さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

わかってます。親鸞聖人は人間ですよ。

2020-06-02 13:48:08 | 仏教講座


昔、論文を教授に見せたら、
「親鸞聖人はまずい、親鸞で良い。」
と、注意されたことがあります。
「貴様、それでも坊主か!親を呼び捨てしろとは、何事か!」
と、黙って一人憤慨し、「宗祖」は通ったので、以降、「宗祖」と呼ばせていただくことにしました。


法話を聞いていると、やはり、平気な顔をして、
「親鸞の教えは!」
だとか、
「だから、親鸞は・・・・・」
だとか、呼び捨てにしてるのを、けっこう見かけます。
そういう人の話は、聞かないことにしているので、見かけるだけにしているますが、
「あの説教師さん、どう?」
などと、聞かれた時には、
「親を呼び捨てにできるような人間の話を聞かせて、何か良いことあるの?」
と、答えたりもしています。
私、嫌な奴ですね。


つい最近も、「親鸞さん」と書いていた「さるぶつ」読者に、
「あんたは、親を呼び捨てにするのか?」
と、注意してしまいました。


「親鸞聖人ではダメなんだ!人間親鸞でなければならないんだ!」
と、叫んでいた人たちの姿が思い出されるが、懐かしくはありません。


そんな私が言うのもおかしいかもしれませんが、
「私たちと同じ人間親鸞なんだ。共に悩み苦しむ一人の人間なんだ、美化しちゃだめだ」
と言うわりには、親鸞聖人像は相変わらず美化されたままじゃないか?と、思うわけです。


普段は他宗を見下して、「ああ、そんなの迷信、迷信」と、なんでも切り捨てているくせに、親鸞聖人の超人譚は、迷信あつかいもしなければ、切り捨てもせず、あまつさえ、印刷したりもしてるんじゃないでしょうか?


まあ、そんなことはどうでもいいんですが、「人間人間」と呼び捨てにしているくせに、一方では、飯の種である「高貴」な「ありがたい」親鸞聖人像を利用し続けているのではありませんか?と、聞いてみたい気がします。


私は、親鸞聖人は「明るくエッチな優しいおじいちゃん」だったと考えています。
こういうことを公の場で言うと、あからさまに、
「なんて不謹慎な奴だ」
という顔をされることが多いのですが、冗談ではないのです。


親鸞聖人を我々と同じ「スケベな男」だと考えることは、学問的にも重要なことなのです。
『恵信尼公文書』の扱い方など、がらりと変わるはずです。
だって、男が奥さんに話した自分史ですよ。
自分の胸に手を当てて考えると、ズキンと痛みます。


親鸞聖人を(普通の)人間だと考えることは、学問的にも重要なことだと思います。
「人間・親鸞聖人」ですね。
呼び捨てにすれば「人間」ってことじゃないですよね。