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論語を詠み解く

論語・大学・中庸・孟子を短歌形式で解説。小学・華厳論・童蒙訓・中論・申鑑を翻訳。令和に入って徳や氣の字の調査を開始。

呂本中余話

2013-03-29 10:07:08 | 詩人呂本中

呂本中余話
                           
〒344-0063  埼玉県春日部市緑町
                                         田 原 省 吾

 呂本中は理学家であると共に、紫微と号した詩人でもあった。どちらかと云えば経学における功績よりも、詩壇での名声のほうが高かったと云われている。そこで詩人としての本中の活躍ぶりについて触れてみる。。
 初めに、彼の履歴をざっと見てみよう。本中は北宋朝第六代神宗の千八十四年に生まれ、南宋朝の初代高宗の千百四十五年六十二才で没している。宰相の公著を曾祖父に持つ名家に生まれ、幼年時代は恵まれた環境にあったが、青年時代は第七代哲宗朝の新旧法党の政争に巻き込まれ、二十歳過ぎる頃から二十年程不遇な時代を過ごすことになる。呂家は旧法党の家柄だったので、第八代徽宗朝の元佑姦党禍に遭遇したわけである。この間どう言う暮らしぶりであったかは不明だが、大叔父の希純が流謫地で一部屋建て増ししなければ一家が住めない程の小さな住まいを与えられていたと云う話も伝わっているので、一族が相当苦労した時代があったことは想像出来る。四十二・三歳の頃、北方の金国に破れて北宋から南宋に変わった時に、父好問の活躍もあり政界に復帰するが(この時、起居舎人まで登り詰める。この事から後年呂舎人と呼ばれたりする)、同期の宰相秦桧と意見が合わず五十台半ばで政界を引退し、その後は道学家として後進の指導に当たった。学生は東莱先生と尊称した。著作には経学関係では<春秋集解>・<童蒙訓>・<大学解?>などがあり、作詩関係では<東莱詩集>・<江西詩社宗派図>。<紫微詩話>などがある。
  次に、その人格形成に影響を与えたであろう時代背景を探ってみる。彼は所謂士大夫層の出身である。この士大夫層の思想形成に大きく影響を及ぼすことになる儒・道・佛三学の動向はどうだったのだろうか。色々と変遷はあったが、宋代に入ると三学は共に隆盛の時代を迎える。
 ◯道教は第四代真宗の帰依に始まり、第八代徽宗の手厚い保護を受けるなどして勢力を伸ばしはしたが、教理的には目立った発展は見られず、道教寺院(道観)が数多建てられるなど俗世的な派手さが際立っただけである。
 ◯仏教は唐・後周などの排仏にあって打撃を被ったが、宋代に入ると太祖の三教平等策もあり栄えていく。排仏時代に生き残った禅宗と浄土宗が勢力を伸ばし、厳しい修行が望まれる禅宗は士大夫層など知識階層に支持され(その中でも公案重視の看話禅は上層階級に、只管打坐に打ち込む黙照禅は民衆層にも受け入れられて行く)、帰依さえすれば救済を求めることが出来るとされた浄土宗は庶民層に受け入れられて行く。士大夫層では、欧陽脩を始めとする歴史学派の王安石・蘇軾蘇轍兄弟・黄庭堅らの参禅が知られており、蘇軾が臨済宗黄檗派の印可を受けたとか、黄庭堅が同派を嗣いだとかの話も伝わっている。禅学の影響に対抗した程頤の門下生でありながら、禅にも興味を示した本中の祖父の希哲の影響を受け、本中も経学と共に禅学も学んだ。それも相当深入りしていたようで、曹洞宗の真如禅寺の居士(在家で仏道修行する者)の中に名を連ねていたり、臨済宗の大慧宗杲と親しかったので、本中の葬儀の時に宗杲が弔辞を読んで、”呂本中は思慮深く聡明で、人の道を極め、その遊戯(ゆけ)(一切の束縛を脱して自由自在に振る舞うこと=遊化とも云う仏教語)は極まる處無し”と褒め称えたという話も伝わっている。ここで禅と詩について触れておきたい。唐代の科挙制度を踏襲した宋朝ではあったが、その重みが違って高位高官に登るには、詩・賦(賦は韻文形式の最も長いもの)を試験科目に含む進士科に合格しなければならなかった。必然的に士大夫は詩学に長ける必要があった。(王安石の新法党が政権に就くと詩賦科目は取り除かれ、旧法党が復活するとまた詩賦科目も復活すると云う経過をたどるが、最後は第七代哲宗の時代に廃止された)士大夫は我も我もと科挙に挑戦するが、失敗する者も多い。(宋朝初期の淳化三年=九百九十二年には、受験者は一万七千人を超えたが、科挙合格者は千百二十七人だったという記録が残っている)そうなると失敗者の中には士大夫層に浸透していた禅宗界に進出する者が多くなり、培った詩学の知識が持ち込まれ、次第に禅宗界にも作詩の風習が浸透していった。一方禅の思想に興味を持つ詩人も多くなり、先に触れた蘇軾(蘇東坡)・黄庭堅などの宋代を代表する大詩人が参禅するようになり、黄庭堅は江西詩派の祖となって詩と禅の融合を図り、南宋の詩人、厳羽は詩話として尤も名高く整然と詩論を説いた<滄浪詩話>の中で、禅の思想に基づいて詩を論ずる詩論を展開し、「禅に妙悟(言葉では語れない神秘体験のこと)があるように詩作にも妙悟がある」と唱え、「詩を論ずるは、禅を論ずるが如し」といった言葉を残している。
 ◯儒教はそれまでの訓詁学(経書の意義解釈を重視)から大きく変貌する。言葉の解釈よりも、その奥にある道理が重視されてくる。しかも其の解釈の仕方に多くの意見が現れ論争が続く。最後には宋朱子学が残るのだが、其の間にあって、新旧法党の争いにも巻き込まれて複雑な様相を呈する。則ち、旧法党に属する洛学・蜀学とそれに新法党の荊公新学が加わる。ではそれぞれの様子を探ってみよう。
    ◉洛学の系譜
     1.范仲掩      ?   ~1052没 
        ”君子の朋党”を自称。六経と易に通ず。
     2.周敦頤(濂渓) 1017生~1073没 享年57歳
             何と云っても第一に挙げるべきは、道家の資料を参考にし、易経を裏付けとして、儒教の立場から              
       宇宙生成を説く<太極図説>を著したこと。第二に、「無欲を以て学べば聖人と為りうる」と云う思想
       を提示した<通書>を著したこと。第三に、「静」の強調で、これが出発点となって後の「敬」が生ま
       れ、「未発の中」へと発展する。第四は、伊尹(殷王朝成立に大きな役割を果たすと共に、その礎を
       築いた忠臣)や顔淵(孔門十哲徳行の人)を採り上げて理想的士大夫像を提示したこと。

