立て初むる糠蝦とる浦の初竿は 罪の中にも優れたるかな
これは児島での歌らしい。立願が「立て初むる」となり、阿弥陀と糠蝦(あみ)をかけてるところが実際洒落ている。だからその竿が罪の中でも優れている、と訳わからんこと言ってもおもしろいのである。豊漁の予祝であり罪でもあること、それを洒落で重さを逃すこと、――こういう風のような感性はなかなかだと思わざるを得ない。
すべての、人間の過失は、性急といふことだ。早まつた、方法の放棄、妄想の妄想的抑壓。
[…]
凡ての他の罪惡がそこから生ずる根元的な罪惡が二つある。性急と怠惰。性急の故に我々は樂園から追出され、怠惰の故に我々はそこへ歸ることができぬ。併しながら、恐らくはたゞ一つの根元的な罪惡があるのみであらう。性急。性急の故に我々は追放され、又、性急の故に我々は歸ることができない。
――カフカ(中島敦訳)「罪・苦痛・希望・及び眞實の道についての考察」
ここまでくると、罪はいわゆる罪ではなくスピードそれ自体であり、最近の「スピード感」を持っている輩など一瞬で地獄行きである。西行も風であるが、カフカは突風である。吹き飛ばされて、罪と化した人間が目の前を通り過ぎる。カフカはたぶん、その絶望感を「怠惰」と言い訳しているだけである。確かに、西行は、ぼんやり児島でしゃれている場合ではなかったのかも知れない。西行にも我々にも本当の怠惰が存在する。