乙骨正生『怪死―東村山女性市議転落死事件』(教育史料出版会1996年5月)
より、引用しました。
できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。
なお、乙骨さんにはメールで著書を引用している件をご報告したところ、快諾していただきました。
ありがとうございます。
(目次)
□まえがき
□Ⅰ章 怪死のミステリー
□Ⅱ章 疑惑への道のり
■Ⅲ章 対立の構図
□Ⅳ章 たたかいの軌跡
□Ⅴ章 真相を明らかにすることは民主主義を守ること
□あとがき
◆脱会者へのいやがらせの実態
こうした寺院や僧侶に対する攻撃に加えて、創価学会は、脱会者に対しても激しい攻撃を加えている。
一連の紛争の過程で、創価学会の指導方針に疑問を抱いた数十万人単位の学会員が脱会し、日蓮正宗の信徒組織である法華講へと入講した。会員の大量流出に強い危機感を抱いた創価学会は、組織引き締めと脱会阻止を目的に、脱会者に対する徹底した攻撃を指示したのである。こうした攻撃は、脱会者を法華講から学会に連れ戻すとの意を込めて「脱講運動」と呼ばれている。
「脱会すればこうなるという見せしめのため、憎悪と敵意をむき出しにした激しい嫌がらせを行うよう指示されている」(学会本部職員)
1992年3月に脱会した、公明党の福井県本部長で当時県議だった田賀一誠氏は、池田氏が「脱会者を自殺に追い込め」と指示した事実を明らかにしている。
実際、池田氏は、92年12月13日に開催された全国青年部幹部会の席上、
「(脱会者など敵対者は)針金でゆわえて、あの頭、トンカチでブッ叩いて」
と指示している。また、89年にはこんな発言も行っている。
「全員が『勝つ』と強く決めていけ。勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ。私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ。強気で勝つんだ。強気、強気、強気、強気……でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)何でもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ。(中略)反逆者には『コノヤロー、バカヤロー』でいいんだ」(89・3・12埼玉指導)
およそ「国連平和賞」を受賞した“平和の指導者”、あるいは「桂冠詩人」の称号を受けた“文化人”とは思えない発言だが、こうした非常識な指導に基づいて行われる脱会者攻撃、批判者、敵対者攻撃が、常軌を逸するのは当然といえよう。
1993年には、脱会者有志の手によって、創価学会による「脱講運動」の被害をまとめた、「脱講運動被害状況報告書」が警察庁に提出されているが、そこには、暴行、放火、脅迫、器物損壊、尾行、無言電話、面会強要などの違法行為、不法行為の実態が赤裸々に綴られている。
◆「創価学会脱会者3300人大調査」
95年秋、『週刊文春』編集部は、脱会者に対し、創価学会による嫌がらせの実態をアンケート調査し、その結果を「創価学会脱会者3300人大調査」と題し、95年12月14日号で掲載した。
「玄関に犬猫の死体」「脅迫電話の心労で死亡」「自動車の把手に人糞」「車が燃やされる」などの見出しに象徴されるように、同誌記事には、脱会者に対する創価学会員による嫌がらせの実態がナマナマしく報告されている。
「平成3年の脱会後、地区の婦人部長ら大幹部3人が午後8時から3時間半にわたって、一方的な問責。以来、現在まで面談強要は85回、のベ250人以上になる」
「休日でも朝から4、5人の集団で繰り返し来た。断っても帰らず、(池田)先生を裏切ると地獄に落ちる、とわめき散らす。私は過去に大病をしましたが、そのことを持ち出して『1年以内に必ずバチがあたる』。警察に通報すると言っても『するならしてみろ』と平気な顔でうそぶいていた」
「断っても断っても、ドアをガンガン叩いて開けるまで帰らない。それで血圧が上がって2回 入院しました」
