さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【ホントに怖いのは地獄です】

2020-06-30 17:31:07 | 仏教講座
前回は三つの悪道を順にみてきました。


怒りの世界=阿修羅
欲の世界=餓鬼
言葉を失った世界=畜生


私たちは、毎日毎日、当たり前のように、この悪道を経めぐっているのではありませんか?
時々「天」で一息つくこともあるかもしれませんが、また、落っこちて、悪道を経めぐる。
餓鬼が阿修羅を産み、阿修羅が畜生を呼び込み、我を忘れ、人であることを忘れ、六道とは言うものの、主に悪道を経めぐって、喘いでいるのです。
「阿修羅」「餓鬼」「畜生」、どれも、私たちが陥りがちな、人の在り様です。


ここでは、三つありますが、上手く譬えられるなら、数はいくつでも構いません。
誰か、よく観察して、五十道くらい考えてくれると、きっと、面白いと思います。
例えば、自分の子供可愛さに、周りが全く見えなくなっている「鬼子母神道」とかどうですかね?
エロい妄想で頭がいっぱいになってる「聖天道」なんて、私たち、よく落っこちてますよね?宮本さん。


冗談はさておき、「阿修羅」「餓鬼」「畜生」に代表される、煩悩に惑い、我を失った世界を総称して、「地獄」と言います。
悪道はどれも、「地獄」の一表象だと考えるのが妥当だと思います。


その「地獄」には、すべての悪道に通底する、恐ろしい特質があります。
それは、「苦しみが終わらない」ということです。
「地獄」での「苦」には、終わりが無いのです。


物語の中では、こんな風に描かれています。
って、これ、必要?
まあ、いいか、念のために続けましょう。


地獄に落っこちた囚人たちは、焼かれたり、煮られたり、切り刻まれたりと、それぞれの罪に合わせた刑罰を受けます。
それはもう酷い苦痛です。
人間界であれば、それだけ痛めつけられれば死にますから、苦痛も、そこで終わります。
ところが、地獄は、そんなに甘い所ではありません。
地獄では、死ねないのです。
そればかりか、翌朝になれば、ボロボロの体は元通りになっているのです。
そして、また、鬼から責め苦を受けることになります。
それが、毎日毎日、永遠に続くのです。


堪ったものではありませんね。
一番、嫌なパターンですよ。
こんなところに落っこちた日には、もう、どうしたらいいんでしょうねえ?


でも、ご安心ください。
もう、落っこちちゃってるんですから。
今、私たちがいる、この世界が地獄です。


そして、この世界を地獄にしているのは、外ならぬ、私たち自身です。
「地獄の苦しみは永遠に終わらない」
「人間の苦しみは死ぬまで終わらない」
死んだら終わりだ、という点では、物語の地獄よりは数万倍ましですが、煩悩に満ち満ちた人間が、日々悪道を経めぐりながら苦しみ続ける、そんな場所。
それが地獄です。
私たちが生きる、この世界です。
生きている私たちの、この心です。


なぜ、人は苦しみ続けなければならないのか?
それは、苦しみを自分自身で作り続けるようにできているからです。
外的要因だけで「苦」が発生するのであれば、それを取り除けば「苦」は消えます。
でも、自分で作り出した「苦」は、自分の中の原因を取り除かなければ消えません。
「原因」は「煩悩」です。
「煩悩」は死ぬまで無くなりません。
だから、苦しみは無くならないのです。


「取り越し苦労」という言葉を、いつも思い出します。
しなくてもいい心配をして、しなくてもいい苦労をして、そんなことを考えなければ、苦しまなくても済むだろうに、自分で自分を追い詰めてしまう。
「苦」が無くなるわけありませんよね。
だから、この世界が地獄になってしまうのです。


