さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【宗教嫌いの謎】

2020-06-26 15:31:08 | 仏教講座
別に謎なんてないんです。


「坊主嫌い」という人には、「嫌い」な原因があります。
その原因なら、私だって実例を上げ乍ら24時間語り続けることができます。


「宗教団体が嫌い」という人にも、「嫌い」な原因があります。
過分に八つ当たりである傾向もありますが、許容範囲内だと思います。
腐ってる団体、多いです。


しかし、「宗教嫌い」と言う人のほとんどは、アホだからそう言うのです。
間違いありません。
何故か?
「宗教嫌い」な人達の圧倒的多数は、宗教について、ほとんど何の知識もないからです。
良く知りもしないのに批判するのは、頭が悪いだけでなく、人間としての品性にも欠けていると言わなければなりません。
前から歩いてきた見知らぬ人に、突然、「俺、あんた嫌い」と言うのと同じですからね。


「宗教なんて必要ない」と、言う人も同じですね。
たいていの場合は、頭の悪い人ですね。
必要があったから生まれたたわけですから。


そういう人は、
「神様なんて、所詮人間が作ったものだから、人間の方が偉いんだ。」
などと、吠えたりもしますが、愚かですねえ。
作ってないんですよ、人間は。


人間がしたのは、名前を付けることだけです。
出会ってしまった不可解な現象や、理解を越えた働きに、人間は名前を付けたのです。
人知を超えた、制御不能な力に、畏敬の念を込めて、名前を付けたのです。
そして、抗うことのできない力と親和する為に、信仰の対象としたのです。


人間は「神(仏)」を「創造」したのではなく、発見して名付けたのです。
だから、その「神(仏)」が、この世の創造主であるような大きなというか、宇宙レベルというか、グローバルというか、ま、とにかく、そんな「神(仏)」であった場合は、世界各地で、複数の人間に発見されます。
世界のどこかで、誰かが発見し、それぞれに名を付けられます。
後は、それぞれの地域に特有の歴史や文化、社会構造に育てられ、独自の宗教体系を持つ「異なる宗教」として育ち、今日に伝えられたりもしているわけです。


人間が作った「神」は、けっして「神」ではありません。
それは、政治や権力の道具にすぎません。


東照宮だとか、豊国神社だとかありますが、徳川家康や豊臣秀吉が「神」になったわけではありません。
彼らが死んで成ったのは、「仏」ですからね。
東照大権現様は、幕府が作った支配ツールなので、間違っても「神」ではありません。
だから、東照宮や豊国神社は、彼らを祀った仏壇だと思えばよろしいかと思います。
仏壇ですから、そのつもりで、敬意を持って手を合わせるべきだと思いますけどね。
「南無阿弥陀仏」です。


かつては、日本にも、発見され、大切に護られてきた神々が、大勢いらっしゃいました。
今となっては、どこへ行かれたかわからない神々や、忘れ去られた神々が大勢いらっしゃいます。
「神仏分離」「廃仏毀釈」「国家神道化」「神社合祀」などなどの、明治政府の暴挙によって、日本人の信仰形態は滅茶苦茶にされてしまったのです。


壊されたのは仏教だけではありません。
むしろ、神道の方が被害は大きかったのではないでしょうか。
なにしろ、その土地で発見され、その土地ならではの方法で、大切に信仰されてきた神様たちが神社から追い払われて、神だかどうだかわからない古事記や日本書紀の登場者(神もいらっしゃるとは思います)たちが、神殿に押し込まれたんですから。
その上、そこで神様が発見された、という証でもある土着性まで、経費削減のための強制的な引っ越しで奪われて、身も心もズタボロにされ、形骸化されてしまったのです。
政府が政治利用のために社に押し込んだ神など、神ではありません。
もう元には戻せませんが。


一例だけ上げると、「八坂神社」や「津島神社」は「牛頭天王社」ですからね。
「素戔嗚神社」なんかじゃないんです。
「牛頭天王社」だから、ドラマがあるんです。
「祇園祭」のドロドロなドラマが深く味わえるんです。
「祭神スサノオノミコト」では、薄っぺらなドラマですら描きようがありません。


