宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

【追憶】海 その愛 加山雄三 そして小樽

2022-07-15 12:30:18 | 昔のこと







 店番をしながら、伝票入力をこなしながら、いつもの文化放送『くにまる食堂』を聴いていた。
けふのゲストは加山雄三さん。
『まだ歌える間に退いていく』との思いを掲げたラスト・コンサートを控えてのプロモーションの一環だろう。
その語り口は、気のせいか、いや、気のせいではなく、呂律の回り具合が若干心許ない。
さういえば、数年前に脳梗塞を発症したのではなかったか。

 そこで流れたのが、『海 その愛』
これを初めて訊いたのは、素人のピアノの弾き語りで、だった。

場所は、小樽。
時は1977年、大学3年の夏、私は一人で北海道を、ヒッチハイクで一周した。
その過程で泊まった小樽ユースホステルは小高い山の上にあった。

ユースホステルには、夕食後の20時から1時間、ミーティングと称した、宿泊者達の触れ合いの機会がある。
勿論それは強制ではないが、私は積極的に参加してきた。
そこでは、『ペアレント』と呼ばれる、そこの責任者が司会進行をする。
やることは、ユースによってまちまち。
自己紹介をしあったり、ゲームをしたり。

小樽ユースでは、ペアレントの男性がピアノの弾き語りを披露してくれた。
そこで彼が歌ったのが、この『海 その愛』なのである。

歌の巧拙は覚えてない。
が、『ええ曲やなあ』と思ったのだから、かなりのレベルだったのだろう。
眼下に小樽の街の夜景が広がる場所で聴くそれは、心に沁みた。


 帰京して、まずやったのが、この曲が含まれたLPレコードを求めること。
そのレコードは今も【チュー太郎】に在る。


 もう45年前の記憶。
更に10年余り遡った頃から第一線を歩んで来られた加山雄三さん。



 正しく永遠の若大将たれ・・・

 



海 その愛 加山雄三






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花園町の若鳥

2022-05-27 16:44:14 | 昔のこと




 昨晩の『 秘密のケンミンSHOW 極』の中で、『かぶと揚げ』なるものが紹介されていた。
下味は塩コショウのみ、衣にだって秘密にするようなことはない。
唯一違うのは『真っ黒な揚げ油』だという。
それは、60年間継ぎ足してきた油に沁み込んだ素材の旨味だという。

 そこでふっと思い出した店がある。
そこの油も真っ黒だった。

新居浜は花園町『若鳥』は、老夫婦二人で営む古い、鶏の唐揚げ専門店。
そこを知ったのは、私が当地にUターンして間もない頃だから、もう43年ほどになる。
高校の同級生が勤める先の先輩の行きつけと、3人で行ったのが最初。

7~8人座れるカウンターと小上がりに座卓が二つだったか?
メニューは、ももと手羽の唐揚げとざんき程度だったように思う。
手羽と言っても、胸から手羽にかけての部位だからがっつり大きい。
ももはコッテリ、手羽はアッサリ。
私は大抵1個ずつ、もう少し欲しい時はそれに手羽をもう1枚。
カリっとした衣の下がジューシーなのがももで、ホッコリしたのが手羽だった。
突き出しとして、ざく切りにしたキャベツが出る。

客はほとんどがおっさん。
店の角の上方にある古くて小さいTVは、夏場はいつもナイター中継だった。
おっさんたちは、そいつを見上げながら、唐揚げを頬張り、ビールを飲む。
生ビールなんて、洒落たものは置いてない。
瓶ビールとポンシュのみ。
それも、3本までとの制限付き。
まるでTVドラマみたいだろ

 その上で、不愛想なおじいとおばあ。
おじいは、黙って鶏を揚げる、おばあは、注文された品を客席へ運ぶ。
たまに口を開けたかと思うと、「あんた飲み過ぎ、もう終わり」ときたもんだ。

不愛想この上ない。
でも、客はみんな、この店が好きだった。



 友人達とよく通った。
一度、結婚する前の細君も連れていった。

そこで垣生の知人と会ったりする。
いわば知る人ぞ知る店だった。



 やがて、私は家庭を持ち、自分の店も始めた関係で、自然と足が遠のいた。
そして、その数年後に『若鳥』は看板を下ろした。
夫婦のどちらかが亡くなったからだという。


 いい店だった・・・










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明治大学と提灯行列

2022-05-23 21:09:43 | 昔のこと





 暫くご無沙汰だった『紫紺の集い』に朗報がもたらされた。
いや、実はそんな大層なもんじゃない。
要は、1979年に卒業した明大法学部法律学科12組の中のポン友で立ち上げたライングループに、久し振りに上がった投稿が『明大野球部春季優勝』だっただけのこと。