でも、大丈夫。
地獄を抜け出す方法なら、仏教が教えてくれています。


今、自分が地獄に堕ちているんだと気が付いた時、私たちは「人」に戻ることができるのです。
「我に帰る」と言っても良いでしょうね。
「私は餓鬼だ!」
「私は阿修羅になっている」
「今の私は畜生だ!」
そう気が付いた時に、その瞬間に、地獄の亡者は人に戻るのです。
「俺は「天」になって舞い上がっていた」
そう気が付いた瞬間に、地に足が着き、人に戻るのです。
人に戻れるのは、どうせ一時ですけどね。


とはいうものの、たとえわずかな時間であったとしても、自分を取り戻す、我に帰る、そんな瞬間があるかないかで、人生は大きく変わると思いませんか?
「人」でいられる時間が長くなればなるほど、人生が豊かになるような気がしませんか?


でもね、これ、「地獄にいる」って気が付くことって、かなり難しいことだとも思うのです。
そのまま、放っておかれたら、たぶん、地獄にいることも気付かないまま、死んで開放されるまで、地獄だけを生きていくことになるんじゃないかと思います。
普通の愚かな人間には、気付くことができないんですよ。
それを気付かせてくれるのが、「信仰」の力なんだとも思います。
私の場合は「阿弥陀如来」ですね。
「阿弥陀さんに生かされているんだ」ということを思い出した時、自分が「今、地獄に堕ちてるんだなあ」と気付かされるんじゃないですかねえ。
そのスイッチが、私には「南無阿弥陀仏」だということ、かな?
上手く表現できなくて申し訳ありません。
なにせ、地獄暮らしの方が長いものですから。


私たちは、自分の煩悩のために、自分で地獄に落っこちて、ひたすら悪道を経めぐっている。
それが、凡夫の一生なんです。


そんな自覚の上で、親鸞聖人が仰っとされているのが、
「地獄は一定すみかぞかし」
という、有名なお言葉ですね。
「歎異抄」に出てくるお言葉なので、親鸞聖人が本当に仰ったかどうかは、定かではありませんが、
「法然上人に騙されて地獄に堕ちたとしても、俺は後悔なんてするわけないじゃん。地獄こそが、俺の住処なんだもん」
と、いう意味の文章になっています。


本当に、これ、かっこいい言葉なので、使う人多いです。
でも、意味は理解されていないようです。
皆さん、死んでから地獄へ行くって話だと思われているようなんです。
これ、
「どうせ俺なんて地獄が相応しいできそこないだから、地獄に堕ちたってしょうがないだろ」
と、未来の仮定の話として理解してしまったら、親鸞聖人なんて、
「君の為なら死ねる!」
って、昔の高校生と同じですよ。
「やれるもんならやってみやがれ!怖くなんてねえよ!」
と、嘯くチンピラと同じですよ。


ちなみに、
「やれるもんなら、やってみろや!」
と啖呵を切るチンピラに、
「あ、そう、ありがとう」
って、それを本当にやってあげると、めちゃくちゃ可愛い顔になりますよ。
ほとんどの方が、親とはぐれた子犬が助けを求めてくるようなウルウル眼になります。
そんな、子犬チンピラと親鸞聖人を一緒にするな!
と、私は、声を大にして、言いたいと思います。


親鸞聖人は、
「今、地獄にいるんだから、未来の地獄を怖がる必要なんてないじゃん」
と、仰ってるんです。
既に、今、地獄に立っているという自覚の上で、
「地獄は一定すみかぞかし」
と、仰ったんです。
だからこそ、そのお言葉に、有無を言わせぬ迫力があるのです。


そんなわけですから、皆様、
「死んで地獄に堕ちたらどうしよう?」
だとか、
「ご先祖様は地獄に落っこちてないだろうか?」
だとか、心配する必要はないですよ。
今、地獄にいるんですから。
この身で六道をグルグル回っているんですから。


あ、でもね、子供には死後の地獄を刷り込んでおいた方がいいと思いますよ。
「嘘ついたら、閻魔さんに舌抜かれるから!」
「誰も見たなくても、閻魔さんは見てるんだからね!」
とか、ガンガン言ってあげましょう。
日本伝統の情操教育ですから。