だから、私は、維新の志士と呼ばれる人たちが大嫌いです。
明治政府を作った輩は、日本人の心と信仰を壊した大罪人だと思っています。
明治政府によって心が破壊されたことで、日本人の信仰心が形骸化してしまったのではないか?とさえ思います。


まあ、もとを糺せば、仏教にしても、神道にしても、国家権力と一体化して、権門として君臨していたわけですから、政権が代われば滅ぼされるのが当然ちゃ当然なんですけどね。
一番の被害者は、全国津々浦々にいらっしゃった、それでも、それぞれの土地で大切に護られてきた、名もなき神様仏様方かもしれません。


て、なんか、話が飛びましたが、本日はここまで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0022より)

【たかが念仏、されど念仏】

2020-06-25 16:19:18 | 仏教講座
前回までで、親鸞浄土教(浄土真宗と言うのやめますね)の大まかな骨格と、それが、他宗教とも通底するものだということは、ご理解いただけたかと思います。
が、何か足りないものがありませんか?


それにしては、まだ念仏の話が出てこないのだけれど?
と、思った方は正解です。


浄土教と言えば念仏です。
「南無阿弥陀仏」を抜きにして、浄土真宗は語れません。
それなのに、なぜ、これまで念仏の話をしなかったのか?
それは、浄土真宗は語れなくても、親鸞浄土教は語れるからです。
要するに、念仏も方便(方法論)であって、骨格ではないんですよ、これが。


もちろん、方便の中では最重要項目です。
浄土教発生時に、既にして仕組まれていた方便ですからね。
しかし、念仏などしなくとも、成仏はするんです。
成仏できるのではなく、するんです、死ねば。
だから、方便なのです。


「念仏成仏是真宗」という言葉があります。
「念仏、成仏、これ真宗」
私の大好きな言葉です。
普通は、
「念仏して(そのおかげで)成仏するのが真宗だよ」
と、解釈されることが多いように思いますが、そうではありません。
仕組んだ側からの視点で言えば、
「念仏させて、成仏することに気付かせるのが真宗(真の教え)だよ」
と、いうことになります。


くどいですが、
「念仏するから、成仏できる」
のでは、ありません。
念仏しなくても、成仏はする、必ずする、絶対にするんです。
だって、死ぬんだもん。
ここを外すと、親鸞浄土教は無価値化します。
他のことは忘れても、これだけはブレずに守ってください。


それなら、なんで、念仏しろなんて言うのよ?
ということになりますね、問題は。
私も、もう、煩いくらい、皆さんにお勧めしてますしね。
なんで、そんなことしてるんでしょうか?


それを説明する前に、少し復習いたしましょう。


「阿弥陀如来に生かされて生きる私」
と、自覚するところから始まるのが、阿弥陀如来の救済です。
まずは、人々に、そこに立ってもらわないと、マイナスが減りプラスが増えるという、幸福度右肩上がりの信仰生活を味わっていただくことができません。


そのために、浄土の教えを広めるという使命を持った者たちは、二つの大きな課題を背負うこととなりました。
前にも少しお話ししましたが、
1 阿弥陀如来が絶対者(自分の命の原因・造物主)であると認知・認識させること。
2 「生まれて良かった」「生きてて良かった」と、自己の生命を肯定的に考えてもらうこと。
ですね。


その前提が整って、はじめて、
3 「阿弥陀如来に生かされて生きる私」を「ありがとう」と受け入れてもらう。
ということが、可能になりますからね。
3を成立させるためには、前提1・2が必要だということです。


その重要な前提1を達成するための最大の方便として仕組まれたのが、お念仏です。
「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来のお名前を称える、あれですね。


名前を聞かせて、名前を呼ばせて、何度も何度も、聞かせて呼ばせて、阿弥陀如来のお名前とご存在を、人の脳裏に焼き付けてしまおう。
それが念仏です。
単なる刷り込みです。


しかし、刷り込みを馬鹿にしてはいけません。
人間というのは不思議なもので、名前を知っているというだけで、必要以上に親近感を抱いてしまったりもするものです。
候補者の名前を連呼する選挙カーは、煩くて腹が立つものです。
それなのに、刷り込まれたら負けです。
怒りなどすぐに忘れて、名前を知っている方に投票したくなってしまうのです。
それでもって、
「知らない奴には、入れる気がしないもんなあ」
なんてことを、しゃあしゃあと言うのが、人間なんです。


