇讙小學,治浮名,與俗士相彌縫哉!故浮淺寡識之人,適解驅使榮利,豈知大道之根?然其餘以疏略爲太簡,曾無憂樂,徒以爲習書之儒,不足爲上,欣之者衆,辯之者寡,故令君州閭之稱、不早彰徹,然秉正獨立,志有所存,俗之毀譽,有如浮雲。若有覺而還反者則以道進之,忘其前之謗己也。其犯而不校,下學而上逹,皆此之類也。于時董卓作亂,聖主西遷,奸雄滿野,天下無主。聖人之道息,邪僞之事興,營利之士得譽,守貞之賢不彰,故令君譽聞不振於華夏,玉帛安車不至於門。考其德行文藝,實帝王之佐也,道之不行,豈不惜哉!君避地海表,自歸舊都,州郡牧守禮命,踧踖連武欲致之。
[訳3]
 ・未だ形(あらわ)れざるに混元を考え、成徳の空缺を補い、誕(おおい)に無窮なるを長慮し、微言の將に墜(すたれ)たところを旌(あらわ)す、何をか小学を難(かたん)じ、浮名(ふめい)を治め、俗士と相い彌縫(びほう)するに暇あらんや!故に浮淺寡識の人、適(まさ)に榮利に驅使することを解すとは、豈に大道の根を知らん。然して其の余は疏略を以て太簡と為し、曾(すなわ)ち憂樂すること無く、徒に以為(おもえらく)習書の儒は、上と為すに足らざれど、之れを欣ぶ者衆(おお)く、之れを辯ずる者寡なく、故に君をして州閭(しゅうりょ)の稱に令(めい)ず、早(つと)に彰徹せず,然して正を秉(と)りて獨立し、志は存ずる所有り、俗の毀譽、浮雲の如く有り。若し覺りて還反する者有れば則ち道を以て之れを進め、其の前の己を謗りしを忘るるなり。其れ犯されて校(むく)いず、下學して上達す、皆此の類なり。時に董卓(とうたく)が乱を作(な)し、聖主は西に遷(うつ)り、奸雄は野に満ち、天下に主無し。聖人の道は息(や)み、邪僞の事興り、營利の士は譽を得、守貞の賢は彰(あらわ)れず、故に君の譽聞をして華夏に振はざら令め、玉帛安車は門に至らず。其の德行文藝を考えるに、実に帝王の佐にして、道は之れ行われず、豈に惜しまざる哉!君は海表に避地し、舊都に帰りし自り、州郡牧守の禮命に、踧踖(しゅくせき)連武して之れを致さんと欲す。君は海表に避地し、自ら舊都に帰り、州郡牧守の禮命は、踧踖(しゅくせき)連武して之を致さんと欲す。
 ・天地開闢のことを考え、成徳の至らざる所を補い、大いに窮まりない所を深く考慮し、意味深い優れた言葉を表彰するとは何とすばらしく、これは六藝などの修身・作法が難しいとか、虚名を欲しいままにするとか、低俗な人と共に互いに取り繕うとかと云ったこととは無縁のことである。だから軽薄で無知な人は、ただただ名誉や利益を追い求める羽目になるので、大道の根本を理解出来るはずはない。そしてその他の低俗な人々は乱暴な上に粗雑に行動し、何ともはや憂うることも楽しむこともなく、ただ無駄に思えるような儒教の手習いをし、上に立つ者としては力不足で、楽しむ者が多い割には道理を弁えている者は少なく、だから君は地方で名を成していたとは云え早くから世間に知られることもなく、それでも正義を守って独立して志を高く持ち続けるも、世俗の観る目は浮き雲の如く儚いものであった。若し気付いて反省する者が居れば道理を以て教導し、過去の非難を忘れさせた。被害を受けても仕返しをせず、手近な所から学ばさせて次第に高遠な真理に達するように教導すると云ったことは、全てこれに類することである。時あたかも辺境の一将軍に過ぎなかった董卓が謀反したため天子の少帝らが西に去り、奸智に長けた英雄もどきが野に満ち、天下を治める者が居なくなった。聖人の道は閉ざされ、邪悪・虚偽が世に横行し、金銭亡者が名誉まで独占する有様で、貞廉公正な賢者も居なくなってしまった。そこで君が名声を博すようになったにも拘わらず国内では振るわず、贈り物や客人も訪れると云うこともない。君の品性・行動そして学問・技芸を考えると誠に帝王の補佐役として相応しいのだが、現実は道徳もすたれた状態で、誠に慚愧に堪えないものがある。君は海表に逃避し、その後舊都の臨淄に戻り、地方長官就任への招聘に敬畏をもって勇んで参画せんとした。
