カラマーゾフの兄弟は長い長い話なので、私は大審問官のところだけ読んだのです。
だから、カラマーゾフの兄弟が全体的にはどんな話なのかは分かりません。
いつかは全部読んでみたいと思います。
その前に、あらすじと、ポイントを分かりやすく解説したものがあったらもっといいのだけど。
すごく昔に読んだ、カラマーゾフの兄弟のなかの「大審問官」に関する、新聞の小さい文芸記事がずっと気にかかっていました。
「大審問官」には、自由は民衆にとっては恐ろしいもので、自分で何かを自由に決めたり、自分で自由に問題を解決しなくてはならないことは一番おそろしいことであるのだそうです。
民衆は自分で何かを決めたりするのは嫌いなのです。誰か素晴らし王様に全部任せてついていきたい。と願っている。
と言うようなことが書いてあったと思います。
私はそのころは、何も知らない民主主義と資本主義の信者でしたから、ものすごく驚いてしまいました。
「そう言われてみればそうだわ!」
それからというもの、私はひねくれた目で社会を見るようになったのです。
私はキリスト教の内容を詳しくは知らないので、大審問官を読んでもよくわからない点がありました。
おおよその内容は、
キリストは民衆に自由を与えて自分は磔刑になり、いなくなったわけです。
その後、民衆は自由の扱いに困ったらしいのです。
そこに大審問官達のプロジェクトが始まったのです。
民衆には自由は困ったものでした。いちいち自分で考えて物を決めるのは難しいことでした。
民衆は誰かに決めてもらいたい、自分で作ったパン(作物)も自分達で上手に分けることもできない、それで審問官達に全部差し出して改めて分けてもらうことを希望している。
民衆は愚かなので罪を犯すが犯した罪をどうしたらよいのか分からない。
大審問官が罪を許してやり、その罪は大審問官らが購ってやった。
15世紀の長い時間をかけて審問官の事業はようやく起動に乗り民衆は審問官達の足元にひれ伏している。
そこにキリストが現れて、盲いた目を開かせたり、死んだ子供を生き返らせたりと言った奇跡を起こして見せたのです。
キリストは罪人としてすぐに捕まえられて、大審問官がキリストにお前のやったことのおかげで人々はかえって苦しみ我らが正しい道に修正するのに15世紀もの時を費やしたのだよ、と、懇々と言って聞かせる場面が続きます。
大審問官は、こともあろうに悪魔の側についていると言うことまでしゃべってしまいます。
大審問官は一人でしゃべりっぱなしです。
なんだか後ろめたい人がごまかしの言い訳をいっぱい並べているような感じもする。
キリストは、ただ静かにそれを聴いているのでした。
そして最後に静かに大審問官に接吻します。
大審問官は、キリストに向かって、最初は、「お前などは明日は火あぶりにしてやるからな」と言っていたのですが、キリストに接吻されて、「さっさとどこかに行ってしまえ!」となります。
私が昔読んだ新聞の記事では、キリストは大審問官の足元にひれふし、足に接吻したと書いてあったように思うのです。
キリストは屈服したと思っていたのです。
私の思い違いかもしれないです。
でも、それだと全然意味が違ってしまって、私の過去の10年くらいは修正しないといけなくなります。
今回、実際に本を読んで、ちょっとほっとした感じもあります。
ところで、キリストは、悪魔に心を委ねた人も赦すのでしょうか?
キリスト教をよく知らないので、キリストの接吻の意味が本当には分かりません。
それはともかく、自由は民衆にとって、不自由なものであるようです。
自由を使いこなせないで民主主義なんてありえるのだろうか?
なんてことを考え始めたわけです。
身近なところにも、みんなで物を決めることと言うのはよくあって、そんな時、誰も意見を言わないですね。
そして、誰かが何か当たり障りのないことを言うと、「そうだそうだ」と決まるわけです。
そして、言った人が責任者のようになって、先に立って働くわけです。
普段の日常では、責任者は損な役割のように見えますが、この1割か2割くらいいる奇特な人は、時代と場面が変われば大審問官になれる可能性があるのでは。
自由と言うのは、普通の人にとっては、「自由に使えるお金が欲しい。」とか、「自由に旅行にいける時間があったらなぁ。」とか、そんな風に使うものだと思うのです。
自由 = 思いどおりにする
ではなくて、
自由 = 自分の考えで物を決める
自分の考えのない人は被支配者の素質のある人とも言えるのです。
そして、被支配者の素質のある人の方が、圧倒的に多いと思うのです。
それを考えると、どうして、民主主義がこんなに地球に普及したのか不思議です。
ちょっと調べてみたら、18世紀になって、ヨーロッパでは自由、平等を唱える啓蒙思想が生まれて、民主的な政治に移行しつつあったようです。
アメリカの独立宣言や、フランス革命あたりが民主政治への転換点のようです。
民衆は素晴らしい王様に付いていきたかったはずなのに。
王様が素晴らしくなくなったのかもしれません。
民主主義という考えが出てきたわけとか、民主主義の曙のようなものも面白いかもしれないけど、今回はこれくらいにしておきます。
世の中は、支配者的な人間が少数と、被支配者的な人間が大多数でできているというところに注目してみます。
ドストエフスキーも大審問官の中でそのことをすごく言っているし。
そういう人間の分け方に自由を絡めると、支配者的な人間は自分でものを決めることができる人、被支配者的な人間は自分でものが決められない人ということになります。
それで、今は民主主義で資本主義の時代なのです。
それで、自由と平等を実感してしあわせでしょうか?
