さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【たかが念仏、されど念仏】

2020-06-25 16:19:18 | 仏教講座
前回までで、親鸞浄土教(浄土真宗と言うのやめますね)の大まかな骨格と、それが、他宗教とも通底するものだということは、ご理解いただけたかと思います。
が、何か足りないものがありませんか?


それにしては、まだ念仏の話が出てこないのだけれど?
と、思った方は正解です。


浄土教と言えば念仏です。
「南無阿弥陀仏」を抜きにして、浄土真宗は語れません。
それなのに、なぜ、これまで念仏の話をしなかったのか?
それは、浄土真宗は語れなくても、親鸞浄土教は語れるからです。
要するに、念仏も方便(方法論)であって、骨格ではないんですよ、これが。


もちろん、方便の中では最重要項目です。
浄土教発生時に、既にして仕組まれていた方便ですからね。
しかし、念仏などしなくとも、成仏はするんです。
成仏できるのではなく、するんです、死ねば。
だから、方便なのです。


「念仏成仏是真宗」という言葉があります。
「念仏、成仏、これ真宗」
私の大好きな言葉です。
普通は、
「念仏して(そのおかげで)成仏するのが真宗だよ」
と、解釈されることが多いように思いますが、そうではありません。
仕組んだ側からの視点で言えば、
「念仏させて、成仏することに気付かせるのが真宗(真の教え)だよ」
と、いうことになります。


くどいですが、
「念仏するから、成仏できる」
のでは、ありません。
念仏しなくても、成仏はする、必ずする、絶対にするんです。
だって、死ぬんだもん。
ここを外すと、親鸞浄土教は無価値化します。
他のことは忘れても、これだけはブレずに守ってください。


それなら、なんで、念仏しろなんて言うのよ?
ということになりますね、問題は。
私も、もう、煩いくらい、皆さんにお勧めしてますしね。
なんで、そんなことしてるんでしょうか?


それを説明する前に、少し復習いたしましょう。


「阿弥陀如来に生かされて生きる私」
と、自覚するところから始まるのが、阿弥陀如来の救済です。
まずは、人々に、そこに立ってもらわないと、マイナスが減りプラスが増えるという、幸福度右肩上がりの信仰生活を味わっていただくことができません。


そのために、浄土の教えを広めるという使命を持った者たちは、二つの大きな課題を背負うこととなりました。
前にも少しお話ししましたが、
1 阿弥陀如来が絶対者(自分の命の原因・造物主)であると認知・認識させること。
2 「生まれて良かった」「生きてて良かった」と、自己の生命を肯定的に考えてもらうこと。
ですね。


その前提が整って、はじめて、
3 「阿弥陀如来に生かされて生きる私」を「ありがとう」と受け入れてもらう。
ということが、可能になりますからね。
3を成立させるためには、前提1・2が必要だということです。


その重要な前提1を達成するための最大の方便として仕組まれたのが、お念仏です。
「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来のお名前を称える、あれですね。


名前を聞かせて、名前を呼ばせて、何度も何度も、聞かせて呼ばせて、阿弥陀如来のお名前とご存在を、人の脳裏に焼き付けてしまおう。
それが念仏です。
単なる刷り込みです。


しかし、刷り込みを馬鹿にしてはいけません。
人間というのは不思議なもので、名前を知っているというだけで、必要以上に親近感を抱いてしまったりもするものです。
候補者の名前を連呼する選挙カーは、煩くて腹が立つものです。
それなのに、刷り込まれたら負けです。
怒りなどすぐに忘れて、名前を知っている方に投票したくなってしまうのです。
それでもって、
「知らない奴には、入れる気がしないもんなあ」
なんてことを、しゃあしゃあと言うのが、人間なんです。