「脱会後後1カ月してから自宅に無言電話。2週間後、今度は事務所にかかってきた。 放っておくと、1日300本もかかってくるようになった」
「小学生の子供が電話に出ると、『お母さんはただじゃおかないから、覚悟しとくように言っといてよ』」
「学会に帰れ、地獄に落ちるぞなどと書いた手紙の封筒は、黒の縁取りです。学会青年部はやってきては夜10時頃、表のシャッターを蹴飛ばして帰って行く」
「ガンで死ね、うろちょろするなクソババー、殺してやるなどと書かれた脅迫状が投げ込まれた。手紙の中には小学校の教員からのものもあった」
アンケート結果からは、面談の強要、脅迫、嫌がらせ電話に始まる脱会者攻撃が、しだいにエスカレートしていくさまがよく分かる。
「男子部数人が来て『戻るつもりはない』と帰した数週間後、猫の死体が玄関ポーチに置かれ ていた」
「犬の死体が3回投げ込まれた」
「脱会後、玄関前にとぐろをまいた人糞と思われる便が大量にあった」
「息子の自動車に乗ろうとドアに手をかけたところ、把手の内側に何か「グニャ」という感触があった。見ると、人糞を練り込んでありました」
「自家用車のブレーキホースなどを切られたことがあります。平成4年4月から、翌年の春までの1年間に4回。娘の車、主人の車、それに息子の車は2回やられました」
95年12月4日、参議院宗教法人特別委員会で行われた参考人質疑で、秋谷栄之助会長は、自民党の岡部三郎委員の質問に応じ、脱会の自由についてこう答えている。
「岡部 創価学会は、脱会しようとする人、脱会した人に対して、どのような対応をしているのか。
秋谷 会において、入会・退会、これについては全く個人の自由である。
岡部 踏みとどまるように強制するというようなことは、あってはならないという考えか。
秋谷 あってはならない。ただ、親しい友人の関係で、今まで長年、友達として付き合ってきた人が話し合いをし、懇談をするということは、当然、あり得ることだと思う」
入会、脱会はあくまで個人の自由意志であって、創価学会としては、これに干渉するような行為は、いっさいしていないというのである。
だが、実際には、面談の強要、脅迫、恫喝、さらには暴力行為や器物損壊などの嫌がらせが組織的指示のもと日常的にくり返されている。
◆人権侵害を許さなかった朝木市議
こうした脱会者攻撃は、全国的規模で組織的に実施されたため、朝木さんの住む東村山市でも脱会者が激しい嫌がらせに曝された。また、同時に、東村山市の信徒を管轄する東京・小平市にある日蓮正宗寺院広説寺に対しても、しつような攻撃が加えられていた。
「創価学会の地域幹部が押しかけてきて、罵詈罵倒するのは日常茶飯事。平成4年4月には、トイレの壁全面に人糞を塗りたくられたこともあります」(広説寺・小藪賢道住職)
『東村山市民新聞』で、創価学会・公明党問題を報じたことをきっかけに、朝木さんのもとには、創価学会から激しい攻撃を受けている脱会者から、相次いで相談が持ち込まれるようになった。
朝木さんは、こうした創価学会による脱会者攻撃を、市民に対する人権侵害と受けとめ、市民相談の一環として誠実にこれに対応、脱会者や脱会希望者の代理人となって脱会届を出すなど、しだいに創価学会との交渉窓口、一種の被害者相談センターのような役割を果たすようになっていったのである。
もともと朝木さんは、創価学会とも日蓮正宗ともなんの関係も持っていない。むしろ、朝木さんの夫大統さんは、東村山市きっての名刹・臨済宗徳蔵寺の三男であり、朝木さん自身、地元では「徳蔵寺の嫁」と呼ばれていたことに象徴されるように、朝木家と創価学会との距離は、社会一般の家庭よりも疎遠だった。したがって、もし、朝木さんに対する公明党議員の暴言がなく、また、朝木さんの周囲で創価学会による脱会者への度重なる人権侵害がなければ、あるいは朝木さんは、創価学会・公明問題にこれほど深くはかかわらなかったかもしれない。
その意味では、創価学会の反社会的体質が朝木さんを創価学会・公明問題に引き込んだのである。
実際、朝木さんの政治活動において創価学会・公明問題はワンオブゼムにすぎなかった。
