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巴人春秋(十一・十二・十三・十四・十五)

2005-06-12 07:07:43 | 巴人関係
十一 前書きのある句の難しさ                                             

○ かきつばた水に杖つく姿あり---前書き「病中の吟、衰老終焉の年也」                                                       
 前書きというのは一般的には「前書(まえがき)」の表示で、作句の動機や場の状況を説明して、句の理解を助ける言葉で、和歌の「詞書(ことばがき)」に相当するものである。余りにこれにもたれ過ぎると一句の独立性がそこなわれとされている。そして、近代・現代俳句にあっては、ほとんど作句者自身によって、この前書きが付与されるのが通例で、その作句者以外の人が注意書き的に前書きに何かを付与する場合には、本人が書いたものかその他の第三者が書いたものかは明瞭に区別してなされることは、疑問を挟む余地もないことであろう。そういう感覚でこの句に接すると、この句はどうにも不可思議な前書きのある句という雰囲気なのである。  
 そもそも、自分で自分のことを「衰老終焉の年也」という前書きを付与することは有り得るのであろうか。とすれば、この前書きはこの句の作者の巴人以外の編集者の雁宕らが付与したと理解すべきなのであろうか。これらのことに関連して、この句の前書きの理解の仕方は、①作者自身が付与したもの、②作者以外の編集者などが付与したもの、この二つに分けられるけれども、この二つの立場からすると全然別の理解の仕方となってくるのである。そして、この前書きにある、「病中の吟」とか「衰老」とかいう言葉に出合うと、何故かしら、芭蕉との関連での、「病中の吟」とか「衰老」とかを考えてしまうという場合も多々あるのである。      
 例えば、この前書きは、この句の作者の巴人が書いたものとすると、この芭蕉との関連での「病中の吟」とか「衰老」とかが実にいきいきとしてくるのである。いわずもがな、「病中の吟」とは、芭蕉の絶句ともいわれている、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」のその前書きの「病中吟」が結びついてくるのである。そして、その「衰老」とは其角の『猿蓑』所収の句に、「衰老は簾もあげず庵の雪」という句があり、この「衰老」は芭蕉その人を指すのではないのかともいわれているのである。とすると、芭蕉の「病中の吟」の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」の句は、元禄七年(一六九四)十月八日の吟で、その頃の巴人の年齢は十九歳の頃で、その頃の巴人の作品と理解するのには、どう見ても納得しかねるということになろう。そして、この前書きの「病中の吟」の次の「衰老終焉の年也」の、芭蕉が亡くなった享年の、その「五十一歳」に着目して、この句を巴人の五十一歳の時の作品と解すると、非常に興味のある解が可能となってくるのである。
 即ち、この句の前書きの「病中の吟、衰老終焉の年也」は、「(巴人の)病中の吟、衰老(芭蕉)終焉の年(芭蕉の享年五十一歳に巴人がなった年)也」と解して、「旅にあって病に倒れ、そして、こうして杜若を見ていると、まざまざとその杜若のほとりの水辺に老いさらばえた自分の姿と共に、同じく旅にあって病に倒れ、その絶句を残した私(巴人)と同じ年格好の芭蕉翁の姿が二重写しになって見えてくる」というようなものとなってくる。そして、この巴人の五十一歳の頃の、享保十一年(一七二六)前後に、巴人は江戸を後にして、芭蕉の終焉の土地の大阪に向かっての旅を決行しているのである。その上に、芭蕉には、「杜若われに発句のおもひあり」(『千鳥掛』)・「杜若語るも旅のひとつ哉」(『笈の小文』)・「有難きすがた拝まんかきつばた」(「芭蕉書簡」)などよく人口に膾炙された句が多いのである。 そして、これらの芭蕉の句は尾張や大阪の旅の途次にあってのもので、どうにも、「病中の吟」・「衰老」・「杜若」と芭蕉に関係するものが目につくのである。 こうした前書きを注意して見ていくと、雁宕らが編纂したこの『夜半亭発句帖』は、例えば、「遙拝や扇のうへに梅の花」の前書きは、「北野奉納(普通文字)」・「江戸より(縮小文字)」(日本俳書体系本)と微妙な文字の使い分けがなされているのである。即ち、この北野奉納の句でいくと、「北野奉納(普通文字)」は巴人が当初から付していたもので、「江戸より(縮小文字)」は編纂者の雁宕らが後に注意書き的に付与したものと理解されなくもないのである。そして、この論法でいくならば、この掲出句の、「病中の吟」は巴人の前書きで、「衰老終焉の年也」は雁宕らの付したものと理解すべきなのかも知れない。そして、この句の、この前書きを、巴人のものと雁宕らのものとを区別して理解をすると、この句は、巴人の死期が迫ってくる最晩年の、寛保二年(一七四二)の作品ということになり、巴人その人の俳諧を知る上で極めて重要なものという位置付けとなってくる。
 これらの句の、これらの前書きに接するとつくづく「前書き」の理解に悩まされるというのが偽らざる実感なのでもある。                                                                              
(十二) 「ぬけ」(省略)の技法 
                                             