たかが刷り込み、されど刷り込みです。
マーケティング戦略には欠かせないアイテムです。
なにせ、二千年前から今に至るまで、使い続けられている手法なんですから。


ところで、阿弥陀如来のお名前を呼ぶ念仏には、「阿弥陀仏」と本当に名前だけを称える念仏と、「南無」を加えて「南無阿弥陀仏」と唱える六字の念仏があります。
四字の念仏は中国仏教に多いですね。
台湾には念仏マシーンと私が呼ぶ小さな箱があって、お寺とかお参りするとよくもらえるんですよ。
USBで充電して、ポチッとスイッチを押すと、
「あーみ~だー、あーみ~だー、あーみ~だー、あーみ~だー・・・・・・・」
と、阿弥陀様のお名前が、一定のメロディーで、延々と繰り返されます。
一時間もかけっ放しにしていると、止めても止まりませんよ。
頭の中は、しばらくズーッと「阿弥陀仏」ですよ。
布団の中にまで、阿弥陀さんがついてきて下さいます。
そういうのは、だいたい四字のお念仏ですね、中国仏教ですから。


一方、親鸞聖人をはじめてとして、日本仏教が取り入れているのは「南無阿弥陀仏」という六字の念仏です。六字の場合は「南無」を加えることによって、阿弥陀如来が絶対者であることも、名前と同時に刷り込もうとしていると言えます。


「南無阿弥陀仏」というのは、「阿弥陀如来に命を預けます」というような意味だと思っていただければ、よろしいかと思います。
こっちの六字の方が、「My God」や「アッラーフ・アクバル(الله أكبر)(神はもっとも偉大なり)」という外国のお念仏と近しいものになりますね。
「神(仏)」への帰属意識を同時に刷り込むということです。


ちなみに、私は常々、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀様ありがとう」だと、寺々で繰り返し繰り返し言っておりますが、それは、2を飛び越えて1と3を直結させてしまおうという試みです。


2の課題が一番厄介ですからねえ。
お念仏だけでは乗り越えられないと言うか、なんと言うか。
ま、おいおい考えてみたいと思います。

(見真塾サルブツ通信Vol.0021より)

【「神」は千変万化する】

2020-06-25 10:58:56 | 仏教講座
往生も浄土もいらないなどと、正気の沙汰ではないと思われるかもしれませんが、これ、正気になったから言えるんですね。
セクトの利益に忖度する「教義」というものを全否定して、普通に、極正常な立場から、「教理」を学んでいきたいと思います。


そもそも、仏典というものは、99%の方便(どっちでもいいこと)と1%の真理(大切なこと)で成り立っています。
割合は適当に言ってますけどね。
中には100%方便というものも少なくありません。
方便の山の中から、真理を掘り出すのが、宗教を学ぶということです。
真理が掘り出せたら、後は、自分で方便をくっつけていけばいいわけですよ。
まあ、お坊さんでなければ、方便をくっつける必要はありませんけどね。


この、腐るほどある「方便」というものが、なかなか曲者なのです。
善良な方便と、悪質な方便があると言っても良いでしょう。


善良な方便とは、人を段階的に真理へと導くための手練手管ですね。
手段は問われません。
最終的に「真理」へと導くことができるなら、「騙し」も「脅し」もOKです。
必要悪というやつかもしれません。


一方、悪質な方便とは、「人を真理へと導く」という目的を持たない方便です。
目的は様々です。
セクトに人を集めるためだったり、ライバル(別セクト)を蹴落とすためのネガティブキャンペーンであったり、セクトもしくは個人に富を集めるためであったり、権力への忖度であったりと、およそ仏教にはふさわしくないドロドロしたものが溢れています。


でも、これ、仕方のないことなんですね。
どんな仏典にも、それを作った作者(作グループ)が存在します。
では、なぜ、彼らは、その仏典を作ったのか?
それは、自分(たち)に何らかの利益をもたらす為に、ですね。


これ、簡単な話です。
損するためには作らない。
損得無しで作るのというのも疑わしい。(何かある)
得するから作る。
自然なことですね。


高尚な仏道修行者には私利私欲など無かったんだ、と、お考えの方、それは、仏道修行者が人間ではないと言っているのと同じですよ。
差別発言です。
仏道修行者も人間です。