筆者の手元に、1991年4月実施の統一地方選挙東村山市議会議員選挙での朝木さんの選挙広報があるが、そこには創価学会の「ソ」の字も、公明党の「コ」の字もない。 「市川房枝さんを受け継いで」「清潔・公平な草の根庶民の政治実現へ、がんばります」「『ムラ』市政・議会の改革を」との見出しが踊る朝木さんの選挙広報には、そのプロフィールがこう紹介されている。
「『朝木明代プロフィール』
東村山中・武蔵高卒/化成小PTA副会長、諏訪町自治会役員、行政委員/生活ク生協に参加/消費税廃止、原発廃止、ごみ・リサイクル、君が代問題の市民運動/一人くらし高齢者の毎週昼食会、高齢者アパート、家賃補助、対策基金などを実現させた高齢者問題の専門家/87年市議に初当選/市幹部議員家族の市職員情実採用など不正を追及、違法な補助金・税金免除の取り消しを実現/議員報酬のお手盛り値上げに反対し、値上げ分を返上」
この選挙広報には、推薦人として参議院議員の紀平てい子さんをはじめ、元参議院議員の中山千夏さん、日大教授の北野弘久氏、作詞家の永六輔氏、松坂大教授の加藤富子さん、元市川房江議員秘書の山口みつ子さんなどが推薦人として名を連ねており、紀平さんは次のような推薦文を寄せている。
「侵される地球の自然環境、高齢者社会と福祉の現状、他人(ひと)のいたみのわかる若者を育てる教育、どれひとつとってみても、女性の感性と知恵が必要です。
草の根(グラスルーツ)民主主義の灯を掲げる無所属・革新の朝木明代さんの存在は、住民の声、台所や茶の間の声を市政につなぐ有能なパイプ役です。ぜひ応援してあげて下さい」
このプロフィールに明らかなように、朝木さんは、老人福祉のエキスパートとして、超高齢社会を迎える日本の福祉の貧困さを改善するため、また、東村山市における福祉行政の向上、発展をめざして全力を投入していた。
そうした活動の一環として、朝木さんが議員になる前から主宰して行っているのが高齢者昼食会。これは、朝木さんの近所に住んでいた独居老人が、孤独死したことを契機に朝木さんが始めたもので、毎週土曜日と水曜日に、市内の二つの公民館を借りて、高齢者とともに食事をつくり、廉価で提供しているもの。朝木さんは議員になり超多忙となっても、いつも三角巾にエプロン姿でこれに参加。多くの高齢者とともに楽しそうに食事の調理に当たっていた。
朝木さんが死亡した9月2日は土曜日にあたっていた。この日、5時の飛行機で朝木さんは高知に向かう予定だったが、昼食会は予定どおり行うことにしており、前日、昼食会を手伝ってくれる「草の根」関係者に「明日の献立の用意をしなければ」と語っている。この関係者は、翌日の昼食会の献立に心を配っていた朝木さんが自殺するなどとは考えられないと語っている。
この他、高齢者アパートについては、89年9月に議会に設置促進の陳情を行い、このときは「時期尚早」とする公明党などの反対によって不採択となるが、以後、朝木さんの粘り強い議会活動の結果、93年9月に、民間借り上げ方式の高齢者アパート「ピア美住」として実現する。さらには、朝木さんが提案した「レインボープラン」を下敷きにして、東村山市は、利息で高齢者福祉対策を行う「長寿社会対策基金」の設置を決めるなど、朝木さんは、高齢者福祉の向上、発展のため、全力を傾注していたのである。
また、朝木さんは、無駄な補助金など違法、不法な税金の支出や税金免除の取り消しを求めて、監査請求や行政訴訟を積極的に展開。最終的に、市が行った無駄な税金の支出を総額3000万円以上取り返している。
市民の血税を無駄に使わせないというこうした朝木さんの政治姿勢は、多くの市民の共感を得ていた。
これに加えて行政や議会の癒着や談合の摘発、批判、建築紛争の解決など、朝木さんが行っていた政治活動は多岐にわたっており、創価学会・公明問題は、こうした活動のほんの一部にすぎなかった。
【解説】
こうした寺院や僧侶に対する攻撃に加えて、創価学会は、脱会者に対しても激しい攻撃を加えている。
こうした反社会的、暴力的な行為について、創価学会は宗門、脱会者および一般社会に対して、一切謝罪などしてきませんでした。
創価学会が社会との融和共存を図るなら、過去の行動を真摯に反省し、誤った行為、行き過ぎた行為については明確に謝罪すべきでしょう。
獅子風蓮