さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【生かされて生きることの意味 その1】

2020-06-22 21:42:44 | 仏教講座

阿弥陀さんの御利益によって、生まれてこられたし、今、生きていられる。
というお話をしてきたかと思います。
つまり、私たちは、
「阿弥陀様に生かされて生きている」
と、言えるわけです。


問題は、その視点に立つと、どんな世界観と出会えるかということですね。
それが、人生にとってプラスになるなら、はっきりと「御利益」ですよね?
さあ、どうでしょうか?


まず、これまでの学習を踏まえて、「阿弥陀様に生かされて生きている」私が、社会的存在として、どのように社会と対峙しているのか?ということを考えてみましょう。


この世界に存在するのは、「自分」と「自分でないもの」でしたね。
その「自分」と「自分でないもの」は、「自分」から見た場合、
「自分」を「自分でないもの」が支えている(存在させている)
という関係性で繋がれています。
「縁起」ですね。
「縁起」は無限に連鎖しますから、
「自分でないもの」=「自分でない(すべての)もの」
と、いうことになります。


「自分は、自分以外のすべてのもの(無限=阿弥陀如来)に支えられて生きている」
それが、自分と社会との関係性です。
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
と、言うこともできますね。
これ、誤解の余地がある表現ですけどね。


歎異抄に「親鸞一人がため」という言葉が出てきますが、この認識です。
「五劫思惟の願」についてよく考えてみると、という文脈で使われていますが、「五劫思惟の願」とは、この場合、阿弥陀如来を表わす記号でしかありません。
「五劫思惟の願」の内容など、眼中には無いのです。
「五劫思惟の願」=「阿弥陀如来」=「自分でないすべてのもの」
という視点です。


ちなみに、私は、二次資料以下でしかない「歎異抄」という書物には、それほど価値が無い、という立場をとっていますが、利用できる文言は利用しますね、便利ですから。


さて、この、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
という世界観に立った時、あなたには何が見えますか?
目に見えるすべてのものが、あなたを生かすために働いていてくれるのです。


ちょっと、自分の経験をお話しします。


もう、二十年近く前のことですが、当時の私は、
「阿弥陀さんって何?」
ということを、延々と考え続けておりました。
ちょうど、思考の矛先が龍樹菩薩の「空」に向かっていたのだと思います。
台湾へ行くために中部国際空港行きのバスに揺られている最中でした。
ほとんど客のいないバスの中でも、私の頭の中では「空」が駆け回っていました。
「あ、ぜんぶ繋がってるんだ!」
突然、私、閃きました。
「空(縁起)」が理解できた瞬間です。
そこからは、芋づる式に、あれよあれよと阿弥陀様まで繋がり、ほどなく、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれているんだ!」
という実感が沸きあがってきました。
「ありがとう!お前ら、みんな、ありがとう!」
冗談抜きで、目に入るものがすべて、キラキラと光って見えました。
嬉しさのあまり、
「お前も、ありがとう!」
と、目の前の空席の背もたれを、抱きしめて頬擦りしてしまったほどです。
おそらく、傍目には完璧メンヘラ―と映ったことでしょう。


車窓から見える風景が、あれほど新鮮に感じられたことはありません。
有頂天な私は、ついには、
「あれ?いや、その、俺、もしかして、覚った?のか?」
とまで、舞い上がってしまったのです。
アホだと言われても、返す言葉がありません。
お恥ずかしい限りでございます。
しかし、そのままご機嫌で、
「今日から、俺も仏陀か?おい、どうする?」
と、一人ほくそ笑みながら飛行機に乗り込んだ私は、その、わずか3時間後に、入国審査待ちの行列にイラつく自分を発見し、静かに項垂れることになったのでありました。


まあ、本当に馬鹿馬鹿しい話ではありますが、私にとっては大切な経験となっています。
問題が解けたという学問的喜びもさることながら、それ以上に、
「信仰の領域に立つと、ものの見え方が変化する」
ということを実感できたこと、それが嬉しかったのだと思います。
今にして思えば、それでようやく、「仏教研究の出発点に立てた」ということなんでしょうがね。


