青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

人生の道

2021年01月24日 | 宗教観
人生の道
生命が生命として存在し、生きとし生けるものとして生きていく上においては、そこには平坦な道が続いているわけでなく、山あり谷ありの難所続きの中、生きていく定めにあり、辛く能動苦しく悲しみ多い中に、喜怒哀楽しつつ揉まれていく。いくらこれを避けて通ろうとしても、立ちはだかってくるのがこの世であり娑婆の世のしきたりになっている。
昔からこうした辛く苦しく悲しみ多い中で、何とかこの辛く苦しく悲しみを解決できないものかと数多の人達が取り組んできたが、釈尊の知られたように「一切皆苦」の中からはのがれようもない。
そこには我々の、「生きる」という態度にあった。
「生きる」という態度には、「受動的と能動的」がある。
普通我々は「受動的」な、受け身になっている。幸せや楽、快楽、有楽を欲しがって止まない。これは恐ろしい事である。何故かと言うと、それは願い、望み、望みともいるものであり、言わば欲望を満たそうとするものになっているが故に、この欲望を何としても叶えようとして、他を押し退け、盗るとか殺人までも犯して思いを遂げようとする。それが高じると、戦争へと発展していく。
これに対して、「能動的」生き方は、「能動的」の「能動」とは、「他への働きかけ」であり、思いやり、手助け、労り等を指す。これはまた「施し」であり、仏教で言う「布施」をいみしている。
ここには、自分を出さない。自我がない。自我がない無我のところから、この「能動的」行為が行える。


しかし忘れてならないのは、自我を持って「叱責」を行う場合もあることを忘れてはならない。それは我がためになされる。
































この叱責を行うにしても、やさしい愛語をもって成すべきというが、だが私の方はそうはいかない。何故かと言うと、優しい愛語での叱責では効き目がないことが多いことに在る。それは甘えから来ている。むしろ反発して反抗的になりかねない。
だから暴言を持って叱責するのも、「愛のムチ」と言わなければならなくなる。




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人生の道

2021年01月24日 | 宗教観

 

人生の道

生命が生命として存在し、生きとし生けるものとして生きていく上においては、そこには平坦な道が続いているわけでなく、山あり谷ありの難所続きの中、生きていく定めにあり、辛く能動苦しく悲しみ多い中に、喜怒哀楽しつつ揉まれていく。いくらこれを避けて通ろうとしても、立ちはだかってくるのがこの世であり娑婆の世のしきたりになっている。
昔からこうした辛く苦しく悲しみ多い中で、何とかこの辛く苦しく悲しみを解決できないものかと数多の人達が取り組んできたが、釈尊の知られたように「一切皆苦」の中からはのがれようもない。
そこには我々の、「生きる」という態あ度にあった。
「生きる」という態度には、「受動的と能動的」がある。
普通我々は「受動的」な、受け身になっている。幸せや楽、快楽、有楽を欲しがって止まない。これは恐ろしい事である。何故かと言うと、それは願い、望み、望みともいるものであり、言わば欲望を満たそうとするものになっているが故に、この欲望を何としても叶えようとして、他を押し退け、盗るとか殺人までも犯して思いを遂げようとする。それが高じると、戦争へと発展していく。
これに対して、「能動的」生き方は、「能動的」の「能動」とは、「他への働きかけ」であり、思いやり、手助け、労り等を指す。これはまた「施し」であり、仏教で言う「布施」をいみしている。
ここには、自分を出さない。自我がない。自我がない無我のところから、この「能動的」行為が行える。


しかし忘れてならないのは、自我を持って「叱責」を行う場合もあることを忘れてはならない。それは我がためになされる。
































この叱責を行うにしても、やさしい愛語をもって成すべきというが、だが私の方はそうはいかない。何故かと言うと、優しい愛語での叱責では効き目がないことが多いことに在る。それは甘えから来ている。むしろ反発して反抗的になりかねない。
だから暴言を持って叱責するのも、「愛のムチ」と言わなければならなくなる。



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