さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【「無限」は矛盾を吹っ飛ばす】

2020-06-24 14:30:55 | 仏教講座
二枚のマスクを奪い合う家族と譲り合う家族。
どちらが理想的な家族の姿なのでしょうか?
そんなことを考え、ほくそ笑む川村です。


今し方、ふと気になったので、言っておきます。
私は無神論者じゃないですからね?
浄土真宗のお坊さんには多いんですが、私は違いますからね。
仏様も神様も大好きです。
「阿弥陀如来は縁起の総体としての無限である」なんて言ってるものだから、阿弥陀さんに対する信仰心がないんじゃないかと疑われたりもしておりますが、それ故に、阿弥陀様を信仰させていただけるようになったんですからね。


ちなみに、他宗のお寺にも、神社にも、キリスト教会にも、お参りします。
どこへ行っても、手を合わせたら「南無阿弥陀仏」ですけどね。
それでいいのです。
皆さん、阿弥陀如来のお手伝いをされている方々ですから。


では、本題に入ります。
本日は、頭に入れておいていただきたい「無限」の特質をパラパラとお話ししたいと思います。
ここ、まさに、専門分野のど真ん中なので、難解でないつもりで、難解なこともいうかもしれませんが、お許しください。


前回、目の前にいる人間も無限の構成員だということを口走りましたが、阿弥陀如来は、有限が「無限個連鎖」して構成される無限です。
阿弥陀如来という無限を構成する要素になっている「この世界のすべてのもの」の、一つ一つは有限で、絶対に、形あるまま(存在として)無限にはなれません。


というのも、自分も阿弥陀如来の構成要素なのだから「仏」だと言っても良い、というような解釈をする人が結構いるのです。
それを「汎神論」と言いますね。
無限が無限個集まってできる「無限集合」ですが、どうでもいいです。
スピノザとか、「阿弥陀如来も浄土も自分の中にある」という、他宗の阿弥陀様が、そんな感じですかね。


しかし、「縁起」は、有限が無限に繋がってできる無限です。
だから、有限は、無限の構成要素ではあっても、無限ではありません。
また、そのものとして(単体で)、無限になることもありません。
したがって、私たちは、生きているうちに「仏(無限)」にはなれません。
まず、ここを押さえておいてくださいね。


ちなみに、浄土は無限集合です。
ややこしくなるので説明しませんが、指摘だけしておきます。


次に、一つ数式を覚えておいてください。
「無限分の有限は0とほとんど等しい」
「有限/無限≒0」
果てしなく0に等しいと考えて良いと思います。
この数式を忘れないようにしてください。
これを忘れると解けない問題が山ほどあります。


例えば、浄土の回で触れておいたのですが、この世界が浄土であるとすると、なぜ人間という汚れが存在しているのかという疑問というか、矛盾が生じます。
しかし、人間は有限であり、人間固有の煩悩も有限です。
すべての人間という集合は有限(論理的に計数可能)なので、浄土の汚れとなる人間の煩悩も有限です。
一方、浄土は阿弥陀如来に属する(阿弥陀如来の器と考えても可かも)ので、当然、無限です。
そこで「有限/無限≒0」に当てはめます。
「煩悩/浄土≒0」
つまり、人間の煩悩という汚れなど、浄土においては、考慮するに値しない、無いに等しいということになります。
矛盾解消ですね。
無限は矛盾を吹っ飛ばします。
「この世界」=「浄土」、有りです。


私は今のところ、「この世界こそが浄土である」という立場は取りたくないと思っていますが、これ、考えると面白いですよ。


まず、この世界が浄土ですから、オギャア!と生まれることが「往生」になりますね。
「信心決定の時が往生だ」なんて、寝惚けたことは言ってられませんよ。


オギャア!と往生して、ゴールは「成仏=死」ですから、まさに、浄土が、「成仏するための修行の場である」という本来の機能を取り戻すことにもなります。


どんな修行をさせられるのか?
それは、「生きて苦しめ」ということですね。
浄土で阿鼻叫喚地獄ですよ。
怖いですねえ。
でも、仕方ありません、修行ですから。
辛いだけなら逃げ出せば済むことですが、楽しいことも山ほどあるから質が悪い。
飴と鞭です。
阿弥陀様、意地悪です。


こういうことを考え出すと、楽しくて止まらなくなりますので、本日はここまで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0019より)

【生かされて生きることの意味 その2】

2020-06-24 08:16:30 | 仏教講座
今日も生きてますか?


