宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

僕は、死なない。 全身末期がんから生還してわかった人生に奇跡を起こすサレンダーの法則 2/2

2020年03月16日 00時01分00秒 | 本のこと
 昨日の続きを。
共感した部分を抜粋したメモ書きが4枚。
それらのまとめになるので、小説ではないが、ネタバレになりますので、それが嫌な人はスルーしてくださいな。




 癌に抵抗した前半部分は明朝体、そして、これから書くサレンダーの部分は丸ゴシック体と、フォントを使い分けているのが印象的。
後年の自分の為に、自分のメモ書きをここに残します(藍色)。
それらにまつわる自分の感想を添えて(深緑色)。

・考えてもしょうがないことは考えない。「今」を気分よく過ごす、ただそれだけのこと。
・人生は遊び。一生分のパスポートをを持って、「地球」というテーマパークにやってきた。その中のアトラクションを決めたのは、自分。
・be、あり方が大事。
・伊勢の瀧原宮(たきはらのみや)は凄いパワースポット。
・人は皆、生きているだけで充分。


癌との向き合い方

①身体の原因・・・体を緩める、温める
②心の原因・・・常にアクセルを踏み続ける生き方、そんなストレスフルな生き方では病気になっても仕方がない。ダメな自分、完璧じゃない自分も受け入れて大切にしてあげることが大事。
③エネルギーの原因・・・「気」負のエネルギーを溜め込んで、それが癌に。
④魂の原因・・・実はこれが一番大きい。癌になるのは、自分で生まれる前に決めていたこと。

・魂には、良い悪いの判断はない。判断するのは、生まれてから発達する自我(エゴ)。魂は死なない。だから魂にとって「死」は避けるべきものではない。魂は「死」をも含め、ただひたすらたくさんのことを、多くのことを、珍しいことを、面白そうなことを体験したいだけ。
・自分の目の前に起こっていることが受け入れがたい事実であればあるほど、魂の視点で意味づけを行うと不思議と落ち着く。
・自分⇒エゴを客観視する。
・自分に起こる全ての出来事は、自分で決めて自分で起こしている。人や環境のせいにしないで、自分が創り出したものだと自覚することによって、次の扉が開く。
・反省はしても、自分を責める必要はない。
・人生に失敗はない。全てが経験。
・ジェンドリン(心理学者)の心理療法「フォーカシング」⇒自分の中にある「ネガティブな感情エネルギー」を外に出す。
・ポジティブとネガティブは同じエネルギーの両端。ポジティブな顕在意識を常に保ち、ネガティブな潜在意識を抑え込んで、ポジティブであり続けることは、ほぼ不可能。「ポジティブ・シンキング」の次の新しい次元は「サレンダー」(明け渡し)。
・自我(エゴ)を手放す⇒サレンダー(明け渡し)即ち「大いなる存在」に身を任す。


思うに、これ、老子の精神ではなかろうか?

で、ここで取り上げられるのが「OSHO」の「TAO 永遠の大河」の一節だ。
そして、著者はこう言う。

これまでの自我(エゴ)による抵抗や執着・判断を捨て、永遠なる大河という「生」の流れに身を任せたときから、明らかに僕の人生の流れが変わってきた
と。

 そして、ここで登場するのが、仏教の「南無阿弥陀仏」
「南無」とは、サンスクリット語で「ナムル」への当て字で「お任せします」の意。
「阿弥陀仏」とは、やはりサンスクリット語の「アミダーユス」(永遠の命)、「アミダーバ」(永遠の光)即ち「大いなる存在」。
よって、「大いなる存在に全てをお任せします」の意。

では、私が毎日唱えてきた「南無大師遍照金剛」との違いは?
調べてみた。
するとそれは、

大師とはもちろん弘法大師空海の事を指し、遍照金剛とは空海が唐に渡った際、仏教の修法を教えて下さった師である恵果和尚から頂いた号であり、金剛=ダイアモンドの様な明るさで周辺を照らすような人物と言う意味があります。
同じ真言宗でも大師を省いて「南無遍照金剛」と唱える派もございます。

とあり、上の解釈から類推するに、「弘法大師空海さまに全てをお任せします」となり、真言宗独自の念仏か。

では、もう一つよく耳にする「南無妙法蓮華経」とは?

「南無妙法蓮華経」のお題目は、今から750年前、日蓮大聖人によって唱え出されました。そして日蓮大聖人は、法華経に予証(よしょう)された末法の仏というお立場から、信仰の対象として曼荼羅(まんだら)御本尊を書き顕(あらわ)され、この御本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と声を出して唱えれば、災(わざわ)い転じて幸いとなり、現世(げんぜ)安穏(あんのん)・後生(ごしょう)善処(ぜんしょ)の利益(りやく)を得ることができ る、と教えられました。

とあり、「法華経の教えに帰依をする」という意味か。

閑話休題

本の内容に戻る。


・明け渡し・サレンダーの領域は二元性を出た領域。右も左も、上も下も、希望も諦めも、ポジティブもネガティブも存在しない。「今ここ」しかない状態。そこは純粋な「Being」しか存在しない領域。
・視界を上げていく。1階から2階へ・・・50階へ・・・すると見えるものが違ってくる。
・魂は何を体験したがっているのか。
・魂にとって、体験自体に「良い、悪い」は無い。その体験が「どんなものだったか」ただそれだけ。そういう魂の視点で自分に今起こっていることを眺めてみると、納得感と落ち着きが得られる。