事ほど左様に我々は、たとえ43年という長い時が経とうが、母校の朗報には我が事のように喜ぶんである。
多分、今でもその慣習は引き継がれているだろうが、そうなると『提灯行列』なるものが催される。
明治なら、神宮から駿河台まで、応援した学生が提灯を下げて歩いて帰るのだ。
そしてその夜は、新宿のコマ劇場奥の噴水でエールの交換。
これぞ、モラトリアム、学生の特権。

バイト一辺倒だった私も一度だけそいつに参加したことがある。
ただ、そのほとんどは追憶の彼方。
『オレ、ほんとに提灯行列に参加したっけ』
というくらい、記憶が消えてる。

過日、証拠写真が、そのライングループにアップされた。
自分では全く覚えてない。
しかし、間違いなく、そこに写っているのは私だ。
当時、カメラを持ち歩く様な粋な習慣は持ちえなかったので、こうして仲間が撮ってくれるのはありがたい。
それも、こうして43年も経って。







 事のついでにもう一つ明大野球部の思い出を。
それは、3年?4年?
秋の、大学日本一を決める決勝戦。
確か、東都の駒大が相手ではなかったか。

当時、六大学には法政に江川がいて、明治は香取、共に後に巨人に入るが、その二校が優勝を分け合っていたのではなかったか。
裏を取るのが面倒なので、拙い記憶だけを辿って書く。
六大学では明治が優勝して、大学日本一を決める大会でもそのまま明治が勝った。
あの時は、確か授業が休校になったように思う。
みんなで母校野球部を応援しに神宮へ。

そして、見事優勝!
そして、肩を組んで、校歌斉唱。
そして、あり得ない量の紙吹雪。

あの刹那、私はハッキリこう思った。

『この光景は死ぬまで忘れんぞ』


 あれから43年(シツコイ)?
その脳内写真はセピア色に褪せてはきたが、しっかりと焼き付いている・・・





追記

気になったので、調べてみた
すると、その決勝戦は1978.6.7.に行われ、相手は専修大学だった。
するってえと、季節は秋ではなく、大学4年の初夏だ。
てことは、もしかすると、その試合と提灯行列は同じ日だったのかも知れない。
いやはやなんとも、記憶は曖昧模糊なる上に錯綜の極みでござる。











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新聞配達員時代その5 豊島園

2022-05-21 20:49:50 | 昔のこと



 昭和50年(1975年)3月末に進学の為上京した私は、中村橋という西武池袋線沿線の町にある朝日新聞販売店に住み込み店員として従事することになる。

そこで、拓殖大学4年生2人、武蔵大学3年生1人、東京音楽大学2年生1人、そして新たに明治大学1年生1人、予備校生1人、出身は北海道、秋田、愛媛、鹿児島といった学校も出身地もバラバラの住み込み店員達6人が、文字通り同じ釜の飯を食うつきあいとなる。

 当時(多分今もだろうが)は、拡材というものがあった。
拡材とは、主に定期的に入る新規開拓要員が使う顧客拡張材料の短縮呼称で、洗剤が主であったが、地域性を活かしたものとして、豊島園の優待券があった。
豊島園と言えば、昨年、ついに閉園した古い遊園地。
それだけに、周辺住民には馴染みの深い場所。
その豊島園の入場料金が無料になる券である。
勿論、乗り物に乗るには都度別料金が必要だったが、イベントやプールはそれでいけた。
これをダシに新規購読を促したり、不手際が生じた際の「お詫びのしるし」とするのである。
そしてそれが結構自由に使えたように記憶している。



 一度だけ真夏に、6人揃ってその拡材を利用して豊島園に出掛けたことがあった。
そこは、販売店からそう離れていない。
ゆっくりペダルを漕いでも10分程度ではなかったか。
総勢6人が荷台も前かごもでっかい、あの新聞配達用自転車に乗って行進する訳だから、ちょっと微笑ましかったんじゃないかな。

夏の豊島園と言えば、プールが売り。
そこへ、6人で遊びに行こうとなった訳だ。

楕円形で、流れるプールがメインの遊び場なんだけど、それには浮き輪があると愉しい。
そこで、貸し浮き輪の登場。

それはタイヤのでっかいチューブを膨らませたもので、大人が優に仰向けに乗っかれるから、青空を眺めながらプールの流れに漂うことが出来、これがかなり和む。
なので、確か2個だけ借りて、交互に回しながら遊んだ。

忘れもしない、秋田出身の拓大4年の先輩川上さんは、なんとも懐かしい海パン姿だった。
なんと言えばいいのか、スクール水着というのか、小学生が穿くような感じのそれは、ダブっとしていて、いかにも格好なんて全然気にしない先輩の特徴が良く出ている。

浮き輪の順番が川上さんに回ってきたときのこと、渡された浮き輪をプールに浮かべた川上さん、そいつを後ろに構えて、後ろ向きにジャンプして真ん中に収まろうとするのだが、こいつがなかなか上手くいかない。
何度も水中に落っこちてその度河童みたく上がってくる。
その段階で既に微笑ましかったんだけど。

何度目かのトライでようやく、川上さん、見事に浮き輪の真ん中にダイブ成功!