[参考]
 ・董卓:後漢末期の武将・政治家。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、一時は宮廷で権勢を得るが、最期は側近の呂布に殺された。
 ・州閭:州里→州は二千五百戸、里は二十五戸の家。 ・州郡牧守:州郡の長官。
4.君以爲縱橫之世,乃先聖之所厄困也,豈况吾徒哉!有譏孟軻不度(《全後漢文》所據《中論》元刻本作"較")其量,擬聖行道,傳食諸侯,深美顔淵、荀卿之行。故絶迹山谷,幽居研幾,用思深妙,以發疾疚(《全後漢文》作"痎"),濳伏延年。會上公撥亂,王路始闢,遂力疾應命,從戍征行。歴載五六,疾稍沉篤,不堪王事,潛身窮巷。頥志保眞,淡泊無爲,惟存正道。環堵之墻,以庇妻子,并日而食,不以爲戚。養浩然之氣,習羡門之術。時人或有聞其如此而往觀之,或有頗識其眞而從之者,君無不容而見之,厲以聲色,度其情志,倡其言論,知可以道長者則微而誘之,令益者不自覺,而大化隂行,其所匡濟,亦已多矣。君之交也,則不以其短,各取其長而善之。取故少顯盡己之交,亦無孜孜和愛之好。統聖人中和之業,蹈賢哲守度之行,淵黙難測,誠寶偉之器也。君之性,常欲損世之有餘,益俗之不足。見辭人美麗之文,並時而作,曾無闡弘大義、敷散道敎、上求聖人之中、下救流俗之昏者,故廢詩、賦、頌、銘、贊之文,著《中論》之書二十二("十"下"二"字原無,《全後漢文》有,是,據補)篇。其所甄紀,邁君昔志,蓋千百之一也("蓋"下原缺一字,據《全後漢文》補"千"字)。文義未究,年四十八,建安二十三年春二月,遭厲疾,大命殞頽,豈不痛哉!
[訳4]
 ・君は縦横の世を以爲(おも)い、乃ち先聖の厄(くる)しむ所を困(くる)しむとは、豈に況んや吾が徒をや!孟軻の其の量(ちから)を度(はか)らず、聖に擬(なぞら)えて道を行い、諸侯に傳食せしことを譏ること有りて、顔淵・荀卿の行いを深美す。故に山谷に絶迹(ぜっせき)し、幽居して幾を研し、用(もっ)て深妙を思い、以て疾疚(しつきゅう)を発し、濳伏延年す。會(とき)に上公撥亂し、王路始めて闢(ひら)き、遂に疾を力(つと)めて命に応じ、從戍(じゅうじゅ)征行す。歴載五六にして、疾稍や沉篤(ちんとく)し、王事に堪えず、窮巷(きゅうこう)に身を潜む。志を頥(やし)ない眞を保ち、淡泊無爲にして、惟だ正道を存(たも)つ。環堵(かんと)の牆、以て妻子を庇(かば)い、日を并(あわ)せて食するも、以て戚(うれ)いと為さず。浩然の氣を養い、羡門の術を習う。時人或いは其の如此(かくのごとき)を聞き而して往きて之れを観ること有り、或いは頗る其の真を識り而して之に従う者有るも、君は容れて見ざること無く、聲色を以て厲(はげ)まし、其の情志を度(はか)り、其の言論を倡(とな)え、道以て長ずべき者を知れば則ち微に而して之れを誘い、益す者を令て自覺せしめず、而して大化隂行し、其の匡濟(きょうさい)する所は、亦た已(はなはだ)多し。君の交(まじわり)や、則ち以て其れ短かからず、各おの其の長きを取って之を善しとす。取りしが故に顕わな盡己(じんき)の交り少なく、亦た孜孜(しし)たる和愛の好(よし)み無し。聖人中和の業を統べ、賢哲守度の行を蹈み、淵黙(えんもく)にして測り難く、誠に寶偉の器なり。君の性(さが)は、常に世の餘り有るを損じ、俗の足らざるを益(ま)さんと欲す。辭人の美麗の文が、時を並べ作(おこ)るを見るも、曾ち大義を闡弘(せんこう)し、道教を敷散(ふさん)し、上は聖人の中を求め、下は流俗の昏を救う者無く、故に詩・賦・頌・銘・贊の文を廃し、<中論>の書二十二篇を著す。其の甄紀(えんき)する所は,君の昔志を邁(す)ぎ,蓋し千百の一なり。文義未だ究めず、年四十八、建安二十三年春二月、厲疾(れいしつ)に遭い、大命殞頽(いんたい)す、豈に痛ましからずや!
