兄は幼い頃から多動で、じっとしていることが我慢できませんでした。
常に家の中を走りまわり、手を振り回しながらまるでドラマーのように、自分の体を叩きまわっていました。
時折、「ウイーッー」と奇声をあげながらぴょんぴょん跳ね回ります。
そんな兄は非常に手のかかる子供でした。
家の中でそうしているうちは何も問題はないのですが、一瞬目を離した隙に外へ飛び出しては近隣住人に迷惑をかけるのです。
たとえば、家の玄関前に小さな側溝があるのですが、兄はそこに土を入れて特製のダムをつくり、排水をせき止めるのが好きでした。
そして、その特製のダムにブドウの実を食べたあとに残ったヘタを逆さに突き刺して木のようにするのが大のお気に入りでした。
そのような遊びはうちの家だけなら問題ないのですが、近所にあちこちで兄は特製ダムをつくりました。
おかげで、排水溢れて道が水浸しになったとあちこちから苦情が出ていました。
そのたびに母はシャベルと塵取りを持ってはそれを取り除きに行きました。
最初は謝罪の日々でしたが、近所の人もだんだん慣れてきたのか、「またやってるよ」と軽く注意する程度で収まるようになりました。
それだけでは、兄の多動はおさまりません。
兄は毎日往復4kmの決まったコースを走るという生活習慣がありました。
それもトレーニングではなく、衝動のまま、いわゆる儀式的に決まったコースを走っているという感じでした。
しかし、油断はなりません。
時々、見知らぬお宅へ勝手に上がりこんで、そのお宅にあった食べものを拝借したり、冷蔵庫のジュースを勝手に飲んだりしますので、警戒は必要でした。
ですから、妹の私が兄の行動を常に監視しなければなりませんでした。
そのようなわけで私も子供の頃から母のように兄のことを見守ってきました。
そうしないと母が倒れてしまうと子供ながらに感じたからです。
母自身、兄のことでさまざまなストレスを感じていたと思います。
父は昔かたぎの人で子育ては母にまかせっきりだし、母の親きょうだいは兄を無視して「亡き者扱い」しますし、父のきょうだいは母のせいで兄のような障害児になったと思っていますし、母は誰にも相談できず、一人思い悩んでいました。
もちろん専門家にも相談に行きました。しかし、親戚に偏見を持たれて苦しんでいることはどうにもならなかったのです。あくまでもわが子の発達に関してした答えをもらうことしかできなかったのです。
母は時々私にポツリと愚痴をこぼしました。
「もう死にたい! この子と一緒に死んでしまいたい!」
「でもなあ、あんたをのこしたら可愛そうやし・・・。あんたにもあんたの人生があるから、しっかり生きてゆかなあかんね。」
そして私の顔を見て母が言いました。
「ようし!頑張るぞ!」
「いいか?よう覚えておきや。世の中にはもっと苦しい目をしている人がいっぱいいるからね。うちなんてしれているから・・・。」
「だから、あんたはお兄ちゃんの分まで頑張って生きなあかんよ。」
母は、いつも兄と一緒に死んでしまいたいと思っていたようです。
しかし、兄の下に妹の私がいることで、「この子のために生きよう」と、考えてくれたようです。
母は兄に必死に向き合いながらも、いつも遠くから私のことを思い続けてくれていたのだと思います。
もしも私がいなかったら、本当に母は死んでいたかもしれません。
最後に母が生きてゆくすべを見い出したのは「親の会」との出会いでした。
母は「親の会」で役員をし、自分と同様に苦しんでいるお母さんたちに声をかけて少しでもお母さんたちや障害児の家庭を守ろうとしました。
当時、一家心中や障害児の母親の自殺は珍しいことではなく、世間には表面化されていませんでした。
現実には「親の会」には何度となく心中に関する情報が届いていたようです。
母自身もそのような危機的状況に陥っている家庭に足を運んでは、自殺をしないように説得していたと言います。自殺の予告電話で夜中に飛び出していったこともあります。
このように、障害児を生み育てるということは命がけだと思います。
現在、障害児を一生懸命に育てられているお母さんたちは本当にすごいと思います。
さまざまな偏見にも負けず、頑張っておられる姿は感動します。
これは私自身は障害者の家族として生きてきたからだと思いますが、障害児と判断されたからといって人間として扱わないという社会が存在していることは、障害者の親きょうだいには一番つらいです。
私は、兄は障害者であったからこそ、少しだけ多くの勉強をすることができたと思います。
もしも、兄がいなければ、私は人を見下すような人間になっていたかもしれません。
そんなことを考えれば、第1子が障害児になってしまったというのに、母は勇気をもって第2子である私を生んでくれたことに感謝しなければなりませんね。
お母さんありがとう!