    3.張載(横渠) 1020生~1077没 享年58歳
              「気」の哲学から「道」に至る思想に基づく<正蒙>や、<西銘>を著す。若くして道・仏に傾注した 
        が、二程に出会って経学を志す。彼の学問を特に関学とも云う。

    4.程(明道) 1032生~1085没 享年54歳
              森羅万象を秩序化している宇宙の根本原理を「理」ととらえ、「理の哲学」を唱えた。
        5.程頤(伊川) 1033生~1107没 享年75歳
              明道の「理の哲学」を発展させ、「性即理」の概念を導入し、宋朱子学の倫理説の端緒を作る。
    6.朱熹     1130生~1200没 享年71歳
       「性即理」説を完成させ、理(則ち道)学を確立。ここに宋朱子学が成立する。
   ◉蜀学の系譜
    1.欧陽脩    1007生~1072没 享年66歳
      経書の研究により名分を正す事の重要性を説き、歴史事実より政治道徳の革新を主張した政治家に
      して詩人・文学者、歴史学者。   

    2.司馬(温)光 1019生~1086没 享年68歳
       <春秋>に習って名分を正し、君臣の大義を明確にした<資治通鑑>を著した政治家にして歴史学
      者。本中の曾祖父、公著と共に「元佑の治」を演出した立役者。

    3.蘇軾(東坡) 1036生~1101没 享年66歳
      儒学の理の追求よりも、道・仏二教を交えた思想を文学で表現することを重んじる学説を唱えた、政
      治家にして詩人、書家。 <易経>につけた註疏に、洛学から批判を浴びる。