「やった!」と思ったその瞬間、「あっ!」という声がして、川上さん、なんだかケツの辺りを探っている。

「やぶけた」と言う川上さんの海パンは、ケツの部分が見事にⅬ字型に裂けて、割れ目が見えている。
そう、タイヤチューブの再利用なので、バルブがやや内側向きにあるんだけど、あろうことか、そいつに海パンが引っ掛かったのである。

でまた、くだんの川上さんの海パンは、引っ掛かり易く裂け易いときたもんだ。
彼は、秋田の貧農出身とのことで、兎に角倹約な人だった。

しかし、申し訳ないけど、これには全員が腹を抱えて笑った。
それでも川上さん、その後もずっとバスタオルを腰に巻いてプールで遊んでたんだから、大した人だった。



 また別の日には、夕刊を配り終えた後、夕食も済ませてから、日曜の夕方に時々ある野外コンサートを目当てに出掛けることもあった。
それは、そこそこの歌手が手の届く距離で歌ってくれるし、ロハだし、貧乏学生にとってはまあ結構なレクレーションではあった。

やはりみんなで行ったのは二度、今陽子(ピンキー)とアン・ルイスのそれぞれのコンサートだった。
今陽子の歌唱力は凄かった。
アン・ルイスはそこそこだが、その分可愛かった。
そのアン・ルイスの声を録ったカセットテープが多分今でもどこかにあるだろう。
というのは、仲間が帰るのを尻目に、私は見当をつけて「出待ち」をしたのである。
案の定彼女はそこから出てきた。
「何か声を録音させてください」と頼むと、
彼女は気軽に、
「ハ~イ アンちゃんで~す!」と応えてくれた。

いや、たったそれだけのことです。ハイ。



 個人的には、ガールフレンドと一緒に行った時にジェットコースターに乗ったのだが、それは中学校の修学旅行で行ったエキスポランドの『ダイダラザウルス』以来で、平気を装ってはいたが、少しく緊張していた。
 
 それが証拠に、コッパンのポケットに入れてあった小銭が見事に無くなっていたのだ、我ながら実に情けない。




 もう(2022-1975)47年前のこと。
よく頑張ったと思います、豊島園・・・



続く








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新聞配達員時代その4 首藤さん

2022-05-18 19:57:41 | 昔のこと




 4人の先輩方の中で一番お世話になったのは、首藤さん、という秋田出身の拓大4年生。
ちょっと野口五郎に似たハンサムボーイ。
噂によれば、隣の富士見台高校の女子高生にラブレターをもらったらしい。
高が新聞配達員がそうなることは珍しいんじゃないかな?
それは、もしかすると、自分たちを卑下し過ぎ?
だって、上下ジャージの配達着はインクで真っ黒。
どう見たって見すぼらしい。
でも、首藤さんにはどうやらファンがいたらしい。
ま、かくいうワタクシメも、ガールフレンドと出掛ける時に、やはり富士見台高校の女学生数人グループに「新聞やさ~ん」と声を掛けられたことはあったが。
え?単純にからかわれただけ?
ま、それもありなん。


 その年の夏、我が郷土の新居浜商業が甲子園で、初出場準優勝という偉業を成し遂げた。
私は、新商が甲子園出場と決まった時に、仲間に「オレの卒業した高校の隣の高校なんです」と自慢していた。
すると、新商はあれよあれよと言う間に勝ち進んでいった。
当然、仲間はみんな応援してくれる。
そしていよいよ決勝戦。
食堂にあるテレビで、みんなで観戦。
「おい、もしかして優勝するんじゃないか」
そう皆が思い始めた時、最終回裏だったか?ツーアウトでランナーを3塁に置いて、習志野のバッターが打った球がライト前にポトリ。
絵にかいたようなサヨナラ負け。

 その夜だった。
首藤さんが、「河端、惜しかったな、残念会しようや」と、飲みに誘いだしてくれた。


 また、こんなことも。
「生きる、という映画知ってるか?」
「いえ」
「モノクロの古い映画だけど、今ブクロの名画座でやってる。行くか?」
「ハイ」

それは、
1952年 に公開された 日本映画 である。
監督は 黒澤明 、主演は 志村喬 。
モノクロ 、 スタンダード 、143分。
東宝創立20周年記念映画。
無為に日々を過ごしていた市役所の課長が、 胃癌 で余命幾ばくもないことを知り、己の「生きる」意味を市民公園の整備に注ぐ姿が描かれている。

といった文芸作品。

志村喬演じる主人公が雪の舞う夜の公園のブランコに座って『ゴンドラの唄』を歌うシーンが目に焼き付いている。
あれから何度かテレビで観たが、其の度、首藤さんと行った池袋の名画座の光景を思い出す。







