さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【親鸞聖人って、どんな人だと思う?前編】

2020-07-19 23:12:36 | 仏教講座
今日は少し毛色の違う話をしてみたいと思います。
楽しくない話かもしれないので、ごめんなさい。
でも、ちゃんと勉強しなければならない人には重要なお話しです。
どうせやるなら、ちゃんとやろうね、ってことかな?


「先生、自分でも勉強したいので、どんな本を読んだらいいですか?」
と、聞かれることが、よくあります。
もちろん、「浄土真宗」を勉強したい、というご質問なのですが、これ、かなり困る質問です。
で、困るものですから、
「『スッタニパータ』(お釈迦様)と『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)かな?」
と、答えると、まあ、「?」な顔されます。
こちらとしては、わりと真面目に言っているのですが、説明するとサルブツ1~10以上に説明が必要になるので、仕方がないので、
「じゃあ、『真宗聖典』、西(本願寺)のでも東(本願寺)のでもいいから。」
と、お答えします。
親鸞聖人のお言葉に、直接触れてみましょう。
という趣旨で言っているわけですが、すると、
「直接は難しいので、良い参考書はありませんか?」
と、来ます。
必ず、来ます。


ここで、ハッキリと申し上げておきますが、
「ありません!」
気を悪くされる方もいらっしゃるかもしれませんが、無いものは、無いのです。
だから、私、困っているんですよ。
「俺だって、欲しい!」んですよ、ずーっと、そう思っているの。


これね、何も、自分だけが正しいとか、皆、間違ってるとか、そんな偉そうなことを言ってるわけじゃないんです、本当に。
私より勉強をされてる先生は、何百年も前からたくさんいらっしゃるので、適切に取捨選択ができる素養さえお持ちなら、かなり参考になる資料はあります。
でもね、現在の真宗学には致命的欠陥があるんです。


それは、親鸞聖人の時代の日本語と、現代の日本語が、同じ日本語だと考えて、テキストが扱われているということなんです。
そりゃまあ、「古語」「古文」という認識は、誰にでもあります。
じゃあ、古いけれど、日本語は日本語ですか?
八百年前の日本人と現代の日本人との会話が、成立すると思いますか?
すると思われる方は、頑張って。
私は、しないと考えています。
つまりは、別言語だと思わなければならないのですよ。


別言語で書かれたテキストは、まず日本語に翻訳されなければ使い物になりません。
だから、キリスト教の聖書は常時翻訳作業が続けられています。
逆に、イスラム教の聖典は翻訳禁止ですが、それによって、別言語であるということが明白です。


専門書であれば、テキストを翻訳する必要はないかもしれませんが、参考書でしょ?
日本語で勉強したいですよね?
例えで「英語」を使いますが、
1 英語テキストが英語であると気付かないまま、英語で書かれた参考書
2 英語テキストが日本語であると勘違いされたまま、日本語で書かれた参考書
こんなの読んで、何かわかる?


英語が理解できるなら、「1」は有効利用できる可能性があります。
「2」は?
斯く言う私も、長いこと「1」「2」の世界でものを言っておりました。


大学院時代のことです。
高校の先輩後輩ということで親しくしていただいている国文学科の教授に、私の論文を読んでもらいました。
すると、後日、
「お願いだから、宇宙語で書いたものは読ませてくれるな。」
という感想をいただいてしまいました。
江戸時代が専門で、私が鬼門だと思っている江戸時代の版本を、版木のままスラスラと読むようなオッサンに、「宇宙語」だと言われてしまったのですよ。
自分が、「わかったつもり」で、理解が不十分な言葉を使ってると、「宇宙語」になるんだと思います。
非常に勉強になりました。


もう一つ昔話をします。
中国仏教の専門家として名が通っている、ある先生と話をしていて気付いてしまいました。
中国語ができないんだ、と。
これには、私、青天の霹靂というぐらい絶句してしまいました。
英語のできない英文学者って、いる?
もちろん、「発音が苦手」だとか、「会話は苦手」という方は、優秀な方にもいらっしゃいます。
でもね、言語としての英語の素養が無い、英文学者って、いる?
「何か、この世界、常識が違う」
と、確信した出来事でもあります。


もちろん、仏典が翻訳された唐代とかの中国語と現代中国語は別言語です。
発音も文法も異なりますが、表記に関しては、統一性が維持されていたりもします。
だから、少なくとも、現代中国語の素養が無ければ、「中国語で書かれた」テキストを研究することは困難です。
実は、この「中国語で書かれた」というのが、一昔、二昔前の仏教研究の大きな落とし穴だったのです。
漢字ですね、漢字。


「漢文」って何語ですか?
中国人(広義のね)が書いた漢文は中国語。
日本人が書いた漢文は日本語、じゃないですか?


そこが、きちんと線引きされずに、全部、漢文訓点による、いわゆる「読み下し文」として扱われていたのです。
簡易日本語訳と言うか、無理矢理日本語訳ですね。
もちろん、漢文に、如何に美しく訓点を振り、如何に美しく日本語に整えるか、という日本漢文学は、立派な文学です。
私、大好きです。


しかし、テキストを解釈するとなると話は変わります。
中国語は中国語として、日本語は日本語として扱われなければなりません。
何となく意味が分かる気がする、では、学問にならないんですよ。


例えば、お経を理解するには、中国語として理解しなければなりません。
しかし、親鸞聖人がお経をどう理解したのかを考えるためには、親鸞聖人が訓点を記したテキストに従って、親鸞聖人の日本語として読まなければなりません。
そして、親鸞聖人がお書きになられた漢文は、ただの日本語です。
ただの日本語ですが、中世日本語です。
現代日本語とは別言語です。
何となく意味が分かる気がしても、それこそ意味がありません。
というか、何となく意味も、わからないでしょ?


この辺り、未だにごちゃごちゃなままで理解されていないのが真宗学なのです。
だから、「仏教学は学問だけれど、真宗学は学問ではない」と、言われているのです。
仏教学が専門の先生でも、真宗のお坊さんだと、浄土真宗の話を始めた途端にアカデミックな姿勢をお忘れになる方もいらっしゃいます。


だからね、参考書を紹介しろと言われても、無理なんです。
今、皆さんに一番必要なのは、テキスト!教科書そのものなんです。
完璧に現代日本語に翻訳された、親鸞聖人全集ですよ。
それが無いのに、何を解説して欲しいんですか?
真宗聖典の英訳がはかどらないというか、「?」ってなるのも同じですよ。
簡単に英訳できるような、本当の意味で現代日本語訳と言えるものが無いからです。


困ったなあ、というか、困ってますよ、私!


最初に、私、
「『スッタニパータ』(お釈迦様)と『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)かな?」
と言いましたけど、この二冊、現代日本語に翻訳されてるんですよ。
素人なので、翻訳の良し悪しはわかりませんが、少なくとも、宇宙語じゃなくて、現代日本語になっているなら、理解できるような気がしませんか?
そういう意味では、『新約聖書』もお勧めです。
ほとんど似たようなこと書いてありますから。


ん?浄土真宗?
だから、「無い!」って言ってるでしょ!
「無い!」んだから、しょうがないでしょ。
ジタバタするのは止めて、自分で翻訳しましょう。
ナンセンスな解説書など捨てて、親鸞聖人を読みましょうよ。
それしかないんだもの。

(見真塾サルブツ通信Vol.0036より)


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