 七二 春過(すぎ)てかゝる物あり初鰹 
                                              
 この句は万葉集の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほしたり天の香具山」(持統天皇)の本歌取りの句というのは明瞭であろう。すると、この句は、「春過ぎて(夏来にけらし、すると)かかる物あり(それは白妙の衣ならず)初鰹(が掛かった)」との、この括弧書きのところが、所謂、「ぬけ」(省略)となっていると解すべきなのであろうか。俳句は十七字という極めて極小の世界であり、しばしば、「俳句は省略の文学である」というような言葉を耳にする。従って、その句意の理解には、この、何が「ぬけ」(省略)とされているのかということを探究することは、極めて大切な第一歩なのでもある。この掲出句の次に収録されている「恥かしき都だよりや初松魚(がつお)」の句でも、この上五と中七の「恥かしき都だよりや」が、色々とこの句に接する人に何かを語りかけるような、この句の主語のようなものが「ぬけ」(省略)になっているのだろう。
 さて、この掲出句に戻って、この中七の「かかる物あり」は「このような物あり」と「金のかかる物あり」とが掛けられており、この「ぬけ」(省略)は「お金」が正解のようなのである。そして、この「ぬけ」(省略)が、当時の比喩俳諧の謎句の主たる正体でもあり、この正体を探り当てるという醍醐味がこれらの句の生命線でもあった。巴人もまた当時の名立たる俳諧師の一人としてこの「ぬけ」(省略)の技法を縦横に駆使した俳人でもあった。
 当時の川柳に、「目も耳もただだが口は高くつき」(『柳多留』)は、山口素堂の「目には青葉山ほとゝぎす初がつお」(『江戸新道』)の本歌取りであろうが、この川柳は、「(初鰹は)目も耳もただだが口は高くつき」となり、「初鰹」が「ぬけ」(省略)となっているのである。そして、素堂の句は、「目には青葉(耳には)山ほとゝぎす(口には)初がつお」の上五の「目には」に対応して中七には「耳には」、下五には「口には」が「ぬけ」(省略)となっているのであろう。
 ちなみに、当時の初鰹は現在のお金に換算して一尾十数万から二十万円以上もしたという。「鎌倉を生(うまれ)て出(いで)けむ初鰹」(芭蕉)と、青葉の初夏の頃、鎌倉辺りの相模湾に北上してきて、この相模湾で取れた鰹は早船で江戸まで運んだという。その際、三浦半島の先端を船で回ると危険が多いので、半島の付け根辺りで川をさかのぼり、馬の背に乗せて山を越えて、また船で江戸前まで運んだという。かくして、江戸子は「女房を質に置いても」この初鰹を珍重したという。かくして、江戸ではお金もないのに初鰹で右往左往しているから、京都の雅びの人達に比して、「恥かしき都だよりや初松魚(がつお)」ということになるのであろうか。                                                            
(十三) 換骨奪胎のパロディ化                                                                           
八〇 子規(ほととぎす)月落(おち)烏(からす)鳥の声 
                                              