(見真塾サルブツ通信Vol.0027より)

【四悪道、怖いですねえ】

2020-06-29 19:04:16 | 仏教講座
さて、前回の続きです。
今回は、悪い方、つまりマイナス方向の煩悩に狂わされた世界のお話です。
怖いですねえ。


4「阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」
これを、またまた二つに分けます。
5「阿修羅、餓鬼、畜生」
6「地獄」


5は、それぞれに特徴を持つ、マイナス感情に支配された世界だとお考え下さい。
6は、5の世界をひっくるめた総称だと思ってください。
「地獄」には地獄の恐ろしい特性があるのですが、それは後回しとして、まずは、5を解説します。


「阿修羅」
怒りや憎悪に我を失った状態。
つまりは、争いの世界ですね。


怒ってますか?
はい。
争ってますか?
はい。
自分で応えてしまいましたが、かなり頻繁に、この世界に落っこちています。


駄目ですよ。
怒っても、争っても、良いことなんて一つもないんですから。
それは、誰でもわかってることなのです。
平和が一番。
でも、無理なんです。
カーッと頭に血が上ると、頭の中では「ドラゴン怒りの鉄拳」のテーマ「Fist Of Fury」が怪鳥音入りで鳴り始めます。
それが、「男たちの挽歌最終章・狼」のテーマ「淺醉一生」に変われば、いよいよ静かに戦闘モード突入です。
なんてのは、私だけだと思いますが、意味不明で申し訳ありません。
あ、リンク貼っといた方がいいですか?


それはさておき、みなさんも、小さく大きく、順調に落っこちてらっしゃいますよね?
怒りに我を忘れた阿修羅の世界は、よーくご存じのはずです。
我を忘れる自覚は無くとも、右に左に、揺さぶられまくってますね。
そう、それですよ。
次行きます。


「餓鬼」
欲のために我を失った状態。
いわゆる、欲に目が眩んだというやつです。
阿修羅よりは状況が複雑かもしれませんね。
欲には様々な種類がありますから。
「嫉妬」や「向上心」「独占欲」などもこの世界の種でしょうからね。


餓えた鬼ですから、常に飢餓状態です。
欲しい、欲しい、ああなりたい、こうなりたい、あれがしたい、これがしたい、ああして欲しい、こうして欲しい。
薬物欲しいなら警察が止めてくれるかもしれませんが、誰も止めてはくれません。
「欲しい」は常に暴走します。
しまいに我を失います。
餓えた鬼「餓鬼」の完成です。


ちょっと、鏡の前に立ってみてください。
はい、それが餓鬼の顔です。
欲に支配された、卑しい顔になってませんか?


ま、皆さんに限っては、そのようなことは無いかとも思いますが、この世界、餓鬼の世界にも、けっこう頻繁に落っこちております、私。
これ、なかなか気付けないのが辛い所なんですが、この餓えた世界がベースで生きてるような気すらしますね。


はい、欲に目が眩んで、我を忘れているのが、餓鬼の世界でした。
じゃあ、次。


「畜生」
理性を失った状態。
特徴は、言葉を失っていることです。


一般的には、人間でない動物が「畜生」だ、などと失礼なことを思われていて、
「悪いことすると、来世は人間に生まれられないぞ、畜生堕ちだ。」
などと言われているわけですが、動物さんたち、ごめんなさい。


人間の方が、よっぽど「畜生」なんだと思います。


動物には生存本能が備わっていますから、当然、煩悩はあると考えられます。
ところが、そうとも言えないのではないかと思うのです。
確かに、「煩悩」は生存本能から発達します。
しかし、生存本能を「煩悩」にまで、際限が無いかの如く膨らませることができるのは、人間だけではないかという気がするのです。
だから、人間以外の動物には「煩悩」が無いとまでは言えないものの、人よりはマシ?というか、仏様に近いんじゃないかと思うのです。
菩薩の位で言うなら、人間よりも、かなり上位ランクにいらっしゃるんじゃないですか?
正直、私、動物を「畜生」と呼ぶことに抵抗があるんですよ。


