★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さくらの重なり

2021-10-18 23:19:13 | 文学


吉野山さくらが枝に雪散りて花遅げなる年にもあるかな

國文科に入ってとりあえずヨカッタとおもうのは、くずし字の翻字の練習をして、当たり前であるが昔は和歌やら何やらは明朝体やゴチックで書かれていたのではないということを思い知ったことである。勿論知識としては知っていたが、思い知るというのが重要である。

なにやら岩の染みだか蜘蛛の巣みたいなひょろりと垂れている字から意味を取り出すまでにはものすごく時間がかかり、――もはや我々の文芸が自然に貼り付くように存在していて近代の我々はそれを強引に引きはがして行くほかはないのだが、それは一種の暴力と感じられる。

人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、という言葉があるが、――古典を読んでいると、確かにそういう通奏低音が聞こえる。馬にけられて以降が独走して平家物語になったりするけども、それでもそこにはかくれた現実があって、それが人の恋路なのである。この恋路には、路である限り、桜を見に行く路も含まれているのかもしれない。ネットの罵詈雑言も平家物語みたいなもんで、ほんとは人の恋路を邪魔されたという鬱屈がかくれているのではないだろうか。

たしかに、上の吉野山の桜には、無限の和歌と恋が折り重なって咲いているのであったが、――たしかにこれはいらいらいする。ばっさりと切ってしまいたい欲望も我々に生じる。

花より団子

これはちがう。花と団子は一続きだ。花と恋が一続きであるように。


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