太田市長とれたて日記

清水まさよしが太田の元気をお届けします

そんなのあり? 新聞紙で竹刀の代わり

2009年12月10日 | Weblog

この間の日曜日、とある剣道大会に来賓としてよばれた。
きりりとした空気、大会に臨む子どもたちの気概を感じた。道場の先生方の指導が子どもたちに伝わっている。
剣道連盟のM役員さんのあいさつを聞いてびっくりした。
「中学校で日本の武道が教科に取り入れられます。剣道はそのなかのひとつです。みなさんがよき模範になるように・・」というような趣旨の話を付け加えていた。
私も教科の中に武道が入ることは知っていた。「指導者はどうするのかな」という心配があった。柔道、相撲、剣道が教科であり、先生が子どもたちに教えるのが本筋であるが、できない場合だってあるはず。
剣道連盟にお願いするのは正解である。

 

以前、「日本伝統の音楽」という文科省の指導でお琴、三味線など購入したことがある。学校に配布した。
今どうなっているのか、教えているのかいないのか、話題すらない。子どもたちにどんな成果をもたらしたのか、まるで検証もされていない。
買ったお琴、三味線などがどこにあるのか、それさえもわからない。
まちのあちこちで日本伝統の音色が聞こえてくれば成果があったということになるが、「あれはなんだったの」という気持ちだ。
『やりっぱなし』である。
文科省の思いつきでやらされたような気がする。
楽器を買っても何もできなかったのならその理由はなにか。推測でしかないが、それは指導者にあったのではないか。学校に指導者がいないのだから、「やれっ!」て命令するほうがおかしい。
英語教育がどうなったのか、騒ぎはあったがこれも中途半端に終わってしまうのではないかと心配している。やはり、指導者である。

 

「剣道を教えてほしいと要請がありました」
剣道連盟のMさんが言っていた。
「竹刀や防具はどうするんですか」
「新聞紙を丸めて竹刀をつくってくれということです」
これを聞いてびっくりした。「えっ、新聞紙?」ほんとにたまげた。
文科省か教育委員会が防具や竹刀を用意して「お願いします」というのではないのか。
常識である。
これじゃ、まるで「チャンバラごっこ」である。

 

日本の武道が教科に入ったというのですべての学校に武道館をつくろうと思っている。
武道館といっても財政難のせちがらいご時世、華奢なものしかできない。剣道やるなら他の子どもたちから隔離する必要があると思ってのこと。
新聞紙を丸めたもので武道を学ぶ?なら必要がなかったかもしれない。
なんともさびしい教育ではある。にせものを使って教育ができるのか、と思う。
打たれれば痛い、あたりまえだ。新聞紙なら・・、ということだろうがあまりにもばかばかしい。
子どもたちへの教育であるからこそ防具も竹刀も『本物』でなければいけない。チャンバラごっこではない、授業なのだから。

 

ふと思った。
相撲はどうするのか。まわしは腰紐か、ベルトか。
裸になって肌と肌とがぶつかりあうことが相撲であって、そこに武道の醍醐味がある。セーターの上に紐をぶらさげて取っ組み合うのが相撲ということか。
「うそだぁ。そんなの相撲じゃない」
そんなことなら、それは教育ではない。

 

柔道はどうするのか。
はんてんをはしょってつかみ合うのか。笑っちゃうじゃないか。
嘉納治五郎が泣く。

 

本物の教育をしなければ、日本の武道は悲しいことになってしまう。
「先生、新聞紙を丸めて、なんて言われたら断ったほうがいいですよ。いや、絶対断るべきです。ニセ教育の片棒をかつぐことになりますから」
こう言って会場を後にした。

 


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