さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【阿弥陀如来を考える その7】

2020-06-17 15:40:41 | 仏教講座

結局、終わりませんでした。
やはり、この問題は込み入ってますね。
様々な角度から、複合的に論理を組み立てる必要がありますね。
完全に理解するために必要なパーツが多すぎるのです。
なので、骨格だけに絞ります。


少し方向性は変わるかもしれませんが、そのうち繋がります。


阿弥陀如来の御利益は、
1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)
2「今、生かしていただいていること」(現在)
3「死んだら成仏させていただけること」(未来)
という三つの普遍則(誰にでもあてはまる)で表現できると思います。


「生まれて、生きて、死ぬ」のが人間ですから、人生すべてが、阿弥陀様からの「いただきもの」と考えるのも間違いではありません。
そもそも、阿弥陀如来の定義に従えば、この世界のすべての事象が、阿弥陀様の御利益として存在するわけですからね。


しかし、すべての人に、例外なく共通する事象となると、「生まれて(過去)、生きて(現在)、死ぬ(未来)」ということになります。
よく、「生・老・病・死」と言いますが、「老・病」は無い場合もありますからね。
「誰でも老いる」や「誰でも病む」は、デリカシーに欠ける表現であるだけではなく、論理的には誤りです。


余談ですが、「浄土真宗は二益法門である(御利益が二つある)」ということを、特に伝統的教学を学んだ人が、よく仰るんですが、ご存じですか?
現代教学の人でも、けっこう仰るような気もしてきました。
「それでは一益しかないから、異安心(間違った教え)だ!」
だとか、
「真宗は二益だから、浄土宗とは違うんだ!」
みたいな使われ方をしています。
もはや、ナンセンスなので気にしないようにしてください。


そもそも「二益」というのは、
(WikiArcよりパクリ)
「現益げんやくと当益とうやくのこと。現生において受ける利益を現益、当来において受ける利益を当益という。浄土真宗では、現在世(此土)において正定聚の位に入る現益と未来世(彼土)において大般涅槃をさとるという当益を説く。」


ということなんですが、「過去・現在・未来」という時間軸で考えるなら「過去」または「過去世」を落としているので、阿弥陀如来の永遠性が損なわれます。
別に幾益あっても良いのですが、そういう意味なら「三益」です。
また、「阿弥陀様のおかげで」という視点で考えると、すべてが阿弥陀様のおかげで、細かく分別などできないので、「すべて」で括れば一益です。


さらに、上の解釈を日本語に翻訳すると、
現益「浄土往生が決定すること」
当益「往生して成仏すること」
と、なるのですが、「往生」=「成仏」なので、事象としては「往生」一つしかありません。
従って、有意味な解は「往生」という「一益」です。


細かいことを言って申し訳ありません。
私、皆様に、「おかしいことをおかしい」とお伝えできないのであれば、異安心でいいです。


話を戻します。


1「おぎゃあ!と生み出してくださったこと」(過去)
2「今、生かしていただいていること」(現在)
3「死んだら成仏させていただけること」(未来)
が、阿弥陀様の御利益(阿弥陀如来に救われることの表象)だと、申し上げてはおりますが、これ、本当に御利益でしょうか?
ありがたいですか?
3については、まだ判断できませんが、私は、1と2については、まあまあ、ありがたいと思っています。
皆様はいかがですか?


そうなんですよ。
これ、ありがたいとは限らないんですよ。
1「生まれて来なきゃ良かった」
2「早く殺せ」
3「地獄だって、今よりゃましだ」
などと、お思いの方は、少なからずいらっしゃるような気がします。
それが、実は、大問題なわけです。
「生きてる」ことが嫌でしょうがない人に、生きてる「原因」である阿弥陀様が「ありがたい」なんて思えるはずがありません。
まずもって、
「生きてることがありがたい」→「生かしてくれてる阿弥陀さんがありがたい」
というところまで、人々を誘導しなければ、何も始まらないのです。


自分の人生を好意的というか、ポジティブに受け入れるところまで連れて行き、そこからスタートしてもらえなければ、この世を生きる苦しさは、微塵も減らすことができないのです。


これが、浄土教(阿弥陀様にたすけていただこうという教え)が、出発の時点から抱え、そして、現在も抱え続けている、最大の課題なのであります。
しかも、これは、私たち僧侶に与えられた課題です。


さあ、どうしましょうか?
答を期待しないで下さいね。
永遠に出ませんから、これ。
体当たりで、試行錯誤を続けていくしかない、そんな課題です。
「念仏」だとか、「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」の刷り込みも、そんな中で編み出された手法かもしれませんね。
調べてませんから、もしかすると、ですよ。


それでも、
「阿弥陀様に生かされて生きる私である」
という出発点に立つことさえできれば、その世界観で社会に向かうことができれば、分量は量れませんが、必ず、煩悩に負ける割合が減り、同時に、この世を人として生きる「苦」も減ります。
それは、論理で証明することができます。


問題は、出発点に立つことができるかどうか、それだけです。
まずは、自分がそこに立つ。
そして、人をそこに立たせるために、悪戦苦闘しましょう。
二千年も前に先輩方が始めた戦いです。
親鸞聖人も参戦され、江戸時代に甘え、忘れ去られた戦いです。
四百年ぶりに再開しましょう。

阿弥陀さん、ありがたいからね!