まあ、私、犬猫馬鹿なだけじゃなく、小鳥だとか、魚だとか、カタツムリだとか、色々馬鹿なので、「うちの子は、俺の気持ちを理解してる」だとか、「俺の言うことがわかってる」だとか、思い込んでますからねえ。
それで、そう思うのかもしれませんが、いずれ、論理的に解明してみたいと思います。


なので、ここでは、従前からの動物観に基づいてお話しします。
動物(畜生)と人間との違いは、動物(畜生)が言葉を持たないことですね?
それと同時に、動物(畜生)には言語で組み立つ論理的思考によって成り立つ「理性」というものがない。
と、こんな風に考えられてきたわけです。
いろんな動物がいるけれど、人間は違う!人間だけは違うんだ!
と、されてきたのです。


ま、そうですね。
言葉があるから、それで、お互いにコミュニケートすることで、理性的に、無益な争いを避けることができる。
まあ、こんな理屈が成り立つわけですよ。
数多存在する動物たちの中で、唯一、人間だけは、理性に基く「話し合い」によって、問題を解決し、争いを避ける能力を持っている、と。
じゃあ、人間が言葉を失ってしまったら、話し合うことができなくなってしまったら、どうなってしまうのか?
「畜生」に堕ちてしまいますよ、と、いうことですね。


それを言うなら、家の猫たちだって、
「ニャーウ!」
「ニャニャッ!」
「ナーーーー!」
「キュッ!」
とか言って、話し合ってますから、畜生以下・・・、くどいですね。
ごめんなさい。


話を戻しますが、言葉を失うったって、言葉は知ってるし、耳も聞こえるし、そこは大丈夫だろうなんて、安心しないでくださいね。
私、皆さんにお伺いしたいと思います。
話し合えてますか?
口から音は出てるでしょうが、ちゃんと言葉を話せてますか?
耳は聞こえるでしょうが、ちゃんと言葉として聴こえていますか?


意外と難しいんですよ、これ。
ちゃんと話せていないし、聞けていないのでは?
何年もの間、某所での会議の席にいる私は、耳を閉じ、言葉を忘れ、自ら畜生以下に身を落とし、終了時間が来るのを待ちわびていたものでした、って、そういうことではありません。


相手の言葉を、理解しようという意思を持って聞くことができているか?
自分の思いを、相手に理解してもらおうという意思を持って話すことができているのか?
ということですよ。
できてますか?
割と、できていませんよね?


自分の思いをぶつけるだけだったり、聴いてもいないのに頷いてみたり、そんな自分に気付いてますか?
まあ、どちらかと言えば、「聞く」ことの方が難しいかもしれませんね。
親鸞聖人も仰っておられます。


ちゃんと聴くことができれば、ちゃんと話すこともできるようになります。
それが、「話す」が先に来ると、「聞く」ことが疎かになりがちです。
まずもって、「聞く」ことを心がけたいですよね。


実は、この「聞くことが難しい」という話は、私、看護学校の生命倫理の講義で、毎年、必ず話すことにしてるんですよ。
宗教的掟と言えるような、はっきりとした倫理観を持たない日本人は、多くの人と「話し合う」ことでしか、倫理観を育てられないんだと思ってるもんですから。
ついでに、「話し合い」の実習も、二コマ分くらい時間を取って、してもらっています。
学生が話し合っている間は、看護師さんの卵たちを眺めながら休憩できますからねえ。


それはそうと、「話し合う」って、実習が必要なくらい難しいことだと思うんですよ。
同じ日本語を話す者同士なのに、言葉の通じない外国人との方が、むしろ通じ合える。
なんて、気分にさせられたことはないですか?
私、度々あります。
どっちに責任があるのかは、わかりませんけどね。