    4.蘇轍     1039生~1112没 享年74歳
      兄東坡と同じく政治家にして文人。詩も作ったが兄には及ばない。経史諸子をよく研究し、兄を輔け
      た。<春秋集解>など多くの著作がある。

    5.黄庭堅    1045生~1105没 享年61歳
      儒教哲学の詩による表現に専念し、先人の詩体の長所を求め、その変化を追求し、奇書を探して独
      自の詩を作った。参禅の工夫を一層強めた。江西詩体の創始者である。その詩風は、瑞州清涼寺恵
      洪覚範禅師の著書<冷斎夜話>に、黄庭堅の云った言葉として紹介されている。則ち、「不易其意、
      而造其語、謂之換骨法、規範其意形容之、謂之奪胎法」で、昔作られた詩の意味を変えずに言葉だ
      けをを新しいものにし、その詩の意味を手本として新たに云い表すと云う手法である。今では「換骨奪
      胎」なる四字熟語が一人歩きして、単なる「焼き直し」という意味で使われているが、黄庭堅の真意は
      そんな甘い物ではない。人の才能には限りがあるのだから、先人の優れた詩を参考にしてこれに手
      を加えて自分の思いを託すのだと云うのである。なお、「換骨」という言葉はもともと道教の用語であ
      る。

  ◉荊公新学の系譜
    1.王安石   1021生~1086没 享年66歳 
       新法改革の旗頭として有名な政治家にして詩人・文章家。荊公新学の創始者であり、学問は文学
       にとどまらず実用的な内容を学ぶべきだと考えて、実学中心の学校制度を構築し、経書の新解釈を
       行って中央集権国家の樹立に資する、新たな学問体系を確立した。

        2.呂惠卿、林疑獨ら
 その外に、朱熹の論敵として知られる陳亮らの事功派永康学派(実利・経済を重視し、朱熹と異なる道統概念を提示)が現れたが、主流とはなり得なかった。 
 次は詩壇について見てみよう。詩形の歴史は次のようになる。
  ◯古体詩 四言詩を基本とする<詩経>に始まり、その詩形は句数や韻律などの拘束がない。
  ◯漢 詩 古体詩の詩形に規則性が生まれてきて、所謂漢詩が形作られる。近体詩の始まりである。
  ◯唐 詩 絶句・律詩などの体裁が整い、近体詩が確立する。
   ◯宋 詩 近体詩に変わりはないが、その内容が唐詩とは大いに異なる。 しかも「詞」と呼ばれる形式の
         新ジャンルが現れてくる。