 次に量子力学と「引き寄せの法則」が登場する。

・僕たちの身体やこの世界は、全て素粒子でできている。素粒子とは原子よりも小さい、物質の一番小さい単位のこと。この素粒子を中心とした力学が量子力学。
1.物質は無い。全てはスカスカの空間で、その空間の中に極小の素粒子がある
2.スカスカの空間はエネルギーに満ちている
3.素粒子は現れたり消えたりして、その動きは完全にランダムで計算できない
4.素粒子の世界では全てが繋がっていて、観察する者と観察される者との区別はつけられない
5.素粒子の世界では、空間や距離は関係ない
6.時間は過去から未来に流れていくものではなく、今現在に過去も未来も全てがある
7.未来は過去に厳密に紐付けされていない
8.未来には無限のパラレル・ワールドが存在する

・この世界は大きな海で、僕たちはその波の一つに過ぎない。一つひとつの波はみんな違って個性的。同じものは一つもないし、これからも一つも起きない。しかし全部繋がっている。つまり、大海はこの世界全体で、波は僕たち一人ひとりの存在。量子という全体の大海の中の一つの現れ、それが僕たち。


 この自我は存在しないという観念を理解するのが難しい。
自我が存在しないのだから、前世もなければ、当然来生もない。従って、天国も地獄もない。
となれば、ジハード(聖戦)に見られる自爆という発想は起きない筈だ。
あれは、死後、自分だけは安寧の地に迎えられたいという自我の極致のように思える。
また、そうした思いを利用したのが宗教の似非で嫌な側面でもあると思っている。
私は、頭では分かっているつもりでも、時々迷路にハマりそうになる時がある。
それを解決するには、昨日もここで書いた、「私は神」という突拍子もない概念が、それを引き戻してくれるように思うのである。
では何故、そこのところに帰結するか、その考え方の流れをもう少し上げてみよう。



・サレンダーの後で湧いてきた「あ、治るな」という不思議な確信。この「根拠のない確信」が、僕の思考と感情の周波数や方向性を一致させたのだと思う。
・未来はパラレル・ワールド。時間は「今ここ」にしかない。「今」という現在が永遠に続いているだけ。
・即ち、現在・過去・未来は同じ時空間に留まっていて、それが散在している状態。
・ということは?様々な未来が無限に存在どの未来も実現可能✖Doing 〇Being「未来の自分」を先取りして生きる
・つながった未来は想定外のところからやって来る方法は考えず、「大いなる存在」にお任せ
・思考とは過去のデータや経験に基づいたものなので想定外の事は「想定」出来ないから結果だけ意図して後は考えない。未来を実現するための思考は敢えて停止させる。恣意的な思考は捨てる
・エネルギーの周波数を高く保ついい気分でいる
・理想の未来につながりたければ、自我の声を採用しないこと。自我は怖れと不安の声でしかない目の前の出来事を判断せず、抵抗せず受け入れ、手に持っているものは執着せずに手放していく明け渡し(サレンダー)

こうして、著者が選択した生き方を箇条書きすれば・・・


①「実現したい未来を生きている自分」にアクセスする
②その自分を感じ取る
③その自分に「今ここ」で成る(思考と感情を同調させる)
④ひたすらいい気分でいることに集中し、余計なことは考えない
⑤目の前に展開される出来事を抵抗せずに受け入れる


行為しようとの意思を持たず、しかもすべてを成し遂げる。これが無為自然の「道」である。 老子

為無為【いむい】
「無為」・(なにも行わないことを)行う。老子の基本概念。

究極の引き寄せ理念、それが老子無為自然



 さて、いよいよ極致

宇宙=神=大いなる存在
・宇宙は自分を分割し、分割した自分で自分を体験している知的な存在


だから、私は神と同一私は神



「これから先」のことは考えない。考えてもしょうがないことは考えない。目の前に来ることに一所懸命対応し、直感的にひらめいたことを行い、毎日気分よく過ごす。

魂は僕という存在を遊ぶためにこの世界にやって来た。



では、この本の究極だと思える部分を抜粋する。


LEELAという言葉がある。
サンスクリット語で「神々の戯れ」という意味。
この宇宙は神々が遊ぶために作った「遊び場」で、神様は自分が神様であることを「敢えて忘れて」この世界にやって来る。
神様はこの世界に生まれたとき「記憶を喪失」する。
何故なら、自分が神様だと知っていると、初めから答えを知っているゲームをやるようなもので、つまらないから。






 結論です。
仮にホントに我々は神様の化身だとして、そして、我々の目の前の出来事が幻だとする。
でも、生まれ変わる度にその前の記憶が消え去るとすれば、
結果として、私が目覚める前に思っていたことと何ら違わない。
要するに、人生は一回コッキリなのだ。
ただ、その大きな仕組みというか理屈を理解した上での毎日と、ただ我武者羅に自己を叱咤する毎日とは大きな違いがある。
その仕組みや理屈を、ロンダ・バーンはザ・シークレットと名付けて世界に紹介したのだろう。
そして、そのお陰で私はその糸口を見つけた。
 また、「生まれ変わる」と書いたが、「ならば過去生があるんじゃんユー」となりそう。
でもそれは、時系列の話ではなく「今ここ」で一緒くたに起こっていると解釈すべきだろう。
パラレル・ワールドが同時に。
何故なら、時間は過去から未来に流れていくものではなく、今現在に過去も未来も全てがある
ということなのだから。
なので、先にも述べたように、前世もなければ来世もないのである。
その考え方自体が「自我」をベースした3次元的発想なので、迷路にハマってしまうのだと思う。

人類の、多分一番高いハードルは「自我」なんだ。
その「自我」との付き合い方。

そいつが肝。
そういうことなんじゃないかな・・・



 恒例につき、ミスプリ?と思える部分を残します
152ページ2行目 自任自認
229ページ3行目 弁天道弁天堂







凄く値が上がってる。
(私が買った2009.3.13.時点では¥ 3,528 だった)

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