「話せばわかる」
「問答無用!」
ての、どっかにありましたよね?
それでも、「問答無用」だと、きちんと答えてくれてるだけ、随分マシですけど。


話し合えるはずの人間なのに、話し合えなくなるのが「畜生」なんだと、ご理解ください。

(見真塾サルブツ通信Vol.0026より)


【六道なんだもの】

2020-06-28 21:54:44 | 仏教講座
人生は苦しい。
苦しくないなんてまやかしなんだ。
それを、きちんと自覚したところからはじめましょう。
そこに立てるのが仏教の強さです。


ということで、本題に入ります。
私、「輪廻はしない」って言いましたよね?
実は、してるんですよ。


「死んで生まれ変わる」と言う「輪廻」はありません。
でも、「六道(天・人・阿修羅・餓鬼・畜生・地獄)」を回ることを「輪廻」と言うのであれば、それはあります。
私たち、クルックルックルックルと、回りまくっています。
いつ?どこで?
今、ここで。


死んだ後に生まれ変わるところが「六道」だという理解が多いようですが、「六道」は空想の産物ではありません。
というか、実のところ、「輪廻思想」と「六道思想」は、辻褄が合っていないと思うんですよ。
これ、細かくは触れません。
とにかく、死後の世界を想像して作られた、おとぎ話ですよ。
死ぬと「六道」のどこかに生まれ変わると言うのはね。


「六道」は、空想の産物ではなく、人間を観察し、分析した結果です。
生きている人間の在り様を、それぞれの世界で譬えたものが「六道」です。
だから、当てはまる世界が考えられるなら、別に、「六道」でなくても、十道でも二百五道でもかまいません。
実際、仏典の中では、五道説と六道説が混在してますしね。


それでは、説明させていただきます。
私の話をけっこう聞いてる方は耳にタコかもしれませんが、整理しておきましょう。


まず、「六道」を二つのグループに分けます。
1 煩悩に冒されていない状態「人」
2 煩悩に冒されている状態「天、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」


1は、人間のあるべき姿であるということができます。
「本来の私」であるとも言えますが、煩悩に冒されていないということからすると、「仏」に近い領域であると言えるかもしれませんね。
この辺りの解釈の仕方によっては、「人間は本来は仏である」というような、「仏性論(人間の中には成仏する種が内在しているという考え)」も出てくる余地がありますね。
とは言うものの、私たちに「煩悩に冒されていない」時が、それ程あるとも思えませんが。


2は、煩悩に狂い、「我を忘れている」だとか「自分を見失っている」状態だと考えていいと思います。
このグループ2を、さらに二つに分けます。
3「天」
4「阿修羅、餓鬼、畜生、地獄」


3の「天」というのは、プラス方向に自分を失っている状態ですね。
「有頂天」という言葉が当てはまると思います。
天狗になったり、嬉しくて舞い上がったり、
「調子に乗るんじゃねえ!」
と、後でボカンとやられるパターンですよ。
幸せに酔っている、とも言えますね。
「こんなはずじゃなかった・・・・」
と、いうこと、よくありますね。


そもそも、人間が幸福感を覚えるのは、ほとんどの場合、「欲」が満たされた時ですね。
満たされて終わり、なら、それでいいのです。
「知足満足(足るを知り、そこに満足せよ)」
という言葉、見たことありますよね?
仏教ではよく使われている言葉です。
親鸞聖人ワールドでは、あまり使いませんけどね。


足りてますか?
足りてませんよね?
何が足りないのかと聞かれても困りますが、足りていません。


満足してますか?
満タンというのは、もう、それ以上入らないということですよね?
入れようとしてますよね?
まず、間違いなく、何か入れようとしてますよね?