さて、次回は、この問題を、もう少し考えてみたいと思います。

(見真塾サルブツ通信Vol.0017より)

【浄土随想】

2020-06-22 12:48:22 | 仏教講座
【浄土をめぐる、あれこれ】


「浄土」はいらない。
「往生」はする場がない。


と、デリカシーの欠片もないことを言ってしまったわけですが、漠然と「浄土」だ「往生」だと言ってる人よりは、はるかに強くなれたはずですから、ご安心ください。
言ってる意味がわかりませんね?
そうだと思います。


本日は、もう少し「浄土」について考えてみたいと思います。
「浄土」は「阿弥陀仏国土」です。
つまり、阿弥陀さんが作られた国、ということですね。
そういう意味では、この世界の原因が阿弥陀如来だというところから考えると、この世界そのものが、阿弥陀さんの国土、即ち「浄土」であるとも言えるわけです。


「この世界こそが浄土である」
これ、どう考えますか?
「この世を浄土に!」
とかいう、甘ったれたムシロ旗ではありません。
この世界が、実際に、もとより、浄土なんです。


そう仮定して、その妥当性も含めて考えてみましょう。


「浄土」は穢れのない(煩悩に穢されることのない)清浄な場所であるという設定になっています。
穢れの原因である煩悩が無いのは「仏」ですから、仏か仏の化身でないと、そこにはいられません。
しかし、何故だか、「浄土」は死んで成仏する前の(元)人間の修行の場であるという設定もあります。
成仏前の元人間には、まだ煩悩があるはずなので、「修行の場」と「浄土」は矛盾します。
さらに言えば、人間は、死ねば煩悩が消えるため、「死人」=「仏」です。
そもそも、修行の必要がありません。
これも矛盾です。
人間が考えた浄土の設定には、矛盾が溢れています。
つまりは、必要ないのに無理に設定したから、こういうことが起きるわけですよ。


それでは、人間が考えたのではない、阿弥陀さんが本当に作った「浄土」、つまり、この世界はどうでしょうか?
汚れてますよねえ。
穢れきってますよねえ。
とても「浄土」とは呼べません。


なぜ?何故に?この世界はかくも激しく汚れてしまったのでしょうか?
それは、人間がいるからですね。
人間の煩悩が、阿弥陀さんが作ったこの世界を、隅々まで汚しまくっているからですね。


さて、ここで皆さんに質問です。
二者択一ですから、必ず、どちらか選んでみてください。


1「この世界は、間違っても浄土などではない」
2「この世界の本来の姿は、穢れのない浄土だ」


さあ、選んでください。
どっちですか?
私は、今、「穢れのない世界」なんて、想定するのが間違いなんだと思い始めているところです。


以下、フィクション


※今回は阿弥陀如来様他を擬人化します。
やってはいけないことなので、真似しないでください。
擬人化するということは、煩悩を付与するということですからね。※


勢至菩薩、観音菩薩と語らう阿弥陀如来。
なにやら、沈鬱な面持ちである。


阿弥陀「参ったな・・・・、私、なんで、あんなの作っちゃったんだろ?ほんと、参ったなあ。作らなきゃよかったよな。」
勢至「人間ですか?」
阿弥陀「そうだよ。あいつらのおかげで、浄土が台無しじゃん。こんな汚い世界、見たくないよ、私。」
勢至「それなら、滅ぼしてしまえば良いではありませんか。私、やりましょうか?」
阿弥陀「そうか?やってくれるか?」
勢至「仰せとあらば。」
阿弥陀「それしかない、のかな?ボンボン増えるように作っちゃたしな、限界かもな。」
勢至「それでは早速・・・・・」
観音「ちょっとお待ちを。」
勢至「なに?」
観音「阿弥陀様、いくらやつらが汚らわしいからといって、滅ぼすなどと簡単に仰せになってはなりません。」
阿弥陀「いや、それ言ったの私じゃない。この人。」