 一番記憶に残っているのは、首藤さんの部屋で、同じ拓大4年生の川上さんと飲んでた時の事。
事の経緯の詳細はよく覚えてないが、多分私が生意気な事を云ったんだと思う。
すると、普段温厚な首藤さんが珍しく怒った。
「おまえのような裕福な育ちの人間にはわかるもんか。俺達はこうして毎日毎日4年間通して新聞を配らなきゃ大学には行けなかったんだ」

そう、少しの違いで、先輩方は4年間継続しなければ、学費が免除になることはなかった。
それに比べて私の年代は、それが3年で免除される仕組みに変わっていたのだ。
其の上で私はたったの1年でケツを割る。
4年継続することの凄さは、私なりに理解している。
だから、首藤さんの怒りは尤もだと思った。




 そんな訳で、4年生の首藤さんと1年生の私は、翌春、同時期に朝日新聞中村橋販売店を辞することになる。
その後、一度だけ、首藤さんの引っ越した先のアパートにお邪魔したことがあった。



 それについては何故か、バスの中の光景と『ウイスキーの小瓶』が脳裏に浮かぶ。
それは、首藤さんの部屋を後にした時のことだったのか。
また何故、まだウォークマンすらもない時代に、バスと『ウイスキーの小瓶』なのか。
それはもはや霧の中だ。


みなみらんぼう ウィスキーの小瓶




 あれから(2022-1976)46年。
その後、首藤さんと会うことは無いまま・・・




続く








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新聞配達員時代その3

2022-05-16 20:27:49 | 昔のこと




 入所してから一週間くらいだったか、前任の配達員に付いて配達コースを引き継ぐ。
前任者は通いのアルバイト。
それは、いくつか年上の線の細い穏やかな青年だった。
それぞれの区域には、配達ルート帳(正確な呼び名は覚えてない)という、大福帳みたいなものがあって、配達場所順に名前や投函場所などが書いてある。
勿論、名前だけで場所が判る筈がない。
なので、割と細かい特徴が記されている。
例えば、Aさん宅の次のBさん宅への行き方として、『次の交差点左折左手3件目ブロック塀』といった具合。
なので、ベテラン配達員になれば、それがあれば、ある程度は初めてのコースでも回れる。
というか、そうでなければ、仕事に穴が開く。
人間が配達するのだから、何があってもおかしくない、となれば、急遽代配出来なければならない。
そこを言い訳には出来ないのが新聞配達員の仕事なのである。
従って、高が新聞配達とはいえ、常にそうした責任感は持っていた。
ベテラン配達員って誰?
所長でんがな。
彼はやはりプロだった。
どんな状況でも彼は見事にカバーしてのけた。
例えば元旦の配達。
これは、普段の倍以上の厚みになるので、一度にチャリンコに積み込めない。
なので、中継地を定めて、そこに置いてある残りの部数を積み込むという仕組み。
その全ての差配と、配置は所長の仕事だった。


 そうした引き継ぎ期間の初日だったか、私は、先輩たちの手荒い洗礼を受ける。
夕食後、「河端の歓迎会やるぞ!」と、食堂で宴会が始まる。
宴会たって、つまみは乾きものと、酒はトリスだ。
そいつをコップにそのまま注いで飲む。
直ぐにそれは空いて、「お~い、加藤、もう2、3本買って来い」「は~い」てな具合。
高校を卒業してそれほど経ってない私には、初めての酒だとは言わないが、それでも、トリスのストレートは小学生のころの盗み飲み以来。
でも、これが存外飲めた。
すると、生来のお調子者気質が頭をもたげる。
「先輩、こんなん、軽いかるい」
「おお、頼もしいなあ、いけいけ!」
「おおよ」
と、コップになみなみと注がれたトリスを立て続けに2杯。


 そこから先は覚えてない。
どうやら先輩に担がれて階段を上がり、気づいたら配達時刻。
前任者が「行くよ」と起こしにきて、「あ、こりゃ無理か」と。
なんと、ベッドの下には無残な吐瀉物が。
全く起き上がれない。
てか、肩で息をする始末。
結局私はその日の配達をサボってしまった。
おまけに二日酔いならぬ三日酔い。
夕刊はなんとかこなしたが、後はずっと寝ていなければならなかった。
夕方、同い年の予備校生(名前は覚えてない)が「何か買ってきてやろうか?」と。
「じゃあ、みかんの缶詰たのむ」
なんだかサッパリしたものが食いたかった。
食ってる間は良かった。
しかし、直後トイレでそれを全部戻す。
これが生涯最高の二日酔い。
しかし、あれから50年近く経つが、基本的には変わってない。
今でも時々ひどい二日酔いをする。
これこそ、ここらで言う『焼かな治らん性格』という奴。
でも、『そんな奴がオレは好きさ』なんてね。


 このトラウマは存外長引いた。
多分数か月。
隣町に越してきた高校の同級生に誘われて、新宿【グルッペ】だったかな、当時流行った円形のカウンターがいくつもあるパブに出掛けた時の事、水割りどころか、コークハイでも気持ち悪くなって飲めなかった。


 酒の思い出ついでにもう一つ。
やがてその後遺症も取れた頃のハナシ。
初めてバーボンなるものを飲んだ。
当時の日本では、まだ馴染みの薄いウイスキーだ。
その名も【アーリータイムズ】。
丸い瓶で、幌馬車っぽいデザインのレッテルではなかったか?



