★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

山王神社を訪ねる(香川の神社171)

2018-03-29 18:06:17 | 神社仏閣


東小山自治会集会場から参道を登っていくのであります。『香川県神社誌』には、「東小山神社」として載ってます。祭神は、大山祇神。すなわち、おっきい山の神である。山の神なんて、日本書紀や古事記以前にたくさんあったのであろうから、ここだって、単に「お山」みたいなものでよかったはずであろう。高い建物が多いのでよくわからなくなっているのだが、香川におけるお山、――御岳と駒ヶ岳の3000メートル級に挟まれたところで育ったわたくしにとっては、それらはガキが作った砂山レベルであるが――、峰山とか勝賀山、あるいは由良山でさえ、結構な迫力とオーラを持っているのである。近づいていってみりゃわかります。



……仏塔(ぶっとう)



鳥居は、平成4年。



……運動(うんどう)



上につきました



拝殿



本殿。右奥に「山王宮落成記念碑」があって、昭和60年とあった。結構最近である。「バブルと神社」って、誰か論文で書いているだろうなあ……

 

何か、花見の場所取りというか、その跡というか……。でも、ここは花見にゃいい場所ですね……。わたくしが氏子に先んじて花見を楽しみますので悪しからずっ。

  



帰ります。



もう夏ですね……

編笠の墓を訪ねる(香川の地蔵34)

2018-03-29 16:54:46 | 神社仏閣
山王神社に参道の登り口あたりに、東小山自治会集会場がある。その入り口に地蔵堂がある。平成7年の案内板(鶴尾地区地域おこし事業推進委員会)によると「編笠の墓」というらしい。



「江戸時代、網笠康斉という武者が諸国修行の途中、高松藩に立ち寄り、武術試合を申し込みました。城主は、武術にたんのうな竹内某に命じ、御前試合をさせましたが、網笠の勝となりました。」

あらら……これはいつものパターンになるぞ……。

「藩主は、召しかかえようとしましたが、辞退して立ち去り、当寺小山辺にて多数の竹内の門下生の闇討ちに合い、きり殺されました。」

やっぱり……。最低ですね、竹内門下のへっぽこ讃岐武士どもは。すみやかに呪われよ。

「里人は、これをあわれみ、墓標一基を作りその霊をまつり、なお、同人の追善を供養のため、地蔵堂を造営したと伝えられています。」

だいたい里人も、本人が死ぬ前にそのへっぽこ野郎どもをヤっちまったほうがいいのではないか。墓をつくったって何か意味あるのかよ。はいはい、無理ですね……

「なお、地蔵堂には、他に墓石がありますが、古老の話では、この地は、坂田、飯田、円座方面に通ずる三さ路で事故多く鬼門の辻とも言われ、死者の霊を供養したようであります。」

ただの鬼門神社的なものであった可能性もあり……


熊野神社の境内社を訪ねる(香川の神社169-2)

2018-03-29 01:09:22 | 神社仏閣


まずは、左手奥に金刀比羅宮。昭和四十八年三月、春日川の河川改修によってここに移ってきたのであった。『香川県神社誌』によると、もとは東大熊(元山上)にあったらしく、桜満開期に「花之江祭」をやっていた。写真も残っているが、玉垣がずらりと取り囲んだ結構立派な神社であったもよう。



鳥居をくぐると、これは「当たり」であると確信。狛犬がいいっ

 



特に、阿の人は、たぶん「あれっ、おれのバームクーヘン食べたのだれ?」みたいな貌である。



本殿。

右手奥には、境内社の皆さんがいくつか居られる。



  

さて、この神さんたちが誰なのかであるが、よく分からない。『香川県神社誌』には、境内社の記述はないからだ。で、熊野神社に続いて、東大熊や西大熊にあるという、「熊神社」、「大熊神社」、「西大熊神社」などが写真付きで紹介されているが、いずれも、ここにある小祠を思わせるものである。特に、熊神社の台座の部分の丸い石が怪しい……。ここらには、熊氏という一族がいたらしく、地名も……。「熊神社」は特に熊氏の鎮守だったらしいのである。思い切って、いろいろとここにまとめて持ってきてしまったのかもしれないと妄想した次第であった。