勢至菩薩を指差す、阿弥陀如来。


勢至「なに?何か問題がおありですかな、観音様?」
観音「あなたは、可哀そうだとは思わぬのですか?人間とて、阿弥陀様がお作りたもうた、この浄土の民なんですよ。」
勢至「だから困るのではないか。浄土とは、本来、一片の穢れも許されぬ場所。汚れたのであれば、掃除も必要じゃ。」
観音「だから滅ぼすと仰るんですか?」
勢至「さよう。」
観音「勢至様ともあろうお方が、短慮過ぎはしませんか?」
勢至「無礼を申すではない、観音。私は、見るに見かねて言っておるのだ。これ以上、ご心労が増えれば、阿弥陀様の身が持ちませぬぞ。ねえ、阿弥陀様。」


急に咳込む阿弥陀如来。


阿弥陀「最近、少し喉の調子が悪くてな。腰も痛むし。」
観音「阿弥陀様!」
阿弥陀「な、なんじゃ?」
観音「私に考えがございます。」
阿弥陀「申してみよ。」
観音「私、人間どもの煩悩を払うべく、救世主となる男児を一人、インドの釈迦族の王子として誕生させました。」
阿弥陀「・・・・・・・・・、どういうこと?」
観音「その男児は、長じて仏陀となりまする。」
阿弥陀「仏陀とな?」
観音「はい。」
勢至「人間ごときが仏に成るというのか?世迷言を申すでないぞ。」
観音「必ず成ります。私がしてみせます。」
勢至「そんなことができるとは思えんが・・・・・。」
観音「できます。やってみせます。私がやります。」
阿弥陀「いや、観音、あまり熱くなるな。息苦しくなるからな。」
観音「失礼いたしました。」
阿弥陀「で、その男児が仏陀になって、何をするのだ?」
観音「人々に真実を語り、煩悩を取り払います。」
阿弥陀「できるのか?」
観音「やらせてください。」
勢至「できるわけなかろ・・・・・」
観音「滅ぼすよりはましです。阿弥陀様!」
阿弥陀「ん・・・・・・・・。」
観音「お願いします!」
阿弥陀「ま、よかろう。やってみるがよい。時間は如何程必要じゃ?」
観音「五百年ほど。」
阿弥陀「よし、任せる。」
勢至「阿弥陀様・・・・・」
観音「ありがとうございます!」


仏歴元年、四月八日、西方浄土での一コマであった。


以上


ほんと、滅ぼして欲しいよね、与党も野党も。
いやいや、そんなことは考えずに、自力で身を守ることを考えましょう。
そのためには、阿弥陀さんに全部お任せして、楽しくやることですよ。
失礼いたしました。

(見真塾サルブツ通信Vol.0016より)

【往生するんだよ】

2020-06-20 23:33:34 | 仏教講座
ええ、前回は需給バランスに見る「浄土」の必要性ということについて考えて来た?わけですが、今回は、なぜ、「往生」というものが必要になったのかということを考えてみたいと思います。


「浄土」というものが建立されてしまったものの、本来であれば、「浄土」で「成仏」すれば事足りるわけで、わざわざ、「浄土」に「往生」して「成仏」すると一手間増やす必要はないのです。
「往生」逝ってよし!です。


なのですが、これ、必要だったのですね。
昔から、仏教では、修行を達成して成仏しなければならないという掟のようなものがあったようです。
「仏教は自因自果だから」
などという文脈で言われるのですが、要するに、成仏(自果)したいなら、自分で修行(自因)しろ、ってことですかね。


