下野街道

栃木県の住人となり、終の棲家と決めた今は、先人の歴史と文化を追及して、古きを訪ねて奥の細道を歩きたい。

奥州藤原氏の興亡

2006-07-15 17:26:07 | Weblog
奥州藤原の初代は、藤原経清に始まる。前九年合戦で頼義将軍と清原武則が
安倍貞任・宗任を責め滅ぼした際に藤原経清は安倍頼時の娘ゆうと結婚して
清衛を生んでいた。合戦が決着して藤原経清は斬られたが、妻子は助かった

その後、滅ばされた清原武則の子で武貞とゆうが再婚して家衛を儲けた。
武貞には既に異母兄弟の嫡男真衛があったのである。

合戦の大功により、清原武則は鎮守府将軍に任命され、
孫の真衛に代替わり一族は従者の扱いを受け
清原真衛・家衛・藤原清衛の異母異父兄弟は対立した。


その後真衛の頓死により清衛・家衛は敵対し 
後三年の役では清衛が将軍義家に付き
、武衛・家衛は斬られた。

さて、藤原清衛は安倍・清原の遺領を収めて陸奥の派遣を握る。
奥州藤原氏は江刺郡豊田館に本拠地を置いていたが、後に平泉に移って藤原4代
で百年の間みちのくに君臨したのである。