下野街道

栃木県の住人となり、終の棲家と決めた今は、先人の歴史と文化を追及して、古きを訪ねて奥の細道を歩きたい。

小山古地図

2006-06-30 18:47:09 | Weblog
図書館にて小山の古地図を入手、現在の同地区地図に比較する。

明治19年の陸軍測量隊作成

中久喜の昔は、一面の森・雑木林でした。
             結城街道が曲がりながら続く・・・

旧思川一帯

2006-06-30 18:19:26 | Weblog
今も、下生井地区に残る1,3Kmの旧思川は、
その昔楢木から南進し野木町角新田の境より
北西に蛇行して生良から下生井に流れて
蛇行が激しいので、洪水が起こり易く
水害多発地区であった

付近の堤防に『決壊口の碑』がある。
水害防止に水塚や輪中提が多く
旧思川の七曲り跡が残っている。

江戸時代には、常光寺の反対側が
日光道中から佐野・栃木に向かう
主要道で庚申塔があり
その先の渡し場に続いた。
『左佐野道・右栃木道』


下野の古墳群

2006-06-29 18:27:51 | Weblog
県内で大型古墳が分布する思川流域の中で
最も南部に位置する琵琶塚・摩利支天塚古墳は
思川と姿川の合流点付近の飯塚地内に所在
続く大型古墳は、思川東岸の段丘上の
千駄塚古墳群であり墳頂の平坦部に
浅間神社が祀ってある事から 
別名浅間山古噴とも呼ばれる。

日光街道脇道

2006-06-28 19:07:42 | Weblog
拙宅の近く鉢形地区に、鰹節棒杭と言う道標がある。
日光街道の新田と、延島を結ぶ脇道と
小金井と結城を結ぶ脇道が交差する場所である。
嘉永4年に建てられた道標で
東『延島・高梯』、北『小金井・石裂山』
西『大町新田』南『結城』と刻まれている。

二宮金次郎

2006-06-27 21:37:15 | Weblog
相模国小田原藩領足柄上郡栢山村生まれ
藩主大久保加賀守忠真の命により
下野国芳賀郡桜町領の復興の為
栗橋宿、谷田貝宿を経由して
物井村・横田村・東沼村に赴任
10年の約定にて復興を実現!





薪を背負い、本を読みながら歩く少年!
国定教科書の修身の模範で
軍国少年の時代を思い出す

後年は真岡東郷代官領、烏山領
茂木領、下館領、相馬領

二宮尊徳となり、幕臣に登用
利根川治水や天領復興と続き
日光神領荒地開拓に着手した
日光街道も馴染みであった。

山通りの道

2006-06-26 19:56:38 | Weblog
東山道の別名は山通りの道、あるいは中路と呼ばれた。
上野から下野の国の足利駅家には平安末期二つの豪族が並立していた。

藤原秀郷(俵藤太)の藤姓足利氏!・・桐生、大田、大胡方面
八幡太郎義家を祖とした源姓足利氏!・新田義重(赤城山南麓)

源平時代の確執が続き、東山道から都への野心が見え隠れする。

東山道とは

2006-06-24 19:33:24 | Weblog
律令国家であった時代に、五畿七道に区分され都に近い5カ国と
都から遠い7道としたものである。
東山道は、近江から内陸部を東進し我が下野国が所属した街道!

その昔、坂上田村麻呂・鎮守府将軍・八幡太郎義家をはじめ
平将門や藤原秀郷、徳川家康や豊臣秀吉まで・・・・


保原の新盆

2006-06-23 17:28:20 | Weblog
伊達郡保原の姉の新盆である。仙台と福島へ相談の電話!当家のご進物を検討
田舎の風習と宗派の特色を考慮すべし!

藤原氏・源氏・平氏の家系図を整理して、日本史の再確認をする。平安・鎌倉!

トラックバックの練習

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下野街道物語

2006-06-22 19:10:39 | Weblog
大いなる栃木の街道をゆく(下野新聞社)
江戸の5街道は本街道:
東海道・中仙道・日光街道・奥州街道・甲州街道。
日光東照宮が鎮座し、奥州への交通要衛である事から
街道物語が生まれる。大いなる歴史を背負って!!