下野街道

栃木県の住人となり、終の棲家と決めた今は、先人の歴史と文化を追及して、古きを訪ねて奥の細道を歩きたい。

南北朝動乱と結城氏

2006-07-18 13:26:17 | Weblog
第六代結城貞広の時代には、持明院統と大覚寺統と両皇統迭立の代となった。
足利尊氏や新田義貞は同族で対立し、楠正成の出現を見た。

やがて鎌倉幕府が陥落し、北条一門の滅亡を迎える。
同族の小山朝郷・結城直朝が互いに戦い、遂には新田義貞や楠正成も世を去る。
白河の結城親朝と結城の宗家はようやく協調出来た。
足利兄弟の内紛から、戦が続き尊氏もこの世を去る。

小山氏の乱で小山義政は祇園城に籠もり宇都宮基綱と関八州の軍勢と対峙して
足利氏に反抗を続け、鷲城で敗れたが再三の反旗を翻し小山氏は没落した。


九代結城基光は小山氏の乱で小山義政を殺し小山氏の所領を得た。
基光の次男泰朝が小山氏の名跡を継いだのである。

室町時代になって、関東の八館と称した結城・小山・千葉・長沼
・佐竹・小田・宇都宮・那須である。

戦国の幕明け『結城合戦』結城氏朝は、足利持氏の遺児を擁して鎌倉に反し
関東の諸豪を結集し激烈な戦闘の果てに落城した。


結城氏朝の末子七郎が、第十三代成朝として後に結城家を復興した。


結城一族と小山氏の関係

2006-07-17 21:19:42 | Weblog
共に奥州藤原氏の系譜で『藤原秀郷』の子孫が原点である。
結城氏の祖は小山下野政光である。朝政・宗政・朝光三兄弟の運命が始まる。
1167年生まれの小山七郎朝光が結城朝光と名乗って鎌倉挙兵に参加して
源頼朝に従い、陸奥の国伊達郡阿津賀志山の決戦にも参加している。

結城朝光は白河、岩瀬、名取の三郡を領有して下総と白河に分かれる元となった。
結城一族は18代まで興亡が続いた。

奥羽支配と滅亡

2006-07-16 11:45:24 | Weblog
奥州藤原4代は、百年の院政で陸奥を繁栄支配し平泉の文化を謳歌した。
藤原清衛は、金色堂(中尊寺)と鎮護国家大伽藍を建立し『北の王者』を宣言。
中心の『釈迦堂』は『三間四面、桧皮葺堂』
経堂と鐘楼さらに三重塔がついている。


藤原基衛によって毛越寺を建立、苑池を中心とした『浄土式伽藍』である。

藤原秀衛は、鎮守府将軍になって『エゾの陸奥守』と言われた。
平泉に無量院光院や高蔵寺阿弥陀堂を建立し陸奥の京文化を薦めた。

文治三年、京都を脱出した源義経が平泉に入って運命は一転する。
奥州征伐の開始であった!藤原泰衛の時代に義経を庇いきれずに
義経の首を取り、弟の忠衛を討ってまで恭順を示したが・・・

国見峠の厚樫山(阿津賀志山)で最後の決戦を迎えた。
大将は藤原泰衛の異母兄国衛である。この戦には小山朝光も参加している。


藤原泰衛は逃亡先の比内郡贄柵(大館市二井田)で最後を遂げた。
奥州藤原氏の終焉であった。







奥州藤原氏の興亡

2006-07-15 17:26:07 | Weblog
奥州藤原の初代は、藤原経清に始まる。前九年合戦で頼義将軍と清原武則が
安倍貞任・宗任を責め滅ぼした際に藤原経清は安倍頼時の娘ゆうと結婚して
清衛を生んでいた。合戦が決着して藤原経清は斬られたが、妻子は助かった

その後、滅ばされた清原武則の子で武貞とゆうが再婚して家衛を儲けた。
武貞には既に異母兄弟の嫡男真衛があったのである。

合戦の大功により、清原武則は鎮守府将軍に任命され、
孫の真衛に代替わり一族は従者の扱いを受け
清原真衛・家衛・藤原清衛の異母異父兄弟は対立した。


その後真衛の頓死により清衛・家衛は敵対し 
後三年の役では清衛が将軍義家に付き
、武衛・家衛は斬られた。

さて、藤原清衛は安倍・清原の遺領を収めて陸奥の派遣を握る。
奥州藤原氏は江刺郡豊田館に本拠地を置いていたが、後に平泉に移って藤原4代
で百年の間みちのくに君臨したのである。

陸奥の安倍と出羽の清原

2006-07-14 13:27:25 | Weblog
奥州征伐『三度の奥責』とは:
① 源頼義将軍が安倍貞任・宗任を責めた前九年の役
② 源義家将軍が清原武衛・家衛を責めた後三年の役
③ 源頼朝将軍が平泉の藤原泰衛を責めた文治五年合戦である。
いずれも、中央政府の陸奥政策による犠牲と言わざるを得ない。

みちのくの歴史に輝く平泉文化は、太平洋側の安倍氏と日本海側の清原氏が母胎。


館林・善光寺道・佐野道

2006-07-13 19:19:12 | Weblog
 日光例幣使街道で脇道に分岐する道標を発見した。
佐野道 大田道 館林道 足利道 善光寺道 江戸道


場所は両毛線の富田駅前の旧50号線の東、寺岡の宿で『例幣使街道の道標』
元文五年(1740)造立である。近くに岡崎山古墳と寺があり、
例幣使街道の説明標識も存在する。


奥州藤原氏は何者?