 ・君は、縦横家が蔓延った時代には孔子も困厄したくらいだから、自分達が今の世に悩み苦しむのは当たり前だと思ったに違いない。当時は、孟子の力量を軽んじたり、聖人の行為を真似たり、諸侯の食客となることを非難したり、顔淵・荀子の行為を賞賛したりと、様々であった。そこで山谷に身を隠し、隠れ家に潜んで学問の玄妙な所を研究し、深妙な所に思いを致していたが、流行病に罹り逼塞して年を過ごすことになる。建安年間の官渡の戦い(対袁紹)に勝利した曹操が天下を治め、遂に君は病を克服して辟召に応じ、国境守備のため戦場に赴く。従軍すること5・6年にして病が重くなり、官職を続けることが出来ず、貧民街に隠れ住むことになる。志を曲げず本然の善性を保ち続け、無欲無為を貫き、ひたすら正道を守り通した。貧しい陋屋に妻子を養い、一日分の食事を二日に分けて食べると云う貧しさにも、嘆げき悲しむことはなかった。浩然の気を養い、時には古仙人の羡門子高の尸解(しかい)の術を研究すると云う充実ぶりである。当時の人が噂を聞いて君の様子を窺ったり、或いは傾倒する者が出たりしたが、君は之を受け入れて面倒を見はしたが、厳しく応対して彼らの思いを推し量り、議論を吹きかけ、道に詳しい者があればそれとなく誘い入れ、益する者にはそれとなく善導に努め、悪を正し善に導く努力を惜しまなかった。君の人との交わり方はその場限りのものではなく、その人の長所に目を向けるように努力していた。だから上辺だけの交わりと云ったものはなく、また積極的に友愛を求めると云うこともなかった。聖人の中和の業績を纏め上げ、才知に優れ物事に明るい人々が守り通した規則正しい行動を踏襲し、無駄口をきかずその落ち着き払っている様子には微塵も隙が無く、誠に得難い逸材である。君の性格は、世の中の無益なものを省き、有益なものを付け加えることに努力する所に特徴がある。辞賦家の表面的美しさだけが目立つ文章が時を同じくして現れたが、大義を明らかにしたり人の道を説き広めたり、聖人の中を問題にしたり俗世間の無知を救うと云った處が見受けられず、そこで君は詩・賦・頌・銘・贊の文を遠ざけて、<中論>の書二十二篇を著した。その解き明かさんとする處は、君の昔日の思いには遠く及ぶものではない。その意義を窮め尽くす前に、君は年四十八才にして、建安二十三年春二月、激しい病に罹り、寿命が尽きてしまった。誠に残念なことである。
[参考]
 ・羡門の術:身体は不要だとして霊魂を身体から解脱させ、一切の自由を得ると云う仙術。後漢の服虔は、「尸解なり」と云っている。
 ・羡門子高(えんもんしこう):漢書にある古仙人。
 ・尸解(しかい):道家の術の一つで、体だけをこの世に残し、魂だけが体外に抜け去る術。
 ・辭人:辞賦作家、やや散文に近い韻文を作る人々。表面的美しさに固執し、大義を顧みないと批判されることがある。
5.余數侍坐,觀君之言,常怖,篤意自勉,而心自薄也。何則?自顧才志不如之遠矣耳!然宗之仰之,以爲師表。自君之亡,有子貢山梁之行。故追述其事,麤舉其顯露易知之數,沈冥幽微、深奥廣遠者,遺之精通君子,將自贊明之也。
[訳5]
 ・余(われ)数(たびたび)侍坐し、君の言を観て、常に怖れ、意篤く自ずから勉め、而して心は自ずから薄らげり。何則(なんとなればすなわち)?自らの才志を顧みて之れ遠く不如(しから)ざらん!然して之れを宗(たっとび)之れを仰ぎ、以て師表と為す。君の亡(なくな)りし自り、子貢山梁の行(?)有り。故にその事を追述し、麤(あらま)し其の顯露易知の数を挙げ、沈冥(ちんめい)幽微、深奥廣遠なる者,之れを精通君子に遺すは,将に自賛して之れを明らかにす。
