さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

仏教は人間を解放するという意味で珍しい宗教だと思うが・・・。

2020-06-10 17:42:06 | 仏教講座
宗門であるとか、宗派であるとか、坊さん同士の「おつきあい」であるとか、そういうことを考えるのを一切やめようと思い立ち、そこそこ時間が経過しました。
相変わらず、「で、自分はどうしたいの?」ということは見えてきませんが、さして考えてもいないので、仕方ありません。
案外、「このまま消えてしまいたい」というのが、本音なのかもしれません。


しかし、まあ、しがらみを離れてみて、良く見えるようになったことも、たくさんあります。
例えば、「教学」というものが、いかに教団というものに都合良く組み立てられているのか、ということは、理解していたつもりでいましたが、様々に遠慮したというか、忖度したところで考えていたんだなあ、と、つくづく思ったりしています。


逆に、今、困っているのが、「良い坊さん」というのが、どんな坊さんなのかがわからなくなってきていることです。
これまで、「良い坊さんになれ」と言い、「良い坊さんになって欲しい」と願い、自分なりに頑張って、坊さんの教育というものにあたってきたわけですが、それが、わからなくなりました。


「良い坊さん」という言葉は、どっちを向いて言っているのか?ということですね。
セクトにとって「良い坊さん」なのか、各自の寺にとっての「良い坊さん」なのか、門徒にとってなのか、門徒も含めて一般の人にとってなのか、それとも、社会にとっての「良い坊さん」なのか?


少なくとも、一般の方にとっての「良い坊さんになれ」と、言ってきた自覚はあるのですが、それにせよ、上に立つ自分にとって都合の良い、使い易い坊さんになって欲しいという思いも、あったのかもしれません。


今のところは、坊さんどうこうはさておき、「お釈迦様からつながる親鸞聖人の教え」を理解してもらえれば、「後のことは、それぞれ自分で考えてくれ」という、無責任な立場で、ものを言っております。


そんなこんな考えているうちに、ふと思ったのですが、仏教というのは、「人間を縛らない」という意味で、珍しい宗教です。
「縛らない」どころか、むしろ、縛られている人間を「解放する」方向に機能するのが、仏教なんじゃないでしょうか?


お釈迦様は、輪廻だ、カーストだという社会構造的な縛りから、成仏によって人々を開放して下さったわけですし、親鸞聖人や、そのあたりの先輩方は、上流階級や富裕層が独占していた仏教を、下々の人々へと開放して下さったわけですよね。


今、日本の仏教はどうですか?
人を縛ろう縛ろうという流れのままではないですか?
一人でも多くの人間の首に紐をかけて、自陣に引き込もう、自陣に縛り付けておこう、そんな圧力を感じませんか?


檀家で縛り、ご先祖様で縛り、お墓で縛り、骨で縛り、結局、人を縛ることで、生き永らえようとしてるのでは、ありませんか?
そんな中で、「縛られるかもしれない」という疑念が生まれ、それが人々を仏教から遠ざける要因の一つになっているのだとも感じます。


それでは、仏教という教えの良さ、つまり、「自由」がスポイルされてしまうのではないかと、思うのです。
キリスト教やイスラム教の神様などは、神が人間を縛ることによって、人間を解放します。
だから、人間を縛るのは前提です。
しかし、仏教は、人を解放する方向でしか機能しません。
人間を自由にするのが仏教です。


セクトである限り、構成員を縛ることは止められないのかもしれませんが。