 当時の俳諧師は漢詩・和歌・謡曲などあらゆる分野に精通し、それらを自由自在に操って、手品師のような換骨奪胎のパロディ化(俳諧化・本歌取り・滑稽化)を試みたのであった。この句は、張継の「楓橋夜泊」の「月落チ烏鳴イテ霜天ニ満ツ」(そして、謡曲の『道成寺」にもこの一節がある)や壬生忠岑の「暮るるかと見れば明けぬる夏の夜を飽かずとや鳴く山郭公(ほととぎす)」(『古今集』)のパロディ化ということは容易に想像の着くところである。そして、このパロディ化はその換骨奪胎のおかしみがこの句の狙いでもあるのである。
 即ち、「楓橋夜泊」の「霜天ニ満ツ」の冬の世界を、「子規(ほととぎす)」の夏の世界に変化させて、そして、その夏の夜は、壬生忠岑の、「暮るるかと見れば明けぬる夏の夜」と冬の夜と違って何とも短いというように換骨奪胎のパロディ化を演出しているのである。そして、「子規月落烏鳥の声」と漢字多用の言葉遊びと、それでいて、「子規/月落・烏/鳥の声」と調子の良い世界を形作っているのである。
 この換骨奪胎のパロディ化は、古来、古歌を踏まえてのパロディ化を「本歌取り」とも、そして、故事を踏まえてのものを「本説取り」などとも区別されるが、例えば「棚橋や杖にうたた寝蜀魄(ほととぎす)」などは、「蜀の桟道」などの故事に基づいての「本説取り」の句ということになり、そして、この杖は「(頬)杖」の「頬」が「ぬけ」(省略)されていて、「机にもたれ頬杖をついてうたた寝をしていると、杖をついて蜀の桟道のような危うい橋を渡っているような夢を見ていて、その夢の中で蜀王の望帝が現れたと思ったら、ふと、その望帝の生まれ変わりの蜀魄(ほととぎす)の鳴き声で夢が覚めて現実に帰った」というような、大変に手の込んだもののよう句意のようにも理解できるのである。
 そして、この「「本歌取り」・「本説取り」などの典拠を踏まえて作句するということは、その典拠を一句の中に盛り込むというだけではなく、前書きなどにも盛り込まれている場合があり、前書き・句中を問わず、この典拠を探り当てるということは、巴人などの古句に接する場合の、まず最初に心掛ける基本中の基本的なものともいえるであろう。例えば、「まんぢうに十六夜(いざよふ)月も穴かしこ」などの句は、「十六夜(いざよひ)」と「いざよふ」との掛けられており、「穴かしこ」が書簡の結びの言葉の「(あな)かしこ」などのもじりなどの言葉遊びだけではなく、この句の前書きの「嘉詳(祥)丁固改名につかはす」の「嘉詳(祥)」という言葉に大事なものが隠されていて、この「嘉祥(かじょう)饅頭」というのは、陰暦六月十六日に疫病避けとして神に供えた饅頭を十六個食べるという風習に典拠しているのだという。こうなると、これは、句中の「十六夜の月」の秋の句ではなく、「嘉祥(かじょう)饅頭」の夏の句となり、そして、その句意も、「嘉祥(かじょう)の日に嘉祥饅頭をこの十六夜の月の下で十六個食べてあなたは改名しますけれども、さぞかし無病息災で、良い日に改名したということですよ」というような、大変な謎句ということになる。いずれにしろ、当時の俳諧師達は、このような典拠を基にしての換骨奪胎のパロディ化に血道をあげていたということはよくよく心しておかなければならないことであろう。                                                           
 (十四) 濁点の不可思議                                                                             
一○七 売馬や五日を吐すかんこ鳥  
                                              
 この句の中七は、「五日を吐(はか)す」なのか、それとも、「五日を吐(はか・はけ)ず」というように「ず」と濁点が付せられるのか、それによって意味が全然異なってくるのには、本当にこういう句に接するとにっちもさっちもいかなくなる。この句は多分に「ず」と濁点があるのが正解で、「売りに出している馬がもう五日になっても買い手がつかず、それで、それを象徴するように、閑古鳥が鳴いている」というような句意なのであろう。
 例えば、「鳴呼(あゝ・をこの読みか)と云(いひ)し雪はさもあれ杜宇(ほととぎす)」の、この「云(いひ)し」も「云(いは)じ」と濁点が打たされるのであろうか。とすると、「ばかばかしいとは言うまい。冬の雪見はそれなりに支度をしてしなければならないから、ついついばかばかしいと言われることもありますが、それはそれとして、夏のホトトギスを聞きにでかけるのは何の支度もしないで良いのだから、決して、ばかばかしいなのだとは言われないであろう」というような句意なのかもしれない。
 もう一つ、「ほととぎす聞(きゝ)に出しが今に留守」の句も、この中七は、「聞(きゝ)に出しか」と、今度は濁点を付さずに、「ほととぎすでも聞きに行ったのでのであろうか」と疑問の形の句意の理解の仕方が正解なのかもしれない。このように見ていくと、濁点が有るか無しかで、その句意が全然様変わりしてくるのは、これは不可思議という言葉が一番適切のような感じすら抱かせるのである。
 さて、雁宕・阿誰(あすい)・大済(たいさい)が編集した巴人の俳句(発句)の大部分を収録している『夜半亭発句帖』の翻刻は、日本俳書大系本(十九巻・勝峰晋風編・昭和四年普及版)と古典俳文学(十三巻・島居清校注・昭和四十五年集英社刊行)が主なものであるが、この二つの著書でもその前書きなどの微妙な点に差異があり、こと濁点に関しては、ほとんど、同様の理解のように解せられるのだが、いざ、実際にその句意を具体的に考えていくと、まだまだ、主々の疑問点が浮かび上がってくるのである。そして、つくづく思うことは、こと芭蕉・蕪村・一茶のこの三人のものについては、ほとんど完璧な全集ものが整備されつつあるのに比して、それ以外の無数の名立だる俳人の作品群の収録やその解説は未開拓のままに放置されているという現実なのである。
 それにしても、五七五の十七字の俳句の世界においては、濁点の有り無しで見事に別世界を形成することの不可思議は、そのことをそれぞれの俳人は自明の理として、それを自分のものとして、敢えて、そのことを応用して、謎句の謎句を作りだしているようにも思えるのである。
                                             