 ・私は屡々君の側に居り、君の発する言葉を真摯に受け止める度に畏怖を感じ、熱心に自分を励まし、そうすることによって心が自然に落ち着いたものである。その訳を考えてみると、自分の志の低さを反省して遠く及ばないことを知ったからである。こうして君を尊敬して己の手本としたのである。君が亡くなってから、子貢山梁の行(?)が有った。その事を追述し、大まかにそこに現れた解りやすい處の数々を挙げ、幽玄神秘的で、計り知れないほどに奥深く・広大かつ遠大なもの、この事を博識な君子に伝え遺す事は、誠に誇り高い限りである。
[参考]
 ・子貢山梁之行:<論語、郷党>に出てくる「色斯挙矣、翔而後集、曰、山梁雌雉、時哉時哉、子路共之、三臭而作。」と関連があるのではないかと云う人も居るが、良く解らない。 子貢とどう関係するのか?山梁の行とは?”子が山梁を貢ぐ”と読んだりしないのか?など疑問が多い。何か神秘的な現象に関連することだろうか?いずれにしろ今の処小生には理解不能である。
宋曾鞏徐幹《中論》目録序(宋の曾鞏による徐幹《中論》目録の序)
 臣始見館閣及世所有徐幹《中論》二十篇,以謂盡於此。及觀《貞觀政要》,怪太宗稱嘗見幹《中論》"復三年喪"篇,而今書此篇闕。因考之《魏志》,見文帝稱幹著《中論》二十餘篇,於是知館閣及世所有幹《中論》二十篇者,非全書也。幹字偉長,北海人,生於漢魏之間。魏文帝稱幹"懷文抱質,恬澹寡慾,有箕山之志",而《先賢行狀》亦稱幹"篤行體道,不耽世榮"。魏太祖特旌命之,辭疾不就。後以爲上艾長,又以疾不行。蓋漢承周衰,及秦滅學之餘,百氏雜家與聖人之道並傳,學者罕能獨觀於道德之要,而不牽於俗儒之說。至於治心養性,去就語黙之際,能不悖於理者,固希矣,况至於魏之濁世哉!幹獨能考六藝,推仲尼、孟軻之旨,述而論之,求其辭,時若有小失者,要其歸,不合於道者少矣。其所得於内者,又能信而充之,逡廵濁世,有去就顯晦之大節。臣始讀其書,察其意而賢之,因其書以求其爲人,又知其行之可賢也。惜其有補於世,而識之者少,蓋迹其言行之所至,而以世俗之好惡觀之,彼惡足以知其意哉!顧臣之力,豈足以重其書,使學者尊而信之。因校其脫繆,而序其大略,蓋所以致臣之意云。編校書籍臣曾鞏上。(《元豐類稿》卷十一)
[訳]
 ・臣始めて館閣及び世の所有せる徐幹<中論>二十篇を見、以て此(ここ)に盡(ことごと)くを謂(かた)る。及び<貞觀政要>を観て、太宗の称(とな)えるところを怪しみ嘗(かっ)て幹の<中論>の”復三年喪篇”を見、而して今此に篇の闕(かけた)るところを書く。因みに之れ<魏志>を考(しらべ)て、文帝の称える幹の著<中論>二十餘篇を見、是れに於いて館閣及び世の所有せる幹の<中論>二十篇なる者は、全ての書に非ざるを知る。幹は字が偉長、北海のひとにして、漢と魏の間に生まれる。魏の文帝は幹を称して、「文(あや)を懐(いだ)き質(まこと)を抱え,恬澹にして寡慾,箕山の志有り」とし、而して<先賢行狀>は亦た幹を称して、「篤行にして道を體し,世榮(せいえい)を耽(この)まず」と。魏の太祖が特に之れに旌命するも、辞疾し就かず。後以て上艾の長と為るも、また疾を以て行かず。