それで良いのです。
人間ですから。


人間の「欲」は尽きることがありません。
ひとつ満たされた(錯覚ですよ)ところで、その欲がさらに大きくなったり、違う欲が、次から次へと湧いてきたりするだけです。
だから、「天」には長く留まれません。
有頂天になって舞い上がっても、すぐに墜落してしまいます。


「欲」であるとか、「願望」であるとか、まあ、色々な言い方はあると思いますが、「煩悩」が満たされることによる喜びは、長く続くことは無いということです。
一過性の幸福。
幻の幸福。
バブルな幸福。
そんな幸福が、永遠に続くかの如く錯覚し舞い上がる。
それが「天」という世界です。


浄土真宗では、よく、
「現世利益(神仏に御利益を願うこと)はダメだ!」
と、いう人がいるのですが、まあ、
「神仏にお願い事をしてはいけない」
ということですけれど。
本当に、よくおられます。
そう思い込んでおられる方々。
「先生、真宗は現世利益否定なんじゃないですか!」
と、門徒のおばちゃんに、詰め寄られたりしたこともあります。


家内安全だとか、縁結びだとか、病気平癒だとか、商売繁盛だとか、神仏にお願いしますよね?
「御利益信仰」だとか、言われたりもします。
それが駄目だとおっしゃるんです。


特に、浄土真宗のお坊さんに多いのが、「御利益信仰」を見下して、神社にお参りしている人なんかを、ナンセンスな馬鹿呼ばわりしている人ですね。
「御先祖供養」や「加持祈祷(厄払いとか)」をしている人のことも、迷信を信じる低俗な人々だと蔑んでいるようです。
何が原因なのかはわかりませんが、こういう坊主を作り出してしまったことを、反省し、拡大再生産しないことを誓う必要があります。


過ちを繰り返さないために、はっきりと言っておきますが、親鸞聖人は、御利益信仰を否定などしてはおられません。
そもそも、御利益もないのに、誰がお参りしますか?祈りますか?
人間のすることですよ?
煩悩に満ち満ちた人間のすることですよ?
「欲」以外に、祈る動機がありますか?


たとえ動機が「欲を満たすため」であったとしても、神仏に向かう、神仏に祈るのは尊いことです。
考えてみてください。
「困った時の神頼みでははいけない」だとか言いますが、本当に困った時に、「神仏」を思い出し、「神仏」にすがろうとする人間と、そんな時に「神仏」すら脳裏に浮かばない人間と、どちらが阿弥陀さんに近しいところにいると思いますか?
どちらに信仰心がありますか?


言わずもがな、ですね?
人では無理だと思えば、神様、仏様に頼むしかないでしょ?
最後には、そこへ行くでしょ?
まあ、最後でなくても行きますが、それでいいんです。
「神仏」にお願いしたくなったら、すればいいのです。
それで、願い事が叶えば、もっと信心深くなるかもしれません。


だ、けれども、と、話は突然「天」に戻ります。


願いが叶い、一時の幸福感が味わえたとして、それが永遠に続きますか?
それが、本当の幸せだと思いますか?
人間の欲望は尽きることがありません、願い事は次から次へと湧いてきます。
そんな欲にまかせて、お願い事を続けていくと、最終的には、御利益を求め続ける、御利益依存症になってしまいます。
それでは、却って、「神仏」のために苦しむことになりかねません。
つまり、即物的な御利益を求めても、せいぜい「天」にしか行けないよ、すぐに落っこちるよ、ということです。
だから、そこに留まってはいけないよ、というのが親鸞聖人の御教示されるところなんですね。


神仏を頼るのはかまわない、それが人間だから。
でも、そこに本当の幸せはありません。
頼るためでもいい、お願いするためでもいい、神仏と向き合う中で、本当の幸せに気付きましょう。
成仏(苦が無い)という本当の幸せに向かって、幸せを感じられる体質に、少しずつ変えられていきましょう。
神仏も、本当は、それを望んで、あなたのお願いをお聞きくださっているのです。
それが、阿弥陀様の御利益ですよ。
というのが、親鸞聖人のお考えです。


ちょっと、余計なところへ話が飛んだかもしれませんが、「天」というのが、良い所とは言えないということが、おわかりいただけましたでしょうか?
そもそも、「天」というのは、インド神話の神様たちのことです。
日本神話の神々も「天」だと考えて良いと思います。
読むと思うのですが、インド神話でも、日本神話でも、神様たち、ご苦労なさってますよね。
とても、幸せそうには思えません。
神様たちには「煩悩」があるんだよ。


