最近よく見られるのが、実質負けてる人が、勝利宣言をするというパターンであるが、良く考えてみれば、最近に始まったことではない。学問の中でもあらゆる政治的場面でも、それがじりじりと進行していったのをみんな目撃してきたはずだ。そして、気がついてみると、国のトップから自らの周囲までを見渡してみるに、負け犬的な吠え方だらけになっているように見える。彼等は負ければなぜか余計勝つのであるからやっかいである。つまり、負けてることに気付かなければ最強だということには彼等の中ではなっていないのである。そこまで耄けてはいないわけだ。
(負け犬を「褒めて育てる」のは、負けると威張るという癖をつけるという意味でやはり危険である。私はつい、こんな具合の奴隷の反乱は、孤独がやはり原因なのではないかと考えてしまうのであるが、本当にそうであろうか。まったく分からないという他はない。)
気づきではだめである。その代わりに、訓練しなければ身につかないところの、自らに対する批判的読解力というものが必要であり、これこそ文学が担ってきたものである。どうも哲学は、生半可にやると負けを忘れる効果があるので危険である(笑)。ニーチェが、かかる「力」が欠如した奴隷たちの反乱を危険視するのに、文学的なレトリックを用いるのは、読解力というのが本質的に文学的な側面を持っていることを見ていたからではなかろうか。
小学校の教材でさえ、誤読しまくる学生たちを見ていて、やはり問題は本質的すぎると思った。前言撤回。やはり負けてることに気付いていないのは深刻である。負け犬の特徴として、案外、エセ「文学的」なことをうそぶくというのがある。歌を詠んだり、花を愛でたり、歴史を振り返ったりと……。それらがあまりにも腐りきったひどいものであっても、われわれはそれを少なくとも文学に近い文化の一部として認識してしまう。文化の概念の拡張によって、最近は余計そうなった。ある文学だけを文学と認めることが社会をまともにすることの鍵である。
……というか、学問が役に立つとか立たんとか、