あった、これだ。




幌馬車ではなかったね。
事ほど左様に記憶は曖昧。




 誰かの運転するバイクの後ろに座って、「あれは臭くて飲めた代物じゃねえよ」などと嘯いた。
いっちょまえに東京弁で。
曖昧で朧げな記憶・・・




続く















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新聞配達員時代その2

2022-05-13 21:03:05 | 昔のこと




 販売店の食事は、朝食と夕食の二食分が出た。
おかずが一品限り、そして、納豆、味噌汁、ご飯はおかわりが出来た。
四国出身の私は、それまで納豆を食ったことがなかった。
だから、最初はなんだか抵抗があったものだが、直ぐに慣れていった。
だって、それを嫌いだなんて言ってたら、腹が満たされないのだから。

昼食は、各人が出先で摂る。
ただ、私はそれを抜いた。
それは、ある欲しいものを買う為の辛抱だった。

 或る日、高校時代の友人が訪ねて来て、隣町の豊玉北の下宿に住んでいるという。
以来、よく遊びに行った。
そしてある時、その友人と別の下宿人の部屋にお邪魔した時のこと。
そこには、コンポーネント・ステレオセットがあった。
そして、そこで聴かされたのが、当時新人だった荒井由実の『ミスリム』というアルバム。
その音が素晴らしかった。






 その時、『やっぱり、コンポが要る』
と思ったのだ。
そう、これが、その『欲しいもの』な訳だ。
しかし、貯金も小遣い銭もない身には、それを買う金を薄給の中から捻り出す外に方法はない。
となれば、高々昼食代と言えど、それも足しにしなければ、そんな思いからだったのである。

 それからは、時間を見つけては秋葉原通い。
一遍に揃えるのは不可能。
となれば、まずは、アンプとレコードプレーヤーとヘッドフォンを買おう。
それも、一つずつ。
どうせ電車で行って、抱えて戻ってくるのだから、いくつもは持てないし。

やがて、それらにスピーカー、チューナー、カセットデッキと買い足していき、全てが揃ったのは、歳の暮れではなかったか。
何故それを覚えているか?
確かその年、解散していたS&Gが一時的に再結成してリリースしたのが『マイリトルタウン』という曲で、当時エアチェック用に読んでいた『レコパル』で、それがNHK-FMで特集されると知って録音した記憶がある。
そしてそれが、年末特集だったと思うから。
とても良い曲で、心に染み入った。
なので、今でもそれを聴くと、当時の空気感が蘇ってくる。


Simon & Garfunkel - My Little Town (Audio)




 それらは、その後二度あった引っ越しと新居浜へのUターンの折にも持って帰って、大事に使っていたが、やがて順に壊れて処分していった。
ただ、スピーカーだけは、押し入れの奥を探せば、まだ在る筈だ。
こいつは、片方のウーハーのコーンが酔っぱらってひっくり返った時の衝撃でへこんではいるが、まだ鳴る筈。

 だって、当時はマークツーと呼ばれる、三菱ダイヤトーンの、それなりに評価の高いものだったのだから・・・




続く










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新聞配達員時代その1

2022-05-12 21:03:29 | 昔のこと




 朝日新聞中村橋販売店、これが、私の生涯初めての職場となった。
最初に、その年に入った関東圏の朝日新聞奨学生全員が或る所に集められた。
それが何処だったかは覚えていない。
そこで、いわゆるオリエンテーションを受ける。
そして、それが終了すると、各販売店のオーナーが自店に配属された奨学生を迎えに来るといった段取り。

 私を迎えに来たのは、中村橋店の所長ではなく、照井金次郎というおじさん。
実は彼が、中村橋店と、その隣の富士見台店のオーナーだということを知る。
そして、富士見台店に配属されたもう一人の同僚とご対面。
帰途、その3人でレストランに寄り、夕食をご馳走になる。
そこで、照井オーナー曰く、「儂は秋田の出なので、主に秋田の子を取るが、河端くんは佐藤くんと同じ明治大学なので揃えたんだ」と。
そう、富士見台店の同僚は、佐藤という秋田県湯沢出身とのこと。
私が法学部で、佐藤は経営学部ではなかったか。
以来、中村橋店と富士見台店の、姉妹店としての交流を通して、佐藤とも次第に親しくなっていった。



