[呂本中官箴]-Ⅰ
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則一
官に当たるの法は唯三事有り、曰わく清、曰わく愼、曰わく勤。此の三者を知れば、以て祿位を保つべく、以て恥辱を遠ざけるべく、以て上(かみ)の知を得るべく、以て下(しも)の援(たすけ)を得るべし。然して世の仕える者は、財に臨んで事に当たるに自ずから克(たえ)ること能わざれば、常に自ら以て必敗(ひつぱい)せざる為に、必敗せざるの意(おもい)を持てば、則ち為さざる所無し。然るに事常に敗するに至りて自己に能わざれば、故(ことさら)に設心(せつしん)して事を処し、之を戒め初めに在って、察せざるべからず。借使(たとい)役(つとめ)に、權智(ごんち)を用い、百端(ひやくたん)補治(ほぢ)して、幸いにして免れ得るも、損ずる所已(はなはだ)多く、初めに為さざるは為すに愈(まさ)れるに若かざるなり。司馬微の<坐忘論>の雲(いう)うに、「其の巧を末に持すると、拙を初めに戒むると孰若(いずれ)ぞ」と。此れ天下の要言にして、官に当たり事を処する大法なり。力を用いること簡にして功多しと見る、此の如く言う者無し。人能く之れを思い、豈に復た戒吝(かいりん)すること有らんや?
(訳文)官吏に求められるものはただ三ヶ条、すなわち、「清く正しく、慎み深く、そして骨惜しみしない」ことである。この三ヶ条がわかれば、俸給も職位も保証されるし、恥をかくこともないし、上役の知遇も得られるし、部下の援助も受けられる。さて仕える立場にある者は、財物を目の前にすると兎角迷いを生じがちなものだが、常にその魅力に負けないように確りと心積もりをして居れば、防ぎきることは出来る。しかし何時も誘惑に負けてしまい、自分を抑えることがで来ないようなら、確りと心を落ち着けて職務を果たし、おのれを戒めて初心に帰って考え直すべきである。たとえ勤めている際に権力や悪知恵を働かせたり、色々と取り繕ってその場を逃げおおせたとしても失うものは非常に多く、初心に帰って清く正しく勤め直すことが最善の策である。司馬微の著した<坐忘論>に、「物事の終わり頃に上手く立ちまわるのと、物事の初めに拙くとも戒めの心を持って対処するのと孰れが良いか」という言葉がある。これこそ将に当を得た言葉であり、官吏にとって物事を処理する上での必要な法則である。「労少なくして功多し」などと罰当たりなことを云う人は居るまい。人々がよくこの点を考えれば、悔やんだり恨んだりすることもあるまい。
(注釈)司馬(承禎)子微とは、唐の玄宗時代の有名な道士。諫議大夫という大役に就いたり、崇玄学という道教の学校を作り、その卒業生が科挙及第と同等の官吏に付ける様にするなど、玄宗に対し大きな影響力を持っていた。《坐忘論》は,坐忘を道教修行の根本にすえ,それを〈敬信〉することにはじまって〈得道〉にいたるまでの実践の過程を7段階に分けて論じたもの。坐忘とは、一切の差別を忘れ去って大道に同化する境地のことで、白楽天は、「行禅と坐忘は同郷にして、道を異にするなし」といっているが、坐禅の様な修行を意味するものではなく、心の持ちようのこと。また孔子と顔回の坐忘問答も有名である。
則二
君に事えること親に事えるが如く、官長に事えること兄長(あに)の如くに、同僚と與(とも)にすること家人の如くに、羣吏(ぐんり)を待つこと奴僕(ぬぼく)の如くに、百姓(ひやくせい)を愛すること妻子をの如くに、官事を処すること家事の如くにして、然る后に能く吾の心を尽くすことを為す。如し毫末も至らざること有らば、皆吾が心未だ至らざる所有るなり。故に、親に事えて孝、故に忠や君に移すべし;兄に事えて悌、故に順や長に移すべし;家に居りて理(おさ)む、故に治や官に移すべし。豈に二理有らんや!