たかが刷り込み、されど刷り込みです。
マーケティング戦略には欠かせないアイテムです。
なにせ、二千年前から今に至るまで、使い続けられている手法なんですから。


ところで、阿弥陀如来のお名前を呼ぶ念仏には、「阿弥陀仏」と本当に名前だけを称える念仏と、「南無」を加えて「南無阿弥陀仏」と唱える六字の念仏があります。
四字の念仏は中国仏教に多いですね。
台湾には念仏マシーンと私が呼ぶ小さな箱があって、お寺とかお参りするとよくもらえるんですよ。
USBで充電して、ポチッとスイッチを押すと、
「あーみ~だー、あーみ~だー、あーみ~だー、あーみ~だー・・・・・・・」
と、阿弥陀様のお名前が、一定のメロディーで、延々と繰り返されます。
一時間もかけっ放しにしていると、止めても止まりませんよ。
頭の中は、しばらくズーッと「阿弥陀仏」ですよ。
布団の中にまで、阿弥陀さんがついてきて下さいます。
そういうのは、だいたい四字のお念仏ですね、中国仏教ですから。


一方、親鸞聖人をはじめてとして、日本仏教が取り入れているのは「南無阿弥陀仏」という六字の念仏です。六字の場合は「南無」を加えることによって、阿弥陀如来が絶対者であることも、名前と同時に刷り込もうとしていると言えます。


「南無阿弥陀仏」というのは、「阿弥陀如来に命を預けます」というような意味だと思っていただければ、よろしいかと思います。
こっちの六字の方が、「My God」や「アッラーフ・アクバル(الله أكبر)(神はもっとも偉大なり)」という外国のお念仏と近しいものになりますね。
「神(仏)」への帰属意識を同時に刷り込むということです。


ちなみに、私は常々、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様ありがとう」だと、寺々で繰り返し繰り返し言っておりますが、それは、2を飛び越えて1と3を直結させてしまおうという試みです。


2の課題が一番厄介ですからねえ。
お念仏だけでは乗り越えられないと言うか、なんと言うか。
ま、おいおい考えてみたいと思います。

(見真塾サルブツ通信Vol.0021より)

【「神」は千変万化する】

2020-06-25 10:58:56 | 仏教講座
往生も浄土もいらないなどと、正気の沙汰ではないと思われるかもしれませんが、これ、正気になったから言えるんですね。
セクトの利益に忖度する「教義」というものを全否定して、普通に、極正常な立場から、「教理」を学んでいきたいと思います。


そもそも、仏典というものは、99%の方便(どっちでもいいこと)と1%の真理(大切なこと)で成り立っています。
割合は適当に言ってますけどね。
中には100%方便というものも少なくありません。
方便の山の中から、真理を掘り出すのが、宗教を学ぶということです。
真理が掘り出せたら、後は、自分で方便をくっつけていけばいいわけですよ。
まあ、お坊さんでなければ、方便をくっつける必要はありませんけどね。


この、腐るほどある「方便」というものが、なかなか曲者なのです。
善良な方便と、悪質な方便があると言っても良いでしょう。


善良な方便とは、人を段階的に真理へと導くための手練手管ですね。
手段は問われません。
最終的に「真理」へと導くことができるなら、「騙し」も「脅し」もOKです。
必要悪というやつかもしれません。


一方、悪質な方便とは、「人を真理へと導く」という目的を持たない方便です。
目的は様々です。
セクトに人を集めるためだったり、ライバル(別セクト)を蹴落とすためのネガティブキャンペーンであったり、セクトもしくは個人に富を集めるためであったり、権力への忖度であったりと、およそ仏教にはふさわしくないドロドロしたものが溢れています。


でも、これ、仕方のないことなんですね。
どんな仏典にも、それを作った作者(作グループ)が存在します。
では、なぜ、彼らは、その仏典を作ったのか?
それは、自分(たち)に何らかの利益をもたらす為に、ですね。


