さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【ホントに怖いのは地獄です】

2020-06-30 17:31:07 | 仏教講座
前回は三つの悪道を順にみてきました。


怒りの世界=阿修羅
欲の世界=餓鬼
言葉を失った世界=畜生


私たちは、毎日毎日、当たり前のように、この悪道を経めぐっているのではありませんか?
時々「天」で一息つくこともあるかもしれませんが、また、落っこちて、悪道を経めぐる。
餓鬼が阿修羅を産み、阿修羅が畜生を呼び込み、我を忘れ、人であることを忘れ、六道とは言うものの、主に悪道を経めぐって、喘いでいるのです。
「阿修羅」「餓鬼」「畜生」、どれも、私たちが陥りがちな、人の在り様です。


ここでは、三つありますが、上手く譬えられるなら、数はいくつでも構いません。
誰か、よく観察して、五十道くらい考えてくれると、きっと、面白いと思います。
例えば、自分の子供可愛さに、周りが全く見えなくなっている「鬼子母神道」とかどうですかね?
エロい妄想で頭がいっぱいになってる「聖天道」なんて、私たち、よく落っこちてますよね?宮本さん。


冗談はさておき、「阿修羅」「餓鬼」「畜生」に代表される、煩悩に惑い、我を失った世界を総称して、「地獄」と言います。
悪道はどれも、「地獄」の一表象だと考えるのが妥当だと思います。


その「地獄」には、すべての悪道に通底する、恐ろしい特質があります。
それは、「苦しみが終わらない」ということです。
「地獄」での「苦」には、終わりが無いのです。


物語の中では、こんな風に描かれています。
って、これ、必要?
まあ、いいか、念のために続けましょう。


地獄に落っこちた囚人たちは、焼かれたり、煮られたり、切り刻まれたりと、それぞれの罪に合わせた刑罰を受けます。
それはもう酷い苦痛です。
人間界であれば、それだけ痛めつけられれば死にますから、苦痛も、そこで終わります。
ところが、地獄は、そんなに甘い所ではありません。
地獄では、死ねないのです。
そればかりか、翌朝になれば、ボロボロの体は元通りになっているのです。
そして、また、鬼から責め苦を受けることになります。
それが、毎日毎日、永遠に続くのです。


堪ったものではありませんね。
一番、嫌なパターンですよ。
こんなところに落っこちた日には、もう、どうしたらいいんでしょうねえ?


でも、ご安心ください。
もう、落っこちちゃってるんですから。
今、私たちがいる、この世界が地獄です。


そして、この世界を地獄にしているのは、外ならぬ、私たち自身です。
「地獄の苦しみは永遠に終わらない」
「人間の苦しみは死ぬまで終わらない」
死んだら終わりだ、という点では、物語の地獄よりは数万倍ましですが、煩悩に満ち満ちた人間が、日々悪道を経めぐりながら苦しみ続ける、そんな場所。
それが地獄です。
私たちが生きる、この世界です。
生きている私たちの、この心です。


なぜ、人は苦しみ続けなければならないのか?
それは、苦しみを自分自身で作り続けるようにできているからです。
外的要因だけで「苦」が発生するのであれば、それを取り除けば「苦」は消えます。
でも、自分で作り出した「苦」は、自分の中の原因を取り除かなければ消えません。
「原因」は「煩悩」です。
「煩悩」は死ぬまで無くなりません。
だから、苦しみは無くならないのです。


「取り越し苦労」という言葉を、いつも思い出します。
しなくてもいい心配をして、しなくてもいい苦労をして、そんなことを考えなければ、苦しまなくても済むだろうに、自分で自分を追い詰めてしまう。
「苦」が無くなるわけありませんよね。
だから、この世界が地獄になってしまうのです。