 では唐詩と宋詩との違いはどうか。荒っぽい比較をしてみると、
     比   較           唐  詩           宋  詩
     作 詩 層          宮廷詩人          士大夫層
     作 者 数         二千二百余人       三千八百余人
     作 詩 数          四万余首          数十万首
     表   現           叙情的            叙事的
     用   語          美文調・華麗        硬語・質実
     大 詩 人        王勃・楊烱・盧照鄰     林逋・范仲掩
                     駱賓王・李 白      梅尭臣・欧陽脩
                    杜甫・王維・孟浩然     文同・司馬光
                   白居易・李商隠・杜牧        王安石・蘇軾
                     釈皎然(禅僧)       蘇轍・黄庭堅
                     釈貫休(禅僧)       陳師道・陳與義
                                    陸游・朱熹・文天
 もう少し宋詩について触れてみよう。建国後約半世紀までは晩唐詩を模倣した西崑体が幅を利かし、貴族趣味の感傷的・美文的な作詩が主体であった。その後、仁宗期に入ると欧陽脩に重んじられた梅尭臣らが清新な詩を作り、それまでの詩風を一変させる。これにより貴族による抒情的て美的な詩風を特徴とする唐詩に対し、士大夫による知性的で政治的な詩風を特徴とする宋詩の基礎が確立する。「宋は文を以て詩と為す」という言葉で表現される、叙事・叙述的で知的な詩の時代に入り、従来の文学なら散文として叙述される内容が詩で表現されるようになる。則ち、生活に密着し、人間に濃厚な興味を持ち、社会や政治への意見を示す題材が宋詩の主体となる。感情の爆発が激烈で悲哀・絶望に満ちた唐詩に対し、宋詩は理性的で冷静で悲哀と歓喜を止揚させる。そのいい例が、唐詩では「夕陽」や「月」という言葉がよく使われるが、これは燃焼でありはかなさを表す。宋詩にはそれが少なく、代わりに「雨」という言葉が屡々使われるが、これは持続であり力強さを表す。これは吉川幸次郎先生の著、「宋詩概説」の一節である。また、「唐詩は酒、宋詩は茶」とも云っている。神宗期に入ると、王安石が政治的な議論詩を多く作り、彼と政治的立場を異にする蘇軾(蘇東坡)が悲哀と歓喜を止揚させた機知に富んだ作品を残し、後世に大きな影響を与える。蘇軾の門下生に黄庭堅が現れ、南宋時代黄庭堅を模した詩風が隆盛し、江西詩派と呼ばれる一派が形成される。宋が南渡した激動期において唐詩の抒情性への回帰が見られ、その詩風は南宋四大家と呼ばれる陸游・范成大・楊万里・尤袤らによって発展させられた。南宋後期になるといくつもの流派が形成され、そのなかで江湖詩派が有名である。江湖詩派では下級官僚や山林の隠士など政治上の地位がない小詩人が活躍した。宋代は「詞」とよばれる歌謡文芸が隆盛し、宋詞と言われる。宋詞の詞風のなかで最も影響力があったのは豪放詞と婉約詞であり、豪放詞の代表的な詞人は蘇軾・辛棄疾であり、また劉過・陳亮・劉克荘がいる。婉約詞の代表的な詞人は柳永・秦観・晏殊・李清照であり、また欧陽脩・周邦彦・姜夔・晏幾道らがいる。
 さて本中の詩人としての立場である。経学では、司馬光の学統を受けた劉安世(器之)の教えを受け、その後を受け継いで多くの門下生を抱えていた。祖父の希哲(榮陽公)は程頤の門下生でありながら禅を好み、その影響を強く受けて本中も道学を学びながら禅学にのめり込んだと云う。確かに彼の著作<東莱詩集>の中に、「戒殺」や「蔬食」と題する詩が見られる處からも、禅の影響を大きく受けていたことが解る。仏教を敵視した朱熹にとっては許し難く、後に呂本中の<大学解?>は看話禅の翻訳に過ぎないなどとの批判を浴びている。詩人としての名声は経学に於ける功績を上回ると云う人もいるが、蘇・黄ら大詩人に比べると北南宋合わせて三千八百十二人いた小詩人の中の一人に過ぎないと云う人もいる。この辺については何とも云えないが、経学に造詣が深く、禅学に通じ、後に述べる独自の詩学論を聞くとその果たした役割には侮り難いものがあったようだ。科挙に合格する程の詩賦に対する教養も深く、汪信民・黎確・亡弟呂揆中らと詩社を組み、若い頃から詩作にふけるという風であったらしい。当時の詩人で最も多く作詩を発表しているのは、陸游の九千二百首(世に出たものの数で、実際には一万首を超えるという)や蘇東坡の二千四百首には及ばないが、本中の詩の数は千二百七十首と云うからなかなかのものである。
 ではその詩風はどうだったのか。彼は独自の詩論を展開した。一つは「活法」という概念である。「活法」とは禅で云う「活句=悟りの境地の働きを如実に表す、有益に生かして用いられた生きた言葉」に対応するもので、その真意は、「形式はきちんと整っていてしかも整い過ぎず、変幻自在であっても形式はきちんと守ることが大事。作詩には定法があるようでいて定法というものはなく、定法がないようで定法はある。この事をよく理解出来る者こそ活法を会得した者と云える。”出来の好い詩は絶え間なく変化し、しかもよどみなく美しい”と云う人が居るが、まさにこれこそが活法の極意である」とある。形式にとらわれ過ぎず、変幻自在にして流れるように美しく作詩することを心掛けよと云うことである。鋳型にはまりすぎた詩は良くないと、暗に当時の江西詩派の行き過ぎた堅苦しく難解な詩法を戒めたものである。いま一つは「悟入」という概念である。これも禅宗の言葉であって、悟りの境地に入ると云うことだが、体験によって物事をよく理解するという意味である。南宋禅の慧能が唱えた「頓悟=一足とびに悟ること」ではなく、詩作も苦しみ抜いてこそ最高のものが得られるのだと説く。後年呂本中の詩を集めた<童蒙詩訓>には、「文を作るは必ず悟入の慮を要す。悟入は必ず工夫の中より来る。僥倖して得べきに非ざるなり。老蘇(蘇軾のこと)の文に於ける、魯直(黄庭堅のこと)の詩に於けるが如きは、蓋し此の理を尽くすなり」とある。
 次に述べるべきは、本中の名を詩壇に最も轟かした著作、「江西詩社宗派図録」である。上でも触れた江西出身の黄庭堅を始祖とする一派を、本中が始めて江西派と呼称した。以下南宋で大活躍した江西詩の名が罷り通る。その著作発表が本中の二十歳前に為されたというのも興味を引く点である。黄庭堅・陳師道を含めて二十六人の名が見られるが、本中の名はない。恐らく謙虚な気持ちがそうさせたのだろうが、江西詩派として登場する汪革とは親交もあり、黄庭堅の詩風を慕っていたことも明らかなので、当然江西詩派の一員と見なすべきだろう。かの南宋の大詩人、陸游は江西詩派の流れを汲む曾畿に師事し、曾畿はまた本中に詩作について教えを受けたという。さらに曾畿は本中とは子女を婚姻させる程の親しい間柄であった。
 では本中の詩風はどんなものであったのだろう。好みの問題もあるので一概には言えないが、残されている評価では好意的なものが多い。蘇黄両師の思想を尊重した本中は、蘇軾が唱えた新鮮味や黄庭堅の云う漸進性に加えて、調和も保つという詩作に努めた。江西詩派の特徴であるきめ細かくして力強い上に、その詩語は流れるように美しく、しかも淡泊で上品で軽快なものだったという。曾畿や陸游の一部の律詩には、同じような形式のものが見受けられる。南宋に移ると次第に時勢に対する悲憤慷慨の作品が多くなり、その詩風は気宇壮大なものになっていく。本中の詩に対する才能は際立っており、その詩は格調高く、語調はゆったりとしており、庭堅を超えると絶賛する声も聞かれる。
 ここで<東莱詩集>の巻一の冒頭にある詩を一首紹介しておこう。
 「詩題」 暮歩至江上

