まさやす日記

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葉隠武士道

2018-04-30 | 林塾

師匠の林英臣先生が配信しているメルマガ(林英臣の元氣メール)より紹介します。

武士道の考え方の一端。
この通り、、、は難しいですが、覚悟を継続するために意識していたいと思います。

下記は4/18配信の内容より

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【綜學】現代文明の行き詰まりを救う全体学~連載その73

 ◇一回限りの人生を、何に懸けたら本望なのか◇

 さらに『葉隠』は、我々に対して次のような覚悟を求めてきます(意訳:林)。

 「武士道とは死ぬことだ。生きるか死ぬかという場面に出くわしたら、早く死ぬ方を選んで迷いを片付けよ。別に理由なんて無い。腹を据えて進むのみだ。成功しなければ犬死だからつまらない、などという考え方がよくない。それだと、上方風の格好付けたがる武士道になってしまう。そもそも生死を分ける場面にあって、どちらに行けば成功するかを見分けることは難しい。
自分だって誰だって、生きる方が好きに決まっている。その生きる方に、いくらでも理屈は付く。だが、もしも成功しないまま、おめおめと生きておれば、結局立ち向かわなかったのだから腰抜けでしかない。
 さあ、この境目が要注意だ。成功しないで死んだならば、犬死にや、きちがい沙汰だと非難を受けよう。しかし、立ち向かったのだから恥にはならない。この命懸けの生き方が、武士道における立派な態度なのだ。毎朝毎夕、改めて死を覚悟し、いつでも死ねる気迫を保っておけ。そうすれば、武士道に自らに由る主体性が生まれる。やがて一生落ち度無く、武士の職分を仕果たせることにもなるだろう。」

この文の最初の「武士道とは死ぬことだ」という言葉が強烈なため、葉隠は死に急ぎの武士道だと誤解している人がいます。でも最後までしっかり読めば、さっさと死ねと言っているのではなく、常に命懸けを通せと教えていることが分かります。

私たちは、目の前の事に追われ、日常に流される中で、何が本当にやるべき事かを忘れています。ストレスに満ちた毎日を送りながら、休日にやっと息を吹き返している有り様です。そうこうするうちに、天命や志はすっかり消え去って、あとは漫然と生きるのみの日々となってしまいます。

誰もが死に向かっている以上、どう生きるかは、どう死ぬかと同意義のはずです。一回限りの人生を何に懸けたら本望なのか、何に対してなら命懸けとなれるのか。まさに人生観の、ど真ん中にストレートを投げ込んでくるのが葉隠武士道なのです。(続く)

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以下は4/21配信の内容より
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【綜學】現代文明の行き詰まりを救う全体学~連載その74

◇やるかやらないか以前に、意識しておくべきこと◇

「成功する」は、『葉隠』の原文では「図に当たる」です。「図」は意図や図星の図で、「図に当たる」は思った通りになるという意味です。
 やる以上、認められたいし、褒められたいし、凄い奴と思われたいものです。思った通りの成功は誰もが欲することですが、山本常朝は「成功しなければ犬死だからつまらない」という考え方が、そもそもよくないと諭します。

 成功することばかり考えていたら、手段やテクニックに気が向かい、骨太な覚悟や本氣が揺らいでしまいかねません。気は焦り、肩に力が入り、重心が上がって上滑りすることにもなるでしょう。 

 拍手喝采を浴びることもなく失敗に終われば、犬死にや無駄死でしかない。そういう考え方は、華美に流れた元禄時代の「格好付けたがる武士道」でしかないと批判したのです。「格好付けたがる」の原文は「打ち上がりたる」です。派手なスタンドプレーを打ち上げる、計算高くて腰の浮いた武士道という意味です。

 そして、山本は「そもそも生死を分ける場面にあって、どちらに行けば成功するかを見分けることは難しい」と畳み掛けてきます。人生の大事な場面では、やってみなければ分からない事が多く、どちらを選ぶべきかという見極めは大変難しいと。

 その、やるかやらないか以前に、意識すべきことがあります。それは選択の基準(価値観)で、選ぶほうに大義があるかどうか、己の原点につながっているかどうか、命を賭けて惜しくない天命であるかどうかです。大義や原点や天命、これらを普段から意識しておくことが肝腎なのです。

 それらの基準が無いまま、成功か失敗か、損か得かを、いちいち計算し躊躇(ちゅうちょ)してばかりいたら、刀を抜くチャンスは、たちまち遠のいてしまい、何も為すことなく終わってしまうというわけです。(続く)

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以下は4/26配信の内容より
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【綜學】現代文明の行き詰まりを救う全体学~連載その75

 

◇毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になれ◇ 

 人間をよく観察していた山本常朝には、武士も人の子であるということがよく分かっていました。それで「自分だって誰だって、生きる方が好きに決まっている。その生きる方に、いくらでも理屈は付く」と言いました。

 でも、生きる方に理屈を付けたまま何もしないでおれば「成功しないまま、おめおめと生きて」いるだけとなります。そのままだと「結局立ち向かわなかったのだから腰抜けでしかない」ということになってしまうと。 

 そして「さあ、この境目が要注意だ。成功しないで死んだならば、犬死にや、きちがい沙汰だと非難を受けよう。しかし、立ち向かったのだから恥にはならない。この命懸けの生き方が、武士道における立派な態度なのだ」と、実に切れ味のいい言葉を続けます。

「境目」は、立ち向かうことなく腰抜けで終わるということと、立ち向かったものの成功しないで死ぬということの間にあります。この境には、武士の生き方として、大きな差があります。

 結局、三つの選択肢がありました。立ち向かって成功する、立ち向かったが成功せず犬死にとなる、立ち向かうことなく腰抜けとなって生きている、の三つです。これらの中で、一番いいのは立ち向かって成功することに決まっています。問題は、残り2つからどちらを選ぶかです。

 答は簡明です。腰抜けが武士にとって一番恥である以上、兎に角思い切って立ち向かうことが肝腎となります。

 そこで山本は、いつでも刀を抜けるよう「毎朝毎夕、改めて死を覚悟し、いつでも死ねる気迫を保っておけ」と諭しました。毎月一回とか、週の初めに一回とかではなく、毎日それも必ず朝晩の二回、しっかりと覚悟を据え直せと教えているところに感心させられます。

 人間は弱い存在です。どんなに残念無念な事があっても、しばらく安楽な生活が続くと、たちまちその悔しさを忘れてしまいます。

 復讐を忘れまいとする気持ちを表した四字熟語に「臥薪嘗胆」があります。「臥薪」は薪の上で寝ることで、その堅さによる痛みで父親を殺された無念を忘れまいとしました。「嘗胆」は苦い胆を嘗めることで、大敗を喫した悔しさを忘れまいとしました。チャイナ春秋時代の、呉越抗争の故事が元になっています。 

 父の仇(かたき)や大敗を喫した相手ならば、忘れようにも忘れられないはずです。が、臥薪し嘗胆しなければ次第に気持ちが萎えていくところに人間の弱さがあるのでしょう。それで『葉隠』は「毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身に」なれと教えたわけです。

 そうして、常に武士としての覚悟を据え、気迫を保ち続けるならば、「武士道に自らに由る主体性が生まれ」、「やがて一生落ち度無く、武士の職分を仕果たせることにもなる」とのことです。ここまで読めば、派手な死に急ぎの武士道ではないということが、よく分かって頂けるかと思います。(続く)

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