(訳文)親に孝養を尽くすと同じ気持ちで主君に仕え、兄を尊敬する態度で上司に仕え、家人と普段接している態度で同僚と接し、家の使用人を使うように部下を遇し、妻子を愛する気持ちで万民を愛し、家事をする熱意を持って役所の仕事をこなすという風に努めてこそ全力を注いだことになる。もし少しでも至らぬところがあれば、それは自身の尽くし方が足らなかったが為だと云うことを覚るべきである。このように、親に仕える心構えが孝と云うもので、だからその孝と敬う心が同じ忠を以て君主に仕えるべきであり;また兄に仕える心構えが悌と云うもので、だからその悌と従順な心が同じ順を以て長上に仕えるべきであり;さらに家に居て家政が能く治まっている、だからこそ家政と理屈が同じ治国の心構えを以て公務を果たすべきである。いずれにしろその道理に違いはないのだ!
(注釈)後半の「事親孝、故忠可移於君;」から始まる文言は、<孝経>の廣揚名(廣く名を揚げる)第十四章にあるもの。「子曰、君子之事親孝、・・・」が出だしの言葉。
則三
官に当たり事を処するに、常に以て人に及ぶこと有るを思え。科率の行の如く、既に免れること能わざれば、便ち其の間に就き、其の所以を求め、民を使うに力を省き、重く民の害と為ら使めざれば、其の益や多し。人と争わざる者は常に利を得ること多く、一歩退く者は常に百歩進み、取ることの廉(すく)なき者は得ることの常に其の初めに過ぎ、今に約する者は必ず后に垂報有ること、思はざるべからず。惟だ少しも自忍すること能わざれば必ず敗れ、此れ実に利害の分を知らざるして、賢愚の別れるところなり。予(われ)嘗て泰州(たいしゆう)の獄掾(ごくえん)と為り、顔岐夷仲は書を以て勧めて予は治獄の次第たり。一事毎に一幅を写して相い戒めたり。如し夏月に罪人を処するならば、早間に東廊に在り、以て日色を避けるの類なり。又た如し獄中に人を遣わして勾追(こうつい)するの類ならば、必ず之れ此の事を畢(お)わらしめ、更に別に人を遣わすべからず。恐らく其の賂(まいない)を受けて已に足れば、事を畢わることを肯んぜざればなり。又た如し監司や郡守が厳刻にして過当なる者ならば、須く平心定気し、之れとともに委屈詳盡して之に相い従わせて后已ましむ。如し未だ従うことを肯んぜざれば、再び当に此の如く詳盡すべく、其れ聴かざる者少なし。
(訳文)官職にある者が務めを果たすとき、常にその影響が人々に及ぶことを念頭に置いておくべきである。臨時の徴税など、どうしても行わなければならない場合、その間の事情をよく把握し、民の労力を少しでも和らげ、民の負担を出来るだけ軽くする様に心掛ければ、得る處も多くなる。他人と争い事を起こさぬ様に心掛ける者は、必ず得る處多いし、控え目に行動する者は、必ず多くの功績を挙げることが出来るし、欲張ることのない者は、必ず初めに期待した以上の成果を得ることが出来るし、今倹約を心掛けておれば、必ず将来その恩恵を蒙ることが出来るので、そういう心構えを持つことが大切である。だが少しでも堪え忍ぶことが出来なければ必ず失敗し、これは実に利害の違いというものを認識していないからであって、賢愚の分かれ目ともなるものである。私は昔泰州の牢役人をしていたが、顔(岐)夷仲が推薦してくれて、私は刑徒の管理をすることになったが、一つの事件を終える毎に一幅の書を書き写し、共に戒め合ったものである。夏に罪人を取り調べる時には、日差しを避ける様に心掛けたものである。また獄中に下役の者を派遣して追補する場合、必ず一度で終える様にさせ、別の下役を再度行かせる様なことは慎んだ。これは賄賂を受け取って役目を終わらせない様なことを起こさせない為である。また監司や郡守などの上役が厳し過ぎて度を超している様な場合、心を落ち着け気持ちを静めて譲歩し、一切を受け入れて彼らに従うようにさせ、もしそれでも従うことが出来なければ再度これを繰り返させて尽くさせさえすれば、必ず理解してくれるようになるものである。
