★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

任侠の桜

2011-11-04 23:32:18 | 映画


授業中、突然「凶気の桜」のことを思い出した。芥川龍之介の「母」を話題にしていて思い出したのである。

「凶気の桜」は、以前窪塚洋介主演で話題になったやつである。「タクシードライバー」と「機械仕掛けのオレンジ」を一緒くたにして、任侠映画にしたような映画であった。

三人組「ネオ・トージョー」は、自分たちのまち・渋谷で、ちゃらちゃらしたダメ日本人や外国人たちをぶん殴ったりしていた。三人のうちのイデオロギー担当の山口が、任侠右翼の事務所で「自分はナショナリストッす」といい、「おれたち右翼と同じじゃねえか」といわれると「ちがいますよ」と言い返していた。彼は古本屋に入り浸り、ナチスのこととか二・二六事件のことを勉強していたので、そういうことになったのであろうが、右翼にそんなことを言ってのけるとは、ちんぴらの癖になかなかいい線を行っている。だいたいの右翼は、右翼とナショナリズムの区別さえ付いていない。右翼は元来ちゃんと泥臭い左翼と共闘すべきだったのだ。右翼の一部がちゃんと日本の風土や古典文学の研究をせずに売国奴的親米とつるんだりしているから、ナショナリストが「正義」とか「反米」を買ってでなくてはいけなくなる……。下手すると日本では左翼が古典研究に一生懸命になったり反米を買ってでたりするわけだから話にならぬ。左翼の負担が重すぎるだろっ。……外国からみれば対外的なイデオロギーにみえても、それらは基本的に内紛的なあまりにも内紛的なものでありもっと言えば、「反(現在の)日(本)」的な趣を帯びている。右左関係なく。

主人公達も既存のヤクザ的ゴタゴタに利用されていくうちに(というより、三人の人間関係もそもそもそうだったような気がするが……)、殆ど義理人情だけを気にして行動するようになり、最初の志はどこへやら、親分や友達がやられたので、女(←なぜか女優がハーフw)を棄てて復讐に飛び出していくといういつものパターンに陥る。上記のように、本当に主人公達が憎んでいるのは、日本の何だかよくわからんシステムやからくりである。もっといえば「普通の人達」である。

そもそも「タクシードライバー」の主人公みたいな孤独と救世済民の志もなければ、「機械仕掛けのオレンジ」の主人公みたいな根っからの邪悪さも主人公にはない。原作がどうなっているか知らないが、結局、この映画は、主人公の山口の本当の「父親」探しの話みたいになっていた。親のことより国のことを考えて頂けないでしょうか……。日本の社会の親子の絆という「観念」(昔は「家」だった)の強力さには、あらゆる革新勢力が足を引っぱられてきた。これは「観念」だから、実際の親子はそれを守るために逆にコミュニケーションをしなくなる。たぶん昔からそんな感じなのだ。

上の絵は、ブレイクタイムのように映画の中にあった、山口と、高校でラクロスをやっていた美少女が、車に乗っている場面である(笑)。「タクシードライバー」の主人公は思い人を客として後ろに乗せていた。山口は平等主義のせいか、助手席に乗せている。もうこれで二人の平等な心理ゲーム──大してしゃべらずお互いに気を遣い合うだけの──が始まってしまっていた。ナショナリズムどころじゃないわ。


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