(見真塾サルブツ通信Vol.0010より)

【阿弥陀如来を考える その6】

2020-06-17 09:51:37 | 仏教講座

このシリーズ、長くなってきた上に、ほかに話したいことも出てきたりしているわけですが、大切なことなので、頑張って続けましょう。
飽きないでね。


前回、お話ししたことをまとめると、
阿弥陀様の救済であるところの、「人間の死=成仏」という方程式は、「人は死んでも生まれ変わらない」というお釈迦様の発見に、大衆を誘導するための方便である、という側面を持つ。
と、いうことになりますね。
他の側面は、おいおい考えましょう。


それでは、今回は、残された、前前号の「②③」と「2・3」の関係について、考えることにしましょう。
兄さんと兄さん?
ま、兄というのは、やっかいなものです。


阿弥陀様の救済は、
②「私は、阿弥陀様の働きによって、この世に生まれてくることができた」
③「私は、阿弥陀様の働きによって、今、生きていることができる」
でしたね。
お釈迦様の教えは、
2 ありもしない来世のことなどに惑わされずに、今生の苦しみから逃れることに専念しなさい。
3 そのためには、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きることだよ。
でした。


ちょっと、その前に、一つ確認しておきます。
今、お話ししているのは、「阿弥陀如来を救済主とする仏教の一派(浄土教)」の中でも、「親鸞聖人が理解した浄土教」からの視点であって、仏教と称されるすべての立場に通底する視点ではありませんからね。
まあ、するかもしれないけれど、ふふふ。
とにかく、「人間は死んだら、一人残らず成仏する」と、考える立場だと、覚えておいてください。
仏教は魔物ですから、立場がぶれると迷路で迷い続けることになります。


さて、話を戻します。
兄さん問題を、もう少し整理しましょう。


「②③」まとめます。
あ、これ、別にまとめなくてもいいね。


それでは、気を取り直して、「2・3」まとめます。
「今生の苦しみを無くすため、欲(煩悩)を克服して、執着せずに生きなさい」
ということですね、要するに。


はい、これをまた分解します。
は?とか、凄まないでください、無視します。
要素は三つですね?
「欲を克服する」
「執着しない」
「苦しみを無くせ」
これ、実現可能ですか?
現実的には、どんなに頑張っても、
「欲には勝てない」
「執着してしまう」
「苦しみは尽きない」
ですね。
まあ、頑張ってない私が言うのもなんですが、無理です。


煩悩を消し去り、この世の苦しみから離れてしまった方を「仏」といいますが、生きている限り、私たちには、煩悩を消し去ることなどできません。
繰り返しますが、無理です。
だって、生きてるんだもん。


「欲」というものは、すべからく「生存本能」に起因するものです。
つまるところ、欲があるから、生きていられるんです。
種族としての人類も、滅びていないのです。
だから「欲には勝てない」し、「執着してしまう」し、したがって「苦しみは尽きない」ということになるわけです。
仕方ないことです。
人間は、弱く、愚かな生き物なのですから。


で、そこにお立ちになられたのが親鸞聖人なのですが、お釈迦様の教えを実践して達成することが「無理」だということには、大昔の先輩方も薄々勘付いていらっしゃったのだと思います。
だからこそ、「自分では無理だから仏様を頼ろう!」ということで、仏教が宗教化したわけですしね。
そこから、それぞれが、それぞれに、思いつくまま散り散りに、思考を拡散させていったのでしょう。
そんな中、阿弥陀如来を担ぐと決めた人々は、
「欲は無くならないかもしれないが、減らすことはできるんじゃないか?」
と、考えたのではないでしょうか。
どうやって?
阿弥陀如来の働き、つまりは、阿弥陀さんの御利益で。


以下、フィクション


C「あのさ、死んだら成仏するのはいいよ。それで、生まれ変わらないんだからさ。でも、生きてる間はどうなるの?何か、いいことあるの?」
B「さあ。」
C「軽く言ったね?いいの?そんなに軽く考えて?」
B「軽くも何も、そんなこと考えたこともないってば。」
A「考えろよ!俺は考えてるよ。」
C「え?そうなの?何?教えて?」
A「いや、考えてはいるが、まだ、何も、思いつかない。」
B「なんだよ。それなら、私と同じじゃないか。」
C「いや、違う。考えてるだけ、あんたよりまし。」


