太田市長とれたて日記

清水まさよしが太田の元気をお届けします

片岡先生まだまだ元気

2007年10月15日 | Weblog

3年ぶりに片岡ゼミの仲間が集まった。日本橋三越の7階、藤の間である。
片岡一郎先生が慶応でマーケティングのゼミをもって、630人の仲間をつくってきた。1回生は1950年前後に学んだ。私は3回生である。
出席は3割くらいか。狭い会場は人、人、人でにぎやかだった。
立食で1万円の会費。「東京は窮屈で高いね」が実感。ケチくさいかな。

 

先生は83歳になられた。小柄だがあのころとまったく変わらず「生徒のほうが歳を感じるね」は異口同音であった。
久々に先生がお話になったが印象的なところだけ書いてみる。「清水君、そういう意味ではないよ」と注意をされそうだが、あえて少々書いてみる。

 

「1955年のころは時代が大きく変わる節目でした。『もはや戦後ではない』というのは高度成長に入る象徴的な言葉でした。新製品が次から次へと登場しました。
新製品というのは昨日まではその商品がなかったということです。今日、その商品が世の中に出たわけです。だれも、その商品を必要としなかったのです。必要としなかったものを売るということは非常にむずかしいことでした。今でこそテレビが普及しインターネットが常識になってはいますが、商品の存在を消費者に知らすこともできない時代でした。『必要だ』と思わせることがなければ買ってくれなかったわけです。
そこで、『必要だ』と思っていない消費者に『必要だ』と信じ込ませることが必要になったのです。新しい学問、マーケティングの登場です」
「販売というのはお店に並べてある商品をお金の代価としてお客様に手渡すことです。『買いたい』と思わすことは販売という行為にはありません」

 

マーケティングが日本の高度成長に果たした役割、経済界に多くのゼミ生を送り込んできた自信をお話になった。
ゼミで教鞭をとられたころを思い出させるお話でした。

 

片岡先生は慶応ビジネススクール(今では各大学にビジネススクールがあるが、先駆けである)をつくり、校長に就任され社会人にも経営学を学ぶ場所をつくられた。ベンチャービジネスを志す若者たちを多数輩出していった。流通経済大学の学長なども経験された。
「慶応ビジネススクール・インおおた」を毎年続けているが、片岡先生にお願いして今日まで続いている。

 

「自治体のケースというのは見当たりません。幸いなことに太田市のケースがあって使わせてもらっています」
乾杯が終わって学年をまたいで交流がはじまった。新たな友人が増えた。東京経済大学の木村先生もそのなかの一人であった。1学年下の教授である。
あのケースは私が慶応ビジネススクールで講義をしたときのケーススタディの資料であった。覚えている。「まだ使われているのか」と感慨無量であった。

 

帰りは夕暮れであった。
「この時間なら東京駅まで歩いてみるか」
そう思って三越を出た。銀座を通って八重洲まで20分くらい。東京の空気を吸って、と思って歩き出した。表通りには人ごみでごった返していた。
「裏通りはどうなっているのか。歩く機会もないから様子を見ておこう」
一本裏に入った。新しいビルの建設現場は杭を切断しているのか、囲いの中からギイギイ、ガリガリという日本橋にふさわしくない騒音があった。歩く人はほとんどいなかった。「休みの銀座の裏通りはこんなものか」
うるさい、もう一本南の通りに出よう。八重洲の日本橋口の近くにでるはずであった。ところが、高速道路の方に向かっていた。高速の下は昭和通りだ。南に行ってるわけが北に向かっていたのだ。昔、勤めていた塩野義製薬の東京支店の前に出てしまった。
「こりゃ、だめだ。このまま戻ってもかなりの距離。タクシーに乗ろう」

 

すっかり太田人になったことに気づいた。知ったかぶりしても田舎人。裏通りになんか行ったばかりに頭がすべて逆。新幹線までもが逆方向に走った。
「熊谷はこっちのはずなのに・・」

 

次は商学部O組の同級会。ゼミでいっしょの大柳さんから「ぜひ、出席してくれ」と帰り際に言われた。来月の中旬、天王洲アイルで。東京湾を船で走って宴会という段取りのようだ。
この歳になると家にいても粗大ごみ、同級会で昔話が一番というところか。

 


最新の画像もっと見る