特に、仏教のようにセクトが林立してしまうと、そこに当然、競争原理が働きます。
セクト同士の仁義なき戦いが、昔も今も、そこかしこで繰り広げられ続けているわけです。
特定抗争宗教法人とかのカテゴリーを作って、公安警察に監視していただきたいとすら思います。


そういうことですから、悪質な方便は「人を真理へと導く」機能を持たないどころか、時には、人を真理から遠ざけてしまうこともあります。
謂わば、まやかしです。
まやかしで始まり、まやかしで終わるような、セクトによるセクトのための宗教書、たくさんありますよね。


とにもかくにも、仏典を学ぶには、まず、徹底的に方便を見極めることが肝要です。
そして、悪質な方便を切り捨て、善良な方便を辿って行く。
すると、驚くほどシンプルな「真理」と遭遇することができるんですよ。


そんな風にして抽出した「真理」を骨格として並べてみると、
「あれ?????」
と、気が付くことがあるはずです。


気付かなければ、毒されているということなので、毒を抜いて、学び直してください。
私は毒しか吐かないので、あてにされても困りますが、正しく学べば気付きます。
「あれ?一緒じゃね?」
と、いうことに。


何と何が一緒なのかと言えば、もう、おわかりだと思いますが、
「仏教も他宗教も変わらないんじゃね?」
ということですね。
勉強不足なので断言はできませんが、私、これ、浄土真宗と他宗との関係においても、同じことが言えるのではないかと想像しております。
ほんと、想像だよ。


少なくとも、浄土教やキリスト教・イスラム教など、「すべての人類を救うことができる神(仏)」、つまりは「造物主」を信仰対象として設定しているグローバル宗教は、
「つまるところ同じ」
と言っても、過言ではないと思います。
違っているのは「方便」です。
表現方法や受け取る感性の違いですよね。
それでも、圧倒的に方便部分の方が多いので、全く別物であるかのように見えるのです。


阿弥陀さん、というお名前だって方便ですからね。
私たちが「阿弥陀如来」と呼ばせていただいている「何か」を、別の人たちは違う名前で呼んでいるかもしれないし、それでも誰も困らないわけです。
だから、ぜひ、皆さんにも、「一緒なんだからいいじゃん!」というフレキシブルな姿勢で、仏教や他宗教.を学んでいただきたいと思います。
便利ですから。
何が便利かと言うと、「真宗教学」よりも圧倒的に豊かで緻密なキリスト教やイスラム教の「神学」の成果を、方法論も含めて、躊躇なく利用できるようになることです。
たぶん、千年分くらい、向こうの方が進んでますよ。
それに、キリスト教やイスラム教の方便に学ぶ(パクる)ことができるようにもなります。
簡単に整合させられますからね。
内緒話ですけど、「新約聖書」の文章なんて、ほぼそのまま、法話に使えますよ。
私は、使ったことはないけれども。


いずれにせよ、「セクト=利権」ですから、学ぶ時には、そこを離れた自由な精神で学ばなければならないということです。
そうでないと、受け入れるべきことが受け入れられないまま、刷り込みだけ受けて、学べば学ぶほど阿呆になったりもしますからね。
お気を付けください。


念のため申し述べておきますが、「一緒なんだからいいじゃん!」とは言え、私がキリスト教徒になるなんてことは、生涯ありませんからね(たぶん)。

私の信仰の対象(私にとっての造物主)は、あくまでも、生涯唯一仏、阿弥陀さんです(たぶん)。
他の神様、仏様は、一人残らず、敬愛するお友達です。
それは、私が、親鸞聖人を通して阿弥陀さんと出遭い、お釈迦様と出遭い、そこで、阿弥陀如来に生かされて生きる私というものに、気付かせていただけたからです。
だから私は、仏教徒であり、親鸞浄土教徒であり続けたいと思います。
真宗門徒ではありませんよ、門徒はセクトの構成員ですから。
僧侶としてセクトと関わることがあったとしても、セクトにアイデンティファイされることがあったとしても、学者としての私は、ノンセクトを貫こうと思います。
その視点から、学び、考え、物を言おうと思います。


(見真塾サルブツ通信Vol.0020より)