2006-07-12 20:05:38 | Weblog
源・平の歴史を辿れば、奥州藤原氏を研究しなければならない。

そもそも奥州とは、陸奥の歴史:大化改新の後『道奥国』と記された。
東山道の奥と言う意味で、白河の先を(みちのく)と呼ぶ。後には
『陸奥国』と表記される。むつのくにとも呼ばれた。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/67/fc4a9ec73a9dccb4d2f668f5abdc299d.jpg 
古代東北の住民は『蝦夷』と呼ばれた。
天平勝宝元年(749年)宮城涌谷町の黄金山神社の下で砂金が検出

坂上田村麻呂が田谷窟の悪路王退治際に祀った小倉寺観音として名高い
千手観音と『田村将軍蝦夷征伐の図』の天井絵を奉った『大蔵寺』がある。
陸奥国府・多賀城主で陸奥出羽按察使、陸奥守、鎮守府将軍である。

坂上田村麻呂の子広野は陸奥守、浄野は鎮守府将軍で陸奥守、高道は
陸奥介、浄野の子当宗は鎮守府将軍で陸奥守、当道は陸奥守、その子
好蔭は陸奥介、要するに子孫は陸奥の国の重要ポストを占めていた。


足利の荘

2006-07-11 19:51:43 | Weblog
例幣使街道を辿り、日本最古の学校で『坂東の大学』とザビエルによって
世界に紹介された孔子廟を中心とした大規模な学校である。

足利義康から足利を名乗り、足利義兼、義氏・泰氏・頼氏・家時
・貞氏・尊氏と続く一族の荘である。


国史跡足利氏宅跡は氏寺である『ばんな寺』の境内にあり、足利義兼の建久7年
持仏堂を建てた事に始まる。『堀内御堂』と呼ばれていた。

足利義兼は八幡太郎義家の孫で源氏の正流である。平氏追討や奥州藤原氏征討で
活躍し源頼朝の妻政子の妹時子を妻に迎えた。次代の義氏は鎌倉幕府の重臣!!


中世の足利荘は、室町幕府の足利将軍発祥の地となったが、荘内統治の代官には
三管領(細川・畠山・斯波の三氏)の家臣から任命された。
文正元年に山内上杉氏の重臣長尾新五郎景人が代官として入部する事になった。

結城一族

2006-07-10 19:22:41 | Weblog
結城街道を探れば、遠い昔に繋がる源平物語から源氏と平家に辿りつき、下野の国
に隣接する結城一族や足利尊氏、新田義貞などが輩出されている。

平安・鎌倉・南北朝・室町・戦国の世へ!
中世の院政と平氏の台頭から『驕る平家は久しからず』で源・平に変わって
『建武の親政』から近世へ移る途上にある。

結城氏は、小山政光を祖として結城朝光から18代へ続く。
結城朝光の子は結城朝広、寒川時光、山川重光、網戸朝村、平方朝俊である。

小山一族と共に源頼朝に味方してその勢力を拡大した。
結城朝光は親鸞の理解者で、浄土真宗に帰依し下野国薬師寺新居郷に念仏道場
を開き、後に結城浦町に新居山称名寺として創建。
親鸞の銅像と結城朝光の墓がある。

結城街道

2006-07-09 16:00:38 | Weblog
結城街道は我家の前方を通る街道を呼ぶが、結城街道らしきものが3本ある。
県道小山結城線で『和談坂』を通る街道と、旧犬塚村を通過する街道や
『鰹節棒杭』のある県道小金井・結城線である。

小山と結城は古くから縁があり、結城氏の祖は小山政光の三男で
小山七郎朝光ある。志田義広の反乱に際し、『野木宮の合戦』の
論功行賞で源頼朝から下総国結城郡を拝領した。
結城朝光から秀康まで18代続いた。

奥州藤原氏追討の頼朝軍に参加して、結城街道から奥州街道にて陸奥へ!
伊達郡阿津賀志山(厚樫山)国見宿、藤田宿の合戦を経て平泉へ!
朝光は奥州白河、岩瀬、名取の3郡を領有するに至る。
奥州を平定した頼朝は、奥州街道から結城街道を経由して結城の館泊