下野街道

栃木県の住人となり、終の棲家と決めた今は、先人の歴史と文化を追及して、古きを訪ねて奥の細道を歩きたい。

奥羽支配と滅亡

2006-07-16 11:45:24 | Weblog
奥州藤原4代は、百年の院政で陸奥を繁栄支配し平泉の文化を謳歌した。
藤原清衛は、金色堂(中尊寺)と鎮護国家大伽藍を建立し『北の王者』を宣言。
中心の『釈迦堂』は『三間四面、桧皮葺堂』
経堂と鐘楼さらに三重塔がついている。


藤原基衛によって毛越寺を建立、苑池を中心とした『浄土式伽藍』である。

藤原秀衛は、鎮守府将軍になって『エゾの陸奥守』と言われた。
平泉に無量院光院や高蔵寺阿弥陀堂を建立し陸奥の京文化を薦めた。

文治三年、京都を脱出した源義経が平泉に入って運命は一転する。
奥州征伐の開始であった!藤原泰衛の時代に義経を庇いきれずに
義経の首を取り、弟の忠衛を討ってまで恭順を示したが・・・

国見峠の厚樫山(阿津賀志山)で最後の決戦を迎えた。
大将は藤原泰衛の異母兄国衛である。この戦には小山朝光も参加している。


藤原泰衛は逃亡先の比内郡贄柵(大館市二井田)で最後を遂げた。
奥州藤原氏の終焉であった。