不服そうな顔で、何かを言おうとするBをAが遮る。


A「まあまあ、そんなことはどうでもいいよ。でもな、これ、けっこう大事なことなんだよ。」
B「なんで?」
A「お釈迦様は、煩悩を除滅して、この身の苦しみから離れよ、と仰った。それが、教えだ。」
B「だけど、煩悩は無くならないよ。おまえ、無くなった?」
A「そんなわけないだろ。無くなりゃ苦労しないよ。」
C「あ、それ、いろんな意味で正しいな。」
A「茶化すな!」
C「ごめん。」
A「とにかく、煩悩が無くならないとしてもだ、減らすことくらいはできるんじゃないか?」
B「お前、減ったか?」
A「それ、聞くか?」
B「だって、減らせるって言うから。」
A「そういうことじゃないんだってば、阿弥陀さんだよ、阿弥陀さんの御利益で、煩悩も、こう、減らせないかなあ?そうすれば、みんな、阿弥陀さんを信じるんじゃないか?ということを考えてるわけよ、私は。」
C「そうだよね。御利益ないと、信じてくれないもんね。成仏できるったって、死んだ後だしね。」
B「成仏だって御利益だろ?」
C「だけどさ、死んだら成仏させてくれるってだけで、みんな、ついてくると思う?それだけ信じて、苦しいのを我慢できる?ってかさ、ただただ苦しんで、我慢して、死ぬ時を待ってろ、なんて、そんな仏様、信じたいと思う?」
B「あ、それ、私、無理だ。だって、苦しいの嫌だから出家したんだもん。」
A「そういうことだよ!だから、苦しいこと減らせないかと言ってるの、阿弥陀さんの御利益で。」
B「そういうことか。わかったよ。考えよう。」
A「お前、本当は、苦しんでないんじゃないか?」
C「ねえ、前にさ、阿弥陀さんは平等かつ無条件だ、って言ってたよね?御利益も?」
A「まあ、それはそうだろうなあ。成仏も御利益だし。救われない奴が出ると、理屈が通らなくなるからな。」
C「じゃあ、さあ、とりあえず、誰にでもある良いことって、何?」


腕を組み、頭を搔き、考え込む三人。


B「わかった。結婚。」
A「俺たちできないだろ!」


再び考え込む三人。


C「じゃあ、どんな人間にも、必ずあることって何?」
A「死ぬ?」
C「それって、良いこと?」
A「成仏ならね。」
C「ああ、そうか。」
A「もう、決まってる方の御利益だけどな。」
B「死ぬなら、生きてるよな、死ぬまで。」
C「うん。生きてる。それも、みんな同じだな。死ぬまでは生きてる。」
B「で、生きてるということは、生まれたということだよな。」
C「そりゃ、生まれただろう。生きてるんだから。」
B「誰でも生きてるよな?」
C「?なんか、それ、おかしな気もするけど、生きてなきゃいないわな。」
A「なあ、なんで生きてるんだ?」
BC「縁起?」
A「じゃあ、なんで生まれた?」
BC「縁起?」
A「て、ことは、だ・・・・・」


Aが勿体を付けた。
BCは顔を見合わせた。


BC「あ!」
A「そうだよ。生きてることも、生まれたことも、阿弥陀さんのおかげだということじゃないか?」
BC「おお!」
A「阿弥陀さんの御利益で、生まれて、生きて、成仏する。完璧じゃね?」
C「ん?・・・・ちょっと待って。それで、煩悩、減る?苦しこと、減る?」
A「へ、減らないか?」
C「減らない気がする。」
B「人生って苦しいんだよな?生まれて来たから、苦しいんだよな?いっそ、生まれてこなければ苦しくなかった。・・・・・違うか?」
C「阿弥陀さん、余計なことしたなあ・・・・・。」
A「そう言われると、確かにそうだよなあ・・・・。でもな、「生まれて・生きて・死ぬ」、それ以外にすべての人間に平等に起こる出来事ってあるか?」
C「ん・・・・・、思いつかない。」
A「そうだろ。だから、これでなんとかしようや。」
B「なんとかって?」
A「だから、死ぬのは問題ないだろ、苦しいのは終わるし、成仏もできるしで、どちらにせよ、めでたしめでたしだ。阿弥陀さんの御利益だよ。問題は、生きてる方だよ。これがさあ、生まれてこられて良かった!だとか、生きてて良かった!だとか思えたら、ちょっとは、苦しくなくなるんじゃないか?で、それが、阿弥陀さんのおかげだということになれば、阿弥陀さんありがとう!って気になるんじゃないか?」
C「言いたいことはわかるけどさ。そんな風に思えるか?」
B「苦しいよなあ、人生。」
A「そう言わずに、考えようぜ。生まれて良かった!生きてて良かった!って、阿弥陀さんのおかげです、ありがとう!って気持ちになれる理屈をさ。」
B「そんなの無理だろ。お釈迦様でも、人生は苦である、って仰ってるんだから。」
A「無理じゃないって、何か手はあるって。」
C「じゃあ、さあ、とりあえず、言わせちゃったらどうよ?ありがとう!阿弥陀さんありがとう!って。そうすればさ、言わされた方は、そのうち、段々その気になって来るんじゃね?」
B「一万回も言わされたら、本当に、そんな気分になるかもな。」
C「だろ?阿弥陀さん大好き、大好き、大好き、って、百万回言わされたら、マジで好きになるって。」
A「百万回か・・・・・・・。」


こうして、眠れないインドの夜は、静かに更け行くのであった。


以上


色々と考えてみてくださいね。
盛りだくさんです。
まとめは次回!

(見真塾サルブツ通信Vol.0009より)