蓋(おも)うに漢は周の衰えを承け、及び秦は學の餘(あまり)を滅(ほろぼ)し、百氏雜家與に聖人の道並傳し、学者は罕(まれ)に能く独り道徳の要(かなめ)を觀(みわた)し、而して俗儒の說に牽(ひ)かれず。心を治め性を養うに至り、去就語黙の際、能く理に悖らざる者は、固(まこと)に希なり、况(ここ)に魏の濁世に至るとは!幹は独り能く六藝を考(きわ)め、仲尼・孟軻の旨(こころもち)を推し、之れを述べ而して論じ、其の辞(とく)ところを求め、時に若し小失有れば、要は其れ帰(もど)り、道に合わざること少なし。其れ内に得る所あれば、また能く信じて之れ充(おぎ)ない、濁世に逡巡し、顯晦(けんかい)の大節に去就すること有り。臣始めて其の書を読み、其の意を察して之れを賢(たっと)び、その書に因り以て其の人と為りを求め、また其の行い賢なるべきことを知る。惜しむらくは其れ世に補うところ有り、而して之れを識る者少なく、蓋うに其の言行の至る所に述(あとづ)けて、而して世俗の好惡を以て之れを観れば、彼は悪(いづ)くんぞ以て其の意を知るに足らしめん哉!臣の力を顧みるに、豈に以て其の書を重んじるに足らしめ、学者に之れを尊び信ぜたら使むことなり。因みに其の脫繆(だつぼう)を校し、而して其の大略を序するは、蓋(まさ)に臣の意を致す所以ということ。校を編み籍を書して臣曾鞏が上(たてまつる)。<元豐類稿、卷十一>
 ・私めは始めて館閣にある蔵書及び世に出回っている徐幹の<中論>二十篇を見て、此処にその全について語ることにした。また<貞觀政要>を詳しく調べて、曹丕の語る處に疑問を抱き、或る時徐幹の<中論>の中の”復三年喪第二十一篇”を見出したので、ここにその補遺二篇 を加えることにした。ついでに<魏志>を調べて曹丕が語っている徐幹の著書<中論>二十餘篇とあるのを見て、先の館閣及び世に出回る徐幹の<中論>二十篇は全てを網羅していないことが解った。徐幹の字は偉長と云い、北海郡出身で、漢末と魏初の間に生まれた。魏の文帝は徐幹を評して、「学問を深く修め、性格も良く、冷静で無欲で、信念を貫き通した 隠者の許由のような志を秘めている」と<與呉質書>の中で称え、また<先賢行狀>の中でも徐幹を褒めて、「その言動は誠実で道徳をよく弁えており、世俗の栄誉などには見向きもしない」とある。魏の曹操が特別に徐幹を表彰して辟召したが、病気を理由にして応じなかった。後に上艾県の長官となるも、また病に罹り職に就くことが出来なかった。そもそも漢朝は周朝の衰退を好機として天下を手中に治め、また秦朝は学問の一部を否定し(焚書坑儒)、諸子百家はそれぞれに聖人の道を伝え、学者は殆ど道徳の根源を明らかにすることもなく、見識が狭くつまらない学問に熱中するという有様であった。心を正し性格を磨き上げた上で世に出ようとする時に、道理に背かれる者は滅多に居ない筈だが、何と徐幹は魏の濁世に遭遇してしまったのだ!徐幹は独学で六藝を究め、仲尼・孟軻の思いを推し量り、これを論述し、その説くところを明らかにし、間違いがあれば基を正して道理に叶うように修正した。充分に納得することが出来れば、良く理解してその考えを拡充し、道徳がすたれた世に嫌気を差すも、世に出るか隠遁するかの重大な別れ道で大いに悩んだ。私めは始めて<中論>を読み、その云わんとする處を理解して感動し、その内容から窺える徐幹の人となりを想像し、また徐幹の言動の素晴らしさを理解した。