 中村橋店の建物は、古くて細い4階建てのビル。
1階が作業場と、その奥に食堂。
2階が所長家族の自宅。
3階と4階が従業員の部屋。
そして、屋上に共同の洗濯機と物干しがあった。
いや、厳密には、屋上からの見晴らしの記憶がない。
なので、もしかすると、開かずのドアまでで、その踊り場に洗濯機があった?
一つ覚えているのは、その踊り場の椅子に腰かけて吉本隆明を読んでる時に、心地よい風が吹いたことだ。
てことは、やはりドアは開いた?
これらは、過去という霧の中で、ぼやけてしまっている。

従業員の部屋の配置は、階段を上がってすぐ右手が三畳間、その奥にやや広めの部屋が一つ?二つ?
すぐ左手が共同トイレで、その奥に広めの部屋、間にもう一部屋あった?
そして、廊下の反対側に洗面台があって、その先は窓になってたんじゃないかな?
このように、もううろ覚えだが、そうした配置の部屋が三階と四階の二層になっている。


 文字通り『同じ釜の飯を食う仲間』は、確か私を含めて6人。
共に、拓大4年生で秋田出身の首藤さんと川上さん。
武蔵大3年生で鹿児島出身の吉田さん。
東京音大2年生で北海道は留萌出身の加藤さん。
池袋の予備校一年生で、秋田出身の・・・名前は忘れた。
他に、専業の方とバイトの高校生、どちらも名前は覚えてない。

 要するに同じ仕事をする人が集まった寮生活の様なもの。
当然、触れ合う時間が長い分、思い出も多い。



 一日のルーティンはこう。
3時起床 折り込みを本紙にセット。
担当区分およそ300軒余りを自転車で配達。
6時 配達完了。
朝食。
自由時間。
寝てもいいが、学生なので、それぞれの学校へ出向く。
15時 夕刊の配達。
18時 配達完了。
夕食。
19時 翌日の折り込みをセット。
これは、今の様に機械に任せるのではなく、全て手作業。
円形に広げたそれらを、サックを入れた人差し指と親指で一部ずつ繰っていって、まとめる。
週末には、それが一度ならず二度になることもしばしばあった。
20~21時 業務終了。

その他に、大きな仕事として集金作業があるので、日曜日は大抵それに費やされる。
独身のアパート暮らしの顧客は在宅率が低く、夜討ち朝駆けも必要。

配達着はいつもインクで真っ黒。
そして、四六時中配達の事が頭から離れない。


 私は、半年過ぎる頃にこう思った。
『これじゃあ花の東京に出てきた意味がない』と。
そして、所長に「丸一年勤めたら辞めさせてください」と告げる。
すると所長は「そうか、長いことこの商売してるけど、半年も前からちゃんと断りを言いに来たのはおまえが初めてだ。いいだろう、わかった」と快諾してくれた。

 そんな訳で、私の住み込み新聞配達員としての暮らしはきっちり一年で終わる。
ただ、短くとも、濃密な関係の仲間との一年なのだから、様々な記憶が残っている。

 次は、そんなところから書いていこうと思う・・・


続く







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上京編 その2

2022-05-09 20:28:22 | 昔のこと





 朝日新聞社から事前に告知のあった配属先販売店は練馬区中村橋店。
『どないなとこやろ?』本屋で東京の地図を求めて来て、調べてみた。
今なら、ネットで簡単に出来ることも、40数年前は全てがアナログだった。

 真っ先に目に飛び込んで来たのは、『ひかり団地』?だったように思う。
何故なら、そこが一番面積が広かったからだ。
しかし、近いは近いが、実際には一切関係することはなかった。
中村橋は、そこからもう少し南、去年だったか?閉園した『豊島園』の近くだ。

 東京駅からの電車の乗り継ぎを調べてみると、山手線で池袋駅まで行って、そこから私鉄の西武池袋線に乗り換えて五つ目の駅が中村橋だった。
そこへ降り立ったのが16時頃だったろうか?
はて、どっちへ行けばいいんだ?
取り合えず大きな道路へ出てみた。
それは、後に、通称十三間道路(じゅうさんげんどうろ)と呼ばれていることを知る。
要するに目白通り。

 見れば、その通りに交番がある。
そこで、いわゆる立ち番のおまわりさんに『朝日新聞中村橋販売店』への行き方を尋ねる。
すると、それは、その道路を挟んだ斜向かいにあった。
「ありがとうございました」
「はい、ところで君は、今後そこで働くのかい?」
「はい!」
「そうか、大変だろうが、頑張りなさい」
「はい!」
そんな会話が、東京生活での人との交わりの最初だった。



 古くて細いマッチ箱のようなビルがそれだった。
入ってすぐに作業場がある。
そこに人が居たかどうかは記憶にない。
でも、まずは所長に挨拶をして、案内された私用の部屋は3階にあった。
階段を上がってすぐ右手の三畳間。
その2/3を二段ベッドが占める。
まあ、圧倒される狭さに驚く。

「夕食の時にみんなに紹介するから、それまでゆっくりしてろ」
「ハイ、その前にどこか布団屋を教えてください」
「そういや、おまえの荷物が届いてないな」
「ハイ、だから布団を買うんです」
「おお、そうか」