浄土教の場合、阿弥陀さんに助けてもらうので、修行という部分が、非常に怪しい、グレーゾーンなわけですね。
特に、親鸞聖人のお考えに従えば、修行は必要ない、全部他力、阿弥陀さんにお任せ、と、完全に修行放棄ですから、自分で修行しなければ成仏できない、ということになると、成仏できなくなります。
実際に、他宗の方から、
「真宗は行がないので、自因自果の原則に反している。よって、仏教ではない」
などと、しばしば指摘されたりもしています。


それに対して、真宗側は、
「いや、真宗にも行はある。ただ、阿弥陀さんが代わりにしてくださっているから、衆生はする必要がないんだ。」
と、反論したりもしています。
でも、反論になっていませんね。
「自因自果」になってませんから。
ま、しかし、それはどうでもいいです。
昔も今も、ややこしいことを言いたがる人はいる。
それだけのことで、議論には値しません。


今となっては、そんなことどうでもいいことだと思うのです。
「別に因(行)なんてなくたって、果(成仏)がありゃいいんだよ。結果オーライだろ?そもそも、果があるってことは、それがなんだかわからなかくても、どっかに必ず因はあるんだから。文句があるなら、お前が見つけ出せ。」
という程度の扱いで充分です。


しかし、昔はそうもいかなかったのだとも思います。
すべての人間が成仏するというのは、たいへんなことなのです。
真面目に徳を積んでいる人もいれば、何かの修行に励んでいる人もいるでしょう。
それと同様に、どこをどうひっくり返しても、「行」も「功徳」も、欠片も積んではいなさそうな人間もいるわけです。
そんな人間が成仏すると言われたら、真面目な人たちはカチンと来るはずです。
いや、絶対に来ます。
「成仏なめるんじゃねえ!」
と、いうことになります。
殺意すら抱かせてしまうかもしれません。
「俺の人生を馬鹿にするのもほどがある!」と。


命まで狙われては、堪ったものではありません。
そこで、浄土教一派の人たちは、この世で修行をする代わりに、死後、成仏を目指して修行する「場」として、「浄土」を設定したのです。
生きている間は、修行もせず、徳の欠片も積むことのなかったような人間も、死ねばそこへ行き、そこで、成仏するための仏道修行を成し遂げ、そして、成仏する。
そんな、修行の場が浄土です。
「自因自果」の達成です。


「人は死んだら成仏する」
ここに、ワンクッション入れます。
「人は死んだら浄土へ行き、そこで修行をして仏に成る」
ですね。


実は、これ、阿弥陀さん的には不必要でも、浄土教における一般的理解です。
そもそも、お経にもそう書いてありますからね。


論理的には、「死」=「成仏」なのですが、浄土で修行をして成仏するという設定を用いると、「死」が「成仏」では整合しません。
そこで、死んだら、まず「浄土」へ行く(往生)、というクッションが採用され、「死」=「往生」と定義されたのです。
「死んだらすぐ成仏するわけじゃないからね、浄土に往生して、そこでちゃんと修行するんだからね。浄土ってのは、そういう所なんだからね。甘くないんだよ。」
という建前を貫いたわけです。


しかし!だが、しかし!
親鸞聖人は気付いてしまったのですねえ。
「往生」=「成仏」であることに。
「死」=「往生」=「成仏」
∴「死」=「成仏」
⇒「往生」いらない


宗門人の方は、これは壁に埋めてください。


次回は、浄土随想ということで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0015より)

【往生、そして浄土へ】

2020-06-20 18:21:33 | 仏教講座
いよいよやって参りました。
「往生」そして「浄土」のコーナーです。


これまで言うのを我慢していたことがあります。
なんで先に成仏の話をしなければならなかったのか?
と、いうことにも関係があるのですが、本当に、今まで誰にも言いませんでした。
言いたくて言いたくて、ウズウズしていましたが、堪えていました。


それでは、発表です!