何で、貧乏な人とお金持ちの人に分かれているんでしょう?
これから先は、私の独断的な妄想の世界の話になりますが、
支配者 = 資本家、または、企業家
被支配者 = 消費者
なのだと思うのです。
支配者は企業家と言うふうに名前を変えました。
そして、物を作って売って儲ける為に、買う役目の人がたくさん必要になったのです。
もちろん消費者も、企業に所属して、自社の製品をたくさん売るために知恵を絞っているのです。
売る役と買う役は、入り乱れていて、一人の人間が両方に参加しているのですが、賃金をもらって物を買って暮らすという形は、消費者という役目と言ってよいのではと思います。
それが、民主主義で資本主義の現代ではないかと。
民主主義がちっとも平等でないのも分かるというものです。
なんだかんだいって、お金持ちの人たちが政治に影響力を持っていると思うし、政治家も大概はお金持ちがなっていて、お金持ちのための政治をそれとなくやっているのだと思うのです。
もちろん、表向きは福祉だの、減税だのって一生懸命やってくれています。
世の中の人は、まだ足りないと思っているらしいけど、私は日本の政治は良心的だと思ってます。
もっともっと、と要求ばかりする庶民の人達、そういう考えが既に被支配者的なのです。
そういうことに気が付いてほしいです。
本当に大事なのはお金持ちのための政治なのです。お金持ちがダメになったら日本がだめになってしまうのですから。
そういうわけで、資本主義には、お金持ちと貧乏人という、支配、被支配の関係が隠れていると思うのです。
秘密にしてあることだと思うのです。
秘密を知るというのは、すごく面白いことです。
他にも、大審問官から知った自由からはいろいろなことが考えられて、すごいのですが、何よりドストエフスキーという人のすごさが思い知らされました。
そのうちにまた。
だから、カラマーゾフの兄弟が全体的にはどんな話なのかは分かりません。
いつかは全部読んでみたいと思います。
その前に、あらすじと、ポイントを分かりやすく解説したものがあったらもっといいのだけど。
すごく昔に読んだ、カラマーゾフの兄弟のなかの「大審問官」に関する、新聞の小さい文芸記事がずっと気にかかっていました。
「大審問官」には、自由は民衆にとっては恐ろしいもので、自分で何かを自由に決めたり、自分で自由に問題を解決しなくてはならないことは一番おそろしいことであるのだそうです。
民衆は自分で何かを決めたりするのは嫌いなのです。誰か素晴らし王様に全部任せてついていきたい。と願っている。
と言うようなことが書いてあったと思います。
私はそのころは、何も知らない民主主義と資本主義の信者でしたから、ものすごく驚いてしまいました。
「そう言われてみればそうだわ!」
それからというもの、私はひねくれた目で社会を見るようになったのです。
私はキリスト教の内容を詳しくは知らないので、大審問官を読んでもよくわからない点がありました。
おおよその内容は、
キリストは民衆に自由を与えて自分は磔刑になり、いなくなったわけです。
その後、民衆は自由の扱いに困ったらしいのです。
そこに大審問官達のプロジェクトが始まったのです。
民衆には自由は困ったものでした。いちいち自分で考えて物を決めるのは難しいことでした。
民衆は誰かに決めてもらいたい、自分で作ったパン(作物)も自分達で上手に分けることもできない、それで審問官達に全部差し出して改めて分けてもらうことを希望している。
民衆は愚かなので罪を犯すが犯した罪をどうしたらよいのか分からない。
大審問官が罪を許してやり、その罪は大審問官らが購ってやった。
15世紀の長い時間をかけて審問官の事業はようやく起動に乗り民衆は審問官達の足元にひれ伏している。
そこにキリストが現れて、盲いた目を開かせたり、死んだ子供を生き返らせたりと言った奇跡を起こして見せたのです。
キリストは罪人としてすぐに捕まえられて、大審問官がキリストにお前のやったことのおかげで人々はかえって苦しみ我らが正しい道に修正するのに15世紀もの時を費やしたのだよ、と、懇々と言って聞かせる場面が続きます。
大審問官は、こともあろうに悪魔の側についていると言うことまでしゃべってしまいます。
大審問官は一人でしゃべりっぱなしです。
なんだか後ろめたい人がごまかしの言い訳をいっぱい並べているような感じもする。
キリストは、ただ静かにそれを聴いているのでした。
そして最後に静かに大審問官に接吻します。
大審問官は、キリストに向かって、最初は、「お前などは明日は火あぶりにしてやるからな」と言っていたのですが、キリストに接吻されて、「さっさとどこかに行ってしまえ!」となります。
私が昔読んだ新聞の記事では、キリストは大審問官の足元にひれふし、足に接吻したと書いてあったように思うのです。
キリストは屈服したと思っていたのです。
私の思い違いかもしれないです。
でも、それだと全然意味が違ってしまって、私の過去の10年くらいは修正しないといけなくなります。
今回、実際に本を読んで、ちょっとほっとした感じもあります。
ところで、キリストは、悪魔に心を委ねた人も赦すのでしょうか?