これ、簡単な話です。
損するためには作らない。
損得無しで作るのというのも疑わしい。(何かある)
得するから作る。
自然なことですね。


高尚な仏道修行者には私利私欲など無かったんだ、と、お考えの方、それは、仏道修行者が人間ではないと言っているのと同じですよ。
差別発言です。
仏道修行者も人間です。


特に、仏教のようにセクトが林立してしまうと、そこに当然、競争原理が働きます。
セクト同士の仁義なき戦いが、昔も今も、そこかしこで繰り広げられ続けているわけです。
特定抗争宗教法人とかのカテゴリーを作って、公安警察に監視していただきたいとすら思います。


そういうことですから、悪質な方便は「人を真理へと導く」機能を持たないどころか、時には、人を真理から遠ざけてしまうこともあります。
謂わば、まやかしです。
まやかしで始まり、まやかしで終わるような、セクトによるセクトのための宗教書、たくさんありますよね。


とにもかくにも、仏典を学ぶには、まず、徹底的に方便を見極めることが肝要です。
そして、悪質な方便を切り捨て、善良な方便を辿って行く。
すると、驚くほどシンプルな「真理」と遭遇することができるんですよ。


そんな風にして抽出した「真理」を骨格として並べてみると、
「あれ?????」
と、気が付くことがあるはずです。


気付かなければ、毒されているということなので、毒を抜いて、学び直してください。
私は毒しか吐かないので、あてにされても困りますが、正しく学べば気付きます。
「あれ?一緒じゃね?」
と、いうことに。


何と何が一緒なのかと言えば、もう、おわかりだと思いますが、
「仏教も他宗教も変わらないんじゃね?」
ということですね。
勉強不足なので断言はできませんが、私、これ、浄土真宗と他宗との関係においても、同じことが言えるのではないかと想像しております。
ほんと、想像だよ。


少なくとも、浄土教やキリスト教・イスラム教など、「すべての人類を救うことができる神(仏)」、つまりは「造物主」を信仰対象として設定しているグローバル宗教は、
「つまるところ同じ」
と言っても、過言ではないと思います。
違っているのは「方便」です。
表現方法や受け取る感性の違いですよね。
それでも、圧倒的に方便部分の方が多いので、全く別物であるかのように見えるのです。


阿弥陀さん、というお名前だって方便ですからね。
私たちが「阿弥陀如来」と呼ばせていただいている「何か」を、別の人たちは違う名前で呼んでいるかもしれないし、それでも誰も困らないわけです。
だから、ぜひ、皆さんにも、「一緒なんだからいいじゃん!」というフレキシブルな姿勢で、仏教や他宗教.を学んでいただきたいと思います。
便利ですから。
何が便利かと言うと、「真宗教学」よりも圧倒的に豊かで緻密なキリスト教やイスラム教の「神学」の成果を、方法論も含めて、躊躇なく利用できるようになることです。
たぶん、千年分くらい、向こうの方が進んでますよ。
それに、キリスト教やイスラム教の方便に学ぶ(パクる)ことができるようにもなります。
簡単に整合させられますからね。
内緒話ですけど、「新約聖書」の文章なんて、ほぼそのまま、法話に使えますよ。
私は、使ったことはないけれども。


いずれにせよ、「セクト=利権」ですから、学ぶ時には、そこを離れた自由な精神で学ばなければならないということです。
そうでないと、受け入れるべきことが受け入れられないまま、刷り込みだけ受けて、学べば学ぶほど阿呆になったりもしますからね。
お気を付けください。


念のため申し述べておきますが、「一緒なんだからいいじゃん!」とは言え、私がキリスト教徒になるなんてことは、生涯ありませんからね(たぶん)。

私の信仰の対象(私にとっての造物主)は、あくまでも、生涯唯一仏、阿弥陀さんです(たぶん)。
他の神様、仏様は、一人残らず、敬愛するお友達です。
それは、私が、親鸞聖人を通して阿弥陀さんと出遭い、お釈迦様と出遭い、そこで、阿弥陀如来に生かされて生きる私というものに、気付かせていただけたからです。
だから私は、仏教徒であり、親鸞浄土教徒であり続けたいと思います。
真宗門徒ではありませんよ、門徒はセクトの構成員ですから。
僧侶としてセクトと関わることがあったとしても、セクトにアイデンティファイされることがあったとしても、学者としての私は、ノンセクトを貫こうと思います。
その視点から、学び、考え、物を言おうと思います。