「浄土」も「往生」も、無くてもかまいません。
「浄土」が無くても構わないのであれば、当然、そこへ往き生まれるという「往生」という概念も不必要です。
本源的には、「成仏」があれば、それで事足りるのです。
それだけで、阿弥陀如来の主上救済は成立します。
前回をご理解いただけているなら、すでにお気付きのことと思います。
「浄土」も「往生」も方便です。


これ、そんなに難しい話ではありません。
やっぱり、死んだ後問題の解決案の一つなのです。


「人は死んだらどうなるのか?」
という問いと共に、
「人は死んだらどこへ行くのか?」
という問いが、大昔からあります。


輪廻説に立てば明快です。
「生まれ変わるんだから、ここに戻って来るだけだろ」
ということになりますね。
あの世は必要ない。


ところが、生まれ変わって来ないとなると、とたんに、
「じゃあ、どこ行くのよ?」
という話になります。


「死んだら何も無くなるんだから、行くとこなんて必要ない」
と、言いたいところですが、
「死んだら無になる」
とは、言いたくないし、無になるわけでもない。
どうしよう?世間は仏に成る場を求めている。
そんなわけで、世間の要求にこたえて創造されたのが「浄土」という概念なのです。


以下、フィクション


C「あのさ、死んだら成仏する、って言ったら、どこで?って聞かれちゃったよ。どう答えたらいい?」
A「それは・・・・、どことも言えないなあ。」
C「だよね・・・・・。」
B「ここじゃだめなのか?」
C「ここ、って?」
B「この世界だよ。仏は縁起なんだから、この世界だろ?」
C「そうかもしれないけどさ、そんなこと言ったら、この世界のどこ?とか、聞かれちゃうんじゃないの?」
B「どこだって良いんだよ。全部、繋がってるんだから。この世界に遍満してるんだ。」
A「まあまあ、そりゃ、理屈ではそうかもしれないけれど。」
C「そんなこと言ったら、この世界にいるなら会いたい!会わせて!とか、言われるよ。収集つかなくなるって。」
B「目に見えないんだから、会えるわけないだろ。」
A「ま、ままあ、それも理屈では、その通りだ。」
C「理屈が通るなら、困ってないよ。え?目に見えない?へえ、そう。成仏だとか言ってるけどさ、本当はいないんじゃないの、仏なんて?とか、言われるだけだって。俺、言われたもの。」
A「それ、俺も言われたことあるよ。ほんとになあ、理屈言っても、耳すら貸してくれないんだよな、どいつもこいつも。」
B「ああ、それは、私も同感だ。」
C「でしょ!だからさ、行くとこ決めておこうよ。死んだら行って、そこで成仏するところ。」
B「決めると言われてもなあ。」
A「決めた方が良いかもな。方便だもんな。」
C「そう、方便!それが言いたかったの、俺も。決めよ?」
B「何から決める?」
C「名前?」
A「それは、阿弥陀さんに連れてってもらうんだから、普通に、阿弥陀仏国土だろ。」
C「いいねえ、で、どんなところ?」
A「どんなところ?わかるわけないだろ。」
C「でも、考えておかないと、説明できないから。」
B「仏しかいないところだろ?煩悩が無いな。」
A「そりゃそうだ。死ななきゃいけないところだもんな。」
C「俺たちみたいに汚れたのは、死んで、きれいにならなきゃいけないってことね。」
B「きれいと言うよりは、もっと言い方があるだろ、清らかとか、穢れが無いとか。」
A「清浄は?清浄阿弥陀仏国土。」
C「うん。いいよ、だんだん様になってきた。で、どこにあるの?」
B「どこにも無いよ。」
C「いや、そういうことじゃなくてさ。聞かれたら答えなきゃいけないでしょ?」
B「そうか?」
C「絶対に聞かれるから。」
B「そうなんだ。私、引き籠りだから、ピンと来ないな。でも、死ななきゃ行けないんだよな。」
C「そうだよ。」
B「それなら、生きてる人間には行けないところにないといけないな。」
A「ああ、この世にあると、まずいな。」
B「この世でないなら、あの世か?」
C「あの世、いいなあ・・・、行っちゃった感あるし。で、それ、どっちにある?」
AB「どっち?」
C「それも聞かれるだろ?」
A「どっちと言われてもなあ、この世にないんだからな・・・・。」
B「どっちでもOKだろ、無限なんだから。」
A「ああ、それ、正論だな。」
C「正論なんてどうでもいいよ、方便なんだから、あっ!ちょっと待ってて。」


