人生における責任。
子を成人させ、親を看取る。
それさえ完遂すれば、我の生死は我で決めていいんじゃないか?
キリストさんは自死を認めてないらしい。
別にキリストさんの免罪符は必要ない。
還暦を迎える辺りから、こんな思いを抱き続けてきた。
ただ、これは異端、悪魔の論理ではないか?と、疑問は付きまとう。
そうした我の思いに、一種の示唆を与えてくれる内容。
ただ我には一緒に逝く仲間はいない。
なので、逝くなら独りでひっそりと。
そして、残る人たちに迷惑の掛からないよう。
具体的には、四国山脈の奥深く分け入って、餓死した挙句、獣や鳥に食われたあと、苔むして土に還る、これが理想なんだけど。
まあ、そう簡単ではないだろう。
我の意識で餓死するには、それなりの思い入れなり根性が要る。
なら首を吊る?
あまりお洒落ではない。
ならば、猟銃自殺。
たしかにいいかも・・・
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