(見真塾サルブツ通信Vol.0020より)

【「無限」は矛盾を吹っ飛ばす】

2020-06-24 14:30:55 | 仏教講座
二枚のマスクを奪い合う家族と譲り合う家族。
どちらが理想的な家族の姿なのでしょうか?
そんなことを考え、ほくそ笑む川村です。


今し方、ふと気になったので、言っておきます。
私は無神論者じゃないですからね?
浄土真宗のお坊さんには多いんですが、私は違いますからね。
仏様も神様も大好きです。
「阿弥陀如来は縁起の総体としての無限である」なんて言ってるものだから、阿弥陀さんに対する信仰心がないんじゃないかと疑われたりもしておりますが、それ故に、阿弥陀様を信仰させていただけるようになったんですからね。


ちなみに、他宗のお寺にも、神社にも、キリスト教会にも、お参りします。
どこへ行っても、手を合わせたら「南無阿弥陀仏」ですけどね。
それでいいのです。
皆さん、阿弥陀如来のお手伝いをされている方々ですから。


では、本題に入ります。
本日は、頭に入れておいていただきたい「無限」の特質をパラパラとお話ししたいと思います。
ここ、まさに、専門分野のど真ん中なので、難解でないつもりで、難解なこともいうかもしれませんが、お許しください。


前回、目の前にいる人間も無限の構成員だということを口走りましたが、阿弥陀如来は、有限が「無限個連鎖」して構成される無限です。
阿弥陀如来という無限を構成する要素になっている「この世界のすべてのもの」の、一つ一つは有限で、絶対に、形あるまま(存在として)無限にはなれません。


というのも、自分も阿弥陀如来の構成要素なのだから「仏」だと言っても良い、というような解釈をする人が結構いるのです。
それを「汎神論」と言いますね。
無限が無限個集まってできる「無限集合」ですが、どうでもいいです。
スピノザとか、「阿弥陀如来も浄土も自分の中にある」という、他宗の阿弥陀様が、そんな感じですかね。


しかし、「縁起」は、有限が無限に繋がってできる無限です。
だから、有限は、無限の構成要素ではあっても、無限ではありません。
また、そのものとして(単体で)、無限になることもありません。
したがって、私たちは、生きているうちに「仏(無限)」にはなれません。
まず、ここを押さえておいてくださいね。


ちなみに、浄土は無限集合です。
ややこしくなるので説明しませんが、指摘だけしておきます。


次に、一つ数式を覚えておいてください。
「無限分の有限は0とほとんど等しい」
「有限/無限≒0」
果てしなく0に等しいと考えて良いと思います。
この数式を忘れないようにしてください。
これを忘れると解けない問題が山ほどあります。


例えば、浄土の回で触れておいたのですが、この世界が浄土であるとすると、なぜ人間という汚れが存在しているのかという疑問というか、矛盾が生じます。
しかし、人間は有限であり、人間固有の煩悩も有限です。
すべての人間という集合は有限(論理的に計数可能)なので、浄土の汚れとなる人間の煩悩も有限です。
一方、浄土は阿弥陀如来に属する(阿弥陀如来の器と考えても可かも)ので、当然、無限です。
そこで「有限/無限≒0」に当てはめます。
「煩悩/浄土≒0」
つまり、人間の煩悩という汚れなど、浄土においては、考慮するに値しない、無いに等しいということになります。
矛盾解消ですね。
無限は矛盾を吹っ飛ばします。
「この世界」=「浄土」、有りです。


私は今のところ、「この世界こそが浄土である」という立場は取りたくないと思っていますが、これ、考えると面白いですよ。


まず、この世界が浄土ですから、オギャア!と生まれることが「往生」になりますね。
「信心決定の時が往生だ」なんて、寝惚けたことは言ってられませんよ。


オギャア!と往生して、ゴールは「成仏=死」ですから、まさに、浄土が、「成仏するための修行の場である」という本来の機能を取り戻すことにもなります。


どんな修行をさせられるのか?
それは、「生きて苦しめ」ということですね。
浄土で阿鼻叫喚地獄ですよ。
怖いですねえ。
でも、仕方ありません、修行ですから。
辛いだけなら逃げ出せば済むことですが、楽しいことも山ほどあるから質が悪い。
飴と鞭です。
阿弥陀様、意地悪です。


こういうことを考え出すと、楽しくて止まらなくなりますので、本日はここまで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0019より)

【生かされて生きることの意味 その2】

2020-06-24 08:16:30 | 仏教講座
今日も生きてますか?


