下野街道

栃木県の住人となり、終の棲家と決めた今は、先人の歴史と文化を追及して、古きを訪ねて奥の細道を歩きたい。

日光御成街道

2006-07-31 19:43:03 | Weblog
将軍家の道とは、鎌倉街道の古道であり源義経が平泉から鎌倉に向かった道で
家康廟が日光に移され、日光社参の際には日光道中の別格として御成道と呼ばれ
江戸から幸手までのわずか13里ほどの短い脇街道である。

将軍の日光社参は、重臣や祐筆をはじめ共の者は総数10万人とも言われ、荒川
の橋は社参の度に板橋を架けて終れば取り壊したので財政を脅かす街道であった。

京の街道

2006-07-30 08:47:29 | Weblog
昨日のTV放送で、京都の街道を語る番組があった。
下野街道としても、興味アル番組なので敬意を表したい!
5畿7道の時代に京から各地へ、各地から京への道は盛んであったろう。

京から山陽へ、東寺口から山崎までの『唐街道』、
山崎から山陽道に合流する山崎通り。

京から山陰へ、亀山で丹波路と別れ佐治山峠に向かう『篠山街道』
京都丹波口から小郡で山陽道と合流する『山陰道』

小浜から京都の出町柳に至る『若狭路』通称は鯖街道。
御室を基点に双ヶ岡から周山へ『周山街道』
京都丹波口から、福知山へ『丹波路』

京の三条大橋に至る5街道の『東海道』
京から金剛峰寺に至る『高野街道』
多くの街道が古都から地方への出入り口となっていたのである。

奥州街道のコピー

2006-07-27 16:42:40 | Weblog
中央図書館から借りた『奥州街道』を藤田宿までコピーする。
新盆の帰省に実地検証する資料を作成した。
宇都宮からの道中で不明確な道を確認!
小山から、宇都宮までは国道4号線で旧街道のルートであるが、日光街道と奥州街道は分岐して左右に分かれる。追分地点は小幡1丁目角といわれる。


さらに北上して、氏家の上阿久津付近で4号線に合流する。氏家街中のそうめん地蔵付近で国道から別れて喜連川へ向かい、喜連川から佐久山宿で右折して大田原宿へ。鍋掛宿から越堀宿を経由して、寺子宿から芦野へ至る。

従って、氏家から293号線で喜連川までの一部を利用するのみで、旧陸羽街道を進行するのである。芦野からは294号線に合流し、寄居宿から境明神峠で県境を越える。

中仙道・奥州道

2006-07-25 21:50:26 | Weblog
本日から、光ファイバーを導入するため、書斎の整理とパソコンの引越しが大変でした。 本箱を整理していたら『中山道・奥州道』昭和52年発行である。

当時から、古い街道に興味があったのに気付いたものです。
また、企業戦士時代に活用した『PalmⅢC』が出現したものだ!!
久しぶりで、マニュアルを取り出して勉強を開始した。

ところで、昭和52年の雑誌だが・・・
大宝律令時代の東北地方は陸奥国一国で、出羽国はまだなかった。
陸奥国の成立は7世紀中ごろとされる。みちのおくの国からミチノクと呼ばれた。

奥州街道とその脇街道は、奥州道中の江戸から宇都宮まで日光街道を兼ねた。
仙台以北の三厩まで仙台・松前街道、会津藩の街道は白河街道・東通りとも呼ばれた。会津街道・若松街道と呼ばれ越後街道へ続く。

北の駅路

2006-07-24 14:03:57 | Weblog
東山道の脇道は、新田駅家から那須氏の勢力範囲で山崎街道に折れる。
磐上駅家を過ぎ黒川駅家の黒羽街道・白河街道・芦野路が合流する三叉路、伊王野の字睦家に比定されていた。
那須七党のひとつである伊王野氏は、那須資長を初代とする那須一門である。

やがて、大田原資清が急速に台頭し、秀吉の小田原征伐の際に北条側に味方して所領を没収された。3年後に『関山の戦い』で徳川方に馳せ参じ、旧領の回復と加増を得たが悲劇の中で滅亡したのである。

会津松平一族

2006-07-23 11:27:38 | Weblog
二代将軍秀忠の御落胤で会津藩祖の保科正之から松平一族の記録は以下の通り!
初代保科正之:幕府の副将軍として幕政改革、会津藩家訓を制定した。
二代保科正経:正之の四男で弟の正容に家督を譲って江戸の三田で死去した。
三代松平正容:正之の六男で元禄に姓を松平・会津葵に改めた。
四代松平容貞:正容の八男で8歳で継ぎ、28歳で没した。
五代松平容 :容貞の長男で財政再建、寛政の改革、56年の治世の名君だった。
六代松平容住:容章の孫で在任4ヶ月で没した。
七代松平容衆:容住の次男で3歳で襲封し『会津藩家世実記』を完成するも急逝。
八代松平容敬:徳川義和の庶子。英明な藩主で天保の飢饉に対処し、温情の主。
九代松平容保:容敬の甥で京都守護職により戊辰戦争で篭城の末に降伏した。

最後の藩主である松平容保につては更なる物語が続く・・・

会津西街道物語

2006-07-22 17:33:53 | Weblog
中世の頃、合戦や異変の時の『逃亡路』ともなっていた。
宇都宮持綱と足利持氏も戦いでは、宇都宮家中の南からの逃げ道であり、
田島長沼氏の内部分裂での肉親の争いや、『鳥羽伏見の戦い』での生死を賭けた物語が続く。

