女性元気に若返るために

赤ちゃんが欲しい方へのアドバイスと
健康について

キャンドルナイト

2007-06-22 11:59:41 | 環境
今夜、8時から10時まで、電気を消して、ろうそくを灯して、未来の事を考えよう!




一昨日、「ザ!世界仰天ニュース」見ましたか?

たまたま付けた時に、「チェルノブイリ原発事故の真実」をやってて
そのまま、見入ってしまいました。

21年たった今も、苦しんでいる人たちがいっぱいいるんですよね。
原因は、副技師長が、昇進したいがための無理なテストをしたことから始まったんですよ。

そして、爆発!その放射線量は、広島に落とされた原子爆弾の500倍!

駈け付けた消防隊員は、年間許容量の1万3千倍もの放射線を浴び、
その場で頭痛・嘔吐・火傷に苦しみだした。

消化してから、国に召集された国民がむき出しの原子炉をコンクリートで囲むために60万人集められ、そのうち、すでに5万5000人が亡くなっているそうである。

爆発直後から、市民に避難命令が出されたのも、37時間後、もうみんな被爆している。
土地も汚染され、牛が牧草を食べ、濃縮された汚染牛乳を飲む人間
食物連鎖って、怖い!

世界にバレタのが、1600キロも離れたスウェーデンで、放射性物質を含む雲がバルト海の彼方から吹き寄せていることが判明した。すでに雲は、北半球のほぼ全域を汚染していたのだ。もちろん、死の灰は、日本にも降り注いでるんだよ。

国家秘密もいいけど、酷すぎるよね。


東海村臨界事故後も、青森県六ヶ所村の「核燃料サイクル施設」も
とても、怖いところですよ。
専門家の方々は、そこで作った食べ物は、食べない方が良いとまで言ってます。


電気は、必要だけど、これ以上必要なのでしょうか(?_?)



以下、「チェルノブイリの真実」です。

今から21年前の1986年ソビエト社会主義共和国連邦ウクライナ。そこに、地図に載らない秘密の都市が存在した。町の入り口にはゲートと警察官。平均年齢26歳。明るく、近代的に整備され、怪しい雰囲気など微塵もないが、許可を得た者しか入れない国家レベルの秘密都市、プリピャチ市。実は、この街はチェルノブイリ原子力発電所に勤める人たちのための街だった。当時、原子力の分野で西側諸国と一進一退の攻防を繰り広げていたソ連。そんな中、チェルノブイリ原子力発電所は操業運転を開始。ゆくゆくは世界最大級の原子力発電所となる予定であった。最新科学の原子力発電所は最高機密、それを洩らさぬ為、プリピャチ市は秘密都市となったのである。

1983年この時、既に原子炉は3つ稼動し、4つめの原子炉建設の真っ最中だったが、その工事は遅れていた。チェルノブイリ原子力発電所の最高責任者ブリュハーノフ所長は12月22日は原子力産業の記念日までに4号炉を絶対完成させなければならなかった。この国家の記念日までに完成を間に合わせることで、上層部からの評価は上がる。それによりブリュハーノフ所長以下、4号炉の責任者は、フォーミン技師長とジャトロフ副技師長も出世するのだ。彼らも無事、完成すれば国から特権を与えられる立場にあった。そのため設計図を無視し、可燃性資材で作るなど、いわゆる偽装建築が行われた。そして、記念日の前日12月21日に4号炉は完成した。翌年の3月27日、安全面での様々なテストも後回しにされ、通常よりも3ヶ月も早く商業運転を開始。ブリュハーノフ所長らは、勲章やボーナスを手にした。






チェルノブイリ4号炉が稼動して2年…ウクライナの首都キエフやその近隣諸国へ電力を供給する重要な役割を果たしていたが、事故の2日前、チェルノブイリ原子力発電所の所長室では明日に迫ったあるテストの相談がされていた。フォーミン技師長は原子力に関しては通信教育で学んだだけだったため、副技師長のジャトロフが明日の4号炉のテストの実質的な責任者だった。そのテストとは地震などで電力がストップし、原子炉に冷却水を送るポンプが停止した場合のテスト。実は非常用発電機は稼動するのに40秒かかる。その40秒間惰性回転を続けているタービンで冷却水ポンプを動かす事ができないか調べようとしていたのだ。本来ならば、さほど危険ではないテストだったが、更なる出世を狙うある人物が恐ろしいテストをはじめてしまう。