でも、大丈夫。
地獄を抜け出す方法なら、仏教が教えてくれています。


今、自分が地獄に堕ちているんだと気が付いた時、私たちは「人」に戻ることができるのです。
「我に帰る」と言っても良いでしょうね。
「私は餓鬼だ!」
「私は阿修羅になっている」
「今の私は畜生だ!」
そう気が付いた時に、その瞬間に、地獄の亡者は人に戻るのです。
「俺は「天」になって舞い上がっていた」
そう気が付いた瞬間に、地に足が着き、人に戻るのです。
人に戻れるのは、どうせ一時ですけどね。


とはいうものの、たとえわずかな時間であったとしても、自分を取り戻す、我に帰る、そんな瞬間があるかないかで、人生は大きく変わると思いませんか?
「人」でいられる時間が長くなればなるほど、人生が豊かになるような気がしませんか?


でもね、これ、「地獄にいる」って気が付くことって、かなり難しいことだとも思うのです。
そのまま、放っておかれたら、たぶん、地獄にいることも気付かないまま、死んで開放されるまで、地獄だけを生きていくことになるんじゃないかと思います。
普通の愚かな人間には、気付くことができないんですよ。
それを気付かせてくれるのが、「信仰」の力なんだとも思います。
私の場合は「阿弥陀如来」ですね。
「阿弥陀さんに生かされているんだ」ということを思い出した時、自分が「今、地獄に堕ちてるんだなあ」と気付かされるんじゃないですかねえ。
そのスイッチが、私には「南無阿弥陀仏」だということ、かな?
上手く表現できなくて申し訳ありません。
なにせ、地獄暮らしの方が長いものですから。


私たちは、自分の煩悩のために、自分で地獄に落っこちて、ひたすら悪道を経めぐっている。
それが、凡夫の一生なんです。


そんな自覚の上で、親鸞聖人が仰っとされているのが、
「地獄は一定すみかぞかし」
という、有名なお言葉ですね。
「歎異抄」に出てくるお言葉なので、親鸞聖人が本当に仰ったかどうかは、定かではありませんが、
「法然上人に騙されて地獄に堕ちたとしても、俺は後悔なんてするわけないじゃん。地獄こそが、俺の住処なんだもん」
と、いう意味の文章になっています。


本当に、これ、かっこいい言葉なので、使う人多いです。
でも、意味は理解されていないようです。
皆さん、死んでから地獄へ行くって話だと思われているようなんです。
これ、
「どうせ俺なんて地獄が相応しいできそこないだから、地獄に堕ちたってしょうがないだろ」
と、未来の仮定の話として理解してしまったら、親鸞聖人なんて、
「君の為なら死ねる!」
って、昔の高校生と同じですよ。
「やれるもんならやってみやがれ!怖くなんてねえよ!」
と、嘯くチンピラと同じですよ。


ちなみに、
「やれるもんなら、やってみろや!」
と啖呵を切るチンピラに、
「あ、そう、ありがとう」
って、それを本当にやってあげると、めちゃくちゃ可愛い顔になりますよ。
ほとんどの方が、親とはぐれた子犬が助けを求めてくるようなウルウル眼になります。
そんな、子犬チンピラと親鸞聖人を一緒にするな!
と、私は、声を大にして、言いたいと思います。


親鸞聖人は、
「今、地獄にいるんだから、未来の地獄を怖がる必要なんてないじゃん」
と、仰ってるんです。
既に、今、地獄に立っているという自覚の上で、
「地獄は一定すみかぞかし」
と、仰ったんです。
だからこそ、そのお言葉に、有無を言わせぬ迫力があるのです。


そんなわけですから、皆様、
「死んで地獄に堕ちたらどうしよう?」
だとか、
「ご先祖様は地獄に落っこちてないだろうか?」
だとか、心配する必要はないですよ。
今、地獄にいるんですから。
この身で六道をグルグル回っているんですから。


あ、でもね、子供には死後の地獄を刷り込んでおいた方がいいと思いますよ。
「嘘ついたら、閻魔さんに舌抜かれるから!」
「誰も見たなくても、閻魔さんは見てるんだからね!」
とか、ガンガン言ってあげましょう。
日本伝統の情操教育ですから。

(見真塾サルブツ通信Vol.0027より)