(注釈)科率とは科敷とか科配とも云い、不定期の臨時徴税のことで、広い意味の寄付金や労役を割り当てる雑税。呂本中が「泰」州の士曹掾だったとの記述が<宋史>に見られる。顔(岐)夷仲は本中の祖父希哲の知人。宋代の地方行政区画は、州・路・縣に分かれ、その路を統括するものを「監司」といった。また縣を複数まとめて管轄する上位の行政区画を郡と云い、その長官の郡太守が統治した。郡を複数まとめて管轄するのが州だと云う。
則四
官に当たるの法は、道を直すことを先ず為すこと。其れ未だ一直向前(いつちよくきようぜん)するべからざること有るか、或いは直前に大事に反敗(はんぱい)せし者は、須く馮宣徽(ひようせんき)・恵穆(けいぼく)の秤停の説を用うべし。此れ特に小官の然りとなすところに非ず。天下国家の為に当に之を知るべし。
(訳文)官吏に求められるものは、真っ先に道を正すことである。今以て真っ直ぐ前向きに行動出来ないか、或いは直前に大失敗した者は、馮宣徽・恵穆の秤停の説を参考にするがよい。これは独り下級官吏だけの為のものではない。天下国家の為にも知っておくべき知識である。
(注釈)馮宣徽は馮(京)當世のことで、科挙の郷試・会試・殿試共に一位の成績を取った優秀な官人。志操高潔で権力を恐れず、仁宗・英宗・神宗・哲宗四代に仕えた忠臣。恵穆は本中の伯曾祖の呂公弼のこと。秤停の説とは、官人として特に重んずべき公正妥当の心構えを云う。(呂氏童蒙訓-巻上46参照)
つづく
[呂本中官箴(かんしん)]-序文
呂本中に<官箴>という作品がある。公務員の心得を説いたもので、箴は竹の針を意味するので、針の先でチクチクと痛いところを刺すと云った處。
官箴なる言葉が現れるのは、古くは<春秋左氏伝>の襄公四年の項に、「昔、周辛甲之為大史也、命百官、官箴王闕、・・・」とあり、狩猟を掌る古代虞人についての戒めの言葉が続く。これが虞箴と云われるもので、前漢末の文人である揚雄がこれにならって<古官箴>と云われる形式を確立し、その後継承されてきた諸家の作品を集大成したものが、後漢の三公・太傅(たいふ)であった官人の胡広(ここう)がまとめた<百官箴>と云われるものである。さて、この頃の古官箴と称するものは、官人が帝王に献上した戒めの言葉であった。
下って宋代になると、地方官僚から出発する若い士大夫の為に、実際の政治に直結した心得を記したものが現れ、これが官箴の主流となった。その代表は南宋の李元弼(りげんひつ)が著した《作邑自箴(さくゆうじしん)》である。本中の<官箴>はそれに先立つものだが、それ程世に知られていないのか、和訳本が見られない。そこで<呂氏童蒙訓>を完訳した因縁もあり、これを紹介することにした。その精神は簡単で、清・愼・勤に忍を加えた四則に絞られる。何も難しいことを云っている訳ではないが、一考に値する言葉が多々記されており、現代人も一読する価値はあると思う。中国では今でも官人登用試験の問題として採用されることもあり、日本でも教育界・スポーツ界などで引用されている。
では先ず、その概要を記したものがあるのでこれを紹介し、次回から<呂本中官箴>と題して全訳を発表する。
〒344-0063 埼玉県春日部市緑町
田 原 省 吾
[概要]
