さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【死と成仏 その1】

2020-06-18 20:57:31 | 仏教講座
こうしてみると、重々しいテーマに見えますね。
けっこうなことです。
問題は、いよいよ核心へと迫ってまいりました、のか?


そんなことは、どうでもいいのですが、本日は、
「なんで、死ぬと成仏するの?」
ということについて、考えてみたいと思います。
とりあえず、「往生」「浄土」は後回しにしますね。
触ってしまうかもしれないけれど、基本、今回は触れません。


「成仏」って、どういうことですかね?
「仏に成る」ということですね。
そうすると、「仏」とは何か、ということを理解しておかなければなりません。
「仏」くらいわかるって?本当に?
意外と、これ、わかってることにして捨て置かれている場合が多いですよ。
大丈夫ですか?
大丈夫ではない、と仮定して、話を進めます。


まず、前提として、
「目覚めた人」=「仏陀」=お釈迦様(人間)、という場合の「仏」、つまり、お釈迦様(人間)を「仏」と敬称する時の「仏」と、大乗仏教が生み出した、働きとしての「仏」、つまり、象徴として名付けられた「仏」とは、本来、まったく別物であるということを充分理解しておいてください。


つまり、仏教には、定義の全く異なる二種類の仏、お釈迦様(人間)と、それ以外の「仏」という二種類の「仏」いう概念が存在しているということです。


経典類の中には、この二種類の「仏」が、意識的にだか、そうでないのだかはわかりませんが、区別されていたり、されていなかったりしながら混在しています。
ごっちゃごちゃ、です。
だから、読み手、つまり私たちは、その区別をしっかりと忘れずに、物事を整理していかなければなりません。
それができないと、余計にごっちゃごちゃになって、ごっちゃごちゃのまま終わります。


練習のために、ここでは、私も、二種の仏概念をごっちゃ混ぜのままでお話しいたしますので、皆様、区別してみてください。


それでは、「仏」の定義を確かめていきましょう。


1「煩悩が無い」
2・・・・・・・・・?
2・・・・・・・・・・・・・?
2・・・・・あれ?


・・・・・・・思い浮かばない。
思い浮かびますか?


思い浮かばないので、とりあえず、「煩悩が無い」ということについて考えてみましょう。
人間以外のことまで考えるとややこしいので、人間に絞りますね。


「煩悩」というか、欲の源は、人間の「生存本能」です。
生き残ろうとする本能が、煩悩として発露しているのです。
人間のあらゆる営みが、煩悩のなせる業であると考えても良いでしょう。


食う、寝る、働く、勉強する。
自殺するのも、人助けをするのも、煩悩のなせる業です。


人助けは、自分の為ではないのだから、「欲」があってはできないでしょ。
と、思われるかもしれませんが、生きている間の人助けは、自己顕示欲だったり、自己達成欲だったり、何かは人それぞれでしょうが、何らかの欲の所為でしているわけです。
社会的善悪で言えば、煩悩は、良い方にも、悪い方にも働くのです。


だから、生きている限り、人間から煩悩は無くなりません。
ということは、死んで人間でなくなった時、その人と共に、その人の煩悩一切が消え失せます。
煩悩が無くなったのだから、「仏」になりましたね。


ちょっと待て!
じゃあ、「成仏」するというのは、何も無くなるということか?
そうとも言えます。
と、お答えしても、もう、みなさん大丈夫ですね?


何も無くなるけれども、永遠に無くならない。
「仏」は永遠ですからね。
あ、そうか、じゃあ、これ2だ。


2「永遠」(仏は死なない、と覚えてくださってもけっこうです)


それでは、次に、働きの面から、「仏」を考えてみましょう。
親鸞聖人は、阿弥陀如来と人を繋ぐ働きをする「人でないもの」を「諸仏(阿弥陀さん以外の仏様)」と定義されています。
生きている人間が阿弥陀さんと人とを繋ぐ働きをしていたとしても、それを「仏」であるとは、断じて考えません。
それは、もう、絶対に考えてはいけません。


生きている人間は、立場はどうであれ、それに「煩悩」で取り組んでいるからです。
多くの場合は、お金(生活)の為であったり、名誉の為であったり、自己満足の為であったりしますが、いずれにしても、自分の欲を満たすための仕業ですから、「仏」とは断絶しています。
あくまでも、阿弥陀如来と人を繋ぐ働きをする「人でないもの」が「諸仏」です。


これまでの日本の習慣で言えば、たいていの場合、人は死んだ瞬間から、仏(直接的に阿弥陀如来でない場合もありますからね)と人とを繋ぐために、お仕事を開始されます。
枕経、通夜、葬儀、中陰と、仏と出会う場を、残された人に設けてくださいます。
現在のそれらが、仏と出会える場になっているかどうかは、甚だ疑問ではありますが、亡くなった方は、懸命にその機会を与えようとして、働いておられます。
いかがでしょうか?
これ、亡くなった方が「仏」として働いているわけですから、成仏の証拠だと言えませんか?