惜しいことには世の中に広く出回ることがなかったので、<中論>の書を知る者が少なく、そもそも徐幹の言行の目指す事実に拠って考え、その上で世間の評価を見ると、彼の思いが充分に世間に伝わっていないことが解る。私めの力量を考えると、<中論>の重要性を認めさせ、学者に尊重させ信頼させるように努めることは、甚だ難しいものがある。その上で<中論>の書の脱字・誤字の校正を行った上で概要を述べることは、私めの願いが叶うというものである。校正を重ね文を纏めて私めの曾鞏がここに献上するものである。
[参考]
 ・曾鞏(1019年~1083年):中国・北宋の散文家。唐宋八大家の一人。若くして欧陽脩に文才を認められ,後世唐宋八大家の一人に数えられる。詩文集<元豊類稿>がある。
 ・館閣:宋代の官署。経籍図書を蔵し、昭文館・史館・集賢院や秘閣・竜図閣・天章閣などの総称。学問に秀でた人々が役人として参加。
 ・<貞觀政要>:唐代に呉兢(唐代の歴史家)が編纂したとされる太宗の言行録。
 ・魏志:中国の歴史書「三国志」のうち、魏の国に関する史実を記した部分の通称。
  30巻。「蜀志 (しょくし) 」「呉志」とともに、晋の陳寿の著。魏書。
 ・太宗:魏文帝、曹丕のこと。<與呉質書>の中で、「著中論二十余篇」なる文字が見える。
 ・先賢行狀:<太平御覧>(中国宋代初期に成立した百科事典の一つ)の中の一項目。
 ・<元豐類稿>(げんぽうるいこう):曾鞏が著した詩文集。
 ・箕山之志:世間での名声と利益を捨て、世間との接触を避けて信念を守ろうとすること。伝説上の人物の許由と巣父が、世間での名声を嫌い、信念を守るために箕山という名前の山でひっそりと生活したという故事から出た言葉。
 ・六藝:士人の学ぶべき六種の技芸。礼儀・音楽・弓射・御車・書道・算数。
明杜思刻徐幹《中論》序(明の杜思が徐幹<中論>の序を刻す)
 宋南豐曾氏起于五代純學之後,程學西顯之前,文章本原六經,世稱江漢星斗矣。編校館閣羣書,取《中論》二十萹序而傳之,何哉?漢自桓靈以後,姦雄濁亂,海内俗儒,騖於曲説,黨權營利,求其究觀道妙而不汙於世者盖寡矣。偉長獨能恬淡體道,不耽榮禄,逡廵濁世,而玄就顯晦之莭皭然不汙。曾氏讀其書而論其世,彼有取爾也。余刪訂《青志》,繡梓竣事。兵憲懐庭秦公謂曰:"青郡文獻名天下,藝文不下百数十種,未能畫傳,若管子書、晏子春秋,仲尼之徒羞稱焉。《文心雕龍》葩藻勝矣。徐幹《中論》辭義典雅,足傳于後,曾子固所取也。蓋壽諸梓,以廣其傳。"余曰唯唯,謹識之而刻于郡之資深堂。嘉靖乙丑冬青州府知府四明杜思書。
[訳]
 ・宋代の建昌南豊の人、曾鞏は五代純學の後、程學西顯の前に、文章本原六經を起こし、世は江漢の星斗と称す。館閣の羣書を編校し、<中論>二十篇の序を取り而して之れを伝える、何ぞや?漢の桓・靈自り以後、姦雄濁亂し、海内の俗儒は、曲説に騖(はし)り、黨權營利にて、其の究觀道妙を求め而して世を汚さざる者盖(けだ)し寡(すく)なし。偉長獨り能く恬淡(てんたん)として道を体し、榮禄に耽(ふけ)らず、濁世に逡廵し、而して玄(しずか)に顯晦(けんかい)の莭(せつ)を就(な)し皭然(しゃくぜん)として汚さず。曾氏は其の書を読み而して其の世を論じ、彼は取ること有りて爾(しか)るなり。余(われ)は<青志>を刪訂(さくてい)し、繡梓(しゅうし)し竣事(しゅんじ)す。