さて、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
まあ、皆さんに限れば大丈夫だと思いますが、これ、
「世界は俺のためにある」感がありますねえ。


「自我」は野放しにされていると肥大し、やがて世界が「自分(のもの)」となる。
と、言われておりますが、宗教(信仰)が、その厄介な「自我」というものを抑制する役割を持っているという見方もあります。
まあ、そうかな、と思います。


そんな宗教の役割とは、真逆とも思える、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
というフレーズですが、これ、自分という視点からであって、「自分以外のもの」という逆の視点に立てば、
「俺たちのおかげで、生きていられるんだからな。」
ということになります。


さらに踏み込めば、
「俺たちはお前の命を支えているが、お前はどうなんだ?」
「お前は、誰かの支えになれているのか?」
という問いが、常に突き付けられているんだと考えてもいいでしょう。


このあたり、常にセットで理解してください。
「世界は俺のためにある」=「俺は世界のためにある」
ですからね。
重すぎて背負えません。


ところで、今、あなたの目の前に、あなたの大嫌いな人がいるとします。
嫌でしょうが、できるだけリアルに想像してください。
って、俺の顔想像してんじゃねえぞ、フナ!!!!!
失礼しました。
思い浮かんでますか?
嫌ですね。
私も嫌です。


しかし!
その「誰か」も、あなたの命を支えてくださっている、阿弥陀さんの構成員なんですよ。
あなたが、生きていられることを喜んでいるのであれば、生きていたいと願っているのであれば、目の前の「誰か」は、憎むべき敵ではなく、感謝すべき恩人です。
「ありがとう」
と、感謝しなければなりません。
それが筋というものです。


私は嫌ですよ。
感謝なんかしませんよ。
私、仏様じゃありませんから。


でもでもでもでも!
ほんの一瞬でも、
「憎むべき敵ではなく、感謝すべき恩人」
という正論が挟まると、「憎い」「嫌い」という「負の感情」が揺らぎませんか?
マイナススパイラルにブレーキが掛かりませんか?
私はそこで、力任せにアクセルを踏み込む方ですが、止まれる方は止まってください。
その方が、確実にお得ですから。


「負の感情」は、絶対に人を幸福にはしてくれません。
当たり前のこと言ってますね、私。
「負の感情」が、少なければ少ないほど、人生の幸福度は上がります。
しかし、「負の感情」は無くなりません。
人間ですから。
で、
「無くならないなら、減らせばいいじゃん。」
と、いうのが、浄土教の立ち位置ですね。


「マイナスを減らし、プラスを増やし、差し引きプラスを目指そう!」
これが、仏教用語で言う、「抜苦与楽(ばっくよらく)」ということです。
そのための具体的方法論として、私たちに提示されているのが、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
つまり、「一人のため」という自覚を持つということ。
「生かされて生きる身」であると自覚して生きること、と、考えてもいいかもしれません。
阿弥陀さんの御利益ですね。
阿弥陀様と出会えばもれなくいただける、でも、出会えないといただけません。


出会うまでがたいへんなんですよ、もう、本当に。
これ、前にも書きましたね。


ややこしくなるので、今回はたとえ話をあまりしませんでしたが、それぞれ、いろんなシチュエーションで考えてみてくださいね。


「阿弥陀さんの構成員」なんてことを呟いてしまいましたので、次回は「有限(主として人間)」と「無限(阿弥陀如来)」との関係性などについて考えてみることにいたしましょう。

(見真塾サルブツ通信Vol.0018より)