だからこそ、せっかく「故人(成仏済)」からいただいた機会を最大限に活かすために、僧侶が、本来、係る謂れのない通夜や葬儀や先祖供養に係るようになり、そればかりか、それを導師として執り行うようになったのです。
「諸仏」が、人と阿弥陀様を繋ぐのを、お手伝いさせていただいているわけですね。


ちなみに、親鸞聖人のお考えでは、阿弥陀様でない仏様や神様も、阿弥陀如来と人を結ぶ方便だと位置付けられていますから、葬儀が阿弥陀様でなくとも、それぞれの御本尊を通して最終的には阿弥陀様とつながるので、他宗であろうが他宗教であろうが、例外とはなりません。
亡くなった方は、死の瞬間に仏と成り、仏としてのお仕事を開始されるのです。


そんなわけで、
3「阿弥陀如来と人間を繋ぐ働きをしている」
と、いうことにしてもよろしいですか?


整理しましょう。
人は死ぬと「煩悩が無くなり」、縁起に還元されることによって「永遠」を手に入れ、「阿弥陀如来と人間とを繋ぐ」ために、働き始める。
これ、「成仏」したと言ってはダメですか?


次回は、生きている人間側からも、「成仏」ということを考えてみたいと思います

(見真塾サルブツ通信Vol.0012より)

【人は死んだらどうなるの?】

2020-06-18 13:04:45 | 仏教講座
「人は死んだらどうなるの?」
「人は死んだら仏になります。」


ま、そういうことです。
もう少し詳しく言えば、
「人は死んだら、浄土に往生して、仏に成る。」
これ以上は、詳しく言えません。


ちょっと、待てや!
そう言われても、これ以上のことは・・・・・。
そうじゃないですか?


私、お釈迦様が死後のことについて、何も仰らなかったのは、
「死んだら何も無くなる」
と、思われたくなかったからではないかと思うのです。
お釈迦様の時代には、今、我々が考えるような「仏」という概念もありませんでしたし。
困っていらっしゃったのではないかと、思うのです。


と、言うのも、「死んだら何も無くなる」というのも、あながち間違いだとは言えないからです。
間違いではないと言うか、実際、何も無くなるんですね。


例えば、Aという人が死んだとします。
Aという人は、その肉体とともに、思いも、恨み辛みも、喜びも悲しみも、そんな、Aという人の一切合切は、この世界から消え失せてしまいます。
骨は残るかもしれませんが、それは、Aという人ではなく、Aの遺物という、単なる物でしかありません。
それが、Aという人の「個」としての「死」です。
「個(人間)」としてのAは、跡形もなく消え失せます。


「故人の意思で」という台詞を耳にしますが、それは「故人の意思」を受け止めて実行しようという、生きている「他人(その人でない人)」の意思であり、故人の意思などではありません。
その証拠に、「故人の意思」というものは、しばしば捏造されるものです。
正式な遺言書であれば、故人の意思じゃないか?とか言います?
それは、生きていた、ある時点での、その人の意思が書かれた「物」であって、その人ではありません。
ましてや、その人が死後も同じ意思を持ち続けているかどうか、の確認もする術はありません。


死んだら何も無くなります。
それが、仏教が考える第一義的な死の姿です。
そのため、「仏教は唯物論だ」と、言う人たちもいます。


「人は死に、その肉体と共に無に帰する」


この命題は「真」であると言えるんです。
しかし!仏教は、そこでは終わりません。


「人は死に、人としての一切は無に帰するが、縁起(の一部)として、永遠に働き続ける」


これが、縁起という方程式に則った、仏教の死観です。
人は死んで無に帰するが、その人が生前に結ばれた縁は、どこまでも繋がり続け、その人が忘れ去られたとしても、永遠に消えることは無い。
と、言うことができますね。


「人は、縁起によって生じ、死によって縁起に還元される」
とも、言えますね。


先に、「故人に意思など無い」と言いましたが、故人が死ぬ前の意思が、その人と縁が繋がれた「他人」に継承される、ということは、普通にあります。
例えば、故人であるAさんの「生前の意思」を受けて、Bさんが、「故人の意思」としてAさんの意思を遂行する、というような場合ですね。
しかし、それは、Aさんの影響であったとしても、Bさん自身の意思で遂行されるのであって、Aさんという「故人の意思」で遂行されるのではないのです。
それが「Bさんの意思」ではなく「Aさんの意思」で遂行されたと考えるのは、美談ではあっても、責任転嫁でしかありません。
その場面でリアルタイムで働くことのできる「A(故人)の意思」など、存在しないのです。
こういったことの峻別ができないと、論理は組み立ちませんからね。
注意してください。


ただし!私は意地悪なので、皆さんを混乱させたいと思います。
あくまでも、上の論理を踏まえて、ということですが、
「Bさんが、Aさんの死後も、生前のAさんの意思を尊重しようとした」
という事実は、縁起に還元されたAさんが、実際に縁起として働いている証拠になるんじゃありませんか?
Bさんが、「ある意思」を持つに至った「縁」となって現働しているわけですからね、無になったはずのAさんが。
こういうの、怖いですよ。
末代まで祟ったりもできますからねえ。


次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0011より)