次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0025より)

【死にたくもなるよね】

2020-06-27 17:29:25 | 仏教講座
酷いテーマですねえ。
でも、しょうがないんですよ。
仏教だから。


と、ここで終わってやろうか、という考えが頭を過ぎりましたが、続けましょう。
実は、この「死にたくもなるよな」というところに立てるのが、仏教の強みでもあると思うんですよ。


生きてるのって辛すぎる。


そこが出発点でしょ?
何の?ってお釈迦様のですよ。
そいでもって、お釈迦様は、
「煩悩を消せば苦しくないよ。」
という、ありがたいお教えを下さったけれど、これっぽっちも煩悩(欲)が無くならない私たちは、常に、
「生きてるのって辛い、苦しい、もう嫌だ!」
という自分を託って生きているはずなんですよ。


生きるのが嫌になるのなんて、特別なことじゃないんです。
私たちに、そのことを気付かせてくれるのが仏教です。
そんな、弱い自分のまま、「それでいいよ」と、そこに立たせてくれるのが、仏教なんです。
そんな仏教者を地で行ったのが親鸞聖人だと思います。


親鸞聖人は、
「自分は最低の人間だから、その自分が救われるなら、すべての人が救われるはずだ。」
という立ち位置で、微塵も揺れることなく、御生涯を貫かれた方です。


「底下の凡愚」
御本心から、そこに立っておられたからこそ、そんな自分が「生かされている」という喜びと共に、
「皆、救われろ!こんな私が救われたんだ!」
と、力強く叫ぶことができたんだと、そう思うのです。


で、お坊様方に質問です。
偉いと勘違いしていませんか?
カッコつけてませんか?
虚勢を張ってませんか?
人を見下したりしてるんじゃないですか?
心ではなく作戦で、何とかなると思ってませんか?


私、全部「YES」ですよ。
だから、寄り添えるはずなのに、寄り添えない人を作ってしまっているんですよ、たぶん。
たぶんじゃないですね。
盛大に作りまくってますよ。


なんだか、法話みたいな話になってきたので、話題を変えましょうか。
皆様に質問です。
今、日本で一番、親鸞聖人を彷彿とさせる人って、誰だと思いますか?


私は、江頭2:50さんだと思ってるんですよ。
これ、マジです。
冗談じゃないです。

ーーー中略ーーー

彼がすごいのは、これ全部大真面目に本気でやってるってことなんですよ。
彼のパフォーマンスを「くだらない」で済ますこともできるとは思いますが、私からしたら、清々しいとしか言いようがありません。
羨ましいです。
ご本人は死ぬほど嫌がるでしょうが、袈裟衣を着けてくれたら、と、心から思います。


江頭さんとは、職種も方法論も違うわけですが、こんなに本気な坊さん、見たことないなあ。
そう言えば、坊さんじゃないけど、昔、赤塚不二夫さんにも、こんなショックを受けたことがあるような気がします。
私、無理だから、坊さんやめようかなあ?
会いたいなあ、本気のお坊さんに。
皆様に期待いたします。

(見真塾サルブツ通信Vol.0024より)

【生きてることって、ありがたいですか?】

2020-06-26 22:26:16 | 仏教講座
課題だ!
と言って、投げっ放しにしている話題に、少しだけ触れておきましょう。


「生きてることをありがたいと思わせるには、どうしたらいいのか?」
という課題ですよ。
皆さん、考えてくださいましたか?
てゆーか、皆さん自身は、
「生きてて良かった!」
「生まれて良かった!」
と、思ってらっしゃいますか?