 私の両親は放任主義だった。
聞けば同級生はみな新居浜から生活道具一式を送ったらしい。
その点、うちの親は「都会の方が何でもある。金さえ持っていきゃ間に合う」という合理的な考え方なのだ。
私も同感。
だから、私の荷物は、当面の衣類が入った鞄一つだった。

 所長に教えてもらった布団屋は、駅の反対方面の商店街の中にあった。
そこで適当なものを求めて自分で担いで帰る。
これが、東京で暮らす5年間の褥(しとね)となる。


 こうして、東京生活の一日目が過ぎていった・・・



続く








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上京編 その1

2022-05-08 21:55:49 | 昔のこと



 学生対象の雑誌がある。
いや、厳密には、現況を知らないので、『あった』なのかも知れないが。
ともあれ、私が高校生の頃は、雑誌名に学研なら『コース』で、旺文社なら『時代』が付いた。
ただ、三年生向けには『高三コース』に対して、『蛍雪時代』だったかと記憶している。

私は学研派だったので『高三コース』を毎月読んでいた。
それに、ある時『朝日新聞奨学生募集』のとじ込み葉書が付いていた。
それは、朝日新聞の販売店に住み込んで3年働けば、大学4年間の学費を出してくれ、それなりの給料も支給される、という内容だった。

それを見たとき『これや』と思った。
我が家は、倹約な家庭ではあったけれど、両親共に商売に精を出して、貧乏ではなかった。
だから、私の学費や生活費くらい余裕で出してくれる甲斐性はあった。
ただ、4人兄弟の長男である身としては、それに甘えてばかりでいいものかどうか、そのくらいの事は考えていた。
なので、瞬時に決めたのである。
そして父親に「おやっさん、これで東京行くわ」と。

しかし、それを今振り返るに、果たしてそれは、大学合格が決定した後なのか、それともそれ以前なのかが判然としない。
私が明治大学法学部の合格通知を受け取ったのは、もう3月に入ってからではなかったか?
これも厳密には、大学からの通知以前に、受験の帰途申し込んだ、在校生のバイトの様な『合否結果電話通知』という有料の仕組みによって、先にそれを知ることになる。
当時(1975年)は、当然ネット環境などあろうはずもなく、大学からの通知を待つか、発表時に現地に出向いて確認するしか方法がなかった。
そこで出来た仕組みが、依頼を受けた代理人が合否を確認した上で電話で知らせるというもの。
希望者は、受験番号と電話番号、そして代金を支払って契約成立となる。
当時、一体いくら支払ったか?
多分、500円程度?いや1000円?それはもう記憶にない。
いずれにしても、そんなものを申し込んだのには、【手応え】があったからだろうと思う。

ただ、それにしても、3月に入っていたのではないだろうか?
とすれば、もう『高三コース』を読むことはなかった筈。
では?
『受かったら』という前提で申し込んだものだろうか?

待てよ、受験日は2月のごく早い時期だったから、合否発表は2月内か?
とすれば、最後の『高三コース』で知ったのだろうか?


 いずれにしても、そんな経緯で、私の東京生活は新聞配達青年から始まる。
ということは、一般の大学生の様に4月直前の上京では間に合わない。
なので、少なくともそれより半月くらいは先の旅立ちではなかったか。

大学生として花の東京へ出ていくのだからと、母が「背広くらいこうていけ」とある程度の金をくれた。
そこで私は、当時新居浜にもあった『VANショップ』で求めたジャケットと革靴を身に着けて新居浜駅のホームに立つ。

同級生の中では一番早い旅立ちなので、ごく仲の良かった友人たちが見送りに来てくれた。
その中には当時のガールフレンドもいる。
彼女は尾道の短期大学に入学が決まっていた。
従って、そこから遠距離恋愛が始まる。
つい湿っぽくなりそうなところを、気のいい仲間たちのお陰で陽気に別れることができた。

 そして、仲間の列の後方では、駅まで車で送ってくれた父親が見守ってくれていた。
よく見れば、泣いているような。
後年、本人曰く、戦時中に出征する自身の長兄を見送った時を思い出したのだそうだ。


 いよいよ列車が来て、それに乗り込む。
やがて列車が発車する。
段々とみんなの姿が遠くなる。
それと同時に私の、それまでの余所行き顔が消えてゆく。
ついに仲間と離れた。
もうじゃらじゃら言い合う高校生ではなくなった。
単純に寂しいというのではない。
敢えて例えるなら『よし!』という感覚か。


 当時は、まだ国鉄と呼んだ時代。
橋はまだ掛かってない。
高松駅を降りたら、長い通路を歩いて高松港に着岸している宇高連絡船に乗る。
1時間ほどで宇野港に着く。
宇野線に乗り換えて、やはり1時間ほどで岡山駅に着く。
そこから新幹線に乗れば、後は東京駅だ。

