さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

阿弥陀さん、ありがたいですか?

2020-06-13 13:52:44 | 仏教講座


いつも、ことあるごとに、誰かれ構わず聞きたくなるのですが、


「阿弥陀さん、ありがたいですか?」


いやいや、坊さんがしていい質問ではない、ということは十分に承知しておりますが、でも、気になりませんか?


正直に白状するとですね、私、坊さんになってから20年以上、「阿弥陀様がありがたい」とは、思えていなかったんですよ。


もちろん、その間でも、機会があれば、「阿弥陀さま、ありがたいですね。感謝しましょうね。」だとか言ってはいましたが、そもそも、そんな気持ちが無いものですから、かなり虚しく感じていました。


その問題に関して、簡単に、自分史を振り返ってみます。


まず、学生の頃は、阿弥陀さんと浄土真宗というものが、頭の中で結びついてすらいなかったので、そんな悩みを持つことは、微塵もありませんでした。
当然、浄土真宗は勉強し始めていましたから、「阿弥陀如来」という概念は知っていました。
知っている、あそこに立ってる、この絵がそうだ。
くらいの感覚ですね。


その頃は、『歎異抄』の解説書を読んで、「そうか!」と頷いたり、清沢満之先生の言葉に、「俺も、自己を問うぞ!」と、奮い立ったりしていました。
が、阿弥陀さんのことなど、考えたことも無かったような気がします。
にもかかわらず、浄土真宗の僧侶なんだという自覚はありましたから、何を考えてたんでしょうかねえ?
今となっては、見当もつきません。
曽我量人、金子大栄、安田理深などなど・・・・・・、読み漁りました。
宗門の方の物だけでなく、親鸞とついているものは、何でも読み漁りました。
阿弥陀さんに触れなくても、仲間内での教学談義でも困ることはありませんでした。


そもそも、阿弥陀如来って何?
と、阿弥陀様が気になりだしたのは、それから随分先のことです。
四十を前にして、大学院で学び直し始めてからのことです。
以来、そればっかりが気になり、一応、専門的に学んできました。
親鸞聖人一本で!


その結果、博士号もいただくことができ、理論的には、
「阿弥陀様はありがたい」
「阿弥陀様には感謝しなくてはならない」
という結論に、達することはできましたが、それは、あくまでも理論上の話であって、そこには、相も変わらず、「阿弥陀さんがありがたい」とは、これっぽっちも思っていない、そんな自分でした。


まあ、学者なので、理論のお話しができれば、それで困ることも無かったわけですが、
「坊さんとして、それで良いのか?」
という思いには、常時、苛まれていました。


「阿弥陀さん、ありがたいよねえ。お念仏しましょうね。」
と、作り笑いで語る自分が嫌でした。
とは言え、論理には自信を持っていたので、後ろめたさを感じることなく、堂々と演説することはできました。
でもね、だんだん、寂しく思えてくるんですねえ・・・・・。
そんな、阿弥陀様に愛されていない自分のことが・・・・・。


法話するのが苦痛でした。
苦痛でも仕事ですから、お話ししてましたけど。


そんな、悶々とした数年・・・・・・。
心から「ありがたい」と思えていたら、「話したくてたまらない」という気持ちになれるんだろうなあ。
などと、ルーティーンとしての法話を、ただただ消化する、私。


その時は、何の前触れもなく、突然やって来ました。
いつものように、本堂の前で手を合わせると、
「阿弥陀さん、ありがとう!」
という気持ちが、グワーッと込み上げてきました。
理由はわかりません。
「阿弥陀さん、ありがとう!」という高揚感で満たされました。


慌てて、本堂に走り込み、ご本尊の前に座り込む、私。
いつもと同じ阿弥陀様ですが、今度は、しみじみと、
「阿弥陀さん、ありがたいなあ・・・・・・」
という、ほっこりとした気持ちが湧き上がってきました。
理由はわかりません。


「あ、俺、死ぬんだ。お浄土、近いんだ。」
というのが、最初に頭に浮かんだことでした。


今のところ、まだ、生きています。
阿弥陀様、ありがたいです。
相変わらず理論で飯を食っていますが、理論なんて、どうでもよくなりました。
お聖教を焼いちゃった、一遍上人のお気持ちが、わかるような気がします。


「阿弥陀さん、ありがたいよねえ。お念仏しましょうね。」
と、本気で言えるようになりました。
それは、それで、気持ちが良いのですが、その代わりに、それ以外の話が、余分なことに思えてきました。


なので、法話をするのが苦痛です。
無駄に話を膨らませるのが苦痛です。
誰か、助けてください。