思ってらっしゃるなら、
「なぜ、そう思えるのか?」
ということを、よくよく考えてみてください。


そうは思えないと言う方、いらっしゃいますか?
いらっしゃったら、教えてください。
全力で発剄をブチかましに行ってあげますからね。
死にそうな目にあうと、本当に、
「生きてて良かった!」
と、実感できますよ。
あ、じゃあ、これで問題解決だ。
違いますね。


「生きてて良かった!」
と、思えるのは、「生きていたい」「死にたくない」という煩悩の所為です。
その点では、「生きていたくない」「死にたい」と思っている人は、「生きてて良かった」と思っている人よりも、煩悩が少ないのかもしれません。
煩悩が少ないということは、私たちにとっては、先生みたいなものですから、よくよく話を伺って、勉強させていただく必要がありますね。
事実としては、「死にたくない」のが煩悩なら、「死にたい」のも煩悩なので五分五分なんですが、そうだとしても、「死にたい」という方からは、学べることがたくさんあります。
「生きていたい」ばっかりの私たちは、「死にたい」のが異常だと、思いこまされているのですから。


そもそも、仏教的には、「死にたくなる」のが自然であって、「生きてて良かった」なんて思えるのは、非常におかしいのです。
第1号を思い出してください。
「人生は苦である」
ですね。
だから、「こんな苦しい所には、二度と生まれて来ませんように」と、シッダールタ青年(御釈迦さま)は旅立ったのでしたね?
覚えてますか?
これ、「生まれて来なければ良かった」ってことですよね?
だから、「もう生まれてきたくない」って、思ってたんですよね?


実は、「生まれ変わる」というシステムには、人から「死にたい」という気持ちを奪う効果があります。
死んだって、また生まれてくるんですから、この苦しい世界に。
次の人生が今よりマシかどうかなんてことは、誰にも分りません。
下には下があるのです。
だから、生まれ変わりワールドには、
「苦しみから逃れるために死ぬ」
なんて選択肢など、端から無いのです。


ちなみに、生まれ変わりワールドには、「生まれて良かった」を感じさせる仕掛けも仕組まれています。
「あいつより上に、生まれて良かった!」
カースト制度、大活躍ですね。
人民を生かさず殺さず酷使するための、実に良くできた支配システムです。


そんな社会に!
「生まれ変わらないよ」
というカウンターをぶち込んだのが、お釈迦様です。
どうなりますか?


「生まれ変わらなくていいなら、早く死んだ方が楽じゃん。」
という気持ちになりませんか?


それが仏教です。


それでも、お釈迦様は、それもお見通しで、解決策も教えてくださいました。
「煩悩無くせば、苦もなくなるよ!」と。
苦が無くなれば、死にたい理由もなくなるわけですからね。


しかし!
煩悩、無くなりますか?
煩悩、減りますか?
減ってませんよね?
苦しいですよね?
辛いですよね?
死にたくもなりますよね?


と、いうのが、自然な流れですよね?
そうなのです。
仏教は、死にたい気持ちを止められない。
まず、謙虚にそこを受け止めましょう。


さらに、浄土教は、もっと大変ですよ。
「死んだら極楽って、素晴らしい所に往けるんだぜ!」
と、死にたい気持ちの背中を押してしまったのです。


ふざけて言ってるわけではありませんよ。
「捨身往生(しゃしんおうじょう)」という言葉がありますが、これ、浄土へ早く往生するために、自ら死ぬことです。
こんな用語があるということは、実際にそうした人たちが、少なからずいたということですね。
中国では、五世紀くらいから記録に残っていたと思います。
なにせ、親鸞聖人がたいへんに御尊敬されていた善導大師という方の伝記には、
「早く浄土に往きたいので、柳の木から身を投げて、捨身往生を遂げた」
と、いうことが書かれているものもあるのです。


事実かどうかは不明ですよ。
おそらく事実ではない・・・と思いたいです。
しかし、そのような記録が、善導大師を顕彰するために書き残されたということから考えれば、そのような最期が理想的な姿であるという認識が存在した、ということです。


こんな仏教を学んで、「生きてて良かった」なんて思えますか?
思えそうにないので、次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0023より)