立ち上がる。


A「どうした?」
C「ほら、今、他のやつらもいろんな仏さんを考えてるじゃん。そういえば、あいつらも、どっちの方角にいるかとかなんとか、ガチャガチャやってたからさ。空いてる方角聞いてくるよ。かぶるとまずいじゃん。ちょっと、待っててよ。」


部屋を出て行くC。


A「連中、そんなこと考えてたのか・・・・・。」
B「そりゃ、そうだろ。私たちだって考えてるんだから。」
A「確かにな・・・・・。」
B「ちょっと、外の空気吸ってくるわ。」
A「あ?ああ・・・・・。」


部屋を出て行くB。
が、1分もしないうちに戻って来る。


A「は、早いな。」
B「うん。でも、外の空気は吸った。」
A「吸っただけで、吐いたのは中だな。」
B「かも。それより、今、外に出たらな、お日様が見えたんだよ。」
A「あ、それは、見たんだ。」
B「見たよ。」
A「で?」
B「思いついたんだ。」
A「何を?」
B「阿弥陀さんの国には、死んでから行くんだろ?そしたら、日が昇る方角じゃなくて、日が沈む方角が良いんじゃないの?なんか、死ぬ・・・・・・って感じしないか?」
A「ほう。生まれる・・・・・で昇って、死ぬ・・・・・で沈むか。悪くないな。日が沈む方角は?」
B「西だよ。」
A「西か・・・・・。」


頷き合うAB。
と、そこにCが戻って来る。


C「お待たせ!」
AB「おかえり。」
C「あのさ、なんか、東の方が大人気でさ、西とか南の方が余ってるみたい。東の方なんて、東南東とかまで使われちゃってるよ。」
A「あ、そう。」
C「あ、そう、じゃないって。早く決めないと・・・・・と?なんで、嬉しそうな顔してるの?」
AB「へへへへ・・・・・・・。」
C「なに?気持ち悪いよ。」
B「西だ。」
C「へ?」
A「西だと言ってるの。」
B「そう、西。」
C「西、人気無いんですけど・・・・・?」
A「無くても良い。」
B「西。」
A「人が死に向かって行くように、太陽が西へと沈んで行く。その、夕日の遥か彼方に、清浄阿弥陀仏国土がある。」


なんとなく、西を見つめる三人。


C「すっげえ、今、目に浮かんだよ。ロマンあるわ!」
A「だろ。西方阿弥陀仏。」
B「私が思いついたんだからな。」


こうして、彼らの頭の中で、西方浄土が建立されたのであった。


以上


次回は、浄土が必要とされた、もう一つの理由について考えましょう。
ね?
(見真塾サルブツ通信Vol.0014)

【死と成仏 その2】

2020-06-19 19:18:31 | 仏教講座
今回は、人間側の都合から、「成仏」を考えてみたいと思います。
そもそも、死んだ後のことがわかる人間などいません。
臨死体験だとか言う人もいますが、臨死は生の一形態であって、死ではありません。
同じ系列で付け加えるなら、仮死も生であって、死ではありません。
死んだ後のことは、生きている人間には確かめようのないことなのです。
当たり前か?・・・・・だね。


どうなるかわからない。
どうなったかわからない。
そんな状況は不安ではないですか?


だから、「死」に思いを馳せる時、人は不安を感じます。
人間は不安に弱い生き物なんだと、今回のコロナ騒動を見ていても思います。
なぜ、デマ一つで、街からトイレットペーパーが消えてしまったのでしょうか?