キリスト教をよく知らないので、キリストの接吻の意味が本当には分かりません。
それはともかく、自由は民衆にとって、不自由なものであるようです。
自由を使いこなせないで民主主義なんてありえるのだろうか?
なんてことを考え始めたわけです。
身近なところにも、みんなで物を決めることと言うのはよくあって、そんな時、誰も意見を言わないですね。
そして、誰かが何か当たり障りのないことを言うと、「そうだそうだ」と決まるわけです。
そして、言った人が責任者のようになって、先に立って働くわけです。
普段の日常では、責任者は損な役割のように見えますが、この1割か2割くらいいる奇特な人は、時代と場面が変われば大審問官になれる可能性があるのでは。
自由と言うのは、普通の人にとっては、「自由に使えるお金が欲しい。」とか、「自由に旅行にいける時間があったらなぁ。」とか、そんな風に使うものだと思うのです。
自由 = 思いどおりにする
ではなくて、
自由 = 自分の考えで物を決める
自分の考えのない人は被支配者の素質のある人とも言えるのです。
そして、被支配者の素質のある人の方が、圧倒的に多いと思うのです。
それを考えると、どうして、民主主義がこんなに地球に普及したのか不思議です。
ちょっと調べてみたら、18世紀になって、ヨーロッパでは自由、平等を唱える啓蒙思想が生まれて、民主的な政治に移行しつつあったようです。
アメリカの独立宣言や、フランス革命あたりが民主政治への転換点のようです。
民衆は素晴らしい王様に付いていきたかったはずなのに。
王様が素晴らしくなくなったのかもしれません。
民主主義という考えが出てきたわけとか、民主主義の曙のようなものも面白いかもしれないけど、今回はこれくらいにしておきます。
世の中は、支配者的な人間が少数と、被支配者的な人間が大多数でできているというところに注目してみます。
ドストエフスキーも大審問官の中でそのことをすごく言っているし。
そういう人間の分け方に自由を絡めると、支配者的な人間は自分でものを決めることができる人、被支配者的な人間は自分でものが決められない人ということになります。
それで、今は民主主義で資本主義の時代なのです。
それで、自由と平等を実感してしあわせでしょうか?
何で、貧乏な人とお金持ちの人に分かれているんでしょう?
これから先は、私の独断的な妄想の世界の話になりますが、
支配者 = 資本家、または、企業家
被支配者 = 消費者
なのだと思うのです。
支配者は企業家と言うふうに名前を変えました。
そして、物を作って売って儲ける為に、買う役目の人がたくさん必要になったのです。
もちろん消費者も、企業に所属して、自社の製品をたくさん売るために知恵を絞っているのです。
売る役と買う役は、入り乱れていて、一人の人間が両方に参加しているのですが、賃金をもらって物を買って暮らすという形は、消費者という役目と言ってよいのではと思います。
それが、民主主義で資本主義の現代ではないかと。
民主主義がちっとも平等でないのも分かるというものです。
なんだかんだいって、お金持ちの人たちが政治に影響力を持っていると思うし、政治家も大概はお金持ちがなっていて、お金持ちのための政治をそれとなくやっているのだと思うのです。
もちろん、表向きは福祉だの、減税だのって一生懸命やってくれています。
世の中の人は、まだ足りないと思っているらしいけど、私は日本の政治は良心的だと思ってます。
もっともっと、と要求ばかりする庶民の人達、そういう考えが既に被支配者的なのです。
そういうことに気が付いてほしいです。
本当に大事なのはお金持ちのための政治なのです。お金持ちがダメになったら日本がだめになってしまうのですから。
そういうわけで、資本主義には、お金持ちと貧乏人という、支配、被支配の関係が隠れていると思うのです。
秘密にしてあることだと思うのです。
秘密を知るというのは、すごく面白いことです。
他にも、大審問官から知った自由からはいろいろなことが考えられて、すごいのですが、何よりドストエフスキーという人のすごさが思い知らされました。
そのうちにまた。