4月25日、運命の日。この日、首都キエフから急な電力供給の依頼があったため、テスト開始時刻は、夜中になった。原子炉から少し離れたところにある制御室では担当の技師が位置についた。原子炉の制御を行なうことになったのはトプトゥノフ。そしてもう1人、アキーモフ。予定通り、テストの責任者は副技師長のジャトロフだった。そのころ原子炉近くにいた技師ユフチェンコらも、放射線の恐ろしさなど、基本的な知識に乏しかった。制御室ではトプトゥノフ技師が、テストにそなえ出力を低下させていた。もともとテストは発電の出力を下げてから行う予定だったが、しかしジャトロフはそれを大幅に下回る200メガワットでのテストを成功させようとしていたが、実はガイドラインには原子炉を30%の出力、700メガワット~1000メガワットに落として行うようにと書かれていた。自分の評価を高めようと密かに考えていた強引なジャトロフの命令だった。貧しいシベリアの農民の息子として生まれたジャトロフは14歳で家を出た後 独学で物理学を学び 現在の地位まで上り詰め、このテストの成功によって評価を得ることでフォーミン技師長の後釜を狙っていたのだ。 ジャトロフはガイドラインを無視しても、このテストが危険だとは 微塵も思っていなかった。
しかし原子炉の急激な出力低下を注げるアラームが鳴った。実は、ソ連型の原子炉は他の型と比べて大きいものだったため、低出力の制御がしにくいという欠点があった。その事実をジャトロフや技師達は知らなかった。やがて、出力は200メガワットを下回り原子炉は停止寸前となった。 原子炉を完全に停止させてしまうと、再び稼動するまでには3日を要する。それは、莫大な損害となる。原子炉を止めないために核分裂を活発にしなければと、ジャトロフは炉心の中の制御棒を抜かせた。211本のうち、なんとわずか18本を残して引き抜いた。すると原子炉の出力はすぐに回復した。 ついにジャトロフが望むテスト開始レベル200となった。アキーモフはどうしても200でテストを行うというのなら、あなたがそう命じたんだと、作業日誌に記録を残しておいてくれませんかと申し出るが一蹴された。出世のための強引な判断。このとき原子炉の中では恐ろしい現象が起きていた。制御棒をほとんど抜いていた 巨大な原子炉内で核分裂が異常に増大していた。それは目に見えない時限爆弾…。テスト開始まで6分をきった。「200なら、水をムダにしなくてすむ。」成功を信じて疑わないジャトロフ。原子炉近くにいる技師たちは、この強引な判断を知らなかった。ジャトロフの合図でテストが開始された。アキーモフがテストを開始するためタービンへの水蒸気を止めた瞬間から、わずか1分ほどの間に恐ろしい連鎖が起こった、ポンプから炉心に送られる冷却水が減少。それに反して、原子炉内の水蒸気が増加した。炉心で水蒸気の圧力が急激に高まった。制御室では、そのことに誰も気付かなかった。一方、原子炉近く技師は異変を感じた。原子炉の真上に差し掛かっていた技師の目に見たこともない光景が飛び込んできた。350㌔もある燃料集合体の蓋が圧力で持ち上がっていたのだ。一方 制御室でもようやく異常に気付いた。緊急ボタンで、制御棒を一斉に挿入した。これで、出力は下がるはずだった。しかし、その行為が大問題だった。ソ連型の制御棒は挿入時、一瞬出力があがる仕組みだった。燃料チャンネルの蓋が飛び跳ね、原子炉は爆発に向かって一気に進んでいき、緊急停止ボタンが押された6秒後に4号原子炉は大爆発を起こした。

爆発直後、原子炉から離れた場所にある制御室では、何か異変が起きたことには気付いたが、まさか原子炉が爆発したとは想像もできなかった。しかし原子炉近くでは目の前に信じられない光景が広がっていた…。原子炉があるはずの場所には何もなかったのだ。この瞬間から、膨大な放射線が放出された。その量は広島に落とされた原子爆弾の500倍にあたるといわれている。広島では4ヶ月間でおよそ8万人が被爆し亡くなった。その500倍という想像を絶する放射線だった。爆発から5分後、全く放射線の知識も備えもない消防隊員が到着、あたりには爆発で飛び散った放射性物質が転がっていたが、その恐ろしさを知らなかった。

事故の連絡を受けブリュハーノフ所長が家から駆けつけた。原子炉近くの放射線は測定器の最大値3.6レントゲンを振り切っていた。それは人間の年間許容量を36倍も振り切っているということ。原子炉内で生じる核分裂生成物は放射性物質で被爆した場合、人体に悪影響を与える。被爆量にもよるが放射線は人間の体内に入ると血液を造る細胞などを壊し悪性細胞を大量生産する。それによりガンを発病する危険が高まる。消化にあたった消防士たちに放射線障害が出始めていた。嘔吐や頭が痛くなる初期症状…彼らは最初の犠牲者となった。そして、事故を目撃した人たちや消防隊はこの時、年間許容量の1万3千倍もの放射線を浴びた。実はそれまでもソ連各地で原発事故は起きていた…しかし、国家機密で隠蔽されていた。所長のブリュハーノフでさえ知らないことだったのだ。事故は所長レベルで判断せず、高官に報告する義務があったブリュハーノフはモスクワの中央委員会原子力発電部長マリインへ連絡をとったが、テスト中に4号炉で事故が起きたことは伝えたものの、原子炉は無事で放射線レベルも問題ないと自らの立場を守るためか、つい嘘をついてしまった。




