「宮古」
田原本町の大半が、古代の大和ノ国 城下郡(しきのしもごおり)、鏡作り郷、室原郷、黒田郷、賀美郷、十市郡飯富郷の地で、黒田、富本、宮古、保津、八尾、新町(八尾新町)で都村を形成、後に多村(十市郡)や平野村(十市郡)、川東村(城下郡)等と共に田原本町(田原本村=十市郡)に吸収合併に成ります。⁂(黒田、宮古、富本は黒田郷。八尾、新町は鏡作り郷。保津は十市郡)
宮古は旧都村の中心地に当り、古代は屯倉(王家の穀倉地)であったのが、黒田の廬戸の宮と関係から、廬戸の宮の南東部の一部に当たるとみられます。
黒田廬戸宮が有ったとされる所から、南西に富本、南東に宮古の集落が有るのも、方位学的なものが存在するのかもしれません。
ただ、宮古の南東部には、弥生時代の保津の集落跡が残っていて、さらに東に鏡作り、唐子鍵と続きます。
当然この一帯も黒田.富本と並び2000年近い歴史を持つ地域に成ります。
集落の南に大きな貯水池が有り、この一帯の水田を潤し、豊かな農作物を育んでいます。
この地には「鏡作り伊多神社」や「薬師堂」が有名ですが、真宗大谷派紫雲山浄蓮寺の他2時が存在します。
「宮古薬師堂」
宮古の集落の北東の端に人目に触れずひっそりと佇む薬師堂が有ります。
囲いも無く戸板一枚の小さなお堂の中に人知れずに重文の薬師如来が鎮座して居られるます。
普段は中へは入れず、小さなのぞき窓が有って、そこから眺める仕組みに成っている。
実に奥ゆかしい?限り。ともいえるが普段解放されて居ない小さなお堂や仏堂等は訪れた人がお顔を拝める仕組みだ。
身近に見れる薬師如来は、平安初期の作、中々良いお顔だ。
紫雲山「浄蓮寺」
建立年代は明らかでは有りませんが、寛文10年(1670)浄蓮寺の寺号を受けています。
本尊の阿弥陀如来立像は江戸後期の物。
客仏の大日如来坐像は室町時代のもので、もとは鏡作り伊多神社の本地仏が宮古池拡張の際に移されたもの。
田原本町の大半が、古代の大和ノ国 城下郡(しきのしもごおり)、鏡作り郷、室原郷、黒田郷、賀美郷、十市郡飯富郷の地で、黒田、富本、宮古、保津、八尾、新町(八尾新町)で都村を形成、後に多村(十市郡)や平野村(十市郡)、川東村(城下郡)等と共に田原本町(田原本村=十市郡)に吸収合併に成ります。⁂(黒田、宮古、富本は黒田郷。八尾、新町は鏡作り郷。保津は十市郡)
宮古は旧都村の中心地に当り、古代は屯倉(王家の穀倉地)であったのが、黒田の廬戸の宮と関係から、廬戸の宮の南東部の一部に当たるとみられます。
黒田廬戸宮が有ったとされる所から、南西に富本、南東に宮古の集落が有るのも、方位学的なものが存在するのかもしれません。
ただ、宮古の南東部には、弥生時代の保津の集落跡が残っていて、さらに東に鏡作り、唐子鍵と続きます。
当然この一帯も黒田.富本と並び2000年近い歴史を持つ地域に成ります。
集落の南に大きな貯水池が有り、この一帯の水田を潤し、豊かな農作物を育んでいます。
この地には「鏡作り伊多神社」や「薬師堂」が有名ですが、真宗大谷派紫雲山浄蓮寺の他2時が存在します。
「宮古薬師堂」
宮古の集落の北東の端に人目に触れずひっそりと佇む薬師堂が有ります。
囲いも無く戸板一枚の小さなお堂の中に人知れずに重文の薬師如来が鎮座して居られるます。
普段は中へは入れず、小さなのぞき窓が有って、そこから眺める仕組みに成っている。
実に奥ゆかしい?限り。ともいえるが普段解放されて居ない小さなお堂や仏堂等は訪れた人がお顔を拝める仕組みだ。
身近に見れる薬師如来は、平安初期の作、中々良いお顔だ。
紫雲山「浄蓮寺」
建立年代は明らかでは有りませんが、寛文10年(1670)浄蓮寺の寺号を受けています。
本尊の阿弥陀如来立像は江戸後期の物。
客仏の大日如来坐像は室町時代のもので、もとは鏡作り伊多神社の本地仏が宮古池拡張の際に移されたもの。
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