さて、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
まあ、皆さんに限れば大丈夫だと思いますが、これ、
「世界は俺のためにある」感がありますねえ。


「自我」は野放しにされていると肥大し、やがて世界が「自分(のもの)」となる。
と、言われておりますが、宗教(信仰)が、その厄介な「自我」というものを抑制する役割を持っているという見方もあります。
まあ、そうかな、と思います。


そんな宗教の役割とは、真逆とも思える、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
というフレーズですが、これ、自分という視点からであって、「自分以外のもの」という逆の視点に立てば、
「俺たちのおかげで、生きていられるんだからな。」
ということになります。


さらに踏み込めば、
「俺たちはお前の命を支えているが、お前はどうなんだ?」
「お前は、誰かの支えになれているのか?」
という問いが、常に突き付けられているんだと考えてもいいでしょう。


このあたり、常にセットで理解してください。
「世界は俺のためにある」=「俺は世界のためにある」
ですからね。
重すぎて背負えません。


ところで、今、あなたの目の前に、あなたの大嫌いな人がいるとします。
嫌でしょうが、できるだけリアルに想像してください。
って、俺の顔想像してんじゃねえぞ、フナ!!!!!
失礼しました。
思い浮かんでますか?
嫌ですね。
私も嫌です。


しかし!
その「誰か」も、あなたの命を支えてくださっている、阿弥陀さんの構成員なんですよ。
あなたが、生きていられることを喜んでいるのであれば、生きていたいと願っているのであれば、目の前の「誰か」は、憎むべき敵ではなく、感謝すべき恩人です。
「ありがとう」
と、感謝しなければなりません。
それが筋というものです。


私は嫌ですよ。
感謝なんかしませんよ。
私、仏様じゃありませんから。


でもでもでもでも!
ほんの一瞬でも、
「憎むべき敵ではなく、感謝すべき恩人」
という正論が挟まると、「憎い」「嫌い」という「負の感情」が揺らぎませんか?
マイナススパイラルにブレーキが掛かりませんか?
私はそこで、力任せにアクセルを踏み込む方ですが、止まれる方は止まってください。
その方が、確実にお得ですから。


「負の感情」は、絶対に人を幸福にはしてくれません。
当たり前のこと言ってますね、私。
「負の感情」が、少なければ少ないほど、人生の幸福度は上がります。
しかし、「負の感情」は無くなりません。
人間ですから。
で、
「無くならないなら、減らせばいいじゃん。」
と、いうのが、浄土教の立ち位置ですね。


「マイナスを減らし、プラスを増やし、差し引きプラスを目指そう!」
これが、仏教用語で言う、「抜苦与楽(ばっくよらく)」ということです。
そのための具体的方法論として、私たちに提示されているのが、
「自分以外のすべてのものが、自分一人を生かすために働いてくれている」
つまり、「一人のため」という自覚を持つということ。
「生かされて生きる身」であると自覚して生きること、と、考えてもいいかもしれません。
阿弥陀さんの御利益ですね。
阿弥陀様と出会えばもれなくいただける、でも、出会えないといただけません。


出会うまでがたいへんなんですよ、もう、本当に。
これ、前にも書きましたね。


ややこしくなるので、今回はたとえ話をあまりしませんでしたが、それぞれ、いろんなシチュエーションで考えてみてくださいね。


「阿弥陀さんの構成員」なんてことを呟いてしまいましたので、次回は「有限(主として人間)」と「無限(阿弥陀如来)」との関係性などについて考えてみることにいたしましょう。

(見真塾サルブツ通信Vol.0018より)