「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

とりあえず読書メモ(絓・ディルタイ・プルースト)

2023年10月12日 | 日記と読書
 仕事が立て込んでおり、また恐らく、仕事とは別に9月半ばから気にしていないつもりでも緊張を感じていたのかもしれない状況もあり、それが積み重なり、なぜか体温が上がらないという謎の状態であったが、ようやく回復してきた。とはいうものの、本はそろそろとは読んでいた。ここ最近読んだものを挙げ、今後少しそれにコメントしたい。

 絓秀実『絓秀実 コレクション』(blue print)1・2の全二冊、1600ページ!を通読した。通読してよかったのは、絓の批評の主に80年代からの軌跡が追えたことだった。昔、絓の本の帯に「さスガの……」という文句が書いてあったと記憶しているが、一貫性と(社会)問題への拘りは「さスガ」だなと思った。感想は、機会があったら書く。ちなみに、絓の単著・共著は、「ほぼ」全て「コレクション」しているはずだが、今回通読して、こんな批評もあったのか、と驚くことも多々あった。

 ディルタイ『ディルタイ全集 1』を読了した。こちらも大著。しかし、面白かった。「自然科学」と「精神科学」の関係は、特に『全集1』の「草稿」を読むとよりわかりやすい。ディルタイの試行錯誤が現れているからだ。「精神科学」は「自然科学」と別の「論理」を内在させる、それが「意識」や「心理(学)」の法則であり、「歴史」の「生」の「連関」でもあるのだが、しかしこの「論理」は「自然科学」の「論理」と無関係であるわけにはいかないだろう。ここにディルタイの苦心の跡があり、「草稿」にはそのプロセスがよく出ている。あと、この「連関」の問題について、ディルタイはスピノザを大変評価しているのが興味深い。スピノザの「実体」を情動構造の「連関」と読み、それが「精神科学」の「連関」の端緒とディルタイは見ているようである。そのほか、「精神科学」を芸術や演劇と関わる「比喩」等で説明しようとしている箇所があり、「精神科学」にはフィクションがどうしても憑依せざるを得ない、という認識があるようだ。「構想力」にも何度も言及しており、ハイデガーとの関係を考える上でも、とても勉強になる。ディルタイは継続してブログに感想を書いていたので、詳しくはいずれ書くつもりである。早速、『全集2』の「精神科学序説Ⅱ」を読み始める。

 プルースト『失われた時を求めて』も第三巻を読了し、第四巻に入った。「アルベルチーヌ」が登場している。「ドレフュス主義」のことなどがたまに出て来て(この巻以前にも出てくるが)、同時代だなと思った。

 まずはメモなので、この程度で。