(十五) 季語の不可思議       
                                             
一〇六 堤(さげ)て行(ゆく)僧は憎けれあやめ草 
                                              
 この句の季語は「あやめ草」で菖蒲(しょうぶ)のことである。このあやめ草は「花菖蒲」とは違って、五月の節句に軒に葺いたり、風呂に入れたりするものである。花菖蒲とは同類ではあるが、あやめ草の漢名は白菖(はくしょう)で、花菖蒲の漢名は石菖蒲(せきしょう)と区別されている。このあやめ草は別名として、あやめ・・軒あやめなどとも呼ばれているが、所謂、花あや・白あやめ・くるまあやめなどのアヤメ科のあやめではなくサトイモ科の種類で別種のものである。 
 古歌であやめと詠まれたものは、例えば、「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」(『古今集』)などは、菖蒲を詠んだものである。そして、現在のあやめを句にしたりする場合には、「壁一重雨をへだてつ花あやめ」(鬼貫)などと、花あやめという語句で、単に、「あやめ見よ物やむ人の眉の上」(嵐雪)などのあやめは所謂菖蒲(あやめ草)のことである。
 そして、この嵐雪の句の、「あやめ見よ物やむ人の眉の上」のように、菖蒲(あやめ草)は、「今日、婦人女子たはぶれに菖蒲を頭上に挟み、又腰にまとふ。如此(かくのごとく)すれば、病を除くと、俗にいひならはせり」(貝原益軒『日本歳時記』)と、「病を除く」というイメージで使用されていたのであろう。芭蕉の『おくの細道』の「あやめ草足に結(むすば)ん草鞋(わらじ)の緒」なども、この「病を除く」をことを祈念して、その長い旅路のことに思いを馳せて、そのあやめ草を、草鞋の緒に結ぼうとしたのであろう。ことほど左様に、一句を理解する上において、この季語の理解というのは想像以上に大きいものがある。
 この季語は、芭蕉の時代には、「季詞(きのことば)」などとよばれていたが、明治に入って、 季題(連句の発句に使われる季詞)という言葉も使用され、現在の季語はこれらの季題よりも広範囲なものとして使用されている。そもそも、芭蕉の時代の俳諧(現在の連句)の発句(現在の俳句と連句の発句)には、この季詞が絶対的要件で、こと、連句の世界においては、このことは第一の要件として主守されており、例えば、現在の俳句の世界の季語(狭義の意味の季語・季題)は、「新年・春・夏・秋・冬」などの区分であるが、連句の世界の季語は、それぞれの四季が、さらに、例えば、初春・仲春・晩春・三春などと細分化されて、現実に使用されているのである。これは、俳諧の本質の要件とされている、「挨拶・即興・滑稽」の、その「即興」と切っても切り離せないことと関連があるように思われる。
 そして、連句の発句だけではなく、単独で詠まれる発句(「地発句(じほっく)」)の場合にも、こと季語(季題)に関連しては、どのような状況下で、どのような背景のあるきものなのかを十分に理解した上で、その季語(季題)、そして、全体の句意を理解するけということが何よりも肝要のようなのである。
 掲出句についても、現在の「花あやめ」のような観念で理解することも、単純に、「あやめ草」・「菖蒲」との理解で、当時の五月五日の「病を除く」風習との関連での理解に触れないと、この句の面白さは十分には伝わってこないようなのである。即ち、この句ま意図するところのものは、「あの僧は、この端午の日に、頭にさすとか、腰にするとかではなく、手で提げていくといのは、その手でも何か病でもあるのだろうか」というような意味見合いも込められているようなのである。誠に、季語(季題)の不可思議は、これは神秘的という言葉すら呈したくなるような働きヲしているようなのである。 

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