兵憲懐庭秦公謂いて曰く、「青郡の文獻は天下に名(なだか)く、藝文は百数十種を下らざるも、管子書・晏子春秋・仲尼之徒羞稱の若きは未だ能く傳えることを畫(はか)らず。<文心雕龍>は葩藻(はそう)で勝る。徐幹の<中論>は辞儀典雅にして、後に伝えるに足り、曾子の固く取る所なり。蓋し諸梓を壽(ことほ)ぎ、以て廣く其れ伝わらん。」と。余は曰く唯々として、「謹んで之れを識し而して郡の資深堂に刻す」と。嘉靖44年冬青州府知府四明の杜思書す。
 ・宋代の建昌南豊の出身である曾鞏は、五代十国時代の純學のあと、宋代の程子の道学の現れる前に、文章本原六經を著し、世間の人は彼を江漢の星と呼んだ。館閣にある多くの書物を整理校勘し、<中論>二十篇の序を書いて紹介しているが、その目的はどこにあったのだろうか?漢朝の桓帝・靈帝の時代から姦雄が世を乱し、天下の俗懦は曲説を主張しだし、党利党略に走り、仏教や道教の経典文章を追い求めるなど、世間を惑わす者が輩出した。偉長独りが恬淡として道を守って行動し、営利俸禄に見向きもせず、濁世に背を向け、冷静に出処進退のけじめを守って清廉潔白を貫き通した。曾鞏は<中論>を読んでその時代を解析しているが、全くその通りである。私は<青志>の削除訂正を行い、それを出版した。兵憲懐庭秦公が云うには、「青郡の文獻は有名だし、文芸に関するものは百数十種を下らないが、管子書・晏子春秋・仲尼之徒羞稱などは廣く伝わっていない。<文心雕龍>は華麗な点で勝っている。徐幹の<中論>は礼儀を説く所が正確にして華麗で、後世に伝えるに十分な価値があり、曾鞏が強く主張する所でもある。誠にこれらの上梓は喜ばしいことで、これからも廣く伝わっていくことだろう」と。私は喜んで云いたい、「謹んでこの事を認識して、郡の資深堂にしるす」と。嘉靖44年(1565年)冬、青州府の長官の杜思しるす。
[参考]
 ・明杜思:明時代(14~17世紀)の文化人。出版関連?<本原六經>を著す。
 ・五代:後梁 907年 - 923年 、後唐  923年 - 936年 、後晋 936年 - 946年 、
     後漢 947年 - 950年 、後周  951年 - 960年
 ・程學:二程子(程明道・程伊川兄弟)の学説。
 ・<青志>:青洲に関連する書籍名か?  ・青郡:青洲のことか?
 ・兵憲懐庭秦公:不明。
 ・文心雕龍(ぶんしんちょうりゅう):中国・南朝梁の劉勰(りゅうきょう)が著した文学理論書。
 ・<管子書>:管仲の著書であるとされているものの、実際は戦国期の斉の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いとも云われている。
 ・<晏子春秋>:春秋時代の斉において、霊公 、荘公、景公の3代に仕え宰相となった、晏嬰に関する言行録。
 ・仲尼之徒羞稱:<孟子、梁惠王章句上>や<荀子、仲尼篇第七>に関連した書か?
 ・資深堂:不詳。
 ・嘉靖(かせい):明代の元号(1522年 - 1566年)。乙丑:嘉靖 44年 西暦 1565年
                                                    (28.12.01) 続く

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