学生の分際で指定席は贅沢だと考える質なので、当然自由席。
案の定、空席はなく、3時間ほどはずっと通路に立ったまま。
そう、当時は、新居浜駅から東京駅まで8時間ほど掛かった。
大仰に言えば、一日仕事だ。
だから、帰省する度、当分は東京に戻りたくないと思ったものだ。



 風のように過ぎ去ってゆく窓外の景色を眺めながら、私は心の中で『星雲の志』という言葉を何度も呟いていた・・・



続く












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昔語り プロローグ

2022-05-07 20:51:54 | 昔のこと




 【酒の宝島】と【WoodyBarチュー太郎】という、どちらも時代遅れな、つぶれかけの店を経営するおじい、それが私。
今月(5月)は私の産まれた月なので、後半月もすれば、なんと66歳になるようだ。
恐らく同年代のほとんどが『自分が、まさかこんな歳になるなんて』と思っている筈。
かくいう私も、自ら【おじい】と名乗りながら、本当のところはまだ若い気でいる。
昔は、『気分は28歳』と嘯いていたものだが、流石にここまでくると『気分は48歳』なんである。
要するに、『寄る年波』に足掻いている、そんなところ。

 そんな私は現在、昼は【酒の宝島】という酒屋のオヤジで、夜は【WoodyBarチュー太郎】のバーテンダーという二足の草鞋を履いている。
モットーは【生涯現役】そして【突然死】なんである。
死んだら後のことは知らない。
終活?断捨離?
知ったことかよ。
なんとも無責任な。
でも、いいじゃないか、多分、人間、そんくらいの方が愉快に生きられる。

 相変わらず導入部が長い。
昼は、ここに打ち込む内容を、酒にまつわる、いわゆる宣伝に限定している。
そうでないと、趣味との境目が判らなくなりそうで。
その分、夜は、待機中、だらだらとTVを観て過ごすのではなく、ここに作文する時間を持とうと思っている。
この歳になると、いくら嘯いても、【老い】に気づかされる事が増えてくる。
物忘れは激しいし、気力も体力も衰えてくる。
ではせめて、歩く、そして、脳を使う、すなわち、それは私にとって、一番手軽で効果がありそうなのが【作文】なんである。

 しかし、作文といったって、何を書く?
書きたいことなんて浮かばない。
そこで考えた。
『昔のことなら書ける』


 そんなこんなで、『昔のこと』というカテゴリーを設けた。
ただ、産まれてから現在までの時系列を忠実に、なんてことはしたくない。
それじゃあ、いずれ苦行になる。

 これからやろうとしていることは、作文という作業を通しての【脳の訓練】と【なにものか】への、私なりの挑戦なのだ。
それが、どういう着地点を迎えるのか、それこそ、本人にも未知の結果といえる。



 そんな訳で、昔語りのはじまりハジマリ・・・




続く













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東高円寺、埴生荘

2022-04-27 21:04:17 | 昔のこと




 当時は、丸の内線の新宿から荻窪方向へ三つ目、東高円寺の駅を上がると甲州街道がある。
そいつを背にして、蚕糸試験場沿いに歩く。
いくつかのクランクを経て10分ほどすると在るのが埴生荘。
一つ筋を違えれば、女子美へのルート。
滅多に出くわすことはないが、ガール達が列を成して歩いてゆく姿は記憶にある。

 木造二階建ての、古いが味のあるアパート。
一階はそれぞれのドアがあるが、二階は一つのドアの奥に階段があって、上がると突き当りがトイレ、そしてその両脇にドアがあって、二つの部屋が向き合っている。
それは、後にも先にも見たことのないユニークな造りに出来ている。

 私の部屋は、門を潜って、その二階へアプローチする、二つ目のドアを開け、上がって左手の部屋。
当時から日本酒が好きだった私は、夏でも窓辺に腰掛けて徳利と猪口で燗酒を飲むのが好きだった。
窓の外には手摺りがあって、その下辺の格子になった部分に一升瓶を逆さまにして刺して、やがてそれが山の様になるものだから、近所でも評判になっていると聞いたことがある。

 貧乏学生だから、金に余裕のある時は剣菱、そうでない時は秋田の両関を好んだ。
写真を見ると、確かに剣菱が2本ある。

 大学一年の一年間、住み込みの新聞販売員として稼いだ金で、コンポを一つずつ買い足していった。
そして、完成したそいつにいつも慰められた。
それも、この写真で思い返すことが出来る。



 よく見れば、鏡に映りこんでいるのは、この写真の撮影者。
何なら、そこに一番ピントが合っている。
それは、当時のガールフレンドで、半分一緒に住んでいた。
その指先とヘアスタイルだけで往時の彼女が鮮明に浮かび上がってくる。
あのコーヒーカップの片割れは、今でも【チュー太郎】に保存してある。





 最近立ち上げたtwitterのビジネスアカウントのプロフィール写真を差し替える必要に迫られて探した写真の中に偶然見つけた写真で、暫しトリップ。
もう44年になる・・・









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