<官箴>の一巻は、宋の呂本中の撰なり。本中には<春秋集解(しゆんじゆうしつかい)>有りて、已に著録す。此れ乃ち其の著す所は居官の格言にして、凡そ三十三則なり。<宋史・本中列伝>に其の著作の目を備列するも、是の書は載らず。然して<芸文志・雑家類>の中に、乃ち著録一巻あり。此の本は左圭(さけい)の<百川学海(ひやくせんがつかい)>の中に載り、後に寶慶(ほうけい)丁亥(ひのとい)永嘉(えいか)陳(ちんほう)の跋有りて、蓋し即ちが刊行せる所なり。或いは当日偶然題記し、欧陽脩の<試筆>の類の如く、本は著書の意有るに非ず。後人が其の手稿を得て、傳写鐫刻(せんこく)して、始めて標目に加え、故に本傳に載らざるや? 本中は以て詩に工(たくみ)にして名家なり。然して<童蒙訓>なる所作ありて、修己治人の道に於いて、條理を具有し、蓋し亦た頗る經世に留心する者なり。故に此の書は閲歴有得の言多く、以て見るべき諸実事あり。書首に即ち「清・愼・勤」の三字を掲げ、以て當官の法と為す。其の言や千古易えるべからず。王士禎(おうしてい)の<古夫于亭(こふうてい)雑録>に曰わく、”上は嘗て`清・愼・勤`の三大字を御書し、刻石して内外の諸臣に賜いしが、案ぜし此の三字は、呂本中の<官箴>の中の語なり”と。是れ数百年後、尚蒙の聖天子は其の説を採択して百官に訓示し、則ち言う所の中の理を知るべしと。其の論は不欺の道に至り、明白にして深切、亦た以て儆戒(けいかい)に足る。篇(へん)帙(ちつ)無多と雖も、而して詞は簡にして義は精、固有の官者の亀鍳(きかん)なり。
(訳文)<官箴>の一巻は、宋朝の呂本中の著作である。本中には、既に<春秋集解>なる著作がある。この<官箴>作成の目的は、官職にある者への格言を提示するものであり、全てで凡そ三十三則からなる。<宋史・列伝・本中篇>に、その著作目録が載っているが、その中にこの<官箴>は見当たらない。古書目録<芸文志・雑家類>の中に、この<官箴>一巻の名が記されている。著作自体は左圭が編纂した<百川学海>の中にあり、南宋理宗朝の寶慶三年(一二二七年)、永嘉の陳の後書きが見受けられ、陳が刊行したことが解る。もしかすると、昔の人が偶然に題名を付けたもので、欧陽脩の<試筆>の類かも知れず、本中には著作と言う程の思い入れはなかったのかも知れない。後世の人がその手稿を見出し、金石に彫刻して書き写して始めて目録に加えられたので、先に刊行された<宋史・列伝>には載らなかったのかも知れない。本中は詩作に長け、その世界では名の通った人物であり、また<童蒙訓>なる著作があって、修己治人の道に通じ、條理を弁え、また非常に治世について心を砕いた人物でもある。だからこの<官箴>には、昔の有徳の言葉が多く見られ、参考になる多くの事実が記されている。書き出しには、「清・愼・勤」の三字が掲げられ、これを官職にある者の守るべき事として取り上げている。この言葉こそ千古不易と言うべきものである。王士禎の著した<古夫于亭雑録>に、「清朝帝が昔、清・愼・勤の三大文字を書き写されて、これを刻石して内外の諸臣に賜った」とあるが、このお考えになった三文字は、呂本中の<官箴>の中に書かれていたものを取り上げられたものである。こうして数百年の後に、なお清朝の聖天子がこれを取り上げられて百官に訓話した程で、その言わんとする處の正しい道理には、尊重すべきものがある。その論旨は、不欺の道を説くものであり、明白適切にして、戒めとして採用に値するものである。ボリュームはさほど多くはないが、文章は簡潔にして意義は深く、官職にある者の為の特有な手本である。
(注釈)<春秋集解>は蘇轍のものが有名。<宋史>にある本中の項は列伝巻三七六。<芸文志>は朝廷の蔵書目録。<百川学海>は中国で最も古い叢書で、主に唐・宋人の随筆や詩話などを集めたもの。陳()叔方は永嘉縣の人で官人。<試筆>は欧陽脩の「書は人格」とする書論の一部を成すもの。呂本中は呂紫微と云われて、当時の詩壇では有名。王(士禎)貽上は、清朝初期の詩人で文学者。<古夫于亭雑録>については不明。上が清朝のどの皇帝を示すか不明。蒙聖天子とは、清朝皇帝の出身が満蒙であった事から、反清朝運動者らが清朝皇帝のことをそう呼んだらしい。
つづく