さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

卑屈になるのは、動機が無いからなのではないかと、思い始めました。

2020-06-03 11:46:23 | 仏教講座
お坊様方とお付き合いさせていただいていると、あまりの常識の差異に、あんぐりとさせていただくことも多く、いささか、猜疑心が強くなってきております。
恐る恐る物を言っているわけですね、私。
例えば、「あまりの常識のなさ」とは言わずに、「常識の差異」とか言わなきゃいけないわけですよ。
気を悪くされるのは、本意ではありませんから。


なので、はじめに、お断り申し上げますが、
「私、自分が伽藍を持たない僧侶であることを、今、心から良かったと思っております。」
羨ましくないですからね。


正直、伽藍(寺という箱)を背負われている皆さんは、本当にたいへんなご苦労を背負われているんだな、と、同情を禁じ得ません。
寺院経営の表も裏も、たくさん見てきました。
ずっと、「ビジネスマンとして呆れて見てる」ということは内緒で、ゾッとしながら眺めてきました。
「国鉄だった頃のJRでも、これよりは明るい未来があっただろうに・・・・・。」
と、思っていました。


その結果として、若い坊さん(いい大人)たちへの講義で、
「寺なんて潰れたら、また作ればいいんだから気にするな」
「どうせ潰れるんだから、潰す気で変われ!なんなら一回潰せ!」
「寺は伽藍じゃない。僧侶一人一人が一つの寺なんだ!」
と、言ったら、保護者の方から、えらいクレームをいただきました。


私としては、「そのつもりで頑張れば、なんとかなるかもよ」と、エールを送ったつもりだったのですが、届きませんでした。
ならば、言える言葉は一つしかありません。
「つぶしが効くうちに、寺たたんで逃げ出せ!」


すいません。
前置きが長くなりました。
ここからが本題です。


これ、ずーっと不思議に思っているんですが、坊主をやってると、親も坊主なんだと、勝手に思われます。
坊さんたちからも、
「え?なんできたの?」
という顔をされたものです。


言っても通じないので、あまり言いませんが、
「そんなの菩提心に決まってるだろ!」
と、思うわけです。


坊さんになる理由が、「菩提心」以外にありますか?
仏教の「ぶ」の字でも知ってれば、常識だと思うのですが・・・・。
大乗仏教であるならば、それ以外はあり得ないでしょ?


少なくとも、「僧侶」であるなら、その自覚を持っていないことは悲劇でしかありません。
「自分が選んだ」という自覚が無ければ、苦労を背負うことが、余計に辛いはずです。


こういう話をすると、真宗の方々は、
「親鸞聖人の菩提心は、他力の大菩提心なんだ。だから、菩提心なんて言うな!」
と、仰ると思います。
でもね、親鸞聖人は、
「自分の菩提心など、本物の菩提心などではなかった」
「本当の菩提心とは、仏の菩提心だったのだ」
と、痛んでおられるのではないですか?
「ん?菩提心?そんなのないない、いらない」
では、ありませんよね?


まあ、「菩提心」は言い過ぎかもしれませんけどね。
私も、実は、「単なる好奇心」から出発してますから。


それでも、「自分が選んだ」という自覚が無いと、これからの苦労は背負いきれないんじゃないでしょうかね?
老婆心です。
失礼いたしました。