太田市長とれたて日記

清水まさよしが太田の元気をお届けします

「やりたいことならがんばれる」を発見させることが教育

2008年05月23日 | Weblog

その人間に「才能があるか、ないか」ということは、結局は、そのことが「好きか、好きじゃないか」ということに尽きるのではないかと思う。
例えば、子どもにゲームをやらせると、3時間でも4時間でも平気でやる。その時の表情を見てると驚くほど真剣で、集中している。
そんな状態で3時間、4時間やって、身体的にはクタクタなはずなのに、終わるとニコニコしながら、「ああ楽しかった」と言う。
同じ子に「勉強しなさい」と言って無理に勉強させると、15分もやるともう集中できない。たった15分で身も心もクタクタになってしまう。
当然のことに、子どもはゲームがとてつもなく上達するし、逆に、だから子どもは勉強がなかなか身につかない。
野球の才能のある子というのは、まず野球が大好きなんだろう。
大好きだから朝から晩までいくらでも練習できる。
うまくなりたいという気持ちが強ければ、他人からどんなに強く注意されても素直に聞けるし、テレビで野球を観てるだけでも、いろいろなことを吸収できる。

 

子どもたちが野球の練習をしているところなど見ると、コーチは四六時中怒鳴りまくっている。子どもはあれだけ怒鳴られても、おとなしくそれに従っている。
子どもたちはうまくなりたいから、怒鳴られてもそれを聞けるのだと思う。
先生が教室の中で野球のコーチと同じくらい生徒を怒鳴ったら、これは大変なことになる。生徒から総スカンを喰うだけじゃすまないだろう。
家で親父が子どもをあれだけ怒鳴ったら、まず大抵の子どもは家を出て行ってしまうだろう。
そう考えると、野球のコーチはいい。あれだけ怒鳴っても周りから不満が出ないというのは、世の中広しといえども、そうはない。
子どもは自分がうまくなるためであれば、プライドも何もない。
辛くたって当たり前。むしろ辛ければ辛いほど、充実感にさえなってしまう。
つまり、そもそもの気構えが違うのだ。
その上さらに「名コーチ」みたいな人間がいて、「お前らは誰より才能がある。全国制覇も夢じゃない」なんて言われたら、子どもたちは実力以上の力まで出してしまったりする。

 

何が言いたいかというと、教育というのは本来はこういうことなんだと思うのだ。
子どもに、「ああしろこうしろ」言うのばかりが教育ではないだろうし、ともすると、「あれするな、これするな」ばっかり言われたら、子どもでなくても、誰だって嫌になってしまう。
そうではなくて、子ども自身に自分がやりたいことを発見させることが、本来の教育だと思う。

 

戦争中、洞穴か何かに追い込まれて、何でもいいから文字が読みたくて読みたくて、弁当を包んでいた新聞紙を、何百回もくり返し読んだ兵隊の話を聞いたことがある。
そういうストイックな状況に追い込まれることによって、自分が本当に何がしたいのかがハッキリするということはある。
兵隊は心底、文字が読みたいと思っていたんだろう。
今の時代は何か読みたければ、どこにでもいくらでも本はある。そういう状況の中でどうしても本を読まなければならない、というストイックな状況を作ろうとすれば、自分を精神的に追い込んで自分自身の中でストイシズムを作らなければならないのだ。

 

今の時代は職業を選ぶにしても、恋愛にしても、ストイックなものは自分で自分の中に作らなければならない。
戦争のようなストイックな状況に置かれるというのはそれはそれで大変なことだ。でも、自分自身で、自分の中に、ストイックな状況を作るというのは、それと同じくらい気力も体力もいることなんだろう。
我々はとかく「昔は大変だった」的なことをつい言ってしまう。
でも、考えようによっては、すべてが自由で何でも手に入る時代に、自分で自分をストイックに追いつめていくことは別の意味で、相当に大変なことだ。
教育に話を戻すと、野球でなくても、子どもがこれのためならいくらでも努力できる、どんな犠牲を払っても気にならない、子どもがそう思えるものを見つけさせてやるのが本来の教育のあり方だと思う。 
                                     明日に続く・・・・


最新の画像もっと見る