  客事終輸鸚鵡盃 春愁如接鳳凰臺 樹陰不礙帆影過 雨気却随潮信来
  山似故人堪對飲 花如遺恨不重開 雪籬風榭年年事 辜負風光取次回
     
     客に事(つか)え終に輸(うつ)す鸚鵡の盃  春愁に接するが如し鳳凰臺
     樹陰礙(さまた)げず帆影の過ぎるを  雨気は却(や)む随潮の来るを信ず
     山は故人に似て對飲に堪え  花は遺恨(うら)むが如く重(おそれ)て開かず
     雪の籬(まがき)風の榭(うてな)は年年の事  辜負(こふ)し風光の次に回(めぐる)を取らん

 詞についても触れておこう。その作品は僅かに二十七首に過ぎないが、良い評価が与えられている。尤も少ないと云っても、詞を作る上での決まりが非常に難しいこともあり、また詩作の余技とも見なされていたこともあり、当時の大詩人でもその作詞数は少ない。(日本では本格的詞人は古来より皆無) 
 彼の詞の多くは短かく、題材の範囲も狭く、個人的感情の発露と云ったもので雄大さには欠けると云う。その主なものは、離愁別恨とか風花雪月とか村色野景など、更に南宋になってからは、郷里を思い国を懐かしむと云った作が主となる。<嘨翁詞評>には、「工穏清潤」=巧みで整っており、清々しくしっとりしているといった言葉が与えられている。
 最後に代表的な詞を一首添えておこう。
  「詞牌」 采桑子

      恨君不似江樓月 南北東西 南北東西 只有相隨無別離
      恨君卻似江樓月 暫滿還虧 暫滿還虧 待得團團是幾時
      
      君を恨む江樓の月に似ざるを  南に北に東に西に 
      南に北に東に西に       只だ相随有りて別離無し
      君を恨む江樓の月に似ざるを   暫し満ち虧(かけ)て還(もど)り
      暫し満ち虧て還る      團團(ふえん)得(する)を待つ是(また)幾く時
        
        (江樓の月の満ち欠けに譬えて、人生の離合集散の姿を詠う)

                        
                                                  おわり

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