日光大地震によって大崩壊の結果、男鹿川が堰きとめられ五十里湖が出現した。
湖の為に大動脈である西街道が遮断されて、『会津中街道』が必要になった。


元禄8年に会津若松を基点に、松川・三斗小屋・横川を経て阿久津河岸に至る
『会津中街道』が誕生したのである。


会津西街道

2006-07-21 13:55:33 | Weblog
今市から延びる西街道は、下野国と岩代国との国境・山王峠を越え会津若松に至る
32里の行程で会津南山地方を通るので、公称は『南山通り』である。

宿は、大桑・高徳・大原・藤原・高原・五十里・中三依・上三依・横川・山王峠へ
昔は奥州藤原秀衛の軍勢が通り、もっぱら軍事道路とされていた裏街道であった。
藤原には宇都宮氏の関所が、鶴ヶ淵城跡沿いの古道にも長沼氏の私設横川関所が設けられたと言う。

この街道は、会津藩にとって参勤交代や物流に大切な街道で、遠回りの奥州街道よりも経済的に格段の差があった。これには会津藩保科家の存在が大きい。

大雨が続き、サイクリングには不向きなので保科正之の勉強をする事にする。
徳川三代将軍家光の異母弟で、鎌倉三代に仕えた信州高遠藩主・保科肥後守正光を養父として養育された。

信州高遠・出羽山形から会津初代藩主となった至誠・至純の名君である。
家康の17回忌に家光と日光へ参拝し、四代家綱の烏帽子親で後見人であった。

「託弧の遺命」と言われ、誠実な徳川家臣として会津藩の基礎を作ったのでる。


奥州街道

2006-07-20 20:00:31 | Weblog
奥州藤原一族を調べていたら、陸奥の街道に関心が移り図上演習で旧街道を辿ることにした。新盆には福島の実家へ帰省するので、実際の街道を確認しましょう!


そもそも、奥州街道とは?宇都宮~白河~福島~仙台~盛岡~青森~三厩
へと至る日本最長の街道である。
東海道五十三次と言われるが、奥州街道は百十四次とも言われる遥かな道程である。幕府道中奉行管轄する時代は、白河までが奥州道中と呼び、白河以北は
仙台道や盛岡道、南部道、松前道などと呼ばれた。

旧街道のルートは、各地で寸断され時代と共に道筋が国道4号線から離れる!!
最初の宿場は宇都宮・白沢・氏家・喜連川・佐久山・八木沢・大田原宿へ

日光道中は江戸から宇都宮まで、一部の渡し場等を除き国道4号線に沿って
ルートが選定されているものの、宇都宮からは旧街道が不明な地点が多い。

追分は、小幡1丁目付近で東へ向かう大通りが奥州街道である。
田川に架かる幸橋を渡り、白山神社の裏手・根来塚跡の旧今泉村から、稚児坂を下って白沢宿へ、九郷半川と西鬼怒川を舟渡しで阿久津橋下流の河岸付近に『川の一理塚』があった。原方街道や会津中街道へ別れる。

奥州街道の川沿いに船玉神社があり、境内に道標を兼ねた常夜灯がある。
右江戸道・左奥州道 此方 河岸道の文字!

街道右手の勝軍地蔵をそうめん地蔵とも呼ぶが、付近で右斜めに分かれる。
氏家宿右手角に道標石に、右江戸道・左水戸かさま 下たて 下つまと読める。
光明寺から右折して奥州街道。直進すれば会津西街道、右折してすぐ左斜めに
分かれて原方街道へ続く!!

桜野地区の農村地帯の右手に一里塚跡、弥五郎坂の手前に大黒天の水準点がある。
弥五郎坂と国道の合流地点右手角に寛延元年の道標賀ある。
右江戸道・左下妻道とある。

喜連川宿のはずれに台町の追分が台町集会所脇に移設された。
『右奥州街道 左在郷道』と刻まれた道標がある。曾根田地区で右折して
桝形跡の道を通って佐久山宿へ大田原市が建てた『旧奥州道中 佐久山宿下町』
の道標石があった。


戦国時代の結城氏

2006-07-19 14:38:36 | Weblog
下総結城の宗家である結城成朝は古河公方側で(小山氏は古河側)、
奥羽白河の結城直朝は堀越公方側に敵味方となった。

結城成朝が家臣の多賀谷高経に城内で討たれた。
応仁の乱から信長が入洛するまでが『戦国時代』
と言われるが、まさに『下克上』の時代である。

結城氏広や小山持政の時代に古河公方側で伊豆の合戦や古河城奪還、また太田道潅の軍勢ととも戦った。

北条早雲も小田原城を奪取した。
白河結城は小峰城と白河城で結城対小峰の殺し合いに発展した。

足利氏は古河・堀越・小弓公方と分裂し堀越公方は北条早雲に滅ぼされ
結城政朝(結城家中興の名主)
結城政勝は小山高朝と共に宇都宮氏と戦った。
やがて、小山高朝の次男晴朝が結城の養子となって結城大17代当主となる。
関東地区で長尾景虎派と北条氏康派に分かれて、小山家と結城家は肉親同士で
攻め合う事になった。

上杉謙信に小山祇園城が攻められて、小山秀綱と結城晴朝が軍門に下り
豊臣秀吉の小田原攻撃の際には、結城晴朝が小山七郎政昭を攻める。

秀吉から結城城で家康の庶子で自分の養子である秀康を結城家に迎えた。
秀吉の死後、小山評定の際に結城秀康は留守居役を命じられたのである。
関が原の合戦後に結城秀康は越前転封となり、松平となり結城氏は終った。