チュー太郎のお客さんに熱烈に勧められて、古本を取り寄せた。
歴史観には、様々な見方があって、なかなか断言できないところがある。
そも、その情報自体の真偽に心許ない思いがあるからだ。
例えば南京虐殺。
それはあったとするのが定説となった現在でも、完全否定する一部の政治家や知識人が存在する。
犠牲者の多寡については断定できないが、残された写真や、関係した周辺の証言を予断なく咀嚼すれば、全くのでっちあげだとする主張は苦しいのではないだろうか?
そも、日本軍は兵站が未熟な上に、作戦本部が根性論で押し通す向きがあったやに聞き及ぶ。
そして、そいつをカバーする為に、現地調達を命じたりしたとも。
とすれば、捕虜に食わせる食料は無い、見張るにも手間が掛かる、となった可能性も?
との想像も働かなくもない。
決して私は、自虐史観の持ち主ではない。
が、極力公平冷静に推察すべき、だとは思っている。
武士道、葉隠れの精神を持った昔の日本人が優秀であったことは嬉しいし、疑わないが、反面、組織論を優先するあまり、官僚的に過ぎたのではないか。
そこには、男の嫉妬、やっかみ等もあったやに聞き及ぶ。
そして、戦争と言う究極の空気の中、人は狂うこともある、それが一部だとしても。
勿論、特攻という十死零生の作戦を甘んじて受け入れ、果敢に散華した先輩方の精神力、愛国心には畏敬の念を禁じ得ない。
が、そこまで行くのに、何か策は無かったのか?
最後通牒たるハル・ノートを受け入れられない状況、そこをのらりくらり。
ここにも、軍部の独断専行があったのではないか。
吉田松陰先生の『かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂』という句には、私的には心が奮い立つ。
が、そこをなんとかのらりくらり。
まあ、無理だったんだろうなあ、とは想像がつくが。
そこに存在した大東亜共栄圏という構想。
この本で、目から鱗だったのが、この紆余曲折。
そも、亜細亜は西洋列強の植民地とされ、搾取どころか、奴隷化、属国となってきた。
イギリス、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、これらは大航海時代以降、未開の国に土足で踏み入って蹂躙してきた。
そして、一足遅れでアメリカが参加。
これに腹を据えかねた我が国が立ち上がって、それら属国の独立の手助けをしたという。
その事実を、各所の文献から検証、証明しているのが、本書の肝だと思う。
不明の誹りを覚悟で言えば、大東亜共栄圏とは一種のプロパガンダであって、後進国にある資源を奪う為に南方に攻め入ったのだと、私はこれまで思っていた。
歴史を辿れば、倭寇から秀吉の朝鮮出兵、そして、満州事変、日中戦争と、日本は近隣の国を植民地化しようとしてきた。
満州事変のトリガーたる
柳条湖事件は関東軍の自作自演だったというのは有名なハナシ。
そんなことから、日本は遣り過ぎたのだと思ってきた。
だが、どうやら、そうとばかりは言えないかも知れない。
事程左様に、見る方向が変われば違う物体になってしまう例のように、絶対的真理はないのかも知れない。
なればこそ、慎重に冷静に、歴史的史実に学ぶべきだと思っている。
そういう意味からも、この本は再読する価値ありと認む。
最後に、神風(しんぷう)特別攻撃隊の一番機である。
それは、終戦の前年、1944年10月25日早朝、敷島隊、爆装6機、直掩4機の計10機が飛び立った。
(直掩機(ちょくえんき)とは、搭載艦 (艦載機の場合) などの目的艦、または飛行場の上空を周回し、敵航空機を迎撃して味方艦船や飛行場を守ったり、味方の航空機を掩護(えんご)する戦闘空中哨戒を行う航空機である。護衛機ともいう。なお、直掩とは「直接掩護」の略である。)
そして、見事に本懐を遂げている。
その隊長が
関行男中佐、愛媛県新居郡大町村(現:西条市)出身である。
壮健にして学力優秀、海軍兵学校へ進んだ。
そして、直前に五番機として加わったのが、
大黒繁男海軍飛行兵曹長。
この人は愛媛県宇摩郡川滝村出身で、私の記憶に錯誤がなければ、後に新居郡中萩に住んだ筈だ。
小学校の頃は何度も級長を務め、成績は一番であった。
だが彼は、学業成績のことを両親には絶対言わず、通信簿も隠していた。
貧しくて兄弟姉妹も多い家庭のため、進学は経済的に厳しく、両親を悩ませたくなかったからだという。
教師の説得と父親の配慮で1年だけ新居浜工業学校に通い、住友機械工業に就職した。
そのうち、周りにつぎつぎと赤紙が来て「それならいっそ」と海兵団を志願した。
実は、6機のうち1機はエンジンの不調により、引き返したので、死後「敷島隊五軍神」として、新聞に大々的に取り上げられた。
なんと、直ぐ近くに居た人がこんな名誉な、と、嬉しくなるが、現実はそうとはならなかった。
敗戦後は逆に、疎まれる立場になるのである。
そりゃないだろうとは思うが、これが、付和雷同体質の所以でもあろう。
関行男中佐の母サカエさんの没後、松山市の旧海軍軍人の会「愛桜会」が発起人となって、関の墓があった伊予三島市の関家の菩提寺村松大師の山内に関の慰霊碑とサカエの墓が建立された。
そこは、私の母方の墓所でもあり、ここにも何やら縁を感じる。
1975年には関の慰霊と平和祈願のため、関親子を昔からよく知る西条市楢本神社神主石川梅蔵の発願により、元海軍大佐で国会議員だった源田実の協力も得て、楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された。
そして、関行男中佐と共に、大黒繁男海軍飛行兵曹長のそれも建立され、
毎年10月25日には、敷島隊が敵空母に突入した午前10時に海上自衛隊の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。
また靖国神社には大黒の遺影が祀られている。
靖国神社にある大黒の遺影には、最後の出撃直前にもかかわらず、ほがらかな笑顔を残している。
本書の内容とは逸れてしまったが、私が最も寂寞たる思いに捕らわれる事実がこれなのである・・・