この地蔵堂の由縁が書いてあったので読んでみた。
これによると、この地蔵は二代目で、一代目はもともと小豆島八十八箇所二番の碁石山にあったそうで、「三条さん」と呼ばれていた。で、よくわかれらんが、寛政年間にここに来たそうである。この地蔵さんの霊験は強力であって、みんなが世話になった。例えば、足の立てなくなった旅人が二十一日間参籠したら、地蔵の体が汗ばみ額から水がしたたり落ち、旅人は歩けるようになったのである。地蔵は弥勒菩薩がこの世に現れるまで衆生を救う使命を帯びて、この地蔵もその使命を忘れていないのであった。いまでもときどき地蔵が汗ばんでいるのをみて人々は、誰かがお願をかけていると言い合い、信心を深めるのであった。
お地蔵さんの顔を覗いてみたが、たしかに少し汗ばんでおられるようだ。
で、続きを読んでみると、
なお、地蔵さんの右に安置されている小さな墓は、お堂の再建に当り、台座の下から出土したもので、妙然童女 戒名不明の童子という字が見える。幼くしてこの世を去った愛児を、あの世で守っていただく為に、台座の下に納めて菩提をとむらっていたものであろう
とのことである。文章は、昭和57年、太田小学校校長であった三木一夫先生、刻んだのは高松工芸高等学校の松本長敬?先生である。