しかし実際には、市民の命をも脅かす量の放射線漏れが起きていた。明け方近くなり近くの病院では発電所職員や消防隊員らが次々運ばれてきた。大部分が放射線障害だった。患者は被爆量が測定され、重症のものはモスクワへ搬送して緊急措置がとられることに。中には被爆した時に起こる核焼けの症状が現れる者もいて、事故当日、病院に運ばれた300人のうち28人はほどなく亡くなった。夜が明けてその被害が明らかになっていく…爆発して無残に跡形もなくなった原子炉と4号炉の建物。火は消えず未だ大量の放射線の放出が続いていた。そんな事態にも関わらず…プリピャチの人々はいつもどおりの朝を迎えていた。事故は市民に隠され、学校も授業が行なわれ、事故のことは硬く口止めされていた。軍と警察は原子力発電所近くの道路を封鎖した。そのころブリュハーノフ所長の元にはモスクワから原発部長のマリインやプリピャチの上層部の人間らがかけつけていたが、国家機密の事故を公にはできないと、市民を避難させることもできないでいた。もはや、この事故災害の対応はソ連のトップに任せるほかないと責任のがれの判断をしている間にも市民は危機にさらされた。


夜になり、副首相が到着しソ連政府事故委員会がプリピャチ市に設置された。市民を避難させるべきか?信じがたいがモメた。翌日、ようやく密かに市民を避難させることが決まったが、報道はされなかった。事故から37時間後、プリピャチ市民は避難を始めたおよそ4万5千人がバスに乗りこみ、街を去った。郊外に住む農村地帯の人々は何も知らされず見捨てられていた 避難が遅れた農村部の人々は年間許容量の50倍の被爆をしたといわれている…そして、膨大な放射線を放出する炉心の火災にヘリコプターを使っての消火活動が始まった。上空から砂・鉛・ホウ素を落としての消化活動。空中に舞う死の灰を落とす狙いもあった。一方、原子炉周辺に飛び散ったウラン燃料や黒鉛を含む放射性物質は人海戦術で除去された。被爆を防ぐため20キロ以上もある鉛のエプロンをつけたが、果して、その効果がどこまで期待できるかは定かでなかった。

国家機密とされたチェルノブイリ原発事故。ところが思わぬ事から世界に知られることになる・・・事故から2日後チェルノブイリからおよそ1600キロも離れたスウェーデンの原子力発電所で高レベルの放射線が検出されたのだ。気象台の調べで放射性物質を含む雲がバルト海の彼方から吹き寄せていることが判明した。すでにチェルノブイリ原子力発電所の放射性物質を含んだ雲は、北半球のほぼ全域を汚染していたのだ。ようやくソ連は国営通信を通じて声明を発表、しかし詳しいことは一切発表されずどれほどの事故が起きたのかわからないものだった。ヘリコプターでの消火活動により、事故から10日後ようやく火が消え、放射線の大量放出は収まった。そして、むき出しになったままの、原子炉の処理に入った。ソ連政府が行った原子炉の処理、それは市民を巻き込んだとんでもない計画だった。ようやく始まった処理計画。それは原子炉をまるごとコンクリートで囲うというものだった。多くは放射線の知識もなく突然集められた市民で、国から詳しい説明もされないまま、彼らは危険なチェルノブイリに入った。原子炉はむき出しのまま未だ放射線を出し続けている作業員はのべ60万人にもおよび多くの人々が被爆してしまった。こうして事故から7ヵ月後の1986年11月に 石棺」と呼ばれる巨大な建築物が完成。作業に関わった60万人のうちすでにこれまでに5万5000人が亡くなったいう。その後も雲に含まれた放射性物質が雨となり草にふりそそぎ、草を食べた牛がまず被爆し、汚染されたミルクを人間が飲み被爆するという負の連鎖が始まっていた。ソ連は、放射線の基準値を引き上げて検査を行い、汚染食品を売った。汚染された肉は、ソ連の遠隔地へ送るなど信じられない不正を行っていた。

そして世界を震撼させた大事故の関係者達の裁判が始まった。副技師長だったジャトロフ、ブリュハーノフ所長・フォーミン技師長ら幹部が刑事裁判にかけられた。未曾有の原発事故だったが判決は禁固10年程度…原子炉を設計した学者や技術者の責任は問われなかった。そして去年IAEAやWHOなどが、まとめた報告書は、この事故の直接的な影響により被曝した死者はわずか56人となっている。何百万人もが苦しんでいるという説もあるが、放射線の影響とは判断しにくいのか?しかし、多くの人々が被爆し後遺症に悩まされているのは事実だ。多くの子供達が甲状腺ガンを発症している。IAEAは、事故とガンの因果関係を否定しているが、それを撤回しなければならないほど発症率が高い地域もある…。
チェルノブイリ原子力発電所事故。

ゴーストタウンとなったプリピャチ…21年たった今も大地や水は汚染されている。この地に人々の笑顔が戻るにはあと600年は必要といわれている・・・。