「死後」についても、様々なデマゴーグが溢れています。
「地獄に堕ちる」
「この世で迷っている」
「どこかで生まれ変わっている」
理性が否定しても、煩悩がそれに囚われてしまうのです。


大切な人が死んでしまった後でも、その人を大切に思う気持ちは変わりません。
失ってしまったものに思いを募らせるのは執着ですが、人間は執着するものです。


大切な人は、大切なまま。
その大切な人が、
「地獄に堕ちて苦しんでいる」
「あの世に行けずに苦しんでいる」
なんてことを言われたら、どう思いますか?


理性で否定することは簡単です。
でも、気持ちが邪魔しませんか?
気にしないつもりでも、どっかに引っかかりませんか?
嘯く必要はありません。
素直に考えてください。


引っかかるんですよ、当然。
ですよね?
体験的に否定することができないんですから。
死んだことが無い、という弱みを、どんな人間も持っています。
「あんた、死んだら地獄に堕ちるよ。」
と、言われたらどう思いますか?
そんなわけないと思っても、気持ち悪くないですか?
その気持ち悪さが、理性が貫徹していない証拠です。
「おみくじなんてくだらない。」
と、思っていても、「大吉」が出たら、なんとなく嬉しくないですか?
その気持ち良さが、理性が貫徹していない証拠です。
私は引きますよ、おみくじ。
コレクター気質の私は、レアアイテムの「大凶」一点狙いですけど。


虚勢を張る必要はありません。
人間は弱くて良いのです。


体験したことのない問題をぶつけられれば、揺さぶられるようにできているのです。
それもこれも、煩悩があるからです。
だから、絶対に未体験である「死」を考えると、必ず不安になるのです。
他人の死、自分の死、死はワンダーランドです。


死んだ人の安否(安否というのもおかしな話ですが)は気になるし、自分の死(行先)を思うと不安になります。
そんな不安には「成仏」をぶつけましょう。
理性が相手ではないので、理屈はガン無視でかまいません。
「成仏するから大丈夫!心配ない!」
と、「成仏」をカウンターで叩き込みましょう!
そうすれば、少しは不安がなくなるのではないか?
というのが、「死(死後)の不安を解消したい」という需要に対する「対処療法」だったりもするわけです。
「死んだらどうなるの?」
「(きっぱりと)成仏する(仏に成る、でも可)。」


理性を育てることが根治療法だとすれば、対処療法は「刷り込み(洗脳とも言う)」です。
根治療法はシンプルに論理ですが、対処療法はドンキの品揃え並みにバラエティーに富んでいます。
それらが、ごっちゃごちゃに混在しているのが、「仏教」です。
だから、「信仰は理屈じゃないんだ!」と切れる教学者が後を絶たないわけですが、そこは、切れるところではありません。
楽しむべきところです。
対処療法だけを学んでいると、最終的に切れなくてはならなくなります。
矢吹丈vs力石徹です。
つまり、ノーガードの殴り合い。
体力(HP)が落ちていた力石徹は死にました。(わからない人はググってね)


逆に、根治療法に拘り対処療法を否定すると、誰にも相手にされない「原理主義者(嫌われ者」になってしまいます。
私は、たぶん、原理主義者だと思われていそうなのですが、そんな私でもわかります。
対処療法は大切です。
対処療法のことを「方便」と言います。
「真実(根治療法)」と「方便(対処療法)」が両立してこその医療、じゃなくて「仏教」です。
「方便」は「真実」を隠してしまうほど、度が過ぎることも、間々あります。
でも、真実を無視しちゃだめだよねえ、ふふふ。


嫌味な私ですが、今後も引き続き嫌味です。


というわけで、本日は、「成仏」の方便性を考えたわけですが、次回からは、いよいよ、「往生・浄土」ということについて考えていきたいと思います。


実は浄土も・・・・・・ふふふ!
(見真塾サルブツ通信Vol.0013)